内藤陽介 Yosuke NAITO
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原油先物が2年ぶりの大幅安
2018-07-12 Thu 08:36
 今月9日、リビア国営石油が不可抗力条項に伴い閉鎖していた石油輸出港4施設を再開し、数時間内に生産・輸出量を通常水準に戻すと発表したことで、きのう(11日)、原油先物相場は急落。米中貿易摩擦の高まりによる需要への悪影響もあり、1日としては2年ぶりの下げ幅となる5%安となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・ズウェイティナ油田

 これは、1968年にリビアが発行した“ズウェイティナ石油ターミナル”の切手です。
 
 リビアはアフリカ第1位(世界第9位)の原油埋蔵量(約471億バーレル)を誇る資源大国ですが、独立以前は農業国で、1951年の独立後、1955年から油田開発が進められ、1959年に産油国となりました。

 王政時代の油田開発の中心になったのはオクシデンタル・ペトロリウム社等の国際石油資本で、ゼルテン、サリール、アマルなどを有する東部のキレナイカはリビア最大の油田地帯となりましたが、1969年の革命後、石油産業は国有化され、リビア国営石油の管理下に置かれています。

 リビアの油田は陸上シルテ盆地・キレナイカに存在し、海上油田からも生産していますが、なかでも、今回ご紹介の切手のズウェイティナと、ラス・ラヌフ、エスシダーのターミナルが三大石油積出港とされています。また、リビアの輸出の9割は石油関連ですが、貿易黒字を維持するために輸出量は調節されています。

 1970-80年代、リビアは300万BD(バレル/日)を超える原油生産量を誇っていましたが、パンナム機爆破事件により1992年から1999年まで行われた国連の経済制裁により生産量が低下。さらに、2011年の内戦の影響により、160万BDあった原油生産量がほぼ停止に追い込まれます。内戦終結後の2012年5月には150万BDまで回復したものの、その後も不安定な治安状況が続いたため、2013年は25-80万BDの水準で推移。2016年には、ISことダーイシュによる石油貯蔵タンクへの攻撃もありましたが、徐々に石油施設が再開され、同年11月には約50万BDの生産量を取り戻します。

 その後、128万BDにまで増産が進んだものの、ことし(2018年)2月、武力衝突が発生。リビア東部を実効支配するハリファ・ハフタル将軍の武装組織は、対立する武装勢力から奪還した港湾の管理権を、ベンガジの別の石油当局に引き渡したため、85万BD前後の輸出が停止されていました。このため、7月10日の時点での生産量は52万7000BDと、半年足らずの間にほぼ半減していましたが、今回の施設再開により、ことし2月の水準に回復することが見込まれたため、今回の急落につながったというわけです。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 世界の切手:リビア
2018-05-22 Tue 03:23
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』4月25日号が発行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はリビア(と一部コモロ)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・レプティスマグナ

 これは、1934年にイタリア領リビアで発行された“トリポリ見本市”の記念切手のうち、レプティス・マグナ遺跡の傑作とされるクラウディウス帝の大理石像を取り上げた1枚です。

 レプティス・マグナはトリポリの東130kmの地点にあるローマ時代の都市遺跡。紀元前1100年頃、フェニキア人の入植者が建造し、紀元前146年の第三次ポエニ戦争の結果、ローマ領となりました。紀元後193年、当地出身のセプティミウス・セウェルスがローマ皇帝となると、大規模な建築事業が進められ、カルタゴ、アレキサンドリアに次ぐアフリカ第三の都市となりましたが、3世紀以降没落。7世紀以降は砂に埋もれていたところ、1921年に再発見されました。北アフリカ屈指のローマ都市遺跡として、1982年にはユネスコの世界遺産に登録されています。

 さて、『世界の切手コレクション』4月25日号の「世界の国々」では、1947年の独立にいたるまでのリビア近代史についてまとめた長文コラムのほか、ズウェイティナの石油ターミナル、イドリース1世、“リビア独立の父”ウマル・ムフタールの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のリビア(と一部コモロ)の次は、5月30日に発売予定の6月6日号でのビルマ(と一部バーブーダ)の特集です。こちらについては、発行日の6月6日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 第1次インティファーダ30年
2017-12-09 Sat 11:22
 1987年12月9日に第1次インティファーダが始まってから、きょうで40周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・インティファーダ支持

