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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アフリカデー
2019-05-25 Sat 03:03
 きょう(25日)は、1963年5月25日にアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合=AU)が創設されたことにちなむ“アフリカデー”です。というわけで、アフリカ大陸の地図を描いた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・コンゴ共和国との国交50年

 これは、2014年にキューバが発行したコンゴ共和国(旧仏領。以下、コンゴ・ブラザヴィル)との国交樹立50周年の記念切手で、キューバ国旗とキューバ島の地図、アフリカ大陸のシルエットの中にコンゴ・ブラザヴィルの国旗を持つ人々が描かれています。

  1960年8月15日に独立したコンゴ・ブラザヴィルは、初代大統領に就任したフルベール・ユールーと彼の率いる与党“アフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)”の下、親仏路線を維持し、フランスからの資金援助による国家建設を推進しました。しかし、その配分は、彼の出身部族であるラリ族の多い南部が偏重され、北部は冷遇されただけでなく、露骨な利益誘導が行われたため、政権の腐敗も深刻でした。

 外交面でも、隣接する旧ベルギー領コンゴでの動乱に関しては、民族派のパトリス・ルムンバではなく、旧宗主国ベルギーの支援を受けてカタンガの分離独立を主張するモイーズ・チョンベを支持。このことも国民の不満を醸成し、1963年8月、北部での反政府暴動を機に、ユールー政権は崩壊し、アルフォンセ・マサンバ=デバを首班とする新政権が発足しました。

 マサンバ=デバ政権は、民族主義的な色彩の濃い社会主義路線を掲げ、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、計画経済の導入などを推進。1964年1月には“革命国民運動(MNR)”を結成して一党体制を構築したほか、外交面では反仏路線に転換し、東西冷戦下では西側との決別を意味するキューバ・カストロ政権との国交樹立に踏み切ります。

 これを受けて、キューバはチェ・ゲバラをブラザヴィルに派遣することを決定。1965年1月2日、ゲバラは「米国の干渉に対する革命の戦いは、西半球の大陸の多くの人をとらえるだろう」と声明してブラザヴィル入りし、5日、マサンバ=デバと会談しました。ゲバラは、マサンバ=デバに対して、キューバと連帯して旧ルムンバ派勢力を支援することを提案。マサンバ=デバ政権がこの提案を受け入れると、ホルヘ・リスケート率いるキューバの軍事ミッションがブラザヴィルに派遣されました。

 その後、キューバの支援を受けたMNR若年層の一部は徐々に民兵を組織して過激化。マサンバ=デバは、1966年、民兵組織のアンブローズ・ヌアザレイを首相に任命し、政権に取り込んで去勢しようとしましたが、MNRは穏健化しませんでした。そこで、1968年1月、マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任しましたが、軍部の実力者で空挺隊司令官のマリアン・ングアビは民兵組織を統御しきれないマサンバ=デバに対する不満を募らせます。

 このため、1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕しましたが、兵士の反乱で釈放を余儀なくされ、逆に、9月4日、退陣に追い込まれました。なお、政権を掌握したングアビは民兵組織を抑え込みましたが、キューバとの友好関係は維持しています。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ヴィクトリア女王生誕200年
2019-05-24 Fri 00:57
 1819年5月24日にヴィクトリア女王が生まれて、今日でちょうど200年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
     
     ペンスブルー

 これは、1840年に英国で発行された“ペンス・ブルー”の切手で、ワイオンのメダルを基にしたヴィクトリア女王の肖像が取り上げられています。

  ヴィクトリア女王は、英国王ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘として、1819年5月24日に生まれました。出生時の王位継承順位は第5位でしたが、1820年1月23日、生後8ヶ月にして父親のケント公が薨去し、さらに、同29日には国王ジョージ3世が崩御します。これを受けて、伯父の皇太子ジョージがジョージ4世として即位します。ジョージ4世は子のないまま、1830年6月26日、崩御。すでに、国王の次弟ヨーク公は1827年に亡くなっており、三弟クラレンス公ウィリアムがウィリアム4世として即位しましたが、この時点でウィリアム4世はすでに65歳の高齢で子がなく、ヴィクトリアは議会から“暫定王位継承者”に認定されます。

 その後、1837年5月24日にヴィクトリアは18歳となり成人。その直後の同年6月20日、ウィリアム4世が崩御したことで、ヴィクトリアが18歳にして英国女王として即位しました。

