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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アドワの戦い125年
2021-03-01 Mon 02:36
 1896年3月1日、エチオピア軍がイタリア軍に大勝し、第一次エチオピア戦争におけるエチオピアの勝利と独立の確保を決定づけた“アドワの戦い”から、ちょうど125年になりました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エチオピア・アドワの戦い75年

 これは、いまから50年前の1971年にエチオピアが発行した“アドワでの勝利75周年”の記念切手です。エチオピア軍がイタリア軍を圧倒する戦闘場面を描いたものですが、おもちゃの兵隊を描いた絵本のような絵柄が良い感じで、個人的に気に入っている1枚です。

 さて、1889年、エチオピアはイタリアとウチャリ条約を結び、イタリアによるエリトリアの保護領化を承認。その後、イタリアはエチオピア本土への侵攻を企図し、1893年以降、エチオピア北部、エリトリアとの国境に位置するティグレ州への攻撃を繰り返しました。

 これが第一次エチオピア戦争です。

 エチオピア軍が常備軍制度ではなく、長期にわたって軍を動員し続けることがられないことから、イタリア軍の指揮官であったオレステ・バラティエリは長期の持久戦に持ち込む戦術を取りました。しかし、イタリア本国の首相、フランチェスコ・クリスピは、アフリカ人相手の戦いにイタリア軍が“苦戦”していると誤解し、バラティエリに決戦を命じます。

 本国からの圧力に屈したバラティエリは、結局、2月29日の夜、エチオピア軍主力の駐屯していたティグレ州アドワへの進軍を開始。しかし、1万4527名のイタリア軍(と若干のエリトリア兵)が複雑な地形に手間取っているのを察知したエチオピア軍は、指揮官、ラス・マコネンの下、全面攻撃を開始。夜が明けると、エチオピア皇帝メネリク2世と皇后タイトゥの軍も戦闘に参加し、総勢12万以上のエチオピア軍は、アドワ北方でイタリア軍に壊滅的な打撃を与えました。ちなみに、イタリア軍は9500人から1万2000人が戦死・負傷し、エチオピア側も死者・負傷者合わせて1万名前後の損害を出しています。

 アドワの戦いで惨敗を喫したことで、イタリア国内では責任論が浮上し、3月10日、クリスピ政権は退陣に追い込まれました。その後、後継のアントニオ・ルディニ政権はエチオピアを外交団を派遣。メネリク2世との間でアディスアベバ条約が締結され、1896年10月23日、第一次エチオピア戦争はエチオピアの勝利で終結しました。以後、1936年のイタリアによるエチオピア併合まで、アフリカ諸国の中で例外的に独立を維持することになります。 

 * おかげさまで、オンラインで開催しておりました第12回テーマティク切手展は、28日24:00をもって無事、公開を終了いたしました。ご出品者の皆様、閲覧していただいた皆様、開催の労を取っていただきました皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。2022年に開催予定の第13回展覧会は、通常通り、東京・目白の切手の博物館での開催を予定しておりますので、引き続き、よろしくお願いいたします。


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 サウジ皇太子は記者殺害を承認していた
2021-02-28 Sun 01:59
 米国の情報機関を統括する国家情報長官室は、26日(現地時間)、2018年に起きたサウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏殺害事件について、サウジのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子(以下、MBS)がカショギ氏の「拘束もしくは殺害する作戦を承認した」とする報告書を公表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジ・MBS(2017)

 これは、2017年8月23日にはサウジアラビアが発行したMBSの肖像切手です。

 MBSは、1985年8月31日、初代サウジアラビア国王イブン・サウードが最も寵愛したスデイリ家出身のハッサ妃との間に生まれた7人の男子、“スデイリー・セブン”の1人であったサルマーン王子(現国王)の子として生まれました。

 2009年12月15日、当時、リヤード州知事だった父の特別顧問として政界入り。2011年に伯父で国防大臣(兼任)の地位にあったスルターン皇太子が亡くなり、父親のサルマーンが後継の国防大臣に就任すると、MBSはその私的顧問に就任。さらに、翌2012年、ナーイフ皇太子が亡くなり、サルマーンが皇太子になると、2013年3月2日、MBSは皇太子府長官・同特別顧問に就任。さらに、翌2014年4月25日には国務大臣に就任しました。

 2015年1月23日、第6代国王のアブドゥッラーが崩御し、サルマーンが第7代国王として即位し、首相を兼任すると、MBSは国防大臣、王宮府長官、国王特別顧問に任命されます。

 1935年生まれのサルマーンは即位の時点で79歳の高齢で、体調不良(実は認知症だと言われています)のため、当初から後継者問題が深刻な状況にありましたが、とりあえず、2015年4月には甥のナーエフ王子を皇太子に指名。ただし、これは将来的にMBSに王位を継承させるための暫定的なものとみられていました。

 一方、MBSは父の即位後、健康に問題を抱える国王に代わって実権を握り、イエメンの内戦に介入。また、ロシアや中国にも接近し、アジアインフラ投資銀行(中国主導で設立された国際金融機関)に加盟したり、中国との合同軍事演習を行ったりするなど、特に、中国との連携を強化していきました。

