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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 キューバで憲法改正の国民投票
2019-02-24 Sun 01:53
 キューバで、きょう(24日)、憲法改正の是非をめぐる国民投票が行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・憲法公布(1976)

 これは、1976年にキューバで発行された憲法公布の記念切手で、憲法で規定された国旗・国歌・国章が描かれています。

 キューバでは、1959年の革命以来、憲法が停止された状態が長らく続いていました。

 しかし、1970年、急進的な社会主義建設政策の“1000万トン計画”が失敗に終わったことで、1970年7月26日、フィデル・カストロ首相は、モンカダ兵営襲撃記念日の演説で自己批判したうえで、「いかなる体制を取るべきか、議論し、検討してほしい」と訴えます。その真意は、革命の理想を追求する“キューバ式社会主義”を事実上放棄し、ソ連型の政治経済体制を導入する以外の選択肢がないというものでした。

 この演説の後、制度転換のための具体的な準備が徐々に進められ、1972年、キューバはCOMECON(経済相互援助会議)に加盟し、名実ともに社会主義圏に統合されます。そして、1974年2月のブレジネフのハバナ訪問を経て、1975年12月、キューバ共産党の第1回党大会が開催され、ソ連型体制の導入が決定されました。

 これを受けて、翌1976年2月に公布されたのが、現行のキューバ憲法です。

 同憲法の前文は、冒頭、キューバの現体制は「ホセ・マルティをはじめとする先人の創造的努力と、戦闘性、革新、勇気、犠牲の伝統の継承者である」とし、「本憲法はマルティの願望を体現するものである」とうたう一方、「キューバ人民はマルティの理想とマルクス・エンゲルス・レーニンの政治・社会思想を導きとする」しており、第1条で「キューバは労働者の社会主義国である」ことを明示したうえで、「(共産党は)労働者階級のマルクス・レーニン主義のもとに組織された前衛であり、社会と国の指導勢力である」(第五条)と規定するなど、明確にソ連化の方向を打ち出していました。

 また、憲法の公布により、ようやく、革命以来停止されていた議会制度(国会・州議会・地区議会で構成)が復活しましたが、一般国民による直接選挙制度が採用されているのは地区議会選挙のみで、州議会と国会の議員は地区議会が中心になって選出するものとされていました。

 その後の改正で、州議会と国会の選挙でも直接投票が認められるようにはなりましたが、それでも、候補者に関しては、地区の候補者委員会が議員定数の4分の1超の“プレ候補者”を選び、州議会と国会の候補者委員会が独自の候補者を加味した候補者リストを作成し、地区議会がそれぞれ被選挙権を満たしているかどうか審査したうえで、定数と同数の候補者を決定するという方式がとられており、民主的な選挙とは言いがたい状態が続いています。

 今回の憲法改正では、昨年のラウル・カストロ国家評議会議長(首相を兼務)の退任を受け、大統領のポストを新設するほか、市場原理の役割や私有財産の所有を認める内容となっていますが、共産党一党支配や社会主義体制堅持の方針はそのまま維持されているため、急激な体制変革ということにはならないとみられています。

 なお、キューバの現体制が構築されていった過程については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 ベネズエラ、ブラジルとの国境封鎖
2019-02-23 Sat 13:31
 ベネズエラのマドゥロ大統領は、21日(現地時間)、野党連合側が国際社会に呼び掛けた支援物資の受け取りを拒否するための措置として、同国南部、ブラジルとの国境を閉鎖すると発表しました。というわけで、きょうはベネズエラ=ブラジル国境地帯に関連するものとして、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ベネズエラ・ヤノマミ人

 これは、1995年、ベネズエラが発行した“先住民”切手シートで、ブラジルとの国境地帯に住むヤノマミ人とその住居が描かれています。

 ヤノマミ人は、ブラジル=ベネズエラ国境のネグロ川の左岸支流とオリノコ川上流部に住む先住民で、現在、人口2-3万人が200ほどの集落に分かれて暮らしています。集落は、中央の広場を囲むように、藁葺きで巨大な円形の家“シャボノ”が建てられており、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられ生活しています。伝統的な生活様式としては、衣服はほとんど着用せず、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバなどを食料としていますが、調味料としての塩を用いないため、塩分の摂取が極端に少なく、世界一低血圧な部族としても知られています。

 さて、ブラジルとの国境が封鎖されたベネズエラでは、南部のボリバル州で、きのう(22日)、封鎖命令に抗議し、人道支援物資の搬入を支持する先住民グループに軍当局が発砲し2人が死亡、少なくとも22人が負傷しました。支援物資搬入を巡って死者が出るのは初めてのことです。

 チャベス前大統領の反米・社会主義路線を継承しているとされるマドゥロですが、チャベスの政治的な原点は、1989年2月、首都カラカスで貧困層が暴動を起こした際に陸軍が出動し、多数の死傷者が発生したことに大きな衝撃を受けたことにあります。その後、チャベスは、絶望的なまでに広がっていた貧富の格差を是正することを目指して、1992年、同志を募ってクーデターを起こしたものの失敗したものの、投降の際に彼が行ったテレビ会見が(クーデターの是非はともかく)国民の一定の支持を得て、政治家として大いに飛躍することになりました。

 支援物資を求めるベネズエラ国民への発砲を命じたマドゥロは、少なくとも、若き日のチャベスの志は継承しなかったということなんでしょうな。

 * 昨日(22日)の内藤が出演した「おはよう寺ちゃん」の放送は無事に終了いたしました。お聴きいただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 “象牙の女王”に禁錮15年
2019-02-22 Fri 02:04
 タンザニアの裁判所は、19日、400頭分以上の象牙をアジア向けに不正取引したとして、“象牙の女王”と呼ばれていた中国人実業家、ヤン・フェン・グラン被告ら3人にそれぞれ禁錮15年の実刑判決を言い渡しました。というわけで、きょうは、象牙が描かれたタンザニア切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      タンザニア・国章

