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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 南極行きチリ空軍輸送機が墜落
2019-12-15 Sun 00:18
 今月9日、南極キング・ジョージ島のエドゥアルド・フレイ・モンタルバ基地のテニエンテ空港に向けてプンタアレナスを離陸後、消息を絶っていたチリ空軍のC130輸送機について、チリの空軍幹部は、海上捜索の結果、搭乗者とみられる遺体や、機体の一部が見つかったと明らかにしました。というわけで、亡くなった方の御冥福をお祈りしつつ、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チリ・テニエンテ空港

 これは、今回、遭難した空軍輸送機の目的地だった南極のテニエンテ・ロドルフォ・マルシュ・マルティン空港(テニエンテ空港)を取り上げた1981年のチリ切手です。

 19世紀初頭、西洋人による南氷洋でのクジラ、アザラシ、ペンギンの狩猟が盛んになる中、1819年2月19日、英国人の探検家ウィリアム・スミスが、南極地域の最も北方に位置するサウス・シェトランド諸島(南緯61度00分-63度37分、西経53度83分―62度83分)を発見し、英領と宣言。同年10月16日、同諸島最大のキング・ジョージ島に上陸しました。

 さらに、1820年1月下旬、ロシア海軍のベリングスハウゼン、英海軍のエドワード・ブランスフィールド、米国人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーが数日間のうちに相次いで南極大陸を“発見”します。こうした中で、1818年にスペインから独立したチリ政府は、当初から南氷洋に関心を持っており、英領サウス・シェトランド島へのチリ国民の狩猟航海を支援していました。

 1898-99年、ベルギー人のアドリアン・ド・ジェルラシ率いる南極探検船ベルジカ が南極圏での越冬に成功すると、各国は相次いで南極探検に乗り出し、1901-04年にはロバート・スコット率いる英国探検隊はマクマード湾に基地を設営し、南極内陸部を探査。さらに、1911年12月14日にはロアール・アムンセン率いるノルウェー探検隊が南極点に到達しました。

 一方、チリ政府は1906年頃から南極大陸での領有権確立に向けて隣国アルゼンチンと交渉を開始しましたが、領土を画定する条約の成立には至りませんでした。これに対して、1908年、英国が南緯50度以南、西経20-80度の南極半島を含む地域の領有を宣言。南極をめぐり、各国の領有権争いが始まります。

 1939年1月14日、ノルウェーが0度から西経20度までの地域の領有を宣言すると、同19日にはドイツも東経20度から西経10度の領有を宣言する。これに刺激を受けたチリ大統領のペドロ・アギーレは、第二次欧州大戦勃発直後の同年9月7日、南極権益特別委員会を設立して調査を開始し、各国が大戦の混乱で南極に目を向ける余裕を失っていたタイミングを見計らい、1940年11月6日、布告1747号を発してチリ領南極の領有を宣言しました。

 1940年11月6日に領有が宣言されたチリ領南極の範囲は、大航海時代にスペインとポルトガルの勢力範囲を決めたトルデシリャス条約を根拠の一つとしていました。ただし、同条約は、旧スペイン領のアルゼンチンにとっても南極領有の根拠となるため、チリは、サウス・オークニー諸島に対するアルゼンチンの主張を考慮し、西経53度以西については断念しています。

 チリの領有宣言に対しては、1940年11月12日付でアルゼンチンが公式にこれを拒絶し、チリに抗議したほか、1941年2月25日には英国も反対の意向を明らかにしました。

 チリへの対抗策として、1942年1月、アルゼンチンは西経25-68度24分の南極の領有権を主張。さらに、第二次大戦後の1946年9月2日にはその範囲を西経25-74度へと拡大。このため、チリはチリ領南極における自らの主権を明確にするため、1947年にはグリーンウィッチ島にカピタン・アルトゥロ・プラット基地を、翌1948年には半島部にヘネラル・ベルナルド・オイギンス基地を建設。さらに、大統領のガブリエル・ゴンサレス・ビデラが一国の元首として初めて南極を公式訪問し、領有権を誇示します。

 こうして、南極をめぐるチリとアルゼンチンの関係悪化が懸念されましたが、1948年3月4日、両国は欧州諸国に対抗するという点で一致し、相互協定を結び、西経25-90度にある互いの南極領土を他国から守ることで合意しました。

 一方、非同盟諸国の旗手を自認していたインドは、南極をめぐる国際対立の激化を懸念し、1953年、国連の場で南極の“国際化”を訴え、南極に領有権の歴史を持たない国々の賛同を得ます。これに対して、あくまでもチリ領南極の領有権を主張するチリは、駐インド大使を通じて、南極の“国際化”の提案を取り下げるよう、インド首相のネルーに圧力をかけました。また、1955年、英政府は国際法廷へ訴える前段階として、チリの裁判所にチリ領南極の領有権無効を訴えて提訴したが、門前払いで却下されています。

 結局、1958年に米大統領のアイゼンハワーが南極問題解決のため、国際地球観測年の会議にチリを招いて説得。このため、1959年12月1日、チリもようやく南極条約に調印(条約発効は1961年)し、南極における領有権の行使は凍結されました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられたテニエンテ空港は、1969年、チリ空軍の通年観測基地としてキング・ジョージ島に設置されたエドゥアルド・フレイ・モンタルバ基地(基地名は当時の大統領名に由来)の敷地内に設けられた1298mの滑走路で、軍民共用。チリ以外にも、キング・ジョージ島で活動しているアルゼンチン、ブラジル、ロシア、韓国、中国、ポーランド、ウルグアイの観測基地の補給と人員輸送に利用されています。


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 帰還事業60年
2019-12-14 Sat 01:55
 1959年12月14日に北朝鮮に“帰還”する在日朝鮮人を乗せた第1次帰国船が新潟港を出港してから、きょうでちょうど60年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・帰還事業(1960)
      帰還事業・元の写真

 これは、1959年12月に在日朝鮮人の帰還事業(帰国事業)が始まったことを受けて、1960年、北朝鮮が“帰国同胞を歓迎する”と題して発行したプロパガンダ切手とその元になったと思しき写真です。

