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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ポーランドのワイン
2019-11-21 Thu 00:18
 きょう(21日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、ボジョレーだけがワインじゃないよということで、毎年恒例、フランス以外のワイン関連の切手の中から、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』にちなんで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ジェロナ・グラ(1955)

 これは、1955年にポーランドが発行した“西方領土回復10周年”の記念切手のうち、ポーランド国内ではワインの生産で有名なジェロナ・グラを取り上げた1枚で、切手の上部には、そのことを示すように、ブドウが描かれています。

 現在のポーランド国家の領域の大半は寒冷すぎてブドウの栽培には不向きですが、それでも、西部のルブシュ県ジェロナ・グラとマゾフシェ地方のヴァルカでは白ワインが生産されています。

 ジェロナ・グラ周辺では、1250年以降、パラディジ修道院の聖職者らがワインを作ってきた記録があり、1314年には最初のワイナリーが建設。最盛期にはこの地方で約4000ヵ所のブドウ畑がありましたが、そのうち、2500ヵ所がジェロナ・グラに集中していました。この地域で最も有名なワインの“モンテ・ヴェルデ”は、イタリア語で“緑の山”の意味ですが、ジェロナ・グラというポーランド語の地名も、またドイツ語地名の“グリューンベルク”も同じ意味です。

 1742年、この地はドイツ語名の“グリューンベルク”としてプロイセン王国に併合され、1871年のドイツ統一によってドイツ帝国の一部となります。第一次大戦後はヴァイマル共和国のニーダーシュレージエン県に編入され、1922年4月から1933年9月末までは独立市の地位を維持していました。

 第二次世界大戦末期の1945年、ソ連赤軍に占領され、戦後のポツダム会談を経て、ポーランドの管理下に移管。これに伴い、残留していたドイツ系住民は追放され、ソビエトが併合した旧ポーランド領からやってきた人々が市へ移住し、市の名称もポーランド語名のジェロナ・グラに改名されています。共産主義体制下では、ジェロナ・グラでのワイン生産は減少しましたが、民主化を経て、1990年に復活しています。なお、現在のワイン生産はジェロナ・グラ近郊が中心で、同市内ではワイン生産は行われていませんが、それでも、毎年、市内ではジェロナ・グラ・ワイン・フェスティヴァルが開催されています。


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 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 二の酉
2019-11-20 Wed 00:04
 きょう(20日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、最新の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の早期重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オランダからモノヴィッツ宛
      オランダからモノヴィッツ宛・裏面
 
 これは、1944年9月2日、ドイツ占領下のアムステルダムからアウシュヴィッツ第3収容所(モノヴィッツ)に隣接していたイーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)監査部宛のカバーで、1941年に発行された鳩と数字のデザインの10セント切手が貼られています。

 アウシュヴィッツ収容所のうち、ビルケナウの第2収容所がユダヤ人等の虐殺に力点を置いていた“絶滅収容所”の性格が強かったのに対して、第1収容所から約7キロ東のモノヴィッツにあったIGファルベンの工場に隣接して第3収容所は、収容者の安価な労働力を工場に動員するための施設でした。

 IGファルベンは、第一次大戦後の1925年、ドイツの6大化学工業会社であるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業(現バスフ=BASF)、フリードリヒ・バイエル染料(現バイエル)、アグファ(現アグファ・ゲバルトの前身)、ワイラー・テル・メール化学、グリースハイム・エレクトロン化学工業、ヘキスト染料(現ヘキスト)の合同により生まれたトラストで、社名のIGは“利益共同体”の意味です。本社はフランクフルト・アム・マインにあり、資本金は11億マルクでした。

 ヒトラー政権が誕生する以前の1932年頃からナチスに接近し、ヒトラーが政権を掌握した後は、4ヵ年計画庁に技術者として多くの人材を送り込み、政権との関係を強化。1939年の第二次大戦勃発以降は戦争にも積極的に協力し、ユダヤ人の大量虐殺に使われた毒ガス、ツィクロンBは子会社のデゲッシュがパテントを有していました。

 IGファルベンとアウシュヴィッツとの密接な関係は、1941年1月、同社の役員だったオットー・アンブロスが現地を視察し、アウシュヴィッツ東郊のソワ川とヴィスワ川の合流地点に、700万マルクを投じて年間3万トンの生産能力を有する合成ゴム工場BUNAを建設することを決定したところから始まります。ちなみに、アウシュヴィッツ第1収容所でツィクロンBの人体実験が行われたのは、1941年9月のことでした。

 工場の建設は、私企業としてのIGファルベンの経済活動として進められましたが、ドイツ政府はこの計画を積極的に支援し、該当する土地から住民を退去させること、第1収容所から8000-1万2000人の労働者・作業員を派遣することを決定。3月下旬には、IGファルベンと収容所を管理していた親衛隊との間で協議が行われ、IGファルベンが未熟練労働者1人につき3マルク、熟練労働者1人につき4マルクを支払うこと、収容者の労働時間についても、夏季は1日10-11時間、冬季は1日9時間とすることが決められました。

 これを受けて、1941年4月7日、アウシュヴィッツ第1収容所の収容者たちを動員してのBUNAの建設作業が始まり、1942-44年にかけて、IGファルベンのほか、クルップやシーメンスなど、ドイツを代表する大企業の製造プラントなどに付随して、大小あわせて40の収容施設が作られ、多くの収容者が過酷な労働に従事させられました。これが、モノヴィッツの第3収容所です。