 これは、1965年にタンザニアが発行した国章を描く20シリング切手です。

 タンザニアの国章はキリマンジャロ山の上に楯と象牙を置き、それを男女が支える構図です。男性の足元にはクローブを、女性の足元にはワタが描かれ、山麓には“自由と統一”を意味する“Uhuru na Umoja”が掲げられています。楯の最上段は鉱物を表す金色の中に自由、啓発、知識を意味する松明、2段目には国旗を配し、3段目の赤は豊かな土壌を、最下段の波型は陸・海・湖・海岸線を示しているとされています。

 さて、現在のタンザニア国家は、1961年に独立したタンガニーカが、1964年、対岸のザンジバルと連合してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国を構成した後、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と改称して現在の体制となりました。

 連合共和国の大統領には、タンガニーカの初代首相(後大統領)だったジュリウス・ニエレレが就任しましたが、ニエレレは、東アフリカにおける汎アフリカ主義の旗手であると同時に、(アフリカ式)社会主義路線を志向していました。ここから、彼は汎アフリカ主義にも親和的と見られた中国に傾斜していくことになります。

 たとえば、1965年11月、アパルトヘイト政策を掲げて独立したローデシアに対して国連が経済制裁を発動し、その副作用として、内陸国のザンビアから銅鉱石の輸出ができなくなると、その打開策として、ニエレレはローデシアを経由せず、ザンビアとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道の建設を構想し、中国の支援を仰ぎました。

 ニエレレの要請を受けた中国は、文化大革命さなかの1967年、タンザニアとザンビア両政府首脳を中国に迎えて協議し、1970年7月、3国間でタンザン鉄道建設協定を最終調印。協定は、中国がタンザニア、ザンビア両国に無利子で計4億320万ドルの借款を与え、約2万人の中国人労働者を派遣するというものでした。ちなみに、タンザン鉄道は1976年7月14日に完成し、中国からタンザニア、ザンビア両政府に引き渡されています。

 また、この間、ニエレレは1967年にアルーシャ宣言を発し、中国の人民公社に倣った“ウジャマー村構想”を実施したほか、中国から軍事顧問を受け入れ、さらに、中国の人民服風の“タンザニア・スーツ”も導入しています。

 このように、中国との関係が緊密化する中で、1970年代以降、多くの中国人がタンザニアに渡りましたが、今回有罪判決を受けたヤン被告もまた、そうした流れに乗って1970年代からタンザニアに住み、現地にある中国アフリカビジネス会議の事務局長を務める一方、東アフリカと中国との間で巨大な密輸ネットワークを構築。タンザニア当局が確認できただけで、2000-14年に象牙約860本を密売したとして、2015年10月に訴追されていました。

 なお、ニエレレ政権下のタンザニアは、ゲバラによるコンゴ工作の拠点としても重要な意味を持っていましたが、このあたりの以上については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 世界の切手:メキシコ
2019-02-21 Thu 01:24
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月6日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はメキシコ(5回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・フリーダカーロ(1991)

 これは、1991年に発行されたフリーダ・カーロの自画像の切手です。

 フリーダ・カーロは、1907年7月6日、メキシコ市近郊のコヨアカンの“青い家”でハンガリー系ユダヤ人の写真家、ギリェルモ・カーロの三女として生まれました。

 フリーダは6歳の頃、急性灰白髄炎で約9ヵ月間、寝たきりの生活を送り、その影響で右腿から踝にかけて成長が止まり、生涯、痩せ細った脚のままでした。後年、彼女が、脚を露出しないズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用したのは、このためです。写真家だった父は、リハビリを兼ねて彼女を頻繁にハイキングに連れ出し、そこで水彩画やカメラの手ほどきを受けたことが、彼女の画家としての素地をはぐくんだといわれています。

 1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業後、ソカロの国立予科高等学校へ進学すると、カチュチャスと呼ばれるサークルに参加。文学に熱中し、作家オクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ、作曲家アンヘル・サラス、ジャーナリスト、アレハンドロ・ゴメス=アリアス等と親交を結びました。

 1925年9月17日、通学途中だったフリーダは、多数の死傷者が出る事故に巻き込まれて重傷を負い、3ヵ月間に渡る療養生活を余儀なくされましたが、これを機に、入院中の無聊を慰めるため、本格的に絵を描くようになります。

 1928年、体調が回復した彼女は、知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党に入党。そこで、女性写真家の紹介で、メキシコ壁画運動の中心的な画家で共産党員のディエゴ・リベラと出会いました。

 リベラの作品に感銘を受けた彼女は、闘病時代に描いた自分の作品をリベラに見せて意見を求めます。リベラはすぐに彼女の才能を認め、2人の仲は急接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚。当初、2人はメキシコ市中心部に住んでいましたが、リベラの壁画制作の仕事にあわせて、クエルナバカ、サンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトなどを転々とします。しかし、リベラが米国で仕事をすることを快く思わなかったメキシコ共産党は、1929年、彼の党員資格を剥奪。これにあわせて、彼女も共産党を離党しました。

 1930年、フリーダは妊娠しましたが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産。その後も、1932年と1934年に流産を経験し、その後の作風に大きな影響を与えています。

 1933年12月、メキシコに戻った2人は、メキシコ市南郊のサン・アンヘルを活動の拠点としましたが、1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったため一時的に別居。同年末、フリーダはサン・アンヘルに戻ったが、リベラへのあてつけで彫刻家のイサム・ノグチと関係を持ちます。また、1937年には、メキシコに亡命してきたロシアの革命家、レオ・トロツキーと妻ナタリア・セドヴァに夫妻に住居を提供する一方、トロツキーとも関係を持ち、『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を制作しました。

 1938年、フリーダは海外での大規模な個展を初めて開催。これがきっかけで、世界的な評価を得るようになりましたが、彼女自身は周囲の高評価に戸惑いを隠せなかったようです。以後、彼女はニューヨーク、パリ、ロンドンなどで精力的に活動するようになりましたが、そのことは夫婦間の擦れ違いを生み、1939年11月6日にリベラと正式に離婚。彼女は生家である“青い家”に戻ります。

