内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アウシュヴィッツの聖者
2015-11-01 Sun 17:39
 きょう(1日)は、カトリックの祝日“万聖節(全ての聖人と殉教者を記念する日)”です。というわけで、数多の聖人・殉教者の中を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エーディト・シュタイン

 これは、1983年に西ドイツが発行した修道女・エーディト・シュタインの切手です。

 エーディト・シュタインは、1891年、ドイツ帝国支配下のブレスラウ(ポーランド名ブロツワフ)でユダヤ人商人の家庭に生まれました。
 
 1904年、13歳の時にユダヤ教を棄教して無神論者になり、1913年以降、エドムント・フッサールに師事。1916年に哲学博士号を取得し、フライブルク大学で教職を得ています。

 その後、1922年にカトリックの洗礼を受けましたが、1933年、“ユダヤ人”であることを理由にナチス政権下で教職を追われ、翌1934年、ケルンでカルメル会の修道女となりました。さらに、ナチスの迫害を逃れてオランダに亡命したものの、捕えられてアウシュヴィッツ収容所に移送され、1942年8月9日、ガス室で殺害されています。

 1979年6月、祖国ポーランドを訪問した教皇ヨハネ・パウロ2世はビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、アウシュヴィッツで亡くなったコルベ神父を称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにします。

 ところで、エーディトのように、血統としてはユダヤ人だが、信仰上はカトリックの信徒であるという“ユダヤ系カトリック”の例は決して珍しくはないのですが、そうしたユダヤ系キリスト教徒を“ユダヤ人”として認定すべきか否かは、ユダヤ人国家の建前を掲げるイスラエルにおいて激しい論争となっていました。このため、エーディトを“ユダヤ系カトリック”として列福することにはユダヤ人団体から抗議が寄せられています。

 一方、カトリックの内部にも、(カトリックの信仰のゆえにではなく)単なる一ユダヤ人としてその他のユダヤ人と同じくガス室で殺害された彼女を“殉教者”と見なしうるかどうかという点で論争がりました。

 しかし、最終的に、彼女が“アウシュヴィッツの聖女”として広く知られるようになっていたこともあり、ヨハネ・パウロ2世は、まずは彼女を列福する方針を固め、それにより、1987年、彼女が列福され、さらに、1998年10月11日には列聖されました。

 なお、ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問は、彼の企図した通り、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらし、1980年7月には、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生。これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”が発足します。

 しかし、その後、“連帯”の組織が全国的に拡大して急進化したことで、ソ連がポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化され、以後、地下組織として抵抗を続けることになります。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、1983年1月に東西冷戦の最前線にあった西ドイツが発行したもので、切手には、彼女が1942年にアウシュヴィッツで亡くなったことを示す文言も入っています。これにより、見る人が見れば、ポーランドでの一連の動きの原点なった教皇のポーランド訪問(特にアウシュヴィッツ訪問)のことが連想されるという仕掛けになっているわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュビッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 *本日開催の拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』の刊行記念のトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様ならびにスタッフの方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 ・11月7日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『ペニー・ブラック物語』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。

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 ドイツ自民党、議席喪失
2013-09-24 Tue 20:06
 22日に投開票が行われたドイツの連邦議会(下院)選挙は、メルケル首相ひきいる中道右派のキリスト教民主・社会同盟が大勝したものの、連立を組んでいた自由民主党(自民党)は得票率4.8%の大敗を喫し、小党乱立を防ぐため定められた5%の必要得票率に達せず、1949年の第1回連邦議会以来、守り続けてきた議席を失いました。というわけで、ドイツ自民党といえば、やはりこの人でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

       ホイス大統領50ペニヒ

 これは、1954年に西ドイツで発行された50ペニヒの普通切手で、連邦初代大統領にしてドイツ自民党の初代代表だったテオドール・ホイスの肖像が取り上げられています。

 ホイスは、1884年、ブラッケンハイム生まれ。ミュンヘンとベルリンで経済学、政治学、歴史学、哲学、美術史を学び、1905年、ミュンヘン大学で博士号を取得しました。その後はジャーナリストとし、「ネッカー新聞」の編集長、雑誌「ドイツ国民」の発行人などを務めるとともに、1918年、ドイツ民主党の設立に参加。翌1919年にベルリン・シェーネベルク区の区議会議員に当選して政界入りします。

