内藤陽介 Yosuke NAITO
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 キルギスで貨物機墜落
2017-01-17 Tue 09:49
 中央アジア・キルギスの首都ビシュケクのマナス国際空港近くで、きのう(16日)、香港を出発し、ビシュケク経由でイスタンブルに向かう途中だったトルコの航空貨物会社ACT航空の貨物機が住宅地に墜落。この事故で、43棟が損壊し、この記事を書いている時点で、住民と乗員5人を合わせて約40人が亡くなりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・マナス国際空港(1982)

 これは、旧ソ連時代の1984年に発行された切手つき封筒で、マナス国際空港が描かれています。
 
 もともと、ビシュケクの国際空港としては、首都南郊の旧フルンゼ空港がありましたが。これに代わる新空港として市街地の北西に建設されたのがマナス国際空港です。同空港は、1974年10月、当時のソ連首相アレクセイ・コスイギンを乗せた1番機が着陸して運用が開始され、1975年5月4日にはアエロフロートのモスクワ便が定期就航しています。

 マナスという空港名は、キルギスに伝わる英雄叙事詩の『マナス(マナスエポス)』に由来するものです。

 『マナス』はキルギスの伝説の王マナスと父のジャキルハーン、息子のセメティ、孫のセイテクを中心に、キルギスの民が団結し、カルマク(モンゴル系のオイラート)やクタイ(キタイとも。中国、契丹とみられている)等の敵と戦って勝利する物語や騎馬民族の文化、中央アジアの自然などを歌い上げた壮大な叙事詩で、19世紀に文書化されるまで、長らく口承によって伝えられてきました。その分量は50万行以上にも及び、世界で最も長い詩とされています。

 ロシア帝国の時代、西トルキスタンは1867年に設置されたトルキスタン総督府の支配下に置かれており、現在のキルギス国家の領域は、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となりました。

 トルキスタン総督府の支配下で、セミレチエ州はロシア人農民の入植地となっていましたが、第一次大戦後中の1916年、戦時動員に対する反発から中央アジア全域で大規模な反乱が発生すると、セミレチエ州では、キルギス人とロシア人の間で大規模な衝突が発生し、流血の惨事が発生します。

 さらに、1917年のロシア革命後、旧トルキスタン総督領ではトルキスタン自治政府が成立しましたが、自治政府は赤軍の攻撃により崩壊。1918年2月、ソヴィエト共和国としてトルキスタン自治共和国が成立し、モスクワから派遣されたトルキスタン委員会の指導下に置かれました。

 1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、中央アジアでは民族別の領域区分が導入されることになり、1924年、民族・共和国境界画定が行われます。これにより、キルギス人の居住地域は、ロシア共和国に帰属するカラ・キルギス自治州とされました。カラ・キルギス自治州は、1925年にはキルギス自治州に改称され、1926年にキルギス社会主義自治共和国となります。その後、1936年、自治共和国は、ソ連邦の構成共和国として、キルギス・ソヴィエト社会主義共和国に昇格しました。

 スターリン体制の下では、“民族主義”は厳しく弾圧されていましたが、キルギスの『マナス』は(非ロシア人の)敵との戦いを強調する内容から、戦意高揚の役割を担うものとして、例外的に高い評価を受けていました。さらに、1960年代以降、中ソ対立が激しくなると、中国と思しきカタイ(キタイ)を打倒したマナス(王)の名を冠した施設が首都フルンゼ(現ビシュケク)に複数つくられます。今回ご紹介のマテリアルのマナス国際空港も、そのひとつです。

 なお、1991年のソ連崩壊によるキルギス独立当初、マナス国際空港は利用者が激減し寂れていましたが、2001年12月、国連の承認に基づきアフガニスタンにおける対テロ戦争支援の拠点としてマナス米空軍基地が設置され、米軍部隊が駐留するようになりました。

