内藤陽介 Yosuke NAITO
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 モロッコ、AU に(再)加盟
2017-01-31 Tue 22:03
 アフリカ連合(AU)は、きょう(31日)、エチオピアの首都アディスアベバでの首脳会議を開き、西サハラ問題をめぐって30年以上対立が続いていたモロッコの加盟を承認しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・OAU10年

 これは、1973年5月25日にモロッコで発行された“アフリカ統一機構10年”の記念切手です。

 1961年の時点で、アフリカの新興独立諸国は、急進派のカサブランカ・グループ(モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加)、旧仏領諸国の穏健派を中心としたブラザヴィル・グループ、そして、両グループのいずれにも属さないモンロヴィア・グループの3つの勢力に分かれていましたが、こうした中で、旧ベルギー領から1960年に独立したコンゴでは、当初から熾烈な内戦が展開されていました。東西両陣営が内戦諸派を支援していたということもあり、アフリカ諸国間の対立が大国の直接的な武力介入を招くことを懸念したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、汎アフリカ主義の旗手であったギニア大統領セク・トゥーレらとともに、アフリカ諸国の連帯・団結により、政治的・経済的発言力を強化するとともに、植民地主義と戦うことを目的とした国際組織の樹立に向けて動き出しました。

 こうして、1963年5月26日、エチオピアの首都アディスアベバにアフリカ諸国の首脳が集まり、所期の目的を達するための国際組織として、アフリカ統一機構(OAU)が設立され、モロッコもこれに参加しました。

 ところで、モロッコとモーリタニアは、いずれも、OAUが結成された1963年以降、スペイン領西サハラに対する領有権を主張していましたが、1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアのいずれも西サハラに対して領土権を有しないとして、その要求を退けています。これに対して、1975年11月、モロッコ国王、ハサン2世の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われ、モロッコは西サハラが“自国領”であることを改めてアピールしました。

 翌1976年、スペインは西サハラの領有を断念し、西サハラはモロッコとモーリタニアが“再統合”することになりましたが、これに対して、スペイン領時代の1973年から独立運動を続けていたサギア・エル・ハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェでサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言します。

 アルジェリアの支援を受けたポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定も締結されました。

 こうした中で、同年、OAUは、西サハラの住民が自決への権利を行使できるように住民投票の実施を呼びかけます。また、OAU加盟50ヵ国(当時)中、過半数の26ヵ国が1982年までにSADRを承認しました。

 西サハラ問題での国際的な圧力が強まる中、1981年6月に開催されたOAU首脳会議で、ハサン2世は西サハラで独立かモロッコへの帰属かを問う住民投票を行う意思があると表明。その背後には、住民投票の実施までに膨大な数のモロッコ人を西サハラに移住させ、あくまでも“民主的”な自由投票の結果、西サハラはモロッコに帰属するという結論を導き出そうという意図があったことは言うまでもありません。

 ハサン2世の提案を受けて、8月にケニアのナイロビで開催されたOAUの実務者委員会は、西サハラでの停戦と国連PKO部隊の派遣、OAUおよび国連の監視下で住民投票を行うまでの暫定統治機関の設置などを提案します。

 ここまでは、モロッコとしても予想の範囲内でしたが、翌1982年2月、エチオピアのアディスアベバで開催されたOAUの理事会では、当初の議事予定になかったSADRの加盟問題が取り上げられ、賛成多数でSADRの加盟が電撃的に承認されてしまいました。

 当然のことながら、住民投票の実施以前にSADRを独立国として扱い、モロッコによる西サハラ支配を全面的に否定するような決定に対して、モロッコは激怒し、モロッコに近い17ヵ国とともに、直ちにOAUの理事会を退席。さらに、1982年のOAUの年次総会は、8月にリビアのトリポリで開催される予定でしたが、上述のモロッコを含む18ヵ国に加え、リビアと対立していたエジプト、チャド(北部の内戦にはリビアが関与していた)が早々に欠席を表明します。

 当時のOAUの規定では、総会は(議長国を除き)加盟国の3分の2以上の出席をもって成立することになっていましたから、加盟50ヵ国中、最低でも(議長国を除き)30ヵ国の出席が必要でした。したがって、20ヵ国が欠席した時点で総会は成立しません。そこで、OAUは、当初の予定を延期して11月にも再度、総会を招集しましたが、やはり、定足数を満たすことができず、流会となりました。