 第二次大戦が終結した1945年8月の時点で、日本本土には約200万人の朝鮮人がいたとされていますが、終戦直後から在日朝鮮人のためのさまざまな団体が発足。1945年9月10日の“在日本朝鮮人連盟中央準備委員会結成”を経て、同年10月15日には“在日本朝鮮人連盟(朝連)”が結成されました。当初、朝連は帰国斡旋や生活相談、朝鮮語講習などを行う民族的社会事業団体としてスタートし、必ずしも、政治色が強いわけではありませんでした。

 しかし、朝連は、敗戦により出獄した日本共産党(日共)幹部の指導により、急速に左傾化。1945年12月1-3日に代々木の日本共産党本部で開催された日本共産党第4回大会では、在日朝鮮人のうち、金天海が中央委員ならびに政治局員(定員7名)に選ばれたほか、金斗鎔、朴恩哲、李浩明(日本名・保坂浩明)、宋性澈の4人が中央委員候補(定員20名)となったほか、党中央には、金天海を部長、金斗鎔を副部長とする朝鮮人部が設立されています。ちなみに、当時の共産党員6947人のうち、在日朝鮮人は約1000人でした。

 こうした動きに反発した朝連内部の民族派は建国促進青年同盟(建青)や新朝鮮建設同盟(建同)などを結成。その後、朝鮮半島における南北・左右の対立を反映して、1946年10月、建同を発展的に解消した“在日本朝鮮人居留民団(現在の在日本大韓民国居留民団の前身)”が結成され、以後、朝連と民団の激しい対立・抗争が展開されることになります。

 1948年4月、朝連は“四・二四教育事件”と呼ばれる騒擾事件を起こしたほか、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国発足後は北朝鮮支持の姿勢を鮮明にして占領当局と対立。このため、1949年9月、傘下団体の在日朝鮮民主青年同盟とともに、団体等規制令による暴力団体に指定され、解散・財産没収・幹部追放などの処分を受けました。

 そこで、1949年12月、朴恩哲が日共朝鮮人部に代わり、同民族対策本部(民対)を組織。以後、朴のイニシアチブの下、朝連の活動は、朝鮮学生同盟、朝鮮女性同盟、朝鮮解放救援会などの傘下団体が継承しましたが、1950年6月、全国組織を復活させるため、「在日朝鮮民主民族戦線全国結成準備委員会」が発足。6月25日の朝鮮戦争勃発後、「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」が結成されました。この時期の民戦は、祖国防衛隊の結成など、日共の武装革命方針の尖兵として、朝鮮戦争の後方撹乱を目的とした武装闘争を展開していました。

 朝鮮戦争休戦後の1955年2月、北朝鮮の南日外相が日本へ国交正常化を呼びかけるとともに、金日成は“内政不干渉”の原則を理由に在日朝鮮人に対して日共からの離脱を求める国際指令を発します。その真意は、荒廃した北朝鮮経済を再建するため、日共の影響下から在日朝鮮人を切り離し(そのために、金日成は日共民対を仕切っていた朴恩哲と対立し、冷遇されていた韓徳銖を抱き込んでいます)、その資金と労働力を北朝鮮が直接掌握することにありました。

 はたして、1955年5月24日、北朝鮮政府と韓徳銖の間で綿密な打ち合わせの上、東京・浅草公会堂で開催された民戦六全臨時大会では、韓徳銖、李季伯、李浩然、尹徳昆が議長団として選出され、民戦の解散と日共民族指導部の“指導”を排した北朝鮮直結の在日朝鮮人団体として、現在の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の創立が決議されました。

 朝鮮総連は自らを北朝鮮の在日代表組織と位置づけ、在日朝鮮同胞の共和国政府周囲への結集、南半部同胞との連帯・団結強化、外来侵略者の撤収と手先傀儡の孤立化による平和的統一独立、在日子弟への民主民族教育実施などの八大綱領を掲げ、日共からの“独立”を宣言します。

 こうして誕生した朝鮮総連は、さっそく、同年7月15日、“朝鮮人帰国希望者東京大会”を開催し、全国の帰国希望者は415名(うち東京に100名)と発表。以後、朝鮮総連は国際赤十字も巻き込んで在日朝鮮人の帰還運動を本格的に展開していきました。

 1958年8月11日、神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が北朝鮮本国と打ち合わせたうえで、金日成首相に帰国を嘆願する手紙を送ることを決議。これに呼応するという形式をとって、9月8日、金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎すると発言。日本社会も在日朝鮮人の帰還事業を好意的に受け止め、1958年11月17日には元首相の鳩山一郎を会長とする“在日朝鮮人帰国協力会”の結成総会が衆院第一議員会館で開催されました。

 帰国者たちの帰国の動機はさまざまでしたが、その多くは、朝鮮人を差別する日本での生活苦から逃れたい、日本では発揮できない自分の能力を祖国の発展に役立てたい、故郷は“南”だがまもなく統一されるのだろうからとりあえず“北”に行こう、などというものが多かったといわれています。また、当時の日本社会では、北朝鮮の実態に関する情報がほとんどなかったため、“貧困にあえぐ韓国”に対して“発展する北朝鮮”、“(北朝鮮は)教育も医療も無料の社会主義祖国”、“地上の楽園”という北朝鮮のプロパガンダがそのままメディアでも垂れ流されていただけでなく、親北朝鮮の立場を取っていた日本国内の“進歩的知識人”がさかんに北朝鮮の体制を礼賛していたことも在日朝鮮人の帰国を促す要因となったことは間違いありません。さらに、在日朝鮮人に対する差別感情が強い中で、日本社会には、朝鮮人が帰国する(=日本から出ていく)のは結構なことではないかという空気が強かったことも事実です。

 当然のことながら、北朝鮮の存在そのものを“非合法”として認めない韓国は、在日朝鮮人の多くが朝鮮半島南半部の出身だったこともあって、北朝鮮への“帰還事業”には強く反発しましたが、1959年2月13日、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関して、「もつぱら基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に従つて処理さるべきものである」との原則を閣議了解。これを受けて、同16日には北朝鮮側も内閣決定第16号『日本から帰国する朝鮮公民の歓迎に際して』を決定し、帰還受け入れの体制を着々と固めていきました。