 なお、中国が現在行っているウイグル人弾圧は、ムスリムに対する人権侵害としては先例のない大規模なものですが、“イスラムの盟主”を(勝手に)自称しているサウジがこの件に関して中国を強く非難し、経済制裁を呼びかけたりしたことはありません。もっとも、自国民の人権にさえ無頓着なサウジが、ムスリムとはいえ、“外国人”の人権に関心を持つはずがないといってしまえばそれまでですが。

 さらに、サウジは、2015年12月にはシーア派を除くイスラム関係の34カ国で対テロ連合イスラム軍事同盟を発足させるなど、“きな臭い動き”も見せています。

 こうしたMBSの“独断”に対する反発(特にイエメン内戦への介入に対する王族内の不満)から「(MBSが)サウジアラビアを政治的にも経済的にも軍事的にも破局に導いている」と彼を非難する怪文書が出回ることもありました。言論統制が非常に厳しいサウジで、このような怪文書が出回ることは極めて異例の出来事です。

 しかし、それでもMBSの暴走は止まらず、翌2016年1月にはサウジ国内のシーア派指導者ニムル師を処刑し、シーア派のイランを露骨に挑発しました。

 当時、米国のオバマ政権は前年(2015年)に締結したイラン核合意などを受けてイランに対する融和政策をとっていました。MBSは、関係国との根回しなどもろくに行わず、独断と思い付きでそれをひっくり返すようなことをやったわけです。

 一方、イランでは群衆がサウジ大使館を襲撃する事件が起こり、両国の国交が断絶する事態にまで発展しました。さすがにこの時は米国もMBSの“暴走”を懸念し、ケリー国務長官(当時)がムハンマドにイランとの関係を修復するよう電話するという一幕がありました。

 ところで、この頃のMBSの立場は副皇太子であり、皇太子ではありません。皇太子の地位にあったのは、前述の通り、サルマーン国王の甥(ムハンマドのいとこ)のナーエフ王子です。

 しかし、ナーエフ王子は、2017年6月、サルマーン国王の勅命という形で皇太子をはじめとするすべての職務から解任されてしまいました。理由は「薬物中毒」です。

 実はナーエフ王子は自身がテロの標的にされるほどテロ対策に熱心に取り組んでいたので、米国からも評価が高く、「サウジで最も親米派(=米国と価値観を共有できる人物)」だと期待されていました。実際に2009年にはアラビア半島のアルカーイダによる自爆テロを受けて負傷した経験もあります。それ以来、痛み止めなどの薬を服用していたところ、いきなり「薬物中毒」にされてしまったわけです。

 この一件で、ナーエフを追い落としたMBSは、いよいよ皇太子に昇格します。すると同年11月には、反汚職委員会というグループを率いて“汚職”を理由に国家警備相のムトイブ王子ら王子11人を含む複数の閣僚経験者の逮捕に乗り出しました。

 “汚職”と言っても、サウジでは王族内でコンセンサスをとりながら国家を運営しますから、政治的実力者の中には、絶対に汚職に関わっていないと言い切れる人物はいません。汚職が理由の逮捕だと、政府の要職にいる王族ならほぼ誰でも捕まえられることになります。

 したがって、これはMBSが反汚職キャンペーンの名の下に自分のライバルや反対勢力を政権中枢から追放したに過ぎず、反汚職キャンペーンで政敵を次々に追い落としていった習近平と五十歩百歩というわけです。

 2018年に殺害されたカショギ氏は、実はこうしたMBSの不正を追及しており、そのことが、事件につながったとみられています。

 今回公表された報告書では、MBSが意思決定権を握っていたことなどを踏まえ、「カショギ氏をトルコのイスタンブールで拘束、もしくは殺害する計画をムハンマド皇太子が承認したと認識している」とし、「ムハンマド皇太子は2017年以降、サウジの情報機関を完全に掌握していた。こうした状況下は、ムハンマド皇太子の承認なくしてサウジ当局者がこのような活動を実施できる可能性は極めて低い」としています。

 また、カショギ暗殺事件直前の2018年8月には、サウジ政府に批判的な複数の人権活動家がサウジアラビアで拘束されたことに対し、カナダ政府が抗議するという出来事がありました。

 サウジ政府はこれを「露骨な内政干渉だ」と非難し、サウジ駐在のカナダ大使を追放し、サウジアラビアからトロントへの航空便を停止。さらには、カナダへの投資や貿易を凍結させるという、札束で相手を引っぱたくような真似をします。

 このように、サウジが好き勝手なことをやってこられた背景には、やはり、「中東・アラブ世界における最大の親米国家」という評判と、それによる米国の意向があったからなのですが、さすがに、トランプ政権も末期になると、米国もサウジのあまりの出鱈目ぶりに苛立ち始めます。

 特に、2020年3月末にOPECの生産調整が期限切れになると、ただでさえ、世界的な新型コロナウイルス禍で石油の需要が落ち込んでいた中で、サウジがマーケットでのシェア争いを仕掛けて石油の大増産に踏み切ったことで、原油価格は大暴落し、燃料業界は全世界的に大打撃を受けましたが、特に、米国内では、トランプの支持基盤である燃料業界、特にシェール産業は悲惨な状況になりました。