 1982年の総会が流会となったことを受け、1983年6月、アディスアベバで開催されたOAU総会は、SADRの総会出席資格を一時的に停止するという便法を使うことで、何とか流会を免れます。その後、あらためて、同年12月、翌1984年9月に西サハラで住民投票を実施すべく実務レベルの協議が再開されたのですが、1984年2月には、長年、モロッコと共にSADRの存在を否認し続けてきたモーリタニアが、ついにSADRの独立を承認。西サハラ問題でモロッコは孤立してしまいます。

 これを受けて、強行突破でSADRを総会に参加させてしまえば、モロッコも妥協せざるを得ないとにらんだOAUは、同11月12日、アディスアベバで開催された総会にSADR代表の出席を認めました。

 しかし、たとえ最後の一国になろうとも、絶対にSADRの存在は認めないとのモロッコの決意は固く、モロッコは直ちにOAUを脱退。その後、OAUは2002年にアフリカ連合(AU)へと発展的に改組されましたが、モロッコはAUへも参加を拒否し続けてきました。しかし、2016年9月23日、SADRの独立は認めないという立場は維持したまま、モロッコはAUへの加盟を申請。今回、33年ぶりの(再)加盟が実現したというわけです。


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 モロッコ独立60年
2016-03-02 Wed 12:56
 1956年3月2日にフランス保護領だったモロッコがフランスと独立協定を調印し、正式に独立してから、今日でちょうど60年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・独立1周年

 これは、1957年3月2日にモロッコで発行された独立1周年の記念切手で、モロッコのスルターン、ムハンマド5世の肖像が取り上げられています。

 切手に取り上げられたムハンマド5世は、1909年、スルターン、ユースフ・ベン・ハサンの末子として生まれ、1927年、父の崩御によりスルターンとして即位しました。

 第二次世界大戦中の1940年、フランスがドイツに降伏すると、当初、モロッコはヴィシー政権の支配下に置かれましたが、1942年に連合軍がモロッコに上陸し、自由フランスがモロッコを奪還。その後、1943年1月にはカサブランカでチャーチルとルーズヴェルトの首脳会談が開催されたほか、同年6月にはルーズヴェルトとムハンマド5世が会談。ムハンマド5世は、ルーズヴェルトに対してモロッコ独立運動への理解を求めました。

 これを機に、1930年代以来の独立運動が活発化。このため、大戦後の1947年、フランス第四共和政は妥協策として共同主権案を提示しましたが、事態は沈静化しなかったため、1953年8月20日、フランス当局は独立派のシンボルとなっていたムハンマド5世を廃位してコルシカに追放。後継スルターンには、ムハン5世の親戚で親仏派のムハンマド・ベン・アーラファを擁立しました。しかし、このことはモロッコ人の憤激を買い、モロッコ各地で反仏武装闘争が本格化。このため、フランスはムハンマド5世をモロッコからより遠ざけるため、1954年にはマダガスカルに追放しましたが、そうした対応は、モロッコ人の反仏感情をさらに刺激することになりました。

 結局、1954年にはディエン・ビエン・フーの戦いでフランスが敗北し、仏領インドシナが解体されたこともあって、フランスはモロッコ問題でも譲歩を余儀なくされ、1955年10月30日、フランスはムハンマド5世の復位を認め、ムハンマド・ベン・アーラファは退位。11月16日に帰国したムハンマド5世は、2日後の18日、“モロッコの将来”について演説し、モロッコ独立の方針を明らかにしました。

 その後、フランスとの交渉を経て、1956年3月2日、独立協定が調印され、モロッコは独立を回復します。今回ご紹介の切手は、ここから起算して1周年になるのを記念して発行されたものです。

 その後、ムハンマド5世は前年(1955年)の帰国直後、“モロッコの将来”について演説してから1周年にあたる1956年11月18日に正式な“独立宣言”を発しました。現在のモロッコ政府は、この日付を“独立記念日”として採用しています。

 ちなみに、独立時のモロッコの君主の称号は“スルターン”でしたが、1957年8月14日に王制が宣言されてムハンマド5世は“モロッコ国王”となり、切手の国名表示も、今回ご紹介の切手にみられるような“モロッコ”から“モロッコ王国”に変更されました。

 
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 岩のドームの郵便学(37)
2016-01-13 Wed 10:38
 ご報告が大変遅くなりましたが、『本のメルマガ』595号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1980年代初頭のモロッコについて取りあげました。その中から、この1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・アラブ首脳会議(1981)

