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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 二の酉
2018-11-13 Tue 01:18
 きょう(13日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、鳥が描かれたキューバの切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      エドゥアルド・アベラ『農民』

 これは、1967年にキューバが発行した国立博物館収蔵美術品シリーズのうち、エドゥアルド・アベラの『農民たち』を取り上げた1枚で、描かれている6人の農民のうち、2人が鶏を抱えています。

 キューバの現代美術を代表する画家の1人、エドゥアルド・アベラは、1889年、キューバ島西部、アルテミサ州サン・アントニオ・デ・ロス・バーニョスで生まれました。1921年、サン・アレハンドロ美術アカデミーを卒業し、その後、スペインおよびフランスに留学。パリ滞在中、ジュール・パスキン、マルク・シャガールと親交を結び、彼らから強い影響を受けつつも、キューバ独自の題材を取り上げた作品を描いて注目を集めました。

 1930年にキューバに帰国すると、スペイン語で“間抜け”を意味する“ボボ”という名のキャラクターをつくり、当時のマチャド独裁政権を批判する風刺漫画を発表して人気を博しました。マチャド政権退陣後の1930年代後半には、初期ルネサンスとメキシコの壁画運動を意識した自然主義的な画風を生み出し、高い評価を得ました。今回ご紹介の切手に取り上げられた『農民たち』は1938年に発表された作品で、アベラの代表作というだけでなく、キューバの現代美術を作品の一つとされています。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 11月16日(金) 全国切手展<JAPEX 2018> 於・都立産業貿易センター台東館
 15:30- 「チェ・ゲバラとキューバ革命」 *切手展の入場料が必要です

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 “ヤラの叫び”150年
2018-10-10 Wed 00:35
 キューバ第1次独立戦争(十年戦争)の発端となった事件、“ヤラの叫び”が、1868年10月10日に起きてから、150周年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・セスペデス(1968)

 これは、“ヤラの叫び”から100周年になるのを記念して、キューバ革命政府が設定した“闘争の年(=1968年)”の記念切手のうち、ヤラの叫びと指導者のカルロス・マヌエル・デ・セスペデスを描いた1枚です。

 1820年年代、ラテンアメリカの植民地を失ったスペインは、フィリピン、プエルトリコなどとともに“最後の植民地”としてのキューバを維持しようとしていました。

 しかし、キューバ島内の地主たちの中には、権威主義的で旧態依然たるスペインの植民地政府とその腐敗・無能に不満を持つ者も多く、1867年、彼らはキューバ使節団の本国国会への派遣を求めましたが、スペイン側はこれを拒否。このため、1868年10月10日、急進派の中心人物で、キューバ島南東、オリエンテ州(現グランマ州)のヤラの地主で製糖工場を経営していたセスペデスは、自らの工場の奴隷を解放して147人の叛乱軍を組織し、スペインからの独立と奴隷の解放を宣言しました。これが、“ヤラの叫び”と呼ばれる事件で、1878年まで続く“十年戦争”の開幕を告げる狼煙となります。

 ヤラでの蜂起は数日間でほぼ鎮圧されましたが、叛乱軍は州内のバヤモに移動して要塞を構築。オリエンテ州を拠点にキューバ東部全体に勢力を拡大します。その後、バヤモは1869年1月12日に陥落しましたが、1月に入ると叛乱は中部カマグエイ州にも波及し、カマグエイ州で開催された議会は、4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスをキューバ共和国の初代大統領に選出しました。

 その後、セスペデスは独裁を批判されて1873年10月27日に解任され、1874年2月27日、山中に潜伏していたところをスペイン軍に殺害されます。しかし、独立派の抵抗は続き、1878年2月10日に締結された停戦協定では、キューバ植民地の財務状況を改善するための諸改革が約束されたほか、スペイン国会へのキューバ代表権も認められました。ちなみに、10年にも及ぶ内戦では、双方の死者 20万、物的損失は7億ドルにも上っています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、キューバ革命の歴史的背景として、19世紀の独立戦争の時代についても簡単にまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

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 敬老の日
2018-09-17 Mon 02:31
 きょう(17日)は“敬老の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ヘミングウェイ生誕100年