 当然のことながら、トランプ政権は大激怒し、2020年5月、(イランに対する防衛を意識して)サウジに配備している地対空ミサイルシステム「パトリオット」を撤収すると言い出しました。「いい加減、サウジの面倒は見切れない。今後は、サウジも安全保障を自分で勝手にやればいいじゃないか。もう今までのように甘やかさないよ」というわけです。

 こうしたサウジ離れの動きは、バイデン政権が発足すればさらに加速するものとみられていました。今回、トランプ政権下で非公表とされていたカショギ事件の報告書が公表され、MBS本人に対する制裁措置こと見送られたものの、情報機関の副長官を務めたアフメド・アル・アシリと、殺害事件の実行犯とされる警備隊のラピッド・インターベンション・フォース(RIF)に対する制裁が発動されたのも、そうした流れの一環とみることができます。

 ちなみに、3月10日付でワニブックスから刊行予定の拙著『世界はいつでも不安定 国際ニュースの正しい読み方』では、サウジ国家の抱える構造的な欠陥や、バイデン政権の対サウジ政策の見通しなどについて、詳しくまとめております。すでに、アマゾンなどネット書店では予約も始まっておりますので、刊行の暁には、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 中国、台湾産パイナップルを輸入禁止に
2021-02-27 Sat 03:14
 中国の税関当局は、きのう(26日)、害虫が複数回確認されたとして、台湾産パイナップルの輸入を3月1日から禁止すると発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾・パイナップル(2016)

 これは、2016年8月17日に台湾が発行した普通切手のうち、パイナップルの“台農十七號”を描く34元切手です。

 台農十七號は台湾で最も生産されているパイナップルの品種で、“金鑚”の商品名で販売されています。

 一般的なパイナップルは未熟なうちに収穫されますが、台農十七號は、水や肥料を極力与えず、樹上で完熟させてから収穫するため、酸味も少なく、芯の部分まで柔らかく甘いのが特徴です。

 さて、台農十七號を中心とする台湾産のパイナップルは3月が収穫最盛期で、3月下旬から本格的に市場に出回り始めます。昨年の生産量は約43万トンで、そのうち、1割強の約4万5000トンが輸出され、その95%以上が中国向けでした。

 今回、中国側が、本格的な収穫時期を迎えるタイミングにあわせて3月1日から禁輸措置を発動する背景には、バイデン政権の成立後も米国が台湾と連携して対中強硬政策を維持しているなかで、台湾の蔡英文政権に圧力をかけようとの意図があることは明らかです。このため、台湾の与党、民主進歩党の報道官は「農産品を利用した政治的威嚇」だと批判し、中国が対立するオーストラリアからの食肉輸入を停止したのと同じ手口だと指摘。また、農業大臣に相当する陳吉仲農業委員会主任委員も「国際貿易の規範に反する行為」と反発しています。ちなみに、中国側は禁輸措置の理由として、「害虫が複数確認された」ことを挙げていますが、昨年の中国向けパイナップルの検疫合格率は99%超でした。

 なお、中国側の禁輸措置に対して、台湾側は日本などへの輸出を拡大することで対応する模様です。これまでにも、数は少ないながらも、台農十七號は5月から6月にかけて日本にも入荷していましたので、今年は輸入量を増やして、台湾の農家を応援したいですね。


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 ”秘密警察の父”の像は再建されるか
2021-02-26 Fri 02:36
 モスクワで、きのう(25日)から、旧KGB(現在の連邦保安局)本部前のルビャンカ広場の銅像として、ソ連秘密警察の創設者、フェリックス・エドムーンドヴィチ・ジェルジンスキーの銅像を再建するか、中世ロシアの英雄アレクサンドル・ネフスキー大公像を新たに建てるかを問うオンライン住民投票が始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ジェルジンスキー没後25年

 これは、1951年にソ連が発行したジェルジンスキー没後25周年の記念切手です。
 
 ジェルジンスキーは、1877年9月11日、ロシア支配下のミンスクで、ポーランド系ロシア人貴族の家庭に生まれました。

 幼少期はイエズス会の修道士になることを望んでいましたが、ヴィリナ(現ヴィリニュス)のギムナジヤでマルクス主義を知って傾倒し、1895年、生涯を革命に捧げることを決意し、ロシア労働者同盟に参加。1897年に労働運動を指導したとして逮捕され、シベリアに流されましたが、翌1898年、シベリアから脱出してリトアニア社会民主党の創設に参加します。さらに、翌1899年12月、同党とポーランドの社会民主党の合流を指導し、ポーランド・リトアニア社会民主党を結成しました。また、1900年にはドイツでローザ・ルクセンブルクと面会するなど、各国の共産主義運動の連携に尽力しました。

 その後、婚約者のスイス人女性が結核に罹ったため、一旦政治活動から離れたものの、1904年に彼女が亡くなると、1905年7月には革命運動に復帰。ワルシャワ近郊で党大会を招集した直後に秘密警察に逮捕され、シベリア流刑となりましたが、ほどなく釈放されて地下活動に従事していましたが、1911年頃に拘束され、1917年の二月革命でロマノフ王制が崩壊するまで政治刑務所に収監されていました。

