内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑦
2016-08-30 Tue 15:15
 『キュリオマガジン』2016年9月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第7回目。今回は、フラメンゴ公園の戦没者慰霊施設にフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      フラメンゴ公園(1960)  フラメンゴ公園・実物

 左は、1960年12月22日に発行された“英霊再埋葬”の記念切手で、フラメンゴ公園の戦没者慰霊塔が描かれています。ご参考までに、右側には、実際の慰霊塔の写真を貼っておきました。

 リオデジャネイロ・フラメンゴ地区の海岸に面したエドゥアルド・ゴメス公園は、1965年、ホベウト・ブーレ・マウクスの設計により造成されました。これに先立ち、慰霊塔本体は、公募で選ばれた建築家、マルク・ネット・コンデルとヘリオ・リバス・マリーニョの2人の設計によって1956年から着工し、1960年に完成しています。慰霊塔は、主として、第二次大戦で亡くなったブラジル軍将兵の慰霊のために建てられ、その足下には戦没者の埋葬施設もあります。また、第二次大戦以外にも、第二次中東戦争後のシナイ半島で国連平和維持活動に参加し、殉職したブラジル関係者も祀られています。

 さて、1939年9月に第二次大戦が勃発した当初、ブラジル国内では、陸軍の上層部はドイツに好意的でしたが、ヴァルガス政権は中立を維持していました。

 ところが、1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受けて大戦に参戦した米国は、ブラジル北東部の戦略的な位置を重視し、ブラジルを自陣営に取り込もうとします。その一環として、米国は、ヴァルガス政権の経済政策の目玉の一つであったヴォルタ・レドンダ国立製鉄所の建設資金として2000億ドルを供与し、その代償として、レシーフェに米軍基地を設置。一方、ヴァルガス政権も、中立を掲げながらも、明らかに米国寄りの外交路線に舵を切るようになっていきました。

 一方、米国と戦闘状態に突入したドイツは大西洋戦線で潜水艦Uボートを用いた連合国の通商破壊作戦を展開していましたが、その結果、1942年1月から7月までの間に13隻のブラジル商船がドイツの潜水艦攻撃によって沈められます。さらに、同年8月には、潜水艦U-507により、2日間で5隻のブラジル船が沈められ、600人以上が犠牲になりました。この8月のUボート攻撃に対して、ブラジル国内の反独世論が沸騰。ヴァルガスは陸軍内の反対論を抑え込んで、8月22日、ドイツに対して宣戦を布告しました。

 その後、大戦末期の1944年になると、ブラジルは連合国の一員として、ラテンアメリカ諸国として唯一、米軍の指揮下に2万5000名余の遠征軍(FEB:Força Expedicionária Brasileira)をイタリア戦線に派遣し、ドイツ軍と戦いましたが、イタリアで戦死したFEBの将兵466名の遺体は、戦後長らく、イタリア北部トスカーナ州ピストイアのブラジル軍墓地に埋葬されていました。これらの遺体は、1960年、慰霊塔の完成に合わせて、祖国に帰還し、慰霊塔の下の墓廟に埋葬されています。今回ご紹介の記念切手は、これに合わせて発行されたもので、当時の慰霊塔周辺の風景が描かれています。

 現在、慰霊塔の傍らには、陸海空三軍の戦士を讃える三体の群像彫刻(造形作家アウフレッド・セシアッチの作品)と、空軍を讃える金属のオブジェ(彫刻家ジュリオ・カテッリ・フィーリョの作品)が設置されていますが、切手を見ると、ポン・ヂ・アスーカルを背景に、慰霊塔本体と空軍を讃えるオブジェは見えるものの、群像彫刻が描かれていません。

 ちなみに、ブラジルと第二次大戦の関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。なお、雑誌『キュリオマガジン』の「郵便学者の世界漫郵記:リオデジャネイロ篇」も、同書に収録しきれなかった内容を加えて、年内いっぱい連載を続けていく予定ですので、こちらもよろしくお願いいたします。


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 切手に見るソウルと韓国:韓伯関係
2016-08-29 Mon 15:38
 ご報告が遅くなりましたが、 『東洋経済日報』8月19日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、リオデジャネイロ五輪開催中というタイミングでの掲載でしたので、ブラジルがらみの韓国切手ということで、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国ブラジル修好50周年(韓国)

 これは、2009年に韓国で発行された韓国ブラジル修好50周年の記念切手です。

 第二次大戦中に途絶した日本とブラジルの国交は1951年に回復しましたが、朝鮮戦争の影響もあって、1948年に独立した韓国とブラジルとの正式な国交樹立は先延ばしにされていました。

