内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 50歳になりました。
2017-01-22 Sun 12:18
 私事ながら、本日(22日)をもって50歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかくの“ゴールデン・ジュビリー”(ジュビリーは25年に1度の記念日・祝祭のことで、ゴールデン・ジュビリーは50周年)ですから、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・ペニーポスト50年記念葉書

 これは、1890年に英国で発行された“1ペニー郵便50周年記念”の葉書です。

 英国では、ヴィクトリア女王の即位50周年にあたる1897年から新デザインの普通切手が発行されており、これらは“ジュビリー・イッシュー”と呼ばれています。しかし、ジュビリー・イッシューは、たまたま1987年から発行が開始されたというだけであって、それj体には、女王の即位50周年を寿ぐ意図はありませんでした。

 ところが、“ジュビリー・イッシュー”という名称が当初から定着したことで、1839年になると、翌1890年の郵便改革の“ゴールデン・ジュビリー”の記念事業を行うべきとの声が上がるようになり、1890年5月16日から19日までロンドンのギルドホールで、7月2日にサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)で記念の展覧会が開催されることになりました。

 今回ご紹介の葉書は、このうちのギルドホールでの展覧会に合わせて発行されたものです。1890年当時の英国の葉書料金は半ペニーでしたが、今回ご紹介の葉書は、通常の葉書にはない記念の文字やイラストなどが入っていることから、額面は1ペニーに設定されました。ちなみに、英国で切手を貼って私製はがきを差し出す場合の料金が官製葉書と同じになるのは1894年のことで、それまでは、私製はがきは書状料金と同額の1ペニーの切手を貼って差し出す必要がありました。このため、1894年の私製はがきについては、ポストカードと区別して“レターカード”ということもあります。

 また、この葉書の額面は1ペニーでしたが、会場での販売価格は、ローランド・ヒル記念基金への寄付金込みで1枚6ペンスでした。額面との差額が大きかったにもかかわらず、葉書は人気を博し、5月16日の午後10時には当初用意されていた1万枚は完売となり、2000枚が追加発行されています。

 なお、今回ご紹介の葉書の発行の名目となった1840年の英国の郵便改革については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 トランプ新大統領就任
2017-01-21 Sat 10:13
 昨年11月の米大統領選挙で当選したドナルド・トランプが、20日正午(日本時間21日午前2時)、首都ワシントンの連邦議会議事堂前での大統領就任式で宣誓し、第45代米国大統領に就任。新大統領は就任演説で、“米国第一”主義を宣言し、「我々は二つの簡単なルールに従う。米国製品を買い(バイ・アメリカン)、米国人を雇う」と述べました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・FDR就任記念カバー(アメリカ製品購入)

 これは、1933年3月4日、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(ルーズヴェルトとも。以下、FDR)の大統領(1期目)就任記念のカバーで、大恐慌からの脱却のための方策としてFDRが選挙中に掲げていた“バイ・アメリカン”のスローガンの書かれた封筒に切手を貼り、就任式当日のFDRゆかりのニューヨーク市庁舎別館局の消印が押されています。

 大恐慌の最中に成立したFDR政権は、世界的な保護貿易主義の高まりを反映して、はやくも1933年、バイ・アメリカン法(Buy American Act of 1933)を制定しました。これが、“バイ・アメリカン法”のルーツで、同法の規定そのものは現在も残っているほか、各州においても同様のバイ・アメリカン法が制定されています。

 その後、米国が1947年にGATT(貿易と関税に関する一般協定)および1995年にGATTの規定を事実上吸収したWTO協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定)の政府調達協定(GPA)の締約国になったため、協定締約国についてはバイ・アメリカン法の適用が免除されることになりました。逆に、中国、インド等の非加盟国・地域に対しては、現在でもバイ・アメリカン法の完全適用が可能になっています。また、国防省工兵隊など一部に除外規定があるほか、州政府レベルでWTO協定の対象となっているのはカリフォルニアなど37州にとどまっています。

 ちなみに、トランプ新大統領が何かと槍玉にあげているメキシコはGPAの加盟国ではありませんが、NAFTA(北米自由貿易協定)の加盟国として、同協定で加盟国は相互に国産品優先調達を廃止することが合意されていることをもって、バイ・アメリカン法から除外されてきました。

