FC2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 8月15日の慰霊碑除幕式
2020-08-15 Sat 01:02
 きょう(15日)は終戦の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガダルカナル・慰霊碑除幕式案内状

 これは、1982年8月15日、ソロモン諸島・ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際空港)脇の旧米軍司令部跡地で米海兵隊戦没者の慰霊碑除幕式が行われた際に、関係者に送られた招待状で、招待状の下部余白には、自治領時代の1976年に発行された“米国独立200年”の記念切手のうち、米国とソロモン諸島が最も濃密な関係となったガダルカナル島での戦闘を象徴するものとして、ヘンダーソン飛行場を描く35セント切手とガダルカナル島への米軍の上陸地図を描く45セント切手が貼りこまれています。

 ちなみに、この時除幕式が行われた慰霊碑とその周辺の風景は、1986年にソロモン諸島が発行した切手にも取り上げられています。

      ソロモン諸島・海兵隊慰霊碑

 第二次大戦中の1942年5月3日、日本軍は英領ソロモン諸島の首府があったツラギ島に進出。その後、この地域の制空権を確保するため、7月から隣接するガダルカナル島のルンガ地区に建設工事を開始して、8月5日には滑走路の第1期工事が完了し、飛行場はルンガ飛行場と命名されました。

 これに対して、8月7日午前4時、米軍の第1海兵師団1万900名が、オーストラリア軍の支援の下、ガダルカナル島テナル川東岸付近の通称“レッド・ビーチ”に上陸を開始します。同時にツラギ島方面にも4個大隊1500名が上陸。連合軍の奇襲攻撃は成功し、同12日、米軍は飛行場を占領し、これをヘンダーソン飛行場と改称しました。この名前は、2ヶ月前のミッドウェー海戦で戦死した海兵隊の航空指揮官、ロフトン・R・ヘンダーソン少佐にちなんだものでした。

 その後、約2週間で1100mの滑走路1本が完成し、ヘンダーソン飛行場は米軍の一大反攻基地となりますが、日本軍も飛行場奪回を目指して猛攻を加え、この飛行場をめぐって激戦が展開されます。最終的に、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされましたが、ガダルカナルに上陸した日本軍の総兵力3万1404名のうち、撤退できた者は1万652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は1万9200名でした。なお、死者のうち、直接の戦闘での戦死者が約5000名だったのに対して、約1万5000名は餓死ないしは戦病死で、このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。これに対して、連合軍の損害は、戦死者7100名、戦傷者が7789名以上です。

 なお、米海兵隊の慰霊碑は、建立当初は1986年の切手にみられるように、周囲には木々はなく、刈りそろえられた芝生が植えられていましたが、現在は、下の画像(2017年に現地を訪問した際に撮影しました)のように、周囲は鬱蒼たる木々に覆われています。

      ホニアラ空港近く・米海兵隊慰霊碑

 さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、このブログでもあらためてご案内いたしますので、よろしくお願いします。 
     

★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

スポンサーサイト



別窓 | ソロモン諸島 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 イスラエルとUAE、関係正常化
2020-08-14 Fri 02:36
 トランプ米大統領は、きのう(13日)、いままで国交がなかったイスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が関係正常化に合意したことを発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アブダビ→ニコシア宛

 これは、UAE発足(1971年12月)以前の1969年12月、アブダビのアル・アインから“キプロス郵便局長”宛に差し出された郵便物です。

 アブダビやドバイなど、現在UAEを構成している首長国とパレスチナとの関係は、1960年代以降、アブダビおよびドバイでの油田開発が盛んとなり、出稼ぎ労働者として大量のパレスチナ人を受け入れたことから本格的に始まりました。当時、必ずしも関係が良好とはいいがたかったアブダビとドバイも、アラブの同胞としてパレスチナ人を可能な範囲で受け入れるという点では一致しており、イスラエルとは一切の交渉を持たないというアラブ連盟の基本方針を遵守していました。

