内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 佐藤琢磨、インディ500で優勝
2017-05-29 Mon 10:36
 モナコグランプリ、ル・マン24時間レースとともに世界三大レースの一つとされる米国の第101回インディアナポリス500マイル(以下、インディ500)の決勝が、現地時間28日午後(日本時間29日未明)、米インディアナポリスのインディアナポリス・モータースピードウエーで行われ、元F1ドライバーの佐藤琢磨が日本人として初優勝を果たしました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・インディ500

 これは、2011年5月20日に米国で発行された“インディ500・100周年”の記念切手で、1911年の第1回の優勝者、レイ・ハルーンが、黄色と黒のマーモン“ワスプ”(優勝マシン)で疾走する場面が描かれています。

 インディ500の決勝レースは、毎年、米国のメモリアル・デイ(5月の最終月曜日)の前日の日曜日、インディアナ州のインディアナポリス・モーター・スピードウェイ(IMS)のオーバルトラック(500マイル:804.672km)で行われます。IMSは世界で初めて“スピードウェイ”の名を冠したサーキットで、当初のコースはアスファルト舗装ではなく、レンガが敷かれていたため“ブリック・ヤード”と呼ばれていました。その名残は現在でも残されており、スタートラインには1ヤード(0.9144m)だけ、特殊加工されたレンガが敷かれています。

 また、第1回のインディ500が行われた1911年当時は、ドライバーに加えて、メカニックがマシンに同乗し、走行中の故障やパンクの修理、後方や側方のマシンの動向を監視等を行っていましたが、ルイ・ハルーンはメカニックを乗せずに一人で運転していました。このため、他のドライバーから周囲が確認できないのは危険であると指摘され、バックミラーをつけて対応。これが、レーシングカーにバックミラーが付けられた最初の事例で、フィル・ジョーダンのデザインした切手にもそうした特徴がしっかりと描かれています。

 ちなみに、日本人ドライバーがインディ500で優勝したのは今回の佐藤琢磨が最初ですが、エンジンサプライヤー(エンジン製造者)としては、トヨタ(2003年)とホンダ(2004年-2012年、2014年、2016年-2017年)が、それぞれ優勝を記録しています。


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 6月1日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第3回目が放送予定です。今回は、5月26-27日にG7サミットが行われるシチリアにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 本家フライドポテトはどっちだ?
2017-05-28 Sun 12:02
 米ファストフード大手のバーガーキングが、同社とベルギーのフィリップ国王と対比し「どっちがキングかな?」と問う広告をインターネット上に掲載(下の画像。以下、画像はクリックで拡大されます)。広告では、どちらか選ぶよう促したうえで、“フィリップ国王”を選ぶと「いいのか?  この男はフライドポテトを作れない」と問い掛けてくるようになっていました。

      バーガーキング

 これに対して、昨日(27日)、ベルギー王室は「国王のイメージを利用するには許可が必要だ。この特殊な件に関し、王室は何も聞いていないし、商業目的なのは明白で、許可することもない」と強い不快感を表明しました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。

      ベルギー・フライドポテト

 これは、2015年にベルギーが発行した外信用無額面永久保証切手で、同国発祥の料理としてフライドポテトが取り上げられています。

 現在のフライドポテトは、1600年頃、(ワロン地域)のナミュールで、農民たちが作り始めたフリッツ(Frietjes)が起源とされています。当時、ナミュールを含む南ネーデルランドはスペインの支配下に置かれていましたが、その後、ハプスブルク(1713-94年)、フランス(1794-1815年)、ネーデルランド連合王国(1815-30年)の支配を経て、1830年、ベルギー王国として独立しました。このため、ナミュールが属する国ということで、現在、ベルギーはフライドポテト発祥の地とされているわけです。

 もともと、ナミュールにはムーズ川で釣った魚をフライにして食べる習慣がありましたが、冬の間は川が凍結して魚が獲れないため、魚の代わりに細く切ったジャガイモをヘット(牛脂)で揚げて食べていました。これがフライドポテトの原型です。ただし、当時のヨーロッパではジャガイモは主として家畜の飼料にされ、人間の食用とされることは稀でしたので、ナミュールのフリッツが広く普及することはありませんでした。

 その後、フランス革命の混乱でパンおよび原料の小麦が不足すると、革命政府はその代用としてジャガイモを配給。これを機に、ジャガイモ食がヨーロッパで広まり、フリッツも普及します。