 また、日本とブラジルの国交回復に伴い、1953年以降、日本からブラジルへの移民の送り出しも再開され、日本政府の支援もあって、1959年には年間7000人もの日本人移民がブラジルに渡ることになりましたがが、これと伴走するかたちで韓国からブラジルへも小規模ながら移民が渡っていくことになります。こうした事態を受けて、1959年、ようやく韓国とブラジルは正式に国交を樹立しました。

 韓国政府は、人口の抑制、失業の解消、移民による外貨送金を期待して移民を奨励するため、1962年、海外移民法を制定するとともに、保険社会部(現保健福祉部)内に移民課を設けるなど体制を整えたうえで、ブラジル政府と移民協定を結び、同年12月、17家族92人をブラジルに送り出します。これが、ブラジルにおけるコリアン・コミュニティのルーツとなりました。

 現在、ブラジル国内には、サンパウロとフォス・ド・イグアス(パラグアイ、アルゼンチンとの国境地帯に位置する西部の都市で、世界遺産のイグアスの瀧にも近い国際観光都市)を中心に約5万人の韓国系人口があると推定されています。ただし、これ以外にも、当初はパラグアイに移住した韓国人とその子孫が国境を越えてブラジルに渡り、定着しているケースもかなりあるので(彼らはブラジル国内では“韓国出身”ではなく“パラグアイ出身”に分類されるので、統計上は“韓国系”にはカウントされません)、実際には“韓国系ブラジル人”の数は10万人を超えるともいわれています。

 なお、1980年代後半、ブラジル経済の停滞が始まると、ブラジルに移住した韓国人の帰国が出始めました。韓国系ブラジル人は、現地でも、家庭内では韓国語を話し、食事をはじめ韓国の生活様式を維持しているケースが多かったため、第一世代(韓国生まれ)の帰国者の多くは、問題なく帰国後の韓国での生活に順応しましたが、現地で生まれ育った第二世代の中には、言葉や習慣の違いから、親とともに韓国に渡ったものの、韓国社会になじめないケースも少なくないと奉公されています。

 さて、2009年、韓国とブラジルは国交樹立50周年にあわせて、両国の代表的な橋を描く同図案の記念切手を同時に発行しました。今回ご紹介の切手は、そのうちの韓国側で発行したものです。

 韓国側の題材として取り上げられ仁川大橋は、仁川国際空港のある永宗島と対岸の松島新都市を結ぶ総延長21・27キロ(うち橋梁は18・2キロ)の斜張橋で、2005年に着工しました。斜張橋部分の設計は、日本の建設コンサルタント会社・長大が受注し、斜張橋のケーブルは日本製のものが納入されています。完成は2009年10月16日で、2日後の18日に開通しました。

 一方、ブラジル側の橋として取り上げられたオクタヴィオ・フリアス・ジ・オリヴェイラ橋は、サンパウロのピニェイロス川に架かる斜張橋で、二車線の道路がX字型に立体交差し、それを一本の主塔で支えるユニークな構造で、観光名所にもなっています。全長は1600メートル、主塔の高さは138メートル。2005年に着工し、2008年に完成。同年5月10日に開通しました。


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 ケニアで TICAD VI 開催
2016-08-28 Sun 12:02
 日本とアフリカ諸国の首脳が繁栄の道を探る第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)が、きのう・きょう(現地時間27・28日)の日程で、ケニアのナイロビで開催されています。TICADの日本以外での開催は今回が初めてで、きのうの安倍首相の基調講演では、日本が官民を挙げて質の高いインフラ整備を行うなど、今後3年間で総額3兆円規模をアフリカに投資するとともに、およそ1000万人の人材育成に取り組むことが表明されました。というわけで、きょうはこの切手です。

      ケニア・モンバサ港(1963)

 これは、1963年12月12日、ケニア独立に際して発行された同国最初の普通切手で、当時のモンバサ港の風景が取り上げられています。

 モンバサは、ケニア第2の人口を有する港湾都市で、首都ナイロビの南東約500キロメートル、南アフリカ、紅海および中東の主要港の中間地点に位置しており、東アフリカ地域の最大の商業港として、ケニアのみならず、ウガンダルワンダブルンディなどの“北部回廊”でつながる後背内陸国の玄関港となっています。