 離婚後の彼女は以前にもまして作品制作に没頭しましたが、1940年9月、脊椎の痛みが悪化したことに加え、右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、サンフランシスコで療養生活に入ります。その後、健康状態が安定すると、1940年12月8日、フリーダはサンフランシスコでリベラと再婚しました。

 1940年代に入ると、彼女の画業はさらに高い評価を得て、1942年にはメキシコ文化センター会員、文部省管轄下の絵画・造形専門学校“ラ・エスメラルダ”の教員にも選ばれました。しかし、健康状態の悪化により、彼女は入退院を繰り返し、1950年には右足の指先が壊死したため切断。以後、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作を行いましたが、1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった稠密な作品の制作も困難になりました。

 1953年8月、右足の痛みはさらに悪化し、膝までを切断。以後、義足の生活となり、1954年7月13日、肺炎の併発で亡くなりました。彼女の遺体は荼毘に付され、その遺灰は先征服期の壺に入れられて“青い家”に安置されています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月6日号の「世界の国々」では、フリーダ・カーロについてまとめた長文コラムのほか、ディエゴ・リベラの絵画の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のメキシコの次は、2月6日発売の同13日号でのブルガリア、2月13日発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)、2月20日発売の同27日号でのナミビアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。
 

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 数十年間の腐敗した取引
2019-02-20 Wed 11:00
 米国のトランプ大統領は、18日(現地時間)、フロリダ州で演説し、反米左派のマドゥロ大統領から、暫定大統領就任を宣言したグアイド国会議長への「平和的な権力移行」を目指す方針を示すとともに、「ベネズエラとキューバの社会主義独裁政権は数十年間にわたり、腐敗した取引で互いに支え合ってきた」と批判し、両国の連携を断ち切ることが必要だと訴えました。というわけで、キューバとベネズエラの左翼勢力との長年にわたる関係を示すものとして、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・オヘダ

 これは、1967年にキューバが発行した“第1回ラテンアメリカ連帯機構(OLAS)会議”の記念切手で、ラテンアメリカの革命烈士の例として、ベネズエラのファブリシオ・オヘダが取り上げられています。

 1960年7月1日、ベネズエラのベタンクール政権は「右翼であれ左翼であれ、軍事力によって権力を獲得した政権は一切承認しない」とするベタンクール・ドクトリンを発表。ドミニカ共和国とキューバを敵視する姿勢を明らかにした。

 これに対して、キューバの支援で結成された“左翼革命運動(MIR)”は、ベネズエラ共産党とともに武装闘争を展開したため、ベタンクールは軍を総動員して弾圧に乗り出し、1961年10月までに数百人規模の死者が発生しました。このため、11月12日、ベタンクールはキューバを左派暴動の黒幕と断罪して断交すると、キューバは「ベタンクールは米国に追随し、反政府運動を弾圧する独裁政権と化した」と応酬します。

 こうした状況の下で、民主行動党内の左派がキューバとの断交に反対して離党し、下院では野党が過半数となったため、政権は不安定化。MRIと共産党の主導による大規模なストライキや反政府暴動、武装反乱などが相次いだため、1962年4月、ベタンクールは混乱を理由に共産党とMIRを非合法化し議員資格を剥奪。5月には両者の政治活動を全面的に禁止しました。

 一方、左派勢力は、1962年12月、農民連盟、労働者連合、大学センター連合など全勢力が結集して、民族解放戦線(FLN)を結成し、その軍事組織として民族解放軍全国司令部(FALN)を設置。FALNは3000の兵力を動員して、全国20州のうち7州で作戦を展開。貨物船アンゾアテギ号のシージャック、アルゼンチンのサッカー選手デ・ステファーノ誘拐、カラカスのフランス印象派展覧会の絵画の窃取と自発的返却、米大使館つき武官の誘拐、米国系企業への攻撃などのテロ活動を行いました。

 これに対して、ベネズエラ政府軍は、米軍の指揮・支援の下、FALNのゲリラ軍に対してナパーム弾爆撃を含む大規模な掃討作戦を行い、ファルコン州以外のゲリラ支配地区をほぼ壊滅させています。

 こうした状況の下、1963年11月1日、ベタンクールの任期満了に伴う大統領選挙(と議会選挙をあわせた総選挙)が告示されましたが、FLNとFALNは選挙のボイコットを呼びかけ、20日には、政府軍が介入してカラカス市内では大規模な戦闘が発生。政府はパラグアナ半島の無人の海岸でFALNの武器貯蔵庫を摘発し、キューバから持ち込まれた携帯兵器3トンを捕獲し、FALNの背後でキューバが暗躍していると名指しで非難しています。

 こうして、12月1日、政府が5万の軍隊を動員し、8000名の逮捕者を出すという騒然とした空気の中で大統領選挙が行われ、与党・民主行動党のラウル・レオーニ・オテロが当選しました。

 3月11日に発足したレオーニ新政権は、和解政策を提唱し、共産党とMIRを合法化すると発表。これを受けて、8月までに共産党とMIRの主流派は武装闘争路線を放棄し、10月にはFLNが和平アピールを発表しましたが、FALNは武装闘争を放棄せず、その後も、キューバの支援を受けながら、ベネズエラ政府軍の戦闘を続けていました。

 そうした中で、1966年6月、カラカス市内に潜伏していたFALN議長のファブリシオ・オヘダが密告により捕えられ、拷問のすえに殺害されると、キューバ首相のフィデル・カストロは、オヘダの逮捕は、平和路線に転じたベネズエラ共産党の裏切りによるものと考えました。

 そこで、7月24日、ルベン・ペトコフひきいるFALN部隊がキューバからファルコン州に上陸作戦を行い、イラカラ山系のゲリラ部隊との合流に成功。じつは、このタイミングで、キューバ政府は、キューバに極秘裏に帰国していたチェ・ゲバラのベネズエラ派遣をベネズエラ共産党に内々に提案していたが、ベネズエラ共産党はこれを拒否しています。