 これは、1999年にキューバが発行した“アーネスト・ヘミングウェイ生誕100年”の記念切手で、ヘミングウェイの肖像と、彼の代表作『老人と海』を思わせる小舟と巨大なカジキが描かれています。

 『老人と海』は、1951年に執筆、1952年に出版された作品で、ヘミングウェイはこの作品により、1954年のノーベル文学賞を受賞したと評価されています。

 キューバで暮らす老漁師のサンティアゴは、85日にわたる不漁の後、1人で小舟に乗ってメキシコ湾に出かけると、久しぶりに大物のカジキがかかり、4日間の長期戦の末に獲物を仕留めます。ところが、カジキが大きすぎて舟に引き上げられなかったため、舟の横に縛りつけて港へ戻ろうとしたものの、今度は魚を狙う鮫に幾度となく襲われ、ようやく漁港にたどりついたとき、仕留めたカジキは鮫に食い尽くされ、ほとんど骨だけになっていました。

 物語のあらすじをごく簡単に要約するとこんな感じになりましょうか。

 さて、ヘミングウェイは、キューバ・ハバナ郊外のサンティアゴ・デ・パウラの邸宅、“フィンカ・ビヒア”で人生の3分の1にあたる約22年間を過ごしており、『老人と海』を含む主要作品の大半はキューバで執筆されました。

 キューバを愛した彼は、革命戦争の混乱期こそキューバを離れたものの、1959年1月に革命が達せられると、再会第一便の飛行機でキューバの飛行場に降り立ち、キューバ国旗にキスをして「俺はヤンキーじゃないんだ」との第一声を発しています。

 なお、ヘミングウェイがフィンカ・ビヒアで『老人と海』の執筆に勤しんでいた、革命以前のキューバについては、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ナミビアの日
2018-08-26 Sun 06:23
 きょう(26日)は、1966年8月26日、南西アフリカ人民機構 (SWAPO) によるナミビア解放闘争が始まったことにちなんで、国連が制定した“ナミビアの日(ナミビア国内では“英雄の日”)です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ナミビアの日(1982)

 これは、1982年のにキューバが発行した“ナミビアの日”の切手で、切手上部には“SWAPO”の文字も入っています。

 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。

 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。

 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とする決議が採択されましたが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。

 これに対して、南西アフリカでは民族解放組織としてSWAPO が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。

 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。

 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されましたが、南ア政府はその後も“南西アフリカ”の支配を継続しました。

 ところで、ナミビアに隣接するアンゴラは、長年、ポルトガルの植民地支配に対する独立運動が展開されていましたが、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、独立後の新政権は、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体のものとなるとみられていました。

 ところが、親ソ政権の発足を嫌った米国がFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、米国は、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAも支援します。その際、米国とUNITAの窓口になったのが、南アでした。

 南アの国民党政権は反アパルトヘイトの国民運動を弾圧し、その結果、アフリカ民族会議(ANC)の一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していました。なかでも、MPLAとANCは密接な関係にあり、南アのアパルトヘイト体制にとって直接の脅威になると国民党政権は考えていたのです。

 さらに、中国も反ソという観点から、ソ連が支援するMPLAに対抗してUNITAを支援するという混沌とした状況ができあがりました。

 南アは実行支配下に置いていたナミビアを拠点にアンゴラ内戦に介入。ナミビアとアンゴラの国境地帯では、南ア国防軍とキューバ軍およびMPLAが対峙することになります。

 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言したものの、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。

 こうした状況の下、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000の兵力を派遣し、南ア軍をナミビアに押し戻します。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施していました。

 こうして、ナミビア問題がアンゴラ内戦とリンクする状況が続く中で、1988年、クイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成しました。


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 山の日
2018-08-11 Sat 00:32
 きょう(11日)は“山の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ゲバラ没後40年・ボリビア山中

 これは、2007年にキューバで発行された“チェ・ゲバラ没後40年”の記念切手のうち、ボリビア山中での野営地でのゲリラたちの集合写真を取り上げた1枚(右から3人目がゲバラです)です。