 釈放後のジェルジンスキーの去就をめぐっては、ポーランド系革命家の大物として、ポーランドへの帰還と独立運動への参加を求める声も強かったのですが、レーニン率いるボリシェヴィキとともにロシアを中核にした一大革命政府の樹立を目指してロシア残留を選択。ロシア社会民主労働党に入党し、ボルシェヴィキ派中央委員に選出されました。

 1917年10月10日の党中央委員会では、軍事革命委員会を組織して武装蜂起を行い、臨時政府を武力で打倒する暴力革命路線に賛同し、レーニンから軍事革命委員に指名され、支配地域の治安維持を一手に引き受けることになります。そして、11月7日の十月革命では、保安部隊を率いて革命軍の参謀本部が置かれたスモーリヌイ修道院を警護しました。

 十月革命後、国内で反対派のゼネストやデモが活発化したことに加え、列強諸国による干渉出兵が始まると、レーニンは反革命派の監視・摘発のため、軍事委員のジェルジンスキーに“断固たる対処”を命令。これを受けて、1917年12月20日、ジェルジンスキーは“反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)”を創設し、反体派の摘発を開始します。

 チェーカーの権限は徐々に強化され、最終的には令状無しでの捜査と略式裁判での処刑が認められるようになったため、ジェルジンスキーは「我々(=チェーカー)は組織化された恐怖でなければならない」、「赤色テロは反革命主義者の“根絶”を目的に行われる」などと主張として、部下に対して、反対派の徹底的な粛清を厳命。市中では“反革命”と見なされた人々が街灯に吊るされ、各地の収容所では数万人の“政治犯(とされた人々)”が強制労働に従事させられました。特に、聖職者や資本家、自由主義者に対する弾圧は苛烈で、チェーカーは彼らを容赦なく街頭で射殺しました。

 革命後の内戦が終結すると、チェーカーは“内務人民委員部附属国家政治局(GPU)”として治安維持のための常設機関に改組され、ジェルジンスキーはその初代長官に就任。さらに、諜報・警察活動のかたわら、交通人民委員(交通大臣)、最高国民経済会議議長(財務大臣)など、政府の要職を歴任しましたが、1926年7月20日、中央委員会の席上、2時間にもわたって、トロツキーおよびカーメネフ批判の演説を終えた直後、心臓発作により急死しました。

 ジェルジンスキーの死後、スターリンは彼を“信心深き労働者の騎士”と賞賛するとともに、プロレタリアート独裁の象徴として神格化を進め、モスクワ中心部のKGB前のルビャンカ広場が“ジェルジンスキー広場”と改称されたほか、ソ連やポーランド(ジェルジンスキーの出身国)の各地には、彼の名を讃える都市や工場、建設物が多数作られました。

 なお、冷戦崩壊後の1989年11月、ワルシャワではジェルジンスキーの銅像が市民により引き倒されたほか、1991年8月にソ連の守旧派によるクーデターが失敗に終わるとKGB本部前に建てられていた銅像もモスクワ市民によって引き倒されました。

 今回の住民投票の結果によっては、その跡地に以前と同じような像が再建されることになるわけですが、ソ連時代に建てられた多数のジェルジンスキー像は、レーニン像同様、現在なお(特に地方都市では)ソ連時代のまま街中に立ち続けているケースも少なくありませんので、ロシア人の感覚からすると、それほど大騒ぎするようなことではないのかもしれません。ただし、昨今のロシアといえば、プーチン政権の汚職を追及してきた政治活動家のアレクセイ・ナワリヌイ氏の拘束・収監が国際的にも問題視されていますからねぇ。なんとなく、きな臭い印象を持ってしまうのは僕だけではないはずです。


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 沖縄切手モノ語り⑦ 
2021-02-25 Thu 01:13
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第778号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回はこの切手について取り上げました。(画像はクリックで拡大されます。)

       沖縄・天女航空18円

 これは、1951年10月1日に発行された“天女航空”の18円切手です。
 
 1951年2月1日、米施政権下の沖縄では航空郵便の制度と料金が改訂され、それまで、5000キロ未満(書状8円、葉書4円)、5000~1万キロ未満(書状12円、葉書7円)、1万キロ以上(書状16円、葉書9円)の距離別となっていた料金区分が、“日本本土宛”(書状13円、葉書7円)、5000キロ未満(書状18円、葉書9円)に、5000キロ以上(書状30円、葉書15円)に再編されました。

 この新料金に対応する切手として、当時の沖縄美術界の重鎮、山田真山の原画による飛天を描いた航空切手3種(13円、18円、30円。同図案の色違い)が、料金改定から8ヶ月後の1951年10月1日に発行されました。

 山田真山は、1885年、沖縄県那覇市壺屋で、士族で漢学者の渡嘉敷兼礼の五男として生まれ、兼慎と名づけられました。幼少時に父が病没したため貧困の少年時代を過ごし、石垣島や西表島などを転々として生活していましたが、空き缶で作った船の出来栄えに感心した大工の親方に見込まれて養子となり、東京で大工としての修業をはじめます。

 しかし、修行中、柱にカンナをかけていた際、柱の節が人の顔に見えてきたため、思わずその顔を彫りこんでしまったことから、養家を放逐されてしまいます。その後、絵はがき店で画工として働き、牛乳配達をしながら資金を貯め、20歳の時に、東京美術学校に入学し、彫刻家・山田泰雲(高村光雲の弟子)およびその師の光雲に塑像を学び、後に、泰雲に見込まれて養子となって“山田真山”と名乗りました。