 これは、1988年にリビアがインティファーダ支持の意思を示すために発行した“パレスチナの石の革命”の切手で、中央には岩のドームのシルエットを背景に投石する少年が描かれています。

 1967年の第三次中東戦争以来、イスラエルの占領下に置かれつづけてきたヨルダン川西岸とガザ地区では、占領から20年が経過した1987年になると、大いに閉塞感が漂っていました。

 すなわち、レバノン南部では1985年にヒズブッラーの“殉教作戦(自爆テロ)”によって、部分的にせよ、イスラエル軍を占領地から撤退させることに成功していましたが、ヨルダン川西岸とガザ地区の状況には何ら変化がありませんでした。

 また、1985年にPLOとヨルダン政府の間で成立したアンマン合意も、結局、PLO内部の反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めなかったため、1986年、ヨルダンはこれを白紙撤回し、和平工作の中断を宣言しています。

 こうして、パレスチナ住民の不満と閉塞感が鬱積していく中で、1987年12月8日、ガザ地区で、帰宅途中のパレスチナ人が乗った車が反対車線に乗り入れたイスラエルの軍用トラックと正面衝突し、パレスチナ人4名が死亡し、7名が重軽傷を負う交通事故が発生。ちなみに、この時の事故で、軍用トラックの乗員は全員無傷でした。

 この事件を機にガザ地区の空気は一挙に緊張。翌9日、難民キャンプの一パレスチナ人青年が、日頃の鬱積した不満からイスラエル兵に投石したことをきっかけに、パレスチナ住民とイスラエル兵との大規模な衝突に発展しました。

 その際、イスラエル兵が17才のパレスチナ人少年を射殺したことから、パレスチナ人住民は憤激。少年の葬儀は、やがて、自然発生的な暴動となり、大量の石やガラス瓶などがイスラエル兵に向かって投げつけられることになります。

 こうして、イスラエル軍の催涙ガスやゴム弾に対して、投石と火炎瓶で抵抗する“石の革命”、インティファーダ(アラビア語の原義は蜂起)が始まり、イスラエルの占領下で生まれ育った十代の少年を中心に、ヨルダン側西岸とガザ地区のイスラエル占領地域全域で、老若男女を問わず、パレスチナ住民による抵抗が拡大しました。

 イスラエルにとって、インティファーダを鎮圧するための膨大なコストは経済を大きく圧迫。さらに、インティファーダに共感するイスラエル本土のパレスチナ人の大規模なストライキが頻発したこともあって、1987年には5.2%だったイスラエルのGDP成長率は、インティファーダ発生後の1988年には1%台に急落しています。

 また、強圧的な弾圧によってインティファーダを鎮静化できなかったことで、イスラエルは、パレスチナ人による自治権の要求は武力で抑え込めるものであり、考慮の必要はないとするそれまでの前提を再検討せざるを得なくなりました。

 さらに、“石つぶてで銃に立ち向かう少年たち”の姿が国際社会の耳目を集めるようになったことで、従来、欧米がイスラエルに対して持っていた“野蛮なアラブ世界に対する西洋文明の防波堤”もしくは“中東唯一の民主国家”とのイメージも大きく揺らぎます。1967年12月の国連決議を無視してヨルダン川西岸とガザ地区の占領を続け、抵抗する少年たちに銃撃するイスラエル軍に対しては、アラブやムスリムだけでなく、西側諸国からも強い批判がありました。『旧約聖書』のダヴィデとゴリアテの物語になぞらえるのなら、ダヴィデの子孫を自称するイスラエルこそが現代のゴリアテであり、パレスチナ人の青年たちがダヴィデであるかのように感じたクリスチャンも多かったのです。

 一方、インティファーダの発生はPLOの指導部にも大きな衝撃を与えています。

 インティファーダの参加者たちは、イスラエルの存在を認めた上で、パレスチナ人としての権利を獲得することを主張していましたが、これは、パレスチナを遠く離れたテュニスを本拠に、イスラエルを破壊してパレスチナ全土を解放するというPLOの非現実的な路線の転換を求めるものだったからです。すくなくとも、PLOが“パレスチナ”を代表する存在ではないことを、ほかならぬパレスチナ人がみずから示したことのインパクトは大でした。