 韓国側はこうした動きに態度を硬化させ、閣議了解の撤回を強く要求。このため、日本政府は「(在日朝鮮人の帰還事業は)個人が自由意思によつて北朝鮮に帰還することを妨げないというに過ぎないのであるから、これがすこしも北朝鮮政府承認の如き意味合いをもつものでないことはもちろんであり、韓国の主権の侵害でもなく、また韓国政府に対する非友誼的行為でもない」と説明しましたが、韓国側は納得せず、1959年5月28日、駐日韓国代表部の柳泰夏大使が日本政府に対して在日朝鮮人の帰還事業を武力で阻止する旨を申し入れ、6月15日には、韓国政府が対日通商断交声明を発しました。

 しかし、8月13日、インドのカルカッタで、日本赤十字社副社長の葛西嘉資と朝鮮赤十字会副会長の李一卿が「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)を締結。これに対して、8月25日、柳が日本側に申し入れた通り、民団員が“北送”に反対して日本赤十字社本社に乱入。さらに、12月4日には、帰還事業に反対する韓国人テロ工作員2名が新潟日赤センター爆破未遂事件で逮捕されました。

 結局、12月10日には第一次帰国団を運ぶための専用列車が品川駅を出発。同14日、第一次帰国船(ソ連船籍)が新潟港を出港し、16日、清津港に入港し、金日成は在日朝鮮人の帰還運動を“わが党と人民の大きな勝利”と賞賛ました。

 今回ご紹介の切手は、これを受けて、1960年に発行されたものですが、その元になったと思われる写真と比較してみると、いくつかの点で興味深い修正が施されていることがわかります。
      
 まず、オリジナルの写真では、中央の帰国男性がスーツにネクタイの上に仕立ての良いコートを着ているのに対して、彼と抱き合って再開を喜ぶ父親は粗末な古いコートを着ています。また、父親の頭髪はすっかり薄くなっており、彼が体験してきたであろう苦難の人生を髣髴させます。このように、オリジナルの写真では、老いてやつれた父と立派になった息子とを対比させることで、在日朝鮮人の帰国が「故郷に錦を飾る」ものであるとの印象を見る者に与えています。

 これに対して、切手では、両者のコートは除去され、父親に豊かな頭髪を付け加えるなど彼を若々しく見せる工夫が施されており、彼らの服装から日本と北朝鮮との経済格差や、父親の体験したであろう苦難の人生を切手上から連想することは困難となっています。また、中央の男性からはメガネが除去されているが、これは、メガネ=日本人(北朝鮮では金日成・正日父子や一部の特権層を除き人前ではメガネをかけないのが通例とされているそうです)というイメージを取り除き、中央の男性を純粋な朝鮮人として描くための操作と思われます。なお、背後に掲げられている横断幕上のスローガンは、「在日同胞の帰国を熱烈に歓迎する!」との意味です。

 こうしたイメージ操作は、北朝鮮当局が当時の日朝間の経済格差や社会の現状を隠して、自らの体制を自画自賛することで帰国者を集めたことの傍証ともいえるでしょう。

 じっさい、事前の宣伝とは裏腹に、農業協同化によって荒廃した北朝鮮の生活環境は劣悪であった。さらに、帰国者たちは潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれ続けました。こうした実態が知られるようになったため、1960年には4万9036名、1961年には2万2801名もいた帰国者数は、1962年には3497名に激減しています。

 さて、現在、2014年に刊行した拙著『朝鮮戦争』の続篇として、1953-65年の韓国現代史を扱った拙著『日韓基本条約』を刊行すべく作業を進めています。すでに、本文の原稿は脱稿し、編集作業も最終段階に入っておりますので、近々、詳細情報もご案内できると思いますので、よろしくお願いします。

 * 昨日(13日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は12月27日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。

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 世界切手展(WSC)< INDONESIA 2020>のご案内
2019-12-13 Fri 05:01
      インドネシア・独立5周年

 明年(2020年)8月6日から11日まで、インドネシア独立75周年を記念して、ジャカルタの議会ビル(グドゥン MPR/DPR)で、FIP後援の世界切手展(WSC)<INDONESIA 2020>が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりましたので、本ブログにて、同展の特別規則のうち、出品に関する事項を抜粋し、その概要をお知らせいたします。

 正式な規則の文言ならびに出品に必要な書類の用紙や規則の正式な文言などは、必ず、同展ウェブサイトのフロントページ上部のEXHIBITORSから、Regulations IREXをクリックしてご確認ください。なお、出品の申込書等は、Regulations IREXの下のApplication Formsからダウンロード可能です。

 なお、今後の同展に関する連絡は、原則として全て電子メールにて行います。コミッショナーの内藤陽介(ないとう・ようすけ)へのご連絡は、本ブログ右側、プロフィール下のメールフォームをご利用ください。また、電子メールをお使いになれない方で関係書類をご希望の方は、データをプリントアウトしてお送りいたしますので、実費として500円(送料込・切手代用不可)をコミッショナー宛、ご送金ください。

 <国内出品申込締切>
2019年12月30日(月)(必着)までにコミッショナー(内藤陽介)宛に出品申込書とイントロダクトリーページ(タイトルページ)を送付してください。電子メールもしくは郵送でのご送付を受け付けます。なお、以前の出品作品のタイトルを変更して出品する場合は、必ず、以前のタイトルを出品申込書に記載してください。 また、申込書のご送付は、なるべく、12月27日以降にしていただけると助かります。

・組織委員会からの出品可否の通知は2020年3月15日頃を予定
 *当初の締切日から延長されていますので、この日程については、展覧会ウェブサイトの記載と異なっています。ご注意ください。

<出品料>
・すべての出品料は以下の通りです。
・ユース、文献、ワン・フレームを除く部門:1フレームにつき75米ドル
・ユースは無料
・文献は1件につき85米ドル
・ワンフレは1作品95米ドル 