 美術学校卒業後の1906年、清国・北京の美術学校の教師となりましたが、翌1907年に帰国して東京美術学校に戻り、小堀鞆音に日本画を学び、1914年には文展に入選します。なお、師の小堀は、切手にも取り上げられた東京・明治記念聖徳絵画館の壁画「東京御著輦」で有名ですが、その縁で、真山も、1928年、同館に壁画「琉球藩設置の図」を奉納して一躍、脚光を浴びました。

 1940年、故郷の沖縄に戻り、1945年には沖縄戦を体験して2人の息子を失った後は宜野湾市普天間に居を構えていましたが、同地にあった米軍向けの日刊紙「デイリー・オキナワン」の依頼で挿絵を担当するようになります。当初、真山は米軍からの依頼に対して、「画家は気分で筆をとるのだから、できない」と断ったものの、米軍からの重ねての命令と生活のため、米軍から画材の提供を受けて、肖像画や沖縄の風景画などを描いています。

 さて、沖縄にも羽衣伝説があり、山田はその伝説に取材した天女を描いた作品も残していますが、今回の航空切手に取り上げられた飛天は、インド風の装束で供物を捧げ持ち、須弥山と思しき山の上空を舞っているところから、純粋に仏教に登場する飛天を取り上げたものとみるべきではないかと思います。

 諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する飛天(天人・天女)のルーツは、インド神話に登場する女の水精アプサラスであるといわれています。もともと、アプサラスとは“水のなかで動くもの、雲の海のあいだを行くもの”を意味していましたが、仏教を通じて中国へと伝わり、天女、天人、飛天と漢訳されるにつれ水の属性は薄れ、空の属性が強調されていきました。

 オリエントの天使・天神とは異なり翼を持たず、東アジアの飛天は天衣をまとった女性像として描かれることが多いのですが、仏教の教義として女性に限定されているわけではありません。じっさい、今回ご紹介の切手に描かれている飛天は、天衣を片肌脱ぎにして乳首の周辺を含む右胸を露出しており、乳房のふくらみもないことから、男性もしくは中世的な存在として認識されていることがわかります。

 したがって、収集家の間では一般に“天女航空”と呼ばれているこの切手についても、その呼称の再検討が必要かもしれませんね。


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 メキシコ・国旗の日
2021-02-24 Wed 02:52
 きょう(24日)は、いまから200年前の1821年2月24日、メキシコ独立革命の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデ(後のメキシコ皇帝)が「イグアラ綱領」を発表し、革命軍司令官のビセンテ・ゲレロ(後の大統領)がメキシコ国旗に忠誠を誓ったことを記念して、メキシコでは”国旗の日”とされています。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・3つの保証軍旗(2010)

 これは、2010年9月16日にメキシコが発行した“メキシコ独立200年”の記念切手のうち、現在のメキシコ国旗の原点ともいうべき“3つの保証軍”の旗を取り上げた1枚です。

 1519年にスペイン人のエルナン・コルテスら征服者がアステカ帝国を滅して以来、スペインは“ヌエバ・エスパーニャ”として、現在のメキシコ国家の領域を含む広範な地域を300年にわたり支配していましたが、18世紀後半には米国独立戦争フランス革命ナポレオン戦争に影響され、クリオーリョ(現地生まれの白人)たちの間に独立の気運が高揚。1809-10年、キトラパスサンティアゴ・デ・チレカラカスボゴタブエノスアイレスなど南米各地でスペインからの独立戦争が始まると、1810年9月15日には、メキシコでもミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン支配打倒を叫ぶメキシコ独立革命が勃発しました。

 独立戦争終盤の1821年2月24日、革命の指導者であったアグスティン・デ・イトゥルビデは、独立のための3原則(3つの保証)として、①独立後のメキシコが立憲君主国となること、②カトリックを国教とすること、③スペイン出身者とクリオーリョが政治的・社会的に平等の権利を有すること、の3原則を定めたイグアラ綱領を公布。その理念を実現するための“3つの保証軍”が組織されます。

 その軍旗は、3原則の理念として、「宗教、独立、統一」を示す(左から)白・緑・赤の斜線にそれぞれ星を配したうえで、中央に楕円スペースを設け、その中に立憲君主制を示す王冠と王冠の上に「宗教、独立、統一」の文字を配したデザインとなっていました。そして、1821年8月24日、イトゥルビデとスペイン副王フアン・オドノフがベラクルス州コルドバで講和条約に調印することで、スペインがメキシコの独立を承認すると、この軍旗から中央の楕円の部分を取り、斜線と星のみに組み替えたものが、正式なメキシコ国旗となりました。

 1822年5月19日、イトゥルビデを皇帝とするメキシコ第一帝政が発足すると、三色の配列を変えて、(左から)緑・白・赤の縦縞で、中央に国章の鷲を配した新国旗が制定されました。なお、この鷲は、現在のメキシコ・シティの前身であるティチティトラン(アステカ帝国の都)が、戦争と太陽の神“ウィツィロポチトリ”の預言者の「朝日に翼を広げる一頭の鷲がサボテンに止まり、蛇をむさぼり食うのを見る土地を汝らの安住の地にすべし」との託宣に基づいて建設されたとの伝説にちなむものです。