 これは、1981年11月25日、モロッコで発行された“第12回アラブ首脳会議”の記念切手です。

 1981年11月25-27日、モロッコのフェズで開催された第12回アラブ首脳会議の会期初日に、1978年に発行の“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”の切手に記念の文字を加刷して発行された切手です。

 ハサン2世のモロッコ王制は対外強硬路線を取ることで国民の支持を集めていたため、パレスチナと西サハラを重要な政治的シンボルとして機能させており、その一環として、1978年には、今回ご紹介の切手の台切手となった“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”の切手を発行しました。ただし、その後、1979-80年にはパレスチナ関連の切手は発行されておらず、やはり、アラブ首脳会議の開催国として、パレスチナ問題の討議を通じて自らの存在感をアピールしようという意図が、今回の記念切手からも垣間見えるといってよいでしょう。

 ところが、結論から言うと、第12回アラブ首脳会議は中途での閉会を余儀なくされるという、惨憺たる失敗に終わります。

 そもそもの発端は、会議の開催に先立ち、1981年8月7日、サウジアラビアの第1副首相だったファハド皇太子が発表した“中東和平8項目”にありました。

 ファハド提案の骨子は、①ヨルダン川西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ人国家を建設する、②パレスチナ以外の難民には帰還または賠償を行う、③この地域のいかなる国家にも平和に存続する権利を保証する、というもので、アラブ諸国はおおむねこれに賛同しましたが、アラブ連盟として、イスラエルとの単独和平に踏み切ったエジプトを“裏切り者”として1979年3月に加盟資格停止処分としてまだ日も浅いうちに、“いかなる国家にも平和に存続する権利を保証する”との一項により、事実上、イスラエルの存在を承認してしまうことには、抵抗感を示す国も少なくなくありませんでした。

 さらに、首脳会議を控えた10月6日、キャンプ・デービット合意の主役であったエジプト大統領のサダトが、第4次中東戦争の戦勝8周年記念式典で軍事パレードを閲兵中、イスラム過激派組織、ジハード団のハリド・イスランブリによって暗殺される事件が発生します。

 事件を起こしたジハード団は、1980年にエジプト国内の小規模な過激派組織が合同したことで結成され、イスラム法(シャリーア)以外の法を施行する為政者はムスリム(イスラム教徒)であろうと背教者であり、ジハードによって排除せねばならないと主張していました。当然、彼らの価値観からすると、シナイ半島奪還のためとはいえ、米国に接近し、イスラエルと和平を結んだサダトを“背教者”であり、非難されるべき存在だったわけですが、当時のイスラム過激派組織のターゲットが、外国人や異教徒ではなく、自国の不正な(ムスリムの)為政者に向いていたという点は記憶にとどめておいてよいでしょう。

 このため、エジプト以外のアラブ諸国でも、エジプトの事件に影響を受けた過激派組織によるテロの危険性が高まったと考えるのが当然で、国内の体制引き締めを優先させるという必要もあって、11月25日からのアラブ首脳会議には、そもそも、リビア、シリア、アルジェリア、イラク、スーダン、チュニジア、オマーンの各国が欠席します。

 さらに、会議での中心的な議題となったファハド提案についても、イスラエルの存在を事実上承認するという点で参加各国の合意が得られず、会議は途中で流会となってしまいました。

 ところが、翌1982年、レバノン内戦が激化するなかで、事態は大きく動くことになります。

 1975年以来、内戦状態になっていたレバノンでは、PLOが南部を拠点にイスラエル北部への越境攻撃を展開していました。このため、1982年6月、イスラエルはレバノン南部に点在するPLOの拠点を潰滅させ、彼らの対イスラエル攻撃を断念させるべく、“ガリラヤの平和”作戦を敢行。レバノ領内に侵攻し、7週間にわたってベイルートを包囲します。

 この結果、同年8月末までに、PLOはベイルートを撤退し、その本部はテュニスへと移転。米仏伊の多国籍軍がパレスチナ人ならびにムスリム市民保護のためベイルートに展開したほか、レバノン南部はイスラエルの占領下に置かれることになりました。

 PLOのベイルート撤退を受けて、9月1日、米国のレーガン大統領は“新たな出発”と題するパレスチナ和平案を提案し。レーガン提案の内容は、キャンプ・デーヴィッド合意をほぼ周到するものでしたが、占領地からのイスラエルの全面撤退とエルサレムの分割を明記していたこともあって、イスラエルは即座にこれを拒否します。