 1965年2月、「別れの手紙」を残してキューバを去ったゲバラは、新たな革命の地を求めてコンゴ動乱に馳せ参じ、約1年間、軍事政権に対抗する左翼反乱軍に参加しました。しかし、反政府勢力首脳部の腐敗と堕落に幻滅した彼は、“世界革命”の理想を抱えてコンゴから撤退し、チェコスロヴァキアを経てラテンアメリカに戻り、1966年11月、独裁政権下のボリビアに潜入。革命に向けての“アンデス計画”を展開します。

 アンデス計画は、(実際の地理的条件を無視すれば)ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルからほぼ等距離にあるボリビア北部の山岳地帯を拠点に、現地の農民を革命兵士に育て上げ、訓練施設を拡充し、ついで近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育し、その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を広げていくという壮大なものでした。

 しかし、現地のボリビア共産党や先住民の農民は“よそ者”のゲバラに対して非協力的で、ゲバラらは山岳地帯でゲリラ戦を展開したものの勢力を拡大できないまま、1967年10月8日、ゲバラは戦闘でふくらはぎを負傷。ケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)渓谷で捕縛された後、ラ・イゲーラ村の小学校に移送され、翌9日、銃殺されました。最期の言葉は、銃殺をためらう政府軍兵士に対して発せられた「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」でした。

 その後、ゲバラの遺体は、ヴァジェ・グランデ市内に運ばれ、しばらく晒しものにされた後、密かにヴァジェ・グランデの滑走路に埋められました。

 ゲヴァラの殺害から28年が経過した1995年、遺体の処理に関わった元軍人のバルガス・サリナス(事件当時の階級は大尉。最終的に将軍まで昇進)は、伝記作家のインタビューに答えて、ゲバラの埋葬場所を公表。当初、ボリビア陸軍はサリナス証言を否定し、サリナスに対して“元将軍”の地位と名誉を剥奪する処分を下しましたが、当時のボリビア大統領、ゴンサロ・サンチェスは、ゲヴァラの埋葬場所を観光資源化することを考え、遺体の捜索を約束します。

 こうして、1995年11月、キューバとアルゼンチンから専門家チームが現地に派遣され、発掘作業が開始。1年半後の1997年6月29日、遺骨が発見されました。

 発掘されたゲバラとキューバ人同志たちの遺骨は、それぞれ、木棺に収められた後、キューバ国旗に包まれ、ハヴァナへと空輸されました。遺骨は、ハヴァナ市内中心部の革命広場で盛大な帰還式典が行われた後、新たに建設されたサンタ・クララ霊廟の地下に収められ、現在に至っています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』ですが、諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、大変申し訳ございません。刊行日や値段などの詳細につきましては、近々、このブログでもご案内できる要因あると思いますので、よろしくお願いします。


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 キューバ革命記念日
2018-07-26 Thu 11:23
 きょう(26日)は、1953年7月26日にフィデル・カストロらがモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げたことにちなみ、キューバの革命記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・7月26日運動(1961)

 これは、1961年にキューバが発行した“モンカダ兵営襲撃事件8周年”の記念切手で、「7月26日 平和と社会主義のために」の文言と、黒と赤の“7月26日運動(M26)”の旗を背景に、鳩を手にした人物が描かれています。

 1952年、キューバの大統領選挙に立候補したフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバルは、オルトドクソ党のロベルト・アグラモンテ候補を相手に苦戦を続けていました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。

 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタは、米国政府・企業、カジノ経営時代に関係を築いたマフィアと結託し、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めることになりました。

 これに対して、アウランティコをはじめとする既成政党はバティスタに対して話し合いでの政権交代を要求するなかりでした。翌1953年1月にはオルトドクソ党の党大会が開かれ、政権奪取のための具体的な活動計画が討議されるはずでしたが、党内対立から、反バティスタで党がまとまることもありませんでした。

 こうして、キューバ国民の間に政治に対する閉塞感が蔓延していくなかで、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨、バティスタを憲法裁判所に告発しましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。

 そこで、フィデルは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、バティスタ打倒のためには、既成政党とのしがらみのない若者を動員することが重要と考え、地下放送を通じて同志を募り、クレー射撃の練習を装い、ハバナ大学の施設を利用して、約1200名の反バティスタの活動家を訓練しました。