 その後、メキシコ国旗のデザインは何度かマイナーチェンジが行われましたが、緑・白・赤の三色旗に鷲という基本的な構図は継承され、1968年9月16日に制定された国旗が現在でも使われています。


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 天皇誕生日
2021-02-23 Tue 01:49
 きょう(23日)は天皇誕生日です。というわけで、今上陛下に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブータン・対日国交30年(国王訪日)

 これは、2016年にブータンが発行した“ブータン・日本外交関係樹立30年”の記念切手のうち、訪日したジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王ご夫妻とともに、皇太子時代の今上陛下が取り上げられています。

 日本とブータンの正式な外交関係の樹立は1986年のことですが、事実上の鎖国体制にあったブータンと日本との交流は、1957年には大阪府立大学助教授(当時)の中尾佐助が、お忍びで京都を訪れていた当時の王妃に直談判し、翌1958年、日本人として初めて入国を許されたことから始まります。

 ブータンの基幹産業は農業で、現在でも労働人口の約6割が地域自給自足型の農業に従事し、低地部ではコメ、国土の50%を超える山岳部では果樹などを栽培していますが、日本との交流が始まった1950-60年代は、鎖国政策の影響もあり、伝統的な農業がそのまま維持されており、収穫が非常に少ないものでした。

 そこで、1964年、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)は農業技術者として西岡京治を派遣。西岡は日本の農業技術をブータンに導入し、翌1965年には飛躍的な増産に成功。その後もブータン農業の改善に尽くし、1980年には当時のジグミ・シンゲ・ワンチュク国王から“ダショー(最高の人)”の称号を授与されました。その後、1984年には、日本による“食糧増産援助(2KR)”が始まっています。

 こうした前史を経て、1986年、両国の正式な外交関係が樹立され、友好関係が続いていますが、特に、ブータン王室は親日の気風が強く、1989年の昭和天皇崩御に際しては、ジグミ・シンゲ・ワンチュク国王が自ら大喪の礼に参列されただけでなく、ブータン国家として1ヶ月間の喪に服しています。

 また、2011年3月12日には、現在の国王陛下が前日に発生した東日本大震災の“供養祭”を執り行われ、18日には義援金100万ドルが日本に贈られました。その後、同年11月15日、ワンチュク現国王が結婚したばかりのジェツン・ペマ王妃とともに震災後初の国賓として来日された際、体調不良でご入院中の上皇陛下(当時は天皇陛下)に代わり、当時皇太子だった今上陛下が、ブータンからの義援金と国王自ら被災者のための法要を営まれたことへの謝意を国王に示されました。

 なお、今回ご紹介の切手は、国王訪日の際、皇居・宮殿東庭で行われた歓迎式典に際して、国王ご夫妻とともに、天皇の名代として参加された皇太子時代の今上陛下が儀仗隊の栄誉礼を受ける場面を撮影した写真が元になっています。


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 竹島の日
2021-02-22 Mon 01:12
 きょう(22日)は“竹島の日”です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・光復16年

 これは、1961年8月15日に韓国が発行した“光復節(解放記念日)”の記念切手で、朝鮮半島の地図を背景に、南北分断の鎖を断ち切る松明が描かれています。松明は3本の腕で掲げられており、中央の腕には“8・15”(光復節ならびに大韓民国政府樹立記念日)、左側の腕には“4・19”(李承晩打倒の4月革命の日)、右側の腕には“5・16”(朴正煕の軍事クーデターの日)の日付がそれぞれ記されているのですが、画面の右側、朝鮮半島の東の海上に鬱陵島と竹島と思しき点が二つあることに注目したいところです。(その部分を拡大した画像を知らに貼っておきます)

      韓国・光復16年(部分)

 1951年9月のサンフランシスコ講和条約調印時、日本漁船の活動可能領域は、SCAPIN第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって、北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内、すなわち“マッカーサー・ライン”の内側とされていました。

 1948年に発足した韓国政府は“大韓民国臨時政府”による対日宣戦布告を根拠として、“戦勝国”として講和条約に調印することを主張しましたが、国際社会からは全く相手にされませんでした。1945年以前の朝鮮半島は大日本帝国の正規の領土であり、大韓民国臨時政府は連合諸国から承認された存在ではなく、したがって、朝鮮人による抗日闘争はあったにせよ、韓国が国家として日本と戦った事実はないというのが国際社会の共通認識だったからです。

 このため、講和条約調印を受けて、同条約発効前の国交正常化交渉(第1次会談)が1952年2月に開始されることになると、その直前の1月18日、日本に対して優位に立とうとした李承晩政権は、突如「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を一方的に発し、国防と漁業資源の保全を理由として、韓国沖合の部分について、マッカーサー・ラインよりも日本寄りに“平和線”(日本側では“李承晩ライン”と呼ばれていました)を設定。これを領海として、水域内のすべての天然資源、水産物の利用権を主張します。この李承晩ラインの韓国側に竹島(韓国名“獨島”)が含まれていたことが、いわゆる竹島問題の発端です。