 ワイマール体制下ではドイツ国民議会の議員を務めましたが、ヒトラー政権下の全権委任法によって議席を失いました。議員失職後も、ホイスは左派リベラル系のジャーナリストならびに大学講師として活動していましたが、1942年、すべての言論活動を禁じられ、偽名での活動を余儀なくされています。

 第二次大戦後、米軍占領下で新聞発行許可を与えられるとともに、ヴュルテンベルク・バーデン州(現在のバーデン・ヴュルテンベルク州北部)の文化大臣に任命され、党友ラインホルト・マイアー率いる全党内閣に入閣。1948年にワイマール共和国時代の旧ドイツ人民党と旧ドイツ民主党のメンバーが合流する形でドイツ自民党が結成された際には、ドイツ民主党の全ドイツ地区の共同代表として参加。同年12月の結党大会で西ドイツとベルリンの代表に選出されました。

 1949年の第1回連邦議会選挙では議員として当選しましたが、9月12日に連邦会議による投票で連邦大統領に当選したため、議員を辞職。2期10年の任期を全うし、政党を越えた権威として、敗戦国ドイツの対外的信頼を回復することに尽力しました。ちなみに、切手の発行が開始された1954年は、彼が事実上対抗候補なしで再選された年にあたります。

 今回の選挙でのドイツ自民党の惨敗は、前回の総選挙後、付加価値税の減額の恩恵を受ける企業から多大な献金を受け取っていたことが発覚したことで批判を浴び、有権者の支持を失ったことによるものですが、それにしても獲得議席ゼロとは驚きました。日本でも国会議員の選挙にドイツ同様の5%条項が適用されれば、社民党(2012年総選挙での社民党の得票率は選挙区で0.7%、比例代表で2.3%。2009年総選挙でも選挙区で1.0%、比例代表で4.27%)なんかは雲散霧消していてもおかしくないんですけどねぇ…。連中の支持基盤と思しき左派系の人たちの中には、何かというと「ドイツを見習え」と口にする人が多いようですが、そういうことなら、5%条項もきちんと見習ってもらわないとね。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は10月1日(原則第1火曜日)で、以後、11月5日、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 鼻の日
2011-08-07 Sun 23:21
 きょう(8月7日)は、語呂合わせで“鼻の日”です。今年は、1961年に日本耳鼻咽喉科学会が“鼻の日”を制定してから50周年でもありますし、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ドイツ・鼻

 これは、1986年に西ドイツが発行したヨーロッパ切手のうち、ミケランジェロのダビデ像の鼻の部分を大きく取り上げた切手です。

 ヨーロッパ切手というのは、毎年、ヨーロッパ各国が統一テーマの下、それぞれ趣向を凝らして発行している切手のことで、1986年のテーマは“環境”でした。このとき、西ドイツの切手は“鼻”を大胆に取り上げることで、大気汚染のない清浄な空気の大切さをアピールしたというわけです。

 ところで、ダビデ像の鼻といえば、こんなエピソードがあります。

 ダビデ像の制作中、ミケランジェロは作業現場に関係者以外が立ち入ることを固く禁じていましたが、フィレンツェ市長が視察に訪れた時は、これを拒むことはできませんでした。市長は制作中の像を見ると、「ダビデの鼻が高すぎるようだから少し削るように」とミケランジェロの要求。ミケランジェロはこの要求を無視しようとしたのですが、市長が執拗に迫ったため、槌音を響かせつつも鼻は削らず、隠し持っていた大理石の欠片を落として「このくらいでいかがでしょう?」と応じました。真相を知らない市長は、自分の要求が容れられたと思いこんで満足し、その場を立ち去って行ったそうです。

 まぁ、政治家の視察なんてのは、洋の東西を問わず、そんなものなんでしょう。ただ、フィレンツェ市長のエピソードは笑い話ですみますが、某総理のように、原発事故の直後に混乱する現場に乗り込んで、専門家たちの必死の作業の邪魔をしたというのは洒落になりません。そういう方は、素直に職を辞してお遍路を再開し、金輪際、視察なんてものを止めていただきたいものですな。


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 授賞式に出席できない受賞者
2010-12-10 Fri 14:31
 きょう(10日)、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞の授賞式が行われます。受賞者の劉暁波は、本人は獄中にあり、家族の授賞式出席も不可能ということですが、これは、1935年の平和賞受賞者で、当時、ナチス政権下で強制収容所に拘束されていたカール・フォン・オシエツキー以来だそうです。というわけで、フォン・オシエツキーの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

