内藤陽介 Yosuke NAITO
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 安倍首相、オマーン訪問
2014-01-10 Fri 11:39
 昨日(9日)、今年最初の外遊に出発した安倍首相が最初の訪問国であるオマーンに到着し、カーブース国王との首脳会談を行い、安全保障やエネルギー分野での協力を強化することで一致しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       オマーン加刷

 これは、1970年の国号改称に伴い、旧マスカト切手に新国名“オマーン・スルターン国”と加刷した切手です。

 アラブ連盟加盟国のうち最も東側に位置しているオマーンの地は、古代にはペルシャ人の支配下に置かれていましたが、7世紀の預言者ムハンマドの時代にイスラム化し、アラブが独立を回復。インド西海岸やアフリカ東海岸との交易の拠点として繁栄します。

 交通の要衝であるがゆえに、オマーンには対岸のペルシャ人がしばしば侵攻し、14世紀以降はホルムズ王国の支配下に置かれます。さらに、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインド洋に入って来ると、1507年にはマスカトもポルトガル軍に占領されました。1649年、ヤアーリバ朝のイマーム、スルターン・イブン・サイフはポルトガル人を駆逐してアラブの支配を回復。ザンジバルからパキスタン沿岸にいたる広大な海域に勢力を拡大しました。しかし、スルターン・イブン・サイフが1679年に亡くなるとヤアーリバ朝は衰退し、1737年からしばらくの間、首都のマスカトも一時的にペルシャに占領されます。

 その後、1749年ごろに成立したブーサイード朝はペルシャ勢力を追い払い、ザンジバルからグワダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎えます。1833年、サイイド・サイードは首都をマスカトからザンジバルに移しますが、その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持し、オマーン本土の重要都市としてのマスカトの重要性は揺るぎませんでした。

 しかし、1856年にサイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域が分離独立したことにくわえ、蒸気船の登場やスエズ運河の開通により、帆船貿易は打撃を受け、オマーンは次第に衰退。これに乗じて英国が進出し、1864年にはマスカトに英国の郵便局も設けられました。

 英国による実質的支配が強まるなか、マスカトのスルターンに反発する内陸部では別個の首長としてイマームが擁立され、両者が激しく対立。第2次大戦後、スルターンとイマームとの抗争は、イマームを支援するアラブ諸国とスルターンを支援するイギリスとの代理戦争の様相を呈するようになり、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーンは危機的な状況に陥ります。しかし、当時のスルターン、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年、英国の支援を受けた息子のカーブース(現国王)がクーデターを起こして自ら王位に就きました。

 カーブースは即位すると、1913年以来の国号“マスカット・オマーン”をかつてのオマーン・スルターン国に戻すとともに(今回ご紹介の切手は、これに伴い、発行されたものです)、1971年中には“オマーン”としての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。

 ちなみに、日本の首相のオマーン訪問は、1990年の海部俊樹首相以来2回目のことですが、オマーン側は1970年以来、カーブース国王の治世が続いているほか、首相職は1972年以来、国王が兼務しており、24年前もカーブース国王が海部首相(当時)と会談しました。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。

 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。

 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。

大浮世絵展・紹介記事


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 アラブの都市の物語:マスカット
2008-01-19 Sat 11:55
 NHKのアラビア語会話のテキスト2・3月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回はオマーンの首都、マスカットを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 マスカット加刷切手

 これは、オマーンの現王朝、ブーサイード朝200年の記念切手です。当時、イギリスがオマーンに持ち込んで使用していたインド切手にアラビア語で“ブーサイード家 1363”の文字が加刷されています。

 アラブ連盟加盟国のうち最も東側に位置しているオマーンの首都・マスカットはアラビア半島の東南、アラビア海に望む港湾都市です。

 ながらくペルシャ人の支配下に置かれていたオマーンの地は、7世紀の預言者ムハンマドの時代にイスラム化し、アラブが独立を回復。マスカットもオマーンのイマームの支配の下、インド西海岸やアフリカ東海岸との交易の拠点として繁栄します。

 交通の要衝であるがゆえに、マスカットには対岸のペルシャ人がしばしば侵攻し、14世紀以降はホルムズ王国の支配下に置かれます。さらに、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインド洋に入って来ると、1507年にはマスカトもポルトガル軍に占領されました。1649年、ヤアーリバ朝のイマーム、スルターン・イブン・サイフはポルトガル人を駆逐してアラブの支配を回復。ザンジバルからパキスタン沿岸にいたる広大な海域に勢力を拡大しました。しかし、スルターン・イブン・サイフが1679年に亡くなるとヤアーリバ朝は衰退し、1737年からしばらくの間、マスカットも一時的にペルシャに占領されます。

 その後、1749年ごろに成立したブーサイード朝はペルシャ勢力を追い払い、ザンジバルからグワダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎えます。1833年、サイイド・サイードは首都をマスカトからザンジバルに移しますが、その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持し、オマーン本土の重要都市としてのマスカトの重要性は揺るぎませんでした。

 しかし、1856年にサイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域が分離独立したことにくわえ、蒸気船の登場やスエズ運河の開通により、帆船貿易は打撃を受け、オマーンは次第に衰退。これに乗じてイギリスが進出し、1864年にはマスカットにイギリスの郵便局も設けられました。

 イギリスによる実質的支配が強まるなか、マスカットのスルターンに反発する内陸部では別個の首長としてイマームが擁立され、両者が激しく対立。第2次大戦後、スルターンとイマームとの抗争は、イマームを支援するアラブ諸国とスルターンを支援するイギリスとの代理戦争の様相を呈するようになり、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーンは危機的な状況に陥ります。しかし、当時のスルターン、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年、イギリスの支援を受けた息子のカーブース(現国王)がクーデターを起こして自ら王位に就きました。

 カーブースは、即位すると、1913年以来の国号“マスカット・オマーン”をかつてのオマーンに戻すとともに、1971年中にはオマーンとしての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。なお、カーブース国王の治世は、かつてのオマーンの栄光の日々を回復する“ルネサンス”と称されることもあるそうです。

 さて、4年にわたって続けてきた「切手に見るアラブの都市の物語」も、今回が最終回となりました。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。メッカやメディナ(サウジアラビア)、アレッポ(シリア)、トリポリ(リビア)、アレキサンドリア(エジプト)、ハルトゥーム(スーダン)、ラバト(モロッコ)などなど、連載では取り上げられなかった都市も追加して、いずれ1冊の本にまとめてみたいものです。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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