 ところで、1967年の第三次中東戦争の結果、イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区、シナイ半島を占領し、その支配地域は大幅に拡大しましたが、その結果、パレスチナ出身の出稼ぎ労働者の中には、家族の居住地がイスラエルの占領下にあるケースや、イスラエルの支配地域を経由しなくてはたどり着けない場所にあるケースも増加しました。当然のことながら、そうした地域であっても、出稼ぎ先の湾岸諸国との郵便の往来は必要となるのですが、イスラエル国家の存在そのものを認めず、イスラエルとは一切の接触を拒否するというアラブ連盟の建前からすると、表向き、ドバイやアブダビからイスラエルの占領地域に郵便を送ることはできません。

 そこで、一つの便法として、パレスチナ人の出稼ぎ労働者は、出稼ぎ先から、出身地宛の手紙などを入れた封筒を、アラブ=イスラエル紛争とは無関係のキプロスの首都、ニコシアの郵便局長宛に送り、そこから宛先地まで郵便物を転送するという方策がとられることがしばしばあった。今回ご紹介の郵便物は、そうしたアブダビから“ニコシア郵便局長宛”の封筒の実例で、この中に、差出人が本当に届けたかった郵便物がこの中に入っていたものと推測されます。

 さて、1971年12月、アブダビとドバイを中心に結成されたUAEは、その後も、イスラエル否認政策を維持していましたが、2009年に米国でイランに宥和的とみられるオバマ政権が発足すると、イランの脅威に備えるという共通の目的から、米国駐在の両国大使の接触が始まり、2010年1月16日にはイスラエルの閣僚がアブダビで開催されたエネルギー関連の国際会議に出席して注目されました。

 しかし、同月19日、イスラエルの諜報機関によるものと思われるハマスのマフムード・マブフーフ司令官の殺害事件が発生したことから、両国関係は冷却化。同年のドバイ・テニス世界選手権にはイスラエルのシャハー・ピアーへの入国ヴィザが発給されず、2012年になっても、UAEは、公式にイスラエルとの関係正常化には否定的な態度を表明していました。

 しかし、その一方で、対イラン政策の観点から、水面下での両国の接触は続けられ、2016年1月にはイスラエルのエネルギー相がアブダビを訪問。2017年10月にはアブダビで開催された柔道グランドスラムにイスラエル選手の参加が認められています。ただし、この時の大会では、66㎏級でタル・フリッカーが優勝したものの、イスラエル国旗の掲揚とイスラエル国歌の演奏は行われていません。

 しかし、2017年に発足した米国のトランプ政権は、第三次中東戦争から50年以上が過ぎたことを受け、2017年末にはエルサレムをイスラエルの首都と認定し、2018年5月には大使館をエルサレムに移転したことに対して、アラブ諸国の大半は形式的には反発したものの、実質的に現状追認の姿勢をとりました。この流れに沿って、UAEも、2018年9月にはアブダビでのイスラエルとトルコの秘密会談をセッティングしたほか、同年10月にアブダビで開催の柔道グランドスラムで、イスラエルのサギ・ムキが88キロ級で優勝した際には、イスラエル国旗の掲揚と同国歌の演奏を認めるなど、イスラエル否認政策を実質的に放棄。そして、2019年には、イスラエル側がドバイ万博(2020年に予定されていましたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期)に招待されていることを明らかにしていました。

 今回の関係正常化は、こうした経緯を踏まえてのもので、アラブ主要国の中でイスラエルと正規の外交関係を樹立したのは、エジプト、ヨルダンに続く3ヵ国目となりました。また、今回のUAEとの関係正常化を受け、イスラエルは、アラブ側への配慮から、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地などの併合計画の一時停止に合意しています。

 なお、いわゆるパレスチナ問題をめぐってアラブ各国の思惑がどのように変化してきたかについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | アブダビ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 ナミビア、ドイツの補償提案を拒否
2020-08-13 Thu 05:07
 アフリカ南部、ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、11日(現地時間)、20世紀初頭のドイツ植民地時代の“ヘレロ戦争”時の大量虐殺について、ドイツ側が提案した補償の内容が「受け入れられるものではない」として“見直し”が必要だとの見解を示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ナミビア・ヘレロ戦争100年

 これは、2004年にナミビアが発行した“反植民地抵抗戦争(ヘレロ戦争のナミビアでの呼称)100周年”の記念切手です。

 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。

 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人(バントゥー系)、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。

 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。

 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を展開しましたが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、プロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。