 一方、アラブ側も9月6-9日、あらためてフェズでの第12回首脳会議をやりなおし、ファハド提案の内容をほぼ踏襲した“フェズ提案”をアラブの平和統一案として採択しました。その内容は以下の通りです。

 (1)1967年に占領されたアラブ・エルサレムを含むアラブの全占領地からのイスラエルの撤退
 (2)1967年以降のアラブ占領地内におけるイスラエルの入植地の撤去
 (3)聖地におけるあらゆる信仰及び宗教的儀式の自由の保障
 (4)パレスチナ人の唯一正当な代表であるPLO指導下におけるパレスチナ人民の自決権及び永久に消滅することのない不可譲の民族的権利行使の確認並びに祖国への帰還を希望しないすべての者に対する補償
 (5)西岸及びガザ地区を数か月を限度とする暫定期間、国連の監督下に置くこと
 (6)エルサレムを首都とする独立パレスチナ国家の建設
 (7)国連安保理は、独立パレスチナ国家を含むすべての域内国家の平和を保障すること
 (8)国連安保理は、上記諸原則の尊重を保障すること

 フェズ提案は、(国連安保理が)すべての域内国家の平和を保障することとして、イスラエル国家の存在を事実上承認するもので、パレスチナ独立国家樹立などの基本的な主張は崩していないものの、レーガン提案を正面から否定してはおらず、和平への期待を高めるものでした。

 しかし、イスラエルは、こうした一連の動きを一蹴すべく、ベイルートに侵攻し、左派勢力の武装解除とPLO残存ゲリラの捜索に自ら着手。その過程で、9月16日から18日にかけて、少なくとも1000名以上の犠牲者を出したパレスチナ難民の大量虐殺事件が発生し、和平への期待は一挙にしぼんでいくことになります。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第7回テーマティク出品者の会切手展 1月17-20日(日ー水。ただし、18日は休館)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年の香港展に出品した香港の歴史のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)

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 岩のドームの郵便学(27)
2015-03-28 Sat 11:51
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、 『本のメルマガ』565号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、1977-78年にエジプト以外の各国で発行された岩のドームの切手をご紹介する8回目。今回はこの切手を取りあげました。(画像はクリックで拡大されます)

        モロッコ・岩のドーム(1978)

 これは、1978年5月29日にモロッコが発行した“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”の切手です。

 現在のモロッコを含む北西アフリカの一帯は、ながらく、1660年に成立したアラウィー朝(現王朝)の支配下に置かれていましたが、1912年、フランス保護領、スペイン保護領、タンジールに3分割され、事実上の植民地に転落します。

 1956年の再独立に際して、スペインはセウタ、メリリャ、イフニ(いずれも飛び地となっています)とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄し、国際管理都市となっていたタンジールも10月にモロッコ領に復帰しました。

 その一方で、フランスの植民地支配下では現在のモーリタニアに相当する地域はフランス保護領モロッコから分離されていましたが、モロッコは再独立に際してモーリタニアもモロッコに再統合されるべきと主張。1960年11月28日にモーリタニアが独立を宣言すると、これに異議を唱えます。

 これに対して、モーリタニア国内にもモロッコの主張に同調する勢力が一体数存在していたことに加え、北アフリカ諸国の加盟するアラブ連盟もモロッコを支持したため、モーリタニアは独立を維持するためにフランスおよび穏健外交路線を採る旧仏領諸国(いわゆるブラザヴィル・グループ)との関係を強化しました。

 これに対して、そもそもフランス共同体への参加を拒否したギニアや、セネガルとの連邦が破綻した後、汎アフリカ主義者として急進化したモディボ・ケイタのマリ、旧英領アフリカ諸国で独立運動の中心となったガーナが、ブラザヴィル・グループに対抗して急進派諸国を糾合した会議を開催することを計画すると、モロッコ国王ムハンマドはこれに協力し、カサブランカを会議の場として提供しました。

 この結果、1961年1月4日から7日まで、カサブランカ会議が開催され、開催国モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加し、“カサブランカ・グループ”を構成しました。当然のことながら、この時点でのモロッコは、アルジェリアの独立闘争を積極的に支援するという立場です。

 ところで、1961年の時点で、アフリカの新興独立諸国は、上記のカサブランカ・グループ、ブラザヴィル・グループ、そして、両グループのいずれにも属さないモンロヴィア・グループの3つの勢力に分かれていましたが、こうした中で、旧ベルギー領から1960年に独立したコンゴでは、当初から熾烈な内戦が展開されていました。東西両陣営が内戦諸派を支援していたということもあり、アフリカ諸国間の対立が大国の直接的な武力介入を招くことを懸念したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、汎アフリカ主義の旗手であったギニア大統領セク・トゥーレらとともに、アフリカ諸国の連帯・団結により、政治的・経済的発言力を強化するとともに、植民地主義と戦うことを目的とした国際組織の樹立に向けて動き出しました。

