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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 おかげさまで15周年
2020-06-01 Mon 00:26
 おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、ちょうど15周年になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、最新の拙著『日韓基本条約』にちなみ、朴正煕政権下で発行された“15周年”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・政府樹立15周年

 これは、1963年8月15日に韓国が発行した“政府樹立15周年”の記念切手で、木槿と太極をバックに、3色のリボンで作られた“15”の文字が描かれています。

 日本の敗戦後、連合国軍最高司令官一般命令第1号により、朝鮮半島は北緯38度を境界として、南朝鮮を米国が、北朝鮮をソ連が分割占領しました。当初、これはあくまでも暫定的な措置とされていましたが、1945年12月に発表された「5年間を限度とする信託統治の後、南北統一の政府を樹立する」というモスクワ協定のプランは、南朝鮮での激しい反発や東西冷戦の進行により、実現が困難になっていきます。

 米ソ間の調整が難航する中、米国は自力での問題解決をあきらめ、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。

 しかし、すでに北朝鮮のソヴィエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、“選挙の可能な地域”、すなわち南朝鮮での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。

 この選挙結果を受けて、5月31日、憲法制定を最大の目的とする国会が開院(議長:李承晩)。6月10日には国会の組織・運営方法等を正式に定めた南朝鮮国会法を制定し、同25日には国連の臨時朝鮮委員会も正式に南朝鮮国会の成立を認定します。そして、7月17日の憲法制定を経て、24日には李承晩が大韓民国の初代大統領に就任。8月15日の解放3周年にあわせて、大韓民国政府が正式に樹立され、翌16日午前零時をもって米軍による南朝鮮の軍政は解消されました。

 今回ご紹介の切手は、ここから起算して15周年になるのを記念して発行されたものですが、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』もあわせてご覧いただけると幸いです。


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 6月5日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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 世界禁煙デー
2020-05-31 Sun 02:12
 きょう(31日)は“世界禁煙デー”です。僕自身は煙草を嗜みませんし、煙草を吸う人が周囲の吸わない人へ配慮するのは当然のことだと思っています。しかし、禁煙・嫌煙を掲げれば何でも許されると勘違いし、問答無用で煙草を排除しようとする“禁煙活動家”のヒステリックな言動は、煙草の煙よりもはるかに不愉快です。というわけで、愛煙家を描く切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲバラ生誕90年(チェス)

 これは、2018年にキューバが発行した“チェ・ゲバラ生誕90年”の記念切手のうち、葉巻を手に、チェスを楽しむゲバラが描かれています。

 1959年のキューバ革命後、政府高官としての激務をこなしていたゲバラにとって、ほとんど唯一の娯楽になっていたのがチェスでした。

 工業大臣時代の彼は、工業省での仕事が終わると、妻のアレイダに電話をかけ「ガールフレンドの家に行くよ」といい、アレイダが「わかってるわ、チェスをしに行くんでしょ」と応えるのが日常的な会話だったというエピソードもあります。

 伝説によると、ゲバラは2歳の頃にはチェスの駒を握っていたとされていますが、これは、文字通り駒を手に握っていたというだけで、プレイしていたわけではないでしょう。ただし、幼少時から彼が父親の手ほどきを受けてチェスに親しんでいたことは事実で、12歳のときには、地元のチェス・トーナメントに参加しています。

 工業大臣に就任した後の1961年、ゲバラはチェスのローカル大会に参加して、自分なりにアレンジした手(友人たちの間では“ゲバロフスキ”と呼ばれていた)で勝利を収めています。この時の試合について、プロ棋士のホセ・ルイス・バレーラスは「大胆、積極的、守りではなくいつも勝負をかけている」と評しました。

 また、同年10月7日、ゲバラは『レボルシオン』紙に寄稿し、バレーラスが同紙のチェス欄に出題した問題は易しすぎると評しました。このため、バレーラスは「次回には3手で王手となる難問を出題する」と予告。すると、1週間後、バレーラスの元に、正しい回答とともにさまざまな手を記した匿名の手紙が届けられ、その直後に、チェから電話がかかってきたという逸話もあります。

 また、1963年、ソ連との友好イベントとして、ソ連のグランド・マスター(国際チェス連盟が付与する称号で、世界チャンピオンを除く最高位)をハバナに招いてのトーナメント戦が行われたのですが、その際、ゲバラは、グランド・マスターのヴィクトール・コルチノイとの多面指しの相手を務めました。全勝を達成したコルチノイは、試合後、ゲバラについて「プロならだれでも知っているカタラン・オープニング(定跡の一つ)への対処法さえ知らなかった」と評していますので、ゲバラはアマテュアとしてはそれなりに強かったものの、あくまでも自己流だったようです。

 さらに、ゲバラは、ポーランド生まれのアルゼンチン人グランド・マスター、ミゲル・ナイドロフとも親善試合で対戦しましたが、ゲバラとの実力差が大きいことを瞬時に悟ったナイドロフは、序盤早々、革命の元勲の顔を立てて“引き分け”を提案したそうです。

 なお、革命後のキューバは、他の社会主義諸国同様、スポーツのステイツ・アマを育成しましたが、チェスもその対象となっています。特に、ゲバラだけでなく、フィデル・カストロもチェスの愛好家だったことに加え、伝説のチャンピオン、ホセ・ラウル・カパブランカが米国チャンピオンのフランク・マーシャルを破って世に出たことから、チェスは大いに奨励されました。

 こうした背景の下、グランド・マスターとの対局やナイドロフとの引き分けという“実績”から、革命の象徴でもあったゲバラには、チェスの名手というイメージも付加されることになり、現在では、キューバ国民の間では「ゲバラはチェスの名手だった」とのイメージが定着しています。

 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお邸に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ブルーインパルス、東京上空で感謝飛行
2020-05-30 Sat 01:26
 新型コロナウイルスに対応する医療従事者に感謝を伝えようと、昨日(29日)、航空自衛隊のブルーインパルスが東京の都心上空で編隊飛行を行いました。というわけで、きょうはストレートにこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      航空100年・ブルーインパルス

 これは、2010年9月22日に発行された“航空100年”の記念切手のうち、ブルーインパルスで使用されている国産ジェット練習機T-4を取り上げた1枚です。

 米国でライト兄弟が人類最初の動力飛行に成功したのは1903年のことでしたが、わが国では7年後の1910年4月、飛行機の購入と操縦技術の習得の任を帯びて、陸軍の工兵大尉・徳川好敏がフランスに、歩兵大尉・日野熊蔵がドイツに、それぞれ、派遣されています。