 トランプ新政権が強調する“バイ・アメリカン”ですが、じつは、オバマ前政権も2009年に景気対策として打ち出したことがあります。この時は、景気対策によって実施される公共工事の調達において、バイ・アメリカン法を適用し、米国製鉄鋼および製造品の使用を義務づけたもので、当初の法案では、GPAやNAFTAなどによる除外が考慮されておらず、保護主義的な側面が強かったために国際的な非難を浴び、諸協定で定められた対象諸国が適用を除外されるように修正されて議会を通過したという事情がありました。

 それにしても、あまりにも先鋭化した左派リベラルの跋扈に辟易とした善男善女の支持を集めて大統領に当選したトランプが、米国の左派リベラルの源流ともいうべきFDRの金看板(の一つ)を就任式で強調するというのも(しかも、2人とも、ニューヨークの出身!)、なんだか歴史の皮肉を感じさせますな。もっとも、左派リベラルが反国家と直結しがちなどこかの国と違って、保守であれ、リベラルであれ、国益が第一という大原則は変わらないのだと言われれば、それまでなのですが…。


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 きょうからJTPC展です
2017-01-20 Fri 10:29
 きょう(20日)から、東京・目白の切手の博物館で第8回テーマティク出品者の会(JTPC:Japan Thematic Philatelists Club)の切手展がスタートします。今回は、地図の歴史を題材とした作品を御出品の西海隆夫さんの御尽力で、きょう・あす(20・21日)の2日間、下のデザインのような小型印が使用されます。(画像はクリックで拡大されます)

      テーマティク出品者の会小型印(2017)

 小型印のデザインの元になっているのは、17世紀のオランダを代表する地図出版家ホンディウスの後継者、ヤン・ヤンソンによる日本地図「日本、蝦夷地、および隣接する島々の新詳細図」です。デザインの都合上、“蝦夷地”の部分が印影の中には入っていないのですが、この地図は、1643年のマルチン・ゲルリッツエン・フリースによる日本北方の探検航海の成果を踏まえ、北海道と千島列島の一部を記載した最初期のものとして知られています。

 ちなみに、日本列島を取り上げた西洋の古地図の切手としては、こんなモノがあります。

      輸入博名古屋

 これは、1985年4月5日に発行された“輸入博名古屋”の記念切手で、アブラハム・オルテリウス による世界地図帳『世界の舞台』(原題はTheatrum Orbis Terrarum)」の1595年版に掲載された日本列島の古地図が取り上げられています。

 1970年代に発生した2度のオイルショックとそれに伴う原料価格の高騰は日本の製造業にも大きな打撃を与えましたが、日本企業は徹底した合理化と品質改善でそれを乗り切り、その結果として、高品質・低価格の日本製品は世界市場を席捲するようになりました。しかし、集中豪雨的とも呼ばれた日本製品の輸出により、各国の製造業は大きな打撃を受け、1980年代以降、日本と各国との貿易摩擦が深刻な外交問題となりました。

 特に、米国では、日本車の輸出攻勢により自動車産業が壊滅的な打撃を被っていたのに対して、アメリカの代表的な輸出品である農産物に関しては、国内農家保護のための日本の輸入制限措置により牛肉などの畜産物やオレンジ、米などがほとんど日本市場に出回らないのは不公平であるとの不満 が高まり、対日感情が悪化していきました。

 このため、米国をはじめ各国との貿易摩擦解消の必要に迫られた日本政府は、さまざまなかたちで輸入促進キャンペーンを展開しましたが、その一環として、1985年3月21日から4月14日の日程で、「広げよう世界交易の輪」のテーマの下、名古屋市国際展示場で“輸入博名古屋(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ’85)”が開催されました。ちなみに、主催者のワールド・インポート・フェア・ナゴヤ’85実行委員会は、開催の趣旨を「世界各国の製品を展示、取引の促進を図り、円滑な経済関係の増進に寄与するとともに各国の技術、文化、生活などを広く紹介し、国際交流の推進を図ること」と説明しています。

 会場は、①カルチャーゾーン(テーマ館および国際友好館で構成)、②トレードゾーン(世界産品の展示)、③バザールゾーン(展示即売会と世界の街並みで構成)、④イベントゾーン(各種イベントの実施)の4区画で構成され、「広げよう世界交易の輪」をテーマに世界40ヵ国が参加しました。