 こうして、1963年5月26日、エチオピアの首都アディスアベバにアフリカ諸国の首脳が集まり、所期の目的を達するための国際組織として、アフリカ統一機構が設立されましたが、モロッコはこれに参加しなかった。というのも、1961年2月26日に崩御した父王ムハンマド5世から王位を継承したハサン2世は、ムハンマド5世時代の急進路線を修正し、徐々に親西側路線にシフトしていったからです。

 こうした経緯の下、OAU発足後の1963年10月、OAUに参加したアルジェリアと、不参加のモロッコの間で、国境地帯のティンドゥフとベシャールの帰属をめぐり、武力衝突が発生します。

 いわゆる“砂戦争”です。

 問題となった地域は、第二次大戦以前はフランスの支配下に置かれていましたが、アルジェリア独立に際して、アルジェリアに帰属するものとされ増した。これに対して、モロッコは両地域に対するアルジェリアの主権を否定し、領有権を主張したのです。

 このため、ハイレ・セラシエを中心としたOAUが本格的に調停に乗り出し、最終的に、モロッコはティンドゥフとベシャールがアルジェリアに帰属することを認め、1964年2月20日、砂戦争の休戦が成立しました。

 砂戦争での事実上の敗戦を受けて、ハサン2世は内政の引き締めに乗り出します。エジプトでは、1948年の第一次中東戦争(イスラエルの独立戦争)での敗戦を契機に、エジプトではファールーク王朝に対する国民の不満が高まり、エジプト革命でナセル政権が発足していましたから、国王がその再来を危惧したのも当然のことでした。

 かくして、王制に対する国民の不満を封じ込めるため、1965年6月、ハサン2世は戒厳令を敷いて憲法を停止し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら、西側諸国との協力関係を重視して外資導入を軸に経済発展を進める政策を推進していきます。

 もちろん、モロッコはアラブ連盟の加盟国としてイスラエルを“アラブ共通の敵”として認識していましたが、親西側の王制国家として、社会主義国のアルジェリアやアラブ世界全域での共和革命を称揚するナセルのエジプト、バアス党政権下のシリアおよびイラクとは関係が良好であろうはずもなく、アラブ世界においても半ば孤立した状況にありました。

 ところが、1967年の第3次中東戦争でエジプト、シリアが壊滅的な敗北を喫し、彼らの掲げる(急進的な)アラブ民族主義が空文化したことによって、彼らとモロッコの距離が縮まる余地が生じます。さらに、1969年8月21日には、イスラエル国内のキブツに住んでいたオーストラリア出身の狂信的キリスト教徒が、エルサレムにおけるイスラムの聖地アクサー・モスクの襲撃事件が発生し、これに対する抗議運動がイスラム世界全域で盛り上がりました。

 この機会をとらえて、(現状の国際秩序を尊重するという意味での)穏健派としてのモロッコとサウジアラビアは、イスラムを旗印としてアラブ・イスラム諸国を糾合するという名分の下、エジプトを旗頭とする急進民族主義諸国との和解を模索するようになります。その結果として、同年9月25日、モロッコのラバトに25ヶ国の首脳を集めて第1回イスラム首脳会議が開催され、イスラム諸国会議機構の設立が決定されます。すでに、現実主義化せざるを得なくなっていたエジプトもこれに賛同し、“反動勢力の策動”を批難することはありませんでした。

 かくして、「イスラエルと戦うために腐敗・堕落した王制を倒せ」と主張するナセル流の“アラブ民族主義”はこの時点で実態を失い、“アラブの大義”はイスラエルと戦うためには共和制国家も君主国も団結すべきというロジックに読み替えられることになります。

 一方、1960年代後半になると、モロッコ国内でも国王独裁による強権的な体制に対する不満が高揚していました。

 このため、ハサン2世は1970年8月および1972年2月に憲法を改正し、一定の“民主化”を進めるとともに、工業化や土地改革を進めることで経済状況を改善し、国民の不満を和らげようとします。