 徳川と日野は、同年夏、任務を果たして飛行機とともに前後して帰国。同年12月19日、東京・代々木の練兵場で午前7時55分から、徳川の操縦するアンリ・ファルマン式複葉機が、午後1時30分から日野の操縦するハンス・グラーデ式単葉機が、それぞれ、場内を数分間(徳川は4分、日野は1分20秒)の試験飛行を行いました。これが、日本航空史の始まりとされており、2010年はここから帰国して100年になるのを記念して発行されました。

 なお、実際に徳川と日野の試験飛行が行われたのは12月19日ですが、これとは別に、1940年6月、「航空思想の高揚と航空技術の振興を図り、航空日本の将来の発展に努める」ことを目的として“航空日”が制定されます。当初、航空日は9月28日でしたが、翌1941年からは9月20日となりました。その後、敗戦に伴う占領下では、日本人による航空活動が禁止されたため、航空日の行事も一時休止されていましたが、講和後の1953年に復活。以後、1992年には“空の日”と改称されたものの、こんにちにいたるまで、毎年、9月20日には、各種の記念行事が行われています。
 
 今回ご紹介の切手の発行日も、実際に試験飛行が行われた12月ではなく、“空の日”に合わせて設定されましたが、2010年は“空の日”当日の9月20日が“敬老の日”の祝日だったため、9月22日にずれ込んでいます。

 一方、ブルーインパルスは、1954年に航空自衛隊が発足した後、浜松基地の第1航空団第1飛行隊で、1958年頃から正規の飛行訓練の合間に、非公式にアクロバット飛行訓練を行っていた3名の隊員がルーツとされています。その後、訓練の趣旨に共感した飛行隊長が航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整え、同年10月19日、浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、初めてアクロバット飛行を公開しました。

 翌1959年、源田實が航空幕僚長に就任すると、アクロバット飛行チームの制式化が進められ、1960年8月、第1航空団の教官から選抜された“空中機動研究班”が第2飛行隊内に発足。それまで使用されていたコールサインの“インパルス・ブルー”を逆にした“ブルー・インパルス”が相性として採用されました。

 初代のチームは、米国から供与された5機のF‐86F戦闘機を使い、1964年の東京五輪開会式では五輪の輪を、1970年の大阪万博開会式ではEXPO’70の文字を空に描いたことで有名になりました。

 1982-95年の2代目のチームは、松島基地第4航空団第21飛行隊内に編成された“戦技研究班”で、国産のT-2超音速高等練習機6機を使用。現在のチームは、1995年、第4航空団飛行群第11飛行隊として正式に発足し、今回ご紹介の切手にも描かれている中等練習機のT-4を使用しており、1996年4月の防衛大学校入学式で、最初の展示飛行を行いました。

 さて、今回の編隊飛行は、空自入間基地を離陸した6機は、午後0時40分ごろから、都心上空1000メートル前後を白いスモークを出しながら約20分飛行。墨東病院、荏原病院、自衛隊中央病院などの感染症指定医療機関の上空を2周し、JR東京駅東京スカイツリー東京タワー、都庁などのそばも通過しました。ちなみに、東京上空をブルーインパルスが飛行するのは1964年の東京オリンピック開会式、2014年の旧国立競技場のお別れイベントに続いて3回目です。

 ちなみに、拙宅からはこんな感じで編隊飛行が見えました。

      ブルーインパルス・感謝飛行

 あらためて、医療従事者の方々をはじめ、今回の新型コロナウイルス禍のなか最前線で我々の生活を支えていただいたすべての方々ならびに今回の編隊飛行を行ったブルーインパルス関係者の方々に、感謝申し上げます。


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 中国、香港治安法の導入方針を採択
2020-05-29 Fri 02:31
 中国の全国人民代表大会(全人代)は、きのう(28日)、香港で、北京政府が“反体制的”とみなした言動を取り締まる“国家安全法制”の導入方針を採択し、閉幕しました。これにより、1997年の“返還”以降も50年間は“高度な自治”が維持されるとした“一国二制度(一国両制)”は大きく損なわれることが懸念されています。というわけで、香港の民主派を応援する意図を込めて、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・加油(2018)

 これは、2018年に香港で発行された“コミュニケーション”の切手のうち、“加油(頑張ろう)/KEEP IT UP”を取り上げた1枚です。

 2018年の“コミュニケーション”の切手は、ここに挙げた“加油”のほか、“おはよう(早晨/GOOD MORNING)”、“ありがとう(謝謝/THANK YOU)”、“友達(朋友/FRIEBDS)”、“こんにちは(你好/HELLO)”、“愛/LOVE”の文言と、それらを意味する手話をデザインしたもので、切手にはそれぞれの文言の点字加工も施されています。

 今回ご紹介の切手が発行された時点では、“加油”は一般的な日常会話の用語でしたが、昨年6月、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正案への反対運動から始まった北京および香港政府への抗議活動の過程で、“香港加油”は民主派のスローガンとして広く人口に膾炙するようになりました。

 このため、中国当局はネット上で“香港加油”を検索不可にするなどの規制をかけましたが、これに対して、台湾人のデザイナー、馬賽氏が、香港の文字を90度回転させると“加油”に見えるアンビグラムを制作。民主派を支援する人々の間で使われるようになりました。ちなみに、ことし1月に開催されたテーマティク研究会の切手展に際して、香港の友人がそのプレートを送ってくれましたので、同展に出品した僕のコレクション A History of Hong Kong の前で、こんな写真を撮ってみました。

      香港加油プレート縦 香港加油プレート横

 さて、1997年の“返還”を前に、1990年に制定された香港特別行政区基本法の第23条では、一国二制度の原則に基づき、国家の分裂や政権転覆の動きを禁じる法律を「香港政府が自ら制定しなければならない」と定めています。しかし、中国政府の統制強化につながる治安立法に対しては、香港市民の反対が根強く、2003年には50万人規模の反対デモが起きるなど、市民の度重なる反発により現在まで制定が阻止されてきました。

 これに対して、昨年来の民主派の抗議行動に危機感を募らせた北京政府は、新型コロナウイルス問題で世界の関心が香港から離れている隙をついて、民主派の弾圧を本格化。4月18日には、 香港警察が民主派リーダーら15人を一斉逮捕していました。

 今回の全人代の決定もこうした流れに沿うもので、北京政府が香港の治安維持に責任を有し、立法権限を持つ点を明確にしたうえで、香港政府に治安法の“早期の立法化”を求めています。ただし、実際の立法作業は全人代常務委が行い、早ければ6月に審議入りして8月に可決。香港政府は、法の制定後に公布・即日施行するとして、その手続きも定めらています。また、この間、“国家安全法制”について、香港立法会(議会)が審議を行う機会は与えられていません。