 こうした情勢の変化を受けて、インティファーダ発生から約1年後の1988年11月、アルジェで開催されたパレスチナ国民評議会(PNC)では、東エルサレムを首都とする“パレスチナ国”の独立宣言を採択。イスラエルの存在そのものを否定する従来の路線を放棄する代わりに、インティファーダで獲得した国際的認知を国家樹立という具体的な成果に転化することがPLOの新たな基本方針となりました。

 さらに、アルジェでのPNC開催から1ヶ月後の1988年12月、ジュネーヴで開かれた国連総会に出席したアラファトは、イスラエルの承認とテロの放棄などを言明して、国際社会、特に米国の支持を取り付けようとします。しかし、長年にわたってテロ活動を展開してきたPLOとアラファトに対するイスラエルの不信感は容易には拭いがたかったことに加え、もはや弱体化したPLOを完全に見下していたイスラエルは、PLOの歩み寄りに対して冷淡な姿勢をとりつづけました。

 その一方で、レバノン侵攻作戦の挫折とインティファーダの発生により、イスラエルにおいても、パレスチナ人を武力で弾圧するだけでは問題が解決しないことを認識する勢力も出てくるようになりました。

 ところで、1987年12月に第一次インティファーダが発生すると、パレスチナのイスラム主義勢力もこれに加わり、武装闘争を展開するようになります。

 1970年代以前のパレスチナでは、反イスラエルの武装闘争は世俗主義を掲げるPLO系の組織が中心で、ムスリム同胞団は主として救貧や医療などの社会活動を担い、武装闘争には慎重でした。ところが、第一次インティファーダが勃発すると、ムスリム同胞団パレスチナ支部は、1987年12月14日、アフマド・ヤースィーンを中心に行動組織の“イスラム抵抗運動”を結成しました。

 イスラム抵抗運動は、アラビア語では“ハラカ・ムカーワマ・イスラーミーヤ”となり、そのアラビア文字の頭文字を取って“ハマース”との略称が広く通用するようになります。なお、ハマースという単語自体は、アラビア語で“激情”を意味します。

 当初、イスラエルはPLOの対抗勢力としてハマースの創設を背後から支援したとも言われていますが、結果的に、ハマースはジハード運動と共に、パレスチナでの反イスラエルの武装闘争の急先鋒として、ガザ地区を拠点に勢力を拡大。1990年代以降のパレスチナ問題における主要なプレイヤーとなっていきます。

 なお、第1次インティファーダ以降のパレスチナ現代史については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月16日から公開予定の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 岩のドームの郵便学(52)
2017-07-19 Wed 09:47
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』649号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1994年のパレスチナ自治政府発足に対するリビアの反応について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・インティファーダ(1995)

 これは、1995年11月29日にリビアが発行した“インティファーダ8周年”の記念切手です。

 オスロ合意からパレスチナ自治政府設立にいたる一連の和平プロセスに対して、エジプトなどがこれを肯定的に受け止める一方、対イスラエル強硬派の急先鋒だったリビアは露骨に不満の意を示していました。

 すなわち、1991年の湾岸戦争に際して、リビアのカダフィ政権はPLOとともにイラク支持を表明した数少ない国の一つとして、サッダーム・フサインの唱えたリンケージ論にも賛意を示していました。ちなみに、当時のカダフィ政権は、パレスチナで反イスラエル活動を継続するハマースに資金援助しています。

 そうした立場をとってきたカダフィ政権からすれば、PLOがイスラエルとオスロ合意を結び、パレスチナの一部地域でのみ自治を開始したことは、まさにはしごを外された格好になったわけです。

 このため、PLOとアラファトの裏切りに激怒したカダフィは、1994年9月1日、革命記念日の演説で、彼らへの抗議の意思を示すため、リビア国内在住のパレスチナ人に国外退去を求める意向を表明します。その建前は、あくまでも、アラファトとPLOがパレスチナに帰還した以上、パレスチナ人も祖国に帰還すべきであるというものでしたが、現実には、パレスチナ自治政府の支配地域には、在外パレスチナ人の期間を受け入れるだけの経済的・物理的余裕がないのは誰の目にも明らかでした。したがって、いきなりパレスチナへの“帰還”を求められたリビア在住のパレスチナ人の多くは、大いに困惑しつつも、当初はカダフィ特有のブラフだろうと楽観的に考えていたようです。