 一方、米国では、1802年、トマス・ジェファーソンがパリからフリッツのレシピを持ち込みましたが、民間の家庭料理としてはあまり普及しませんでした。しかし、第一次大戦中、多数の米兵が欧州戦線に派遣されると、彼らを通じてベルギーの国民食となっていたフリッツが米国でも普及するようになります。なお、現地でフリッツに出会った米兵たちは、地元の住民がフランス語を話していたため、これを“フランスのポテト”と誤解。それがし“フレンチ・ポテト”の由来となったといわれています。

 第一次大戦後、“フレンチ・ポテト”の可能性に目を付けたクラレンス・バーズアイは、1920年代に急速冷凍の特許を取得し、冷凍ポテトの販売を始めましたが、当時は冷凍庫の普及率が低く、商品としてはほとんど売れませんでした。その後、1950年代に冷凍庫が家庭にも普及するようになると、第二次大戦中に乾燥野菜を米軍に納入して巨額の利益を上げたジョン・リチャード・シンプロットがバーズアイの技術に着目。1950年代にアイダホ州でジャガイモの大農場と巨大な加工工場を使り、大々的にフライドポテトを販売。さらに、1965年にはマクドナルドがシンプロットの冷凍ポテトを導入したことで、フライドポテトは全世界的に普及していくことになりました。

 ちなみに、今回、問題となった広告を出したバーガーキングがフロリダ州マイアミのハンバーガーレストランとして創業したのは1954年のことですから、当初から現在と同じようなフライドポテトを作っていたとしても、ベルギーのフリッツからは300年以上も後発ということになります。したがって、僕だったら、今回の同社の広告への対抗措置としては、「どっちが本家かな?」のタイトルで同じデザインのサイトを作り、バーガーキングを選ぶと「いいのか? こちらのフライドポテトは“元祖”の味じゃない」と国王陛下の声で流れるような仕掛けにしてやりたいですな。


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 南スーダンPKO、陸自撤退完了
2017-05-27 Sat 12:02
 南スーダン国連平和維持活動(PKO)に参加していた陸上自衛隊部隊のうち、最後まで現地に残っていた田中仁朗隊長を含む11次隊の約40人が、けさ(27日)、帰国しました。2012年に始まった南スーダンPKOでは、延べ3854人の自衛隊員が派遣されて道路や公共施設などのインフラの整備にあたり、整備した道路の距離は250kmに及ぶなど国づくりに貢献しました。関係者の皆様、長い間、お疲れさまでした。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      南スーダン・独立1周年

 これは、2012年7月9日に発行された“南スーダン独立1周年”の記念切手です。

 1881-99年にエジプトの南に存在していたマフディー王国は、現在のスーダンと南スーダンをあわせた地域にほぼ相当していました。1899年、マフディー王国は滅亡し、その領域は“スーダン”としてエジプトと英国の両国による共同統治下に置かれます。英埃領スーダン内部では、イスラム・アラブ系・アラビア語を中心とする北部と、アニミズム・キリスト教・アフリカ系・英語を中心とする南部の相違が大きかったこともあり、1924年以降は南北分割統治が行われます。その際、マラリアなどの予防の名目で北緯8度以北の者が南へ、同10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことなども、南北の分裂を加速することになりました。

 第二次大戦後、植民地再編の過程で、スーダン南部を支配していた英国は南部スーダンとウガンダの統合を望みましたが、1947年のジュバ会議で南北スーダンの統合が決められ、1954年の自治政府発足を経て、1956年1月1日、旧スーダン国家が独立します。しかし、1955年以降、南北の内戦が勃発。以後、石油利権や民族問題をめぐって2度の内戦がおこり、計約200万人が死亡。2005年にようやく和平協定が結ばれました。

 和平協定では、6年間の北部と南部の合体による暫定統一政権の下、南部に自治政府を設置したうえで、5年後の暫定統一政権の首長(大統領)選挙、6年後に南部の独立の是非を問う住民投票を行うこととされていたため、これに従って、2011年1月、南スーダンの独立の是非を問う住民投票が国際監視下で実施され、独立賛成派が98.83%もの圧倒的多数を獲得。同年7月9日、南部が“南スーダン共和国”として独立しました。

 これに先立ち、独立前日の7月8日、国連安保理決議1996が採択され、南スーダンの平和維持活動を担う国際連合南スーダン派遣団(国連南スーダン共和国ミッション、UNMISS)が現地で活動を開始。同年11月に日本はUNMISSに司令部要員を派遣し、翌2012年1月からは自衛隊施設部隊も派遣されました。