<搬入の方法>
・フレーム出品:コミッショナーが全ての作品を手荷物で搬入するよう要求されておりますので、原則として、コミッショナーによる所定の運搬手数料[1フレーム当たり4,000円]を申し受けるほか、航空会社から超過料金等を請求された場合には、別途、応分のご負担をお願いいたします。
文献作品:2020年5月15日必着で、各2部ずつ、下記宛先にお送りください。
 Fadli Zon Library
Jalan Danau Limboto No. C2/96
Jakarta 10210, INDONESIA
電話: +62 21 573 4382

<出品クラス>
 競争出品
― Class 1:ワールド・スタンプ・チャンピオンシップ・クラス (過去のFIP展で1回でも大金賞を受賞、または、FIPグランプリ受賞)
― Class 2:伝統郵趣
 A)ナショナル
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 3:郵便史
 A)ナショナル
 B)アジア、オセアニア、アフリカ
 C)欧州
 D)南北アメリカ
― Class 4:ステーショナリー
― Class 5:航空郵趣
― Class 6:テーマティク
 A)自然 B)文化 C)科学技術
 *出品申込書には作品がA-Cのどのサブクラスに該当するかを記入してください。
― Class 7:収入印紙
― Class 8:現代郵趣(1980年以降)
 (A)国別伝統、(B)郵便史、(C)ステーショナリーの各分野。
*国内展での受賞歴に関わらず、コミッショナーの推薦があれば出品可能。他部門への出品と重複しての出品も可能です。
― Class 9:オープン郵趣
― Class 10:絵葉書クラス(実験クラス)
― Class 11:ワン・フレーム(1フレーム出品)
  出品申込書には、以下のA-Hのどのサブクラスに該当するか、ご記入ください。
  A)国別伝統 B)郵便史 C)ポスタル・ステーショナリー D)航空郵趣 E)テーマティク F)印紙
 *ワン・フレーム出品には賞状のみでメダルは授与されません。また、マルチ・フレームの作品からの抜粋展示は認められません。
― Class 12:郵趣文献
 A) 2015年1月1日以降に出版された書籍、研究書
 B) 2018年1月1日以降発行の雑誌、定期刊行物
 C) 2018年1月1日以降に出版されたカタログ
*通常の出品申込書に加え、文献用の情報フォームを記入すること。
― Class 13:ユース 
  A)2020年1月1日時点で、A)10歳から15歳 B)同16歳から18歳 C)同19歳から21歳

<フレームおよびリーフの大きさ>
 フレームは97×120cmとなる予定です。したがって、保護ラップ込の1リーフの大きさは、1フレーム16リーフで構成の場合は23×29cm、8リーフで構成の場合はA3判または46×29cm、12リーフで構成の場合は31×29cmを上限としてください。

 1人でも多くの皆様のお申込み・お問い合わせを心よりお待ちしております。

 ちなみに、今回の記事の冒頭に掲げたのは、1950年にインドネシアが発行した“独立5周年”の記念切手で、ガルーダを描く国章が取り上げられています。

 インド古典文学『マハーバーラタ』に登場するガルーダは、頭・翼・爪・口はワシ、胴・腕・脚は人間の半鳥半人の半神で、仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国で、他のヒンドゥー諸神と併せて祀られています。タイの国章や航空切手などには、これを忠実に再現したデザインが用いられています。これに対して、今回ご紹介のインドネシアの国章では、半鳥半人の姿ではなく、ジャワクマタカをモデルにした金色の神鳥としてガルーダが表現されています。

 国章のデザインとしては、ガルーダは胸に盾を抱え、足で巻物を持った姿となっており、盾(エスカッシャン)にある5つのエンブレムは、インドネシアの建国5原則であるパンチャシラを表現しています。カリマンタン島ポンティアナックのスルタン、ハーミド2世がデザインし、1950年2月1日にインドネシアの国章として制定されました。


 *昨日(12日)の東アジア歴史文化研究会は無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、スタッフ関係者の方々には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 12月13日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

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 ブーゲンビル自治州で独立賛成が98%
2019-12-12 Thu 01:24
 パプアニューギニアのブーゲンビル自治州で、11月23日から今月7日まで、独立か自治権の拡大かを問う住民投票が行われ、独立賛成が約18万票で98%を占めたことが発表されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パプアニューギニア・ブーゲンビルの民芸品

 これは、1976年にパプアニューギニアが発行した“ブーゲンビルの民芸品”の切手のうち、先住民の彫刻を取り上げた1枚です。

 ブーゲンビル自治州の中心となるブーゲンビル島は、1768年、世界周航の探検の一環として同島の沿岸を航海したフランスの探検家、ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィルにちなんで命名されました。地理的概念としてのソロモン諸島の中では面積最大の島です。

 1885年、ドイツ領ニューギニアの一部となりましたが、第一次世界大戦の勃発に伴い、オーストラリアが占領。大戦後はオーストラリアの委任統治領となりました。

 先の大戦中は日本と米豪との激戦地となり、1943年4月には、連合艦隊司令長官の山本五十六が同島上空で米軍機に撃墜され戦死したことでも知られています。

 第二次大戦後は再びオーストラリアの支配下に置かれ、1975年、パプアニューギニアの独立に伴い、同国に編入されました。ところが、ブーゲンビル島のパングナ鉱山がブーゲンビル銅鉱会社を通じてオーストラリアの実質的な支配下にあったことから、ブーゲンビル島の住民は独立に際して補償を求めて抗議運動を起こし、そこから、“北ソロモン共和国(ブーゲンビル共和国)”の分離独立運動が発生しました。

 さらに、1988年にはフランシス・オナらが、ブーゲンビル州は民族的にはソロモン諸島の一部であると主張して、ブーゲンビルの分離・独立を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を結成。さらに、パングナ銅山は地元に利益をもたらしていないとして銅山の閉鎖も要求し、1989年にはブーゲンビル暫定政府を樹立し、オーストラリアの支援を受けたパプアニューギニア政府軍との間で内戦に突入しました。

 1991年1月には、パプアニューギニア政府とBRAの間で停戦合意としてのホニアラ宣言が結ばれましたが、停戦は長くは続かず、内戦は泥沼化します。また、BRAはソロモン諸島国家の支持も受けていたことから、1992年、パプアニューギニア政府軍はソロモン諸島のショートランド諸島を攻撃しています。