 輸入博名古屋の開催に際しては、国策としての輸入促進に携わる通商産業省(以下、通産省)の申請により、会期中の4月5日に記念切手が発行されました。4月5日という日付は、会期初日ではありませんが、これは、通産省からの書類提出が前年度の特殊切手発行計画の申請締め切りに間に合わなかったため、年度をまたいで4月発行としただけで、特に重要なイベントなどがあったわけではありません。なお、原画作者は大谷文人で発行枚数は2500万枚でした。

 切手に取り上げられた古地図はアブラハム・オルテリウス による世界地図帳『世界の舞台』(原題はTheatrum Orbis Terrarum)」の1595年版に掲載されたもので、オリジナルはイエズス会士でスペイン王室の地図製作者だったポルトガル人、ルイス・テイセラが制作しました。

 ただし、テイセラ本人は日本を訪れたことがなく、この地図は、1579年に来日したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノが持ち出し、天正遣欧少年使節がヨーロッパにもたらした日本人作成の日本地図(奈良時代の僧・行基が作成したとされる日本最初の日本全図“行基図”の写しと思われる)をもとに作成されています。

 テイセラのオリジナルの地図では、Vacasa(若狭)、Sacay(堺)、Tonsa(土佐)などの地名も書き込まれていますが、切手の図案化に際しては、それらは省略されています。また、オリジナルの地図では日本を示す“IAPONIA”の表示は、音節ごとに区切られて本州部分に小さく記されているのみですが、切手では、各地の地名を省略していることもあって、中央に大きく表示されています。

 なお、テイセラの地図が切手の題材として選ばれたのは、会場内のテーマ館ではさまざまな世界地図の展示が行われましたが、そのメインの展示物がこの地図であったためです。
 
 さて、JTPCは、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き8回目の開催で、会場では古地図を図案としたフレーム切手等も販売します。会期は22日までで、僕も、昨年のニューヨーク展に出品した作品 A History of Hong Kong を出品しております。また、最終日(22日)の午後3時頃からは展示作品の解説も行う予定です。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。


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 ガオの仏海兵隊基地
2017-01-19 Thu 10:24
 マリ北部・ガオの軍事キャンプで、きのう(18日)、爆発物を積んだ自動車による自爆テロがあり、これまでに少なくとも42人が亡くなり、100人以上が負傷しました。実行犯の5人は全員死亡しており、アルカイダ系の流れをくむイスラム過激派組織“アル・ムラビトゥーン”が犯行声明を出しています。というわけで、亡くなられた方々の御冥福と負傷された方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガオ・フランス海兵隊基地

 これは、1960年4月16日、マリ連邦時代のガオに置かれていたフランス海兵隊基地から差し出された軍事郵便で、“海兵隊第20大隊/ガオ/郵便担当”の青紫色の印も押されています。すでに、前年の1959年にマリ連邦は結成されていましたが、消印は仏領スーダン時代のものがそのまま使用されています。

 さて、マリ北部、ニジェール川沿いのガオは、西暦7世紀前後に建設された都市カウカウがそのルーツで、トンブクトゥジェンネとともにサハラ交易で繁栄。ソンガイ帝国の首都として、15世紀には7万人の人口と1000隻の舟を擁していましたが、1591年にモロッコの侵略を受けて破壊され、衰退しました。

 1880年、現在のマリに相当する地域は“オート・セネガル植民地”としてフランス植民地政府の支配下に置かれ、1890年には仏領スーダンが発足します。首都は、当初はカイに、1899年以降はバマコに置かれましたが、この両都市はいずれも仏領スーダン内では南西部に偏っていたため、北部の交通網の拠点として、フランス当局はガオに注目。港湾施設が整備されるとともに、都市のインフラ整備がすすめられました。 

 ちなみに、フランスの海兵隊(Troupes de Marine)は、1622年にリシュリューにより創設され、当初は艦上勤務を専門とする通常の海兵隊でした。その後、植民地警備が主任務となり、1900年には陸軍に移管され、事実上の陸軍部隊として植民地の防衛・警備を担当するようになりましたが、“海兵隊”の名称はそのまま維持されました。内陸部のガオに“海兵隊”の基地がおかれていたのもそうした事情によるものです。