 南スーダンの独立により、旧スーダンでの南北対立は収束したものの、こんどは南スーダン内での抗争が勃発。特に、2013年7月、初代大統領のサルバ・キール・マヤルディが、副大統領のリエック・マチャルを含む与党スーダン人民解放運動(SPLM)の主要幹部を一斉に解任する内閣改造を行ったことで、キール派とマチャル派の亀裂は決定的となりました。そして、同年12月14日、首都ジュバでスーダン人民解放軍の一部と大統領警護隊が衝突。これに部族対立が絡んで、500人余の死者が出る流血事件となりました。

 首都の騒乱は間もなく鎮圧され、キールは首都ジュバを掌握することに成功したものの、逆に、地方ではマチャルを担いだ反乱が頻発する状況が続きます。その後、2015年8月、国際社会の調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が両関係当事者によって署名されたことを受け、翌2016年4月には、キールがマチャルを第一副大統領に就任させるなど、南スーダンの内戦は終結に向かうかと思われました。

 しかし、キール派とマチャル派の相互不信の根は深く、2016年7月、キール派の正規軍とマチャル派の武装勢力との間で銃撃戦が発生。これを機に再燃した内戦は、現在も続いています。


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 G7サミット、きょう開幕
2017-05-26 Fri 12:29
 G7サミット=主要7か国の首脳会議“シチリア・サミット”が、きょう・あす(26・27日)、イタリア・シチリア島のタオルミーナで開催されます。というわけで、きょうはシチリア島関連のマテリアルの中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      シチリア革命(1848)カバー

 これは、1849年3月21日、シチリア自由政府支配下のシチリア島メッシーナ県カストロレアーレから差し出された郵便物で、シチリアの紋章である“トリナクリア”の入った印が押されています。トリナクリアは、ギリシャ語の“3つの岬”に由来する語で、シチリア島のパレルモ、メッシーナ、シラクサの岬を意味するところから、シチリアの古称としても用いられます。紋章としては、ギリシャ神話のメデューサの顔を中心に、3つの岬を意味する3本の素足を組み合わせたデザインになっています。

 11世紀半ば、イタリア半島南部(現在のカンパニア州、カラブリア州、プッリャ州、アブルッツォ州、モリーゼ州、バジリカータ州とラツィオ州の一部)とシチリア島を征服したノルマン人は、1130年、シチリア王国(オートヴィル朝)を創建。オートヴィル朝は1194年に滅亡し、シチリア王国は神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家の支配下に置かれましたが(ホーエンシュタウフェン朝)、1281-1302年のシチリア晩祷戦争の結果、シチリア王国の版図はバルセロナ家の支配するシチリア島のトリナクリア王国 と、アンジュー家の支配する半島部のナポリ王国に分離されました。

 両王国は、いずれも、“シチリア王国”を自称していましたが、次第にシチリア王国と言えばシチリア島側のみを指すようになり、半島側は“ナポリ王国”の名が定着します。

 18世紀初頭のスペイン継承戦争を経て、ナポリ王国の版図はハプスブルク家の、シチリア島はサヴォイア家の支配下に置かれましたが、1720年、両者はシチリア島とサルデーニャ島を交換し、ナポリとシチリアはハプスブルク家の支配下に入ります。その後、1733-34年のポーランド継承戦争を経て、ナポリ王国とシチリア王国はスペイン・ブルボン家(ボルボン家)によって統治されることになりました。

 ナポレオン戦争の時代、ナポリ王国はフランスに占領され、ナポリ王(にしてシチリア王)のフェルディナンドはシチリア島に退避しましたが、ナポレオンの失脚後、1815年6月にナポリに帰還。翌1816年12月、フェルディナンドはナポリとシチリアを“両シチリア王国”の名の下に合併します。これに伴い、フェルディナンドは、“ナポリ王フェルディナンド4世”と“シチリア王フェルディナンド3世”のふたつの称号をまとめて“両シチリア王フェルディナンド1世”と称することになりました。

 1830年、20歳で即位したフェルディナンド2世は、当初、自由主義に理解のある開明的な君主として知られていましたが、1837年、シチリアで大規模な立憲君主制移行を求めるデモが発生すると態度を硬化させ、これを武力で鎮圧。その後も、憲法の制定と立憲君主制への移行を求める自由主義者と対立し、国王親政を主張し続けました。