 さて、今回ご紹介のカバーは、そのモノヴィッツ宛にドイツ占領下のアムステルダムから発信されたもので、裏面に押されている国章入りの印に“C”の文字が入っていることから、“経由地のケルンで開封・検閲されていることがわかります。

 1940年5月15日に降伏したオランダでは、17日にドイツの占領行政が始まり、28日、合邦前の最後のオーストリア首相で1939年10月からはポーランド総督府副総督を務めていたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが“占領地オランダの国家弁務官”として赴任。同弁務官の下、ハーグに置かれたドイツ政府占領行政機関が直接に統治しました。この間、ウィルヘルミナ女王や首相は英国へ亡命しましたが、郵便を含むオランダ官僚機構はそのまま残されており、オランダ人官僚の多くはドイツの占領行政に協力的でした。

 ところで、1928年11月以降、オランダの郵便料金体系では、国内宛の書状基本料金は、市内便が5セント、市外宛が7セント半、外信便は一般には12セント半でしたが、ベルギー宛は10セントの割引料金が適用されていました。この料金体系は、原則として、1940年5月以降のドイツ占領下でもそのまま継承されています。ただし、ドイツ宛の郵便物に関しては、占領以前は一般の外国宛として12セント半でしたが、占領後の1940年8月2日から1945年5月の終戦まで、ドイツおよびその占領地域宛の郵便物はベルギー宛と同様の割引料金が適用され、10セントとなりました。このため、今回ご紹介のも、“ドイツ・アウシュヴィッツ宛”として、1941年に発行された10セント切手1枚が貼られているわけです。


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 プラド美術館200年
2019-11-19 Tue 01:12
 マドリードのプラド博物館が1819年11月19日に開館してから、ちょうど200周年です。プラド美術館といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      スペイン・裸のマハ(1930)

 これは、1930年にスペインが発行したゴヤ没後100周年の記念切手のうち、「裸のマハ」を取り上げた1枚です。

 歴代のスペイン王家のコレクションを展示するプラド美術館は、1819年11月19日、“王立美術館”として開館しました。1868年の九月革命では王政が倒れ、1873年には第一共和政が成立すると、その過程で王立博物館から、現在の“プラド美術館(その所在地が、かつて牧草地=プラドだったことにちなむ命名)”に改称され、国営化されました。その後、1874年にスペインは王政復古となりましたが、プラド美術館が“王立美術館”に復することはありませんでした。

 美術館の本館となるビジャヌエバ館の建物は、1785年、自然科学に関する博物館を作るため、カルロス3世がフアン・デ・ビジャヌエバに設計させたもので、スペインにおける新古典主義の代表作とされています。結局、建物が博物館として使われることはなく、カルロス3世の孫にあたるフェルナンド7世 (スペイン王)が妻マリア・イサベル・デ・ブラガンサの進言を受けて美術館として利用されることになりました。

 コレクションの基礎はフェリペ2世とフェリペ4世が築いたもので、コレクションは、12世紀のロマネスク様式の壁画から、19世紀のフランシスコ・デ・ゴヤの作品まで広範な領域をカバーしており、所蔵品は、油彩画が約7600点、彫刻が約1000点、版画が約4800点、素描が約8200点におよんでいます。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「裸のマハ」は、1797年から1800年ごろにかけて制作された作品で、大きさは97×190センチ。 西洋美術で、初めて実在の女性(ゴヤとと関係のあったアルバ公夫人マリア・デル・ピラール・カィエターナがモデルともいわれています)の陰毛を描いた作品といわれており、この絵の依頼主を明らかにするため、ゴヤは何度か裁判所に召還されましたが、口を割ることはありませんでした。ただし、この絵は首相を務めたマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかっていることから、依頼主はゴドイだったとみられています。なお、裁判の後、この絵はほぼ100年間、プラド美術館の地下にしまわれ、1901年になってようやく公開されました。


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 香港理工大学での攻防戦
2019-11-18 Mon 04:14
 中国と香港の両政府に対する大規模な抗議行動が続いている香港で、16日夜から断続的に、抗議行動の拠点となっている香港理工大学をめぐり、警察とデモ隊の間で激しい攻防戦が続いています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・鉄路100年(旧紅磡駅)

 これは、2010年に香港で発行された“香港鐵路服務百周年”の記念切手のうち、現在、攻防戦の舞台となっている香港理工大学からも至近距離にある紅磡駅の旧駅舎と、1982年から1999年まで九廣鐵路(現・東鐵綫)で使用された電気機関車の“黄車頭”が描かれています。

 1898年、新界を租借した英国は、九龍半島の先端から廣州までの鉄道の敷設権を獲得。これを受けて、英清間で鉄道建設のための具体的な話し合いが進められ、廣州の羅湖にある深圳河の国境を境に、香港側の35.5キロ(英段)を英国が、廣州側(華段)の143.2キロを清朝が、それぞれ、分担して建設することになりました。

 開通当時の英段の駅は、九龍(尖沙咀)、油麻地(後に旺角)、沙田、大埔、大埔墟、粉嶺です。現在、九龍側の始発駅は尖沙咀の東側、尖東になっていますが、開業当時の“九龍駅”は尖沙咀のスターフェリー乗場のすぐ脇にありました。

 一方、香港理工大学の前身である公立商業学校は1937年に香港島の湾仔で開校しましたが、第二次大戦後、高等技術専門学校に改組され、1957年、尖沙咀東方の紅磡地区に移転。1972年には香港理工専門学校になりました。