 それと並行して、ハサン2世は(親西側という基本的なスタンスに抵触しない程度に)対外強硬姿勢を打ち出すようになりました。

 すなわち、1969年のイスラム諸国首脳会議の発足後のアラブ内の国際関係を反映して、1973年10月に勃発した第4次中東戦争では、モロッコは3個旅団を最前線に派遣します。アラブ=イスラエル間のいわゆる中東戦争においてモロッコが参戦したのは、これが最初(にして最後)でした。

 さらに、1975年11月6日には、当時スペイン領だった西サハラに対して、国王の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われます。この結果、スペインは西サハラの領有を断念し、翌1976年にはモロッコとモーリタニアによる西サハラ統治が始まりました。

 これに対して、スペイン領自体の1973年から独立運動を続けていたサギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェで亡命政権のサハラ・アラブ民主共和国を樹立して両国に対する抵抗を宣言しました。

 ポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定も締結されます。

 これに対して、モロッコは西サハラの実効支配を続けましたが、そのことは、軍事支出の増大による経済の悪化やアフリカ内での孤立(1982年にアフリカ統一機構が西サハラの加盟を認めたため、モロッコはこれに抗議して1984年に同機構を脱退した)など、モロッコにネガティヴな影響をもたらしました。

 しかし、対外強硬路線の採用は、国王とモロッコ政府に対する国民の支持を高めることとなり、結果的に体制は安定します。それゆえ、パレスチナと西サハラは、モロッコ政府にとってきわめて重要な政治的シンボルとして機能していたわけで、今回ご紹介の“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”の切手も、こうした文脈に沿って発行されたものとみることができます。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・4月4日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『日の本切手 美女かるた』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。

 ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ
 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場
 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は3月31日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 預言者を揶揄する表現
2015-01-08 Thu 15:27
 フランス・パリの週刊風刺新聞「シャルリ・エブド」の本社に、きのう(7日)、武装した男3人が押し入って銃を乱射し、記者や警察官ら12人が死亡する事件が発生しました。犯人グループは、銃の乱射に際して「預言者の仇を討った」と叫んでおり、同紙が預言者ムハンマドを揶揄する記事・漫画などを掲載したことへの報復テロとみられています。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モロッコ・ハーレム絵葉書   モロッコ・ハーレム絵葉書(裏)

 これは、1908年12月3日、仏領モロッコのマザガンからパリ宛の絵葉書で、絵面には、北アフリカの女性二人を連れたフランス人水兵の絵が描かれており、下には「アフリカの思い出―まるでマホメットの天国にいるみたいだ!」との文言が入っています。

 20世紀前半までのフランスでは公娼制度が社会の中にしっかりと根を下ろしており、売買春が悪であるという発想は全くありません。それは、“買う”側だけでなく、“売る”側も同様で、低賃金の女工たちが昼休みにパートタイム売春をやっていたというケースは日常茶飯事でした。じっさい、19世紀のフランスの小説の相当数が、娼婦を主人公ないしは重要な登場人物として取り上げているように、その是非善悪とは全く別の次元で、当時のフランス社会を理解しようとすれば、売買春について一定の知識は絶対に不可欠です。このことは、遊女や吉原の存在を無視して江戸の文化を理解できないのと、ある種パラレルな関係にあると考えても良いかもしれません。

 さて、そうしたフランス人ですから、当然、アフリカなどの植民地でも数多くの“赤線地帯”を設け、現地駐在のフランス人たちはそれを盛んに利用していました。特に、モロッコのアラブ系娼婦は、エキゾチックな顔立ちに褐色のすべすべした肌という身体的な魅力だけではなく(いわゆる白人の肌は、男女を問わず、肌理が粗くざらっとした手触りであることが多いので、肌の柔らかさや滑らかさは、彼らにとっては非常に魅力的に感じられるそうです)、その値段も、パリやマルセイユなどに比べると格段に安かったことから、好色なフランス男にとっては天国のような場所というイメージで語られることがしばしばありました。

 今回ご紹介の葉書も、そうしたイメージを“アフリカの思い出”と題して表現しているわけですが、その際、「まるでイスラムのマホメットの天国にいるみたいだ!」と表現しているところに、イスラムやイスラムの預言者ムハンマド(マホメット)を揶揄しようという意図が明らかに見てとれます。