 その後も、FALNはカラカス市内でのゲリラ活動を展開し、1967年3月1日にはフリオ・イリバーレン・ボルヘス元社会保障庁長官を誘拐・殺害。FALN司令官のエリアス・マヌイト・カメロは、キューバ紙『グランマ』で“犯罪者”イリバーレンを処刑したことを明らかにしました。

 事件を受けて、共産党中央委員でカラカス中央大学教授のエクトル・ムヒカをはじめ、共産党の有力者たちが、イリバーレンの殺害は革命とは無関係の単なる犯罪と断じ、ベネズエラ政府も、事件に関与していたとしてキューバを批難。さらに、ムヒカはベネズエラ共産党を代表して「FALNの名においてイリバーレン殺害を命じたエリアス・マヌイトとの関係を断絶する」と発表します。前海軍大尉で一時FALNの司令官を務めたペドロ・メディナ・シルバも「我々の戦闘組織の名を悪用する人々は、敵の共犯者である。イリバーレン殺害者には人民の正義が適用されるだろう」との声明を、主なゲリラ指導者との連名で発表しました。

 これに対して、3月13日、カストロはベネズエラ共産党の武装闘争中止の方針は“革命に対する裏切り”と公に批難しましたが、4月22日、ムヒカらベネズエラ共産党中央委員会は武装闘争の停止を正式に決定しました。

 そこで、5月8日、キューバを出発したモイセス・モレイロら12人のゲリラ部隊が、レオポルド・シンケ・フリーアスらキューバ軍将校4人の作戦参謀とともに、ミランダ州に上陸し戦闘を開始。結果的に、この作戦は失敗に終わり、参加者の多くは逮捕・投獄され、ベネズエラの提訴を受けて、7月26日に開催された米州機構(OAS)査問委員会ではキューバがベネズエラの反乱軍を支援し訓練したと報告。OAS理事会はキューバ非難決議を採択しました。

 今回ご紹介の切手の発行の名目となったOLASの第1回会議は、このようにキューバとベネズエラの関係が緊張状態にある中で行われたもので、キューバとしては、ベネズエラの位置を示したラテンアメリカ地図とオヘダの肖像が取り上げることで、ベネズエラ共産党の“裏切り”に対する憎悪が表現したわけです。

 ちなみに、同会議の議長として閉会宣言を行った「ゲリラを都市から指導しようとすることは愚かであるばかりでなく犯罪でさえある」と発言し、ベネズエラ共産党指導部を“えせ革命家のマフィア”と酷評。ベネズエラ共産党を“日和見主義”として名指しで批難しています。

 さて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、今回ご説明したベネズエラを初め、ラテンアメリカ諸国の左翼勢力とキューバのカストロ政権との歴史的関係についてもいろいろまとめています。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 “勝利のキス”の水兵、亡くなる
2019-02-19 Tue 11:37
 米国の対日勝利を祝うニューヨークのタイムズスクエアで、女性にキスをする姿が写真に収められ有名になった元水兵のジョージ・メンドンサさんが、17日(現地時間)、ロードアイランド州ミドルタウンの養護施設で亡くなりました。95歳。というわけで、謹んで御冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・勝利のキス

 これは、1995年に米国が発行した“第二次大戦50周年シリーズ”のうち、“勝利のキス”を取り上げた1枚です。

 米国の第二次大戦50周年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、米国側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回し、代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行したことでも話題となりました。

 さて、切手に取り上げられた“勝利のキス”のもとになった写真は、『ライフ』のカメラマンだったアルフレッド・アイゼンスタットが1945年8月14日に撮影したもので、原題は“V-J Day in Times Square (タイムズスクエアの対日戦勝記念日)”、 『ライフ』1945年8月27日号で発表されました。なお、対日戦の勝利を記念する“V-J Day”は、現在では、降伏文書の調印が行われた(1945年)9月2日とされていますが、この写真が発表された時点(=降伏文書の調印前)では、玉音放送で日本の降伏が発表された8月14日(米国時間)を“V-J Day”と呼んでいたようです。

 もともとの写真は縦型で、水平と女性の全身像が撮影されていますが、切手では、シリーズのフォーアットの横型にあわせて2人の上半身の身にトリミングされています。また、背後の人物の位置関係なども修正されています。

 なお、アイゼンスタットの写真とは別に、米海軍の報道班員だったヴィクター・ヨルゲンセンも全く同じ場面をとらえた写真“Kissing the War Goodbye”を発表しています。この写真は米国政府の著作物であるためパブリックドメインとなっており、8月15日付の『ニューヨーク・タイムズ』では、こちらを掲載しています。

 写真の水兵、メンドンサさんは、戦時中、太平洋地域での任務に就いていましたが、非番で一時帰国中、タイムズスクエアで対日戦勝利の報に接し、おもわず、近くにいた見ず知らずの女性にキスをしてしまったそうです。一方、キスされている女性のグレタ・ジマー・フリードマンさんは、当時、看護婦で、終戦の知らせを聞いて友人らとともにタイムズスクエアへ行き、地下鉄から通りへ出たところで、いきなり水兵にキスされたところを写真に撮られましたが、「水兵は自分たちのために戦ってくれたのだからキスさせてあげようと思った」と思って、されるがままになっていたそうです。また、メンドンサさんは、自分たちが写真に取られていることを自覚しており、写真を撮りやすいようにキスの時間を長くしていたのだとか。ちなみに、フリードマンさんは、2016年、92歳で亡くなっています。

 なお、米国の第二次大戦50周年シリーズについては、拙著『外国切手に描かれた日本』でも1章を設けてご説明しておりますので、 機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 サウスシェトランド諸島発見200年
2019-02-18 Mon 16:38
 1819年2月19日、英国の探検家ウィリアム・スミスが南極海のサウスシェトランド諸島を発見してから、200周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウスシェトランド諸島加刷