 理工専門学校の所在地となった紅磡は、もともとは、紅磡は黄埔ドッグと呼ばれる造船所を中心とした工業地帯で、海岸の紅磡埠頭からは香港島と九龍(北角・中環)を結ぶフェリーが運航していました。また、第一次大戦中にはドイツ人の収容所も置かれていました。

 その後、尖沙咀地区の埋め立てと並行して、1972年、九龍側・紅磡湾の埋立地と奇力島(もともとは島でしたが、現在は埋め立てによって香港島とつながっています)を結ぶ紅磡海底隧道(クロスハーバートンネル)が開通。これに伴い、フェリーの多くは尖沙咀発着となり、紅磡地区はむしろバス路線の発着地点になるなど、陸上交通の拠点へと転換。1975年には、九龍駅が尖沙咀から理工専門学校に隣接した場所に移転したほか、啓徳空港につながる啓徳隧道の建設工事も始まっています。なお、トンネルの開通は1982年のことで、香港理工専門学校が現在の香港理工大学へと昇格したのは、1994年11月25日のことでした。

 香港が中国に移管された後の1998年、現在の香港国際空港(香港國際機場)が開港し、新空港と香港中心部を結ぶMTR機場快線(空港快速線)が開通すると、新たに設けられた機場快線の“九龍駅”との混同を避けるため、旧九龍駅は“紅磡駅”に改名され、現在に至っています。

 さて、香港では、11月8日、6月以来の抗議行動で警察の直接攻撃による“最初の死者”(ただし、警察に拘束されて所在不明となり、すでに死亡している可能性が高い人、“何らかの事情”で拘置所内で死亡した人などを含めると、これまで数十人の死者が出ているとみられています)が出たことで、市民の怒りが爆発。当初、学生たちの抗議行動は、新界地区東部、沙田・馬料水丘陵地帯にある香港中文大学が拠点となっていました。

 このため、11月11日、警察は催涙弾を用いて香港中文大学を攻撃。12日には機動隊が突入し、機動隊の攻撃により、校舎は炎上しました。

 香港中文大学には、同大の情報技術サービス部が運営するインターネット交換センター、Hong Kong Internet eXchange(HKIX)があり、香港でのインターネットメール交換の一大拠点となっています。2011年のレポートでは、香港でのインターネットメール交換の99%以上は、ここを通じて、海外を迂回することなく直接交換および送信されているとされていましたが、現在は、中文大学以外にも4つのHKIXがあるため、中文大学が制圧されても、直ちに、直ちにインターネットが全面停止になるということではわけではないようです。とはいえ、今後、中国・香港の両政府がインターネットの本格的な規制に乗りだす可能性は十分にあるわけで、民主化運動のみならず、一般市民の自由な言論や通信活動が大きく制限される懸念が払拭されたわけではないのですが・・・。

 なお、香港中文大学は、地理的に鉄道と道路網の重要な拠点に位置しているため、中国・香港の両政府としては、民主派に対する海外からの支援を封じ込めて、香港デモを力ずくで鎮圧するためには確保しておくべき拠点だったという意味合いもあったようです。

 その後、今月16日までに、香港中文大学に籠城していたデモ隊は撤収し、抗議運動の中心は香港理工大に移りましたが、上述のように、香港理工大学の紅磡地区は、まさに、九龍半島のみならず香港島へもつながる交通の拠点であり、それゆえ、香港理工大学の向かい側には中国人民解放軍の香港駐留部隊の施設も置かれています。それだけに、香港理工大学が陥落すると、民主派はかなり苦しい立場に追い込まれることになるんは必至です。

 なお、17日の攻防戦を前に、16日には、人民解放軍の将兵が、香港政府の許可なしに、“自発的”に基地外で道路の復旧作業を行っており、このことに対する香港市民の不満と警戒感も強まっているようです。

 いずれにせよ、17日の香港理工大学をめぐる攻防戦では、警察が実弾しか装填できないAR15ライフルを装備した警官隊焼く1000人が大学を包囲し、構内からの脱出が極めて困難になっているほか、理工大学から離れた場所で待機していたボランティアの医師、看護師なども“犯罪者”として全員拘束されたとの情報もあります。警察官の一部は、デモ隊に対して「天安門事件を再演させてやるからな」と語ったとも言われてます。

 1989年の天安門事件の後、その非人道性により全世界から非難され、孤立無援に陥った中国に救いの手を差し伸べ、結果として彼らを増長させるという愚行を行ったのは、日本の海部政権でした。来年(2020年)は習近平の国賓としての訪日が予定されているそうですが、二度と、海部政権の愚行を繰り返してはなりますまい。


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 国際学生の日
2019-11-17 Sun 03:18
 きょう(17日)は、いまから70年前の1939年11月17日、ドイツ占領下のベーメン・メーレン保護領(旧チェコスロバキア)でドイツ軍が学生のデモ行進を鎮圧し、教授2人と学生9人を殺害したことにちなむ“国際学生の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・クラトヴィ宛

 これは、1942年7月18日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がベーメン・メーレン保護領のクラトヴィ宛に差し出したレターシートです。

 現在のチェコ共和国の外縁部にあたるズデーテン地方は、チェコ人の支配するボヘミア王国の時代の東方植民以来、ドイツ系住民の多い地域になっていました。ハプスブルク帝国の支配を経て、1918年、チェコスロヴァキアが独立を宣言すると、ズデーテン地方の帰属をめぐっては、チェコスロヴァキア政府が同政府による実効支配の追認を求めたのに対して、ドイツ系住民がチェコスロヴァキアへの編入に強く反対。ヴェルサイユ講和会議では、米国が民族自決の観点からドイツへの編入を主張したのに対し、フランスは安全保障の観点からチェコスロヴェキアの強化を主張。最終的に、フランスの主張通り、ハプスブルク帝国解体後の戦後処理を定めたサン・ジェルマン条約によって、ズデーテン地方はチェコスロヴァキア領となり、310万人のドイツ系住民はチェコスロヴァキアにおける“最大の少数民族”となりました。

