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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 世界の国々:アンゴラ
2019-04-13 Sat 03:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年3月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアンゴラ(と一部トーゴ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アンゴラ・独立記念切手

 これは、1975年に発行された“アンゴラ独立”の記念切手を貼り、“アンゴラ解放人民運動(MPLA)創立19周年”の記念印を押したオンピースです。

 アフリカにおけるポルトガル領植民地の独立運動は、ポルトガル領ギニア出身のアミルカル・カブラルが、リスボンの農業経営学院(現リスボン工科大学)在学中の1945年、アンゴラ出身の医学生アゴスティーニョ・ネトに出会ったことから始まったとされています。

 第二次大戦後、世界的に植民地の独立運動が盛んになる中で、ポルトガル本国の独裁者サラザールは独立運動を徹底的に押さえ込むべく、アンゴラを含む多くのポルトガル領を植民地から“海外県”に変更し、本国との“対等な立場”が強調しました。

 これに対して、1952年、ポルトガル領ギニアに戻ったカブラルは、1954年、独立運動を行ったかどで一時アンゴラに追放されます。このことはアンゴラの民族主義にも大きな刺激となり、1953年、アンゴラでは独立を唱える初の民族主義政党として“アンゴラのアフリカ人のための統合抗争党(PLUA)”が結成されたほか、1954年には北アンゴラ人民連合が結成され、アンゴラ外周部を含む歴史的コンゴ王国の領域の独立を主張するようになります。

 また、1955年、ジョアキムとマリオのピント・デ・アンドラーデ兄弟がアンゴラ共産党(PCA)を結成。さらに、1956年9月、カブラルがアンゴラで独立運動団体としてギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成すると、アンゴラの独立諸派も統合の機運が進み、同年12月、カブラルとネトを軸として、PLUA とPCAは統合して、“アンゴラ解放人民運動(MPLA)”が結成。当初、MPLAはポルトガルの平和的な撤退を求める穏健な独立運動を展開していました。

 そうした状況の下、1961年1月3日、マランジェ州のバイサ・デ・カッサンジェ地方の小作農達が労働条件の改善を求めて、コトナング(英独の投資の下、ポルトガル人が経営していた企業)の綿農園でボイコットを起こすと、翌4日、ポルトガル軍はナパーム弾を用いて現地住民を400人以上殺害し、叛乱を鎮圧します。

 これに対して、2月4日、ネトらによって率いられたMPLAの50人が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃。MPLAは40人が死亡し、囚人の解放には失敗したものの、7人の警察官を殺害しました。

 MPLAの活動に対して、1961年3月15日、反共を掲げるアンゴラ人民同盟(UPA。主体は北部のコンゴ人)は、ホールデン・ロベルトの下、4-5000の軍がコンゴからアンゴラに侵入。UPA軍は農地や植民者居留地、商業地域を奪い公務員や市民を殺害しました。その犠牲者は、大半が中央高地から来たオヴィンブンド人の契約労働者だったとされています。以後、アンゴラ独立運動が本格化。1961年だけで2-3万人のアンゴラ人市民が殺害され、4-50万人がコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)に避難しました。

 ポルトガル側の掃討作戦により、UPAはアンゴラから逃れ、コンゴ軍の実力者モブツ・セセ・セコと米国、さらにイスラエルの支持を得てレオポルドヴィル(現キンシャサ)に拠点を移します。UPAはレオポルドヴィルで他の組織と合併し、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)として再編され、同地に亡命アンゴラ政府を樹立しました。

 一方、1961年2月の蜂起失敗後、MPLAもレオポルドヴィルに逃れ、レオポルドヴィルでFNLAとの組織統一を訴えましたが、FNLAの攻撃を受け壊滅の危機に陥ります。このため、MPLAは1963年中にレオポルドヴィルを退去してコンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)のブラザヴィルに本部を移転し、ソ連やキューバの支援を受けて闘争を継続しました。

 さらに、部族主義的な体質の強かったFNLAのジョナス・サヴィンビは、1966年3月、中国の支援を受け、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を結成。MPLAと対立します。

