内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 岩のドームの郵便学(17)
2014-05-16 Fri 14:56
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』535号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第3次および第4次中東戦争の戦間期のアラブ世界の状況のうち、リビアにスポットをあてました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・岩のドーム(1973)

 これは、1973年1月10日、リビアで発行された岩のドームの切手です。

 1969年9月1日、エジプトの西隣に位置するリビアでムアンマル・カッザーフィー(以下、カダフィ)陸軍大尉がクーデターを起こし、政権を掌握しました。

 現在のリビア国家の枠組は、1949年にサヌーシー家のイドリース1世が独立を宣言したキレナイカ(現在のリビア国家のほぼ東半分に相当)と、イタリアの植民地だったトリポリタニア(西北沿岸部)およびフェザーン(西南内陸部)が連合し、1951年にイドリース1世を元首とするリビア連合王国を結成して独立したことによってできあがりました。

 親西側政策を採ったイドリース1世の治世下では、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められ、産油国として莫大な石油収入が流入しましたが、一部の特権階級に富が集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、生活は貧しいままでした。

 そうした国民の不満を背景に、イドリース1世の外遊中にクーデターを起こしたカダフィは、思想的にはエジプト革命に感化されたナセル主義者でした。ちなみに、クーデター当時のカダフィの実際の階級は大尉でしたが、尊敬するナセルが大佐を自称(実際は少佐)していたのを真似て、“大佐”を自称するようになったのが“カダフィ大佐”という呼称のもとになったといわれています。

 イドリース1世時代のリビアは、一般の国民感情としてはともかく、現実の政策としてパレスチナ問題に対してなんら積極的なアクションを起こしていませんでしたが、カダフィは、1970年にナセルが亡くなると、その衣鉢を継いで汎アラブ主義の後継者を自認し、PLO やその傘下のテロ組織を支援して反イスラエルの旗印の下でアラブ諸国を糾合しようとします。

 当時、ファタハPFLPのテロ活動の背後にはリビアの影が見え隠れすることも珍しくはありませんでした。その典型的な事例が、いわゆるミュンヘン五輪事件です。

 ミュンヘン五輪開催中の1972年9月5日、ファタハが組織した秘密テロ組織の“ブラック・セプテンバー”は、五輪選手村でイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求。銃撃戦の末、人質9名全員と警察官1名が死亡し、犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名が逮捕されました。

 ところが、同年10月29日、ブラック・セプテンバーのメンバー2人が、パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ615便をハイジャックし、人質となった乗客と交換に、ミュンヘン五輪事件で逮捕された3人の釈放を要求。これに対して、当時の西ドイツ政府は、イスラエル政府と協議することなく、即座にハイジャック犯の要求に応じ、収監中のブラック・セプテンバーのメンバー3人を釈放してしまいます。

 釈放された3人は、その後、“アラブの英雄”として堂々とリビア入りを果たしており、一連の事件にカダフィ政権が関与していることが明らかになりました。

 今回ご紹介の切手は、そうした“英雄”たちの凱旋を受けて、1973年1月10日に発行されたものです。さすがに、テロ行為を直接的に称揚するような文言はありませんが、アラブ世界において、岩のドームが“(シオニスト国家イスラエルの占領から)解放されるべきエルサレム”のシンボルとなっている以上、この時期にこうした切手を発行するのは、イスラエルに対する一種の勝利宣言と見ることも可能かもしれません。

 これに対して、切手発行から1ヶ月後の1973年2月21日、トリポリ発カイロ行きのリビアン・アラブ航空114便が悪天候のため既定のルートを外れ、イスラエル占領下のシナイ半島上空を通過した際、イスラエル空軍機は容赦なく同機を撃墜。乗員8名、乗客105名のうち副操縦士と乗客4名を除く108名が死亡する大惨事となりました。

 イスラエル当局は、イスラエル空軍による114便の撃墜は“不幸な偶然が重なった事故”として犠牲者の家族に対する賠償金の支払いを約束したものの、アラブ世界ではこれを額面通りに受け取る者は少なく、事実上、イスラエルによる報復措置と理解する者が大半でした。

 こうした経緯を経て、“事故”から7ヶ月余りが過ぎた1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発すると、カダフィ政権は、リビア国家として初めて、アラブ遠征軍に加わり、イスラエル軍と直接刃を交えることになります。