 こうした状況の下、1847年9月、カラブリアとメッシーナでの反国王の大暴動が発生。さらに、1848年1月12日、シチリア全土で農民反乱が発生し。騒乱はイタリア本土にも波及したため、国王は1848年憲法の制定を認め、両シチリア王国では立憲君主制が実施されることになりました。ところが、国王は議会に対する監督権を手放さなかったため、再び暴動が発生。これに対して、国王は軍を動員して徹底的に弾圧し、1849年3月13日、国民議会を解散します。

 この間、1848年4月13日にはシチリア島で自由政府の樹立と独立宣言が行われましたが、国王は2万の兵を動員してこれを徹底的に弾圧。海沿いの町は軍艦からの砲撃により焦土と化し、1849年5月15日までに、シチリア島の自由主義革命は鎮圧されました。
 
 その後、1860年、イタリア統一戦争の過程で、両シチリア王国はジュゼッペ・ガリバルディひきいる千人隊が占領して、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上。翌1861年に成立したイタリア王国に統合されることになります。


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 毎日新聞:謎の「虎の切手」
2017-05-25 Thu 18:19
 きのう(24日)付の毎日新聞夕刊2面で、今年3月1日に北朝鮮で発行された「槿域江山猛虎気像図(以下、猛虎気象図)」についての特集記事が掲載され、内藤もコメントを寄せました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      毎日新聞夕刊(20170524)

 記事では、「猛虎気像図」の目打小型シートからトリミングされた切手が取り上げられていましたので、このブログでは、切手と同時に発行された絵入りはがきの画像をご紹介しつつ、「猛虎気象図」の切手・葉書について、新聞のコメントでは言い尽くせなかったことも含めて、僕なりに細かく解説してみようと思います。なお、葉書の印面部分は切手と同じデザインで目打状の印刷があり、絵面は「猛虎気像図」を大きく取り上げています。

      北朝鮮・虎地図葉書(2017・裏面)  北朝鮮・虎地図葉書(2017)

 さて、今回の切手・葉書に際しての北朝鮮の国営メディアである朝鮮中央通信は、以下のように説明しています。

 「槿域江山猛虎気像図」は朝鮮を占領して朝鮮人の姓名、言葉や文字までなくそうと狂奔する日帝に抵抗し、1920年代に朝鮮の地形学的特徴を勇猛なチョウセントラで象徴化して創作された。日帝は朝鮮地図をウサギに比喩して朝鮮民族をウサギのように軟弱、従順で飲み込むことのできる対象と解釈し、朝鮮人民の反日意識をくじこうと悪らつに企てた。しかし朝鮮人民は、地図の形を一つの地脈でつながった一つの国土、どんな猛獣が襲いかかっても戦って勝利する勇猛なトラで表現した。

 朝鮮中央通信の記事にある“朝鮮を占領して朝鮮人の姓名、言葉や文字までなくそうと狂奔する日帝”という一文は、明らかに歴史的事実と異なるのですが、そこのところは媒体が媒体なので、まぁご愛嬌ということで…。ちなみに、「猛虎気像図」は、1920年代に金台熙が制作した作品です。

 朝鮮半島をトラになぞらえるのは、崔南善が、大韓帝国時代の1908年に創刊した雑誌『少年』に、朝鮮半島を虎に見立てた絵を掲載したのが最初のこととされています。崔南善は、朝鮮の歴史家・詩人で、三一独立運動の際に独立宣言文を起草した人物ですので、トラの姿をした朝鮮半島という図には、朝鮮半島をウサギになぞらえる日本への反発が込められているという説明は、それなりに説得力のあるものではあります。
 
 ただし、朝鮮の伝統文化においてはトラは常に重要視されており、民画の題材にも盛んに取り上げられていますので、「猛虎気象図」も単純にそうした民画の伝統に従っただけという可能性も十分にあり、そこに明確な反日の意図が込められていたかどうかは、かなり微妙だと思います。

 なお、「猛虎気象図」では、虎の背骨を白塔大幹(白頭大山脈)に、胴体の縞を枝山脈になぞらえており、トラの姿全体で“統一朝鮮”のイメージにもなっていますから、三一運動の記念日に発行する題材としては、違和感はありません。

 一方、2017年は三一独立運動からは98周年という半端な年回りですので、切手発行のタイミングとしては、三一運動の周年記念という文脈で考えるよりも、かつて“長白山(朝鮮名:白頭山)の虎”と恐れられていた金日成の生誕105周年(4月15日)および金正日生誕75周年(2月16日)の文脈で考えた方がすっきりするのではないかと思います。