 彼らが極秘裏に標的と定めたのは、キューバ第2の都市、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営でした。

 当時のフィデルらにはバティスタ政権を一挙に打倒できるだけの実力はなかったため、彼らは、兵営を占拠して政権に不満を持つ一般国民に民衆蜂起を呼びかけ、あわせて、兵営の一般兵士からも同調者を集め、地方に拠点を築くというのが現実的なプランでした。このため、首都ハバナにあるキューバ最大の兵営、コルンビア兵営を襲撃して政権を打倒するというプランは採用されず、ハバナから遠く離れたモンカダ兵営を革命派の拠点として確保することが目標とされました。

 また、サンティアゴ・デ・クーバでは、毎年7月下旬の一週間、カーニヴァルが開催されていますが、1953年は7月25-26日がその期間に含まれていました。カーニヴァルの期間中の市内の混雑は、フィデルらにとって、官憲の目をかいくぐって騒擾を起こすのに格好の機会でした。

 かくして、7月26日未明、シボネイ農場に集まった若者たちに、襲撃の目標(兵営の武器確保、軍通信機器の利用による情報の撹乱)が伝達され、フィデルが指揮する90人がモンカダ兵営の襲撃を、アベル・サンタマリーア率いる21人が兵営に隣接するサトゥリーノ・ローラ市民病院を、フィデルの弟、ラウルが指揮する10人が裁判所広場を襲撃すべく出発しました。また、ニコ・ペロス率いる22人(5人不参加)の別動隊は、サンティアゴ・デ・クーバサンチャゴから80キロ離れたバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス要塞を襲撃して通信網を破壊し、政府軍とモンカダとの連絡を途絶させる計画でした。

 一方、フィデルらを迎え撃つモンカダ兵営には、事件当時、将校88人、兵士288人、農村警備隊26人、計402人が勤務していました。これは、叛乱側の3倍弱にあたります。

 午前4時45分、若者たちは政府軍を偽装した軍服に着替え、16台の車に分乗してサンティアゴ市内に向かいましたが、車を運転していたスタッフの中にはサンティアゴ市内の地理に不案内な者もおり、市内に入ったところでほぼ半数がはぐれてしまいました。

 こうした中で、レナド・ギタルら3人の先遣隊がモンカダ兵営の第3検問所に到達し、軍服姿で敷地内に侵入することに成功しましたが、歩哨の一人が不審に思って警報ボタンを押しため、警備車両が兵営周辺を巡回を開始。そこへ、フィデルら主軸部隊を乗せた車が検問所に向かう脇道に入ってきたため、警備兵との間でいきなり戦闘が始まりました。

 フィデルの計画では、武力で圧倒的に劣る彼らは兵営を急襲し、10分以内に制圧することになっていたが、兵営側からの攻撃は15分以上続きました。この間、叛乱側の弾薬が尽きてしまったため、これ以上の襲撃が不可能になったと判断したフィデルは退却命令を出しましたが、戦闘で5人が犠牲になり、さらに、政府軍に捕えられた約56人が虐殺され、シボネイ農場にまで帰着したときには、叛乱側は60人ほどに減っていました。

 その後、あくまでも戦闘継続を主張して山へ向かったのは、フィデルら19人。彼らは政府軍の追及を逃れるべく、いくつかのグループに分かれて山中を彷徨していましたが、8月1日、ついに捕えられ、サンティアゴ・デ・クーバの駐屯地に連行され、ボニアート監獄に収監されました。ちなみに、駐屯地ではなく、兵営に連行された者たちは、その場で虐殺されています。

 バティスタ政権はフィデルらによるモンカダ兵営襲撃事件を闇に葬り去るべく、当初は裁判も行わなかった。ところが、襲撃事件に参加し、政府軍に虐殺された若者の多くは、家族に襲撃計画を全く話していなかったため、“行方不明”となった息子を探す親たちが続出したことから、。急遽、緊急法廷第37号事件の名目で、1953年9月21日、サンティアゴ裁判所でモンカディスタ(モンカダ襲撃事件に加わり、生き残った人々)に対する裁判が始まりました。

