内藤陽介 Yosuke NAITO
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 フランス大統領と“EN MARCHE”
2017-05-08 Mon 19:09
 きのう(7日)行われたフランス大統領選挙の決選投票は、政治運動団体“前進(En Marche)”を率いるエマニュエル・マクロン前経済相が、マリーヌ・ル・ペン候補を破って当選しました。というわけで、フランス大統領と“前進(En Marche)”の文言が同居している1枚ということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニア・ジルカールデスタンとトゥーレ

 これは、1979年、当時のフランス大統領ジスカールデスタンのギニア訪問を記念してギニアが発行した切手で、ジスカールデスタンとギニア大統領のセク・トゥーレの会談風景が取り上げられています。切手の上部には、この時の会談を通じて、ギニアの発展につながるとの期待を込めて、“AFRIQUE EN MARCHE(前進するアフリカ)”の文言が入っています。

 第二次大戦後、アフリカのフランス植民地では民族運動が活発になり、仏領ギニアでも、かつてサモリ帝国を率いてフランスに抵抗したサモリ・トゥーレの曾孫で郵政職員出身のセク・トゥーレが、1947年にアフリカ民主連合の支部ギニア民主党(PDG)を結成し、激しい独立運動を展開していました。

 一方、フランス本国は、1958年に第五共和政憲法を公布し、本国と植民地の関係を、共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編し、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治を認めることとしました。

 同憲法の可否をめぐり、1958年9月25日、仏領西アフリカ全域で国民投票が実施され、ほとんどの仏領植民地はこれを受け入れ、その大半がフランス共同体内の自治共和国となります。しかし、唯一ギニアのみは、賛成5万6981、反対13万6324で新憲法にノンを突き付け、10月2日に完全独立しました。

 この結果に激怒したフランスは、ギニアの独立は認める一方、ギニアとの国交を断絶(1975年に回復)し一切の援助を停止。そればかりか、植民地時代に建設した道路などの公共インフラを破壊し、官公庁の書類はもちろん、机や椅子、さらには便器にいたるまですべて破壊ないしは持ち去っていきました。

 独立に際して、初代大統領となったトゥーレは「隷属の下での豊かさよりも自由のもとでの貧困を選ぶ」と高らかに宣言しましたが、新生ギニアの国家機能は麻痺状態から出発。豊富な水と地下資源に恵まれていたはずのギニアはあっという間に世界最貧国に転落してしまいます。

 このため、トゥーレはソ連の支援を受けて難局を乗り切ろうと考え、社会主義路線を採択するとともに、PDG一党独裁下で反対派を徹底的に弾圧するなどの恐怖政治を展開。500万人と言われた人口のうち、200万人がセネガルなど隣国に難民として脱出しました。

 こうして、トゥーレの社会主義路線は惨憺たる失敗に終わり、背に腹は代えられなくなったギニアは一党独裁体制を維持したまま次第に西側諸国にも接近。1975年にはフランスとの国交を回復し、1979年には当時のフランス大統領ジスカールデスタンの訪問を受け入れて和解しました。今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行されたものです。

 結局、1984年にトゥーレが現職大統領のまま亡くなると、無血クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握。コンテは社会主義路線を放棄し、自由主義経済への転換を目指しましたが、政治の腐敗や経済難は解消されず、現在なおギニア国家の苦境は続いています。

 さて、今回、“前進”を率いてフランス大統領に当選したマクロンですが、(少なくとも)経済政策に関する限り、かなり前途多難が予想されています。

 すなわち、現在のフランス経済の低迷を打開する手段として、ル・ペンはユーロからの脱退と独自通貨フランの復活させるとともに、大規模な財政出動で景気を浮揚させると主張していましたが、これは、現状でフランスが取りうる経済政策としては至極真っ当な発想です。

 これに対して、既成政党への不満を煽る必要もあって、選挙期間中、失業率が10%を超える高止まりの状況の下での公務員を削減を主張していましたが、冷静に考えれば、到底まともな発想とは思えません。また、彼は、EUとは連携を強化(当然、ユーロには残留)したまま、その一方で法人税の引き下げや失業者対策などに総額6兆円を支出するとしていますが、EUとの連携を強化する限りにおいて、EUの経済収斂基準(ユーロ加盟の条件として達成しなければならないインフレ率、政府財政赤字等の基準)の制約を受けますから、大胆な財政出動はほぼ不可能というのが実情で、結局のところ、彼の経済政策は中途半端なままにおわり、オランド政権同様、経済状況の改善は絶望的と見られています。