 * 昨日(15日)、よみうりカルチャー北千住にて行った「切手が語る台湾の歴史」は、無事、盛況のうち終了いたしました。ご参加いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 カダフィ大佐死亡
2011-10-20 Thu 23:52
 ロイターなどの報道によると、リビアの独裁者だったカダフィ大佐が、きょう(20日)、同国中部シルト付近の潜伏先で拘束された際の負傷が原因で死亡したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         リビア革命41周年

 これは、昨年(2010年)、リビアで発行された9月革命41周年の記念切手で、軍服姿で敬礼するカダフィの肖像が大きく取り上げられています。カダフィ単独の肖像切手としては、おそらく、これが最後のものになるのではないかと思いますが、確認しきれていません。

 9月革命というのは、エジプト革命に感化されたリビア陸軍のカダフィ大尉ひきいる自由将校団が、1969年9月1日に起こしたクーデターのことで、この結果、トルコに滞在中だった国王イドリース1世が退位し、カダフィを事実上の元首とする革命政府が誕生しました。以来41年以上にわたって、独裁者としてリビアに君臨したカダフィですが、ことし2月に反カダフィ派の蜂起が起こり、欧米諸国が反カダフィ派を支援するなかで、8月には首都トリポリからの撤退を余儀なくされ、独裁政権は崩壊。徹底抗戦を唱えつつも、ついに亡くなったというわけです。

 余談ですが、失脚する前のカダフィは、王族・皇族を除く現役の国家元首として最長の在職期間を誇っていましたが、カダフィの前に最長の在職期間を誇っていたガボンのボンゴ元大統領も2009年6月に病死し、1968年以来の超長期政権は41年で幕を閉じています。さらに、ボンゴ大統領の前のレコード・ホルダーだったキューバのカストロも、キューバ革命後の1959年2月から2008年2月に引退するまで国家評議会議長の座にあったのは41年間でした。こうしてみると、どんな独裁政権であっても、41年というのが限界なのかなと思ってしまいます。

 なお、カダフィ死亡が事実だとすると、現在、事実上の暫定政府として機能している国民評議会は、今後、リビアの全土制圧を宣言し、ついで、暫定政権の樹立や議会選挙の実施など民主化プロセスを実行に移すことになります。ただし、新生リビア国家の体制がきちんと固まるまでには、フセイン政権崩壊後のイラク同様、まだしばらく時間がかかることでしょう。

 いずれにせよ、現在のリビアの混乱は切手や郵便にも何らかの影を落としていることは間違いないでしょうから、関連するマテリアルが入手できれば、このブログでも機会を見つけてご紹介したいと思っています。

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 伊土戦争100年
2011-09-29 Thu 23:55
 現在のリビアの地域がオスマン帝国からイタリアに割譲される原因となった伊土戦争が1911年9月29日に勃発してから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        リビア加刷(紫)

 これは1912年に発行された“(イタリア領)リビア”加刷の15サンチーム切手です。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断し、1911年9月29日、トリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こしました。

 戦争の結果、1912年10月18日、オスマン帝国はローザンヌで開かれた講和会議でイタリアの要求を認め、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権をイタリアに譲渡。トブルクとベンガジの太守制度については形式的に維持されるものの、太守の任命にはイタリア王の裁可を必要とすること等が決められました。

 今回ご紹介の切手は、これにあわせてイタリア本国の切手に“LIBIA”の文字を加刷して発行された1枚です。このとき発行されたリビア加刷切手の大半は加刷文字が“Libia”となっていますが、今回ご紹介の15サンチームだけはすべて大文字表示となっています。また、加刷の色も、他は黒色ですが、15サンチームだけが紫色となっており、ちょっと異質な1枚といえます。

 ことしは伊土戦争から100周年ということで、リビアのカダフィ政権はリビアの民族主義を題材にしたロングセットの記念切手を発行したのですが、そのカダフィ政権も崩壊してしまいましたからねぇ。20年後の2031年あたりには、伊土戦争120周年とカダフィ政権崩壊20周年の切手が並んで発行されるようになるかもしれませんな。


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 トリポリ攻防戦はじまる
2011-08-21 Sun 23:13
 きのう(20日)、リビア反体制派による首都トリポリの攻略作戦が開始されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        イタリア・トリポリ加刷