        オシエツキー

 これは、1975年に西ドイツが発行したフォン・オシエツキーの切手です。

 フォン・オシエツキーは、1889年、ドイツのハンブルクで生まれ。ドイツ平和協会に関わり、第一次世界大戦後は同協会の書記として反戦運動を展開し、1927年に雑誌『世界展望』を創刊しました。1931年、同誌で、ドイツ空軍がヴェルサイユ条約に違反して軍備を拡張する準備を進めていることを暴露。このため国家反逆罪に問われ、有罪判決を受けて服役しました。

 1933年、ナチス政権が発足すると、ゲシュタポはフォン・オシエツキーをベルリンの刑務所、ついで強制収容所に送ります。これに対して、ノルウェー・ノーベル賞委員会は彼にノーベル平和賞を授与し、ナチスの独裁体制を批判しました。

 1936年、ベルリン五輪を前にいったんは釈放されますが、その後、前年に受賞していたノーベル平和賞を受賞したため、ヒトラー政権は激怒。以後、ドイツ人がノーベル賞を受け取ることを禁止し、フォン・オシエツキーは投獄され、拘留中の1938年、結核で亡くなりました。

 一党独裁体制の下、国民の基本的な人権を守らず、マイノリティを抑圧し、軍事力を増強して周辺諸国に脅威を与え、政治的なプロパガンダとして大々的にオリンピックを開催するなど、ナチス・ドイツと中国共産政権には、その本質において相通じるところが少なからずあります。ナチス・ドイツは、フォン・オシエツキーの平和賞受賞から10年後の1945年に崩壊しましたが、現状のままだと、中国共産政権は10年後もしぶとく生き残っているんでしょうね。それだけに、拘留中の劉には、フォン・オシエツキーのように獄死することなく、無事に自由の身となって中国の民主化のために思う存分働いてもらいたいものですな。 


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 芥川賞は『乙女の密告』
2010-07-16 Fri 23:38
 第143回芥川賞は、赤染晶子さんの『乙女の密告』に決まりました。京都の外国語大学の女子学生たちが、外国人教授の指導の下、「アンネの日記」のドイツ語訳の暗唱に取り組み、アンネ・フランクに心情を通い合わせる姿を描いた作品とのことなので、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      アンネ・フランク

 これは、1979年、西ドイツで発行されたアンネ・フランク生誕50年の記念切手です。彼女の写真は有名なものがいくつかありますが、日記を広げた写真としては、切手に取り上げられているモノが一番有名なのではないかと思います。

 アンネ・フランクは、1929年6月、ドイツのフランクフルト・アム・マインに生まれました。1933年、ナチス政権が成立すると、一家はドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命。しかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月以降、一家は、アムステルダムでの潜行生活を余儀なくされます。隠れ家での生活は約2年間に及び、その間、アンネがつけていた日記が有名な『アンネの日記』です。

 1944年8月4日、一家の隠れ家はゲシュタポに発見され、全員が強制収容所へと移送。アンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送され、1945年3月頃、チフスにかかって亡くなりました。享年15歳。

 さて、今回の芥川賞を受賞した赤染さんは受賞後の記者会見で「日本人の私がこのテーマ(ユダヤ問題)に取り組むということは、十分に意義があると思います」と述べたとの記事がネットのニュースに出ていました。フィラテリーの世界では、ユダヤ関連マテリアルを集める“ジュダイカ”というジャンルがあって、世界的には人気が高いので、本腰を入れてチャレンジしてみると、赤染さんとはまた違った角度から、日本人ならではのユダヤ論を作れそうです。いずれ、チャレンジしてみたい題材ですな。


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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 ビール造りの難しさ
2010-02-09 Tue 12:27
 世界最大級の酒類・飲料会社を目指して進められていたキリンとサントリーの経営統合交渉が、きのう(8日)、決裂しました。というわけで、きょうはビールがらみの切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ビール純粋令

 これは、1983年に西ドイツで発行された“ビール純粋令450年”の記念切手で、16世紀のビール業者を描く絵画が取り上げられています。

 ビール純粋令は、1516年に、バイエルン侯ヴィルヘルム4世が「ビールは大麦とホップと水の3つの原料以外を使用してはならない」と定めた法令で、現在でも有効な食品に関連する法律としては世界最古とされています。ビール史の本などでは、純粋令の公布は1516年と出てくるのですが、切手は1533年から起算して450年後の1983年の発行です。どうしてこのようなギャップが生じたのか、その理由については、調べきれませんでしたので、どなたかご存知の方があれば教えていただけると幸いです。