 裁判の結果、10月6日、ラウルら26人のモンカディスタは禁錮3年から13年の有罪判決を受け、ハバナ州南方、ピノス島のモデーロ監獄に収監されました。

 一方、事件の首謀者としてのフィデルの裁判は、10月16日、事件現場の一つ、サトゥリーノ・ローラ市民病院付属の看護学校の一室で、100人の兵士が包囲する中で行われます。フィデルの担当弁護士は入廷を拒否されたため、弁護士資格を持つフィデルは自らの弁護を担当し、事件後の軍による虐殺の実態を明らかにしました。

 そのうえで、クーデターで誕生したバティスタ政権は非合法であり、立憲主義に反していること、1933年のマチャド独裁政権崩壊以来、バティスタが米国政府・資本の走狗として国家を私物化してきたことを激しく非難。1940年憲法に加え、トマス・アクィナス、マルティン・ルター等の宗教思想やロック、ルソー、モンテスキュー以来の近代政治思想史をも引用し、兵営の襲撃は人民の抵抗権によるものであるとして、その目的は兵士との戦闘にあるのではなく、兵営の選挙によって国民に蜂起を呼びかけることにあったと主張します。

 さらに、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50パーセントへの引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げ、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との一文で、最終弁論を締めくくりました。

 結局、フィデルは禁錮15年の有罪判決を受け、1953年10月17日、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。

 しかし、モデーロ監獄には、すでに26人のモンカディスタが収監されており、フィデルは裁判の弁論を再構成した“モンカダ綱領”を食事の際に供されるライムの汁で紙に記し、獄中の秘密ルートを通じて外部の協力者に渡した。一足先に釈放されていたメルバ・エルナンデスは、1954年10月頃、カストロからの秘密書簡を、アイロンを使った“あぶり出し”の手法で解読し、それを印刷して『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の書名で地下出版します。その数は1万部にも達し、独立運動発祥の地であるキューバ島東部ではフィデルの声望が高まりました。

 一方、バティスタは、政権の正統性に疑問を呈するフィデルらの主張を打ち消すために、1954年11月1日に大統領選挙を実施。露骨な不正選挙により再選を果たすと、自らの独裁体制維持への絶対の自信から、寛大なる為政者のポーズを示すべく、モンカディスタを除く政治犯の恩赦を決定します。これに対して、選挙区民を通じてフィデルの国民的な人気を肌で感じていた議員で構成される上下両院は、バティスタ退陣後の選挙のことも考えて、バティスタの反対を押し切って恩赦法を採択し、これにより、1955年5月16日、フィデルをはじめとするモンカディスタはモデーロ監獄から釈放されました。

 ピノス島からハバナへ向かう船中、モンカディスタは革命運動組織として“7月26日運動(M26)”の結成で合意。その後、M26のメンバーはメキシコに亡命し、反バティスタの革命運動を本格的に開始することになります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、タイトル通り、1959年のキューバ革命について、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 * 昨日、アクセスカウンターが194万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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 父の日
2018-06-17 Sun 02:29
 きょう(17日)は“父の日”です。というわけで、“母の日”の時と平仄をあわせて、キューバ切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マルティ生誕150年(父子)

 これは、2004年にキューバで発行された“ホセ・マルティ生誕150周年”の記念切手のうち、生後間もない息子の“ペピート”ことホセ・フランシスコを抱くマルティが描かれています。

 キューバ独立運動の志士、マルティは1869年に反逆罪で投獄された後、1871年にスペインに渡り、以後、フランス、ニューヨーク、メキシコ、グアテマラを転々としていましたが、1878年、第一次独立戦争休戦後のキューバに戻り、カルメン・サヤス・バサンと結婚。同年11月22日、息子のペピートが生まれました。

 1895年、第二次独立戦争の緒戦でマルティは亡くなりますが、1897年、18歳になったペピートは父の遺志を継ぎ、母親の反対を押し切って、独立戦争に志願兵として参加。1902年にキューバ共和国が成立すると、いったんは除隊してハバナ大学への入学を目指しましたが、学資が捻出できなかったこともあり、国軍に参加。最終的に将官にまで昇進し、参謀長、国防大臣などを歴任しましました。1945年没。