 すなわち、朝鮮儒学の文脈では、虎は孝と恩を知る動物として、父親の墓参に行く孝行息子を背に載せて運んだり、待墓(父母の喪中に墓の傍らに小屋を建て、そこで質素な生活をする風習)を行う者を守ったりするとされています。したがって、父祖に対する孝養のシンボルとしてのトラは、金日成・金正日への尊崇を忘れぬ最高指導者、金正恩というイメージ戦略の一環として、切手に取り上げられたという面もあるかもしれません。

 さらに、朝鮮王朝時代以来、虎は軍旗にも描かれてきたほか、韓国には猛虎部隊、白虎部隊等の部隊もありますので、金正恩政権がこうしたデザインの切手を発行することは、ミサイル実験を繰り返すのと同様、軍事強国を演出する意図を込めてのことであるのは間違いないでしょう。

 なお、少し気になったのですが、朝鮮の諺?には、「虎に噛まれても気をしっかり持ってさえいれば生きられる」というのがあり、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とセットで用いられるそうです。このあたりは、国際社会の懸念をよそに、核武装を進める北朝鮮の精神状態を、虎に仮託して表現したものといえるのかもしれません。


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 世界の国々:モザンビーク
2017-05-24 Wed 09:41
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年5月17日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はモザンビークの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      モザンビーク・マランガタナ

 これは、1980年に発行されたモザンビーク現代絵画の切手のうち、マランガタナ・ングウェニアの初期の代表作「頭部群」を取り上げた1枚です。

 モザンビークのみならず、アフリカ現代絵画の巨匠、マランガタナ・ングウェニアは、1936年、ポルトガル支配下のマラクエネ県マタラナで生まれました。首府ロレンソ・マルケスで美術を学び、1961年には初の個展を開催しましたが、1964年以降、モザンビーク解放戦線の独立闘争に参加したため、18ヵ月間、投獄されました。釈放後の1971年以降、リスボンとロレンソ・マルケス(現マプート)を拠点に創作活動を続け、欧米の美術界で高く評価されました。

 1975年のモザンビーク独立後は美術界の重鎮として、1980年代の内戦時には和平調停のために奔走。1997年にはユネスコ平和芸術家に任命されています。2011年、ポルトガルのマトジニョシュで没。

 さて、『世界の切手コレクション』5月17日号の「世界の国々」では、モザンビーク会社領についての長文コラムのほか、世界最初のキリンの切手、茶の栽培風景、ソファラの要塞、リンポポ川の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のモザンビークの次は、本日(24日)発売の5月31日号でのタジキスタンの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の5月31日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 米大統領“嘆きの壁”初訪問
2017-05-23 Tue 11:20
 中東歴訪中のトランプ米大統領は、きのう(22日)、現職の米大統領としては初めて、エルサレムの“嘆きの壁”を訪問しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・エルサレム3000年

 これは、1995年9月4日にイスラエルで発行された“エルサレム3000年”の記念切手のうち、嘆きの壁を含む“神殿の丘”の絵図が取り上げた1枚で、切手の左側には壁越しの岩のドームが、切手の下についているタブには嘆きの壁で祈るユダヤ教徒が取り上げられています。ちなみに、エルサレムの歴史的な起源は、紀元前30世紀頃、古代セム系民族がカナンの地の“オフェルの丘”に築いた集落とされていますが、今回ご紹介の切手の“エルサレム3000年”は、紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立し、ダヴィデ王がここを首都と定めたことから起算した年回りです。

 さて、切手の絵地図に取り上げられた“神殿の丘(ハラム・シャリーフ”は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ダヴィデ王の子、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。

 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手のタブにも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。

 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。

 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカメディナに次ぐ第3の聖地とされています。エルサレムの中でも、ムスリムが(特にピンポイントで)聖地としている場所は、691年、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に建造された岩のドームですが、当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。

 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっても聖地だったのですが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、“神殿の丘”の敷地内にイスラムの聖地としてモスク等が建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。

 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。

 神殿の丘を含むエルサレム旧市街は、英国によるパレスチナ委任統治の終了後、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれ、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。

 1967年6月の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領しましたが、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、占領地の支配を継続しました。

 1979年のイスラエル=エジプト平和条約が調印されると、1980年、イスラエル議会は、あらためて、東西エルサレムを統合した“統一エルサレム”はイスラエルの永遠の首都であると宣言しました。エジプトとの平和条約により国境が画定し、東エルサレムの支配も追認されたというのがイスラエル側の主張です。