 今回の事故原因は現在調査中ですが、キルギスのアブルガジエフ副首相は国営テレビに対し、「予備段階の情報によれば、飛行機の墜落はパイロットのミスによるもの」だと説明しているそうです。亡くなられた方の御冥福をお祈りするとともに、住宅損壊の被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。


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 アタリの番号は45と51
2017-01-16 Mon 10:24
 “平成29年お年玉付年賀はがき”の抽選会が、きのう(15日)、愛知県・名古屋市のJPタワー名古屋で行われ、年賀小型シートの当選番号は45と51に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2017)

 これは、きょう(16日)から引換が始まった今年(2017年)の年賀小型シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月後半の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、例年は年賀小型シートは郷土玩具を描いた年賀切手と同じものを収めたものでしたが、今回は、通常のシート切手とは別に、オリジナルデザインの“おんどり”の82円切手と“めんどり”の52円切手を1枚ずつ収めた構成となりました。ちなみに、平成29年用の年賀切手のうち、葉書用の52円切手の題材には、“倉敷はりこ”の酉が取り上げられています。そのくじ付き切手が貼られた年賀状の1枚にもアタリの51がありましたので、ご参考までに、シート交付時の手続きとして、丸に“交”の表示をしたうえで、消印を押した状態の画像を貼っておきます。

      年賀切手(2017・交付済)

 ちなみに、今回のシートの切手について、日本郵便のプレスリリースでは以下のように説明しています。

 2017(平成29)年の干支である酉(にわとり)を題材にし、年間を通してご利用いただけるデザインとしました。シート全体を絵本のようなポップなタッチでまとめ、切手部分に、愛嬌あるニワトリのつがいを描いています。
 背景は、金色・銀色を使用した色鮮やかなデザインとし、花模様等の穴を空ける特殊加工も施しています。

 郷土玩具のデザインの切手が“年間を通して”は使いづらいかどうかはともかく、東欧の切手を思わせるようなデザインは、日本では今までにない試みで個人的には面白いと思います。また、プレスリリースにある“花模様等の穴を空ける特殊加工”については、シートの裏側から見るとわかりやすいので、その画像も貼っておきましょう。

      年賀小型シート(2017・裏)

  なお、お年玉の小型シートの歴史や、年賀切手と切手に取り上げられた郷土玩具については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、この機会に、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、小林照幸さん、重山優さん、正田幸弘さん、田元良樹さん、松尾謙一さん、山内和彦さん(50音順)から頂戴した6通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。
  

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 PETAの故地 ボゴール
2017-01-15 Sun 17:28
 東南アジアとオーストラリア4カ国を歴訪中の安倍首相は、きょう(15日)、3カ国目となるインドネシアに到着し、ボゴールでジョコ大統領と会談するそうです。というわけで、ボゴールゆかりの切手のなかから、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・PETA(1998)

 これは、1998年にインドネシアがPETA(Tentara Pembela Tanah Air:郷土防衛義勇軍。以下、ペタ)を題材に発行した寄附金つき切手です。

 日蘭開戦と前後して、日本軍は、オランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)の住民に向けて「日本は東亜の人々を白人の植民地支配から解放するために南進を始めた。次は蘭印へ進攻するから住民は協力せよ」との放送を行うなどのプロパガンダ工作を実施。ジャワ島占領後は、バンドンを拠点にムスリム工作を担当した第16軍治部隊参謀部別班(通称・ジャワ回教別班)が、オランダ統治下ではないがしろにされていたムスリム住民との連携を重視し、モスクの法学者に対しては一般公務員と同等の待遇とするなどの施策を行って、現地のムスリム住民から評価されていたほか、今回の安倍首相の訪問先であるボゴールには、ジャワ全島17州から優秀な青少年を集めて、ジャワ回教青年隊も組織されました。

 しかし、日本占領下の東南アジアの他の地域では、英印軍のインド人捕虜を中心にしたインド国民軍、アウン・サンらビルマの民族主義者らによるビルマ独立義勇軍が組織されたのに対して、ジャワでは、日本の軍政当局がインドネシアの民族独立を確約せず、1943年5月に設置された兵補の制度も、あくまでも現地住民は日本軍の補助兵力として扱っているだけでしたので、独立したインドネシア民族軍の創設を期待していた住民の間には少なからず不満もありました。