 これは、1909年にイタリアの在トリポリ局で使用するために発行された切手で、“Tripoli di Barberia”の文字が加刷されています。加刷文字が単に“Tripoli”となっていないのは、レバノンの同名の都市との混同を防ぐためです。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断します。その準備の一環として、1909年にはトリポリに置かれたイタリアの郵便局で、加刷切手を持ち込んでの郵便が開始されました。

 その後、1911年9月29日、イタリアはトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こして、リビアを獲得することになります。

 さて、しばらく膠着状態が続いていたリビア情勢ですが、今回のトリポリ攻防戦の結果次第では状況が大きく動くかもしれません。このブログでも、折を見てリビアがらみのマテリアルをいろいろとご紹介していければ…と思っております。


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 多国籍軍のリビア攻撃はじまる
2011-03-21 Mon 22:47
 日本時間のきのう(20日)未明(現地時間19日)、国連安保理決議に基づく仏英米伊など多国籍軍のリビアへの攻撃が始まりました。というわけで、きょうはリビア関連でこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         フェザーン占領加刷

 これは、1943年にフランス占領下のフェザーンで発行された暫定加刷切手です。

 フェザーンは現在のリビア国家の西南内陸部に相当する地域で、西側はテュニジアおよびアルジェリアとの国境、南側はニジェールおよびチャド国境となっています。現在のリビアを構成するトリポリタニア(西北沿岸部)ならびにキレナイカ(東部)とともに1911年の伊土戦争でイタリアの結果、イタリアに占領されました。

 第二次大戦中の1940年11月、自由フランスのチャド軍司令官となったフィリップ・ルクレールは、翌1941年、チャドから出撃してイタリア領リビア南部のオアシス都市クーフラを占領。さらに、1942年12月、3000のチャド軍を率いてリビアに侵攻し、1943年1月にはトリポリを占領して、エジプトから来たイギリス中東軍と合流しました。

 こうして、フェザーン地域は自由フランスの占領下に置かれることになりましたが、これに伴い、フェザーンでは旧イタリア領リビア切手を接収して、今回ご紹介しているような加刷切手が発行されました。その後も、フェザーンはフランスの支配下に置かれ、1946年には正刷切手も発行されています。なお、フランス軍は1951年に撤退し、フェザーンは他の2地域とともにリビア連合王国として独立しました。

 現在のリビア攻撃に参加している仏英米伊の各国は、いずれも、リビアとは歴史的に因縁浅からぬ関係にあります。今後、リビア情勢の進展にあわせて、このブログでもリビアとそうした国々との歴史的関係を取り上げる機会も増えそうですが、きょうのところはまず、今回のリビア攻撃の急先鋒、フランスについて取り上げてみたという次第です。


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 リビアのジョージ6世
2011-03-01 Tue 18:30
 きのう(日本時間28日)、第83回アカデミー賞の授賞式が行われ、英国王ジョージ6世を主人公とした『英国王のスピーチ』が作品賞と監督賞を獲得しました。というわけで、きょうはジョージ6世切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        KGVI トリポリタニア加刷

 これは、1948年にイギリス軍政下のトリポリタニアで発行された加刷切手です。

 トリポリタニアは、現在のリビアの首都・トリポリを中心としたリビア西北の沿岸地域で、1911年の伊土戦争の結果、オスマン帝国からイタリア王国へと割譲されました。第二次大戦中、連合国によって占領され、イギリスの管理下に置かれました。

 イギリス占領下での切手としては、1943年に“中東軍”を意味する“M.E.F.(=Middle East Forces)”加刷の切手が導入され、1948年まで使用されました。ただし、この“M.E.F.”加刷切手はトリポリタニアでのみ使用されたわけではなく、旧イタリア領のキレナイカやエリトリア、エチオピア、ソマリア、さらにはドデカネーゼ諸島などでも使用されています。

 その後、トリポリタニアでは1948年から、“M.E.F.”加刷切手に代わり、今回ご紹介するように使用地域を限定した“B.M.A.(=British Military Administration)TRIPOLITANIA”加刷の切手が発行されました。ちなみに、加刷文字は、1950年の民政移管により軍政を意味する“M”を削除した“B.A.TRIPOLITANIA”に変更されています。なお、額面の通貨単位“M.A.L.”は、連合軍占領下で流通させられていた軍政リラ(Military Authority Lire)の頭文字です。
 