 このため、同年の国連総会は、安保理決議242が有効であることを改めて確認したうえで、イスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、エルサレムを首都としたイスラエルの決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議。この決議も現在なお有効で、国際社会はイスラエルによる東エルサレム支配の正当性を認めていません。
 
 こうした事情を踏まえて、今回のトランプ大統領の嘆きの壁訪問に際しては、この場所の主権がイスラエルにあることを(国連決議を無視して)認めたとの批判を避けるため、イスラエル側の関係者は同行しないという措置が取られたほか、米当局者も壁の帰属がイスラエルにあるのか否かについてはコメントを拒否しています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正して書籍化する企画も現在進行中です。具体的な内容や発売日などが決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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 ガールスカウトの日
2017-05-22 Mon 11:37
 きょう(22日)は、1947年5月22日、第二次世界大戦で中断されていた日本の“ガールスカウト”を再興するためにガールスカウト中央準備委員会が発足したことにちなみ、“ガールスカウトの日”だそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガールスカウトアジア大会(1963)

 これは、1963年8月1日に発行された“ガール・スカウトアジア大会”の記念切手です。ガールスカウト関連の切手は各国から発行されていますが、日本では、今回ご紹介の切手が最初の1枚となります。

 英国のロバート・ベーデン・パウエルによってボーイスカウト運動が正式に始められたのは1908年のことでしたが、翌1909年、ロンドンのクリスタル・パレスでボーイスカウトの大会が行われたとき、参加者の中には少女の一団も含まれていました。

 この一団に注目したパウエルは、翌1910年、少女のためのスカウト活動を組織化すべく、妹アグネスに協力を依頼。さらに、パウエルは1912年に結婚した妻オレイブ・ソームズとともに、少女を対象としたスカウト活動の組織化に力を注ぎました。

 なお、当初、英国では、この運動は“ガールガイド”と呼ばれていましたが、1912年に米国に紹介された際、ガールスカウトという名称が用いられ、以後、英国系ではガールガイド、米国系ではガールスカウトという呼称が用いられるようになります。

 さて、ガールガイド運動は、1919年、東京の香蘭女学校に教師として赴任した英国の宣教師、ミュリエル・グリーンストリートによって日本にも伝えられました。グリーンストリートは、英連盟の一支部として香蘭女学校に日本女子補導団東京第一組を設立。英本国のガールガイドにならい、“やくそく”と“おきて”を唱え、同連盟のハンドブックと、会員ピンを使用しました。

 その後、日本のガイド運動は、1923年に英連盟の支部から独立し、日本女子補導団が結成されました。当初、女学校におかれたガイド部門は、小学校にも広がり、少女団(ブラウニー団)も設立されています。また、南満州鉄道の附属地であった大連、長春にも、日本女子補導団の支部が作られています。

 その後、1928年に、ガールガイド/ガールスカウト世界連盟の創設が決まると、日本は26ヶ国の創立会員の一国として、1939年まで世界連盟に加盟していました。しかし、戦況の悪化に伴い、連盟からの脱退を余儀なくされ、太平洋戦争開戦後の1942年には、日本女子補導団そのものが解散の憂き目にあってしまいます。

 戦後、連合国の占領下で、ボーイスカウト運動が再開されると、これにあわせてガールスカウト運動の再建も進められ、1947年5月22日、GHQ民間情報局(CIE)少年教育顧問のラッセル・ダーギンの援助によってガールスカウト中央準備委員会が発足。さらに、翌1948年には、世界連盟からの資金援助が開始され、米連盟からマルグリート・テュウイが世界連盟のトレイナーとして来日しました。そして、彼女の滞日中の1949年4月4日、ガールスカウト日本連盟が成立し、日本国内のガールスカウト運動の組織は完全に復活しました。

 このように、戦後の運動はGHQの下で再興されたため、名称はガールスカウトとなり、プログラムの内容も米国の影響が強いものとなりました。その後、1952年8月、ノルウェーで開催された第14回世界会議で日本のガールスカウト連盟は準加盟を承認され、1960年5月、ギリシャでの第17回世界会議で、世界連盟への正式加盟を果たしています。
 
 1963年は、上記のような日本のガールスカウト活動の再出発(テュウイの来日から起算した場合)から15周年にあたっており、また、ガールガイド・ガールスカウト世界連盟への正式加盟から3周年にあたっていました。