 ところで、女王への御代がわりのあった1837年、ローランド・ヒルが『郵便制度の改革――その重要性と実行可能性』と題するパンフレットを刊行。郵便料金が高いため、人口の増加や産業の発展の度合いに比べて郵便の利用が増えない現状を指摘した上で、便箋の枚数と距離制によって複雑に計算されていた従来の料金体系を全国均一の重量制とし、料金の支払方法も受取人でなく差出人が支払う前納制に変えるなど、合理化・単純化を骨子とした郵便改革を提案します。

 この提案が受け入れられ、1840年1月10日から、1/2オンス以下の書状基本料金を全国1律1ペニーとする統一1ペニー郵便がスタートしました。

 当初、ヒルは料金の前納方法として、①料金支払済みの印を郵便局の窓口で押す、②郵便料金込みのレターシート(便箋を折り曲げて封筒状にできるようにしたもの:マルレディ・カバーとして実現)を発売する、③裏にノリを引いた証紙を発売する(ペニーブラックとして実現)、という3種類の方法を考えていたといわれていますが、最終的に、、③を基に、郵便切手が発行されることになります。

 新たに発行される郵便切手のデザインについて、ヒルは。英国を象徴するもので、国民に受け入れられ、なおかつ偽造防止という面もクリアしていなければならないと考えていました。このため、1839年12月、ヒルは、切手のデザインにヴィクトリア女王の肖像を用いる方針を最終的に決定します。

 古来、国王の肖像は貨幣に刻まれ、国民の間を流通していました。それは、本来、誰がその地域の支配者であるか、利用者に目に見えるかたちで示すためでしたが、国民の側では抽象的な愛国心を図像化するイコンの役割を果たすものでもありました。また、見慣れた人間の顔というのは、微細な変化であっても、見る者はすぐに違和感をおぼえるものだから、偽造防止という観点からも好ましいものでした。

 題材が決まると、女王のどの肖像を用いるかが次の問題となりますが、最終的に、1837年11月、女王のギルドホール訪問を記念して作られたメダル(彫刻者のウィリアム・ワイオンにちなんで“ワイオンのメダル”と呼ばれています)に刻まれた肖像が採用されることになりました。

 このワイオンのメダルを元に、当時、最高水準の技術を誇っていたパーキンス・ベーコン・アンド・ペッチ社(以下、パーキンス・ベーコン社)に切手の製造が発注されます。そして、同社の依頼を受けて、デザイナーのヘンリー・コーバウルドが切手に用いる女王の肖像の下絵を作成。パーキンス・ベーコン社の首席彫刻者であったチャールズ・ヒースが原版を彫刻。紙幣と同じ印刷方式の凹版印刷で切手が製造されました。

 こうして、1840年4月27日までに6815万8080枚(1シートは240面なので、シート単位では28万3992シート)の1ペニー切手がロンドン中央郵便局に搬入され、さらに、英国各地の郵便局に配給され、5月1日、世界最初の切手“ペニー・ブラック”が発売されます。ただし、実際に郵便に使用できたのは、5月6日以降のことです。

 なお、ペニー・ブラックは1/2オンスまでの基本重量用の料金に対応したものでしたので、同時に、2倍重量用として、青色の2ペンス切手の発行も計画されていました。これが、今回ご紹介のペンス・ブルーです。しかし、ペンス・ブルーは制作作業が遅れたため、郵便局での発売は5月6日以降にずれ込みました。 

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『英国郵便史 ペニーブラック物語』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 南ア大統領、現職が再選
2019-05-23 Thu 01:58
 南アフリカ共和国(以下、南ア)の国民議会(下院)はきのう(22日)、本会議を開催し、今月8日の総選挙で過半数を獲得した与党アフリカ民族会議(ANC)の議長で現職のラマポーザ氏を大統領に選出しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ANC70年(1982)

 これは、1982年にソ連が発行した“ANC70年”の切手で、ANCの旗をバックに振り上げた拳が描かれています。

 ANCの前身にあたる南アフリカ先住民民族会議(SANNC:South African Native National Congress)は、1912年1月8日、同国中部のブルームフォンテーンの教会で設立されました。

 SANNCは南アフリカにおける先住民族の権利獲得をめざす政治団体で、翌1913年に施行された「原住民土地法」(たとえば人口の70%を占める黒人の居住地は国土の13%に制限され、国内の移動を制限される通行証の携帯を義務付けられていました)に反対するためのデモや陳情運動を展開し、1914年には原住民土地法に抗議するための代表団をロンドンに派遣しています。その後、1923年に現在の名称であるANCに改称しました。

 1948年、南アでは、連合党政権の“対英従属・(オランダにルーツを持つ)アフリカーナー軽視”を徹底的に批判する国民党が総選挙で第一党に躍進。政権を獲得しました。このときの選挙キャンペーンとして、国民党が大々的に掲げたのが、アフリカーンス語で分離ないしは隔離を意味する“アパルトヘイト”のスローガンです。