 なお、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、フィデル・カストロと1959年の革命に大きな影響を与えたホセ・マルティについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れている同書ですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


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 世界海洋デー
2018-06-08 Fri 14:04
 きょう(8日)は、「海の重要性に気づき、感謝する日」という“世界海洋デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・グランマ国立公園(2003)

 これは、2003年にキューバで発行された“エコ・ツーリズム”の切手のうち、“グランマ号上陸記念国立公園”を取り上げた1枚です。

 1956年11月25日深夜、フィデル・カストロらキューバ革命の志士たちはグランマ号でメキシコのトゥスパンを出航し、1週間後の12月2日明け方、キューバ島オリエンテ州(当時)ラス・コロラダス海岸に上陸しました。

 ラス・コロラダス海岸を含むシエラ・マエストラ西側斜面の石灰岩段丘は、石灰岩の海岸段丘としては世界最大規模の高低差540メートル(海抜標高360メートルから水深180メートル)があり、その景観と地学上の重要性、多様な動植物相で知られています。

 なお、オリエンテ州は、1976年、グランマ号の上陸地点の所在地であることにちなみ“グランマ州”に名称が変更されましたが、その後の1986年、ラス・コロラダス海岸を含む418.63平方キロの範囲が“グランマ号上陸紀念国立公園”に、さらに、1999年、そのうちのクルス岬を含む325.76平方キロの範囲が“クルス岬の海岸段丘地形”として世界遺産にも登録されました。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、グランマ号上陸記念国立公園の名前の由来となったグランマ号上陸事件とその関連の切手・絵葉書も、いろいろとご紹介しております。正式な刊行日等、同書についての詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 おかげさまで13周年
2018-06-03 Sun 11:10
 外遊中だったのでご挨拶が少し遅れましたが、おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、13年が過ぎました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、毎年恒例、13周年にちなんで額面13の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・プラヤヒロン3周年(鷲)

 これは、1964年4月、キューバが“プラヤ・ヒロン勝利3周年”を記念して発行した13センタボ切手で、撃ち落とされる米国の象徴、鷲が描かれています。

 1959年のキューバ革命後、米国とキューバの関係が日に日に悪化していく中で、1961年11月8日、アイゼンハワーからケネディへの政権交代を間近に控えた米国はキューバと断交し、ラテンアメリカ諸国の大半がこれに追随します。

 1960年の米国大統領選挙を通じて、民主党のケネディ、共和党候補のリチャード・ニクソンの両候補はいずれもキューバに対して“弱腰”ではないことを示すため、(その時期は明言しなかったものの)政権悪徳後は軍事介入する意向を明らかにしていましたが、選挙後まもない1960年11月17日、大統領当選者のケネディに対して、CIA長官のアレン・ダレスは、亡命キューバ人がグアテマラ国内でキューバ上陸作戦のための軍事訓練を受けていることを報告。ケネディも計画をそのまま進めるよう指示を出しています。

 この時までに、革命を逃れてフロリダに渡ったキューバ難民の数は10万に達しており、CIAの計画は、そうした亡命キューバ人の中から有志を募り、革命政権転覆の尖兵として利用というものでしたが、じつは、キューバ側もその中にスパイを潜り込ませ、CIAの動きをかなり正確に把握していました。

 はたして、1961年1月20日、ケネディが正式に米国大統領に就任すると、キューバ政府は警戒態勢に入り、ゲバラはキューバ最西部のピナール・デル・リオに移動し、同軍管区を担当することになりました。侵攻が西側から、すなわち、大陸に最も近い海岸から行われるとすれば、彼の担当地域が最初に敵を迎え撃つことになります。

 ピナール・デル・リオに着任したゲバラは、前年の東欧諸国歴訪の体験を踏まえて、「ソ連をはじめ、全ての社会主義国が我々の主権を守るために戦争に入る必要があることは広く知られている」としたうえで、「我々は皆、我々がこれまで最も憎んできた敵、アイゼンハワーの後継者がわずかでも知的であることを望む」とケネディ宛のメッセージを発しました。