 モンバサの国営製油所で精製された石油はパイプラインでナイロビとその先へ輸送されているほか、鉄・鋼材製品、肥料、食料品のほか、日本や第三国からの日本車(中古車)の輸入貨物などがモンバサ港での主な取扱品目ですが、同港におけるコンテナ貨物取扱量は、2002年の30万TEU(TEUは貨物取扱量を示す単位で、20フィートコンテナ換算を意味します)から、2012年には90万TEUに急増しており、2025年には260万TEUを超える需要が見込まれています。

 このため、ケニア政府はコンテナターミナルの新設を計画し、JICAの支援(円借款「モンバサ港開発事業フェーズ1」、2007年11月貸付契約調印)を得て、新ターミナルの建設工事が進められています。この建設工事は軟弱地盤での作業のため、まさに、きのうの首相の基調講演にあった“質の高いインフラ整備”の代表例といえましょう。ただし、この新ターミナルの取り扱い能力(約58万TEU)を加えても、伸び続ける需要には対応しきれず、2016年中には物流が停滞する恐れがあると指摘されています。

 そこで、昨年(2015年)3月9日、JICAとケニア港湾公社との間で「モンバサ港開発事業フェーズ2」を対象として、タイケニア支援としては過去最大規模の321億1600万円を限度とする円借款貸付契約が調印され、コンテナターミナルの建設と荷役機械の整備とあわせて、港湾運営の効率化への支援が行われ、現在、プロジェクトが進行中です。

 なお、TICAD VIは、日本時間の28日夜、資源輸出などに偏ってきたアフリカ経済の多角化を図ることや、テロの根絶に向けて社会の安定化を進めること、それにエボラ出血熱の感染拡大などを受け、医療・保健体制を強化することなどが盛り込んだ「ナイロビ宣言」を採択して、閉幕する予定となっています。


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 きょうから浅草サンバ・カーニヴァル
2016-08-27 Sat 11:28
 きょう・あす(27・28日)、毎年恒例の浅草サンバカーニバルが開催されます。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カーニヴァル(1991)

 これは、1991年にブラジルで発行された“ブラジル各地のカーニヴァル”の切手のうち、リオのカーニヴァルに繰り出したサンバチーム、“エスコーラ・ヂ・サンバ”が取り上げられています。

 もともと、カーニヴァルは、西方キリスト教会で、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる“謝肉祭”のことで、本来は、パレードもその一環として行われるものです。それゆえ、リオのカーニヴァルは、本来の趣旨に沿って、現在でも毎年2-3月に行われています。

 ところが、1970年代以降、カーニヴァルのパレードが多くの観光客を集めることが注目され、本来の宗教的な意味とは無関係に、参加者が仮装して踊りながら行う大規模なパレードのことを“カーニヴァル”として、観光客の集まりやすい時期を選んでカーニヴァルを行う国や地域が現れるようになります。1981年から始まった浅草サンバカーニバルも、世界的にみれば、そうした潮流の中に位置づけることも可能かもしれません。

 さて、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、現在の日本ではサンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことで、それ以前は、カーニヴァルのパレードで用いられる音楽は、音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流でした。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれました。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 なお、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの公式なパレードには中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれます。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 1930年、リオではカーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グロボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなり、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがったことで、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 この結果、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”は次第に突出した存在になり、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。さらに、1937年以降、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになりましたが、その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されるようになりました。1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を拒否されたのはその象徴的な出来事といえましょう。

 浅草サンバカーニバルは、当初は、“サンバ”の様式にとらわれず、さまざまなスタイルのチームが参加していましたが、現在では、リオのエスコーラに倣ったチーム対抗の本格的なコンテストになっています。

 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ナミビアの日
2016-08-26 Fri 10:44
 きょう(26日)は、1958年8月26日に南西アフリカ人民機構 (SWAPO) が結成され、1966年8月26日にナミビア解放闘争が始まったことにちなんで、国連が制定した“ナミビアの日(ナミビア国内では“英雄の日”)です。というわけで、今年はナミビア解放闘争50周年でもありますし、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国連・ナミビア(1975)

 これは、1975年に国連が発行した“ナミビア支援”の切手です。

 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。

 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。

 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とすることを決議したが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。

 これに対して、1962年、南西アフリカでは民族解放組織としてSWAPO が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。

 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。

 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されました。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、ナミビアが国連ナミビア委員会の管理下にあることを訴えるために発行されたものです。