 これは、1945年、英領フォークランド切手に加刷して発行されたサウスシェトランド諸島の切手です。

 19世紀初頭、西洋人による南氷洋でのクジラ、アザラシ、ペンギンの狩猟が盛んになる中、1819年2月19日、英国の探検家ウィリアム・スミスが、南極地域の最も北方に位置するサウス・シェトランド諸島(南緯61度00分-63度37分、西経53度83分―62度83分)を発見し、英領と宣言。同年10月16日、同諸島最大のキング・ジョージ島に上陸しました。

 さらに、1820年1月下旬、ロシア海軍のベリングスハウゼン、英海軍のエドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマーが数日間のうちに相次いで南極大陸を“発見”します。一方、1818年にスペインから独立したチリ政府は、当初から南氷洋に関心を持っており、英領サウス・シェトランド島へのチリ国民の狩猟航海を支援していました。

 1898-99年、ベルギー人のアドリアン・ド・ジェルラシ率いる南極探検船ベルジカ が南極圏での越冬に成功すると、各国は相次いで南極探検に乗り出し、1901-04年にはロバート・スコット率いる英国探検隊はマクマード湾に基地を設営し、南極内陸部を探査。さらに、1911年12月14日にはロアール・アムンセン率いるノルウェー探検隊が南極点に到達しました。

 こうした中で、チリ政府は1906年頃から南極大陸での領有権確立に向けて隣国アルゼンチンと交渉を開始しましたが、領土を画定する条約の成立には至りませんでした。これに対して、1908年、英国は南緯50度以南、西経20-80度の南極半島を含む地域の領有を宣言。行政上は英領フォークランドの管轄下としました。

 南極での領有宣言を行った英国は、1913年3月、キングジョージ島に“サウスシェトランド諸島郵便局”を開局し、英領フォークランド切手を持ち込んで郵便サービスを開始しました。同局は、利用者が捕鯨関係者にほぼ限定されていたため、南氷洋での捕鯨が行われる時季(中心は12-2月)のみ開局される季節局でした。

 その後、1939年1月14日、ノルウェーが0度から西経20度までの地域の領有を宣言すると、同19日にはドイツも東経20度から西経10度の領有を宣言。これに刺激を受けたチリ大統領のペドロ・アギーレは、第二次欧州大戦勃発直後の同年9月7日、南極権益特別委員会を設立して調査を開始し、各国が大戦の混乱で南極に目を向ける余裕を失っていたタイミングを見計らい、1940年11月6日、布告1747号を発してチリ領南極の領有を宣言しました。

 これに対して、英国は南極での領有権を確保すべく、第二次大戦中の1943年、軍事基地を建設。これを受けて、南極の軍事基地と外部との通信に使う必要から、翌1944年以降、英領フォークランドに地名を加刷した切手を発行しました。なお、この時、加刷切手を発行した地域には、今回ご紹介のサウスシェトランド諸島のほか、グレアムランド、サウス・ジョージア、サウス・オークニー諸島があります。

 その後、1962年3月3日、南緯60度以南の地域については、新たに“英領南極”としてフォークランド諸島から分割して、英本国の外務・英連邦省の海外領土局に移管。1963年からは、英領南極としての独自の切手発行も始まりました。
 
 ちなみに、1982年のフォークランド紛争に関して、日本では、しばしば「英国は、自国の領土であれば、遠く離れた南半球のちっぽけな島であっても、決して侵略を許さなかった」という説明がなされることがあります。こうした物言いは、領土防衛の重要性を強調するという点では正論なのですが、上述のように、英国の南極政策にとってフォークランド諸島が重要な戦略拠点となってきたという歴史的経緯を考えると、フォークランド諸島は決して“遠く離れた南半球のちっぽけな島”ではなかったことがわかります。ましてや、英領南極の地域は、チリとアルゼンチンも領有権を主張しているとなれば、なおさら、アルゼンチンの“侵略”を看過するわけにはいかなかったという事情は記憶にとどめておいてもよいでしょう。
 

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 チェ・ゲバラとキューバ革命
2019-02-17 Sun 01:20
 かねてご案内のとおり、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は2月25日)の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の現物ができあがりましたので、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

      チェ・ゲバラとキューバ革命(表紙)

 2005年に『人は見た目が9割』(竹内一郎 新潮新書)という本がベストセラーになりましたが、このタイトルの文言が人間関係の全てに有効かどうかはともかく、一定の成功を収めた政治家や革命家は、多くの場合、その民族にとって“良い顔”をしているケースが多いように思われます。

 歴史的な事実を冷静に観察すれば、革命家としては失敗続きで、人格的にも多くの問題を抱えており、ほとんど“詐欺師”に等しい人物でしかない孫文が、中国・台湾で“国父”の地位を獲得しえたのは、数多いる革命家の中で、彼が眉目秀麗だったことが大きいと思われます。わが国でも、2001-06年の小泉純一郎内閣が、政策の是非よりも、小泉の外見と“小泉劇場”とも呼ばれた派手なパフォーマンスによって、任期満了による退陣まで高い支持を維持し続けたことは記憶に新しいところです。

 そうした“見た目”を武器として一時代を築いた政治指導者という点でいえば、やはり、かつてジョン・レノンが“世界で最もカッコいい男”と評されたエルネスト・チェ・ゲバラを外すわけにはいきますまい。

 郵便学者としての僕の関心からすると、ゲバラと彼の肖像切手は非常に魅力的な対象で、いずれはじっくりと取り組んでみたいと前々から考えていました。

 しかし、2005年に上梓した『反米の世界史』で、キューバ革命とミサイル危機について1章を設けて扱ったものの、その後は、2010年の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』で、ごく簡単に、2005年以降のキューバ切手(特に、フィデル・カストロの肖像切手)について考察したものの、なかなかゲバラやキューバについて発表する機会がなく、細々と資料収集を続けるだけに留まっていました。