 ところが、これを不満とするズデーテン地方のドイツ系住民の一部は、ズデーテンの自治権を要求。さらに、隣国のドイツがナチス政権下で経済恐慌から脱して経済力を回復すると、コンラート・ヘンラインらのズデーテン・ドイツ人党は、「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を目標に掲げ、ドイツの支援を要請。これを受けて、ヒトラーも“ズデーテン問題の解決”を訴えるようになり、1938年3月の独墺合邦後、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などとチェコスロヴァキアを恫喝し、欧州内では、ヒトラーがチェコスロヴァキアを攻撃するとの観測が強まります。

 このため、1938年9月29-30日、いわゆるミュンヘン会談が行われ、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認し、同年10月1日にはドイツによる軍政が施行されました。なお、ミュンヘン会談の前後、ヒトラーは「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と繰り返していましたが、実際には、一九三九年三月十五日、チェコスロヴァキア国家は解体され、ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領を設置します。

 ところで、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でしたが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まりました。今回ご紹介のレターシートも、その一例というわけです。

 さて、新刊の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、今回ご紹介のカバーを含め、アウシュヴィッツ収容所とベーメン・メーレン保護領との間を往来した郵便物についてもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版
2019-11-16 Sat 04:15
 かねてご案内の通り、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は11月25日)の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の現物ができあがりました。

      アウシュヴィッツ増補版納品時

 つきましては、主催者の公益財団法人・日本郵趣協会のご厚意により、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館で開催中の全国切手展<JAPEX 2019>会場内でも販売させていただくことになりましたので、そのご報告とともに、刊行のご挨拶を申し上げます。(画像は表紙のイメージ)

      (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙

 2015年に上梓した旧版の『アウシュヴィッツの手紙』は、思いがけずご好評をいただき、おかげさまで在庫もほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、このたび、11月25日付で同書の改訂増補版を出版することになりました。今回の拙著は、改訂増補版という性質上、基本的には旧版の構成を踏襲していますが、旧版の第三章「III アウシュヴィッツの手紙」の部分については、資料のみならず記述面でも大幅に加筆したことから、アウシュヴィッツ第一および第二収容所とその郵便について扱った「III アウシュヴィッツの手紙」と、モノヴィッツの第三収容所ならびに外国人労働者とその郵便を扱った「IV モノヴィッツおよびI.G.ファルベンと郵便」の二章に分割し、そのうえで、旧版同様、最終章として「V アウシュヴィッツの戦後史」を加えて、全体を五章構成としています。もちろん、旧版に見られた誤記などは可能な限り修正するよう心掛けたほか、ポーランドの切手・郵便史の大家として国際的にも著名な山本勉氏のご指導を得て、固有名詞の表記なども全面的に見直しています。

 なお、旧版ならびに改訂増補版を通じて、『アウシュヴィッツの手紙』を通じて、僕がいいたかったことを、今回の改訂増補版の「あとがき」としてまとめてみました。少し長いのですが、その主要部分を転載しますので、お読みいただけると幸いです。

*****
 被爆地としての広島は“ヒロシマ”とカナ書きにされることがある。その理由としては、しばしば、原子爆弾の惨禍と平和の尊さを世界に発信するため、一般的な地名の“広島”とは区別するためだとの説明がなされることがある。

 被爆地として“世界のヒロシマ”であることを強調するために、あえてカナ書きのヒロシマを使おうという意図は、それなりに尊重されるべきではあろう。

 しかし、厳島神社平家の故地であり、日清戦争の際には首都がおかれた軍都であり、第二次大戦後は広島東洋カープの本拠地となってきたことなどをすべて捨象して、“ヒロシマ”を被爆地としてのみ語ることには、筆者はぬぐいがたい違和感を抱いてきた。やはり、“広島”が包摂してきた歴史的連続性の中に位置づけることによってこそ、被爆地としての“ヒロシマ”の意義も明瞭に浮かび上がってくるのではないだろうか。

 本書の主題であるアウシュヴィッツについては“ナチス・ドイツによるホロコーストの象徴的な場所”としてのみ語られることが圧倒的に多い。

 さらに、2018年、現在のオシフィェンチムの主権者であるポーランド国家が、ポーランド(人)のホロコーストへの加担を批判することや、ポーランド国内に存するという意味で“ポーランドのアウシュヴィッツ”ということを違法としたという報道に接し、筆者は強い衝撃を受けた。

 今後、(すくなくともポーランド国内では)“アウシュヴィッツ”とオシフィェンチムとの歴史的連続性は否定され、アウシュヴィッツはただ単に、他から孤立・断絶した歴史上の汚点とされていくだろうし、その結果、これまで以上に、“ホロコーストの場所”としてのみアウシュヴィッツ/オシフィェンチムを語る(=ホロコースト以外のアウシュヴィッツ/オシフィェンチムの歴史をすべて捨象する)傾向が世界的にも強まるかもしれない。