 そこで、これを記念して7月31日(ただし、開会式は8月1日)から8月7日までの会期で、長野県の戸隠高原で、ガールスカウトの国際キャンプ大会(アジア大会)が行われ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダを含むアジア・太平洋地域の21ヶ国から4000名(うち日本から3500名)が参加しました。

 このアジア大会に際して切手を発行することについては、著名な収集家でボーイスカウト東京連盟理事長でもあった村山有が文部省に働きかけ、1962年8月、郵政省から次年度の記念切手にふさわしい題材についての照会があったときに、ガールスカウトアジア大会を申請するよう、根回しをしています。はたして、文部省側は、村山の働きかけに応じて切手発行の申請を行い、それを受けて、1963年1月28日に開かれた郵政審議会の専門委員会では、記念切手の発行が正式に決定されています。

 切手発行の決定を受けて、1963年2月から3月にかけて原画の制作が行われ、3月27日、三指の敬礼をするガールスカウトとガールスカウト連盟期を描いた大塚均の作品が切手の原画として採用されました。原画は、翌28日に印刷局へ渡され、6月11日の試刷完成を経て、開会式当日の8月1日、切手発行の運びとなっています。


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 イラン、現職大統領再選
2017-05-21 Sun 21:58
 19日に実施されたイランの大統領選挙は、対外融和路線を進める現職のロウハーニー(ロウハニ)大統領が57%以上の票を獲得して再選を果たしました。というわけで、今日は大統領の旧名、フェリドゥーンにちなんで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・国際フェルドゥーシー学会(ザッハーク封じ)

 これは、1990年にイランが発行した“国際フェルドゥーシー学会”の記念切手のうち、フェルドゥーシーの代表作『シャー・ナーメ』の写本のうち、フェリドゥーンが暴君ザッハークを封じ込めた場面の細密画を取り上げた1枚です。

 今回、再選を果たしたイランの大統領の現在のラストネームは“ロウハーニー”ですが、1948年11月12日に彼が生まれた時のラストネームはフェリドゥーンでした。フェリドゥーンは、近世ペルシャ語文学の最高傑作とされる叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』に登場する英雄にちなむ名です。彼が、“精神性の高い”という意味のロウハーニーという名をいつから使い始めたのかは定かではありませんが、イラン・イスラム革命後の1981年、国会議員時代の彼の名前は“ハサン・フェリドゥーン・ロウハーニー”となっていました。その後、前回の2013年の大統領選挙期間中には、フェリドゥーンを名乗ることはなくなり、現在では、ロウハーニーというラストネームが定着しています。

 さて、フェリドゥーンの登場する『シャーナーメ』は、ササン朝時代の史書『フワダーイ・ナーマグ』を元に、詩聖フェルドゥーシーが980年頃から30年余の年月をかけて1010年に完成させました。当初、フェルドゥーシーは、自らの作品をサーマーン朝に献じる予定でしたが、999年、サーマーン朝は滅んでしまったためため、後継のガズナ朝の君主、マフムードに捧げています。

 『シャーナーメ』に登場するフェリドゥーンの父親は、両肩に蛇を生やした暴君、ザッハークの蛇の生贄として殺されました。その後、復讐を恐れたザッハークはフェリドゥーンを殺そうと追っ手を差し向けますが、フェリドゥーンはこれを逃れ、エルブルス山に隠れます。それから16年の後、フェリドゥーンは山を下り、ザッハークの圧政に苦しめられていた人々を集めて挙兵。天使の助けを得て、ザッハークの魔法を解く方法を学び、バグダードからチグリス川を渡り、ザッハークの城があるエルサレムを攻め落としました。

 エルサレム陥落時、インドにいたザッハークは、ただちに、悪魔と人間の混成軍を率いて戻り、フェリドゥーンの軍と戦い、宮殿内の一騎打ちで、フェリドゥーンはザッハークの頭を牛頭の矛で打ち砕きます。しかし、この時点ではザッハークには死期が来ていないことを天使ソルーシュから聞かされたため、フェリドゥーンはソルーシュの助言に従い、ザッハークの手足をライオンの皮で作った縄で縛り、ダマーヴァンド山の洞窟に幽閉して、さらに鉄の杭と鎖で動きを封じました。切手に取り上げられているのはこの場面で、中央には手足を縛られて封じ込められるザッハーク(両肩にはしっかりヘビが描かれています)が、その右側には赤い装束のフェリドゥーンが描かれています。