 まぁ、フランス国民が自ら選んだ結果ですので、日本人である僕がとやかく言うべき筋合いはないのですが、マクロンの“EN MARCHE”が、今回ご紹介の切手を発行したギニアのセク・トゥーレの“EN MARCHE”のように失速しないよう、精々頑張っていただきたいものです。


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 岩のドームの郵便学(36)
2015-12-16 Wed 09:04
 ご報告が大変遅くなりましたが、『本のメルマガ』592号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1980年代初頭までのギニアについて取りあげました。その中から、この1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニア・パレスチナ人民との連帯

 これは、1981年にギニアが発行した“パレスチナ人民との連帯”の切手です。

 第二次大戦後、アフリカのフランス植民地では民族運動が活発になり、ギニアでも、郵政職員出身のセク・トゥーレが、1947年にアフリカ民主連合(仏領西アフリカおよび赤道アフリカにまたがる植民地横断の連合政党)の支部としてギニア民主党(PDG)を結成し、激しい独立運動を展開していました。

 一方、フランス本国は、1958年に第五共和政憲法を公布し、本国と植民地の関係を、共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編し、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治を認めることとします。

 同憲法の可否をめぐり、1958年9月25日、仏領西アフリカ全域で国民投票が実施され、ほとんどの仏領諸国はこれを受け入れ、この時点ではフランス共同体内の自治共和国となりましたが、唯一ギニアのみは、賛成5万6981、反対13万6324で新憲法にノンを突き付け、10月2日に完全独立しました。

 この結果に激怒したフランスは、ギニアの独立は認める一方、ギニアとの国交を断絶して一切の援助を停止。そればかりか、植民地時代に建設した道路などの公共インフラを破壊し、官公庁の書類はもちろん、机や椅子、さらには便器にいたるまですべて破壊ないしは持ち去っていきます。

 独立に際して、初代大統領となったトゥーレは「隷属の下での豊かさよりも自由のもとでの貧困を選ぶ」と高らかに宣言しましたが、新生ギニアの国家機能は麻痺状態から出発。豊富な水と地下資源に恵まれていたはずのギニアはあっという間に世界最貧国に転落しました。

 このため、トゥーレはソ連・中国の支援を受けて難局を乗り切ろうと考え、社会主義路線を採択しましたが、非効率的な社会主義路線は、腐敗・汚職の蔓延とも相まって、ギニアの経済状況をいっそう悪化させるだけでした。

 国民の不満に対して、トゥーレはPDG一党独裁下で反対派を徹底的に弾圧するなどの恐怖政治を展開。500万人と言われた人口のうち、200万人がセネガルなど隣国に難民として脱出します。

 しかし、さすがに独立後10年以上も上述のような惨状が続くと、トゥーレも背に腹は代えられなくなったため、一党独裁体制を維持したまま次第に西側諸国にも接近するようになります。そして、1975年にはフランスとの国交を回復し、1979年には当時のフランス大統領ジスカールデスタンの訪問を受け入れました。

 しかし、フランスとの国交回復とジスカールデスタンのギニア訪問は、建国以来の路線を大幅に修正するものとして、独裁者トゥーレの権威を大きく傷つけました。そこで、1978年、トゥーレは国名を“ギニア共和国(République de Guinée)”から“ギニア人民革命共和国(République populaire révolutionnaire de Guinée)”に変更。国名にあえて“人民革命”の語を加えることで、自らの革命路線に誤りはなく、以後もPDGによる一党独裁体制は維持されることをアピールしています。

 今回ご紹介の切手は、こうした背景の下で発行されました。

 さて、ギニアは、フラニ族、マリンケ族、スースー族、クペレ族、キッシ族、ジュラ族など約20の民族で構成されていますが、アラブではなく、アラビア語が日常的に使用されることもありません。

 しかし、ギニアは東側諸国の一員として、1967年の第3次中東戦争後、イスラエルとの国交を断絶していたことに加え、宗教的には人口の85%がムスリムであり、それゆえ、パレスチナの人民と団結して、イスラムの聖地としての“岩のドーム”をイスラエルから奪還せよという主張には、当事者として賛同しやすい背景がありました。