 はたして、それが妥当なことだろうか。

 本書でも縷々述べてきたように、オシフィェンチムには、中世以来、小さいながらも公国が存在し、18世紀末のポーランド国家消滅後、第一次大戦までこの都市はハプスブルク帝国の支配下で地域の物流拠点となっていた。そして、そうした背景があったがゆえに、ナチス・ドイツは、この地に巨大な収容所を建設したのである。

 もちろん、ナチス・ドイツが国策としてホロコーストを遂行し、アウシュヴィッツなどの収容所では、夥しい数のユダヤ人がガス室で処刑され、あるいは、過酷な重労働を課せられたことは紛れもない事実であり、それらは“人道に対する罪”として未来永劫、批難され続けるべきものだろう。アウシュヴィッツがその象徴として語り継がれていくべきであるのは当然のことだ。その意味で、筆者は、たとえば「ガス室はなかった」という類の主張には絶対に与しないし、ナチスの蛮行を擁護するつもりも毛頭ない。

 しかし、“アウシュヴィッツ”がユダヤ人大量虐殺の場としてのみ語られることで、アウシュヴィッツ/オシフィェンチムのさまざまな相貌を、意図的に歴史の闇に埋没させてしまってもかまわないということにはならないはずだ。

 そもそも、アウシュヴィッツはポーランド人を対象とした収容所として出発し、それゆえ、収容者の多くがキリスト教徒であったという事情もあって、所内では(ささやかながら)クリスマスが祝われることもあった。

 また、収容者は、大きな制約を受けながらも、郵便を通じて外部世界との連絡を保ち、ともかくも、自分が生存しているとの情報を発信することができた。ちなみに、第二次大戦後、あらゆる国際法を無視して多くの日本人をシベリアに連行したソ連当局は、終戦から1年以上後の1946年10月まで、ソ連は日本人抑留者と家族との通信を認めていない

 さらに、アウシュヴィッツの収容者には家族等からの食糧や現金の差入も認められており、収容所当局は、組織としてはそれを横領することなく、それらを誠実に収容者に届けていた。逆に言えば、収容者を劣悪な環境の下に置き、文字通り死ぬまで働かせる、あるいは、働けないと判断したら容赦なくガス室に送って虐殺するという非道の限りを尽くしていながら、収容者宛の郵便物や送金、小包などはしかるべき相手に律儀に渡していたというグロテスクなアンバランスこそが、ホロコーストを“日常業務”として淡々とこなしていたナチスの体制の異常さを浮き彫りにしていると見ることもできる。

 もちろん、アウシュヴィッツの収容者は常に死と隣り合わせの環境にあり、彼らへの送金や通信を認めていたからといって、ナチスが収容者の人権にも配慮していたとはいえないのは当然である。

 しかし、“アウシュヴィッツ”を正確に理解しようとするなら、そして、ボーア戦争時のconcentration camp以来の世界の“強制収容所”の歴史の中で“アウシュヴィッツ”を位置づけようとするなら、こうした点を見落としてはなるまい。

 そして、“アウシュヴィッツ”が解放されても、決してポーランドのユダヤ人に対する迫害は収まったわけでなく、むしろ、ポーランドの共産主義者たちは、ユダヤ人への迫害を含め、ナチス・ドイツに勝るとも劣らぬ抑圧的な体制を敷き、あろうことか、“アウシュヴィッツ”を利用して、それを糊塗しようとさえしてきた。

 アウシュヴィッツ/オシフィェンチムを“ホロコーストの象徴”として矮小化(あえてこう言う)するのではなく、数奇な歴史をたどってきた都市の全体像を正確に理解しようとするなら、いずれも、避けて通ることのできないポイントだろう。

 筆者は、これまで、郵便学者として、切手や郵便物を通じて、歴史や国家のありようを再構成しようとしてきたが、そうであればこそ、歴史上の特定の出来事やその前後での変化もさることながら、対象となる国や地域の歴史的連続性(ないしは不変の要素)をできるだけ描きたいと思っている。本書もその試みの一つだが、その成否については、読者諸賢に判断をゆだねたい。

*****

 今後、書店の店頭などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したいという方は、ご連絡いただければ資料をお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。


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 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

日本史検定講座(全8講)
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 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

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 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )



★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 きょうから<JAPEX 2019>
2019-11-15 Fri 00:40
 きょう(15日)から17日まで、東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館6・7階で全国切手展<JAPEX 2019>が開催されます。今回は、日本オーストリア友好150周年ならびに日本ハンガリー外交関係開設150周年ということで、“ハプスブルク帝国切手展”という企画出品の部門があるので、僕も、11月25日付で刊行予定の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』のプロモーションを兼ねて「アウシュヴィッツ/オシフィェンチム ハプスブルク時代」と題して、ハプスブルク支配下のアウシュヴィッツ/オシフィェンチムについてまとめた1フレーム作品を出品しております。というわけで、きょうはその作品の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツから上海宛

 これは、1905年12月9日、ハプスブルク支配下のオシフィェンチムから上海宛に差し出された郵便物で、宛先が“ゴールドシュタイン(Goldstein)”というユダヤ系特有の名前の企業になっていること、名宛人と差出人が同姓で差出人の名前に敬称がつけられていないことから、ユダヤ人の親族間の通信ではないかと推測されます。

 バグダードとイラク南部のパシャ(地方君主)の下で代々、会計主任を務めていたユダヤ人のサスーン家は、地元政府の弾圧を受けたことからペルシャを経てボンベイ(ムンバイ)に移住し、1832年、当時の当主だったデイヴィッドがサスーン商会を設立。時あたかも、英国はインド産のアヘンを中国に輸出して巨額の利益を得ていた時代で、サスーン商会はアヘン貿易で巨額の利益を蓄えます。