 その後、戦況が日本軍に不利になっていく中で、日本軍の兵力不足を補う必要が生じたこともあり、現地の民族主義運動およびイスラム指導者の建白書を容れるという形式をとって、1943年10月3日、ジャワ郷土防衛軍=ペタの設立が正式に決定されます。

 ペタの中心となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランでインドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた“青年道場(インドネシア特殊要員養成隊)”の隊員で、これに、ジャワ回教青年隊の隊員が加わり、ボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)での各種訓練が実施されました。

 このボゴールの幹部養成学校を卒業した青年たちは、それぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成。ペタの兵士には日本軍の指揮下で、日本軍の歩兵操典をもとに厳しい訓練が行われ、その規模は、1945年8月の終戦時には、66大団、約3万6000人の規模にまで拡大しました。

 インドネシア独立宣言から2日後の1945年8月19日、敗戦国となった日本軍は、連合国の指示により、ペタを解散しますが、各地の元ペタ将兵らは組織と装備を維持しつつ、インドネシア国軍に参加。専門の軍事教育を受けた職業軍人として、オランダとの独立戦争で重要な役割を演じることになります。

 ちなみに、日本占領時代のペタから巣だって、独立戦争時のインドネシア国軍を指揮したスディルマン将軍の生涯は、インドネシアでは、両国の友好親善と防衛協力交流のシンボルとされており、2011年に訪日したインドネシアのプルノモ国防相は、ジョグジャカルタの歴史博物館にあるのと同じ将軍像を日本に寄贈。その像は東京・市ヶ谷の防衛省敷地内に建立されています。

 今回、安倍首相とジョコ大統領の会談の地として、ペタに所縁のボゴールが選ばれたのも、上述のような歴史的背景を踏まえてのことと思われます。

 なお、日本占領時代の蘭印については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろ書いておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 尖閣諸島開拓の日
2017-01-14 Sat 15:18
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・尖閣(2012)

 これは、2012年にギニアビサウが発行した“尖閣諸島の風景”の切手で、左から、木白虹、尖閣諸島と五星紅旗(2種連刷)、アホウドリの切手の4種連刷構成となっています。

 さて、わが国は、1885年以降、沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)、1932年、4島は古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となりました。

 古賀家の私有地として、尖閣諸島では、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれることになりました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めました。しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県の一部となりました。

 これに対して、近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返しているほか、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態になっています。

 また、中国側は“釣魚島(尖閣諸島の中国側の呼称)”の領有権を主張するための対外的なプロパガンダ攻勢を強めており、今回ご紹介の切手も、そうした風潮に迎合した北欧系の切手エージェントが、輸出商品として、ギニアビサウ郵政の名前で制作・発行したものです。中央の2枚の五星紅旗と尖閣の島影だけでなく、左端の木白虹には学名の“Crossostephium chinense”も記載されています。木白虹は、わが国の鹿児島県、トカラ列島以南(尖閣諸島も含む)から台湾、フィリピン、中国南部の海岸の隆起珊瑚礁に分布しており、決して、中国に固有の植物ではないのですが、あえて、“中国”を意味する学名の入った植物を持ってくることで、尖閣諸島が中国の領土であるかのようなイメージを強調しているわけです。

 ギニアビサウに限らず、一部の途上国にとって、切手の発行は外貨獲得のための輸出ビジネスの一つとなっています。国内での郵便への使用を想定せず、輸出ビジネスの一環として発行される切手は、収集家の間では“いかがわしい切手”として忌避される傾向にありますが、そうした切手を発行する側からすれば、“いかがわしい切手”であろうがなかろうが、よりマーケットで人気を得られるようなもの、すなわち、より多くの売り上げが見込めるものこそが適切であるということになります。“いかがわしい切手”を発行する国(正確にはそうした切手に発行者としての名義を貸す国)や、そうした切手を企画するエージェントにとっては、どれほど立派な主義主張や思想信条、愛国心などを掲げてみても、“商品”としてその切手が売れないのであれば、全く意味がないわけです。