 さて、緊迫が続くリビア情勢ですが、きのう(28日)、米財務省がリビアのカダフィ大佐や同国政府が保有する現金や証券など300億ドル(約2兆4600億円)の資産を凍結(米政府が発動した資産凍結措置としては過去最大の規模だそうです)していたことを発表したほか、イタリアが不可侵条項を含む条約を凍結し、イタリア駐留のNATO軍や米海軍第6艦隊による対リビア軍事行動に道を開くなど、国際的なカダフィ包囲網が着々と狭まりつつあります。

 今後、政権側と反政府勢力の内戦が激化し、国際社会が軍事介入したり、その結果として、リビアが軍事占領下におかれたりした場合、どんな切手が発行されるんでしょうかねぇ。個人的な好みとしては、やはり、最初は加刷切手から始めてほしいと思うのですが…。

* 2011年2月に頂戴した拍手の数の多かった記事のベスト3は以下のとおりです。ありがとうございました。
 1位(7票):クライスト・チャーチ
 2位(4票):味噌と醤油は大丈夫か大相撲がスポーツなら

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 リビアとキレナイカ
2011-02-25 Fri 13:19
 40年以上にもおよぶカダフィ独裁体制に対する大規模な抵抗運動が各地で起こっているリビアでは、すでに、東部地域は反政府勢力が掌握し、今後は、カダフィ政権と反政府側による首都トリポリの攻防戦が焦点となりそうな様相です。というわけで、まずはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        キレナイカ・リビア加刷

 これは、1951年に旧キレナイカ切手に“リビア”加刷をして発行された1枚で、元の切手にはラクダの遊牧民が描かれています。

 キレナイカは現在のリビア国家のほぼ東半分に相当する地域で、1911年の伊土戦争の結果、オスマン帝国からイタリア王国へと割譲され、第一次大戦後の1919年にイタリアの正式な植民地となりました。しかし、内陸部ではイスラム神秘主義のサヌーシー教団などが内陸部でイタリア支配に対する抵抗運動を展開。1949年には、そのサヌーシー家のイドリース1世が、キレナイカとして独立を宣言しました。

 このキレナイカと、隣接するイタリアの植民地だったトリポリタニア(西北沿岸部)とフェザーン(西南内陸部)が連合し、1951年にリビア連合王国を結成して独立したのが現在のリビア国家の枠組となりました。今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行されたものです。

 イドリース1世は、親西側政策を採り、1955年から国際石油資本によって石油開発が進め、ゼルテン、サリール、アマルなどの油田がアメリカ資本によって開発されたことで、キレナイカはリビア最大の油田地帯となりました。その一方で、産油国として莫大な石油収入は一部の特権階級に集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、生活は貧しいままでした。そのことに対する国民の不満を背景に、1969年9月1日、陸軍のカダフィ大尉ひきいる自由将校団がクーデターを起こし、カダフィを事実上の国家元首とする現在の政権ができあがったというわけです。

 政権を掌握したカダフィは、キレナイカが旧サヌーシー家の拠点だったということもあって、キレナイカを冷遇。リビアの石油資源はキレナイカが多くを占めるものの、石油収入のうちキレナイカに投資される額は抑えられてきました。このため、カダフィ政権が盤石であった時期でさえ、キレナイカでは潜在的な反カダフィ感情が根強く、特に、中心都市のベンガジでは、1990年代以降、いわゆるイスラム原理主義の影響も他地域に比べて強かったと言われています。 

 したがって、今回の反カダフィ運動が、まずは東部のキレナイカを拠点として盛り上がったというのもうなずける話です。今後、首都トリポリの攻防戦などでリビアが内戦状態に陥るのではとの懸念もありますが、仮に、反カダフィ派の旧キレナイカとカダフィ支配下の旧トリポリタニアで分裂することになったとしても、どちらも自分たちこそがリビアの正統政府を名乗るでしょうから、“キレナイカ”切手の復活というのは無理でしょうな。

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 “将軍様”と同い年
2010-09-19 Sun 20:10
 あす(20日)は敬老の日です。先日刊行した拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では、この切手をご紹介しつつカストロの老いの問題を取り上げましたが、もうひとつ高齢者(65歳以上)の独裁者といえば、この人のことも取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

         カダフィ(アフリカ連合)

 これは、2008年、アフリカ連合の指導者としてのカダフィをたたえるためにリビアが発行した切手です。

 1951年にイタリアの植民地支配から独立したリビアは、イドリース1世を国王とする連合王国としてスタートしました。国王は、親西側政策を採り、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められ、産油国として莫大な石油収入が流入しましたが、一部の特権階級に富が集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、国民の不満が高まっていました。