 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が結ばれ、上海が開港されると、外国人の居留地ができましたが、1845年には、英国やフランスが黄埔江(長江の支流)の西岸に租界(外国人が行政・警察機構を握り、中国の主権が及ばない開港地内の地域)を形成。それらは、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編されます。

 デイヴィッドは、ここに次男のイリアスを派遣し、サスーン商会上海支店を開設。以後、サスーン商会は英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していきましたが、それと同時に、サスーン商会の関係者や取引先などを中心として、上海にもユダヤ人コミュニティが形成されていきます。19世紀後半から20世紀初頭にかけての上海在住のユダヤ人の出身地としては、インドが最も多く、これにドイツ、ロシアが続きましたが、ハプスブルク地域やフランス、イタリアの出身者も少数ながら存在していました。今回ご紹介のカバーの名宛人も、おそらくその一人だったのでしょう。

  現在のポーランドに相当する地域では、1264年、カリシュ公国のボレスワフ敬虔公がユダヤ人を対象としてポーランド国内の移動の自由、商業の自由、宗教の自由など多くの権利を認め、ユダヤ人の共同体を自らの保護下に置いています。

 1335年、カジミェシュ3世が首都クラクフのヴィスワ川対岸に新たな町、カジミェシュを建設し、ユダヤ人移民に居住地を提供すると、この地域はユダヤ人の集住地区となり、ユダヤ人の居住地区はカジミェシュの領域を超えてクラクフ中心部にも拡大していきました。

 18世紀末のポーランド分割後、クラクフとカジミェシュはハプスブルクの支配下に置かれましたが、新たな支配者となったハプスブルク帝国がカジミェシュを“クラクフ市”に編入したことで、クラクフ市は、中欧随一のユダヤ人口を抱える都市となります。さらに、1867年制定のオーストリア=ハンガリー帝国憲法において、クラクフのみならず、オーストリア=ハンガリー帝国在住のすべてのユダヤ人に完全なる市民権が与えられると、クラクフからオシフィェンチムを含む帝国各地に移住するユダヤ人も増加。そこから極東へ移住していくユダヤ人も出てきたというわけです。

 今回ご紹介のカバーは、上海に到着した後、まずは現地のドイツ郵便局(1886年8月16日開局)が引き受けます。上海のドイツ局では、当初、一般的な欧文表示の“SHANGHAI”と表示された郵便印を使用していましたが、1905年8月28日以降、ドイツ語風に“SCHANGHAI”と表示した郵便印が使用されています。このカバーは、ドイツ局でその“SCHANGHAI”表示の印が押された後、そこから地元の郵便局(“LOCAL POST”の印がある)に引き渡され、名宛人に配達されました。

 時代は下って、1938年3月、独墺合邦が行われると、同年8月、オーストリアのユダヤ人は、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、イタリア船で上海に亡命。その後も、ドイツ占領下の旧ハプスブルク地域(オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキアポーランドなど)からは多くのユダヤ難民が上海に集まり、北外灘の舟山路は“リトル・ウィーン”と呼ばれるほどになりましたが、このカバーは、その遠いルーツを偲ばせる一点といえるかもしれません。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、11月25日付で増補改訂版を出版すべく準備を進めていましたが、明日午前中にも、実物ができあがってくる見込みです。そこで、主催者のご厚意で、明日の午前中に増補改訂版を<JAPEX>会場に持ち込み、15日午後からをめどに先行販売をさせていただくことになりました。会場へお越しの方は、ぜひ、お手に取ってご覧いただけますと幸いです。


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 大嘗祭
2019-11-14 Thu 01:00
 きょう(14日)は、今上陛下のご即位後、最初の新嘗祭(新穀を祀る儀式)となる大嘗祭の日です。というわけで、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      昭和大礼10銭

 これは、1928年11月10日、昭和天皇の即位の大礼に際して発行された記念切手のうち、大嘗祭の行われる大嘗宮を描いた10銭切手です。切手は、即位の大礼の際に陛下が着用される黄櫨染御袍にちなんで黄色の着色紙に印刷されており、黄ばんでいるわけではありません。

 大嘗宮は、大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼される建造物で、朝堂院の前庭に設置されていました。かつては、祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に完成という段取りでしたが、現在では、資材の調達の関係などもあって、造営には数か月が必要となっています。
 
 さて、切手の下部には稲が描かれていますが、大嘗祭では、神饌として供される稲を収穫する“斉田”を選定するところから始まります。

 大嘗祭の祭祀は同じ所作が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ悠紀・主基と呼ばれます。悠紀は、もともとは“斎城(聖域)”、主基は“次(ユキに次ぐ)”のことで、悠紀は東から、主基は西から選ばれるのが原則です。かつては、畿内5国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)を除いたうえで、近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされていましたが、明治以降は全国から選出されるようになり、平成以降は斎行場所が東京になったため、悠紀国は新潟、長野、静岡を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となりました。ちなみに、今回の大嘗祭では、旧国名でいうと、悠紀国が下野、悠紀国が丹波です。

 大嘗宮が、北側の廻立殿を挟んで、東の悠紀殿と西の主基殿で構成されているのもこうした事情によるもので、両殿では同じ祭祀が2度繰り返して行わるため、両殿の内部は同じ構造で、中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾をかけ、御単を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥が置かれています。その東隣には伊勢神宮の方向を向いた御座がおかれ、御座と向かい合って神の食薦を敷き、事実上の“神座”として扱われています。