 このため、全人代の決定は、基本法第23条を骨抜きにして、北京政府が香港の直接統治に乗り出し、一国二制度の原則を踏みにじるものとして、採決が行われる以前から国際社会が懸念を示しており、採決前日の27日には、米国の、ポンペオ国務長官が「一国二制度に基づく香港の“高度な自治”が維持されていない」ことを議会に報告したうえで、“国家安全法制”は「香港の自治と自由を根本的に損なっている」と批判しました。ちなみに、米国では昨年11月に成立した香港人権法により、一国二制度を前提に香港に認めてきた関税やヴィザ発給などの優遇措置について、一国二制度が守られていないと認定されれば停止することができるとしているほか、香港の自治や人権を侵害した人物に対し、米国への入国禁止や資産凍結などの制裁を科すことも盛り込まれています。

 また、同日、米国連代表部も声明を発表し、“国家安全法制”をめぐる動きについて「香港の高度な自治を根本的に損なうものだ」と懸念を表明。この問題についての安保理会合の開催を求めたことを明らかにしました。このほか、英国、オーストラリア、カナダも共同声明を発表し、「香港の人々の自由を取り上げ、香港の自治を著しく侵食することになる」と懸念を表明しています。

 なお、香港とその歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 モンテネグロ、欧州初のコロナ終息宣言
2020-05-28 Thu 02:03
 旧ユーゴスラビアのモンテネグロは、25日(現地時間)、欧州で初めて、国内での新型コロナウイルス感染の終息を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モンテネグロ・欧州小国競技会(2019)

 これは、2019年5月27日から6月1日まで、モンテネグロのブドヴァで開催された欧州小国競技会(GSSE)に際して、開催国のモンテネグロが会期初日に発行した記念切手で、同大会のマスコットキャラクターと「我々はなんと大きいんだろう!」との大会スローガンが入っています。このスローガンは、人口62万の小国として“欧州初”の快挙を成し遂げたモンテネグロ国民の今の気分を表したものではないかと思い、持ってきました。

 モンテネグロはアドリア海に面したバルカン半島の国で、国家としてのルーツは、1516年にツェティニェ家がこの地域の支配を確立したことに求められます。1852年、オスマン帝国の宗主権下でツェティニェ家によるモンテネグロ公国が成立。1878年、露土戦争の結果、同公国は独立を承認されました。
 
 第一次大戦戦後はセルビア・クロアチア・スロベニア王国(のちユーゴスラビア王国)に取り込まれましたが、第二次大戦中、枢軸国によるユーゴスラビア分割に伴い、イタリア占領下のモンテネグロ王国となります。戦後は再びユーゴスラビアに復帰。1991年以降のユーゴ紛争では、セルビアと共同歩調を取り、最後まで“ユーゴスラビア”に留まりましたが、2003年2月にはユーゴスラビアは国家連合のセルビア・モンテネグロとなり、2006年6月、セルビアから分離独立を宣言しました。なお、旧セルビア・モンテネグロの継承者は、モンテネグロではなく、セルビアです。

 モンテネグロでは3月に最初の新型コロナ感染者が確認されたことを受けて、国境の封鎖や空港・学校の閉鎖を開始。小国の特性を生かして徹底した“籠城作戦”を取り、自主隔離をしている感染者の名前や住所を公表したほか、国の方針に従わない人々を訴追したり、罰金を科したりすることで感染を抑え込んできました。

 累計感染者数は324人、死者は9人ですが、過去20日間は1人の感染者も確認されていなかったことから、今回の終息宣言につながったというわけです。 

 なお、今回ご紹介の切手の題材となったGSSEは、ヨーロッパオリンピック委員会(EOC)加盟国のうち、原則として人口100万人未満の国が参加し、1985年にサンマリノで開催された第1回大会以来、隔年で開催されている総合競技大会です。第1回の参加国は、アイスランド、アンドラ、キプロス、サンマリノ、マルタモナコリヒテンシュタイン、ルクセンブルクの8ヵ国でしたが、2009年のキプロス大会以降はモンテネグロも加盟し、現在の参加国は9ヵ国となっています。なお、キプロスの人口は、同国の公称では123万人ですが、これは北キプロス(北キプロス・トルコ共和国)を含めれの数字で、北キプロスを除くと87万6000人です。


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 何鴻燊(スタンレー・ホー)氏、亡くなる
2020-05-27 Wed 01:25
 きのう(26日午後1時頃、“マカオのカジノ王”として知られる実業家の何鴻燊(スタンレー・ホー)氏が入院先の香港養和醫院で亡くなりました。享年98歳。というわけで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・第20回国際花火大会(リスボアなど)

 これは、2008年10月1日、マカオが発行した“第20回マカオ国際花火コンテスト”の切手の1枚で、画面の左の方に、何の成功の象徴ともいうべきカジノホテルのリスボアとグラン・リスボアが並んで見えるのがミソです。両ホテルとも、2018年にマカオを訪れたときに撮影した写真がありますので、下に貼っておきます。左がリスボアで、右がグランリスボアです。

      マカオ・リスボア(2018) マカオ・グランリスボア(2018)

 さて、何鴻燊は、1921年、ジャーディン・マセソン商会の買弁、何世光(香港最大の買弁だった何東の甥)の子として、香港で生まれました。

 幼少時代の何鴻燊は何不自由なく育ちましたが、1934年、父親はジャーディン・マセソン商会の株取引をめぐって同社役員の計略にはまって破産。父親は取り立てを逃れるためにヴェトナムのサイゴンに逃れ、何鴻燊は香港に残されました。ちなみに、世間から逃れるために父親はスタンレー・ロッジという変名を名乗っていましたが、後に、何鴻燊はこれにちなんでみずからの英名を“スタンレー”と称するようになります。

 大金持ちの御曹司から一挙に貧窮生活にたたき落とされた何鴻燊でしたが、学業成績が優秀だったため、奨学金を得て香港大学に進学。在学中の1941年12月、日英開戦により日本軍が香港への攻撃を開始すると、彼とその家族は12月25日の香港陥落前にからくも香港を脱出し、中立国ポルトガルの領土だったマカオに向かいます。

 マカオに到着した何はマカオの食糧輸入を独占的に扱っていた半官半民企業の聯昌貿易公司に就職。その才能を総経理の梁基浩に認められ、ほどなくして秘書にまで出世しました。さらに、自身の担当する船が武装した集団による攻撃を受けた際、武装集団の隙をついて銃を取り上げ、船の主導権を取り戻したことで梁からの絶大な信頼を獲得。その後、その傑出した実績により100万ドルのボーナスを得て、これを元手に香港での投資を始め、巨額の利益を得ます。

 マカオ政府が新たに貿易局を組織し、梁が局長に就任すると、何も貿易局へ移り、植民地政府との人脈を築きましたが、その過程で、マカオのポルトガル人有力者の娘、クレメンティナ・レイタオ(黎婉華)と結婚しました。