 したがって、ギニアビサウと切手エージェントが、“日本領・尖閣諸島”の切手ではなく、“中国領・釣魚島”の切手を制作・発行したのは、彼らにしてみれば、単純に、日中の切手マーケットの規模の大小を反映したものであり、悔しかったら、“日本領・尖閣諸島”の切手がドル箱商品になるような市場を用意しろということになるのでしょう。

 しかし、そうした“市場原理”は否定できないにせよ、こうした切手がギニアビサウ国家の名前で発行されたという事実について、2012年の切手発行当時、日本政府がギニアビサウ政府に対して抗議しなかったとすれば(実際には、外務省はしかるべきアクションを起こしているのかもしれませんが、報道ベースでは、そうした事実は一切確認できませんでした)、国際社会からは、日本は中国の(理不尽な)主張を黙認していると取られかねないわけで、そのことの方が深刻な問題だと僕は考えています。

 なお、領土と切手をめぐる関係、そして、そうした問題に対する日本政府の対応の拙さについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 シベリアでの赤化洗脳工作
2017-01-13 Fri 12:04
 きのう(12日)、外務省はあらたに外交文書24冊を一般公開しましたが、それにより、戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態がかなり具体的に明らかになりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・1948(赤化) シベリア抑留1948(赤化・裏)

 これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1948年2月15日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月11日にGHQの検閲を受け、静岡県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、漢字かな交じりに直しました)

 しばらくでした。皆様も元気のことと思います。私も至極元気で丸々と太って、毎日楽しくそして愉快に仕事をしております。
 そちらの様子は手紙によってはっきりわかっております。なぜそのようにつらいのか、苦しいのか、私はまた戦争はいかに悪いものかをはっきりと知りました。そして人間としての、正しい、生きがいのある本当に幸せな生きる道を知り、働く者の世の中でなければ、少しの人数の金持ちだけがうまいことをしている世の中では、働く者はいつまでたっても生活が楽にならず、幸せは絶対に来ないのです。この国の人は幸せな、そして私たちをこのように親切にしてくれます。では元気で頑張ってください。

 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書のように、占領日本の現状や資本主義体制を批判する内容の葉書などは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように国民に説明しているのか、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。

 一方、1947年後半以降、1949年8月11日に「引揚者の秩序保持に関する政令」(引揚者が船長や引揚援護局長の指示に従う義務を定め、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金を科すことが定められていました)が公布されるまでの間、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などでは、“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発。彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったとさていますが、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めることになります。

 さらに、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、下山・松川・三鷹の三大事件が発生し、共産党の関与が疑われていた時期でもあり、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、占領当局と日本政府は帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 国旗を足元に置くべからず
2017-01-12 Thu 12:50
 アマゾン・ドット・コムのカナダのウェブサイトで、インド国旗をデザインした玄関マットが販売されていた問題で、同社は、きのう(11日)までに、インド政府の抗議を受けて、問題の商品の販売を中止しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・独立記念切手(国旗)

 これは、1947年11月21日にはインドが発行した独立記念切手のうち、インド国旗を取り上げた3アンナ半の切手です。インドの独立は、今回ご紹介の切手にも表示されているように1947年8月15日ですが、記念切手の制作は正式独立を受けてからのことでしたので、発行日は11月21日までずれ込んでいます。なお、3アンナ半という額面は外信用の基本料金に相当しており、新生インドの国旗を広く国際社会に周知したいという意図を込めて、このデザインが選ばれたのではないかと考えられます。