 今回のテロ事件のあった軍事キャンプは、このフランス海兵隊の基地を継承したもので、2015年にバマコのマリ政府と北部の武装勢力との間で和平合意が成立した後、政府軍の兵士と、軍と協力する武装勢力のメンバーらが駐屯していました。

 なお、マリとその歴史については、拙著『マリ近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 岩のドームの郵便学(47)
2017-01-18 Wed 10:58
  『本のメルマガ』631号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1986年のアンマン合意について取りあげました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・フセイン国王50歳

 これは、1986年にヨルダンが発行した国王50歳誕生日の記念切手で、国王の肖像とともに岩のドームが取り上げられています。

 1983年末のエジプトとPLOの和解を受けて、1984年1月、ヨルダンのフセイン国王は議会を再開し、パレスチナ人の有力者である(イスラエル占領下の)ヨルダン川西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって、パレスチナ問題解決への積極姿勢を示します。これを受けて、2月にはアラファトがフセイン国王と会談しました。

 ヨルダンとPLOの関係は、1970年9月、PLO内でファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するため、欧米系航空会社の旅客機5機をハイジャックし、うち3機をヨルダンのドーソン基地に強制着陸させ、爆破・炎上させた“ブラック・セプテンバー事件”を機に断絶していました。

 PLO内で反主流派の突き上げにあっていたアラファトは、ヨルダンとの関係修復という功績により、PLO内の権力基盤を維持しようとしたのでえす。

 一方、パレスチナからの難民を多数自国内に抱えるヨルダンとしては、PLOが自国の体制に脅威を与えない穏健組織となったうえで、自らがパレスチナ和平に向けてのイニシアティヴを握ることが外交上、重要な課題となっていました。

 かくして、アラファトとの会談後、フセイン国王は、1984年3月頃より米国の中東政策への批判を強め、ソ連を含む国際会議の開催を提唱するようになります。

 こうした国王の動きを受けて、当事者であるPLO内部では4月下旬にアラファト派と中間派が和解し、9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することなどを定めた“アデン合意”が成立します。ただし、反アラファト派はアデン合意に強く反発し、かえって、アラファト派と反アラファト派の反目は強まりました。

 その後、7月にはソ連が中東和平提案を発表して国連の下での国際会議開催を提唱。9月にはイスラエルで対パレスチナ強硬派のイツハク・シャミール政権に代わり、穏健派のシモン・ペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立したほか、ヨルダンとエジプトが外交関係を再開しています。

 こうして、全体に宥和ムードが漂う中、1984年10月、ヨルダンの首都アンマンで第17回PNCが開催されました。

 議場では、フセイン国王が中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示したほか、アラファトも自らの指導体制の再確立を図るとともに、エジプトおよびヨルダンとの関係強化の方針を強調。しかし、PLO反アラファト派は、そもそも、このときのPNCを正規の開催とは認めず、議会を欠席。あらためて、PLO内部の亀裂の深さをうかがわせました。

 その後、PLOアラファト派とヨルダンは“共同行動”の可能性について協議を重ね、翌1986年2月11日、両者の間でいわゆる“アンマン合意”が成立します。

 その骨子は、①国連決議第242号(1967年の第3次中東戦争の戦後処理として、イスラエルに占領地から撤退することを求める一方で、アラブ側にはイスラエルの生存権を認め、イスラエルと共存することを求めている)を履行すること、②安保理常任理事国およびヨルダン、PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること、③ヨルダン川西岸地区でヨルダンとパレスチナの連合政府をつくる、の3点です。

 アンマン合意を受けて、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクは、2月25日、米国がヨルダン=パレスチナ合同代表団との対話を開始する→合同代表団とイスラエル代表団との対話を行う→国際会議を開催するという、プロセスを示した“ムバーラク提案”を発表しました。

 当時の米国は、PLOを“テロリスト”と認定し、公式にはPLOとの交渉は拒否していましたから、3月12日、ムバーラクは米大統領のロナルド・レーガンと会談し、米国にPLOを含む合同代表団との対話を開始することの必要性を説いています。もちろん、この時の会談のみで米国がPLOのテロリスト認定を解除したわけではありませんが、4月13日には米国務次官補のロバート・マーフィーが中東諸国を歴訪して、和平プロセスの新たな進展を模索するなど、パレスチナ和平には何らかの進展がみられるかと期待されました。