 首相となった国民党のマランは、もともとオランダ改革派教会の聖職者で、「アフリカーナーによる南ア統治は神によって定められた使命である」との信念の下、「国内の諸民族をそれぞれ別々に、純潔を保持しつつ存続させることは政府の義務である」と主張。1950年、全国民をいずれかの“人種”に分類するための人口登録法を制定し、これと前後して、人種間通婚禁止法や背徳法(異人種間の性交渉を禁止する法律)を制定。さらに、都市およびその近郊の黒人居住地から黒人を強制移住させ、その跡地を白人(主としてアフリカーナー)のために区画整理するなどの、差別的政策を強行していきました。

 当然のことながら、ANCはこれに抵抗。1955年6月には、人種差別に反対する多人種の人民会議の開催を呼びかけ、ヨハネスバーグ近郊のクリップタウンで“人種差別のない民主南アフリカ”を目指す「自由憲章」を採択し、1960年には当時議長のアルバート・ルツーリがアフリカ出身者として初のノーベル平和賞を受賞しました。

 ところで、当初、ANCは非暴力主義を掲げていましたが、1960年3月、通行証制度(南アの非白人は身分証に相当する“通行証”の携帯を義務付けられ、不携帯の場合は特定の地域に入れなかったり、甚だしくは逮捕されることもありました)に抗議するデモ隊に會艦隊が発砲し、67名が犠牲となるシャープビル事件が発生すると、これを機に、副議長のネルソン・マンデラを指揮官とする軍事部門、ウムコント・ウェ・シズウェ(MK:uMkhonto we Sizwe))を設立し、武装闘争もやむなしの路線転換を行いました。これに対して、南ア政府は非常事態宣言を発してANCを非合法化。1963年にはマンデラら幹部が一斉逮捕され、ロベン島の収容所に送られました。その後、マンデラの身柄は、1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監されましたが、1990年2月の釈放まで、彼は27年間を獄中で過ごし、アパルトヘイトに抵抗する南ア黒人の象徴的な存在となります。

 この過程で、西側陣営の一角を占める南ア政府に対する反対勢力として、ソ連はANCの武装闘争を支援。武器の提供のみならず、2000人に及ぶMKの戦闘員の訓練も行ないました。今回ご紹介の切手はこうした背景の下で発行されたものですが、東側諸国の支援を受けたANCは、米国政府により“テロリスト団体”に指定されていました。

 南ア政府の弾圧により、MK は壊滅的な打撃を受け、1970年前後にはその活動も大いに低迷しましたが、この時代にもソ連はANCならびにMKを存続させるためにさまざまな支援を行っていました。また、ANCは、1975年に独立したアンゴラのアンゴラ解放人民運動 (MPLA)と密接な関係にあり、アンゴラに派遣されたキューバの軍事顧問団の下、アンゴラで軍事訓練を受けています。

 こうして、南ア国外で訓練を受けたMKの戦闘員は、1976年のソウェト蜂起後、続々と南ア入りし、各地で破壊活動を展開。国際世論の圧力と併せて、南ア政府にアパルトヘイト政策の撤廃を決断させることになりました。

 その後、マンデラは当時の南ア大統領、フレデリック・デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開き、デクラークとともに1993年度のノーベル平和賞を受賞。さらに、1994年4月に行われた南ア史上初の全人種参加選挙でANCを勝利に導いて大統領に就任し、1999年に大統領職を退くまで民族和解・協調を呼びかけ、黒人ととの対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済復興などに尽力しました。

 マンデラ没後も、現在に至るまで、25年以上にわたってANCは政権を維持し続けていますが、長期政権ゆえの腐敗は避けがたく、ズマ前政権下では汚職が蔓延し、失業率が20%台後半で高止まりするなど景気も低迷。このため、昨年(2018年)2月にはズマが失脚し、元実業家のラマポーザが後継大統領となりましたが、支持率の低下は収まらず、今回の総選挙ではANCは2014年の前回選挙から19議席減らし、1994年以降、最低の230議席を獲得するにとどまりました。


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 サイクリングの日
2019-05-22 Wed 11:58
 きょう(22日)は、日本サイクリング協会が2009年4月20日に制定した“サイクリングの日”です。というわけで、自転車関連の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオ・三輪車