 しかし、南ア政府はその後も“南西アフリカ”の支配をつづけ、1975年に隣国アンゴラでの内戦が勃発すると、反アパルトヘイトを掲げる左派勢力、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)による政権樹立を阻止するため、ナミビアを拠点としてアンゴラ内戦に介入。内戦には東西冷戦の代理戦争として米ソ両国も関与したため、ナミビアとアンゴラの国境付近では南ア軍とMPLAおよび彼らを支援するキューバ軍が対峙する状況が延々と続きました。

 その後、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成することになりました。


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 ミャンマーで大地震
2016-08-25 Thu 10:40
 きのう(24日)、イタリア中部ペルージャ付近でマグニテュード6.2、ミャンマーでもマグニテュード6.8の大地震が発生し、いずれも大きな被害が出ています。このうち、イタリアに関しては日本のメディアでも盛んに報じられていますが、ミャンマーについては報道があまりないようですので、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミャンマー・パガン遺跡(2012)

 これは、2012年10月1日、ミャンマーが発行した第2回TELSOM-ATRC指導者研修の記念切手で、今回の地震で大きな被害が出たバガン(パガンとも)遺跡が取り上げられています。ちなみに、切手の発行名目となったTELSOMは“電気通信・情報産業高級実務者会合”、ATRCは“ASEANテレコム規制委員会”の欧文略称です。

 切手に取り上げられたバガン遺跡は、ミャンマー中央部、マンダレー地方域のエーヤワディー川(イラワジ川)中流域の東岸の平野部一帯にあり、カンボジアのアンコール遺跡、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつとされています。

 ビルマ最初の統一王朝とされるバガン朝のアノーヤター王は、1057年、南方のモン族のタトゥン王国の都モッタマを制圧し、パーリ語で書かれた三蔵の経典を取り戻したほか、仏教僧や職人を王都バガンに招来して上座部仏教の国教化を進めました。この結果、バガンは仏教研究の国際的な中心地となり、1287年にフビライと対立して王朝が滅ぼされるまでの間に、3000を超える仏塔のほか、数多くの寺院等が建立されました。

 さて、今回のミャンマーの地震ですが、震源はバガンの約30キロ南にある町チャウク近郊で、震源の深さは84キロで、タイのバンコクやインドのコルカタでも揺れが確認されたそうです。また、この記事を書いている時点で、少なくとも3人の死亡が確認され、200基近くの仏塔が損壊したとミャンマー政府は発表しています。今回ご紹介の切手には、バガン遺跡中最大の寺院とされるダマヤンヂー寺院が大きく取り上げられていますが、同寺院を含め、切手に描かれている仏塔などにも被害が出ているかもしれません。

 イタリア・ミャンマー両国の地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災者の方には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の復旧・復興が一日も早く進むことをお祈りしております。


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 世界の国々:ルーマニア
2016-08-24 Wed 11:55
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年8月24日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はルーマニア(2回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ブラン城(1929)

 これは、1929年に発行されたブラン城の切手です。

 “ドラキュラ城”と知られるブラン城は、ルーマニアのほぼ中央に位置するブラショヴの南西28km、ブチェジ山麓に位置しています。

 現在のブラン城の直接の起源は、1377年11月、ワラキア平原から侵入するオスマン帝国軍に備えて築かれた城塞で、14世紀末、ワラキア公ヴラド1世(ミルチャ老公)がここを居城としました。“吸血鬼ドラキュラ”のモデルとされるヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は、その孫です。

 1462年、ヴラド3世はワラキアに侵入したオスマン帝国軍を撃退しましたが、捕虜や敵に対して木杭を肛門から口に抜けるまで差し込み、地面に突き立てて野ざらしにする串刺し刑を容赦なく行い、“串刺し”を意味する“ツェペシュ”の名で恐れられました。その一方、ヴラド3世は、父のヴラド2世が神聖ローマ帝国から龍騎士団の騎士に叙任され、龍(ドラコ)にちなんだ“ドラクル”を名乗っていました。

 これらのエピソードをつなぎ合わせて、1897年、アイルランドの作家ブラム・ストーカーは小説『吸血鬼ドラキュラ』を発表し、ブラン城を主人公ドラキュラ伯爵の居城と設定したのです。ただし、歴史的事実をいえば、ヴラド3世は、ハンガリー王の招きにより、この城に数日間、滞在した可能性は高いのですが、決してここに住んでいたわけではありません。