 さて、現在のインド国旗は、1921年、マハトマ・ガンディーがインド国民会議に対して“スワラージ(民族自決・自治獲得)運動”の象徴として提案したデザインが元になっています。ガンディーの提案したデザインは、白・緑・赤のストライプにインドの伝統的な糸車を配したものでした。糸車は、英国の機械文明に対抗する意図を示すものとして、ガンディーらの主導したスワラージや英貨排斥・スワデーシー(国産品愛用)の象徴として用いられていたものです。これをもとに、1931年、国民会議は、現在のインド国旗と同じサフラン・白・緑のストライプに、青の糸車を配したデザインのスワラージ旗を制定します。

 1947年8月の独立を前に、同年6月23日、ラージェーンドラ・プラサード、 アブル・カラーム・アーザード、チャクラバルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー、ビームラーオ・アンベードカルらの国旗制定委員会はスワラージ旗を元にした新国旗を策定。その際、国旗のシンボルは特定の共同体や運動を代表するものであってはならないという判断により、糸車のかわりに仏教のダルマ(法)を意味するアショーカ・チャクラ(法輪)を配したデザインが提案されます。

 これに対して、当初、ガンディーは新国旗でもスワラージ旗の糸車を継承することを主張していましたが、最終的に、国旗制定委員会の案を受け入れ、7月22日、制憲議会で原稿のインド国旗が満場一致で採用されました。ちなみに、国旗の3色のうち、サフランはヒンドゥー、緑はイスラム教、白は両宗教の和解とその他の宗教を表しています。

 さて、今回問題となった玄関マットについては、以下のような魚拓画像がネット上に残されていました。

      インド・国旗デザインの玄関マット
 
 日本の一部報道では“インド国旗に類似した模様の玄関マット”と説明されていましたが、商品の説明には、しっかり“Indian flag”と記されています。

 この玄関マットが販売されていることが明らかになると、インドのスワラジ外相はツイッターで「アマゾンは無条件で謝罪しなくてはならない。わが国の国旗を侮辱する全製品を直ちに撤去すべきだ」と抗議し、「これが即座に行われなければ、アマゾン関係者には一切ヴィザを発給しない。またこれまでに発給したヴィザも取り消す」と発言しました。国旗を踏みつけるということは、それ自体、どこの国でも非礼な行為ですが、特に、インドでは足は左手とともに不浄なものとされており、靴や足が他人に触れることもタブーとされています。そういう文化的背景を考えると、外相の怒りも(少なくともインド社会においては)至極当然のことです。

 そういうインド国民やスワラジ外相からすると、ソウルでしばしば行われる反日デモで日章旗が踏みつけられたり、北京の“中国人民抗日戦争記念館”ではガラス張りの床の下に日章旗を埋め込み、参観者は日章旗を踏みつけなければ一巡できない構造となっていることが報じられても、われらが日本政府は、さしたる抗議もせず、これを事実上黙認しているようにも見える事態は、明らかに異常なものと映るんでしょうね。情けない限りです。


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 世界の切手:チャド
2017-01-11 Wed 09:51
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年1月4日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はチャドの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      チャド・トゥーマイ

 これは、世界最古の人類化石、サヘラントロプス・チャデンシスの頭骨を描く2005年のチャド切手です。

 2001年、フランスのポワティエ大学のM.ブルネは、チャド北部のジュラブ砂漠の砂岩層から頭骨とあご2個、歯3本の化石を発見。化石は、出土したゾウやカバなど動物化石の分析や、年代が特定されている東アフリカの地層との比較などから約700万年前のものと推定され、脊柱が頭骨を下から支えている構造になっており、直立二足歩行をしていたことを示していることから、世界最古の人類化石と認定されました。

 化石は、サハラ砂漠南縁を指す“サヘル”と、チャドの国名にちなみ、“サヘラントロプス・チャデンシス”と名付けられましたが、同時に、“希望”を意味する現地語で、乾季直前に生まれた子に付けられることの多い“トゥーマイ”が愛称とされました。今回ご紹介の切手にも、右下に“トゥーマイ”の表示が見えます。