 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。

 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。

 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。

 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。

 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。

 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。

 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。

 さて、第一次大戦後、ドイツ領南西アフリカは南アフリカの委任統治領となり、第二次大戦後は南アの不法占拠状態が続いていましたが、1990年に独立します。

 独立後の2004年、ナミビア政府は、ヘレロ人の大虐殺が行われたヴァーテルベルクの戦いの記念日から100周年にあたる8月11日、首都ウィントフックで記念式典を開催。これに合わせて、今回ご紹介の記念切手も発行されました。

 ドイツ政府は、経済協力・開発大臣ハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルを式典に派遣し、全ドイツ人を代表して“追悼と謝罪”の意を表明。これに対して、ヘレロ人は財政的賠償を要求し、ヘレロ・ジェノサイド財団議長のエスター・ムインジャンゲはヘレロ虐殺はホロコーストの源流として、ドイツ連邦議会での決議のような“公式な謝罪”を求めました。

 これを受けて、2015年、ナミビア政府はドイツからの正式な謝罪と開発援助を結び付けた合意への交渉を開始。今回の大統領発言は、その最終段階を控えて、ゼデキア・ヌガビルエ特使からの状況報告を受けてのもので、大統領は、ドイツが“補償”という語句を認めず、“傷を癒すもの”と表現していることを問題視し、「補償に関するドイツによる現状の提案は、決着がついていない問題のままであり、ナミビア政府にとって受け入れられない内容だ」として、ヌガビルエ氏特使に「提案の見直しに向けて交渉を続ける」よう指示しました。

 一方、ドイツ側は、植民地政府の下で残虐行為が起きたことについては認めており、ジェノサイドだったとの認識を示す当局者もいるものの、すでに、巨額の開発援助金をナミビア政府に支払ってきたとして、直接補償の支払いを繰り返し拒否しています。
 
 なんか、アジアでも似たような話があったような気が…。

★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | ナミビア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 クレオパトラ忌
2020-08-12 Wed 02:25
 きょう(12日)は、西暦の紀元前30年8月12日、プトレマイオス王朝最後の女王、クレオパトラ7世(以下、クレオパトラ)が自害してから2050年の忌日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      西ベルリン・クレオパトラ(1984)

 これは、1984年、ドイツ・西ベルリン地区で発行された“ベルリンの博物館”の切手のうち、旧博物館所蔵のクレオパトラ像を取り上げた1枚です。

 切手に取り上げられたクレオパトラ像は、彼女の存命中の紀元前40年から30年までの間に制作された大理石の像で、イタリア・アッピア街道のアリッチャ=ジェンツァーノ間で発見されました。もともとは、柱頭を飾る像として作られたものと考えられています。

 ベルリンの旧博物館は、1830年、ベルリン王宮の前の道路を挟んだ向かい側に、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の蒐集したギリシャ・ローマの芸術品を展示・公開するために開館した“王立博物館”がその起源です。設計は建築家カール・フリードリッヒ・シンケルが担当しました。

 その後、1855年にはシンケルの弟子で建築家のフリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計による新博物館が完成したことで“旧博物館”と呼ばれるようになります。さらに、1876年には近隣に旧国立美術館が 、1904年にはカイザー=フリードリヒ博物館(現ボーデ博物館)、1930年にはペルガモン博物館が完成したことで、ベルリンの博物館地区として知られるムゼウムスインゼル(シュプレー川の中州北半分の“博物館島”)が形成されました。

 第二次大戦後、ドイツの敗戦に伴い、ベルリンが東西に分割されると、博物館島は東ベルリンに編入され、ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国に伴い東ドイツの国立博物館となり、旧博物館に関しては、1955-66年に再建・修復工事が行われました。

 なお、博物館島の収蔵品は、戦時中、戦災を避けるため各地に疎開していたため、西ドイツ側にあった蒐集品はシャルロッテンブルク地区の美術館などに収蔵され、今回ご紹介の切手のクレオパトラ像も“考古学博物館”に収蔵されました。その後、1990年の東西ドイツ再統一に伴い、ベルリン地区の博物館は再編されて美術品の再配置も進められ、今回ご紹介のクレオパトラ像も旧博物館に戻されました。