 これは、“返還”直後の2000年にマカオで発行された“三輪車”の切手で、セナド広場を思わせるカルサーダスにたむろしている三輪車(輪タク)が描かれています。

 自転車タクシー(輪タク)のことを英語では“サイクル・リークシャー”と呼びますが、これは、日本から輸入された人力車に由来する“リークシャー(日本語の力車が語源)”を自転車で引くことによるもので、オートバイで引く場合には“オート・リークシャー”といいます。ただし、さすがに現在では純然たる人力車は一部の観光地などを除くとみられず、単に“リークシャー”といえば“サイクル・リークシャー”のことを指すのが一般的でとなっています。

 中華世界では、輪タクは“三輪車”の名称で親しまれており、中国大陸では、現在でも、地方に行くと現在でも日常の足として輪タクが用いられています。また、世界遺産都市のマカオでは観光地を回る三輪車が多数営業されており、この切手も、海外の観光客にそれらを宣伝する意図を込めて発行されたものです。

 さて、2010年に拙著『マカオ紀行』を上梓してから、はや9年が経ちました。昨年、久しぶりにマカオを訪ね切手展の合間にいろいろと歩き回ってみましたが、同書の刊行から変化が生じた部分や、以前には気付かなかった部分もいろいろと見えてきて、遠からずアップデート版を作れれば…との思いを強くしています。


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 世界の切手:ブルガリア
2019-05-21 Tue 01:23
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年4月17日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(7回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・スターリン消

 これは、1950年8月10日、“スターリン”と呼ばれていた時代のヴァルナから差し出された葉書です。

 ブルガリアを含むバルカン諸国の大半は、第二次大戦末期、ソ連によってドイツないしは親独政権の支配から“解放”され、戦後はソ連の衛星国となりました。これに対して、バルカン半島南西、イタリア対岸の旧ユーゴスラヴィア王国の地域では、ヨシップ・ティトー率いるパルチザンが自力で国土の解放を進め、1945年3月、ソ連とは無関係に独自の人民政府を樹立。同年11月には王制の廃止とユーゴスラヴィア人民共和国連邦の成立を宣言しました。

 バルカンを自らの勢力圏と考えていたソ連は、ユーゴスラヴィアに対しても影響力を扶植すべく、1946年、ティトーに石油・鉄鋼開発のための両国合弁企業の設立を提案しましたが、ティトーはこれを自国に不利として拒絶。さらに、ティトーは、ソ連とパルチザンが全土を解放したアルバニアに対して、独立国家としての存在を認めず、ユーゴスラヴィア人民共和国連邦への加盟を要求していました。

 こうしたティトーの姿勢はスターリンを苛立たせていましたが、ブルガリアのディミトロフ政権は、バルカンでは独力でナチスを撃退したティトーの権威が絶大であることを考慮し、ユーゴスラヴィアとの良好な関係を維持すべく腐心していました。

 しかし、1948年、ティトーが、スターリンに無断でブルガリアと関税同盟構想を推進したことが発覚すると、スターリンは激怒。同年のコミンフォルム第2回会議でユーゴスラヴィアの追放決議が採択され、ブルガリア国内でも“ティトー主義者”(と見なされた人物)に対する粛清が始まります。

 ディミトロフは、こうした状況の下、1949年、病気療養中、モスクワ近郊の病院で亡くなったため、ソ連による謀殺が疑われましたが、そのことを裏付ける確実な証拠は確認されていません。

 さて、ディミトロフの死後、ブルガリアの後継首相となったヴァシル・コラロフは、スターリンの怒りを解くため、“ティトー主義者”の粛清を進めましたが、その最大のターゲットとなったのが、ディミトロフ政権で副首相を務めたトライチョ・コストフでした。

 コストフは、副首相兼経済財政委員会議長として、社会主義建設の2ヵ年計画を立案し、ソ連による経済政策への介入にも批判的でしたが、それゆえ、1949年3月に解任され、同年7月、逮捕・処刑されます。

 さらに、コラロフは、国内の重要都市であるヴァルナ市を“スターリン市”に改名し、あらためて、ソ連とスターリンに対する忠誠の意思を示したうえで、1950年1月に亡くなりました。今回ご紹介の葉書の消印の地名表示が“スターリン”となっているのは、こうした事情によるものです。

 次いで、コラロフの死後、後継首相となり、ついで党書記長を兼任したヴァルコ・チェルヴェンコフは、よりモスクワに忠実なスターリン主義者として、スターリンの意を汲んでその地位に就いたため、スターリンへの忠誠心を示すべく、就任早々、米国との外交関係を断絶。また、ソ連の政策を忠実になぞって、重工業化と農業集団化を推進したほか、“小スターリン”として個人崇拝を強要するとともに、反対派は容赦なく弾圧し、1953年までに1万2000人が強制労働収容所で亡くなったとされています。さらに、ブルガリア正教会の総主教は修道院に軟禁され、教会は国家の統制下に置かれました。