 そうした中で、NHKラジオ第1放送「切手でひも解く世界の歴史」の2017年10月5日放送回で、10月9日のゲバラ没後50周年に合わせて、ゲバラについてお話をする機会がありました。

 その記憶も鮮明なうちに、10月下旬、ブエノスアイレスでゲバラの横断幕などを掲げたデモ行進に遭遇し、そのことが強く印象に残ったので、帰国後の11月、あらためてレギュラー出演しているインターネット放送の“チャンネルくらら”で、ゲバラについてある程度まとまった話をさせてもらいました。

 NHKラジオ、チャンネルくららともに、予想以上に反応がよく、一定の手ごたえを感じたので、えにし書房の塚田敬幸社長に相談したところ、塚田社長も大いに興味を示していただき、2017年末、本書の企画が具体的に動き出しました。

 当初、本書は、2018年6月のゲバラ生誕90周年のタイミングにあわせての刊行を計画しており、それにあわせていろいろとイベントのスケジュールも組んでいたのですが、実際に作業を始めてみると、ゲバラの足跡や“ゆかりの地”は世界中のあらゆる国・地域に及んでいること、また、キューバの革命政権がラテンアメリカやアフリカの革命や紛争にも深くかかわっていることを、あらためて思い知らされ、ゲバラという対象の奥の深さに驚かされるばかりでした。

 もちろん、そうであればこそ、ゲバラが見ていた世界と同時にゲバラを見ていた世界を双方向から俯瞰して眺めることで、短いタイムスパンとはいえ“世界史”の一端を横断的に理解できるともいえるわけですが、それこそ、「言うは易し 行うは難し」の典型で、どれほど格闘しても、暗闇の中でマッチを一本だけ擦り、その炎で巨大な空間のごく一部のみを一瞬だけ垣間見るようなもどかしさを感じる日々が続きました。

 結局、原稿の分量は当初の予定をはるかに超過し(最終的に、2段組で696頁という分量になってしまいました)、2018年が過ぎて2019年1月末まで、一年間以上、海外出張中の期間も含めて、ほぼ毎日、なんらかのかたちで本書の作業をする“ゲバラ三昧”の生活を送り続けて、ようやく、本書の刊行にこぎつけた次第です。

 この間、刊行の遅れにより、多くの方々にご迷惑をおかけしてしまったことを深くお詫び申し上げます。

 ただ、時間がかかった分、今までの拙著の2-3冊分に相当する内容を1冊に詰め込んだ仕上がりになったのではないかとも自負しております。

 とまれ、今後、書店などで拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の現物をお見かけになりましたら、ぜひ一度、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 “カストロ首相”60年
2019-02-16 Sat 11:10
 1959年2月16日に、フィデル・カストロ(以下、フィデル)がキューバの首相に就任してから、きょうで60年です。というわけで、きょうはこの切手を持てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(フィデル首相就任)

 これは、2009年にキューバが発行した“革命50周年”の記念切手のうち、フィデルの首相就任を取り上げた1枚で、群衆を前に首相就任の演説を行うフィデルの後姿が取り上げられています。

 親米バティスタ政権打倒後の新政権についての具体的な構想が示されたのは、革命戦争前半の1957年7月、フィデルとオルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリーペ・パソスの3人が、フィデルら叛乱軍M26の拠点であったシエラ・マエストラ山中で署名した「シエラ・マエストラ宣言」が最初です。

 同宣言の主な内容は、①革命市民戦線を結成し、闘争を統一、②臨時政府首班の指名、③外国の干渉排除、④軍事評議会の拒否、⑤一九四〇年憲法の復活、⑥腐敗根絶、⑦遊休地の優勝接収、などで、②の首班指名はパソスの要求によって盛り込まれたもので、パソスは自らが“大統領”になる野心を持っていました。

 その後、革命派が攻勢を強める中で、1958年8月、フィデルら反バティスタ勢力各派の代表者はマイアミでバティスタ打倒後の臨時政府首班指名についての議論を行い、マヌエル・ウルティアが大統領として推薦されました。ウルティアは元最高裁判事で、1953年のモンカダ兵営襲撃事件後のフィデルに対する裁判で、非常事態下にあっては武装抵抗も憲法上容認されうるとの判断を示したことがあり、フィデルら叛乱軍のみならず、既成政党の支持者にも受け入れやすい人物でした。

 こうした経緯を経て、1959年1月1日、バティスタ政権が崩壊すると、マイアミでの協議に基づき、ウルティアが大統領就任を宣誓。4日にはハバナで臨時革命政府が樹立され、翌5日には全国弁護士会会長のミロ・カルドを首相とする新内閣が発足し、M26からはアルマンド・ハーツ(教育相)とファウスティーノ・ペレス(不正取得資産回復担当相)が入閣しました。

 バティスタ政権打倒の最大の功労者は、いうまでもなく、フィデルらM26でしたが、革命当初の臨時革命政府では、バティスタ政権時代の教訓から、「軍人は政治には介入してはならない」としてシビリアン・コントロールの原則を守るため、フィデルらゲリラの主要メンバーはあえて政府に参加しませんでした。ちなみに、この時点でのフィデルの立場はキューバ人民軍総司令官です。

 これに対して、一方、首相のカルドナは、もともと、最後までバティスタとの話し合いによる政権交代を目指していた“穏健派”であり、対米協調路線の維持を主張するなど、フィデルらM26とはかなりの温度差がありました。

 このため、新政権内部での主導権を確保しようとしたカルドナは、1月17日、大統領のウルティアが慰留することを想定して辞表を提出し、大統領とM26に揺さぶりをかけます。ところが、政治的な駆け引きの機微に疎いウルティアは辞表を受理してしまい、あわてた大統領秘書官がカルドナに辞表を返却し、辞任劇はひとまず収まるという一幕がありました。