★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | ドイツ:西ベルリン | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 香港からリンゴが消えた日
2020-08-11 Tue 02:09
 香港警察は、きのう(10日)、著名な民主活動家の周庭(英語名アグネス・チョウ)氏、民主派の香港紙「蘋果日報」などを発行するメディアグループの創業者、黎智英氏や同紙幹部らを香港国家安全維持法(国安法)違反容疑で逮捕しました。というわけで、抗議の意味を込めて、蘋果(リンゴ)が描かれた香港切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・油麻地フルーツマーケット(2017)

 これは、2017年9月19日、香港で発行された“香港の繁華街”の切手のうち、油麻地果欄(油麻地フルーツマーケット)を取り上げた1枚で、男性が抱えている木箱にはリンゴもしっかり見えます。今年4月に発行された“兒童郵票 棋樂無窮”の切手では、当初案では黒い服の子供が描かれていたのに、黒シャツは民主派のデモ隊を連想させるとして、突如、別の色に変更されたことなどを考えると、今後、香港の切手ではリンゴを描くことも、「蘋果日報」を連想するとして、不可能になるかもしれません。

 さて、今回逮捕された黎氏の「蘋果日報」は、英領時代末期、1995年の創刊で、黎氏は「もしアダムとイヴがリンゴを口にしなかったら、世界に善悪はなくニュースも存在しなかっただろう」と紙名の由来を説明しています。

 香港では最初の全ページカラー印刷の新聞で、政治的には、1997年の“返還”以前から中国政府に対し激しい批判を加えてきただけでなく、“返還”後も西側メディアや香港民主派に近い論調を取ってきました。このため、中国大陸では「蘋果日報」は発行が禁止されているだけでなく、同紙のウェブサイトは中国国内からのアクセスが遮断され、中国国営メディアは黎氏を「香港を混乱させる反中分子の頭目」と名指しで批判してきました。また、2014年の雨傘運動の際には、明確に民主派を支持する姿勢をとったため、親中派による嫌がらせが相次ぎ、同社の本社ビルや黎氏宅へ火炎瓶が投げ込まれています。

 報道によると、黎氏の逮捕容疑は、外国勢力と結託して国家の安全に危害を及ぼすことを禁じる国安法29条の違反ということです。じっさい、2019年7月、黎氏は米国でペンス副大統領、ポンペオ国務長官らと面会し、香港民主派への支援を要請していますが、さすがに、昨年の黎氏の行動を今年7月に施行された国安法で摘発するのは無理がありますので、おそらく、表向きは別の理由が挙げられたのではないかと思います。

 一方、香港の民主派の女神とも称される周氏は、2019年8月、違法集会扇動罪などで逮捕され(のち釈放)、今月5日、有罪判決を言い渡されたばかりで、その量刑の宣告を12月に控えている中での逮捕となりましたが、この記事を書いている時点では、逮捕容疑の詳細は不明です。

 香港での国安法施行をめぐっては、今月7日、米国のトランプ政権が声明を出し、林鄭月娥行政長官をはじめ、香港政府や中国政府の高官など11人に対し、アメリカ国内の資産を凍結する制裁を科しましたが、これに対して、中国側も10日付で、米共和党議員のテッド・クルーズ、マルコ・ルビオ両氏を含む米国人11人を制裁を科すと発表。今回の周氏、黎氏らの逮捕がその延長線上にあることは明らかです。


★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 中国香港:1997~ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 山の日
2020-08-10 Mon 01:09
 きょう(10日)は“山の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ティナクラ

 これは、1939年2月1日に英領ソロモン諸島で発行された“ティナクラ”の切手です。

 ティナクラはソロモン諸島の南東の成層火山島で幅3.5キロ、海面からの高さは851メートルです。

 1557年、ペルーに渡ったコンキスタドールの1人、ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは、「船乗り“パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の末、”テラ・アゥストラリス”の地から莫大な富を持ち帰った」とする先住民の伝承を耳にし、その真偽を確認すべく、1567年、当時のペルー副王、ローベ・ガルシア・デ・カストロの甥で、当時25歳の若者だったアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラを誘って探検隊を組織します。