 こうした状況の下で、エジプト革命に感化された陸軍のカダフィ大尉ひきいる自由将校団が、1969年9月1日、クーデターを起こし、トルコに滞在中だった国王イドリース1世が退位。カダフィを事実上の国家元首とする革命政府が誕生しました。ちなみに、カダフィの陸軍での階級は大尉でしたが、尊敬するナセルが大佐を自称(実際は少佐)していたのを真似て、彼も“大佐”を自称したのが、現在の“カダフィ大佐”という呼称のもとになったといわれています。

 かくして誕生したカダフィの独裁政権は、2009年6月、大統領在職41年半という超長期政権だったガボンのボンゴ大統領がなくなったため、現在は共和体制下の最長政権のレコード・ホルダーになっています。

 権力を掌握したカダフィは、1970年に亡くなったナセルの汎アラブ主義の後継者を自任し、PLO(パレスチナ解放機構)を支援し、反イスラエルの旗印の下でアラブ諸国を糾合しようとしました。特に、1973年にエジプトを訪問した際には、当時のエジプト大統領だったサダトに対して、両国の国家統合を執拗に迫り、「サダトが合併に合意するまで帰国しない」と主張し、エジプト側を大いに困惑させています。

 ところが、1977年にエジプト=イスラエルの和解が成立すると、カダフィは即座にエジプトとの国交を断絶し、エジプトをアラブ連盟から追放。1981年、サダトが暗殺されると「いかなる暴君にも必ず終りがある。自由の戦士たちよ、おめでとう」と祝福の声明を出したほどです。

 一方、反イスラエル闘争への支援と並行して、カダフィは反米・反西側の姿勢を鮮明に掲げ、欧米諸国に対抗するテロ組織を支援してきました。そうしたなかで、1986年、西ベルリン(当時)で、米軍関係者が多数出入りしているディスコでの爆破事件が起きると、リビア政府が事件の黒幕であると断定したアメリカは、報復として、カダフィの暗殺を目的に、首都トリポリへの大規模な空爆を敢行。空爆の結果、トリポリ市内は破壊され、多数の民間人が犠牲になりましたが、カダフィ本人は逃げ延びました。これに対して、1988年、リビアは空爆への報復として米パンナム航空機爆破事件を起こし、270人もの死者がでています。

 このように、過激な言動から“砂漠の狂犬”、“アラブの暴れん坊”などとも呼ばれていたカダフィでしたが、1988年のパンナム機爆破事件の容疑者らの引き渡しを拒否したことで、1992年、国連安保理は制裁決議を採択。国内経済が疲弊してきたため、1999年4月、容疑者の引き渡しに応じるとともに、2003年には、リビアの国家としての事件への関与は否定しつつも、リビア人公務員(容疑者はリビアの情報機関に籍を置く人物だった)が起こした事件の責任を負うとして総額27億ドルの補償に合意しています。

 この間、2001年にアメリカで同時多発テロ事件が起こると、カダフィは、世界的なアル・カーイダ非難の論調を背景として、国内の反体制派イスラム組織“リビア・イスラム戦闘団”を徹底的に弾圧。また、2003年にアメリカがイラク戦争を起こし、サダム・フセイン政権が崩壊すると、カダフィは“次の標的”にされるのを恐れてか、核放棄を宣言。さらに、2009年にアメリカでオバマ政権が発足すると、パンナム機爆破事件などの遺族補償として15億ドルをアメリカに支払い、アメリカとの国交正常化を実現しました。

 もっとも、カダフィの対外姿勢がこのように軟化したからといって、彼の“狂犬”としての資質が緩和されたということではないようで、その奇矯な言動はあいかわらず世界のメディアに格好の話題を提供し続けています。

 たとえば、2009年の国連総会に出席したカダフィは、ホテルに宿泊せず、ニューヨーク郊外に伝統的なテントを張って野営。一般演説では、国連安保理を“テロ理事会”と批判して、演壇から国連憲章を投げ捨てて見せたほか、「オバマがずっとアメリカ大統領であれば良い。オバマはアフリカの息子であり私の息子でもある」、「ケネディ元大統領の暗殺はイスラエルの陰謀だ」、「新型インフルエンザは細菌兵器として軍事目的で作り出されたもの」などと主張。出席者はこれをまともに取り合わず、一種のジョークとして、会場は笑いに包まれたそうです。ちなみに、演説時間は1時間36分でしたが、オバマ以下、超多忙なアメリカ代表団は演説の始まる前に退席しています。