 1961年4月初旬、カストロは在米亡命キューバ人の中に潜入したスパイからの情報で米国の侵攻がいよいよ間近に迫っていることを察知し、潜在的な反政府勢力と見なした人々を一斉摘発。後にカストロはテレビ演説で「すべての容疑者、何らかの理由で事を起こす可能性のある者、反革命運動に与する行動あるいは動きを示す可能性のある者を逮捕するしかなかった。こうした手段を取る場合、いくらかの不当な行為があるのは当然だ」と弁明していますが、非常時を口実に、正規の法的手続きを踏まずに、体制にとって害をなす“可能性のある者”を逮捕した恐怖政治の先例は、その後、常態化していくことになります。ただし、この時点では、その点について米国以外の西側“進歩的文化人”が警鐘を鳴らすことは全くありませんでした。

 また、当時のキューバ島内では、中部エスカンブライ山中を拠点に、反政府勢力(その中には、カストロらとともに反バティスタの革命を戦ったものの、革命政府の“左傾化”に反対して、フィデルと袂を分かった人々も少なからずいました)がゲリラ闘争を展開していたため、カストロは、大規模な掃討作戦を展開し、エルカンブライ山中の反政府勢力を完全に包囲しています。キューバ島に上陸した敵が、山中の反政府勢力と提携する可能性を事前に摘んでおくためです。

 さらに、グアテマラ南西部のレタルレウでは、反カストロ軍の“2506部隊”にキューバの工作員が訓練キャンプに潜入し、隊長のペペ・サン・ロマンに対する叛乱も煽ったため、CIAによる上陸計画には遅延が生じ、その間、カストロはじっくりと対策を練ることができました。

 一方、CIAのプランでは、まず、キューバの空軍基地を爆撃して制空権を確保したうえで、米空母エセックスの掩護を受けた2506部隊2000人がエスカンブライ山麓のサパタ地区に上陸。橋頭保を築いたうえで、フロリダを拠点とする“革命評議会(その首班は、元首相のカルドナです)”が上陸し、臨時政府の樹立を宣言。米国と他のラテンアメリカ諸国が承認するという段取りになっていました。

 こうして、1961年4月10日、CIAに率いられた亡命キューバ人部隊約1500人はグアテマラからソモサ独裁政権下のニカラグアに移動。15日には、「カストロの鬚をお土産に」とのソモサの軽口を聴きながらニカラグアを飛び立ったB26戦闘機8機がキューバを爆撃し、コルンビア、サン・アントニオ・ボラーニョスとサンティアゴ・デ・クーバの空軍基地が爆撃されたほか、首都ハバナでは住宅密集地への爆撃により、病院の入院患者に死者が出ています。ただし、事前に攻撃を予想していたキューバ側は、滑走路にダミーないしは廃棄寸前の飛行機を置き、飛行可能な戦闘機は各地に分散して隠しておいたため、キューバの空軍兵力はほとんど無傷のままでした


 空爆のあった当初、米政府は「爆撃は米国への亡命を希望する元キューバ空軍のパイロットによるものだ」と説明していましたが、真相はすぐに明らかになり、米国の事件への関与も明らかになってしまいます。

 翌16日、カストロは「真珠湾攻撃の時、日本政府は“攻撃していない”という嘘はつかなかった」として米国を非難。そして、米国との対決姿勢を鮮明に示すため、ついに、「キューバ革命は社会主義革命である」と宣言しました。

 これに対して、国際的な非難を恐れたケネディは、2回目以降の空爆を中止するよう、軍とCIAに命令しましたが、キューバ側の防衛力を過小評価し、事態を楽観視していた彼らは、当初の予定通り、4月17日、キューバ島中部南海岸のプラヤ・ヒロン(米側の呼称はピッグス湾)に2506部隊を上陸させます。

 きれが、いわゆる“プラヤ・ヒロン侵攻事件”です。

 しかし、連絡の不備から、エセックスの艦載機が現場に到着したのは2506部隊の上陸から1時間後のことで(CIAが攻撃時間をニカラグアの現地時間で伝えたのに対して、米海軍はそれを1時間の時差があるワシントン時間で伝えるというミスを犯していました)、その間、キューバ側は虎の子のT33ジェット練習機4機で制空権を確保しつつ、民兵を動員して敵の侵攻を食い止めました。上陸部隊とキューバ側民兵の士気の差は歴然としており、19日午後5時半、革命軍はプラヤ・ヒロンを確保し、2506部隊は撤退しました。