 司令官メンダーニャの下、総勢150名の探検隊は、1567年11月19日、2隻の艦隊でリマ近郷のカヤオ港を出帆。太平洋を西に進み、1568年2月1日、ソロモン諸島北部のオントン・ジャワ環礁に停泊。さらに南下して、同7日、サンタ・イサベル島に到達したのを皮切りに、島伝いに、ラモス島(現マライタ島)、サン・ホルヘ島(現アル・シュ・デ・イザベル島)、フィレンツェ諸島、ガレラ島、ブエナビスタ島、サン・ディマスおよびグアダルーペ島(現・フロリダ諸島)と進み、先住民から“サブ”と呼ばれていた火山島の隣にある大きな島に上陸しました。この島は、隊員のペドロ・デ・オルテガの故郷で、アンダルシアのグァダルカナルにちなんで、ガダルカナルと命名されます。

 ガダルカナルを探索した一行は砂金を発見。ここが目的のテラ・アゥストラリスかと色めき立ったものの、いかんせん、あまりの過酷な自然条件と先住民の攻撃の前に長期間の滞在はかなわず、周辺の塩間島を探検した後、5月11日に帰途に就き、翌1569年7月22日、カヤオ港に帰着しました。

 この間、彼らが探査した島々は、「ガダルカナルの砂金は“ソロモン王の財宝(の一部)”である」との思い込みから、“ソロモン諸島”と命名されます。

 ペルーに帰国後もソロモン王の財宝に未練があったメンダーニャは、再遠征を行い、ソロモン諸島を植民地化したいと考えていましたが、1570年以降、英国のフランシス・ドレークの私掠船が西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を展開し、スペインはその対策に追われたことに加え、1585年には英国とスペインの戦争が始まったこともあり、ソロモン諸島への第二次航海が実現したのは1595年のことでした。

 第2次航海は、1595年4月9日、4隻の艦隊でカヤオを出港。ソロモン諸島南東部のサンタ・クルス諸島にはたどり着いたものの、原住民の反発や乗組員の離反などに加え、10月半ば、メンダーニャが現地で亡くなったこともあり、スペインによるソロモン諸島探検は中断されました。この第2次航海の過程で、1595年9月7日、メンダーニャの探検隊が“発見”したのが、今回ご紹介の切手に描かれているティナクラです。

 火山島のティナクラには19世紀の時点で少数の人々が生活していたものの、1840年11月10日の噴火で全島民が避難して無人島となりました。また、1868年には福州からメルボルンへ向かっていた茶の運搬船がティナクラが噴煙を上げていたことを報告しています。

 第二次大戦後の1951年には英領ソロモン諸島内のヌカプ島およびヌパニ島から130人のポリネシア人がティナクラに入植したものの、1971年の噴火で島民は避難。1980年代後半にはヌパニ島から2家族が移住したとの記録があります。また、近年では、2017年10月と2020年1月に大規模な噴火が記録されています。

  さて、現在、第二次大戦中の激戦地として知られる“ガダルカナル”にフォーカスを当てた本を作っています。内容は、戦史よりも、戦後のガダルカナルが中心で、すでに、本文の原稿は書き終え、現在、書籍としてまとめる作業を進めているところです。正式な書名や発売日などが決まりましたら、またこのブログでもご案内していきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
 

★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | ソロモン諸島 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 反ロシアデー(旧反ソ連デー)
2020-08-09 Sun 00:59
 きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・復片つき19480729

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、(右下に“No87”の表示があるタイプIIIと呼ばれるもの使用例です。

 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1948年6月19日のように見え、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には7月29日の書き込みがあります。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として各地の収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文は旧字体の漢字カナ交じり書きですが、読みやすさを考えて、句読点を補い、新字体・現代仮名遣いの漢字かな交じりに直しました)

 停戦になってからアッと思う間にもう二年半も経ちました。
 故国も随分変わった事ばかりと思います。当方、相変らず元気で、す越し(=過ごし)にくいと心配して居たシベリヤの冬も、モーこれで三回。今年こそ帰国の実現が濃厚になって居ります。父上様、母上様皆々様にまもなく(秋頃までには)帰ると申して下さい。保江も十日で四回目の誕生日を迎えますね。故国よりこちらに来て居る手紙を見ますと、インフレ、失業、国民大衆の為の生活が非常に恵まれないとか。早々明るい政治で日本を再建せねばなりませんね。こちらに居る人はみんな熱心に日本の再建、明朗日本の建設のため頑張ローと申し合わせて居ります。
 もう一つ書く事は、ソ連邦の人々の人種的偏見なく非常に気持ち良いです。日本人は大いに学ぶべきです。
 健康で何も変わりなければ返事不要。私のことは心配なく。
 (下に、文面の記された葉書裏面の画像を貼っておきます。一部、判読不能だった箇所について、小村啓さんにご教示いただきました。ありがとうございます!)