 1997年にはパプアニューギニア政府が英国の民間軍事会社サンドライン・インターナショナルと傭兵派遣契約を結んだことが露見したことから、国防軍司令官ジェリー・シンギロックがジュリアス・チャン首相の退陣を求めてクーデターを起こしました。この結果、チャン政権は退陣し、ブーゲンビル紛争の平和的解決を最優先の課題とすることを公約として掲げた国民会議党のビル・スケートが新首相に選出されます。これを契機に、1998年、オーストラリアとニュージーランドの仲介により、パプアニューギニア政府とBRAの間で停戦合意が成立。 2001年8月30日には、BRAの武装解除、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印されました。

 こうした経緯を経て、2005年6月15日にブーゲンビル自治政府が設立され、初の大統領選挙が行われ、元BRAのジョセフ・カブイが初代大統領に就任。それから14年以上を経て、2019年11月23日から12月7日まで、和平協定に従い、ブーゲンビルの将来的な政治的立場を問う住民投票が実施され、独立賛成が98%という結果になりました。今回の住民投票jには法的拘束力はありませんが、今後、自治州政府と中央政府との交渉が開始される予定です。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 12月13日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 タンゴの日
2019-12-11 Wed 01:05
 きょう(11日)は、不世出のタンゴ歌手、カルロス・ガルデルの誕生日(1890年12月11日)にちなんで“タンゴの日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アルゼンチン・タンゴ(2019・青)

 これは、今年(2019年)8月26日、アルゼンチンが発行した“タンゴ”の切手のうち、バンドネオン奏者を取り上げた1枚です。

 タンゴのの演奏に欠かせない楽器として知られるバンドネオンは、1847年、ドイツのハインリヒ・バンドがコンサーティーナをもとに開発した蛇腹楽器です。

 1829年、ウィーンでシリル・デミアンがアコーディオンを発明すると、ケムニッツの楽器職人、カール・フリードリヒ・ウーリヒはそれをもとに、コンサーティーナを開発しました。いわゆるアコーディオンが蛇腹の押し引きを左手で行うのに対して、コンサーティーナは左右の両手の力で蛇腹の押し引きを行うため、大量の空気を送り込んで大音量を出すことが可能で、音のメリハリもつけやすいという特徴があります。

 バンドは、このコンサーティーナの低音域を拡張するなどボタン配列に変更を加えて独自の楽器を開発しましたが、当初、彼は自分の楽器を“アコーディオン”と称していました。しかし、上述のように、いわゆるアコーディオンとコンサーティーナの流れをくむバンドの楽器はその構造が異なることから、バンドの楽器はバンドの名前と、アコーディオンの“イオン”を組み合わせて“バンドオン”と呼ばれるようになり、しれがいつしかバンドネオンと転訛し、楽器の名前として定着しました。

 アルゼンチンにバンドネオンが伝わった正確な経緯は不明ですが、遅くとも1890年ごろにはアルゼンチンに持ち込まれていたようです。

 ただし、19世紀末のアルゼンチンでは、タンゴ楽団はギターもしくはギタロン、フルート、ヴァイオリンという構成が一般的で、バンドネオンが使われることはほとんどありませんでした。それが、20世紀に入り、ドイツから大量のバンドネオンが輸入されたことで、タンゴの演奏にも使われるようになり、1910年頃にはタンゴに欠かせない楽器として定着するようになったと言われています。

 ちなみに、アルゼンチンの国民音楽・舞踊として定着しているタンゴですが、アルゼンチン人でありながら、チェ・ゲバラは、タンゴは歌うのも踊るのも大の苦手としていました。サルトルから“20世紀で最も完璧な人間”と呼ばれた彼にも、意外な弱点があったというわけですね。まぁ、この辺りについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いくつか興味深いエピソードをご紹介していますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 モンゴル民主化30年
2019-12-10 Tue 10:41
1989年12月10日にモンゴルの民主化が始まってから、きょうで30周年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル・ゾリグ

 これは、1998年、モンゴルが発行したサンジャースレンギーン・ゾリクの追悼切手シートです。

 モンゴルでは、1950年代以来、人民革命党(共産党)のユムジャーギン・ツェデンバルによる独裁政権が続いていました。ツェデンバルは1984年に病気で引退し、後任の党書記長となったジャムビィン・バトムンフは、ソ連のゴルバチョフに倣った体制内改革を進め、1987年の経済改革では、国営企業の独立採算性も導入します。

 しかし、ソ連同様、国民の民主化・自由化を求める声は日に日に高まり、ベルリンの壁が崩壊を受けて、東欧社会主義政権の崩壊が相次ぎ、米ソ首脳が東西冷戦の終結を宣言する中で、1989年12月10日、サンジャースレンギーン・ゾリクらによる大規模な民主化要求デモが発生します。

 ゾリグは、1962年4月20日、ウランバートル生まれ。1980-85年のモスクワ大学での留学から帰国後、モンゴル革命青年連盟講師を経て、1986年以降、モンゴル国立大学講師として、科学的共産主義の教育・研究を担当する傍ら、1988年以降、反体制派の青年を糾合した“新世代”グループを設立し、民主化運動を展開していました。

 1989年12月10日、 ゾリグら約200人のグループは、市場経済導入と自由選挙を求める民主化デモを起こし、翌1990年1月以降、ウランバートル中心部のスフバートル広場での週末デモを開始します。2月に入ると週末デモは拡大し、群集と包囲する兵士との間に乱闘も発生。このとき、ゾリグは友人の肩に乗り、マイクを持ち、群衆に対して平静を維持するように呼びかけました。今回ご紹介のシート中央の切手は、モンゴル民主化の象徴として、この時のゾリグの姿を描いたものです。

 ゾリグの呼びかけにより、流血の事態は避けられ、モンゴル人民革命党政権は「社会主義は堅持するが、対話はする」という譲歩を余儀なくされます。そして、翌3月、バトムンフ書記長、ドマーギン・ソドノム首相をはじめとするモンゴル人民革命党政治局は総辞職し、外国経済関係大臣だった穏健派のポンサルマーギーン・オチルバトが新書記長に就任。オチルバトは、国民の民主化要求に応えるかたちで、複数政党制と大統領制を採用するとともに、貿易の自由化とソ連軍の撤兵を実現しました。