 すなわち、イスラムでは、男性は正規の手続きを踏めば4人まで妻を娶ることが可能です。ただし、その本来の趣旨は、好色な男が自分の性欲を満たすため本妻に加えて複数の愛人を囲っても良いということではなく、戦争などで男女の人口バランスが崩れ、多くの戦争未亡人が路頭に迷うようなことになってはいけないので、“すべてを平等に愛することができるのなら”という条件付きで、一種の素朴な社会保障として、豊かな男性が複数の女性の生活の面倒を平等に見ることは認められるというのが建前です。しかも、イスラム世界の伝統的な結婚の手続きとしては、結婚に際して、夫側はまとまった金額の婚資を支払わなければなりませんので、通常の経済力の男性では、現実には、妻は1人が精一杯で、複数の妻を娶り、養っていく余裕はないでしょう。

 しかし、非イスラム世界では、そうした事情についての理解は乏しく、さらにはイスラムに対するキリスト教徒の偏見もあいまって、イスラムが制度的に一夫多妻を認めていることは、すなわち、ムスリム(イスラム教徒)が好色であり、ムハンマドはその最たるものというイメージと結びつき、さらには、複数の娼婦を相手にすることが「(好色な)マホメットの天国」という揶揄的な表現につながるという構造になっているわけです。

 さて、今回のフランスでの新聞社襲撃事件に関して、僕は犯人グループの犯行を一切擁護するつもりはありませんし、彼らの行為が言論の自由、報道の自由に対する重大な挑戦として、厳しく処罰すべきであるのは当然だと思っています。

 その一方で、言論の自由ということであれば何を言っても許されるというわけではなかろうと思います。ムスリムにとって尊敬の対象である預言者ムハンマドを、異教徒が性的なイメージで揶揄すれば、多くのムスリムが不快に思い、傷つき、怒るのも至極当然のことです。その場合、揶揄した側の行為を積極的に称賛したいという人は少数派ではないでしょうか。じっさい、今回襲撃を受けた「シャルリ・エブド」が掲載したムハンマドを揶揄する漫画の画像の一部がネット上に出回っていますが、それは以下のようなものです。

      ムハンマド・風刺画(シャリル・エブド)

 この漫画のムハンマドを、畏れ多いことですが、例えば、今上陛下に置き換えたものを我々が見せられたら、どういう気持ちになるでしょうか。あるいは、エリザベス女王に置き換えたものを英国人に、ラーマ9世に置き換えたものをタイ人に見せたとしたら、どういう反応が返ってくるでしょうか。答えは明らかだろうと思います。

 それにしても、日本国内でヘイト・スピーチ反対を声高に叫んでいる人たちの中には、今回の一件に関して、「言論の自由を守れ!」という人は多いのですが、それと同時に、「ムスリムに対するヘイト言説を止めよう!」という論陣を張る人は少数派のように見受けられます。あるいは、彼らにとっては、いわゆるヘイト・スピーチの矛先が、ある特定の集団以外に向けられたときは全くの無関心ということなのかもしれませんが、そうだとすると、それはあまりにもご都合主義ではないかと僕は思います。 


 ★★★ イベント「みんなで絵手紙」(2月8日)のご案内 ★★★

      狛江絵手紙チラシ・表     狛江絵手紙チラシ・裏

 2月8日(日) 10:00-17:00に東京・狛江のエコルマホールにて開催のイベント「みんなで絵手紙 見て、知って、書いて、楽しもう」のトークイベントに内藤陽介が登場します。内藤の出番は13:30-14:15。「切手と絵・手紙」と題してお話しする予定です。是非、遊びに来てください。主宰者サイトはこちら。画像をクリックしていただくと、チラシの拡大画像がごらんになれます。


 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 

       ミズーリの消印

 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。

 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。

 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) 

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 コーラン学校の生徒
2010-09-11 Sat 14:02
 アメリカ・フロリダ州の牧師テリー・ジョーンズが、同時テロ9年に当たる11日に計画していたコーラン焼却を行わない考えを改めて表明。とりあえず、最悪の事態はとりあえず回避される見通しとなりました。というわけで、昨日に引き続き、今日もコーランがらみの切手でいきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

         コーラン学校

 これは、2008年にモロッコが発行した“芸術と文化”の切手の1枚で、コーラン学校で学ぶ少年を描いた絵が取り上げられています。

 さて、ムスリム(イスラム教徒)の理解では、コーランは預言者ムハンマドの口を通じて直接人間に下された神の言葉をまとめたものということになっており、その韻律的な美しさは人間では再現できないとされています。このため、ムスリムである以上は、アラビア語を学んで直接神の言葉に触れるべきだということになるのですが、教育もそうした考え方を反映して、子供たちはコーランの章句を徹底的に暗記させるのが伝統的なスタイルとなっています。