      シベリア抑留・復片つき19480729裏

 シベリア抑留者用の往復葉書のうち、現存するモノの大半は、収容所から日本宛てに送られた往片の使用済みで、今回ご紹介のもののように、復片のついた状態のモノは少なく、復片の使用例はさらに少なくなっています。これは、ソ連側が捕虜の帰還に際して、受け取った郵便物を持ち帰ることを原則として禁じていたことによるものです。今回の葉書に関しては、文面に「返事不要」とありますが、実際に家族がそのまま言葉を真に受けて返事を出さなかったとは考えにくいので、「まもなく(秋頃までには)帰る」との文面通り、葉書が到着する前に差出人が帰国して、返事を出す必要がなかったのではないかと推測されます。

 また、葉書の文面を読むと、収容者には、米国の事実上の単独占領下で日本は悲惨な状況にあると思わされており、それゆえ、帰国後は再建のために団結しようと収容者たちが話していること、ソ連は立派な国であり、日本は大いに学ぶべき国であることなどが書かれています。この葉書の差出人が、心底、そのように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していたことは事実です。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書などは、東西冷戦が進行していく中で、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといったことを探るうえで重要な情報を米国と日本政府にもたらすものとなりました。

 この葉書が日本に到着してからほぼ1年後の1949年8月11日、日本国内では、「引揚者の秩序保持に関する政令」が公布され、引揚者は船長や引揚援護局長の指示に従う義務があるとされ、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金が科されることいなりました。これは、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などで“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発したためですが、彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったともいわれています。しかし、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めていきました。

 また、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、こうした中で発生した下山・松川・三鷹の三大事件には共産党の関与が疑われていました。このため、占領当局と日本政府は、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、帰国後、アクティブになりうると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | ソ連:シベリア抑留 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 インド旅客機が着陸失敗
2020-08-08 Sat 03:12
 インド南部ケーララ州のカリカット空港で、きのう(7日)、乗客乗員190人余りを乗せたドバイ発のエア・インディア・エクスプレス旅客機が着陸に失敗。この記事を書いている時点で、少なくとも14人が死亡、少なくとも89人が病院に搬送され、その多くは重傷者だそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英領インド・カリカット発カバー

 これは、第二次大戦中の1942年3月12日、カリカットからコーチン宛に差し出され、その後、スイス宛に転送されたカバーで、途中、英領インド当局による開封・検閲を受けています。

 さて、ポルトガルの探検家、ヴァスコ・ダ・ガマ来航の地として知られるカリカット(厳密には、ガマは近郊のカッパドに上陸し、そこからカリカットの王宮に向かっています)について、現在、現地語地名の日本語カナ表記としては、コーリコード、コージコード、コジコーデ、コジコデなどが用いられています。今回の事故に関しては、このうち、時事通信の表記に従い、コジコーデと報じているメディアが多いようです。

 インド連邦政府の公的共通語は英語とヒンディー語ですが、インド憲法ではこのほかに州の公用語などとして使用しうる22の言語を指定しています。このうち、カリカットを含むケーララ州で使われているマラヤーラム語もその一つで、丸みを帯びた文字は、ヒンディー語で使われるデーヴァナーガリー文字とは全く違います。

 そのマラヤーラム文字では、英名でカリカットと呼ばれている都市の名はകോഴിക്കോട്と書くのですが、これを対照表を見ながらラテン文字のアルファベットに転記するとkōḻikōṭ となるようです。細かい発音はわからないのですが、おそらく、“コーリコート”と発音するのでしょう。これだと、僕たちが馴染んでいるカリカットとも似たような発音です。

 ところが、この地名をヒンディー語で表記するとकोझिकोडとなり、これをラテン文字に転写するとKozhikodeとなります。これをそのまま読むと、時事通信の“コジコーデ”や“コージコード”などとになるのですが、実際には、これでコーリコードと読ませるのだそうです。おそらく、デーヴァナーガリー文字でマラヤーラム語を転記したときの、スペルのズレが理由なのでしょうが…。