 さて、『世界の切手コレクション』1月4日号の「世界の国々」では、アフリカ連合(AU)によるダカール特別法廷で裁かれた元大統領、イッサン・ハブレとその時代についての長文コラムに加え、16世紀までに消滅したチャド文化、探検家ハインリヒ・バルトのの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のチャドの次は、18日に発売予定の1月25日号でのナミビアの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の25日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 ヴォドゥンの大祭
2017-01-10 Tue 11:43
 きょう(10日)は、年に一度のヴォドゥン(ブードゥー教)の大祭の日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ベナン・ヘビエッソへの生贄

 これは、1988年にベナンで発行された切手で、ニワトリを屠り、ヴォドゥンの雷神、ヘビエッソに捧げる祭礼の場面が描かれています。

 西アフリカおよびカリブ海地域のアフリカ系黒人の間で広く信仰されているヴォドゥンは、もともと、ベナンの最大民族であるフォン人の言葉で“精霊”を意味する言葉です。

 もともと、ヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられており、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていました。

 現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は奴隷貿易を行っていましたが、その支配下からカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンは“ヴードゥー”に転訛し、この名称が世界的に定着することになりました。

 なお、カリブのヴードゥーは、ハイチのマルーン(プランテーションからの逃亡奴隷)の指導者であったフランソワ・マッカンダルが発展させたもので、奴隷の信仰として、白人による弾圧を逃れる必要から、伝統的な精霊信仰に聖母マリアなどのキリスト教の聖人崇敬を組み込んでいるのが一つの特色です。このため、西アフリカの伝統的な精霊信仰とはやや趣を異にしていますが、一般には、両者は一括して “ヴードゥー”と呼ばれることも少なくありません。

 ヴォドゥンの信仰や文化は、西アフリカの自然や生活の中から生まれたもので、統一的な教義や教典はなく、組織化された教団もないため、民族・地域により大きな差があります。また、いわゆる布教活動も行われていません。このため、日本の宗教法人法によればヴォドゥンは“宗教”に該当しないことになります。

 しかし、ヴォドゥンを国教に指定しているベナン以外にも、2003年にはハイチのカトリック大司教もヴードゥーを“宗教”として認知していますし、ヴォドゥンを宗教もしくはそれに準じる民間信仰と認定している国も数多くあります。なお、ヴォドゥンおよび類似の信仰を有している人口は全世界で5000万人以上と推定されており、その規模は約3000万人といわれるチベット仏教をはるかに凌駕していることは見逃してはならないでしょう。

 今回ご紹介の切手の題材となっているヘビエッソは800にも及ぶヴォドゥンの神々のうち、最も多くの信者を集めている神の一つです。非業の死を遂げたジャンゴ(サンゴ、シャンゴとも)王はヘビエッソの化身だったとの信仰から、ジャンゴと呼ばれることもあります。そのシンボルは双頭の斧で(今回ご紹介の切手でも老人の背後、左側の壁には双頭の斧が描かれているのが見えます)、その霊力で、盗人の身体を雷で引き裂くとされています。

 ヴードゥーの多神崇拝は、欧米のキリスト教社会的な価値観では“邪教”であり、その独特の儀式や呪術は、ながらく、黒魔術と同一視されてきました。また、1960年にフランスから独立したダホメ共和国が西洋式の近代国家建設を目指して伝統文化を軽視したことに加え、1972-90年の社会主義政権時代(この間、1975年にベナン人民共和国に改称)には、ヴォドゥンの信仰と儀礼は“因習”として社会的に大きな圧迫を受けました。

 しかし、民主化後の1992年、伝統文化の再評価が進められると、ベナン国民の間に深く浸透しているヴォドンは国教に指定され、ヴォドゥンの大祭が行われる毎年1月10日は国民の祝日に指定されました。

 なお、ベナンでは、統計上は人口の42.8%がキリスト教徒、24.4%がムスリム、17.3%がヴォドゥンとなっていますが、キリスト教徒やムスリムの中にも、ヴードゥーの信仰を(部分的に)維持し、ヴードゥーの儀式に参加する場合も多いため、ヴードゥーの“信徒”の実数は統計よりもはるかに多いと推定されています。