 その後、ブラン城はハンガリー王の所有になっていましたが、1513年、クローンシュタット市(現ブラショヴ市)が城の所有権を獲得します。

 1918年、第一次大戦の戦勝国となったルーマニアは、オーストリア=ハンガリーの支配からトランシルヴァニアを奪還し、悲願の“大ルーマニア”を実現しました。これに伴い、クローンシュタットはブラショヴと改称され、同市はルーマニア王室に城を寄進。以後、ブラン城は王妃マリアが手を入れて王室の離宮の一つとして利用されました。当然、城の内部も王妃好みに改修され、現在の姿になっています。

 1944年以降、ブラン城は国王カロル2世の妹、イレアナの居城となりましたが、第二次大戦後の1947年、ルーマニアの王制は崩壊し、共産主義政権が発足すると、ブラン城は共産党政権に接収されてしまいました。

 共産党支配下のルーマニアでは、その独自の民族主義路線ゆえに、小説としてのドラキュラのイメージをヴラド3世と混同することはタブー視され、小説『ドラキュラ』は発禁とされます。その一方で、オスマン帝国と戦った民族の英雄であるヴラド3世は国民統合の象徴として最大限に活用され、彼にまつわる(とされた)ブラン城も、ルーマニア民族の誇るべき文化遺産として称揚されました。

 さらに、反対派を容赦なく串刺しの刑に処したというヴラド3世の恐怖政治は、同じく、反対派や不満分子を徹底的に弾圧していたチャウシェスクにとって格好のお手本でした。チャウシェスクが「ヴラドの恐怖支配のおかげでワラキアには犯罪者がいなかった。ヴラッドは社会革命の指導者である」と称賛していたというエピソードは、現在となってはブラックジョークでしかありません。

 さて、1989年、チャウシェスクの独裁政権は崩壊しましたが、その後を継いだルーマニア政府はブラン城を決して手放しませんでした。ドラキュラ城としてのイメージが世界的に定着しているブラン城は、民主化後のルーマニアに莫大な外貨をもたらす観光資源として、重要な意味を持っていたからです。

 じっさい、ルーマニア政府はストーカーの小説発表から100周年にあたる1997年を“ドラキュラ年”として、(歴史的事実とは異なるが)ブラン城はヴラド3世ゆかりの城であり、『吸血鬼ドラキュラ』の舞台であるとの観光キャンペーンを大々的に展開しています。

 ところが、2006年末、ルーマニア政府は、ルーマニア王家の末裔(イレアナ王女と、夫でハプスブルク家につながるトスカーナ大公家出身のアントンの子)でニューヨーク在住の建築家、ドミニク・フォン・ハプスブルクに3年間は博物館としての用途を変更できないという条件を付けて、返還しました。2007年、EUに加盟することになったルーマニアは、旧東欧共産圏の一員であった自分たちが、スラブ・ロシアよりも、ハプスブルク家のヨーロッパとの関係が深かったことを示すため、あえて、“フォン・ハプスブルク”にブラン城を返還するというパフォーマンスを行ったわけです。

 なお、2014年以降、城の現所有者たちは、高齢を理由に、ルーマニア政府に城の買い取りを求めて交渉を続けています。

 さて、『世界の切手コレクション』8月24日号の「世界の国々」では、ブラン城についてまとめた長文コラムのほか、ルーマニア人の心の故郷とされるプトナ寺院、プロイェシュティ油田、ヴラド3世の生家、カーサ・ヴラド・ドラクル2007年の欧州文化都市シビウ、ルーマニア・ワインの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。また、ルーマニアについては、機会がありましたら、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』も、ぜひ。zzwせてご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、本日(24日)発売の8月31日号でのメキシコ(2回目)の特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 泰国郵便学(44)
2016-08-23 Tue 10:57
 リオ五輪関係のスポーツ切手特集をやっていた関係でご報告が大変遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第50巻第4号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ宛・世界人口年着印カバー(裏)  タイ宛・世界人口年着印カバー

 これは、1974年8月2日、中国・広東省からタイ・バンコクのペッチャガセム通り宛の郵便物で、バンコク到着時に“世界人口年”の機械標語印が押されています。裏面の印がクリアなので、画像としては、カバーの裏面を先にご紹介しました。なお、タイは1974年の世界人口年に際して記念切手も発行しています。

 1972年、ローマ・クラブの委嘱によるD.L.メドウズの『成長の限界』が発表されました。同書は「人は幾何学級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」として、「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしていましたが、これを受けて、国連総会は1974年を“世界人口年”に指定し、加盟各国が人口問題についての関心と対策の緊急性についての国民の認識を高めるための努力を行うものとします。