 ちなみに、現地の郵便局の現行の消印は、ヒンディー語と英語のバイリンガルで、下に示すように、英文表記は“CALICUT”で、今回事故のあった空港の英文名も“Calicut International Airport”です。したがって、時事通信配信の報道では地名の表記は“コジコーデ”だけでしたが、外国人としては“カリカット”の英名を忌避する必要はなさそうですし、すくなくとも、報道などでは“コジコーデ(英名カリカット)”などと併記する方が親切なのではないかと思います。

      カリカット・現行消印(マザーテレサ)

 個人的な話で恐縮ですが、2011年にインドを旅行した際、デリーからカリカットへの移動には飛行機を使いましたので、今回事故のあったカリカット空港も利用したことがあります。やはり、実際に足を運んだことのある場所でこうした事故が起きると、ほかの地域での事故に比べて心が痛みますね。あらためて、亡くなられた方のご冥福と負傷された方の御快癒を心よりお祈りいたします。

 * 昨日(7日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は8月28日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。
 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 英領インド | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 唐津くんち、曳山巡行中止
2020-08-07 Fri 02:28
 佐賀県の唐津神社の秋季例大祭で、長崎くんち、博多おくんちと並ぶ日本三大くんちのひとつ、“唐津くんち”を統括する唐津曳山取締会は、きのう(6日)、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、ことし11月2-4日に予定されていた曳山巡行を中止し、3日に神社で祭典のみ実施することを決定しました。200年に及ぶ唐津くんちの歴史の中で曳山巡行が中止になるのは初めてのことです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      唐津くんち

 これは、1995年10月2日、ふるさと切手(佐賀県)として発行された“唐津くんち”の切手です。

 唐津神社は、三韓征伐から帰国した神功皇后が、出征の際に航海の安全を祈願した住吉三神に感謝して松浦の海浜に宝鏡を縣けて祀ったのが起源とされています。

 例大祭での神輿の御神幸が始まったのは寛文年間(1661-73年)のことですが、現在のように曳山が祭りに登場するのは、1819年、一番曳山の“赤獅子”が奉納されたのが最初で、以後、1876年までに、獅子、兜、鯛などを模した15台の漆の一閑張りという技法が用いた曳山が製作されました。ただし、このうち、紺屋町が製作した“黒獅子”は現存していないため、現在の曳山は14台です。なお、今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、1845年に作られた魚屋町の“鯛ヤマ”で、厳木町出身の画家・中島潔が原画を制作しました。

 もともと、唐津神社のくんち旧暦9月29日の本祭を中心として営まれていましたが、1913年、本祭が新暦10月29日に、町廻りが翌30日に変更されます。先の大戦中は、徴兵により男性の曳き手が足りなくなったため、残された女性が曳山を曳いて祭りは維持されました。

 戦後の1962年には10月28日の“前夜祭(現・宵曳山)”が加わり、1968年以降は本祭のうち本殿祭のみを10月29日に残して、神幸祭(御旅所神幸)は祝日の11月3日に変更され、これにあわせて、宵曳山は同2日に、町廻りは同4日に変更されました。

 1980年、“唐津くんちの曳山行事”として国の重要無形民俗文化財に指定された後、昭和天皇が病床に伏していた1988年には、自粛ムードの中で祭りの中止を迫られることもありましたが、逆に、天皇の病気平癒祈念という点で開催を継続。2015年にはユネスコの無形文化遺産にも登録されています。

 今回の中止の決定について、取締会の山内啓慈総取締は「希望を持って協議を続けてきたが再び感染が拡大しており、参加者の命を危険にさらすわけにはいかない。断腸の思いだ」と述べたそうですが、一日も早くコロナウイルスの状況が落ち着き、来年は無事に開催されることをお祈りしております。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月7日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 日本:ふるさと | コメント:5 | トラックバック:0 | top↑
 ベイルートで大爆発
2020-08-06 Thu 01:11
 レバノンの首都ベイルートの港で、現地時間の4日午後6時ごろ、複数回にわたって大規模な爆発があり、市内の広い範囲で建物や車が壊れるなどの大きな被害が発生。被害の全容はまだ分かっていませんが、レバノン赤十字社は、これまでに少なくとも100人が死亡し、けが人は4000人にのぼっており、現在も現場のがれきの下に取り残されている人がいるとして、被害者がさらに増えるとの見方を示しています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      レバノン・マルセイユ=ベイルート航空10年