 大戦中、日本軍の関係者はマカオでの麻薬取引にも手を染めていましたが、戦後、彼らが撤退すると何はその利権を継承し、莫大な利益を挙げます。

 ところが、1953年、マカオにおけるスタンダード石油の石油販売の利権をめぐって、何と対立するグループとの間に激しい抗争が生じ、手榴弾が投げ込まれるなど、何本人と家族の生命にも危機が及んだため、彼はマカオを撤退。その後は、香港に戻り、建設・不動産会社として利安建築公司を設立し、イギリス軍兵舎の建設工事を請け負ったほか、高層住宅の販売で成功し、香港を代表する富豪の一人となりました。

 こうした状況の中で、マカオのカジノへの新規参入を目指していた葉漢が何鴻燊に目をつけます。

 葉漢は1906年、廣東省江門生まれ。小学生の頃から博打の才に優れ、廣州の南武中學を経て21歳のとき、マカオ・セナド広場近くのカジノ、セントラルにディーラーとして就職。その後、深圳でのカジノ勤務を経て、上海でカジノ経営を始めたものの失敗し、第二次大戦後、ヴェトナムに渡ってカジノを開いて資金を貯め、1955年にマカオに戻ってきたばかりでした。

 当時のマカオ政庁は、競争入札によって賭博場の権利を特定の業者に独占的に販売し、賭博場の経営者から莫大な税を徴収し、財政基盤としていましたが、1937年から61年までの24年間、当時のマカオにおける最高級ホテル、セントラルの賭博場開設の権利を独占していたのは、高可寧と傅老榕が共同で経営する泰興娛樂總公司(泰興公司)でした。同公司がマカオ政庁に毎年収めていた賭博税の金額の180万パタカは、当時の税収全体の40%を超えていたといわれています。

 ところが、1960年、長年にわたって泰興公司の経営を取り仕切ってきた傅老榕が亡くなると、これを機にカジノへの参入を目指した葉漢は、蘭印出身で香港を基盤にしていた葉德利に声をかけ、そこから、何鴻燊に接触します。葉らが何に目を付けた最大の理由は、彼の妻クレメンティナがポルトガル人であったことにあります。当時、マカオでのカジノ経営権はポルトガル国籍を持っていなければ取得できなかった(このため、泰興公司のカジノ経営権は、名目上、ポルトガル人の政府高官から借り受けるかたちをとっていました)からです。

 マカオで成功を収めながら、マカオを撤退せざるを得なかった何鴻燊は、葉德利の求めに応じてカジノ経営への参画を決定。さらに、経営権取得の資金を調達するため、香港財閥の大物、霍英東を説得し、仲間に引き入れました。

 霍は1923年、香港の水上生活者の子として生まれました。日本軍占領下の1942年、19歳で雑貨商を開業し、終戦後は香港政府の余剰物資を扱っていましたが、朝鮮戦争時に国連の対中経済制裁をかいくぐって、医薬品やガソリン、タイヤなどの戦略物資を中国へ密輸して巨額の資金を手に入れます。このとき、中国共産党の要人ともパイプを築き、その後は、密輸によって得た利益を元手に株式と不動産に投資し、巨額の利益を挙げ、財閥にのし上がった人物です。

 傅老榕が亡くなった翌年の1961年、葉漢、葉德利、何鴻燊、霍英東の4人は、いよいよ、マカオのカジノ経営権独占を実現すべく、澳門旅游娯樂有限公司(以下、娯楽公司)を設立。何はポルトガルに渡り、植民地を監督・経営する海外省などをまわって泰興公司とマカオ政府の癒着を告発するとともに、次期マカオ総督(任期は1962年4月から)に内定していたロペスとも面会し、カジノの収益をマカオのために使い、大戦後、香港の復興とともに経済が停滞していたマカオを再建してほしいと訴えました。

 こうして、1961年10月に行われた入札では娯楽公司が年316万7000パタカでカジノの経営権を獲得。政府はこの金額の10%をマカオの慈善事業に使い、残りの使途は娯楽公司との協議のうえで決めるということになります。このとき、娯楽公司はマカオ政府に対して、①カジノを世界的な水準のものとする、②一流のホテルを3件建てる、③新しい船着場を得建設する、④マカオ=香港間に水中翼船を就航させる、⑤港湾を含めマカオの交通事情を改善する、⑥毎年、港の底の100立方メートルの土砂を浚渫する、ことなどを約束しました。

 1962年、娯楽公司はまず、新花園に最初のカジノを開業した後、各地に小規模なカジノを次々に開業し、年末には内港の16号埠頭に“澳門皇宮”と名付けた大型カジノ船を係留します。

 これに対して、何ら新興勢力の台頭を喜ばない有力者たちは何に対して脅迫状を送り付けたほか、マカオ船籍の船の香港との往来を妨害するなどの抵抗を試みましたが、何は脅迫状の内容を公開して世論の同情を集めるとともに、香港籍の船を確保。さらに、自分に対する暗殺指令が出ていることを察知すると、24時間以内に自分を狙っている暗殺者を発見した者には100万パタカの報酬を支払うとの新聞広告を大々的にうち、旧勢力を追い詰めていきました。

 それまでのマカオ経済の中心は内港エリアにあったが、何は外港に新たなフェリーターミナルを建設。1975年には香港=マカオ間のフェリーの定期運行化を実現し、香港からの日帰りカジノ旅行を可能とします。

 また、場内で俳優や歌手を招いてショウを行うなど、ラスベガスに倣った最新式のカジノを備えたホテル、リスボアなどを外港エリアに相次いで建設し、外港との間に無料のシャトルバスを運行させました。また、カジノ税の使途は娯楽公司と政府の協議によって決めるという条項を利用して、公共工事・公共事業の支出は外港エリアに集中させ、内港エリアへはほとんど支出しないようにすることで、内港地域を拠点としていた旧勢力を徹底的に干し上げていきました。

 かくして、マカオ半島の繁華街は急速に外港寄りのエリアへとシフトし、人の流れからはずれた内港エリアは急速に寂れていくことになります。そして、2007年2月には、リスボアに隣接した場所に、総額300億パタカをかけたグラン・リスボアが完成、オープンしました。もっとも、同年8月には、マカオ半島南側の氹仔(タイパ)島と路環(コロアネ)島の間の浅瀬を埋め立てて造成した路氹(コタイ)地区に、世界最大のカジノ・リゾート、“澳門威尼斯人渡假村酒店(ザ・ヴェネチアン・マカオ、以下、ヴェネチアン)”が開業。以後、隣接地域には、プラザマカオ、サンズコタイセントラル、パリジャンマカオと大型複合リゾート施設が相次いでオープンし、マカオのカジノの中心地は路氹へと移っていくことになります。
 