 さて、ビール純粋令の第一の目的は、パンを焼く小麦が不足がちだったため、ビール醸造に小麦を使わせないようにすることでしたが、バイエルンのビールの品質を北ドイツのアインベックビールに対抗できるものへと向上させるという狙いもありました。このため、純粋令に基づき、バイエルン領内では、偽物や不純な添加物の入ったビールを一掃すべく、厳しい品質検査が行われるようになりました。

 その後、1556年にビールの原料として“酵母”が加えられ、「大麦、ホップ、水、酵母」の4つがビールの主原料として定められ、現在にいたっています。

 ところで、わが国におけるビールの醸造・販売の歴史は、1869年、ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”を創設し、居留地の外国人向けにビールの醸造を開始したのが始まりとされています。翌1870年には、ノルウェー系アメリカ人のコープランドが横浜山手123番(天沼)に“スプリング・バレー・ブルワリー”を開設し、大衆向けビールとしては日本で初めて継続的な醸造・販売を開始しました。

 その後、“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”は何度かの統廃合を経て、その流れを汲むビール会社としては、1874-75年ごろ、“ババリア・ブルワリー”となります。1876年には、スプリング・バレー・ブルワリーがこのババリア・ブルワリーを吸収する形で、コープランドとウィーガントによる商事組合“コープランド・アンド・ヴィーガント商会”が結成されましたが、 コープランドとウィーガントの間で経営上の対立が浮上。結局、裁判の結果、商事組合は解散となり、工場は競売にかけられて、これを落札したコープランドが改めて醸造所を経営することになりました。

 こうした内紛は、当然のことながら、経営にも悪影響を及ぼし、1884年、コープランドの醸造所は倒産。このため、トーマス・ブレーク・グラバーやイギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・ドッズらに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、1885年、外国資本による香港国籍の新会社“ジャパン・ブルワリー(2代目)”が設立され、1888年から、明治屋を通じて“麒麟ビール”の販売が開始されました。

 これが、現在のキリンビールのルーツで、麒麟のイラストは翌1889年から採用されています。なお、企業としての麒麟麦酒株式会社は、1907年、三菱財閥と明治屋の出資による純粋日本資本の新会社として設立されたもので、ジャパン・ブルワリー社から組織や事業をそのままの状態で買収・継承したものです。

 まぁ、キリンとサントリーの場合も、両者の企業風土はあまりにも違っていますからねぇ。仮に経営統合が実現したとしても、明治初年のコープランド・アンド・ヴィーガント商会の時と同じように、すぐに空中分解ということになっていたかもしれません。まぁ、切手に取り上げられた職人さんたちのように仲良くビールを作っていくというのは、現実にはなかなか難しいということなんでしょうかね。

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 ベルリンのネフェルティティ
2009-12-21 Mon 11:34
 きのう(20日)、エジプト考古最高評議会のザヒ・ハワス事務局長が声明を出し、ドイツ・ベルリンの新博物館に収蔵されている古代エジプト王妃ネフェルティティの胸像の返還を正式に要請すると明らかにしました。というわけで、きょうはこの1枚です。

      ベルリン・ネフェルティティ

 これは、1987年に当時の西ドイツが発行した20ペニヒの通常切手で、問題のネフェルティティ像が取り上げられています。

 ネフェルティティは紀元前14世紀半ば、エジプト新王国時代の第18王朝のファラオであったアクエンアテン(イクナートン、旧名アメンホテプ4世)の正妃で、トゥト・アンク・アメン(ツタンカ-メン)の義母にあたる人物で、古代エジプトの絶世の美女として有名です。

 問題の像は、1912年、ナイル川河畔での発掘に携わっていたドイツの考古学者ルートウィヒ・ボルハルトが発見したもので、当時のドイツ皇太子からも絶賛されました。第一次大戦後の1923年からベルリンのエジプト博物館の目玉として展示されていました。

 1990年に東西ドイツが統合され、ベルリンの再開発計画が進められることになると、巨大な“新博物館”の構想が持ち上がり、エジプト博物館は吸収合併のため閉鎖され、多くのコレクションはいったん倉庫入りを余儀なくされます。しかし、ベルリンが誇る至宝としてのネフェルティティ像(だからこそ、切手にも取り上げられたわけですが)だけは展示をストップするわけにはいかないとして、絵画館や旧博物館で臨時の展示を続行。今年(2009年)10月16日、新博物館がオープンすると、その目玉として展示されることになりました。おそらく、このことが今回の返還要求のきっかけとなったのでしょう。