 これは、1938年にレバノンが発行した“マルセイユ=ベイルート間の飛行10周年”の記念切手で、ベイルート湾上空を飛ぶ飛行機と、初飛行を行ったパイロットのモーリス・ノゲスの肖像が描かれています。今回の爆発事故で被害の大きかった、ベイルート湾を望む市街地の地形がよくわかる1枚として、取り上げてみました。

 さて、ベイルートのルーツは、古代地中海の交易で栄えたフェニキア人の都市、ベリトスです。この都市は、ローマ時代には東地中海における交易の中心地であると同時に、文化的にも重要な都市となりました。現在のようにベイルート(アラビア語の発音としてはバイルートが近い)と呼ばれるようになったのは、西暦7世紀、イスラム世界に編入されてからのことです。

 第一次大戦後のオスマン帝国分割の過程で、フランスはサイクス・ピコ協定によって獲得した“歴史的シリア(の北部)”を、カトリック傘下のマロン派キリスト教徒が人口の過半数を占めるよう“レバノン”を創出し、その他の地域から分離することで、現在のシリアとレバノンの枠組を作りました。これにより、ベイルートはフランスの東地中海支配の拠点となり、1928年には、今回ご紹介の切手の題材となったマルセイユとの航空路が開かれます。

 ちなみに、今回ご紹介の切手に描かれているノゲスは、1889年、フランス西部のレンヌ生まれ。独学で飛行技術を学び、第一次大戦でのパイロットとしての従軍経験を経て、1922年、フランス=ルーマニア航空輸送社(CFRNA)に参加し、1924年、ブカレスト=イスタンブル=アンカラ間の航空路を開拓。さらに、1926年にはエア・オリエントに参加し、シリア、レバノン、サイゴンなどフランス本土と海外領土との航空路の開拓に尽力しましたが、1934年1月、フランス中央部を飛行中に吹雪に巻き込まれ、コルビニー付近で墜落死しました。

 その後、レバノンは1943年に独立。1948年にイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発すると、内陸アラブ諸国への中継貿易港であったハイファがイスラエル領となり、その地位を失ったことで、ベイルートは東地中海地域における物流の最大の拠点となります。また、パレスチナ資本や英語を理解する熟練労働者が流入したことで、フランス語を話すレバノン人と英語を話すパレスチナ人から成る労働市場が形成され、ベイルートは外国企業の進出にとって魅力的な地域になり、貿易とマスメディア、観光や各種産業が発達し、1975年にレバノン内戦が勃発するまで、“中東のパリ”とも呼ばれる繁栄を謳歌していました。

 1990年の内戦終結後、ベイルートは再建が進んだものの、すでに金融、交通の中心はドバイにその地位が移っており、また、2006年にはイスラエル軍とヒズボラの戦闘により街市街地南部が空爆されたこともあり、依然として東地中海有数の都市ではあるものの、往時の繁栄には及ばない状況が続いていました。

 さて、今回の爆発事故については、爆心地の倉庫には、爆薬の原料にもなる硝酸アンモニウムがおよそ2750トン保管されており、その管理が極めてずさんだったことが指摘されています。

 また、100人以上の死者と4000人以上の負傷者のほか、爆破による被害は市街地の半分に及んでいるため、25-30万人が家を失い、推定被害総額は30億-50億米ドルに上るとみられます。もともと、デフォルト状態にあるレバノンにとってはこれだけでも大変なことですが、さらに爆心地の横には、レバノンの穀物備蓄の85%を保管していたサイロがあったことに加え、最大の港であるベイルート港が爆発で壊滅状態にあるため、食料を含む生活物資の9割を輸入に頼っているレバノン経済が極めて深刻な事態に陥ることは必至です。

 あらためて、亡くなられた方のご冥福と負傷者の方々の御快癒、そして、被災者の方々の食糧と住居が確保され、そのうえで、一日も早い復興が成し遂げられることを切にお祈りしております。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月7日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | レバノン | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ | NEXT
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/