 なお、何鴻燊とマカオのカジノ史については、拙著『マカオ紀行』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 南ア、6月から酒の販売解禁
2020-05-26 Tue 01:58
 南アフリカ共和国(以下、南ア)のラマポーザ大統領は、24日(現地時間)、新型コロナウイルス対策で制限している経済活動について大部分の再開を認めると発表。その一環として、現在は禁止されている酒の販売も、自宅での飲用に限り、6月1日から認める方針を示しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      KGVI・南アワイン広告封筒

 これは、1943年12月3日、英国のエジンバラからミッドロージアン宛に差し出された郵便物で、封筒に南ア産ワインの広告が入っています。“クリスマスの郵便物は早めに投函しよう”という内容の標語印も押されていますので、差出人としては、クリスマスには広告のワインを飲んでほしいということだったのかもしれません。

 さて、現在の南アの地には、1652年、ファン・リーベックが3隻のオランダ船を率いてケープタウンに上陸し、インド=オランダ航路の中継地としての“ケープ植民地”の基礎を築いていますが、はやくも3年後の1655年には初代総督となったファン・リーベック本人がブドウの苗木を植え、1659年に最初のワインを生産しています。

 第2代総督のシモン・ファン・デル・ステルは、1679年、内陸進出の拠点として、テーブル・マウンテンの山麓にケープタウンに次ぐ第2の都市として、ケープタウンの東方50キロの地点にステレンボッシュを建設。開拓地は1682年に地方自治体となり、翌年には学校も開設されるなど、急速に発展し、1685年にはファン・デル・ステル本人が近郊にマナー・ハウスと呼ばれる住居を建設します。そして、1689年、その周囲に750ヘクタールのブドウ畑を開拓。これが、現在のコンスタンシア地区のルーツで、マナー・ハウスの建物は、後に南ア最古のワイナリー、グルート・コンスタンシアとなりました。

 17世紀末、フランスから、ステレンボッシュとその周辺にプロテスタントのユグノー移民が大挙して流入。彼らは、この地が気候的にも、土壌の面でもブドウ栽培に適していることを見抜き、フランス仕込みのワイン生産を開始します。彼らは、ステレンボッシュに続き、現在の西ケープ州内のパール、フランシュフック、サマセット・ウェスト、ウェリントンの5つの隣接する地域を開拓。現在、それらはワイン・ランドと総称されています。

 1778年、ドイツ系移民の血を引くヘンドリック・クローテは、ワイナリー、グルート・コンスタンスを率いて、デザート・ワインの傑作“コンスタンシア”を作り出しました。

 ヘンドリックの死後、コンスタンシアのワイナリーは息子のヘンドリックJrを経て、孫のヤコブ・ピーターが後を継ぎます。フランス語に堪能だったヤコブ・ピーターはパリにコンスタンシアの代理店を開設。ナポレオン戦争でフランスのワイン産業が大きな打撃を受けたことに加え、英仏間の貿易が途絶したこともあって、以後、コンスタンシアは最上級のデザート・ワインとしてヨーロッパの上流社会を席捲し、皇帝ナポレオン1世やフランス国王、ルイ・フィリップ、英王室やドイツの鉄血宰相ビスマルクらが愛飲しました。

 コンスタンシアに牽引されるかたちで、他のケープ・ワインもヨーロッパで広く飲まれるようになり、ケープ植民地のワイン産業は急速に発展していきます。ところが、1861年、英仏関係が改善され、英国でのフランス製品への輸入関税が大幅に引き下げられると、ケープ・ワインの英国向け輸出は激減。さらに、1866年にはブドウに被害をもたらす害虫、フィロキセラが蔓延してケープ・ワインの生産は壊滅的な打撃を受けました。その後、ボーア戦争を経て、1910年、ケープ植民地は英領南アフリカ連邦に編入されますが、これと前後して、北米から、フィロキセラに対する耐性があるブドウの苗木が持ち込まれ、ケープ・ワインも復活しました。

 しかし、1910年代、ケープ・ワインは過剰生産で値崩れを起こしたため、南ア政府は、1918年、ワインの生産調整と価格安定を目的に、南アフリカ醸造者協同組合(KWV)を設立。ケープ・ワインの市場と価格を管理するようになりました。KWVは1997年に株式会社化され、2002年に完全民営化されましたが、現在なお、KWVは南アから輸出されるケープ・ワインの相当部分を扱っています。

 さて、南アでは、新型コロナウイルス対策として、3月27日から厳格な感染対策の規制を導入。現在の禁酒令もこれに伴って発せられていたものです。

 以後、一般国民の外出も厳しく制限されたため、収入を断たれ、食料確保にも窮する人が相次ぎ、深刻な社会問題となったため、感染者数の増加傾向は続いているものの、国民生活の再建を優先して、5月1日、外出の全面禁止から、5段階の警戒レベルに応じた制限措置に移行。今回の発表で、6月からは警戒レベルを現在の4から3に引き下げ、大規模集会の禁止や国境の封鎖は継続するものの、飲食店や映画館などを除くほとんどの業種で営業再開が認められるほか、夜間の外出や酒類販売の禁止措置も解き、800万人の職場復帰が見込まれています。

 わが国でも、昨日(25日)夕方、緊急事態宣言が解除されたことですし、きょうあたり、現時点では南ア国内で“禁制品”となっているKWVのスパークリングワインでも買ってきて乾杯することにしますかね。

 なお、南アのワインとその歴史については、拙著『喜望峰』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 アフリカデー
2020-05-25 Mon 02:19
 きょう(25日)は、1963年5月25日にアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合:AU)が発足したことにちなむ“アフリカデー”です。というわけで、アフリカ関連の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・ヌビア遺跡保護

 これは、1963年10月1日、韓国が発行した“ヌビア遺跡保護”の切手で、アブ・シンベル神殿のラムセス2世像が描かれています。神像の足元と膝のあたりの波線は、アスワン・ハイ・ダムの建設によって遺跡が沈むことをイメージしたものと思われます。

 アブ・シンベル神殿は、古代エジプトのラムセス2世により紀元前1250年頃、砂岩をくりぬいて建造され、太陽神ラーを祀った大神殿と、王妃ネフェルタリに捧げられた小神殿(祭神はハトホル女神)で構成されており、カイロから南へ1180キロ、アスワンからさらに南へ280キロの地点にあります。北から吹く強い風のため、長らく砂に埋もれていましたが、1813年、スイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって本格的な発掘が開始されました。