 モンゴルの非共産化が進む中、ゾリグはモンゴル民主連盟を結成し、自ら議長に就任。1990年6月には、人民大会議(人民大フラル)代議員に当選し、1991年8月、ソ連保守派のクーデターが起こると、直ちに国家非常事態委員会やソ連共産党保守派を非難する声明を出しています。
 
 1992年、新憲法の制定により、モンゴルの制度面での民主化が完了。新憲法では、大統領は40歳以上との規定があったため、当時30歳だったゾリグは大統領選挙には出馬できず、国民大会議(国民大フラル)代議員の選挙に立候補して当選。民主派が人民革命党を破って勝利した1996年の総選挙では、政党連合民主同盟連合(モンゴル民主連合)に参加して再選を果たし、非人民革命党政権の樹立に参画し、1998年には社会資本整備大臣として入閣しました。

 ところが、民主同盟連合政権による急激な市場経済化政策はモンゴル経済を大いに混乱させただけでなく、寄り合い所帯だった政権内部の対立も深刻化。1998年4月23日、八方ふさがりとなったメンダサイハン・エンフサイハン首相は内閣総辞職に追い込まれます。

 後継首相に就任したツァヒアギーン・エルベグドルジ(国民大会議議長)は、政権発足直後、国営の復興銀行を民間のゴロムト銀行に合併する決定を下したものの、復興銀行には国会議長、首相を筆頭とする政府高官による融資斡旋行為や経営陣の資産乱費や背任容疑などがあったことや、そもそも、合併じたいが国有財産および地方公共団体財産法や民法、銀行法に照らして違法であったことから、エルベグドルジ内閣は総辞職に追い込まれます。

 こうした中で、ゾリグは人民革命党(1997年5月の大統領選挙では、同党のナツァギーン・バガバンディが当選していました)と民主同盟連合の双方が合意できる人物として首相候補として挙げられていましたが、1998年10月5日に首相候補決定が発表される直前の2日、何者かによって自宅で殺害されました。今回ご紹介の切手は、これを受けて発行されたものです。

 なお、ゾリグ暗殺については、彼が進めようとしていた汚職・政治腐敗追放キャンペーンを阻止しようとした一派による犯行との見方も根強いのですが、現在に至るまで実行犯が特定されていないこともあって、真相は藪の中です。
 

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 きょう、パリでウクライナ和平会談
2019-12-09 Mon 02:44
 ウクライナ東部で続く同国政府軍と親ロシア派武装勢力の紛争をめぐり、ウクライナとロシアに和平を仲介するフランスとドイツを交えた4カ国首脳会談が、きょう(9日)、パリで開かれます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大さてます)

      ウクライナ・ドネツィク州85年

 これは、2017年にウクライナが発行した“ドネツィク(ロシア名ドネツク)州85年”の記念切手で、ドネツィク州ディミトロフ出身のウクライナ人画家、ローマン・ミニンの2010年の作品「片道」が取り上げられています。

 ウクライナ東部の都市、ドネツィクを中心とする一帯(現在のドネツィク州の領域)は、もともと、モスクワ大公国、クリミア・ハン国、ザポロージャ・コサック軍、ドン・コサック軍との国境地帯で、16世紀以降、ウクライナ・コサックが入植していました。

 1774年、この地を編入したロシア帝国はロシア人の入植を進めましたが、1869年、英国人のジョン・ヒューズが現在のドネツィク市に冶金工場を建設。以後、この地はヒューズにちなんで“ユーゾフカ”と呼ばれるようになり、炭鉱業と工業の町として発展することになりました。

 1917年のロシア革命後の内戦の時代には、ボリシェヴィキ系のドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国を経て、1922年末のソ連成立により、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入。1924年、スターリンにちなんで市の名前はユーゾフカからスターリノに改称されました。なお、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の州としてドネツク州が設置されたのは1932年のことで、今回ご紹介の切手はここから起算して発行されたものです。

 1938年、ドネツク州はスターリン州とヴォロシロヴフラード州に分割され、独ソ戦期の1941-43年にはドイツ軍に占領されました。その後、1961年、スターリン時代の見直しに伴い、スターリノ市(州)はドネツク市(州)に改名され、1991年のウクライナ独立に伴い、ウクライナのドネツィク州となりました。

 2014年にウクライナ政変が起きた時点で、ドネツィク州としての人口構成は、ウクライナ人56.9%、ロシア人38.2%でした。しかし、親露派のヤヌコーヴィチ元大統領の出身地ということもあって、親露感情も強く、政変後はキエフの暫定政府に対抗してドネツィク市の州政府庁舎は、同年3月1日から5日ごろまでウクライナ国旗に代わってロシア国旗を掲げていたほか、3日には一時、親露派のデモ隊が占拠。8日には、キエフの暫定政府に抗議する親露派のデモ隊が帰属先を問う住民投票の実施を州政府に求めています。

 その後、4月7日までに、親露派の武装勢力は州都ドネツィクを含む州全体の3割ほどを占領。“ドネツク人民共和国”の建国を宣言し、現在まで実効支配を続けています。これに対して、ウクライナ政府は、2014年6月13日、ドネツィク州の行政機能をドネツィクから州南部マリウポリに一時的に移すことを決定。さらに、同年10月11日には行政機能をクラマトルスクに移転しました。

 その後、“ドネツク人民共和国”は、やはり親露派が建国を宣言した“ルガーンスク人民共和国”とともに、2014年5月24日、連邦国家“ノヴォロシア人民共和国連邦”の結成を宣言していますが、国際社会の大半はこれを承認していません。

 さて、ウクライナ東部をめぐる4カ国首脳会談の開催は2016年10月以来、約3年ぶりで、今年5月に就任したウクライナのゼレンスキー大統領とロシアのプーチン大統領とは初の会談となります。首脳会談では2015年に4カ国で合意された親露派の実効支配地域での選挙実施や親露派への自治権付与が議論される予定ですが、協議は難航するのは必至で、ロシアとウクライナの間でなんらかの妥協が成立するか否かは不透明です。