 建物の構造としては、両殿とも、黒木造 (皮つき柱) 掘立柱、切妻造妻入りで青草茅葺きの屋根、8本の鰹木と千木にむしろが張られた天井というのが本来の姿です。ただし、千木に関しては、悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎという違いがあります。

 なお、今回の大嘗宮主要三殿の屋根材は、①茅資材の慢性的不足、②価格の高騰、③職人の高齢化と人数不足、を理由に初めて板葺きとされましたが、やはり、新穀を祀るという神事の意味に照らせば、本来の茅葺きにしてほしかったですね。今回はやむを得ない例外として、次の大嘗祭の際には、ぜひ、茅葺きの大嘗宮を復活させていただきたいものです。


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 香港警察、中文大学に突入
2019-11-13 Wed 01:05
 中国と香港の両政府に対する大規模な抗議行動が続いている香港で、昨日(12日)、香港警察は抗議活動の拠点となっている香港中文大構内に部隊を突入させ、学生側と激しい衝突が発生。香港メディアによると、多数の学生らが負傷し、拘束され、現場にいた学長も催涙弾に巻き込まれたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      香港中文大学

 これは、1969年、英領時代の香港で発行された“香港中文大学”の切手です。

 香港中文大学は、英語での教育・研究を行う香港大学に対抗するため、新亜書院、崇基学院(クリスチャン・カレッジ)、聯合書院が1963年に合併して創設された公立大学で、現在のキャンパスは、新界地区東部、沙田・馬料水丘陵地帯にあります。大学名の“中文”は、中国語のみならず中華文化全般を意味しており、教授言語は中国語(廣東語ならびに北京語)と英語。学生は、各書院と学院に所属する英国式を採用しています。

 文学院、工商管理学院、教育学院、工程学院(工学部)、医学院、法学院、理学院及び社会科学院の8学部、61学系(専攻科)を有しており、これまでに、高錕と楊振寧がノーベル物理学賞、ジェームズ・マーリーズとロバート・マンデルがノーベル経済学賞を受賞しているほか、そのビジネススクールはアジア最古のMBAとして世界的にも知られる名門です。

 さて、香港では、11月8日、6月以来の抗議行動で警察の直接攻撃による“最初の死者”(ただし、警察に拘束されて所在不明となり、すでに死亡している可能性が高い人、“何らかの事情”で拘置所内で死亡した人などを含めると、これまで数十人の死者が出ているとみられています)が出たことで、市民の怒りが爆発。9日には、亡くなった大学生の大規模な追悼集会が開かれ、約10万人の市民が参加したほか、10日には各地で警察との衝突が発生。一部デモ隊が地下鉄駅の改札口や親中派とみなす飲食店を破壊するなど騒擾が激化していました。
 
 学生たちの抗議行動が行われていた香港中文大学でも、11日から警察による催涙弾の攻撃が続いていましたが、12日になって機動隊が突入。機動隊の攻撃により、校舎は炎上し、一部の学生たちが籠城している(逃げ遅れて籠城せざるを得ない?)状況のようです。1989年の天安門事件を連想させる武装警察の攻撃は、今後、国際社会から強い非難を浴びることは必至で、我が国も、来年(2020年)に予定されている習近平の国賓としての訪日についても中止を検討せざるを得ないでしょう。

 また、香港中文大学には、同大の情報技術サービス部が運営するインターネット交換センター、Hong Kong Internet eXchange(HKIX)があり、 2011年のレポートによると、香港でのインターネットメール交換の99%以上は、ここを通じて、海外を迂回することなく直接交換および送信されています。したがって、香港中文大学と HKIX が制圧されてしまうと、香港では、民主化運動のみならず、一般市民の自由な言論や通信活動が大きく制限される事態になりかねません。

 我々日本人にできることは限られていますが、現在の状況をできる限り拡散し、香港の民主派との連帯の意思を示すことは重要だろうと思います。


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 劉少奇没後50年
2019-11-12 Tue 03:59
 中国の国家主席だった劉少奇が、文化大革命さなかの1969年11月12日、非業の死を遂げてから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・劉少奇生誕85年

 これは、1983年に中国が発行した“劉少奇同志誕生85周年”の切手です。

 劉少奇は、1898年、湖南省の寧郷県で生まました。1920年、湖南省の中国社会主義青年団(現中国共産主義青年団)に入り、翌1921年、ソ連に渡ってモスクワの東方勤労者共産大学で学びつつ、同年、中国共産党(以下、中共)に入党しました。1922年、コミンテルン主催の極東諸民族大会に参加したのち、帰国。李立三とともに江西省の安源炭鉱のストライキを指揮し、李立三らとともに指揮して闘争を成功させ、1927年には党の中央委員に選出されました。

 1927年に第1次国共合作が崩壊すると、国民党支配地域での地下活動に従事し、1934年10月以降、長征に参加。1935年、党中央より華北に派遣され、1937年に“抗日戦争(支那事変)”が始まると、華北地区での抗日運動を指導しました。さらに、1941年、安徽省南部で国民党軍と中共の新四軍の武力衝突が発生し、新四軍が壊滅的な打撃を被ると、壊滅状態となった新四軍の政治委員に就任し、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に努めました。

 1943年、延安に戻り党中央書記処の書記に就任。1945年4-6月に開催された第7回全国代表大会(党大会)では「党規約の改正についての報告」を発表し、“毛沢東思想”の語を初めて公式の文書に使用。大会後、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で、毛沢東に次ぐ党内序列2位の中央委員・中央政治局委員・中央書記処書記に選出されました。