 今回ご紹介の切手は、こうした情勢を反映して、1985年11月の国王50歳誕生日にあわせて発行されたもので、国王の肖像とともに、1967年までヨルダンの統治下にあった岩のドームをとりあげ、アンマン合意以降、ヨルダンがパレスチナ和平の進展に向けて主導的な役割を果たしていることをアピールしています。

 ところが、肝心のPLO内部では、反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めず、調整は難航。結局、アンマン合意から1年後の1986年2月、フセイン国王は合意を白紙撤回し、和平工作の中断を宣言せざるを得ませんでした。

 これにより、ヨルダンとPLOとの関係を完全に断絶したわけではなかったものの、アンマンに開設されたPLOの連絡事務所は閉鎖され、国王は、連合政府構想を撤回したうえで、①西岸地区のパレスチナ人の経済的福祉についてはヨルダンが責任を負う、②ヨルダン政府が実施する5ヵ年計画は西岸地区に対しても適用される、③ヨルダン国会におけるパレスチナ人の議席割り当てを増やす、方針を明らかにします。

 以後、フセイン国王は、イスラエルが存在しているという現実を踏まえたうえで、ヨルダン=パレスチナ=イスラエル3者による統治機構を作り、それによって、西岸地区をPLOから“独立”させ、部分的にせよ、西岸地区に対するヨルダンの主権を回復することを施行するようになりました。

 その後も、PLOはアンマン合意の継続を模索したものの、最終的に、反アラファト派の強硬論に引きずられるかたちで、1987年、アンマン合意を破棄。このように、イスラエルとの共存(=イスラエルの生存権承認)という点で、組織としての意思統一に失敗したPLOに対しては、西岸地区のパレスチナ人の間にも失望の声が大きく、そのことが、やがて、第1次インティファーダの導火線になっていくのです。


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 キルギスで貨物機墜落
2017-01-17 Tue 09:49
 中央アジア・キルギスの首都ビシュケクのマナス国際空港近くで、きのう(16日)、香港を出発し、ビシュケク経由でイスタンブルに向かう途中だったトルコの航空貨物会社ACT航空の貨物機が住宅地に墜落。この事故で、43棟が損壊し、この記事を書いている時点で、住民と乗員5人を合わせて約40人が亡くなりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・マナス国際空港(1982)

 これは、旧ソ連時代の1984年に発行された切手つき封筒で、マナス国際空港が描かれています。
 
 もともと、ビシュケクの国際空港としては、首都南郊の旧フルンゼ空港がありましたが。これに代わる新空港として市街地の北西に建設されたのがマナス国際空港です。同空港は、1974年10月、当時のソ連首相アレクセイ・コスイギンを乗せた1番機が着陸して運用が開始され、1975年5月4日にはアエロフロートのモスクワ便が定期就航しています。

 マナスという空港名は、キルギスに伝わる英雄叙事詩の『マナス(マナスエポス)』に由来するものです。

 『マナス』はキルギスの伝説の王マナスと父のジャキルハーン、息子のセメティ、孫のセイテクを中心に、キルギスの民が団結し、カルマク(モンゴル系のオイラート)やクタイ(キタイとも。中国、契丹とみられている)等の敵と戦って勝利する物語や騎馬民族の文化、中央アジアの自然などを歌い上げた壮大な叙事詩で、19世紀に文書化されるまで、長らく口承によって伝えられてきました。その分量は50万行以上にも及び、世界で最も長い詩とされています。

 ロシア帝国の時代、西トルキスタンは1867年に設置されたトルキスタン総督府の支配下に置かれており、現在のキルギス国家の領域は、北部はセミレチエ州、南部はフェルガナ州の一部となりました。

 トルキスタン総督府の支配下で、セミレチエ州はロシア人農民の入植地となっていましたが、第一次大戦後中の1916年、戦時動員に対する反発から中央アジア全域で大規模な反乱が発生すると、セミレチエ州では、キルギス人とロシア人の間で大規模な衝突が発生し、流血の惨事が発生します。