 ところが、1994年12月から1995年2月にかけて、①リビア国内の各省庁から労働省に提出されていた労働契約更新のリストからパレスチナ人の除外、②各省庁から労働省に提出されていた新規の(パレスチナ人の)雇用契約の差し戻し、③パレスチナ人には新規の在住許可をあたえず、更新も認めない、④パレスチナ人のリビア入国の拒否とその周知、⑤いったん国外に退去したパレスチナ人の再入国禁止、等の措置が相次いで打ちされます。

 このため、エジプトとの国境地帯にパレスチナ人が押し寄せたほか、海路、シリア、レバノンに脱出しようとするパレスチナ人が続出しましたが、各国はいずれもパレスチナ人の“難民”としての入国を認めなかったため、多くのパレスチナ人がリビア=エジプト国境の砂漠地帯や地中海上に留め置かれることになりました。

 結局、10月26日、カダフィがパレスチナ人“追放令”を撤回したことで事態は収拾に向かうのですが、カダフィのこうした姿勢は、オスロ合意とそれに基づいて発足したパレスチナ自治政府の正当性を認めず、その統治を拒否するハマースを側面から支援することになっていきます。

 一方、イスラエル国内でも、オスロ合意とパレスチナ自治政府をパレスチナ側に対する過剰な譲歩として批判する声は右派勢力を中心に少なくありませんでした。そうしたなかで、1995年11月4日、テルアヴィヴで開催された平和集会に参加した首相のラビンが、ユダヤ民族至上主義を奉じるイガール・アミンによって暗殺されてしまいます。殺害の動機について、アミンは「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と語りました。ただし、そのユダヤの律法では、ユダヤ人がユダヤ人を殺すことは明確に禁じられています。

 ラビン暗殺を受けて、リビア国営ジャマヒリア通信は「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」とするカダフィの歓迎声明を発表。それを補足するかのように、今回ご紹介の切手では、岩のドームを背景にイスラエルに対する抵抗運動を展開する人々が描かれており、ラビン暗殺後の混乱に乗じて、反イスラエルのテロ/武装闘争を煽動しているかのような印象を与えるものとなりました。

 はたして、1996年1月、自治政府の国家に相当するパレスチナ評議会の選挙が行われることになりましたが、ハマース、イスラム聖戦、ヒズボラなどイスラム原理主義勢力は選挙をボイコットし、テロ活動を激化させていきます。

 そうした中で、ラビンの暗殺後、緊急閣議で暫定内閣の首相代行を経て、首相(2度目)に就任したのは、外相として和平プロセスを進めていたシモン・ペレスでしたが、1996年3月3-4日、和平に反発するパレスチナの過激派が2度の自爆テロを起こし、30人のイスラエル人が死亡すると、対パレスチナ強硬派のリクード連合を基盤とするベンヤミン・ネタニヤフがそれを材料に労働党政権を批判。さらにレバノンのヒズボラもイスラエルを攻撃するなど、治安が急激に悪化したことが要因となって、1996年4月の首相公選では、ペレスはネタニヤフに敗れ、政権を失うことになります。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 ベンガジ解放
2017-07-06 Thu 08:47
 リビア東部の実力者で民兵組織“リビア国民軍”を率いるハリファ・ハフタルは、きのう(5日)、同国第2の都市ベンガジからイスラム過激派組織を駆逐し、ベンガジを“完全解放”したと宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・ベンガジ加刷

 これは、1911年に発行された“ベンガジ”加刷切手です。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 この間、1901年3月、イタリアはベンガジに郵便局を開設し、同年7月には本国切手に“BENGASI”の地名と現地通貨の額面を加刷した切手を発行しました。

 その後、1911年に伊土戦争が勃発し、現在のリビアの地域がオスマン帝国からイタリアに割譲されると、ベンガジを含むイタリア領リビアでは“Libia”加刷の切手が使用されるようになります。

 イタリアの支配下で、キレナイカでは港湾整備が進み、多くのイタリア人が移住。第二次大戦中は戦略上の要衝として英独が古語に占領しましたが、最終的に英国の占領下に置かれます。その後、1949年には、内陸部を拠点に独立運動を展開していたイスラム神秘主義のサヌーシー教団のイドリース1世が、リビア東部、キレナイカの独立を宣言すると、ベンガジはその首都となりました。