 こうした政治的混乱もあって、M26を中心にフィデルの首相就任を求める声が上がり、2月7日、フィデルと大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散せざるを得なくなります。なお、これを機に、1976年までキューバでは選挙が実施されなくなりましたので、事情はどうあれ、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなりました。
 
 そのうえで、2月16日、フィデルは「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任。以後、2008年まで続くフィデルの超長期政権がスタートするのです。

 なお、2月25日付で刊行の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、その後のフィデルと革命キューバについて詳しくご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、実物を手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ソ連軍のアフガニスタン撤退30年
2019-02-15 Fri 12:17
 1989年2月15日にソ連軍がアフガニスタンから完全撤退して、きょうで30年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アフガニスタン・レーニン

 これは、1980年、親ソ政権時代のアフガニスタンで発行された“レーニン生誕90年”の記念切手です。当時のアフガニスタンがソ連の影響下にあったことを如実に示す1枚として持ってきました。

 1953年から55年にかけて、アフガニスタン政府は再三に渡って米国に軍事援助を要請したものの、米国はこれを拒否します。1953年のモサデク政権打倒によりイランを“湾岸の憲兵”として取り込んだ米国にとって、アフガニスタンに重要な意味は見出せなかったからです。

 また、1955年、バグダード条約機構が成立し、パキスタンがその加盟国として西側陣営の反ソ包囲網の一翼を担うようになると、アフガニスタンは、パキスタンへの対抗上、ソ連との関係を強化していくことになります。

 一方、ソ連にとっては、アフガニスタンを勢力圏内に収めれば、そこから係争地カシミールを経てインド(冷戦下では親ソ派の大国と位置づけられていました)につながることができるようになれば、西側の反ソ包囲網を分断し、インド洋にも到達できます。このため、1956年以降、ソ連は、アフガニスタン空軍の創設をはじめ、アフガニスタンに対する軍事援助を進めたほか、1956年から始まった5ヵ年計画にも多額の長期融資を行いました。

 これに対してアフガニスタンからは、援助への見返りとして、綿花や羊毛、天然ガスなどがソ連領に送られ、アフガニスタン経済はソ連への従属を強めていきます。

 ところが、1971年、英国がスエズ以東から撤退したのを機に、アフガニスタンは外交方針を転換。英国とイランに接近し、パキスタンとも関係改善を志向するようになりました。しかし、こうした政策転換は、ソ連ならびにその強い影響下にあった左翼将校の反発を招き、1973年7月、国王ザーヒル・シャーが眼の治療のためにイタリア滞在中、ダーウド元首相を中心に軍の左翼将校と親ソ勢力のパルチャム党が無血クーデタを敢行しました。

 さて、共和革命に際して、いわゆるイスラム原理主義勢力は革命勢力を支援しましたが、政権獲得後、アフガニスタン共和国の大統領兼首相に就任したダーウドは彼らを弾圧。1974年6月には、カブールで原理主義者200人の一斉逮捕が行われました。その際、青年ムスリム機構の指導者でパシュトゥン人のグルブッディーン・ヘクマチヤルらはペシャワル(パキスタン)に亡命。翌1975年7月、ヘクマチヤルは、反ダーウド政権の名の下に、パキスタン政府の支援を得てパンジシールで武装蜂起しましたが、アフガニスタン政府軍に鎮圧されて失敗し、以後、ペシャワルを拠点に活動を続けていくことになります。

 ところで、共和革命当時、アフガニスタンは国家収入の40%を外国(その筆頭はソ連)に依存する状況となっていました。このため、ダーウド政権にとっては、国家建設に必要な援助を求めてソ連との関係を維持せざるをえなかったとはいえ、経済的な自立の達成(少なくとも、ソ連への過度の依存状況からの脱却)が緊急の課題であることは明白でした。

 このため、ダーウド政権は、石油収入を増大させた王制イランに着目。経済援助を得るために、イランとの外交関係を強化し、ソ連とは距離を置き、1975年以降、革命の際の同志であった親ソ勢力を政権中枢から排除することに力を注ぐようになります。

 当然のことながら、こうしたダーウドの姿勢は、ソ連との関係を背景に勢力を拡大しつつあった国内共産主義者たちとの間で摩擦を引き起こし、アフガニスタンの政局は急速に不安定化。ダーウド政権と共産主義者の対立が深まる中、1978年4月、アフガニスタン人民民主党(共産党)による反ダーウドのクーデタが発生しました。いわゆる四月革命です。

 クーデタの結果、ダーウドをはじめ政府首脳は暗殺され、同年6月には人民民主党のヌール・ムハンマド・タラキーを革命評議会議長兼首相とする左翼政権、アフガニスタン民主共和国が成立しました。この結果、1747年以来のパシュトゥン人支配体制は終結し、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人のアフガニスタン主要4民族の参加する政治体制が樹立されました。

 さらに、人民民主党の指導部は、長年にわたってアフガニスタンの支配層を構成してきたパシュトゥン人のドッラーニー族ではなく、ギルザイ族の出身者で構成されていました。それゆえ、共産主義者として、旧王族のダーウド政権を打倒することで革命を達成したということともあわせ、革命政権は、旧王族の痕跡を完全に拭い去ろうとします。

 さて、四月革命にはソ連が関与していたため、1978年12月、タラキーはモスクワを訪問して、内乱条項を含むソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約を締結。こうして、アフガニスタンは完全にソ連の勢力圏内に組み込まれることになりました。

 当時のソ連は、親米国家のイランがオイル・マネーを武器に周辺諸国への影響力を強めつつある現状に対して、アフガニスタンに安定的な親ソ政権を樹立することで対抗しようと考えていました。しかし、四月革命によって成立した共産主義政権は、「宗主国」ソ連の期待に沿うようなものではありませんでした。