 さらに、この時期、アフガニスタンでのムジャーヒディーンによる反ソ闘争もあって、パレスチナの解放が、ムスリムの宗教的な義務としてのジハードと結び付けられつつあったことも、この切手の背景にあったと見ることも可能かもしれません。ギニアの独裁者として君臨したセク・トゥーレの権威の背景には、サモリ・トゥーレの曾孫という血統上の要因もあったからです。

 サモリは、西アフリカが小国乱立の群雄割拠の状況にあった1830年頃、マンデ人隊商の家に生まれました。23歳の時、コニアの王セレ・ブレマに仕えて頭角を現し、彼を慕う兵士たちを集めて自立。1867年頃から近辺の征服を開始し、“アルマーミ(信仰の擁護者)”を自称して、1881年までには現在のギニア・マリ・コートジボアールにまたがるイスラム国家として、サモリ第一帝国を樹立しました。

 1891年、フランスは西アフリカ植民地化の過程で、サモリ第一帝国西方のトゥクロール帝国を滅ぼし、サモリ第一帝国に対しても大規模な攻撃を開始。これに対して、サモリはジハードを呼号して果敢に抵抗しましたが、最終的に領土を捨てて領民とともに東方へ撤退し、サモリ第二帝国を樹立します。

 サモリの撤退後、フランスはギニア湾沿岸部を中心にした植民地を建設。これが、いわゆる“仏領ギアナ”の原型で、1898年には、サモリ第二帝国に隣接するシカソ(現在はマリ領)を陥落させ、同年9月にはテントの外で礼拝中だったサモリ本人をとらえてサモリ第二帝国を滅ぼし、ギニア支配を完成させました。なお、捕えられたサモリはフランス支配下のガボンに流刑となり、1900年、気管支炎で獄死しています。

 セク・トゥーレは、こうした曾祖父の権威を最大限に活用することで、ギニアでの独裁権力を維持し続けたわけですが、当初、サモリの歴史的な位置づけは“西アフリカ民族独立運動の先駆者”という点が強調されていました。

 しかし、社会主義と結びついた民族独立運動が、結果的に惨憺たる失敗に終わったことで、従来と同じロジックでは、トゥーレ政権の権威を維持し続けることが困難になってしまったため、サモリがアルマーミであり、ジハードを呼号して戦ったイスラム改革運動の指導者であったという面にスポットを当てることで、トゥーレ政権は、サモリと彼に結びつく自らの権威の源泉を読み替えようとしたものと考えられます。イスラムの聖地としての“岩のドーム”の切手も、そうしたプロパガンダの一環として発行されたとみるのが妥当でしょう。

 なお、この切手が発行されてから3年後の1984年、トゥーレは現職大統領のまま亡くなり、その混乱に乗じて、ランサナ・コンテ大佐が無血クーデターにより政権を掌握します。コンテは社会主義路線を放棄し、自由主義経済への転換を目指しましたが、政治の腐敗や経済難は解消されず、現在なおギニア国家の苦境は続いています。


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 世界の国々:ギニア
2014-12-30 Tue 11:02
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2014年12月31日号が、先週、刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は西アフリカのギニアを取り上げました。その記事の中から、こんな切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニア・独立記念

 これは、1959年にギニアで発行された独立1周年の記念切手で、初代大統領のセク・トゥーレとギニア地図が描かれています。

  第二次大戦後、アフリカのフランス植民地では民族運動が活発になり、仏領ギニアでも、かつてサモリ帝国を率いてフランスに抵抗したサモリ・トゥーレの曾孫で郵政職員出身のセク・トゥーレが、1947年にアフリカ民主連合の支部ギニア民主党(PDG)を結成し、激しい独立運動を展開していました。

 一方、フランス本国は、1958年に第五共和政憲法を公布し、本国と植民地の関係を、共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編し、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治を認めることとしました。

 同憲法の可否をめぐり、1958年9月25日、仏領西アフリカ全域で国民投票が実施され、ほとんどの仏領植民地はこれを受け入れ、この時点ではフランス共同体内の自治共和国となります。しかし、唯一ギニアのみは、賛成5万6981、反対13万6324で新憲法にノンを突き付け、10月2日に完全独立しました。

 この結果に激怒したフランスは、ギニアの独立は認める一方、ギニアとの国交を断絶(1975年に回復)し一切の援助を停止。そればかりか、植民地時代に建設した道路などの公共インフラを破壊し、官公庁の書類はもちろん、机や椅子、さらには便器にいたるまですべて破壊ないしは持ち去っていきました。今回ご紹介の切手も、フランスとの国交断絶により、フランス製の切手の供給が途絶えたため、英国で製造されたモノです。