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 梅と振袖
2017-01-09 Mon 17:50
 きょう(9日)は“成人の日”です。成人式といえば、やはり女性の振袖。というわけで、振袖姿の女性が描かれた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます) 

      野崎村・鏑木清方

 これは、2010年10月8日に発行された国際文通週間の切手のうち、鏑木清方の「野崎村」を取り上げた1枚です。

 歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として知られる「野崎村」は、宝永7(1710)年、大坂で大店の娘お染と丁稚の久松が心中したことを題材とした近松半二の作品『新版歌祭文』の「第三幕 野崎村の段」の通称で、安永9(1780)年に大坂・竹本座で初演されました。清方の作品は1914年に制作された歌舞伎絵で、2代目・市川松蔦のお染が、6代目・市川門之助のお常(お染の母親)に手を引かれていく場面を描いた作品。現在、東京・半蔵門の国立劇場の2階ロビーに飾られています。

 物語は(旧暦の)正月の少し前で、野崎村ではもう早咲きの梅が咲いているという設定で、清方は、お常の手に梅の枝を持たせることで季節感を表現しました。ちなみに、実際の心中事件のあった宝永7年で考えるなら元日は1710年1月30日、「野崎村」初演の安永9年で考えるなら元日は1780年2月5日ですから、かつてのように、成人の日が1月15日に固定されている時代だったら、ちょうどその頃のお話ということになりましょうか。

 大坂の油屋に奉公する久松は、養父である野崎村の農家・久作の妻の連れ子おみつと許婚でしたが、久松本人はおみつに対する恋愛感情はなく、店の娘お染とも相思相愛の仲で、お染は久松の子を宿していました。

 しかし、主人と奉公人の許されぬ恋であるうえ、お染には山家屋との縁談もまとまり、2人の前途に希望はありません。そうしたところへ、久松には店の金を使い込んだ疑いがかかり(後に冤罪であったことが明らかになりますが…)、しばらく親元に帰されることになりました。久松は嫌疑が晴れれば店に戻るはずでしたが、同行してきた小助は「金返せ」と暴れます。

 すでに、久松のトラブルを知っていた久作は、全財産を売り払って一丁銀を用意しており、小助に渡して追い返し、これを機に久松とおみつの祝言を挙げさせる心づもりでした。

 事情はともあれ、店に戻るわけにいかなくなった久松ですが、彼と一緒になることをずっと心待ちにしていたおみつは、思いがけず、すぐに祝言となったことに大喜び。まさに幸せの絶頂で、包丁に顔を写して髪を直してみたりして、いそいで準備に取り掛かります。

 この間にも、おみつの存在を知らず、久松のことを忘れられないお染は一路、久松のいる野崎へ向かいました。半刻の後、お染は久松の家に現れました。田舎の農家の裏木戸には不似合いな、垢抜けた振袖(清方の絵画では、お染の振袖の地色には黒・藍・臙脂・胡粉等の混合色が用いられており、非常に深みのある色合いになっています)のお嬢様を見て、おみつは彼女が久松と恋仲にあることを瞬時に見抜くのですが、ひとまず、久作はおみつを連れて引っ込み、お染と久松は二人きりになります。そこで、一緒になれないならひとりで死ぬというお染の言葉に心中を決意する久松。事情を察している久作が出てきて諭し、二人も一度は分かれることを決意しました。

 こうなった以上、ともかくも早く娘の祝言を済ませてしまおうと久作がおみつを呼ぶと、出てきたおみつは綿帽子の下の髪を落とし、首に数珠をかけて尼になっていました。自分と無理に結婚させようとしたら、久松はきっとお染と心中する。それなら、自分は身を引いて尼になるから、死なないでほしい…。