 このキレナイカと、隣接するイタリアの植民地だったトリポリタニア(西北沿岸部)とフェザーン(西南内陸部)が連合し、1951年にリビア連合王国を結成して独立したのが現在のリビア国家の原点です。

 王制時代のリビアでは、上記のような事情から、ベンガジはトリポリとともに首都となり、国王と政府機関は季節によって両首都を使い分けていましたが、1969年、カダフィの革命で王制が廃止されると、トリポリのみが首都となり、ベンガジは首都としての地位を失います。こうしたこともあって、ベンガジはカダフィへの支持が低く、2011年の内戦の際には、ベンガジが反カダフィ派の拠点になり、反体制派組織“リビア国民評議会”の本部も置かれていました。

 カダフィ政権崩壊後の2012年3月6日、リビア東部の有力部族や民兵組織の指導者らがベンガジで会議を行い、“キレナイカ暫定評議会”の樹立を宣言。トリポリを拠点とする国民評議会とは別に、旧キレナイカ地域での自治を行うことを決定します。これに対して、国民評議会は彼らの行為を国家を分断するものとして非難し、対立が続いています。

 こうした中で、2014年7月、ベンガジの政府軍特殊部隊の本部をイスラム系武装勢力のアンサール・シャーリアが襲撃し、同施設を占領。以後、リビア国民軍とアンサール・シャリーアおよび彼らを支援するイスラム過激派との戦闘が続いていました。なお、リビア国民軍はトリポリ政府の正統性を認めておらず、キレナイカ暫定評議会を支持していますので、トリポリ政府からすると、ベンガジに彼らの統制が及ばない状況には変わりありません。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。よろしかったら、ぜひ会場にてご覧ください。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

  6月29日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第5回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲があるため、少し間が開いて7月27日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、29日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 岩のドームの郵便学(17)
2014-05-16 Fri 14:56
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』535号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第3次および第4次中東戦争の戦間期のアラブ世界の状況のうち、リビアにスポットをあてました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・岩のドーム(1973)

 これは、1973年1月10日、リビアで発行された岩のドームの切手です。

 1969年9月1日、エジプトの西隣に位置するリビアでムアンマル・カッザーフィー(以下、カダフィ)陸軍大尉がクーデターを起こし、政権を掌握しました。

 現在のリビア国家の枠組は、1949年にサヌーシー家のイドリース1世が独立を宣言したキレナイカ(現在のリビア国家のほぼ東半分に相当)と、イタリアの植民地だったトリポリタニア(西北沿岸部)およびフェザーン(西南内陸部)が連合し、1951年にイドリース1世を元首とするリビア連合王国を結成して独立したことによってできあがりました。

 親西側政策を採ったイドリース1世の治世下では、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められ、産油国として莫大な石油収入が流入しましたが、一部の特権階級に富が集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、生活は貧しいままでした。

 そうした国民の不満を背景に、イドリース1世の外遊中にクーデターを起こしたカダフィは、思想的にはエジプト革命に感化されたナセル主義者でした。ちなみに、クーデター当時のカダフィの実際の階級は大尉でしたが、尊敬するナセルが大佐を自称(実際は少佐)していたのを真似て、“大佐”を自称するようになったのが“カダフィ大佐”という呼称のもとになったといわれています。

 イドリース1世時代のリビアは、一般の国民感情としてはともかく、現実の政策としてパレスチナ問題に対してなんら積極的なアクションを起こしていませんでしたが、カダフィは、1970年にナセルが亡くなると、その衣鉢を継いで汎アラブ主義の後継者を自認し、PLO やその傘下のテロ組織を支援して反イスラエルの旗印の下でアラブ諸国を糾合しようとします。

 当時、ファタハPFLPのテロ活動の背後にはリビアの影が見え隠れすることも珍しくはありませんでした。その典型的な事例が、いわゆるミュンヘン五輪事件です。

 ミュンヘン五輪開催中の1972年9月5日、ファタハが組織した秘密テロ組織の“ブラック・セプテンバー”は、五輪選手村でイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求。銃撃戦の末、人質9名全員と警察官1名が死亡し、犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名が逮捕されました。

 ところが、同年10月29日、ブラック・セプテンバーのメンバー2人が、パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ615便をハイジャックし、人質となった乗客と交換に、ミュンヘン五輪事件で逮捕された3人の釈放を要求。これに対して、当時の西ドイツ政府は、イスラエル政府と協議することなく、即座にハイジャック犯の要求に応じ、収監中のブラック・セプテンバーのメンバー3人を釈放してしまいます。