 1942年生まれのカダフィは、ことし68歳になります。同い年の“将軍様”こと金正日は病に倒れて健康不安説が飛び交っているのと比べると、「老いてますます…」というそのエネルギーには驚かされます。


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 リビア革命40年
2009-09-02 Wed 15:00
 1969年9月1日にカダフィ大佐が無血クーデターでリビアの権力を握ってから40周年になるのを記念して、きのう(1日)、首都トリポリで大々的な式典や軍事パレードなどが行われました。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 リビア革命直後のカバー

 これは、リビア革命直後の1969年10月17日、トリポリからアメリカのニューヨーク宛てに差し出されたカバーです。貼られている切手は王制時代に発行されたもの(KINGDOM OF LIBYA としっかり表示されています)ですが、特に加刷などはされていません。その代わりに、“リビア・アラブ共和国 郵便”との表示の入った大型の円形印が切手の上にべっとりと押されています。

 1951年にイタリアの植民地支配から独立したリビアは、イドリース1世を国王とする連合王国としてスタートしました。国王は、親西側政策を採り、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められ、産油国として莫大な石油収入が流入しましたが、一部の特権階級に富が集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、国民の不満が高まっていました。

 こうした状況の下で、エジプト革命に感化された陸軍のカダフィ大尉ひきいる自由将校団が、1969年9月1日、クーデターを起こし、トルコに滞在中だった国王イドリース1世が退位。カダフィ大佐を事実上の元首とする革命政府が誕生しました。ちなみに、カダフィの陸軍での階級は大尉でしたが、尊敬するナセルが大佐を自称(実際は少佐)していたのを真似て、彼も“大佐”を自称したのが、現在の“カダフィ大佐”という呼称のもとになりました。

 さて、ことしの6月、大統領在職41年半という超長期政権だったガボンのボンゴ大統領がなくなったため、現在は、カダフィ大佐が共和体制下の最長政権を維持している人物ということになります。カダフィが革命を起こした時は27歳でしたから、まだまだ67歳。同い年の“将軍様”は病に倒れてふらふらですが、大佐の方はまだまだ在職記録を伸ばしそうですな。


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 リビアの反米切手
2005-11-02 Wed 14:38
 昨日からはじまった「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 (10日まで東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館にて、10:00~16:30 3・5・6の各日には13:30から展示解説あり)は、今年6月に上梓した拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示を構成していますが、本では取り上げられなかったテーマや切手も一部、追加的に展示しています。

 その一例が、たとえば、こんな切手です。

リビアの反米

 これは、1988年、リビアがアメリカによるトリポリ空爆2周年を期して発行した小型シートです。

 1969年にリビアを掌握したカダフィ大佐は、反米・反西側の姿勢を鮮明に掲げて、欧米諸国に対抗するテロ組織を支援してきました。そうしたなかで、1986年、西ベルリン(当時)で、米軍関係者が多数出入りしているディスコでの爆破事件が起きると、リビア政府が事件の黒幕であると断定したアメリカは、報復として、カダフィの暗殺を目的に、首都トリポリへの大規模な空爆を行いました。空爆の結果、トリポリ市内は破壊され、多数の民間人が犠牲になりましたが、カダフィ本人は逃げ延びます。これに対して、1988年、リビアは空爆への報復として米パンナム航空機爆破事件を起こし、270人もの死者を出しています。

 切手は空爆から2年が過ぎ、パンナム機事件が発生した1988年に発行されたもので、瓦礫の山となったトリポリ市内のようす(上段左)や空爆の瞬間(上段右)、負傷した少女を見舞うカダフィ(中段右)等が取上げられているほか、シートの余白には“AMERICAN AGRESSION”の文字もはっきりと読み取れます。

 もっとも、僕なんかの目からすると、切手のデザインには、なんとなく出来損ないのアメコミの雰囲気が濃厚に漂っているような気がしてしまうのですが…。

 さて、この切手の実物は、10日(来週木曜日)まで開催中の「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展 の会場でごらんいただくことができます。この他にも、会場では拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を多数展示していますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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