 さらに、1917年のロシア革命後、旧トルキスタン総督領ではトルキスタン自治政府が成立しましたが、自治政府は赤軍の攻撃により崩壊。1918年2月、ソヴィエト共和国としてトルキスタン自治共和国が成立し、モスクワから派遣されたトルキスタン委員会の指導下に置かれました。

 1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、中央アジアでは民族別の領域区分が導入されることになり、1924年、民族・共和国境界画定が行われます。これにより、キルギス人の居住地域は、ロシア共和国に帰属するカラ・キルギス自治州とされました。カラ・キルギス自治州は、1925年にはキルギス自治州に改称され、1926年にキルギス社会主義自治共和国となります。その後、1936年、自治共和国は、ソ連邦の構成共和国として、キルギス・ソヴィエト社会主義共和国に昇格しました。

 スターリン体制の下では、“民族主義”は厳しく弾圧されていましたが、キルギスの『マナス』は(非ロシア人の)敵との戦いを強調する内容から、戦意高揚の役割を担うものとして、例外的に高い評価を受けていました。さらに、1960年代以降、中ソ対立が激しくなると、中国と思しきカタイ(キタイ)を打倒したマナス(王)の名を冠した施設が首都フルンゼ(現ビシュケク)に複数つくられます。今回ご紹介のマテリアルのマナス国際空港も、そのひとつです。

 なお、1991年のソ連崩壊によるキルギス独立当初、マナス国際空港は利用者が激減し寂れていましたが、2001年12月、国連の承認に基づきアフガニスタンにおける対テロ戦争支援の拠点としてマナス米空軍基地が設置され、米軍部隊が駐留するようになりました。

 今回の事故原因は現在調査中ですが、キルギスのアブルガジエフ副首相は国営テレビに対し、「予備段階の情報によれば、飛行機の墜落はパイロットのミスによるもの」だと説明しているそうです。亡くなられた方の御冥福をお祈りするとともに、住宅損壊の被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。


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 アタリの番号は45と51
2017-01-16 Mon 10:24
 “平成29年お年玉付年賀はがき”の抽選会が、きのう(15日)、愛知県・名古屋市のJPタワー名古屋で行われ、年賀小型シートの当選番号は45と51に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2017)

 これは、きょう(16日)から引換が始まった今年(2017年)の年賀小型シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月後半の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、例年は年賀小型シートは郷土玩具を描いた年賀切手と同じものを収めたものでしたが、今回は、通常のシート切手とは別に、オリジナルデザインの“おんどり”の82円切手と“めんどり”の52円切手を1枚ずつ収めた構成となりました。ちなみに、平成29年用の年賀切手のうち、葉書用の52円切手の題材には、“倉敷はりこ”の酉が取り上げられています。そのくじ付き切手が貼られた年賀状の1枚にもアタリの51がありましたので、ご参考までに、シート交付時の手続きとして、丸に“交”の表示をしたうえで、消印を押した状態の画像を貼っておきます。

      年賀切手(2017・交付済)

 ちなみに、今回のシートの切手について、日本郵便のプレスリリースでは以下のように説明しています。

 2017(平成29)年の干支である酉(にわとり)を題材にし、年間を通してご利用いただけるデザインとしました。シート全体を絵本のようなポップなタッチでまとめ、切手部分に、愛嬌あるニワトリのつがいを描いています。
 背景は、金色・銀色を使用した色鮮やかなデザインとし、花模様等の穴を空ける特殊加工も施しています。

 郷土玩具のデザインの切手が“年間を通して”は使いづらいかどうかはともかく、東欧の切手を思わせるようなデザインは、日本では今までにない試みで個人的には面白いと思います。また、プレスリリースにある“花模様等の穴を空ける特殊加工”については、シートの裏側から見るとわかりやすいので、その画像も貼っておきましょう。

      年賀小型シート(2017・裏)

  なお、お年玉の小型シートの歴史や、年賀切手と切手に取り上げられた郷土玩具については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、この機会に、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、小林照幸さん、重山優さん、正田幸弘さん、田元良樹さん、松尾謙一さん、山内和彦さん(50音順)から頂戴した6通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。
  

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 PETAの故地 ボゴール
2017-01-15 Sun 17:28
 東南アジアとオーストラリア4カ国を歴訪中の安倍首相は、きょう(15日)、3カ国目となるインドネシアに到着し、ボゴールでジョコ大統領と会談するそうです。というわけで、ボゴールゆかりの切手のなかから、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インドネシア・PETA(1998)