 独立に際して、初代大統領となったトゥーレは「隷属の下での豊かさよりも自由のもとでの貧困を選ぶ」と高らかに宣言しましたが、新生ギニアの国家機能は麻痺状態から出発。豊富な水と地下資源に恵まれていたはずのギニアはあっという間に世界最貧国に転落してしまいます。

 このため、トゥーレはソ連の支援を受けて難局を乗り切ろうと考え、社会主義路線を採択するとともに、PDG一党独裁下で反対派を徹底的に弾圧するなどの恐怖政治を展開。500万人と言われた人口のうち、200万人がセネガルなど隣国に難民として脱出しました。

 しかし、トゥーレの社会主義路線は惨憺たる失敗に終わり、背に腹は代えられなくなったギニアは一党独裁体制を維持したまま次第に西側諸国にも接近。1975年にはフランスとの国交を回復し、1979年には当時のフランス大統領ジスカールデスタンの訪問を受け入れて和解しました。

 結局、1984年にトゥーレが現職大統領のまま亡くなると、無血クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握。コンテは社会主義路線を放棄し、自由主義経済への転換を目指しましたが、政治の腐敗や経済難は解消されず、現在なおギニア国家の苦境は続いています。

 さて、『世界の切手コレクション』12月31日号の「世界の国々」では、ギニアの近現代史を、①仏領ギニアの成立まで、②独立後の展開に分けてまとめているほか、伝統的な楽器や民族衣装、トゥーレ死後の長期独裁政権を担ったランサナ・コンテの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、年末年始の特別スケジュールで、2015年1月7日号はすでに12月27日に発売されておます。この号の「世界の国々」はアゼルバイジャンを特集していますが、こちらについては、年明けにこのブログでもご紹介する予定です。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 ギニアの振袖
2006-12-11 Mon 00:45
 西アフリカのギニアから外交ビザや公用ビザで入国した3人の男が今年7月以降、不法就労などをしていた疑いで、相次いで入管当局に強制収容されていたのだそうです。

 というわけで、手元のストックの中で、ギニアの切手を探してみたところ、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

ギニア・東京五輪

 これは、1964年の東京オリンピックの際に独立後間もないギニアが発行した記念切手で、スタジアムをバックに、羽子板をもった振袖姿の女性と日本・ギニア両国の国旗が描かれています。アフリカ諸国が輸出用に“日本”を取り上げる切手の中には、こんな感じのトンデモ図案のモノも少なくないのですが、そうしたものと比べると、この切手はかなりまともです。(なお、この切手をふくめて、諸外国が東京オリンピックに際して発行した切手に関しては、拙著『外国切手に描かれた日本』をご覧いただけると幸いです)

 さて、かつてフランス領だった西アフリカのギニアが独立したのは1958年のことでした。当時のセク・トゥーレ政権は、反仏植民地主義を前面に押し出して西側と断絶し、社会主義政策を推進しましたが、当然、経済建設は失敗します。その結果、1984年にトゥーレが亡くなると、軍事クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握。コンテ政権は、旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進し、1990年12月には複数政党制の導入などを定めた国家基本法を施行。以後、大統領となったコンテの長期独裁政権(2003年にはコンテは3選されています)の下、政情は比較的安定していました。

 ギニア経済を支えているのは、世界の3分の1の埋蔵量を誇るボーキサイトをはじめとした地下資源ですが、インフラ整備の遅れから、本格的な経済開発は、まだまだこれから、といった状況です。

 それでも、ギニアは西アフリカの中では政治的・経済的な安定度から“優等生”だったわけですが、最近の石油価格上昇等によるインフレ悪化に伴い経済情勢も悪化。今年に入ってからは、ゼネストの決行等政治・社会情勢も不安定化していると伝えられています。

 今回、ギニア政府職員や大使館関係者の親族らが、外交官等に発給される外交ビザや公用ビザで入国したにもかかわらず、公務に就かずに、民間の工場で不法就労するなどしていた背景には、そうしたギニア国内の情勢の悪化という事情もあったのかもしれません。

 ただ、いかなる理由があろうとも、外交官特権の悪用は許されるということにはならないわけで、今後、ギニア政府のこの問題への対応が注目されるところです。

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