 釈放された3人は、その後、“アラブの英雄”として堂々とリビア入りを果たしており、一連の事件にカダフィ政権が関与していることが明らかになりました。

 今回ご紹介の切手は、そうした“英雄”たちの凱旋を受けて、1973年1月10日に発行されたものです。さすがに、テロ行為を直接的に称揚するような文言はありませんが、アラブ世界において、岩のドームが“(シオニスト国家イスラエルの占領から)解放されるべきエルサレム”のシンボルとなっている以上、この時期にこうした切手を発行するのは、イスラエルに対する一種の勝利宣言と見ることも可能かもしれません。

 これに対して、切手発行から1ヶ月後の1973年2月21日、トリポリ発カイロ行きのリビアン・アラブ航空114便が悪天候のため既定のルートを外れ、イスラエル占領下のシナイ半島上空を通過した際、イスラエル空軍機は容赦なく同機を撃墜。乗員8名、乗客105名のうち副操縦士と乗客4名を除く108名が死亡する大惨事となりました。

 イスラエル当局は、イスラエル空軍による114便の撃墜は“不幸な偶然が重なった事故”として犠牲者の家族に対する賠償金の支払いを約束したものの、アラブ世界ではこれを額面通りに受け取る者は少なく、事実上、イスラエルによる報復措置と理解する者が大半でした。

 こうした経緯を経て、“事故”から7ヶ月余りが過ぎた1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発すると、カダフィ政権は、リビア国家として初めて、アラブ遠征軍に加わり、イスラエル軍と直接刃を交えることになります。

 * 昨日(15日)、よみうりカルチャー北千住にて行った「切手が語る台湾の歴史」は、無事、盛況のうち終了いたしました。ご参加いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 カダフィ大佐死亡
2011-10-20 Thu 23:52
 ロイターなどの報道によると、リビアの独裁者だったカダフィ大佐が、きょう(20日)、同国中部シルト付近の潜伏先で拘束された際の負傷が原因で死亡したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         リビア革命41周年

 これは、昨年(2010年)、リビアで発行された9月革命41周年の記念切手で、軍服姿で敬礼するカダフィの肖像が大きく取り上げられています。カダフィ単独の肖像切手としては、おそらく、これが最後のものになるのではないかと思いますが、確認しきれていません。

 9月革命というのは、エジプト革命に感化されたリビア陸軍のカダフィ大尉ひきいる自由将校団が、1969年9月1日に起こしたクーデターのことで、この結果、トルコに滞在中だった国王イドリース1世が退位し、カダフィを事実上の元首とする革命政府が誕生しました。以来41年以上にわたって、独裁者としてリビアに君臨したカダフィですが、ことし2月に反カダフィ派の蜂起が起こり、欧米諸国が反カダフィ派を支援するなかで、8月には首都トリポリからの撤退を余儀なくされ、独裁政権は崩壊。徹底抗戦を唱えつつも、ついに亡くなったというわけです。

 余談ですが、失脚する前のカダフィは、王族・皇族を除く現役の国家元首として最長の在職期間を誇っていましたが、カダフィの前に最長の在職期間を誇っていたガボンのボンゴ元大統領も2009年6月に病死し、1968年以来の超長期政権は41年で幕を閉じています。さらに、ボンゴ大統領の前のレコード・ホルダーだったキューバのカストロも、キューバ革命後の1959年2月から2008年2月に引退するまで国家評議会議長の座にあったのは41年間でした。こうしてみると、どんな独裁政権であっても、41年というのが限界なのかなと思ってしまいます。

 なお、カダフィ死亡が事実だとすると、現在、事実上の暫定政府として機能している国民評議会は、今後、リビアの全土制圧を宣言し、ついで、暫定政権の樹立や議会選挙の実施など民主化プロセスを実行に移すことになります。ただし、新生リビア国家の体制がきちんと固まるまでには、フセイン政権崩壊後のイラク同様、まだしばらく時間がかかることでしょう。

 いずれにせよ、現在のリビアの混乱は切手や郵便にも何らかの影を落としていることは間違いないでしょうから、関連するマテリアルが入手できれば、このブログでも機会を見つけてご紹介したいと思っています。