 こうして、アンゴラでは独立を目指す諸派の対立抗争も交えながらの独立戦争が続いていましたが、1974年4月、リスボンでカーネーション革命が発生し、革命政権がアフリカ植民地での全軍事行動を止め独立を認めると宣言したことで局面が転換。1975年1月、ポルトガル政府とUNITA、MPLA、FNLAがアルヴォー合意に署名し、同年11月11日、アンゴラ人民共和国の独立が達せられました。

 しかし、ソ連とキューバの支援の下、首都を掌握する最大勢力のMPLAと、ザイール(1971年、コンゴ共和国から改称)の支援を受けるFNLAの対立は根深く、東西冷戦の文脈で米国がFNLAを支援。さらに、米国はMPLAを敵視する南アを通じてUNITAを支援し、ソ連と対立していた中国もこれに同調するなど、独立後のアンゴラは諸外国をも巻き込んだ泥沼の内戦に突入していくことになります。

 さて、『世界の切手コレクション』3月13日号の「世界の国々」では、アンゴラ独立運動史についてまとめた長文コラムのほか、ンジンガ女王、文学者としてのネト、ぺドラス・ネグラスの奇岩の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のアンゴラ(と一部トーゴ)以降は、3月13日発売の同20日号でのコロンビア(と一部パラグアイ)、4月10日発売の同17日号でのブルガリアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 ソウェトへ
2010-10-26 Tue 12:32
 ヨハネスブルグ滞在2日目になりました。きょう(26日)は、夕方4時からミーティングがあるのですが、それまでは時間が空いているので、朝食を取ったら、午前中、ヨハネスブルグ南西部のソウェトへのツアーに参加してきます。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         ソウェト5周年

 これは、1981年にアンゴラが発行したソウェト蜂起5周年の切手です。

 ソウェト(SOWETO)は“South Western Townships(南西居住地区)”の短縮形で、1904年、ヨハネスブルグ郊外ブリックフィールズの黒人居住地区で疫病が発生したため、アフリカ系住民とインド系住民を移動させてつくった居住地区がルーツとされており、アパルトヘイト政策によって迫害されたアフリカ系住民の象徴の地とされてきました。

 1976年、当時の南アフリカ政府は、学校でアフリカーンス語(オランダ系白人の言語)の授業の導入を決定。これに対して、アフリカーンス語を“白人支配の象徴”と見なす黒人たちが激しく反発し、同年4月30日、ソウェト地区のオーランドウエスト小学校の子供たちが学校へ行くことを拒否してストライキに突入しました。その後、抗議行動はソウェト地区の多くの他の学校に広がり、6月16日、学生たちが抗議集会とデモを展開。それに対し警察隊が出動、催涙ガスなどを使用して鎮圧を試みると、デモ隊は投石で応酬し、黒人学生1万人と警察隊300人が衝突し、6人が死亡、約300人が負傷する流血の惨事が発生しました。

 その後も暴動は治まらず、6月25日までに死者176人、負傷者1139人、逮捕者1298人(警察発表による)が発生。事態を憂慮した国連安保理は南アフリカを非難する決議案を全会一致で可決し、南アフリカのアパルトヘイト体制はさらに国際的孤立を深めていくことになります。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1981年の時点では、南アフリカは依然としてアパルトヘイト体制でしたから、当然のことながら、ソウェト蜂起の記念切手など発行されるはずもなかったのですが、切手を発行したアンゴラも内戦のさなかにありました。当然、切手発行の背景にはアンゴラ内戦の影響があります。

 ポルトガルの植民地だったアンゴラでは、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体の政権が樹立されるものとみられていました。

 ところが、親ソ政権の発足を嫌ったアメリカがFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、アメリカは、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAに対しても支援を行います。その際、アメリカとUNITAの窓口になったのが、反アパルトヘイトを唱えるMPLAに危機感を抱いていた南アフリカで、反ソという観点から、中国もUNITAへの支援に加わりました。