 1949年10月、中華人民共和国の建国が宣言されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任。建国後間もない1949年11月16-23日、北京で開催された世界労働組合連合会・アジア大洋州労働組合会議では、劉は中国全国総工会名誉会長の肩書で会議の議長を務め、開会の辞として「アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない」とする“劉少奇テーゼ”を発表。この発言は、南侵を企図していた北朝鮮の金日成の背中を押すことになったほか、日本共産党が山村工作隊などの武装闘争路線へと転換していく端緒となりました。

 その後、劉は、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会筆頭副主席として、毛沢東に次ぐナンバー1としての地位を確立していきます。

 1958年、毛沢東が発動した大躍進政策が惨憺たる失敗に終わると、1959年7月、国防部長(国防大臣に相当)兼国務院副総理の彭徳懐は毛沢東に対して私信の形式を取って政策転換を求めます。この結果、毛の逆鱗に触れた彭は国防部長と中央軍事委員会委員の地位を解任されますが、反面、劉少奇・鄧小平らの官僚グループにより、大躍進の失敗を修復するための調整政策が行われることになり、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任しました。

 1962年、劉は「今回の大災害は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認め、毛も「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、政務の一線を退かざるを得なくなりました。

 劉少奇・鄧小平の調整政策に対して、毛は「矯正しすぎて右翼日和見の誤りを犯している」と批判。これに対して、劉は「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と応じ、調整政策を維持しようとしました。

 これに対して、調整政策に不満な毛沢東と林彪らは大衆を動員し、劉ら“実権派”の追い落としをはかります。

 その端緒となったのが、1965年11月10日、姚文元が上海の新聞『文匯報』に発表した論説「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」です。この論説は、北京市副市長で歴史家の呉晗が執筆した戯曲『海瑞罷官』(明代の官僚、海瑞が嘉靖帝を諫める上訴をして罷免された事件を題材にした史劇)を、プロレタリア独裁と社会主義に反対する“毒草”として攻撃するもので、当初の政治的な意図は呉の上司にあたる北京市長の彭真を失脚に追い込むことにありました。しかし、1965年12月21日、毛が「嘉靖皇帝は海瑞を罷免した。59年、我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も“海瑞”だ」と述べたことで、彭徳懐への批判と結び付けられ、後の文革の端緒となりました。

 当初、劉は批判の矛先が自分に向けられているとは認識していませんでしたが、文革派は劉少奇を鄧小平とともに“資本主義の道を歩む実権派”の中心として打倒の標的に設定。1966年8月の第8期11中全会で、毛が配布した論文「司令部を砲撃せよ」では、名指しこそされなかったものの、参会者には“司令部”が劉少奇を示していることは明らかで、同会議の結果、劉は政治局常務委員に残留したものの、副主席の任は解かれ、党内の序列も第2位から第8位に降格されました。

 1967年に入ると党の内外から劉批判の文書が出回り始め、劉の自宅には文革派が乱入し、執務室の電話線は切断され、劉は外部との連絡を絶たれます。この時期、息子の劉源が「食後に紅衛兵による“遠征(「反革命分子」に対する家宅侵入や略奪、破壊などの行為)”に行く」と話したところ、劉は中華人民共和国憲法を持ち出して、「四旧」(古い文化とされた物品や事象)の破壊はかまわないが家宅侵入や窃盗、暴行は許されない。自分は国家主席だから国の法を守る義務がある」と諭した上で、「私にはお前たちを止めることはできない。だが、私はお前たちに本当のことを言う義務があるし、お前たちの行動は私の責任でもあるのだ」と述べたというエピソードが知られています。

 しかし、1967年4月1日付の『人民日報』は、劉を“中国のフルシチョフ”と名指しで非難。以後、劉に対する攻撃は激しさを増していきます。特に、毛夫人の江青は、劉夫人の王光美に対して激しいライバル意識を持っていたため(毛と江の夫婦関係が冷え切っていたのに対して劉と王は仲睦まじかったこと、王が英語に堪能で、劉とともに外遊先ではチャイナドレスを礼装として着用し、華やいだ容姿もあって“ファースト・レディ”として国民の注目と人気を集めたこと、などが原因とされています)、江青に扇動された紅衛兵らの劉・王夫妻への攻撃はすさまじく、夫妻はとともに大衆の前での批判大会に連れ出され、執拗な吊し上げを受けるのが常態化しました。同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃され、以後、事実上幽閉の状態となります。

 そして、1968年10月に開催の第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を解任する処分が決議され、劉は失脚しました。

 その後も、劉は自宅監禁の状態に置かれ、体調が悪化した後も散髪、入浴を許されず、警備員から執拗な暴行や暴言を受け続けました。1968年夏に高熱を発した後は寝たきりの状態になりましたが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態でした。それでも、「生きているうちに劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよ」という江青の指示により、最低限の治療は施されて、劉は死ぬことさえ許されないという悲惨な境遇に置かれ続けました。

 1969年10月17日、河南省開封市に移送た劉は、寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫に幽閉されます。そして、満足な治療も受けられないまま、11月12日に亡くなりました。遺体は火葬にされた後、火葬場の納骨堂に保管されましたが、その死は長らく外部には秘匿されていました。

 1976年に毛沢東が亡くなり、鄧小平が復権すると、1980年2月、第11期5中全会は劉の除名処分がを取り消し、名誉回復がなされるとともに、彼が1969年に開封で病死していた事実が初めて公式に明らかにされました。


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