 世界人口年のメイン行事は、1974年8月19-30日、ルーマニアの首都ブカレストにおいて、世界135の国と地域の代表を集めて開催された第3回国連世界人口会議で、冒頭、ワルトハイム国際連合事務総長が、「より進歩した天然資源の使用と社会的公正の実現を図るため緊急に行動を必要とする6つの基本問題」として、①大衆貧困、②食糧供給、③エネルギー利用、④軍事支出、⑤国際通貨制度、⑥,前例のない人口増加、を指摘。これに基づいて、主として発展途上国の開発との関連において人口対策が議論され、先進国も発展途上国も人口増加の抑制目標を定めて人口対策を実施するという「世界人口行動計画」が満場一致で採択されました。

 世界人口会議の初日にあたる8月19日、タイでは啓発活動の一環として、「子供が増えれば貧困も増える」とのスローガンの入った記念切手を発行しましたが、これに先立ち、バンコク中央郵便局などでは、世界人口年を宣伝する標語入りの機械印も使用されました。今回ご紹介のカバーは、その印が着印として押されたもので、世界人口年を機に、タイ政府が人口抑制キャンペーンの手段として郵便を積極的に活用していたことがわかります。

 タイの人口は、経済成長が本格的に始まった1960年には2739万人でしたが、1965年には3182万人、1970年には3688万人、1975年には4233万人となっており、15年間で約1.5倍に拡大しました。その結果、経済成長の恩恵にあずかれない貧困層の拡大が深刻な社会問題となっており、そのことが「子供が増えれば貧困も増える」とのスローガンにつながったのでしょう。

 ただし、1人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数を指す合計特殊出生率に関しては、1960年の6.15人と1965年の6.13人はほぼ同じですが、1970年には5.6人に、1975年には4.49人に減少。1965年から1970年の5年間での出生率の減少が0.53人であるのに対して、1970年から1975年の5年間での減少は1.11人と倍増していますから、あるいは、上述のスローガンによる世界人口年のキャンペーンが効果を挙げたと見ることも可能かもしれません。


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 リオ五輪閉幕
2016-08-22 Mon 12:07
 今月5日から行われていたリオデジャネイロ五輪は、現地時間の21日夜(日本時間22日午前)、閉会式が行われ、次回開催都市の東京へ五輪旗引き継ぎの“フラッグ・ハンド・オーヴァー”のセレモニーが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・五輪旗引継

 これは、前回のロンドン五輪から今回のリオ五輪への五輪旗の引き継ぎを題材にブラジルが発行した切手です。切手上の年号表示は、ロンドン五輪閉会式で引き継ぎのセレモニーが行われた2012年となっていますが、実際に切手が発行されたのは2015年2月2日のことです。

 切手は、ロンドンの象徴として、ウェストミンスター地区とタワーブリッジを、リオデジャネイロの象徴としてポン・ヂ・アスーカル巨大なキリスト像のあるコルコヴァードの丘を、左から順にシルエットで描くことによって、2012年のロンドンから2016年のリオデジャネイロへの変遷を表現しています。

 五輪の開催にあたって開催国が記念切手を発行することは、1896年の第1回アテネ大会の時から行われてきましたが、2大会での引き継ぎを題材とした切手が発行されたのは、1996年のアトランタ大会から2000年のシドニー大会への引き継ぎの切手をシドニー大会の開催国、オーストリアが発行したのが最初ではないかと思われます。ただし、この時のオーストリア切手は、大会最終日の1996年8月4日ではなく、会期真只中の7月22日に発行されました。なお、ソウル大会閉会式翌日の1988年10月3日、1992年のバルセロナ大会開催国のスペインがバルセロナ大会の事前周知の切手を発行していますが、この切手にはソウル大会のことは何も触れられていませんので、“引き継ぎ”を題材とした切手とは言い難いでしょう。

 その後、2000年のシドニー大会から2004年のアテネ大会への引き継ぎに関しては、2000年9月15日(シドニー五輪開会式の日)、オーストラリアとギリシャで同図案で同時に発行されています。2004年のアテネ大会から北京大会への引き継ぎに関してもこれに倣い、8月13日(大会開催中)、中国とギリシャで同図案で同時に記念切手が発行され、2008年の北京大会方ロンドン大会への引き継ぎに関しても、同年8月22日(閉会式の24日が日曜日のため、直近の金曜日)に英国が、24日(閉会式の日)に中国が同図案の切手を発行しました。

 これに対して、2012年のロンドン大会からリオ大会への引き継ぎに関しては、パラリンピック終了(9月9日)後の9月27日、英国が切手を発行していますが、ブラジルでの切手発行は上述のように2015年までずれ込んでおり、両者の図案もまったく異なっています。