 当然のことながら、1905年の「内務大臣訓令」によって竹島を島根県隠岐島庁へ編入して以来、第二次大戦の終結まで一貫して竹島を領有していた日本側は、李承晩ラインの設定に猛反発。米国も韓国政府を非難しましたが、韓国側はその後も竹島の不法占拠を続け、李承晩ラインを侵犯したとして韓国側に拿捕される日本漁船が続出しました。

 ところで、1961年5月のクーデター(516革命)で政権を掌握する以前から、朴正煕は日本との国交正常化の必要性を痛感していました。それは、彼が最優先課題であると考えていた経済開発のためには外資が必要であり、そのためには、米国に次ぐ大口の出資者として日本を引き寄せなければならなかったためです。

 しかし、今回ご紹介の切手が発行された1961年8月は、クーデターそのものに対する国民世論の反発を抑え、まずは政権基盤を固めるためにも国民の融和と団結を強調する必要がありました。特に、日本の陸軍士官学校卒業という朴の経歴は、1960年までの李承晩政権が反日感情を煽ることでナショナリズムを強調してきたという経緯もあり、韓国国内では“(ネガティヴな意味での)親日派”としてとらえられ、日本との国交正常化のための日韓会談そのものへの反対論の一要因ともなっていました。

 そこで、朴正煕政権としては、今回の切手に関して、国民の団結により分断の解消を目指すという国家目標とあわせて、竹島と思しき点を“韓国地図”の一部として切手に書き込むことで、国民に対して「日本に対して安易な妥協はするつもりはない」との姿勢を示そうとしたものと考えられます。逆にいうと、切手の地図に“獨島(竹島の韓国名)”を示さなかった場合には国民の強い反発を招きかねないとの懸念があったのかもしれません。なお、1954年の竹島切手に関しては日本政府は韓国に抗議していますが、今回の切手について、韓国側に抗議した形跡はありません。

 さて、日本との国交正常化問題については、1961年11月、訪米の途上で朴正煕みずからが日本に立ち寄り、日本の首相・池田勇人と会談。以後、中央情報部長の金鐘泌を日本に派遣して秘密交渉を開始し、最大の懸案であった賠償問題については、韓国側の“請求権”に応じ、日本側が無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル等を支払うことで、1962年2月、大筋の合意に到達しました。

 一方、竹島問題に関しては、1965年1月、自民党の宇野宗佑議員が訪韓して韓国の丁一権国務総理と会談。その結果、①島については今後、双方が自国の領土と主張することにし、これに反論することに異議は提起しない、②韓国が占拠している現状は維持するが、警備隊員の増強や新しい施設の増築などはしない、③両国はこの合意を守る、として、竹島問題を事実上棚上げにするとの“密約”が成立。大統領の朴正熙がこれを自ら裁可し、日本側の佐藤栄作首相などに伝えられたとされています。

 ただし、こうした密約はあくまでも密約でしかありませんから、交渉に関わった当事者がいなくなれば、対立が再燃することは避けられず、廬武鉉政権以降、それが顕在化しているというのは周知のとおりです。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『日韓基本条約』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 大坂なおみ、全豪OPで2度目の優勝
2021-02-21 Sun 04:11
 テニスの全豪オープンは、きのう(20日)、女子シングルスの決勝があり、大坂なおみが6-4、6-3で米国のジェニファー・ブレイディを破り、2年ぶり2度目の優勝を果たしました。というわけで、テニス関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー領コンゴ・テニスコート

 これは、1923年にベルギー領コンゴで発行された官製絵葉書で、エリザベートヴィル(現ルブンバシ)にあったカタンガ高地鉱業組合のテニス風景が取り上げられています。ちなみに、当初は男子のみだった全豪オープンで女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門が創設されたのは、この葉書が発行される前年の1922年のことで、全豪オープンに出場した最初の女子選手たちも、この葉書とほぼ同じスタイルでプレーしていました。

 さて、絵葉書の題材となったカタンガは、現在のコンゴ民主共和国南端の地域で、南西でアンゴラと、南でザンビアと国境を接しており、東はタンザニーカ湖がタンザニアとの国境になっています。

 この地域の大半は標高1000メートルの高原地帯で、銅(1960年のコンゴ独立当時は世界生産量のの70%を産出していました)のほか、コバルトやウランなど豊富な地下資源が埋蔵されています。このため、1960年7月11日、旧宗主国ベルギーの支援を受けたモイーズ・チョンベが、レオポルドヴィル(現キンシャサ)の中央政府に反旗を翻し、カタンガ国の独立を宣言。熾烈な内戦の舞台となりました。

 その後、国連軍などの攻撃によってカタンガ国は1963年に崩壊し、カタンガ州としてコンゴ中央政府が確保。1971年には、モブツ政権下のザイール化政策によって、州名がスワヒリ語で“銅”を意味するシャバに改称されましたが、1997年に現在のコンゴ民主共和国が成立すると、カタンガの旧称に復しました。なお、2015年、カタンガの地は、タンガニーカ州、上ロマミ州、ルアラバ州、上カタンガ州の4つに分割されて現在にいたっています