 これは、1998年にインドネシアがPETA(Tentara Pembela Tanah Air:郷土防衛義勇軍。以下、ペタ)を題材に発行した寄附金つき切手です。

 日蘭開戦と前後して、日本軍は、オランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)の住民に向けて「日本は東亜の人々を白人の植民地支配から解放するために南進を始めた。次は蘭印へ進攻するから住民は協力せよ」との放送を行うなどのプロパガンダ工作を実施。ジャワ島占領後は、バンドンを拠点にムスリム工作を担当した第16軍治部隊参謀部別班(通称・ジャワ回教別班)が、オランダ統治下ではないがしろにされていたムスリム住民との連携を重視し、モスクの法学者に対しては一般公務員と同等の待遇とするなどの施策を行って、現地のムスリム住民から評価されていたほか、今回の安倍首相の訪問先であるボゴールには、ジャワ全島17州から優秀な青少年を集めて、ジャワ回教青年隊も組織されました。

 しかし、日本占領下の東南アジアの他の地域では、英印軍のインド人捕虜を中心にしたインド国民軍、アウン・サンらビルマの民族主義者らによるビルマ独立義勇軍が組織されたのに対して、ジャワでは、日本の軍政当局がインドネシアの民族独立を確約せず、1943年5月に設置された兵補の制度も、あくまでも現地住民は日本軍の補助兵力として扱っているだけでしたので、独立したインドネシア民族軍の創設を期待していた住民の間には少なからず不満もありました。

 その後、戦況が日本軍に不利になっていく中で、日本軍の兵力不足を補う必要が生じたこともあり、現地の民族主義運動およびイスラム指導者の建白書を容れるという形式をとって、1943年10月3日、ジャワ郷土防衛軍=ペタの設立が正式に決定されます。

 ペタの中心となったのは、ジャカルタ近郊のタンゲランでインドネシア人青年にゲリラ戦や情報戦の技術を教育していた“青年道場(インドネシア特殊要員養成隊)”の隊員で、これに、ジャワ回教青年隊の隊員が加わり、ボゴールに設立された幹部養成学校(義勇軍錬成隊)での各種訓練が実施されました。

 このボゴールの幹部養成学校を卒業した青年たちは、それぞれの故郷で、約500名規模のペタの大団を結成。ペタの兵士には日本軍の指揮下で、日本軍の歩兵操典をもとに厳しい訓練が行われ、その規模は、1945年8月の終戦時には、66大団、約3万6000人の規模にまで拡大しました。

 インドネシア独立宣言から2日後の1945年8月19日、敗戦国となった日本軍は、連合国の指示により、ペタを解散しますが、各地の元ペタ将兵らは組織と装備を維持しつつ、インドネシア国軍に参加。専門の軍事教育を受けた職業軍人として、オランダとの独立戦争で重要な役割を演じることになります。

 ちなみに、日本占領時代のペタから巣だって、独立戦争時のインドネシア国軍を指揮したスディルマン将軍の生涯は、インドネシアでは、両国の友好親善と防衛協力交流のシンボルとされており、2011年に訪日したインドネシアのプルノモ国防相は、ジョグジャカルタの歴史博物館にあるのと同じ将軍像を日本に寄贈。その像は東京・市ヶ谷の防衛省敷地内に建立されています。

 今回、安倍首相とジョコ大統領の会談の地として、ペタに所縁のボゴールが選ばれたのも、上述のような歴史的背景を踏まえてのことと思われます。

 なお、日本占領時代の蘭印については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろ書いておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 尖閣諸島開拓の日
2017-01-14 Sat 15:18
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・尖閣(2012)

 これは、2012年にギニアビサウが発行した“尖閣諸島の風景”の切手で、左から、木白虹、尖閣諸島と五星紅旗(2種連刷)、アホウドリの切手の4種連刷構成となっています。

 さて、わが国は、1885年以降、沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)、1932年、4島は古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となりました。

 古賀家の私有地として、尖閣諸島では、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれることになりました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めました。しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県の一部となりました。

 これに対して、近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返しているほか、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態になっています。