 今回ご紹介の切手に描かれている少年は、おそらく、コーランの一節を必死になって覚えているところだと思います。その背景には、ムスリムとしての信仰心ということもさることながら、暗誦で間違えると教師から容赦なくたたかれるので、それがいやで必死になっているという面も否定できないでしょう。

 やはり、教育というのは(初等教育の場合は特に)、一定の強制力をもって知識を身につけさせなければならない面がありますからねぇ。感情に任せて理不尽な暴力をふるう教師は厳重に処罰されるべきですが、教育の一環として、一定の課題をこなせない生徒に対しては、彼らが恐れるような罰を与えるということも必要でしょうな。その意味では、コーランを徹底的に暗誦させるという、伝統的なコーラン学校のやり方というのは、決して間違ったものではなかろうと思います。

 日本の古典や漢籍の素養がないために、しばしば恥ずかしい思いをする僕としては、いまさらながら、幼少時にそうした教育を受けていれば…と思うことがしばしばです。もっとも、へそ曲がりで、とにかくお手本通りにやることが大の苦手という自分の性格を考えると、仮にそういう教育の機会があっても、やっぱり駄目だったかもしれませんがね。


  ★★★ お知らせ ★★★

 9月16日(木)、夜9時からTOKYO MXテレビの番組ザ・ゴールデンアワー『事情のある国の切手ほど面白い』の著者として登場します。僕の出番は9時10分頃で、約20分間の特集コーナーとなる予定。生放送への出演は久しぶりなので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

         事情のある国の切手ほど面白い(表紙)
    事情のある国の切手ほど面白い
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 カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊!

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 アラブの都市の物語:マラケシュ
2005-11-19 Sat 15:36
 昨日のブログでは、NHKラジオ中国語のテキスト(僕は「外国切手の中の中国」という読物を連載しています)の最新号が発売になったことを書きましたが、NHKの語学テキストは毎月18日に一斉発売となります。したがって、隔月刊で今月が刊行の月に当たっているアラビア語のテキストも、同時に発売となり、掲載誌が自宅に送られてきました。以前の記事にも書きましたが、アラビア語のテキストでは、僕は「切手に見るアラブの都市の物語」という連載を持っています。で、その最新号はマラケシュ(モロッコ)。たとえば、こんな切手を使って、マラケシュの歴史をご紹介しています。

マラケシュ

 この切手は独立後まだ日も浅い1960年にモロッコが発行したマラケシュ創建900年の記念切手です。

 通常の歴史書などでは、ムラービト朝の君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンがマラケシュの建設を始めたのは西暦1071年のことと記されていますが、この切手の場合は、本格的な都市建設の前にユースフがこの地にたどり着いたことから起算して、1060年を基準に900年としたのでしょう。ちなみに、ヒジュラ暦(イスラム暦)の年号では454~1379年となっており、年号のカウントは900年を超えています。

 現在のモロッコの地名はマラケシュのなまえが訛ったものですが、このマラケシュという言葉は、ベルベル語の“マロウクシュ(早く歩け)”に由来するといわれています。これは、マラケシュの本格的な都市建設が始まる以前は、この地で略奪行為が横行していたため、早く通り過ぎたほうが良い土地と人々が読んでいたためだそうです。

 その後、ムラービト朝をはじめ、モロッコ諸王朝の首都となったマラケシュは都市のインフラが整備され、サハラ交易の拠点として繁栄。往時をしのばせる建造物が数多く残る古都として、1985年には世界遺産にも登録され、世界的な観光地として、連日、観光客でにぎわっています。

 切手の中央の尖塔はマラケシュのランドマーク、クトゥビーヤ・モスクのミナレットで、周囲の椰子の木と山脈がなんともいえないエキゾチックな雰囲気をかもし出しています。この時期の切手は、まだ旧宗主国のフランスで作られていたため、いかにもフランス風の瀟洒な凹版印刷とデザインがよくマッチしており、とても綺麗な切手に仕上がっていて、僕の個人的な好みとしては、結構お気に入りの1枚です。

 NHKのアラビア語テキストでは、どうしても図版がモノクロなので、この切手の美しさが上手く伝わりませんので、ブログで取り上げてみました。なお、マラケシュの歴史やそれにまつわる切手について、より詳しいことがお知りになりたい方は、是非、『NHKアラビア語会話』の12・1月号の僕のコラム「切手に見るアラブの都市の物語」をご一読いただけると幸いです。
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