内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 “戦場にかける橋”で負傷事故
2016-05-22 Sun 15:22
 映画「戦場にかける橋」の舞台として知られるタイ中部カンチャナブリ県のクウェー川鉄橋で、きのう(21日)、日本人男性が鉄橋の線路上で写真を撮影していたところ、後方から列車が来ていることに気付かず、はねられて橋から落下し、肋骨を折るなどして病院で手当てを受ける事故があったそうです。お気の毒ではありますが、これはご本人の不注意でしょうから仕方ないでしょう。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ収容所・タイプ2(オランダ宛)  タイ収容所・タイプ2(オランダ宛・裏面)

 これは、先の大戦中、泰俘虜収容所で使用されたタイプ2と呼ばれる葉書の使用例で、第1分所に抑留されていたオランダ軍の軍曹がスヘフェニンゲン宛に差し出し、その後、ハーグに転送されたものです。

 第2次大戦中の1943年、日本軍は泰緬鉄道の建設にオランダを含む連合国の捕虜を動員するため、“泰俘虜収容所”を設け、タイとビルマにまたがって収容所を設置しました。“泰俘虜収容所”は、鉄道の建設工事が終了した後も存続し、さまざまなタイプの葉書が作られ、捕虜たちに支給されました。

 今回ご紹介のタイプ2の葉書は、タイプ1の後に使用が開始されたもので、やや薄手の白紙に印刷されています。

 タイプ1と異なり表面も黒一色刷で、葉書の上部にはフランス語で捕虜郵便であることを示す“SERVICE DES PRISONNIERS DE GUERRE”の表示が新たに入れられ、「郵便はがき」の日本語表示は外されました。ちなみに、捕虜の通信は一定の条件の下で無料扱いとなるが、そのためには郵便物に万国郵便連合の公用語であるフランス語で捕虜の通信であることを明記しなければなりません。タイプ1の葉書では、そうした表示がなかったため、タイプ2の葉書では改善が図られたものと思われます。

 また、日本語での「俘虜郵便」、「泰俘虜収容所」ならびに検閲印の押印欄や差出人の情報や宛名欄の英文表示のデザインなどもタイプ1とは異なっています。なお、収容所名の記入欄には、泰俘虜収容所をそのまま訳したためか、英文で“Thailand”との表示が印刷されていますが、上述のように、“泰俘虜収容所”の分所はビルマインドシナにも置かれており、実際には差出地がタイ国内に限定されるものではありません。

 裏面の通信欄には、“IMPERIAL JAPANESE ARMY”の題字の下に、日付を記入する欄が設けられています。その下にあらかじめ印刷されている文面は以下の通りです。

  あなたの手紙(と   )をありがたく受け取りました。
  健康状態は(良い ふつう 悪い)です。
  病気で入院しています。
  賃金をもらって働いています。(月給を受け取っています)
  働いていません
  (     )によろしくお伝えください。

 捕虜としての収容期間が長引き、捕虜宛に本国からの郵便物や小包が届くこともあったため、それらの受信状況を相手に知らせるための一文が追加されている点もタイプ1との大きな違いといえましょう。

 なお、泰緬鉄道と鉄道建設に動員された捕虜たちの郵便については、拙著『タイ三都周郵記』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 
 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

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       ペニーブラック表紙 2350円+税

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 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 オランダ宛の捕虜郵便
2014-10-30 Thu 14:39
 国賓として来日中のオランダ国王夫妻を迎えての宮中晩餐会が、きのう(29日)、皇居・宮殿で行われ、アレキサンダー国王は、先の大戦中、日本軍に抑留されたオランダ人捕虜の問題を「忘れることはできない」としたうえで、「両国が和解に向け全力を尽くし、新しい信頼関係が生まれました」と述べられました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      泰俘虜葉書・タイプ1A    泰俘虜葉書・タイプ1A(オランダ宛・裏面)

 これは、先の大戦中、泰俘虜収容所で使用されたタイプ1と呼ばれる葉書の使用例で、キンサイヨークの第6分所に抑留されていたオランダ軍の大尉がからハーグ宛に差し出し、その後、ヴィッテ・ラフに転送されたものです。

 第2次大戦中の1943年、日本軍は泰緬鉄道の建設にオランダを含む連合国の捕虜を動員するため、“泰俘虜収容所”を設け、タイとビルマにまたがって収容所を設置しました。“泰俘虜収容所”は、鉄道の建設工事が終了した後も存続し、さまざまなタイプの葉書が作られ、捕虜たちに支給されました。

 今回ご紹介しているタイプ1の葉書は、表面(宛名面)はクリーム色、裏面(通信面)は灰色の厚手の用紙に印刷されており、表面には、「郵便はがき」、「俘虜郵便」、「泰俘虜収容所」の表示と検閲担当者の印を押す欄がオレンジ色で印刷され、差出人の氏名、国籍、階級、収容所名と宛名欄は黒で印刷されています。一方、裏面には、大日本帝国陸軍(IMPERIAL JAPANESE ARMY)の表示の下、以下のような文面があらかじめ印刷されています。

 私は(収容所名)に収容されています。
 健康状態は大変良好です。
 病気で入院しています。
 賃金をもらって働いています。
 働いていません。
 (    )によろしくお伝えください。