 ところで、このネフェルティティ像に関しては、スイスの美術史家、アンリ・スティルランが“複製品”説を展開していることでも話題になりました。すなわち、スティルランによれば、この像は、“発見者”のボルハルトが、王妃が所有していたネックレスを実際に身につけさせ、さらに発掘現場で見つかった古代の顔料の着色試験も兼ねて彫刻家ゲラルト・マルクスに作らせたものだというのです。

 その根拠として、スティルランは、①左眼が彫られていない(像を本人と見なしていた古代エジプト人にとっては不敬にあたる)、②肩が19世紀以降の垂直方向にカットされている(古代エジプトの彫像は、一般に肩が水平方向にカッティングされている)、③発掘現場に居合わせたフランス人の考古学者らは、胸像について一切言及しておらず、発見に関する記録も残していない、④極めて重要な発見にもかかわらず、ボルハルトは詳しい報告をしていないばかりか、この胸像をスポンサーの自宅に10年間も放置していた、ことなどを挙げています。そして、“複製品”がドイツの皇太子に絶賛されてしまったことで、ボルハルトは真実を告げる勇気をなくしてしまったのだとスティルランは主張しています。

 もっとも、胸像は石の本体にしっくいが塗られているという構造のため、科学的に制作年代を推定することは不可能なのだとか。もし、この像が複製品だったとしたら、それでもエジプト側は返還を要求するんでしょうかねぇ。


 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さん(当日は彼女のCDも販売します)による生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。

      トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行      古館由佳子 古館由佳子さん

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです。)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。
      料理は下の画像のようなイメージで、ブッフェ・スタイルです。
      ルーマニアのワイン(もちろん飲み放題)も出ます。

       ルーマニア料理

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、キュリオマガジン編集部まで、電子メール(info@fujimint.com)にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

  総項目数552 総ページ数2256  
  戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結!

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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 ドイツ連邦議会60年
2009-09-07 Mon 17:13
 1949年9月7日にドイツの第1回連邦議会が開催されてから、きょうでちょうど60年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 西ドイツ・第1回連邦議会

 これは、1949年9月7日にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発行した第1回連邦議会開会の記念切手で、復興のための建設を象徴するデザインが描かれています。

 1945年5月、第二次大戦に敗れたドイツは、米ソ英仏の四カ国によって分割占領されました。その後、東西冷戦の進行とともに、米軍占領地区と英軍占領地区は占領円滑化のため合同してバイゾーンを形成。さらにこれにフランス軍占領地区が加わってトライゾーンを形成し、ソ連軍占領地区との亀裂が深まっていきます。

 ところで、占領下のドイツではハイパー・インフレが進行していたため、1948年6月20日、米英仏の3国は、英米仏各占領地区で独自に発行されていた通貨を統合してトライゾーンでの統一通貨(ドイツマルク)を発行。これに対して、ソ連側も6月24日に東ドイツマルクを発行するとともに、ドイツマルクを使用する西ベルリンを経済封鎖することで対抗しました。いわゆるベルリン封鎖です。

 しかし、アメリカを中心とする西側占領軍当局が、西ベルリン地区住民を救済するため、大規模な空輸作戦を展開したため、最終的にソ連も妥協を余儀なくされ、1949年5月、ベルリン封鎖は解除されました。

 一連のベルリン危機を通じて、ソ連と西側諸国との対立は決定的なものとなり、1949年5月8日、西ドイツの憲法制定会議がドイツ連邦共和国基本法を可決し、同月23日、米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足します。そして、9月7日の連邦議会開会、9月13日のテオドール・ホイス大統領就任、9月15日のコンラート・アデナウアー首相就任を経て、ドイツ連邦共和国が正式に発足しました。これに対抗して、ソ連が占領地域でドイツ民主共和国を成立させたのは、同年10月7日のことです。

 こうして、1990年のドイツ統一にいたるまで東西ドイツが併存することになるのですが、現在のドイツは、旧東ドイツの各州がドイツ連邦共和国に加入するという形式で行なわれたため、建前としては、新国家ではなく、旧西ドイツが東側へも領域を拡大したものということになっています。

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 酒で棒に振る
2009-02-18 Wed 18:15
 7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見でろれつの回らない不明瞭な受け答えをした中川昭一財務相兼金融担当相が、きのう(17日)、責任を取って辞任しました。今回の失態に関して、ご本人は「風邪薬を多めに飲んだ」と釈明していますが、過去にも飲酒が原因とみられる失態を度々演じてきたとされる御仁だけに、真偽のほどはともかく、マスコミなどでは飲酒が原因とする論調が主流を占めているようです。

 というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 飲酒運転防止(ドイツ)

 これは、1972年に西ドイツ(当時)が発行した25ペニヒの普通切手で、酒とグラスの下にひっくり返った車のデザインで、飲酒運転の禁止を訴えています。この時期の西ドイツの普通切手は、“事故防止”を統一テーマに、額面ごとに“火の用心”とか“飲酒運転禁止”などを表現したデザインとなっています。日常的に使われている切手を通じて、生活の安全に対する注意を促すというのは、なかなか、良いアイディアなんじゃないかと思います。切手をメディアとして使うというと、すぐに、特定のイデオロギーや国策を宣伝するどぎつい切手を連想しがちですが、こういう内容だったら、反対する人は少ないでしょう。

 国際政治の場において、わざと強い酒を飲ませて判断力を鈍らせるというケースは歴史的にもなかったことではありません。たとえば、第二次大戦後の東西冷戦の枠組みを確定したヤルタ会談では、すでに病身のルーズベルトに対して、スターリンは自らのグラスには水で薄めたウォッカを入れておいて、盛んにウォッカの乾杯構成をかけたことはよく知られています。ルーズベルトがスターリンに対して結果的に大幅に譲歩したと評されるヤルタ会談ですが、その背景には、アルコールが体に残っていたことによる判断力の低下というようなこともあったのかもしれません。

 また、古くはボルジア家から最近ではウクライナのユシチェンコ大統領まで、政治家の世界に置毒はつきものですから、今回のG7に関しても、中川氏の失脚を望む勢力が、彼のグラスに睡眠薬を混ぜるなどの工作をしたという可能性もゼロとは言い切れないでしょう。

 ただ、報じられている範囲では、前大臣が嵌められたという見方はほぼ皆無のようで、むしろ「さもありなん」という声が強いところを見ると、結局、最後の最後は日頃の言動がモノを言ったということなんでしょうね。

 いずれにせよ、国のハンドルを握っている立場の人たちは、くれぐれも、「酒は飲んでも飲まれるな」ということを肝に銘じておいていただきたいものです。


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 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(右上の画像:山内和彦さん撮影)が掲載されました。記事はこちらでお読みいただけます。
 
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 ベルリンでの演説
2008-07-26 Sat 09:17
 アメリカ民主党の大統領候補に内定しているバラク・オバマが中東・欧州を歴訪し、24日にはベルリンのブランデンブルク門近くで演説し、市民ら約20万人が集まったのだそうです。このニュースを聞いて、その昔、ジョン・F・ケネディがベルリンで演説したエピソードを思い出しましたので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ケネディ・ベルリン訪問

 これは、1963年6月のケネディのベルリン訪問記念の印が押されたカバーです。

 東西冷戦下の1961年8月、いわゆるベルリンの壁が建設され、西ベルリンの周囲は封鎖され、自由な交通は阻害されてしまいます。当時、西ベルリン市民は占領国の米英仏が何らかの対抗措置を打ち出すものと信じていましたが、壁はあくまでも東側の領域内で行われており、西ベルリン側に対する侵略行為はなかったため、西側諸国には手の出しようがないというのが実情でした。これに対して、西ベルリン市民は、西側諸国から見捨てられたとの思いを抱くようになります。

 こうした中で、当時、アメリカ大統領だったケネディは、壁の建設が始まって約2年後の1963年6月に西ベルリンを訪問。市民も熱狂的な歓迎を受ける中、シェーネベルク地区の市庁舎前で演説を行います。その時の演説で、彼は「『私は一ベルリン市民である』――この言葉こそ、現在、自由世界において最も誇らしくいえる言葉だ」との名文句をはいています。

 ちなみに、ケネディのスピーチライターであったテッド・ソレンソンは、現在80歳で存命というばかりか、実は、オバマのスピーチライターをしているそうです。なるほど、オバマ陣営が、やたらと自らをケネディのイメージと重ね合わせようとする演出(かなり無理がありますが)を行っている一因は、こんなところにもあったんですな。

 * カウンターの不具合で、昨日以前のPV数表示がゼロになってしまいました。累計分はそのまま残っていますし、本文をご覧いただく分には支障はないのですが、ご不便・ご迷惑をおかけすることがありましたら、ご容赦ください。

 トーク・イベントのご案内
 8月2・3日(土・日)に東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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