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 “真珠湾”の日
2019-12-08 Sun 01:22
 きょう(8日)は“真珠湾”の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ニカラグア・ルーズヴェルト追悼(対日宣戦布告)
 
 これは、1946年に中米のニカラグアが発行した“フランクリン・ルーズヴェルト追悼”の切手のうち、彼の実績のひとつとして、対日宣戦布告所への署名場面を取り上げた1枚です。

 ニカラグアでは、1927年、保守党のアドルフォ・ディアス政権に対して自由党のホセ・マリア・モンカーダらが攻撃を開始して内戦が勃発。この内戦はすぐに停戦となりましたが、停戦後の選挙監視のため米海兵隊が上陸すると、これに反発した反政府軍のアウグスト・セサル・サンディーノはニカラグア国民主権防衛軍を率いて米軍を攻撃し、以後、米軍が撤退する1933年まで、サンディーノ軍と米軍および米軍の支援を受けたニカラグア国家警備隊との間でゲリラ戦が展開されました。

 米軍撤退後の1934年、米国の内諾を得た国家警備隊長のアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)はサンディーノを暗殺。さらに、1936年にはクーデターを起こしてサカサ大統領を追放し、自ら大統領に就任します。

 1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受けて米国が第二次世界大戦に参戦すると、タチョは直ちに枢軸国に宣戦布告し、米国から100万ドルの軍事援助を獲得するとともに、ドイツ人・イタリア人の資産を接収。政府が接収した敵国人の資産はソモサ一族に格安で売却され、タチョは莫大な利益を得るとともに、彼自身も独裁者としてニカラグア政界に君臨しました。

 第二次大戦への米国の参戦を奇貨として米国にすり寄ることで莫大な援助を獲得し、それを横領することで私腹を肥やしていたタチョ政権にとっては、今回ご紹介の切手に描かれている“ルーズヴェルト大統領の対日宣戦布告”は、まさに、自分たちの利嫌の源ともいうべき出来事だったわけで、それゆえ、追悼切手に取り上げて感謝の意を表するくらいは当然の仕儀だったのでしょう。ちなみに、ルーズヴェルト本人はタチョについて、「あの男はろくでなしだが、われわれの側のろくでなしだ」と語っていたそうです。

 第二次大戦の終結直前にルーズヴェルトは現職大統領のまま亡くなりますが、タチョによる国家の私物化はますます激しくなり、1956年、救国の情に駆られた詩人リゴベルト・ロペスはタチョを暗殺します。しかし、タチョの長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継大統領となり、ニカラグアはソモサ家による王朝化。さらに、ルイスが1963年に病死すると、国政の実権は弟のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)に引き継がれ、タチートは国家警備隊の暴力を背景に国家の私物化をいっそう進めました。

 こうした状況の下、1961年、キューバ革命の影響を受けたトマス・ボルヘやカルロス・フォンセカらは、左翼系の反政府組織として、タチョに殺害されたサンディーノの名を冠したサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を組織し、1963年以降、本格的な反政府武装闘争を開始することになります。当初、彼らの闘争は、米国の支援を受けたソモサ王朝に全く歯が立ちませんでしたが、1972年のマナグア大地震に際して世界中から送られた救援物資をソモサ一派が着服して全世界から不興を買ったことを機に、次第に政権に不満を持つ国民の支持を集めるようになり、1979年7月19日、ソモサ政権を打倒してニカラグア革命を達成することになります。

 なお、FSLNとニカラグアの現代史については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、主としてキューバとの関連で触れておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 メルケル独首相、アウシュヴィッツ訪問
2019-12-07 Sat 01:38
 ドイツのメルケル首相は、きのう(6日)、ポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪問し、加害国の首脳として犠牲者を追悼しました。在任中にアウシュヴィッツを訪れたドイツ(西ドイツを含む)首相としてはシュミット氏らに続き3人目です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・ライプツィヒ・メッセ貼り

 これは、1941年7月26日、アウシュヴィッツ第1収容所からケーニヒスヒュッテ(ポーランド語名ホジュフ)宛に差し出された郵便物で、1940年3月に発行された“ライプツィヒ・メッセ750年記念”の25ペニヒ切手が貼られています。

 いわゆるアウシュヴィッツ収容所には、①1940年6月に最初に開所したアウシュヴィッツ基幹収容所(第1収容所)、②1941年10月、第1収容所から3キロほどの湿地帯に開設されたビルケナウ(ポーランド語名・ブジェジンカ)の第2収容所、③1942年以降、第1収容所から東に7キロほどの地点に、イーゲー・ファルベン社の工場に隣接して設けられたモノヴィッツの第3収容所、がありますが、今回ご紹介のカバーは、第2収容所開設以前の差出ですので、第1収容所からの発信であることは間違いありません。

 また、1940年6月14日、最初の収容者として、タルヌフから728人のポーランド人捕虜・政治犯が移送されてから、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定され、ドイツの勢力圏内各地から多数のユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されてくるまで、アウシュヴィッツの収容者は、原則としてポーランド人(その中には、ユダヤ系のポーランド人もいましたが、収容所当局の認識としては、彼らはあくまでも“ポーランド人”です)でしたから、このカバーの差出人もポーランド人です。

 切手の題材となっているライプツィヒ・メッセは、1190年、商品を直接売買する現物市として始まり、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1508-19年)の庇護を得て大きく発展。1895年には現在のような見本市になりました。ナチス・ドイツは、神聖ローマ帝国を“第一帝国”としたうえで、みずからを“第三帝国”と位置付けており、1939年のチェコスロヴァキア併合をもって神聖ローマ帝国の復活を宣言しています。こうしたこともあって、神聖ローマ帝国の時代から綿々と続くライプツィヒ・メッセは、第三帝国の正統性を主張するうえで重要なイベントと位置づけられていました。

 ちなみに、ライプツィヒには、1409年、ヤン・フスらによるチェコ人優遇策に抗議してプラハ大学を去ったドイツ人教員や学生を受け入れるためにマイセン辺境伯フリードリヒ4世が創立したライプツィヒ大学があり、メルケル首相は同大での出身(物理学専攻)です。