 さて、“エジプトはナイルの賜物”というヘロドトスの言葉は、ナイル川の氾濫が流域の肥沃な土壌を作ってきたことを示す表現ですが、近代に入って人口が急増すると洪水の被害を抑えることが重要な課題となります。このため、1882年にエジプトを保護国化した英国は、1901年、ナイル川上流にアスワン・ダムを建設しましたが、ガマール・アブドゥン・ナーセル(以下、ナセル)の革命政権は、ナイル川のより上流に巨大なダムと発電所を建設し、それを利用した灌漑により大規模な農地を開拓することを目指して、世界銀行と米英の支援を受けて、アスワン・ハイ・ダムの建設計画に着手しました。

 ところで、1961年の5・16革命のクーデターを敢行するにあたって、朴正煕、金鍾泌らクーデター指導部は、エジプトのナセル、トルコのムスタファ・ケマル、ビルマのネウィンなどの軍事革命を参考に計画を立案しましたが、その際、最も影響を受けたのがナセルのエジプト革命でした。

 1952年7月23日、ナセルら青年将校で構成された自由将校団がカイロでクーデターを起こし、国王ファールークは退位・亡命。エジプト革命が達せられます。自由将校団は、当初、形式的に、王制時代の参謀総長のムハンマド・ナギーブを団長として擁立しており、ファールークの退位後、ナギーブは陸軍総司令官に就任し、新たに発足した革命指導評議会の議長に就任。9月17日には首相に就任したものの、新政権の実権は副首相兼内務大臣のナセルが握っていました。

 その後、1953年6月18日には正式に王制が廃止され、エジプトは共和政に移行し、ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となりましたが、新政府の実権は、依然として、自由将校団を実質的に率いてきたナセルが握っていました。このため、次第にナギーブとナセルの対立が表面化。1953年後半には、ナセルがナギーブを「ムスリム同胞団と結託して独裁を図っている」として批判し、1954年2月25日、革命指導評議会は「許容されない絶対的な権力を求めた」としてナギーブの首相職を解き、ナセルが首相に就任します。このときは、国民の反発もあって、3月に入ってからナギーブは首相に復帰しましたが、4月18日には再び首相を辞任しナセルに禅譲。その後、ムスリム同胞団がナセル暗殺未遂事件を起こすと、同年11月14日、ナセルはナギーブ大統領を解任して革命指導評議会議長に就任し、ナギーブ派を追放して権力を掌握しました。

 1961年の5・16革命に際しては、朴正煕と金鍾泌は、1952年のエジプト革命後、ナセルがナギーブを追い落として実権を掌握する過程についても詳細に分析したうえで、その先例に倣い、当初は陸軍参謀総長の張都暎を国家再建最高会議の議長として推戴し、実権を握る朴正煕は副議長に就任したうえで、後に、張を失脚させて朴が議長に就任するという手順を踏んでいます。

 ところで、エジプトの革命政権は、イスラエルの軍事的脅威に対抗するため、西側諸国から最新兵器を購入しようとしたものの、米英仏の3ヶ国は、中東への武器供与を制限する三国宣言を理由にこれを拒絶。このため、ナセルはソ連に接近し、1955年10月、チェコスロヴァキア経由での通商協定という名目で、綿花(エジプトの主力輸出品)とのバーター取引を成功させ、大量のソ連製兵器を獲得しました。

 ところが、アラブの盟主を自認するエジプトがソ連に接近することで、他のアラブ諸国もこれに追随するのではないかとの懸念を抱いた米国は、これに強く反発し、アスワン・ハイ・ダム建設への資金援助の約束を突如撤回。英国と世界銀行も同様の声明を発します。
 
 追い詰められたナセルは、1956年7月26日、年間1億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイ・ダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言。管理会社である国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結しました。

 これに対して、スエズ運河会社の株主だった英仏は激怒し、イスラエルと同調してスエズ侵攻作戦を行いましたが(第二次中東戦争)、米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、12月2日には作戦中止に追い込まれました。

 これにより、ナセルの権威はアラブ諸国のみならず、アジアアフリカの新興独立諸国の間でゆるぎないものとなります。朴正煕ら5・16革命の指導部がナセルとその革命を模範としたのも、こうした時代背景があったことは見逃せません。

 しかし、第二次中東戦争では英仏を支援しなかった米国も、ナセルの民族主義政権がソ連に接近することは許さず、アスワン・ハイ・ダム建設のための資金援助は凍結されたままでした。そこで、エジプトは1958年以降、ソ連から資金と技術の援助を受け、1960年からダム建設を着工します。

 こうした事情があったため、朴正煕としては、民族主義者としてのナセルとその革命に共感し、彼に範をとりつつも、米国の同盟国であり、なにより、反共を国是として北朝鮮と対峙している以上、 “親ソ派”と認定されているナセル政権への支持を表立って表明できないというジレンマに陥りました。

 ところで、アスワン・ハイ・ダムが完成すると、アブシンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡が水没することが懸念されたため、ダム建設を決定したエジプト大統領ナセル自身がユネスコに要請し、1960年から、ヌビア遺跡救済の国際キャンペーンが展開されます。

 当初、遺跡の救済キャンペーンに対しては、スエズ運河国有化に対する反発やアスワン・ハイ・ダム建設へのソ連の支援などもあって、西側世界では支持を得ることが難しいとみられていましたが、フランス文化大臣のアンドレ・マルローの尽力もあって、世界50ヵ国から総事業費の半額に当たる約4000万ドルの募金が集まり、1964年から1968年にかけて、アブシンベル神殿は約60メートル上方、ナイル川から210メートル離れた丘に移築されました。

 そこで、朴正煕は、“ヌビア遺跡保護”に賛同するという建前で、アスワン・ハイ・ダム建設の意義を肯定的に評価し、そこから間接的にナセルの革命を高く評価し、自分たちもナセルに学ぶべき点は学ぶべきとのロジックを展開します。

 じっさい、1963年10月15日の大統領選挙に先立ち、朴正煕の著作として公刊された『国家、民族、私』において、朴は「われわれも『漢江の奇跡』をなしとげうるのである。(中略)『経済至上』、『建設優先』。『労働至高』(中略)ナセル革命がアスワン・ダムをその象徴とするように,わが5・ 16革命はその象徴として蔚山工業センターと第一次5ヵ年計画があげられる」と述べ、ナセルのエジプトが自分たちの“革命”のモデル(の一つ)であることを明言しています。

 今回ご紹介の切手は、こうした政治的文脈にそって、大統領選挙の投票日から2週間前の10月1日に発行されたもので、そこには、5・16革命以来の諸改革がナセルの革命に勝るとも劣らない実績を挙げつつあるというイメージを国民に想起させ、朴正煕(とその革命路線)への支持を誘導しようという意図を背後に読み取ることができます。

 この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 コモロで大統領暗殺未遂事件
2020-05-24 Sun 00:43
 シーラカンスの島国として知られるアフリカのコモロ連合(以下、コモロ)の検察は、22日(現地時間)、今年4月にアザリ大統領の搭乗機に爆弾を仕掛け、暗殺を計画した容疑で20人を逮捕したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コモロ・中国との国交30年(アザリと胡錦涛)