 まず、人民民主党内部には、タラキー率いるハルク(人民)派とバブラク・カルマルの主導するパルチャム(旗)派の間に深刻な対立がありました。また、従来は民族的な傍流であった勢力がヘゲモニーを握り、旧王族の痕跡を拭い去ることに躍起になっているという構図は、複雑で保守的な部族社会から構成される地方において、新政権への嫌悪感は抜きがたいものとすることになりました。さらに、イスラムの信仰に基づく伝統的な共同体にとって、共産主義(=無神論)が不倶戴天の敵であることは言うまでもありません。しかも、そうした新政権が土地改革をはじめ急進的な社会主義政策を強行していったことで、国民各層の反感は急激に沸点に達します。

 このため、はやくも1978年10月、クナールでムスリムの反乱が発生したのを皮切りに、各地でムスリムの抵抗運動が頻発。翌1979年3月、ヘラートでイスラム原理主義者による大規模な武装デモが展開され、5000人もの死者が発生したことで、反政府闘争は公然化し、アフガニスタン全土は実質的な内戦に突入します。

 こうしてアフガニスタン情勢は日増しに緊張していきましたが、イラン情勢に気を取られていた米国はほとんど反応を示しませんでした。特に、1979年2月、アフガニスタン駐在の米国大使アドルフ・ダブスを、アフガニスタン人民民主党パルチャム派がイスラム原理主義者の犯行に見せかけて誘拐・殺害した際、カーター政権が適切な制裁措置を取らなかったことで、ソ連は米国がアフガニスタン問題に関与する意志がないものと理解し、アフガニスタンへの武力侵攻を決意します。

 一方、アフガニスタン国内では、全土が内戦に突入するという騒然とした空気の中で、1979年9月、人民民主党内の権力闘争から、大統領のタラキーが殺害され、政権ナンバー2のハフィーズッラー・アミーンが全権を掌握します。

 アミーン政権は、ソ連のさらなる支援を得てアフガニスタンの社会主義化を強行しようとしていましたが、ソ連としては、急進的な社会主義化政策を強行することによって、アフガニスタン国内のイスラム抵抗運動を激化させていアミーン政権に対しては大いに懸念を持っていました。

 また、1979年2月のイスラム革命により、イスラム共和国体制を樹立していたイランは、親米国家から反米国家へと変質したとはいえ、東西冷戦の二極構造を前提とする既存の国際秩序に異議を唱え、周辺にイスラム的な世界秩序を拡大する姿勢(「革命の輸出」路線)を示していました。イラン発のイスラム原理主義運動がアフガニスタンに波及し、さらには、連邦を構成する中央アジア諸国へと波及することになれば、それはただちに「社会主義共和国連邦」というソ連の体制の根幹を揺るがしかねません。それゆえ、「米国の憲兵」から革命の輸出を標榜するイスラム共和国に代わったところで、イランの脅威がソ連にとって深刻なものであることになんら変わりはありませんでした。

 したがって、ソ連としては、性急な社会主義化を強行して国内のイスラム抵抗運動を激化させているアミーン政権を排除し、イスラム抵抗運動を緩和しうる穏健な共産主義政権の樹立をはかることが、国益という観点からは、当然の選択となります。

 かくして、イランでの米国大使館占拠事件による反米感情とイスラム運動の昂揚を確認した上で、1979年12月27日、ソ連は前年に締結した善隣協力条約に基づいてアフガニスタンに進駐。アミーンを暗殺し、ソ連の意向に忠実なバブラク・カルマル(四月革命時には革命評議会副議長。この時点ではチェコスロバキア大使に転出)を大統領兼首相とする親ソ体制を樹立します。

 友好善隣協力条約が締結されていたとはいえ、ソ連正規軍がアフガニスタンに直接侵攻するという異常事態は、全世界から衝撃をもって受け止められ、多くの国がソ連を非難し、西側諸国は1980年のモスクワ五輪をボイコットすることでこれに応えました。

 一方、アフガニスタン国内では、ソ連軍の侵攻という新たな事態を受けて、1980年1月、反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されました。抵抗運動の組織としては、その後も、国民イスラム戦線、イスラム・ムジャーヒディーン同盟、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟などが成立しましたが、1985年5月、(新)アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟へと統合されます。こうした、ムジャーヒディーンの闘争に対しては、イスラム世界全域から義勇兵がペシャワルに集結。イスラム諸国の政府も彼らを積極的に支援しました。

 一方、ムジャーヒディーンたちに極めて大きな思想的影響を与えたとされるのが、パレスチナ出身のイデオローグ、アブドゥッラー・アッザームです。アッザームは、彼らに「奪われたムスリムの土地を奪回することは全信徒の宗教的義務である」と訴えつづけたが、こうした失地回復の主張は、次第に、パレスチナとアフガニスタンを結び付けるのみならず、ボスニアやチェチェンでのイスラム抵抗運動や、湾岸戦争以来サウジアラビアに駐留しつづける米軍への反感にもつながっていきました。

 しかし、東西冷戦下の西側世界では、映画『ランボー3 怒りのアフガン』を持ち出すまでもなく、イスラムの旗を掲げて戦うムジャーヒディーンの姿は単なる“反ソ闘争”としか理解されず、ムジャーヒディーンたちが、既存の国際秩序を否定するという点において、その反ソ感情を反米ないしは反西側感情へと転化させる可能性があるということは見落とされてきました。

 結局、戦力的に圧倒的な優位を保持していたソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、1989年2月15日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。

 アフガニスタン侵攻の失敗が、ソ連崩壊の直接的な一因となったことはいうまでもありません。

 ただし、我々は、ソ連を含む共産圏の崩壊を、東西冷戦における西側の勝利と単純に考えがちですが、その一方で、中東・イスラム世界では、ソ連崩壊の要因をアフガニスタン侵攻の失敗に求め、その崩壊は共産主義(=無神論)に対するイスラムの勝利であるという認識が厳然と存在しています。

 かくして、ソ連軍がアフガニスタンから撤退し、さらには、ソ連そのものが崩壊したことによって、西側社会とイスラム世界は、反ソというお互いの共通項が同床異夢にすぎなかったことを思い知らされるようになるのです。


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