 しかし、スターリンの露骨な傀儡であったチェルヴェンコフは、1953年3月にスターリンが亡くなると、その権力基盤が揺るぎ始めます。ソ連指導部が“新路線”を掲げると、チェルヴェンコフもそれに従って、消費財生産部門、農業への投資割り当てを拡大するとともに、恐怖政治を緩和して収容所から数千名が釈放されましたが、こうした路線転換は、結果的に、チェルヴェンコフの権威を損ないました。

 結局、1954年の党大会で、チェルヴェンコフに代わり、トドル・ジフコフが共産党書記長に就任。その後も、チェルヴェンコフは首相の座には留まったものの、1956年2月、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われると、同年4月、個人崇拝を批判されて首相から副首相に降格され、事実上、失脚。スターリン市も旧称のヴァルナ市に復することになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』4月17日号の「世界の国々」では、1950年代前半を中心にしたブルガリア現代史についての長文コラムのほか、イヴァン・ラザロフの彫刻「母」、リラ修道院、ヴァルナの戦い、ヴァルナ湾のの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、4月24日発売の5月1日号でのパラオ(と一部カンボジア)、5月1日発売の同8日号でのエスワティニ(と一部ギニアビサウ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 キューバ独立記念日
2019-05-20 Mon 02:11
 きょう(20日)は、1902年5月20日に米軍政が終了し、キューバ共和国が発足したことことから、キューバの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・独立派ラベル(1896)

 これは、キューバの第2次独立戦争中の1896年、独立派が制作したキューバ共和国の“切手”です。

 キューバの第2次独立戦争は、1895年4月11日、ホセ・マルティとマクシモ・ゴメス将軍がキューバ島東部のプライータ海岸に上陸して始まりました。マルティは開戦早々の5月19日に戦死してしまいますが、その後も独立運動は粘り強く続けられ、ゴメスひきいる独立軍は徐々にスペイン軍を追い詰めていきます。

 今回ご紹介の“切手”は、そうした状況の下、独立派が自らの存在を内外に誇示するために準備したもので、米国のアメリカン・バンクノート社で製造されました。独立戦争が順調に進めば、1896年に発行の予定だったと言われていますが、結果的に不発行に終っています。

 ところで、米国内では、キューバの独立戦争がはじまると、ハースト系およびピュリッツァー系の新聞社がスペインの暴政をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、米国の権益(米国はキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていた)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を煽っていました。

 そして、1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が死亡。現在では、爆発はメイン号の内部機関のトラブルによるものとの説が有力ですが、加熱するキャンペーン報道に煽られた米国の世論は「メーン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、米国はスペインに宣戦を布告し、米西戦争が勃発しました。

 米西戦争は、1895年以来のキューバ第2次独立戦争を支援することが大義名分であったため、開戦にあたって、米議会は独立派の革命政府を承認し、キューバを植民地化しないことを宣戦布告の条件としていました。しかし、1898年6月、米軍がキューバ島に上陸してスペイン軍を駆逐すると、同年10月、独立軍の頭越しに米西間で講和条約(パリ条約)が結ばれ、米軍は軍政を開始。キューバ独立の約束は、事実上、反故にされてしまいます。

 その後、1902年にキューバは“独立”を達成しましたが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国は、キューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米国に軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地である)、など8項目からなる付帯事項(プラット修正条項)を押し付けました。

 当然のことながら、キューバ側はこれに抵抗したものの、米国の強硬な姿勢の前に、最終的に、プラット修正条項を無条件で受けいれることで、キューバ共和国が発足し、米国の市民権を持つエストラーダ・パルマが初代大統領に就任しました。

 以後、キューバは実質的に米国の支配下に置かれ、砂糖やタバコなどの主要産品は米系資本が独占。そればかりか、製糖所や煙草工場を動かすための電力、輸送のための鉄道、菓子や製薬などの副産物の生産などの関連産業を含め、米国はキューバの経済全体を支配するようになります。

 ちなみに、独立国とは名ばかりで、米国の実質的支配下にあった時代のキューバについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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      岡田英弘の歴史学とは何か

 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定)
 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分)
 * 資料代として1000円が必要です。

 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!!
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 マルティ忌
2019-05-19 Sun 10:27
 きょう(19日)は、1895年5月19日に亡くなったキューバ独立の英雄、ホセ・マルティの忌日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マルティ生誕100年・マルティ像