 ここで出てくるのが、「うれしかったは たった半刻」の名台詞です。

 その後、人目を避けるため、2人は別々の道で大阪へ戻ることになりました。お染を引き取りに来たお常が土産として持参した箱には久作が用立てた分のお金が入っており、その返礼に久作はお常に白梅を渡します。お染の手を引くお常が梅の枝を持っているというのは、このことを踏まえたものでしょう。そして、2人が去った後、おみつが久作にすがりついて号泣するところで舞台は幕が下りる、というのが「野崎村」のあらすじです。

 ただし、後日談としては、結局、久松とお染は心中して死んでしまいます。彼らにとっての“うれしかった”時間も、結局のところ、長続きはしなかったということになります。

 なお、今回ご紹介の1枚をはじめ、振り袖姿の女性が描かれた切手と、それにまつわる物語については、拙著『日の本切手 美女かるた』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 澳門で終夜の線香焚き禁止へ
2017-01-08 Sun 17:59
 マカオ政府文化局は、きのう(7日)、寺院の消防管理に関する対策会議を開催し、2017年1月28日の春節(農暦新年)以降、「寺院境内室内における終夜の線香焚きの禁止及び夜間の電源オフ必須化」を全面実施する方針を示しました。昨年(2016年)2月、媽閣廟の正覚禅林殿で照明器具のショートが原因とみられる火災が発生し、建物の大半が焼失したことを踏まえての措置だそうです。というわけで、実際に線香の煙たなびくマカオの寺院を取り上げたマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      中国澳門・旧城壁印字切手FDC

 これは、2008年に中国澳門で発行された世界遺産切手のうち、舊城牆遺址(旧城壁)を取り上げた印字切手のFDCです。印字切手のデザインは大三巴(聖ポール天主堂跡)側から見た旧城壁を描いており、城壁の前には、同じく世界遺産に指定されている哪咤廟(ナーチャ廟)前の煙たなびく香炉を廃したデザインになっています。一方、マカオ郵政が制作したFDC用の封筒のカシェは、旧城壁の出入口を出たところから哪咤廟の香炉を描くデザインになっており、哪咤廟の軒先にぶら下がっている渦巻き線香もしっかり見えます。ちなみに、印字切手とほぼ同じ構図で見た実際の旧城壁と哪咤廟はこんな感じでした。

      澳門・旧城壁(実物)

 1569年にマカオに居住するようになって以来、ポルトガル人は何度となく、“海賊対策”の名目で城壁を築いてきましたが、そのたびに明朝から撤去を命ぜられてきました。

 しかし、1622年、オランダによる攻撃からマカオを貿易したことにより、明朝もポルトガルに対して城壁の建設を認めないわけにはいかなくなり、1632年までに、ポルトガル人は東望洋山(ギアの丘)から水坑尾街、モンテの丘を経て内港まで伸びる北側の城壁のみならず、半島南部にも城壁を築くことに成功しました。ちなみに、明朝が滅亡するのは、それから12年後の1644年のことです。

 こうして築かれたマカオの城壁でしたが、19世紀半ば以降、中国大陸から中国人が流入し、半島北部にまで市街地が広がったことで、かえって、域内交通にとっての障害となり、その多くが撤去されることになります。この結果、現在では、初期の城壁は大三巴の近くにごくわずか残るのみとなりました。この残った“旧城壁”が、現在の世界遺産の“舊城牆遺址”となります。

 一方、インドの神クベーラ(毘沙門天)の三男ナラクベーラがルーツとされる童子神、ナーチャは、道教では悪魔を退け災厄を払う神として人気があり、マカオの哪咤廟としては、大三巴南側の柿山に置かれたのが最初です。

 1888年、大三巴の周辺で疫病がはやったため、住民は疫病退散のために柿山の哪咤廟を大三巴近くに移転してほしいと頼んだものの、柿山はこれを拒否。このため、新たに作られたのが旧城壁前の哪咤廟で、大三巴と旧城壁と併せて、世界遺産に登録されました。

 なお、マカオの世界遺産については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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