 一方、宛先のケーニヒスヒュッテは、現在のドイツ=ポーランド国境に近いポーランド・シロンスク地方有数の工業都市ですが、第二次大戦中はドイツ領に編入されていました。したがって、収容所からの封書の料金は国内料金用の12ペニヒです。収容者が自らの意思で倍額以上の25ペニヒ支払うということも考えにくいので、差出人は外部からの差し入れによりこの切手を入手したと考えるのが妥当でしょう。

 なお、アウシュヴィッツの収容所とその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 フランス全土で大規模スト
2019-12-06 Fri 10:41
 フランスでは、きのう(5日)から、マクロン大統領が進める年金改革に反対する大規模なストライキが始まりました。内務省の集計で参加者は全土で80万人を超えており、高速鉄道TGVの9割が運休し、パリ市内の地下鉄も大半の路線が止まるなど、交通網はマヒ状態で、病院職員や教員、警官、消防隊員もストに加わり、多くの学校も休校となりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・ストライキ(1968)

 これは、1968年5月27日、パリ五月革命下のフランス南西部リブルヌ郡からパリ宛に差し出された郵便物で、ゼネストで国営の郵便事業が事実上停止されていた中で、郡の商工会議所が一般市民向けに提供していた“郵便”を使って差し出されています。料金の50サンチームは、商工会議所の発行した証票により納付され、商工会議所のスタンプで消印されています。

 1938年に6万人だったフランスの大学生は、1961年に24万人、1968年に60万5000人にまで膨れ上がりました。この結果、特権的なエリート教育・研究の場だった大学は大衆化したものの、新たに“知識人”の資格を得た(はずの)若者たちにはそれにふさわしい(と彼らが考える)社会的発言の場が与えられたわけではなく、彼らの不満が鬱積していました。

 1966年、ストラスブール大学で、教授独占の位階体制に対する民主化要求の学生運動が発生。学生たちの矛先は、既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF)や、ソ連との関係が深く“官僚主義的”なフランス共産党にも向けられ、1964年に創立されたばかりのパリ大学ナンテール分校(現パリ第十大学)へも波及。さらに、1968年3月22日、“ベトナム戦争反対を唱える国民委員会”のメンバーが逮捕されると、これに抗議する学生が校舎の一部を占拠し、ソルボンヌ(パリ大学)でも学生の自治と民主化を要求する運動が本格化。3月末にはナンテール分校の授業も中止されました。

 こうした状況の下、1968年5月1日、反共を掲げる右派系の学生組織、“オキシデンタル・グループ”がナンテール校を攻撃しようとしているという噂が広まり、翌2日にはソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃える事件が発生します。パリの大学を取り巻く情勢が急速に緊張する中で、5月3日、ナンテール校の学部長がキャンバスの閉鎖を決定すると、追放された学生約500名がソルボンヌを占拠。警察、保安機動隊との衝突で、100名以上が負傷し、数百名が逮捕され、ソルボンヌは閉鎖されました。

 こうして、いわゆる“パリ五月革命”が始まります。

 学生たちはパリ市街ラテン地区(カルティエ・ラタン)に拡散してパリ中心部で大規模なデモを敢行。これを警察が鎮圧しようとすると、さらに多くの学生がデモに参加するようになり、一般市民も巻き込んで騒乱が拡大します。さらに、5月6日にはフランスの各地で高校生や大学生による連帯ストライキが発生し、翌7日には4万人の大規模デモが発生して、カルティエ・ラタンは中央政府の統制が及ばない“解放区”の様相を呈しました。

 さらに、学生運動は各国の左翼過激派の闘争とも連携して、大学占拠・街頭進出というかたちで地方にも爆発的に拡大。これに呼応して、労働組合は大規模なストライキを決行し、5月14日には、労働者が約50のルノー工場を占拠して工場責任者を拘束し、工場に紅旗を掲揚します。以後、ストライキは雪だるま式に拡大し、ピーク時にはフランス人労働者のおよそ3分の2に相当する約1000万人が参加し、5月20-21日には「労働者と学生の闘争は同じである」とのスローガンの下、銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネストが行われ、フランスの交通・流通システムは麻痺状態に陥りました。

 こうした状況の下、ゼネストにより国営の郵便事業も事実上停止となったため、一部の地域では商工会議所などが一般市民向けの通信サービスを提供することもありました。今回ご紹介の郵便物もその一例です。

 結局、5月27日に政府、労働組合、および雇用主連合間の交渉により、最低賃金を3分の1引き上げ、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定」が締結され、5月30日にド・ゴール大統領が国会の解散を宣言したことで事態は沈静化。6月に入ると労働者の大部分は職場復帰したが、その後も散発的な暴力は続きました。

 ところで、五月革命当初、フランス共産党は影響下にある労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織し、“ソ連を非難する急進的な学生運動”をアナーキストないしはトロツキストと非難していましたが、革命全体を通して主導権を握っていたのは、反スターリン主義・反ソ連の新左翼グループでした。学生グループの指導者としては、たとえば、ドイツ系ユダヤ人で無政府主義者のダニエル・コーン=ベンディット、統一社会党のジャック・ソバジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロツキストのアラン・クリヴィーヌ等がいました。

 デモに参加した学生たちは、既存の左翼勢力を否定する新左翼の立場から、革命のシンボルとして、反ソ・反スターリン主義の象徴である毛沢東とチェ・ゲバラの落書きを壁に描いたり、プラカードとして掲げて街中を練り歩いたりしました。

 このうち、ゲバラの肖像に関しては、コルダの「英雄的ゲリラ」とそれに由来するフィッツパトリックのイラストが好んで用いられています。

 パリ五月革命は、西ドイツや日本、イタリアなど西側先進国の左翼学生たちに影響を与え、各国の学生運動を過激化させる結果をもたらしましたが、その副産物として、各種の「英雄的ゲリラ」を中心とするゲバラの肖像も、新左翼のシンボルとして、各国に拡散・浸透していくことになります。

 この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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