 これは、1953年にキューバで発行されたホセ・マルティ生誕100周年の記念切手のうち、ハバナの中央公園にあるマルティ像を取り上げた1枚です。

 ホセ・フリアン・マルティ・ペレスは、1853年、ハバナに生まれました。

 1865年、詩人で独立思想家のラファエル・マリア・メンディベが校長を務める公立学校に入学。メンディベを通じて、文学者や独立活動家と交流を持つようになり、1867年にハバナの美術専門学校に入学した後は、愛国的な詩や戯曲をさかんに書くなど、早熟な少年でした。

 第一次独立戦争勃発後の1869年、友人のフェルミン・バルデス・ドミンゲス宅がスペイン側の家宅捜索を受けた際、スペインの将校となった別の友人を“裏切り者”と罵倒したマルティの手紙が押収され、反逆罪の容疑で逮捕。懲役6年の判決を受け、ピノス島の収容所で強制労働に従事させられます。

 父親の奔走により、1870年末に釈放され、国外退去処分を受けてスペインへ渡ると、航海途中に記した『キューバに於ける政治犯刑務所』をマドリードで出版。サラゴサ大学などで法律や文学、哲学などを学びました。

 1874年末以降、フランス、ニューヨーク、メキシコ、グアテマラを経て、1878年、第一次独立戦争休戦後のキューバに戻ったものの、独立運動を展開したため、再び亡命を余儀なくされています。

 その後、メキシコ、ニューヨークなどを経て、ヴェネズエラのカラカスに渡り、雑誌『レビスタ・ベネソラーナ』を創刊しましたが、時の為政者グスマン・ブランコを批判したことで、国外退去を余儀なくされたため、1881年、当時多くの亡命キューバ人の滞在していたニューヨークに居を移しました。ニューヨークでのマルティは、小説家、詩人、評論家、教育者、ジャーナリストとして活動し、知識人としての地位を確保する傍ら、パラグアイおよびアルゼンチンの駐米領事、ウルグアイの駐米領事・国際金融会議代表を歴任しています。

 しかし、キューバ独立への思いは断ちがたく、1892年1月10日、全ての地位・役職を放擲し、独立活動に専念すべく、キューバ革命党を創立。①“キューバの完全独立の達成、スペイン領プエルトリコの独立の推進・援助(併合主義の拒絶)のための戦争の準備、② 在外独立諸勢力の統一とキューバ内の勢力との連絡の確立、③カウディージョ主義・軍国主義的逸脱の排除、④“共和主義的精神・方法による戦争”の実施に寄与するような民主的諸原則の順守、を綱領として掲げました。

 マルティの認識によれば、第一次独立戦争の後、スペインはキューバに形式的な自治を与えたものの、キューバを独立させる気は毛頭なく、キューバの独立は武力で勝ち取らねばなりません。

 また、在米キューバ人の中には、富裕層を中心に、スペインからの独立後、“進歩と民主主義の国”にして、経済的な結びつきが強い米国への統合を求める者も少なくありませんでしたが、マルティは、「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」「(ニューヨーク在住の)私は(米国という)怪物の中に住んでいるので、その内臓をよく知っている」として、あくまでも独立を主張しました。

 1894年、革命の資金・武器調達のためにニューヨークを出発してメキシコに向かったマルティは、武器を満載した船3隻を得た後、1895年1月30日、ドミニカ共和国のサン・ドミンゴに寄港し、第一次独立戦争の英雄、マクシモ・ゴメス・イ・バエス将軍と合流。経済危機に陥ったキューバ各地で独立闘争が激化したのを確認すると、3月25日、マルティとゴメスはジャマイカのモンテクリスティで、事実上の独立宣言ともいうべきモンテクリスティ宣言を発表。4月1日、ジャマイカを出発し、ハイチを経て、4月11日、キューバ島東部のプライータ海岸に上陸し、第二次独立戦争が始まりました。

 マルティらはキューバ各地で闘争を繰り広げましたが、兵力に勝るスペイン軍を相手に独立派は苦戦を続けます。そして、5月19日、ドス・リオス付近で戦闘に際して、「あなたは独立後に必要な人物なのだから、野営地に留まってほしい」とのゴメスの制止を振り切って進撃したところ、スペイン植民地軍の銃撃に遭い、戦死しました。

 ちなみに、マルティの遺体は、当初、スペイン側によって共同墓地に投げ入れられましたが、革命軍は彼の遺体を回収するために、スペイン軍と熾烈な戦いを繰り返して奪還に成功。後に、オリエンテ州第一管区総司令官の指示により、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地に埋葬されました。

 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、フィデル・カストロと1959年のキューバ革命に大きな影響を与えたホセ・マルティについてもまとめていますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 