 また、中国側は“釣魚島(尖閣諸島の中国側の呼称)”の領有権を主張するための対外的なプロパガンダ攻勢を強めており、今回ご紹介の切手も、そうした風潮に迎合した北欧系の切手エージェントが、輸出商品として、ギニアビサウ郵政の名前で制作・発行したものです。中央の2枚の五星紅旗と尖閣の島影だけでなく、左端の木白虹には学名の“Crossostephium chinense”も記載されています。木白虹は、わが国の鹿児島県、トカラ列島以南(尖閣諸島も含む)から台湾、フィリピン、中国南部の海岸の隆起珊瑚礁に分布しており、決して、中国に固有の植物ではないのですが、あえて、“中国”を意味する学名の入った植物を持ってくることで、尖閣諸島が中国の領土であるかのようなイメージを強調しているわけです。

 ギニアビサウに限らず、一部の途上国にとって、切手の発行は外貨獲得のための輸出ビジネスの一つとなっています。国内での郵便への使用を想定せず、輸出ビジネスの一環として発行される切手は、収集家の間では“いかがわしい切手”として忌避される傾向にありますが、そうした切手を発行する側からすれば、“いかがわしい切手”であろうがなかろうが、よりマーケットで人気を得られるようなもの、すなわち、より多くの売り上げが見込めるものこそが適切であるということになります。“いかがわしい切手”を発行する国(正確にはそうした切手に発行者としての名義を貸す国)や、そうした切手を企画するエージェントにとっては、どれほど立派な主義主張や思想信条、愛国心などを掲げてみても、“商品”としてその切手が売れないのであれば、全く意味がないわけです。

 したがって、ギニアビサウと切手エージェントが、“日本領・尖閣諸島”の切手ではなく、“中国領・釣魚島”の切手を制作・発行したのは、彼らにしてみれば、単純に、日中の切手マーケットの規模の大小を反映したものであり、悔しかったら、“日本領・尖閣諸島”の切手がドル箱商品になるような市場を用意しろということになるのでしょう。

 しかし、そうした“市場原理”は否定できないにせよ、こうした切手がギニアビサウ国家の名前で発行されたという事実について、2012年の切手発行当時、日本政府がギニアビサウ政府に対して抗議しなかったとすれば(実際には、外務省はしかるべきアクションを起こしているのかもしれませんが、報道ベースでは、そうした事実は一切確認できませんでした)、国際社会からは、日本は中国の(理不尽な)主張を黙認していると取られかねないわけで、そのことの方が深刻な問題だと僕は考えています。

 なお、領土と切手をめぐる関係、そして、そうした問題に対する日本政府の対応の拙さについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 シベリアでの赤化洗脳工作
2017-01-13 Fri 12:04
 きのう(12日)、外務省はあらたに外交文書24冊を一般公開しましたが、それにより、戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態がかなり具体的に明らかになりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・1948(赤化) シベリア抑留1948(赤化・裏)

 これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1948年2月15日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月11日にGHQの検閲を受け、静岡県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、漢字かな交じりに直しました)

 しばらくでした。皆様も元気のことと思います。私も至極元気で丸々と太って、毎日楽しくそして愉快に仕事をしております。
 そちらの様子は手紙によってはっきりわかっております。なぜそのようにつらいのか、苦しいのか、私はまた戦争はいかに悪いものかをはっきりと知りました。そして人間としての、正しい、生きがいのある本当に幸せな生きる道を知り、働く者の世の中でなければ、少しの人数の金持ちだけがうまいことをしている世の中では、働く者はいつまでたっても生活が楽にならず、幸せは絶対に来ないのです。この国の人は幸せな、そして私たちをこのように親切にしてくれます。では元気で頑張ってください。

 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書のように、占領日本の現状や資本主義体制を批判する内容の葉書などは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように国民に説明しているのか、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。

 一方、1947年後半以降、1949年8月11日に「引揚者の秩序保持に関する政令」(引揚者が船長や引揚援護局長の指示に従う義務を定め、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金を科すことが定められていました)が公布されるまでの間、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などでは、“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発。彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったとさていますが、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めることになります。

 さらに、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、下山・松川・三鷹の三大事件が発生し、共産党の関与が疑われていた時期でもあり、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、占領当局と日本政府は帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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