 その後、フェリドゥーンは王位に就き、ザッハークに王位を奪われて殺されたイラン王ジャムシードの娘で、ザッハークに囚われていた2人の姫・シャフルナーズとアルナワーズを王妃に迎えています。

 ちなみに、『シャー・ナーメ』によれば、フェリドゥーンの王位はその後500年間続いたことになっていますが、今回再選を果たした(元)フェリドゥーン、ロウハーニー大統領の任期は2021年までの4年間です。

 * 本日未明、アクセスカウンターが179万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 栄螺は“新種”だった
2017-05-20 Sat 12:23
 岡山大学は、きのう(19日)、同大の福田宏准教授が、日本で広く知られている貝類の栄螺は学名のない“新種”であったことを突き止め、新たに“Turbo sazae(トゥルボ・サザエ)”と命名したことを発表しました。というわけで、きょうは栄螺の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      さざえ

 これは、1967年7月25日、魚介シリーズの最後の1枚として発行された“さざえ”の切手です。

 この切手に関しては、発行を前にした1967年7月3日付『朝日新聞』朝刊社会面の「青鉛筆」と題するコラム欄には、次のような記事が掲載されています。

  ▽…「動物学的に明らかな誤り」「いや芸術として立派な作品」――この二十五日発売予定の郵政省の記念切手魚介シリーズ最終回の「サザエ」(十五円)をめぐって、動物学者と郵政省の間でひともんちゃく、▽…誤りを指摘したのは国立科学博物館動物第二研究室長の波部忠重さん(五二)。実物と比べるとサザエの二列のトゲがくっついている、トゲの裂け目が反対向き、フジツボの形がおかしい――と、同省に修正を求めた。▽…日本画の山口蓬春氏に生きた動物の姿を描いてもらった“芸術作品”だ。多少のデフォルメは覚悟のうえ。サザエに見えないわけではなし…」と同省。すでに二千四百万枚印刷して各郵便局へ発送ずみで、あくまで“芸術”でつっぱるそうだ。

 1966年から発行が開始された魚介シリーズ(切手発行当時の名称は“お魚シリーズ”)は、それまでにも世界各国で発行された魚介関連の切手とは一線を画し、日本独自の切手を作りたいという意気込みから、当代一流の日本画家に原画の制作が委嘱されました。ただし、画家の芸術作品は、必ずしも、生物学的に魚介類の生態を正しく表現するものではありませんでしたので、その点で、いくつかの切手に関しては“不正確”という批判が浴びせられましたが、今回ご紹介の“さざえ”もその1枚だったわけです。

 ちなみに、今回ご紹介の切手の原画を担当した山口蓬春は、1893年、北海道松前町生まれ。東京美術学校を卒業後、1924年、「秋二題」で帝展に初入選を果たし、以後、日展を中心に活動しました。伝統的日本画を探求する一方、西洋画の技法を取り入れるなどの新しい試みを実践し、独自の新日本画の世界を築き、1965年には文化勲章を受賞しました。また、皇居新宮殿の壁画「楓」を担当したほか、代表作の一つ「榻上の花」は1992年の趣味週間切手にも取り上げられています。1971年没。

 栄螺は日本、韓国沿岸の種と、中国南部沿岸の種(ナンカイサザエ)に大別され、とげの長さや並び方など外見で区別できます。ところが、1995年までは、両者は学問的には同一のものとして区別されておらず、日本の栄螺は、ながらく1786年に英国の博物学者が命名した“Turbo cornutus(トゥルボ・コーヌトス)”とされていました。

 そこで、福田宏准教授は、1786年から1995年までの欧州の文献を精査し、これまで“Turbo cornutus”と呼ばれていた貝のすべてが中国産のナンカイサザエであったことを明らかにしたうえで、日本沿岸の栄螺には正式な学名がないことを論証。日本沿岸の栄螺を“トゥルボ・サザエ”と命名し、これが16日発行の国際学術誌に掲載されて正式名になったわけです。

 これまで、約230年もの間、日本産の栄螺に学名がなかった理由としては、(1)英国人が中国から持ち帰った標本を中心に研究が進められた、(2)18世紀当時の日本はいわゆる“鎖国”の時代で、欧州人には日本産の栄螺は入手困難だった、(3)ネットが普及するまでは古い文献を網羅的に渉猟することが非常に難しかった、ことなどが挙げられています。

 今回の“発見”について、福田准教授は「すべてを疑い、うのみにせず一度検証することだと改めて感じた」と話しているそうですが、そのお言葉、あらためて肝に銘じておかねば…と思った次第です。


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