 反革命軍の完全撤退を受けて、4月24日、フィデルはテレビに出演して勝利演説を行いましたが、その中には、次のようなフレーズもありました。

 ケネディは「わが国の海岸から160キロのところで社会主義革命が起きるのを許すことはできない」といったが、我々は海岸から160キロのところに資本主義国家があることに耐えている。
 国が大きいからといって小国との紛争を解決するのに実力を用いる権利があるわけではない。

 プラヤ・ヒロン湾侵攻事件は、“アメリカ大陸における帝国主義の初めての敗北”であり、米西戦争以来、百年の恨みを晴らしたカストロの権威は、キューバ国内のみならず、全世界の反米=左派勢力にとって揺るぎないものとなりました。同時にそのことは、キューバ国内において、カストロに対する異論・反論を完全に封じ込める結果ももたらしています。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、プラヤ・ヒロン事件とその関連の切手・絵葉書も、いろいろとご紹介しております。正式な刊行日等、同書についての詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 みどりの日
2018-05-04 Fri 01:56
 きょう(4日)は“みどりの日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マエストラ山脈

 これは、2003年にキューバで発行された“エコ・ツーリズム”の切手のうち、緑に覆われたシエラ・マエストラ(マエストラ山脈)を取り上げた1枚です。
 
 シエラ・マエストラは、キューバ島南東のクルス岬からマイシ岬まで、東西250キロにも及ぶキューバ島最大の山脈です。キューバ最高峰のトゥルキーノ山(2005m)も、この山脈に属しており、山中には、銅・マンガンなど豊富な鉱山資源が埋蔵されています。

 山脈の東に位置するサンティアゴ・デ・クーバは、1953年7月26日、フィデル・カストロは同地にあったモンカダ兵営を襲撃。これが、キューバ革命の発端となりました。

 また、1956年12月2日、グランマ号に乗ったフィデルら革命組織の“7月26日運動(M26)”は、シエラ・マエストラ西側のラス・コロラダス海岸に上陸。昼間はサトウキビ畑などに隠れ、夜間にのみ行軍してトゥルキーノ山頂を目指しました。

 しかし、飛行機を通じて“不審船”の動きを探知していたバティスタ政府は、砂糖キビの食べかすなどから叛乱軍の足跡をたどり、12月5日の昼頃、アレグリーア・デル・ピノで反乱軍を迎撃。この時の戦闘で叛乱側の兵士多数が犠牲になり、捕虜となった者は虐殺されました。ただし、バティスタ政権の圧政に苦しめられてきた農民の中には叛乱側を支持する者も少なからずおり、そうした農民の指導者の一人であったクレスセンシオ・ペレス・モンタノは、ラウルら叛乱側の兵士を保護。12月17日、ラウル・カストロ(フィデルの弟)ら6人のグループは、元オルトドクソ党員のシンコ・パルマスの農場で、前日に同農場に逃れついていたフィデルらと合流しました。

 こうして、フィデルら3人とラウルら6人の9人に地元の農民3人が加わり、以後のゲリラ戦の母体となる“伝説の12人”が形成されます。その後、グランマ号で上陸したチェ・ゲバラ、フアン・アルメイダ、カミーロ・シエンフエゴスら7人も合流し、20日には17人が武器8丁でゲリラ戦の訓練を開始。翌21日、農民の志願兵などを加えた計29人がシンコ・パルマスを出発し、シエラ・マエストラ山中での本格的なゲリラ戦が始まりました。

 以後、叛乱軍はシエラ・マエストラ山中に解放区を樹立してバティスタ政権と戦い、1959年1月にはバティスタ政権を崩壊させて革命を成就させます。

 なお、シエラ・マエストラ山中でのカストロとゲバラの戦いについては、5月末に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明する予定です。正式な刊行日等、同書についての詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 


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