 これは、2005年にコモロが発行した“中国との外交関係樹立30年”の記念切手のうち、今回の事件で殺害されかかったアザリ・アスマニ大統領と、中国の胡錦涛主席が握手する2003年の写真が取り上げられています。

 地理概念としてのコモロ諸島は、グランドコモロ(現地語名:ンジャジャ)島、アンジュアン(現地語名:ンズワニ)島、モヘリ(現地語名:ムワリ)島、マヨット(現地語名:マオレ)島で構成されていますが、このうち、国家としてのコモロは、フランスの海外領土となっているマヨット島を除く3島で構成されています。(ただし、コモロ政府はマヨット島の領有権も主張していますが) 

 コモロ諸島全体をみると、アンジュアン島は単一の王朝による統一支配が行われていたのに対して、グランドコモロ島は小規模な王国の分立する状況が続きました。また、マヨット島とモヘリ島は、アンジュアン島のスルターン(ムスリムの地方君主)の支配が及ぶこともあれば、マダガスカルの属領となることもありました。

 19世紀に入り、英仏がインド洋に進出するようになると、長年にわたり海賊の被害に悩まされ続けてきたマヨット島の島民はフランスの庇護を得ることを希望。これに対して、当時の同島の宗主国であったマダガスカルのメリナ王国は、“辺境”の治安維持には無関心であったため、1843年、マヨット島をフランスに売却しました。

 さらに、1886年、グランドコモロ島を統治していたスルターン、サイード・アリー・ビン・サイード・ウマルはフランスと保護条約を締結。同年、アンジュアン島とモヘリ島もフランスの保護下に入り、コモロ諸島全域がフランスの支配下に入りました。なお、コモロ諸島は、当初、“マヨット島およびその属領”とされていましたが、1896年、マダガスカルがフランスの植民地となると、“仏領マダガスカル”に編入されます。

 第二次大戦後の1958年、マダガスカルがフランス共同体の自治共和国になると、コモロ諸島はマダガスカルから分離され、“仏領コモロ諸島”となり、1974年の住民投票を経て、1975年7月6日、マヨット島を除く3島が“コモロ共和国”として独立します。

 ところで、1974年に行われた独立の是非を問う住民投票では、マヨット島を除く3島では独立賛成の票が95%を占めましたが、マヨット島では64%がフランス領への残留を希望したため、旧仏領コモロ諸島は二分されました。

 この投票結果について、新生コモロ国家やアフリカ諸国は不正があったとしてフランスを批難したため、1976年、再度、マヨット島での住民投票が行われますが、今度は99%以上がフランスへの残留を希望するとの結果が発表されます。ただし、コモロ政府は、現在なお、フランスによるマヨット島領有を批難し、同党は自国領であると主張し続けています。

 その背景には、旧仏領コモロ諸島の首府は、当初、マヨット島のザウジに置かれていたにもかかわらず、1962年にグランドコモロ島のモロニに遷移。このため、マヨット島の住民は、独立後のコモロ共和国において、モロニを有するグランドコモロ島の風下に置かれることを嫌って、フランス残留を選択したという事情があります。

 はたして、マヨット島が参加しなかったコモロ共和国ではグランドコモロ島のプレゼンスが突出することになり、他の2島は、実質的にその属領として扱われ、2島の不満は次第に募っていきました。

 こうした事情もあって、独立後のコモロ共和国の政情は常に不安定で、独立から1ヶ月もたたない1975年8月3日には、アンジュアン島出身の大統領アーメド・アブダラに対して、グランドコモロ島出身のアリ・ソイリが、フランスの傭兵、ボブ・ディナールの部隊を使ってクーデターを起こし、アブダラを追放します。

 ソイリは、独立以前の1970年、毛沢東主義の影響を受けたコモロ人民民主連合を結成。クーデター後の1976年1月、革命評議会の議長に、1977年には選挙を経て大統領に就任し、中国の文化大革命の劣化コピーともいうべき政策を展開します。すなわち、選挙権獲得年齢を14歳にまで引き下げたうえで、紅衛兵をモデルに、10代の青少年を中心とした政治警察のモアシーを組織し、長老を中心とした伝統的な村落コミュニティの秩序を否定。結婚式や葬儀は極端に簡素化することを要求され、“自給自足”のスローガンの下、急進的な社会主義政策が強行されました。

 当然のことながら、コモロ社会は大混乱に陥り、旧宗主国のフランスはマヨット島をインド洋の拠点として確保していたこともあって、コモロ国家を完全に見捨て、経済援助も停止しました。もともと、さしたる産業もなく、フランスからの援助に大きく依存していたコモロ経済は壊滅的な打撃を受け、一般市民の不満は鬱積。わずか2年半の間に4回のクーデター未遂事件が発生し、ソイリ政権はそれを強権で抑え込むという状況が繰り返されます。

 こうした情勢を見て、パリに亡命していた前大統領のアブダラは、自分を追い落としたクーデターの実行部隊であったボブ・ディナールを雇い、1978年5月13日、ソイリを殺害。ソイリの死後、アブダラは大統領として復権し、ソイリ時代の“文革もどき”の政策・制度は一掃され、とりあえず、独立時の状態にリセットされました。

 復権したアブダラは、社会不安の要因となっていた地域間対立を解消すべく、新憲法を採択し、各島に自治権を与えて連邦制を導入するとともに、国名を“コモロ・イスラム連邦共和国”に変更。90%を超える国民がムスリムであるということを踏まえ、イスラムを国家統合の核に据えて地域宥和をめざしたものの、現実の問題として、グランドコモロ島が他の二島を圧倒するという状況は基本的に改められなかったため、社会の根本的な不安定要因は解消されず、依然としてクーデター未遂が頻発するなど、混乱が続いきます。これに対して、アブドラは強権をもって臨み、そのことがますます、“反主流派”の国民の政府に対する不満を増幅させるという悪循環を招いていました。

 1989年、ディナール率いる大統領警護隊(傭兵部隊)がアブダラを殺害すると、旧宗主国のフランスは軍事的な圧力をかけ、ディナールと傭兵らを国外へ追放。翌1990年には大統領選挙が行われて最高裁判所長官のモハメド・ジョハルが大統領に就任します。ジョハル政権は1992年に新憲法を採択して複数政党制を導入したものの、やはり権力基盤は脆弱でクーデター未遂が頻発。こうした情勢を見たディナールが1995年に傭兵隊を率いて再び侵攻し、ジョハルを拘束して権力を掌握します。これに対して、フランスは即座に軍事介入し、ディナールの傭兵隊を降伏させ、ジョハルを大統領に復帰させました。ところが、復帰直後にジョハルが療養のためレユニオンに出かけると、その隙をついて別のクーデターが発生し、ジョハルを追放して暫定政権を樹立してしまいます。