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 五輪のロシア勢略称は“ROC”
2021-02-20 Sat 11:50
 国際オリンピック委員会(IOC)は、きのう(19日)、組織的なドーピングを行っていたとして、2022年12月までロシア選手団を主要国際大会から除外したスポーツ仲裁裁判所の裁定を受け、2021年8月に開催予定の東京五輪と2022年2月に開催予定の北京冬季五輪に個人として参加するロシア選手に関して、ユニフォームなどに記載する略称を、通常の“RUS”ではなく、“ROC(ロシア五輪委)”とすることを決定しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア・五輪委100年

 これは、2011年11月25日にロシアが発行した“ロシア五輪委員会100周年”の記念切手で、左上には、ロシア国旗と同じ白、青、赤の3色で炎を模したROCのエンブレムが入っています。

 ロシアがオリンピックに参加したのは、帝政時代の1900年に行われたパリ大会からですが、当初は、国内の五輪委組織はありませんでした。ロシアで国内五輪委がサンクトペテルブルクで結成されたのは、1912年のストックホルム大会を控えた1911年3月のことで、初代会長、ヴャチェスラフ・ スレズネフスキーの下、ロシア革命をはさんで1918年まで活動を継続しました。

 しかし、革命後のソヴィエト政府および1922年末に成立したソヴィエト連は国民の出国を厳しく制限したため、1920年のアントワープ大会以降、ソ連選手団は五輪に参加しませんでした。

 しかし、第二次大戦後の東西冷戦の中で、スターリンは国威発揚の手段としてのスポーツに改めて着目。この結果、ソ連はそれまでの政策を転換し、国際大会へも積極的に参加することになり、1951年4月、ソ連五輪委が国内五輪委として承認されてIOCに加盟。1952年のヘルシンキ大会には初めてソ連代表を派遣し、陸上競技女子円盤投のニーナ・ロマシェコワの金メダルを皮切りに、金22、銀30、銅19の計71個のメダルを獲得しました。これは、76個(=金40、銀19、銅17)の米国についで第2位の成績です。

 その後、夏季大会の金メダル獲得数ではメルボルン・ローマ・ミュンヘン・モスクワの各大会で1位を獲得。特に、自国開催にして、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を理由として西側諸国が参加をボイコットしたモスクワ大会では、全204個の約4割にあたる80個を獲得しています。1984年のロサンゼルス大会はその報復として不参加でしたが、1988年のソウル大会で復帰。ただし、同大会がソ連としては最後の大会参加になりました。

 1991年12月25日にソ連が崩壊すると、1992年冬のアルベールヴィル大会と夏のバルセロナ大会に関しては、当初、連邦崩壊後の各国が独自に代表を派遣することが検討されましたが、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国以外については、IOCによる各国の国内五輪委員会の承認が間に合わなかったため、旧ソ連諸国統一チームとして EUN(Équipe Unifiée)が結成され、各国の選手はEUNの一員として参加する形式が採られました。

 その後、バルセロナ大会終了直後の1992年8月13日に現在のロシア五輪委が発足。1994年冬のリレハンメル大会以降は、ロシアとしての代表派遣が復活しました。

 ロシアにおける組織的なドーピングの問題は、旧ソ連時代からさまざまな噂がありましたが、2016年のリオデジャネイロ大会を前に、..同年7月、世界反ドーピング機関(WADA)が、ロシアが4年間にわたって政府主導でドーピング違反を行っていた証拠が見つかったとする調査チームの報告書を発表。これを受けて、IOC理事3人からなる審査委員会が、国際競技団体が推薦する選手を確認し
たうえで、ロシア選手団389人のうち271人が同大会への出場を認められました。

 その後、リオ・パラリンピックでは、ロシアの国としての参加は認めないとしたうえで、出場資格を有し、かつIPCの反ドーピング規程に従うことを立証できる個人選手らは、“中立パラリンピック選手(Neutral Paralympic Athletes:NPA)” として、中立的なパラリンピック旗とパラリンピック賛歌の下、出場することが認められました。

 この方式は2018年冬の平昌大会でも継承され、以前のドーピング違反や薬物検査歴のないことが確認されたロシアの選手には、個人資格での参加を認めたうえで、ロシア国旗と国歌ではなく五輪旗と五輪賛歌を利用することとされ、ロシアの国章である双頭の鷲やロシアと特定されるあらゆるシンボルの使用が禁止され、ユニホームなどの“ロシア”の表記は“ロシアからの五輪選手”に変更して新たにIOCの承認を受けることとして、“ロシア”の文字だけを大きく表記することも禁止されました。

 今回のIOCの決定では、これが少し緩和され、ユニホームに“ロシア・オリンピック委員会”とフル表記することは禁じられたものの、“中立選手”との表示と併記することを条件に“(文字の大きさなどに制約はあるものの)ロシア”の文字を入れることや、今回ご紹介の切手にあるROCのエンブレムの使用が認められています。

 
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      テーマティク研究会ポスター2021

 2021年2月13-21日(土~日)

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。

 通常は東京・目白の切手の博物館を会場として開催しておりますが、ことしは、新型コロナウイルス感染防止の観点から、WEB上でコレクションを閲覧できる「オンライン切手展」となりました。ぜひ、こちらをクリックしてご覧ください。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

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