 今回のリオ大会から東京大会への引き継ぎに関しては、現時点では、ブラジル・日本ともに切手の発行はありません。まぁ、大会が終了してしまったブラジルはともかく、2020年の東京大会を盛り上げるという点では、日本も過去の先例に倣い、リオ大会から東京大会への引き継ぎの切手を発行して「次は東京」をアピールしたらよかったのに…と僕などは思ってしまいます。

 なお、今回ご紹介の切手に取り上げられたポン・ヂ・アスーカルやコルコヴァードの丘を含むリオの名所旧跡については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』で詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 マラカナンの歓喜
2016-08-21 Sun 15:33
 リオデジャネイロ五輪16日目(現地時間20日)は、日本選手のメダル獲得はありませんでしたが、マラカナン競技場でサッカー男子の決勝が行われ、PK戦の末、ブラジルがドイツを下し、悲願の金メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・ペレ1000ゴール  マラカナン・ロッカールーム

 これは、1969年11月28日にブラジルが発行した“ペレ1000ゴール”の記念切手で、マラカナン競技場でゴールを決めるペレの後ろ姿が描かれています。ちなみに、実際にペレが前人未到の通算1000得点を達成したのは、1969年11月19日のマラカナン競技場での対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦でした。

 なお、今回、決勝のPKを決めたネイマールも、切手に描かれたペレ同様、背番号10ですが(ついでですので、切手の隣に、マラカナン競技場のロッカールームでネイマールのユニフォームと一緒に撮った写真を並べておきます)、優勝ゴールを決めた瞬間は、切手のペレのように飛び上がって喜ぶのではなく、ひざまずいて涙を流し、その後はピッチに顔を伏せたまま動かなかったのが印象的でした。いずれ、その場面がブラジルの切手に取り上げられる日がくるかもしれません。

 さて、マラカナン競技場は、1950年に行われたサッカーW杯のために建設されたスタジアムで、開設当初の正式名称は“リオデジャネイロ市営スタジアム”でした。1966年、ブラジルのサッカー振興に貢献したジャーナリスト、マリオ・フィーリョの功績をたたえて正式名称は“エスタジオ・マリオ・フィーリョ”と改称されましたが、一般には、マラカナン地区にあることから“エスタジオ・ド・マラカナン(マラカナン競技場)”と呼ばれています。

 地名の“マラカナン”とは、もともとは、先住民トゥピー族の言葉で“鈴のような”を意味する単語で、そこから、鈴のような声で鳴く小鳥の名前となり、その鳥が数多く棲息するリオ郊外の沼地も“マラカナン”と呼ばれるようになったといわれています。

 1855年、競馬の運営会社だった“デルビー・クルービ(英語風の発音ではダービー・クラブ)”は、マラカナンの沼地を買い取って競馬場を建設しましたが、この競馬場はほどなくして経営難から閉鎖されてしまいます。

 その跡地に巨大サッカー・スタジアムを建設しようというプランが持ち上がったのは、ブラジルにサッカーが伝来してから半世紀以上が過ぎた1940年代後半のことでした。

 現在でこそ、ブラジルは質量ともに世界一のサッカー大国ですが、20世紀前半までは、必ずしもそうではありませんでした。

 すなわち、1916年にアルゼンチンの独立100周年を記念して開催された第1回南米選手権では、ブラジルは参加4ヵ国(アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ)中の3位。翌1917年の第2回南米選手権でも同じく3位という成績です。その後も、南米選手権に関しては、1919年の第3回大会と1922年の第6回大会では優勝したものの、この間の1920年の第4回大会では、ウルグアイに0-6(現在にいたるまで、南米選手権での最多得失点差での敗戦)を記録しています。

 さらに、1930年7月13-30日、独立100周年を迎えたウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、グループ2初戦のユーゴスラヴィア戦に1-2で敗れ、続くボリヴィア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退しています。

 しかし、1930年の第1回W杯で開催国のウルグアイが優勝したことは、1932年の“護憲革命”以降、州を越えた“ブラジル国民”としてのアイデンティティを養い、国民の団結を訴える必要に迫られていたヴァルガス政権を大いに刺激しました。

 すなわち、ヴァルガス以前のブラジルでは、広大な連邦国土を構成する各州の自立傾向が強かっただけでなく、先住民のインディオ、欧州系の白人、黒人(アフリカ系、カリブ系)、日本人・中国人などアジア系、さらにはそれらの混血など、多種多様な民族が集っており、ブラジル国民としての共通項は、ポルトガル語とカトリックくらいしかありませんでした。