 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。さらに、キューバ軍は、ナミビア(当時は南アフリカが実質的な支配下においていた)からアンゴラに侵攻した南アフリカ軍を撃退。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言しましたが、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。今回ご紹介の切手も、そうした文脈の下でMPLAが発行したもので、アパルトヘイト政策を展開するのみならず、UNITAを支援して内戦に干渉する南アフリカに対する強い抗議の意思が表されたものといえます。

 その後、UNITAはゲリラ化し、アメリカと南アフリカの支援を受け続け闘争を継続しましたが、FNLAは1984年に降伏し、1988年に国外へ撤退。冷戦終結後の1991年、MPLAとUNITAは包括和平協定に調印し、翌1992年の選挙ではMPLAが勝利し新政府が樹立されたものの、UNITAはこれを認めず、最終的に、2002年まで内戦が続きました。
 
 なお、アンゴラの内戦が終結する前年の2001年、すでに黒人政権が発足していた南アフリカでは、ソウェト蜂起25周年の記念切手が発行されています。ソウェト地区には関連の博物館もあり、切手に取り上げられたのと同じ写真を用いたモニュメントもあるそうなので、しっかりと拝んでくるつもりです。


 (追記)

 で、先ほどホテルに戻ってきました。モニュメントは博物館前庭の噴水の中にこんな感じで立っていました。忘れないうちに、アップしておきます。

         へクター・ピーターソンのモニュメント


 ★★ 突然ですが、テレビに出ます ★★

 きょう(あす?)10月27日深夜00:20~01:15、テレビ朝日系の「お願い!ランキング」という番組の「怪しい本の集まる図書館」というコーナーにて、おなじみの佐藤B作切手の話とともに、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』が登場します。もちろん、すでに収録済みのVTR放送で、南アからの衛星生中継ではありません。

 当初の予定では、11月3日放送の「スマステーション」に登場の予定だったのですが、急遽、前倒しになりましたので、ご案内いたします。

 よろしかったら、ぜひご覧ください。


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 アンゴラの小型シート
2006-11-11 Sat 01:08
 今日(11月11日)はアンゴラの独立記念日だそうです。というわけで、こんなものを持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)

アンゴラ300年

 これは、アンゴラがポルトガル領だった1948年にポルトガル領アンゴラ300年を記念して発行された小型シートで、アンゴラゆかりの人物や風景を描く切手10種が収められています。

 大西洋に面するアフリカ南西部のアンゴラの地にポルトガル人が初めて到着したのは1482年のことです。その後、ポルトガルはブラジルへの奴隷供給後として開発を進めていきました。

 第2次大戦後、世界的に植民地の独立運動が盛んになると、当然、その余波はポルトガル領にも及ぶことになります。ところが、当時のポルトガルの独裁権力者サラザールは独立運動を徹底的に押さえ込もうとします。その一環として、アンゴラを含む多くのポルトガル領が、制度的には植民地から“海外県”に変更され、本国との“対等な立場”が強調されるようになりました。今回ご紹介している切手も、そうした状況の下で、アンゴラがポルトガル領として長い歴史を持っていることを強調するために発行されたものです。

 その後、1960年代に入ると、アンゴラでも独立運動が激化。1974年のいわゆるカーネーション革命で独裁体制が崩壊(サラザール自身は1968年に病気で引退し、1970年に亡くなります)すると、独立が認められました。

 とはいえ、ポルトガルの撤退に伴い、アンゴラではソ連とキューバの支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) とアメリカ合衆国と南アフリカ共和国が支援するアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) がそれぞれ政府を樹立し、内戦状態に突入します。その後も、MPLAがいちおうは政権を掌握したものの、内戦は延々と続き、最終的に和平が実現したのは27年後の2002年のことでした。

 東西冷戦の代理戦争ともいわれたアンゴラ内戦に関しては、キューバが派遣した部隊の軍事郵便のカバーが時々オークションなどに出品されています。特別に高いものではないのですが、なかなかご縁がなくって現在のところ入手できていないのが残念です。
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