 この暫定政権の下、1996年には大統領選挙が行われ、モハメド・タキが選挙で勝利して大統領に就任します。

 しかし、もともと産業が乏しかったコモロは、クーデターが頻発して政権が安定しなかったこともあり、翌1997年、ついに連邦の国家財政が破綻。これにより、公務員の給与未払の状態が続いたため、アンジュアン島ではグランドコモロ島への不満が爆発し、抗議行動が頻発すると、同年3月、タキ政権はデモ隊鎮圧のため、アンジュアン島へ軍隊を派遣し、デモ隊の国民に死傷者が発生したため、アンジュアン島はコモロからの分離と仏領への復帰を要求し、モヘリ島もこれに続きました。(ただし、フランスは両島のフランスへの復帰を拒否しています)

 これに対して、連邦政府は独立運動を武力で抑え込もうとしたものの失敗。怒ったタキは全閣僚を解任して独裁を進めるという荒業に打って出ましたが、1998年に急死。その後は、タジディンが大統領代理に就任したものの、翌1999年4月にはクーデターが発生し、グランコモロ島出身のアザリ・アスマニ大佐(現大統領)が国家元首に相当する国家発展軍参謀総長(同年5月7日以降はコモロ・イスラム連邦共和国国家元首)に就任して政権を掌握しました。

 混乱の中、2001年、アフリカ統一機構(現アフリカ連合)の調停により、停戦合意として“フォンボニ協定”が調印され、新憲法を採択して国号は“コモロ連合”に変更され、3島にそれぞれ自治政府と大統領を置き、連合政府の大統領は4年ごとの輪番制とするとの妥協が成立。これを受けて、2002年4月、新憲法下で実施された大統領選でアザリが大統領に当選しました。

 大統領jに就任したアザリは、軍事力を背景にアンジュアン、モヘリ両島の分離運動を抑え込み、とりあえず、両島との和解を達成した態で、任期満了とともに2006年に退陣します。

 その後、2016年2月の大統領選挙では、輪番制でグランドコモロ島から大統領が選出されることから、アザリはこれに出馬して当選。当選後の2018年7月、大統領の再選を可能とする憲法改正を行いましたが、同年10月にはこれに反発する暴動も発生。2019年3月の大統領選挙でも再選を果たしました。

 しかし、上述のような歴史的経緯から、グランコモロ島出身のアザリの政権が長期化することに対しては、アンジュアン、モヘリ両島の不満も強いうえ、グランコモロ島内にも“民主化”を求める野党勢力があり、今回の暗殺未遂事件もその延長線上で発生したものとみられています。


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 世界亀の日
2020-05-23 Sat 01:56
 きょう(23日)は“世界亀の日”です。というわけで、亀の切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・亀(1952年・500ウォン青)

 これは、朝鮮戦争中の1953年4月3日、韓国が発行した500ウォンの普通切手で、慶州・武烈王陵の亀趺(石碑を立てるための亀型の台座)が描かれています。

 中国の伝説では、龍の子として生まれた贔屓は、背に甲羅を持ち、亀に似た姿をしていますが、亀と違って、頭に角があります。重いものを好んで背負うとされていることから、石柱や石碑の土台の装飾に用いられ、古い時代には“贔屓趺”が盛んにつくられました。ちなみに、「贔屓の引き倒し」は、柱の土台にある贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来しています。

 ところで、厳密にいうと、贔屓と亀は別のものなのですが、角のある贔屓は想像上の動物で誰もその姿を見たことがないため、次第に、角のないだけで姿がよく似た亀と混同され、次第に、贔屓趺ならぬ亀趺が作られるようになります。さらに、中国では、亀は万年の寿齢を保つ霊獣とされてきたことから、亀の背にある人物の業績を記した碑を載せることで、その碑が永遠に残ることを念じる意味合いが付与されたことで、いつしか、贔屓趺にかわり亀趺が定着することになりました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた切手には、もともと武烈王(在位654-61)の事績を記した碑が立てられていましたが、石碑の本体は現存していません。武烈王は新羅第29代の王で、660年、唐と連合して百済を滅ぼし、翌661年、やはり唐との連合により高句麗と戦うべく軍を北上させている途中で陣没した人物です。新羅による三国統一の基礎を築いたとして太宗の廟号を贈られ、現在の行政区域でいう慶尚北道慶州市西岳洞の王陵に葬られました。“滅共統一”を掲げて北朝鮮と戦っていた李承晩としては、自らも武烈王にあやかろうとしたのかもしれません。なお、武烈王陵の亀趺は甲羅の上の龍の彫刻が見事なことから、韓国の国宝第25号にも指定されています。

 ところで、1952年9月20日、韓国では、戦時インフレに対応して書状の基本料金が300ウォンから1000ウォンに、葉書料金が200ウォンから500ウォンに値上げされ、これに対応して、今回ご紹介の切手と同じデザインで赤色の500ウォン切手が発行されました。

 その一方で、韓国逓信部は、前年(1951)末の公告で、朝鮮戦争開戦以前に発行された切手・葉書類は、1952年以降は無効とすると発表していましたが、1952年の料金改定の際にも、新料金に対応した新たな葉書を調整する余裕はなく、米軍政下の1946年に日本の印刷局が製造した“解放葉書”の在庫を使用せざるを得ないのが現実でした。

 そこで、1952年12月25日、とりあえず、無効となった解放葉書の用紙をそのまま活用し、葉書の印面を“滅共統一”の文字で抹消するとともに、500ウォン切手と同じ亀趺のデザインで、紺色の500ウォンの印面を加刷した葉書が発行されます。さらに、翌1953年4月2日には、あらためて今回ご紹介の切手を発行し、解放葉書の印面に貼り付けたうえで郵便局の窓口から発行することになりました。

 なお、この切手を貼った葉書が世に出る前の2月15日には、韓国では戦時インフレ対策として、大統領緊急命令第13号が告示され、旧100ウォンを1ファン(圜)する(対ドル交換レートは旧ウォンからそのままスライドして、1ドル=60ファン)通貨改革が行われています。これにより、同月17日から25日までの9日間で新旧通貨の交換が行われ、1兆134億8300万ウォン相当の旧ウォン紙幣実物の回収と1070億5200万ウォン相当の支払指示により、合計1兆1205億3500万ウォンが市中から改修され、新通貨として76億5200万ファンの流通が開始されました。

 これに伴い、葉書の料金も旧500ウォンから5ファンに変更されましたが、旧ウォン表示の切手は旧100ウォンを1ファンに読みかえて使用が継続され、今回ご紹介の切手も、5ファン切手と読み替えて使われています。

 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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