 * けさ、アクセスカウンターが205万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 イオ・ミン・ペイさん死去
2019-05-18 Sat 06:29
 “幾何学の魔術師”と呼ばれた世界的建築家、イオ・ミン・ペイさん(貝聿銘。以下、敬称略)が、16日(現地時間)、米ニューヨークの自宅で亡くなりました。享年102歳。謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・中銀タワー(1989)

 これは、1989年に英領時代の香港で発行された“香港爲未來建設”のうち、ペイの代表作の一つ、香港島北部、金鐘地区の中国銀行タワー(中銀大廈)を取り上げた1枚です。ちなみに、中銀タワーの完成は1990年ですから、今回ご紹介の切手は建物が完成する以前の完成予定図を描いた1枚ということになります。

 さて、イオ・ミン・ペイは、1917年4月26日、廣州で後に中国銀行の頭取を務めたツーイー・ペイの子として生まれました。彼が生まれて間もない1917年9月、廣州では孫文の廣東軍政府が成立。要1918年、同政府はツーイーが支店長として勤めていた銀行に資金援助を要請したもの、ツーイーはこれを断り、身辺に危険が及んだため、一家は英領香港に亡命しました。

 その後、一家は上海に移り、フランス租界で生活。その後、ペイは香港のセント・ポール・カレッジを卒業後、上海のセント・ジョンズ・スクールを経て、1935年、17歳で渡米し、ペンシルベニア大学建築学科に入学します。しかし、古典的な建築教育と人種差別に嫌気がさし、すぐに退学してマサチューセッツ工科大学に編入。当初は工学専攻でしたが、彼の才能を見抜いた学部長の強い勧めで、再び建築を学びました。

 1940年、マサチューセッツ工科大学を卒業し、欧州留学の奨学金を取得したものの、第二次欧州大戦のため留学を断念。1942年にハーバード大学大学院の修士課程に入学しましたが、すぐに休学し、戦時諜報機関の国防調査委員会に勤務しました。

 第二次世界大戦後の1945年、ハーバード大学大学院へ復学し、翌1946年に建築学修士号を取得。同大学助教授となりましたが、1948年、ウィリアム・ゼッケンドルフの招きにより、ニューヨークの不動産開発会社、ウェッブ&ナップ社の企業内建築家となり、同社建築部門の代表として多くの都市再開発を手がけました。その後、1954年に米国籍を取得し、1965年に自身の建築設計事務所“I.M.ペイ&パートナーズ”をニューヨークで設立。1989年まで事務所の代表を務めました。この間、1983年にはプリツカー賞を受賞。代表作としては、中銀タワーのほか、パリ・ルーブル美術館のガラスのピラミッド、ワシントン・ナショナル・ギャラリー東館、ボストンのジョン・F・ケネディ図書館などがあります。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた中銀タワーは、発展する香港の街を成長の早い植物の竹に見立てたデザインで、鋼鉄製のトラスの枠組みをデザインに生かし、壁面は青いハーフミラーガラスとなっています。地上72階建て、高さが367.4mで、1990年の完成当時はアジアで初の高さ300m超の超高層ビルでした。その後、1992年に、湾仔地区に建設された地上78階建て・高さ374mのセントラルプラザ(中環廣場)に最高の座は譲り渡したものの、その特異な形状とも相まって、“中国香港”を象徴する建物として、紙幣裏面にも印刷されています。

 なお、中銀タワーの外観は、ペイの意図としては竹のイメージとされていますが、実際には、ビルの形状が包丁のように見えるだけでなく、その刃の面が、一方は英総督府の方向に、他方は香港上海銀行(香港金融界の支配者とされる英国系の銀行)の方向に、それぞれ、向けて建てられていたことから、風水論争を巻き起こしました。このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 キューバ農地改革60年
2019-05-17 Fri 01:36
 1959年5月17日にキューバで農業改革法が公布され、農地改革が始まってから、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・農業改革法55年

 これは、2014年にキューバで発行された“農業改革法55年”の記念切手で、フィデル・カストロがシエラ・マエストラ山中で同法に署名する場面の写真が取り上げられています。

 キューバ革命の原点とされる1953年のモンカダ兵営襲撃事件の後、カストロが獄中で執筆した手記には、すでに革命後の土地改革についての言及があり、土地改革が成功すれば、キューバ経済は自然と成長軌道に乗るであろうとの見通しが述べられていました。

 その後、土地改革の実施は革命組織 M26の公約とされ、革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロ・シエンフエゴスとチェ・ゲバラが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。

 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するため、“農業改革法のための委員会”の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。しかし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。