 このため、政権はナショナリズムを高揚させる手段としてスポーツを重視しましたが、特に、サッカーが重視されたのは

 ①南米の国でも世界一になれるW杯という具体的な目標がある
 ②サンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにとって有効であり、それゆえ、サッカーに勝つという目標の下に人種間の宥和を促進できる
 ③かつてのポルトガル植民地時代以来、多くの国民の間には“マランドラージェン(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)”の気風が染みついていたが、サッカーを通して、彼らが規律や努力を学ぶ教育効果が期待できる

 などの理由をあげることができます。

 かくして、ヴァルガス政権がサッカー振興に熱心に取り組んだ結果、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でもできるスポーツとして、サッカーはブラジル国民の間でサッカーが急速に普及し、直線的で素早いパス回しをする欧州勢に対して、“ジンガ”(もともとは“ふらふら歩く、揺れる”という意味のポルトガル語ですが、サッカーでは“しなやかでリズミカルな動き・ステップ”を意味しています)を含む黒人のリズムや身体能力を取り入れた“ブラジル式”サッカーのスタイルが徐々に確立されていくことになりました。

 その結果、1934年のW杯イタリア大会で1回戦敗退だったブラジル代表は、1938年のフランス大会では堂々の3位となります。

 その次の大会は、本来であれば、1942年に開催の予定でしたが、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで欧州での開催は不可能となります。さらに終戦直後の1946年の大会も戦争の傷跡が癒えずに見送られてしまいました。

 この間、ヴァルガスは1945年10月の軍事クーデターで大統領の座を追われましたが、彼がレールを引いたサッカーとナショナリズムを結びつける路線はその後も継承され、ブラジル政府は、1950年の大会開催国として立候補し、無競争で1950年6月24日から7月16日にかけてのW杯開催権を獲得しました。

 W杯の開催が決まると、大型スタジアムの建設が必要となります。

 当初の案では、名門クラブ“ヴァスコ・ダ・ガマ”の本拠地だったサン・ジャヌアリオ・スタジアム(1927年建設。収容人員4万)の増築も検討されましたが、1947年11月、作曲家でリオデジャネイロ市議のアリ・バホーゾらがダウンタウンにも近いマラカナン地区の競馬場跡地(デルビー)を市が買い取って新スタジアムを建設する法案を市議会に提出。これが可決され、マラカナン競技場が建設されました。

 完成当初のスタジアムは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なデザインで、1階席3万、2階席2万5000、3階席10万という巨大なものだったこともあり、“デルビーの巨人”と称されました。また、3階席スタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だったが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度を確保するため、工事も大幅に遅れ、6月24日の開幕に何とか間に合っています。

 開催国として悲願の初優勝を目指していたブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破。決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しましたが、ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破ってウルグアイとの試合に望みます。

 一方、ウルグアイは、スウェーデンに勝ち、スペインには引き分けて1勝1分の成績でブラジルとの対戦を迎えました。

 運命の1950年7月16日、19万9854人の観客が見守る中、マラカナン競技場で行われたブラジル対ウルグアイの試合では、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。この時点で、多くのブラジル国民はブラジルの優勝を確信していましたが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。

 これが、いわゆる“マラカナンの悲劇”です。

 あと一歩で悲願の初優勝を逃したブラジル国民の落胆は大きく、2人がその場で自殺したほか、2人がショック死、20人以上が失神したといわれています。また、当時9歳だったペレは、落ち込む父親に「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましていましたが、はたして、8年後、1958年のスウェーデン大会では、ペレは17歳で代表メンバーに抜擢され、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しています。

 その後、ブラジルはサッカー王国として世界に君臨し、W杯5回、南米選手権8回もの優勝を果たしていますが、なぜか、五輪の金メダルだけはこれまで獲得できませんでした。

 また、1950年の“マラカナンの悲劇”の雪辱を期して臨んだ2014年のW杯では、ブラジルははただ準決勝でドイツに1―7で惨敗しており、開催国としてマラカナン競技場で、宿敵ドイツを破ってサッカーの金メダルを獲得することは、今大会での絶対的な使命とされていました。それだけに、今回の優勝は、今後、“マラカナンの歓喜”としてブラジルの歴史に名を残すことになるのではないかと思われます。

 なお、マラカナン競技場とブラジルのサッカーの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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