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 伊土戦争100年
2011-09-29 Thu 23:55
 現在のリビアの地域がオスマン帝国からイタリアに割譲される原因となった伊土戦争が1911年9月29日に勃発してから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        リビア加刷(紫)

 これは1912年に発行された“(イタリア領)リビア”加刷の15サンチーム切手です。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断し、1911年9月29日、トリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こしました。

 戦争の結果、1912年10月18日、オスマン帝国はローザンヌで開かれた講和会議でイタリアの要求を認め、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権をイタリアに譲渡。トブルクとベンガジの太守制度については形式的に維持されるものの、太守の任命にはイタリア王の裁可を必要とすること等が決められました。

 今回ご紹介の切手は、これにあわせてイタリア本国の切手に“LIBIA”の文字を加刷して発行された1枚です。このとき発行されたリビア加刷切手の大半は加刷文字が“Libia”となっていますが、今回ご紹介の15サンチームだけはすべて大文字表示となっています。また、加刷の色も、他は黒色ですが、15サンチームだけが紫色となっており、ちょっと異質な1枚といえます。

 ことしは伊土戦争から100周年ということで、リビアのカダフィ政権はリビアの民族主義を題材にしたロングセットの記念切手を発行したのですが、そのカダフィ政権も崩壊してしまいましたからねぇ。20年後の2031年あたりには、伊土戦争120周年とカダフィ政権崩壊20周年の切手が並んで発行されるようになるかもしれませんな。


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 トリポリ攻防戦はじまる
2011-08-21 Sun 23:13
 きのう(20日)、リビア反体制派による首都トリポリの攻略作戦が開始されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        イタリア・トリポリ加刷

 これは、1909年にイタリアの在トリポリ局で使用するために発行された切手で、“Tripoli di Barberia”の文字が加刷されています。加刷文字が単に“Tripoli”となっていないのは、レバノンの同名の都市との混同を防ぐためです。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断します。その準備の一環として、1909年にはトリポリに置かれたイタリアの郵便局で、加刷切手を持ち込んでの郵便が開始されました。

 その後、1911年9月29日、イタリアはトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こして、リビアを獲得することになります。

 さて、しばらく膠着状態が続いていたリビア情勢ですが、今回のトリポリ攻防戦の結果次第では状況が大きく動くかもしれません。このブログでも、折を見てリビアがらみのマテリアルをいろいろとご紹介していければ…と思っております。


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 多国籍軍のリビア攻撃はじまる
2011-03-21 Mon 22:47
 日本時間のきのう(20日)未明(現地時間19日)、国連安保理決議に基づく仏英米伊など多国籍軍のリビアへの攻撃が始まりました。というわけで、きょうはリビア関連でこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         フェザーン占領加刷

 これは、1943年にフランス占領下のフェザーンで発行された暫定加刷切手です。

 フェザーンは現在のリビア国家の西南内陸部に相当する地域で、西側はテュニジアおよびアルジェリアとの国境、南側はニジェールおよびチャド国境となっています。現在のリビアを構成するトリポリタニア(西北沿岸部)ならびにキレナイカ(東部)とともに1911年の伊土戦争でイタリアの結果、イタリアに占領されました。

 第二次大戦中の1940年11月、自由フランスのチャド軍司令官となったフィリップ・ルクレールは、翌1941年、チャドから出撃してイタリア領リビア南部のオアシス都市クーフラを占領。さらに、1942年12月、3000のチャド軍を率いてリビアに侵攻し、1943年1月にはトリポリを占領して、エジプトから来たイギリス中東軍と合流しました。

 こうして、フェザーン地域は自由フランスの占領下に置かれることになりましたが、これに伴い、フェザーンでは旧イタリア領リビア切手を接収して、今回ご紹介しているような加刷切手が発行されました。その後も、フェザーンはフランスの支配下に置かれ、1946年には正刷切手も発行されています。なお、フランス軍は1951年に撤退し、フェザーンは他の2地域とともにリビア連合王国として独立しました。

 現在のリビア攻撃に参加している仏英米伊の各国は、いずれも、リビアとは歴史的に因縁浅からぬ関係にあります。今後、リビア情勢の進展にあわせて、このブログでもリビアとそうした国々との歴史的関係を取り上げる機会も増えそうですが、きょうのところはまず、今回のリビア攻撃の急先鋒、フランスについて取り上げてみたという次第です。


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