 そこで、カストロはゲバラをはじめM26の“社会改革派”とともに農業改革法案を作成。法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。これを受けて、5月17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、カストロが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。今回ご紹介の切手は、この場面を取り上げたものです。

 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収された。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられています。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進されました。また、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。

 ところで、革命以前のキューバでは、可耕地の70-75%、農地面積の3分の1は米系企業の所有地となっていたため、外国人の土地所有を禁止した農業改革は米国によるキューバ支配の前提を根本から否定するもので、米国をいたく刺激することになりました。

 もともと、米国政府は、1959年1月7日、キューバの革命政府をとりあえず承認したうえで、その方向性を見きわめようと事態を静観していましたが、農地改革が実行に移されるや、キューバ政府に抗議。アイゼンハワーは「カストロは共産主義者ではないが、共産主義者から引き離す必要がある」との認識を示し、キューバ国内でも、それに同調する声が少なからず上がるようになります。

 以後、米国はキューバの革命への干渉を本格化し、両国の関係は緊張の度合いを高めていくのですが、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 泰国郵便学(57)
2019-05-16 Thu 01:24
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第53巻第2号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・文通週間(ケーオ・ナー・マー)

 これは、タイの民話を取り上げた1977年の国際文通週間の切手のうち、「ケーオ・ナー・マー(馬面の娘)」の1場面を取り上げた1枚です。

 主人公のケーオ・ナー・マーは、母親が神から不思議な石を授かる夢を見て身籠った子供で、頭が馬という怪異な容貌ながら、降雨の時季を当てるなど不思議な力を持ち、村人からは愛されて育ちます。

 当時、ミティラー国には若く凛々しいピントーン王子がいました。

 あるとき、王子は凧揚げを楽しんでいたが、凧は糸が切れてケーオの住む村まで飛ばされます。それを拾ったケーオは、凧を探しに来た家臣に対して、凧の持ち主に出なければ凧は返せないと応じたため、王子は自ら凧を受け取りにケーオを尋ねました。すると、王子の姿をみたケーオは一目で王子に恋し、凧を返してほしければ自分を妻として娶るよう、王子に要求します。

 当初、王子はケーオをまともに相手にしませんでしたが、どうしても凧を取り戻したかったため、最終的には、凧と引換にケーオとの結婚を約束しました。

 ところが、凧を受け取った王子はケーオを王宮に連れ帰ったものの、その後は彼女を相手にせず、そのまま一室に幽閉して放置していました。

 これに対して、母である王妃は、将来の王たる者、約束は守るべきだとして王子を叱責しましたが、国王はケーオの馬面を見て驚き、ケーオに対して、7日以内に須弥山の霊験あらたかな岩を持ち帰るという実現不可能と思われる難題を課し、それができたら王子と結婚させようと約束します。ちなみに、ラオスに伝わる同じ題名の民話だと、ケーオが要求されたのは須弥山の岩ではなく、霊獣パスメーンの角とされています。

 そこで、ケーオは須弥山に向けて出立。道中、彼女は隠者に出会って霊力を授かり、その力で馬の頭を取り外せるようになり、馬の頭をはずすと、その下からは美しい人間の顔が出てきました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、この場面です。さらに、仙人は任務を果たすための魔法の船を彼女に与え、彼女は無事に須弥山の霊岩を持ち帰ることができました。

 馬の頭に戻って王宮に岩を持ち帰ったケーオに会った王は、彼女が只者ではないことを悟ったものの、それでも、馬の頭の彼女を王子の后として迎えることはためらい、王子にロムヴィティ国の王女、タサマリー王女を娶ることを勧め、王子はロムヴィティに受けて旅立ちます。

 そこで、ケーオは王子を追ってロムヴィティへ向かい、馬の頭を外して美しい村娘に姿を変えて王子の前に現れました。王子は瀧にいた彼女を(ケーオとは気づかぬまま)見初め、彼女は王子の子を身ごもります。

 その後、王子とケーオがミティラー国に戻る途中、彼らを乗せた船が難破し、洋上の孤島に漂着。その島には人肉を食らう巨人がおり、ケーオは再び馬の頭に変化して巨人と戦い、王子を救いました。

 王国に戻ると、ケーオは乳飲み子を見せて王子との子であると主張しましたが、馬面のケーオとロムヴィティの瀧で出会った美女が同一人物とは知らない王子は自分の子ではないと頑なに否定。そこへ、巨人の一味が復讐のためにミティラー王国を襲撃すると、ケーオは再び戦い、巨人たちを斃しました。

 ここに至り、王子もケーオの人間性に深く感じ入り、ケーオを愛することを誓うと、ケーオは美女に変化し、二度と馬の頭に戻ることはありませんでした。


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