 葉書を差し出す捕虜は、2行目と3行目、4行目と5行目に関してはどちらかを選択するようになっていますが、僕が調査した限りでは、「病を得て病院にいます」ならびに「働いていません」を選択した事例は見たことががありません。

 今回ご紹介の葉書については、差出の日時は不明ですが、赤十字経由で欧州に送られ、ベルリンで当時オランダを占領していたドイツ当局の検閲を受けてから(そのことを示すAbの印が押されています)、宛先へ届けられました。裏面には1943年12月17日受取との書き込みもあります。

 なお、キンサイヨークに泰俘虜収容所第6分所が開設されたのは1943年1月21日のことで、当時、泰緬地域から差し出された捕虜郵便が欧州に到着するまでは1年近くかかることも珍しくなかったことを考えると、収容所の開設後まもない時期に差し出されたものではないかと思われます。

 ちなみに、泰緬鉄道については、拙著『タイ三都周郵記』でも1章を設けてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 ・11月1日(土) 14:30- 全国切手展<JAPEX>
 東京・浜松町で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『朝鮮戦争』のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 インターネット放送・チャンネルくららにて、10月8日より、内藤がレギュラー出演する新番組「切手で辿る韓国現代史」が毎週水曜日に配信となります。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 10月から、毎月1回(原則第1火曜日:11月4日、1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は11月4日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 泰国郵便学(15)
2011-08-24 Wed 20:28
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第4号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、大東亜戦争の終結についてまとめてみました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        トレンガヌ・戦後使用

 これは、終戦直後の1945年9月9日、“タイ領トレンガヌ”で使用された切手です。戦時中の1943年10月、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州をタイに割譲し、これらの地域ではタイの切手が使われていました。戦後、これらの地域には英印軍が進駐しますが、英国側がマレー4州の郵政を接収するまでの間は、従前通り、タイ側がこの地域の郵便実務を担当しています。今回ご紹介のモノも、そうした過渡期の使用例です。

 さて、「大東亜戦争」での日本の敗戦を受けて、1945年8月16日、タイは、1941年の米英に対する宣戦布告に摂政プリーディーが署名しなかったことを根拠として、連合諸国への宣戦布告はタイの意図に反して日本に強制されたものであり、法的にも無効であると宣言しました。同時に、戦争中、日本との同盟により回復した、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスのマラヤ4州とモンパンとケントンのビルマ2州の“失地”を英国に返還することを明らかにします。

 これに対して、米国は、8月21日、この無効宣言をいち早く受け入れました。その背景には、英仏の国力が衰退し、東南アジアにおける戦後の国際秩序の再編成が避けられない以上、曲がりなりにも第二次大戦以前から長きにわたって独立を維持していた唯一の国であるタイを戦後の東南アジア戦略の要として取り込んでおくのが得策であり、そのためには、タイのすみやかな戦後復興を促す必要があるとの米国の情勢判断がありました。

 一方、英国は日本との同盟により、マレー4州とビルマ2州を奪い、泰緬鉄道の建設工事で多くの英豪兵士の命が失われたこともあり、タイをあくまでも敵国、すなわち敗戦国とみなして強硬な姿勢を取っていました。

 このように、タイの戦後処理をめぐって米英の思惑が食い違う中、9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦・ミズーリ号上で降伏文書が調印されます。ついで、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で発せられた「一般命令第一号」では、東南アジア連合国軍最高司令官(ルイス・マウントバッテン)とオーストラリア軍総司令官(トマス・ブレイミー)が、インドのアンダマン・ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏印、マラヤ、ボルネオ、蘭領インドネシア、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンの日本軍の降伏を受理することになりました。その具体的な分担は、ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島がオーストラリア軍総司令官の管轄、それ以外は東南アジア連合国軍最高司令官の管轄です。

 これを受けて、2万7000人の英印軍がタイに進駐し、タイに駐留していた日本軍将兵は武装解除され、ナコーンナーヨックの収容所で引き揚げを待つことになりました。

 タイとの和平交渉において、当初、英国は、マラヤ4州とビルマ2州の英領復帰のみならず、連合国によるタイ国軍の管理、連合国資産の原状回復、コメ150万トンの供出などの21カ条をタイ側に要求していました。連合国による国連合国による国軍の管理は明らかにタイを敗戦国として扱うもので、タイの独立を危うくするものでしたし、コメの供出も、戦争で疲弊したタイ経済にとっては大きな負担でした。

 しかし、結局、タイに好意的な米国のとりなしにより、1946年1月、タイによる宣戦布告の無効確認、英国資産の原状復帰、コメ150万トンの供与などを骨子とする平和条約が調印され、タイと英国との戦争状態も終結しました。

 今回の連載記事では、このほか、終戦後の連合国の元捕虜たちの通信等もご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 泰国郵便学(14)
2011-06-29 Wed 15:30
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第3号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、1943年の大東亜会議前後の状況についてまとめてみました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        第一次大戦勝利記念碑

 これは、大東亜会議終了直後の1943年11月25日に発行された第一次大戦勝利25周年の記念切手で、王宮前広場の西北に建てられた記念碑を描く記念切手が描かれています。

 連合国の反攻に追い詰められつつあった日本は、占領地域の対日協力を確保するためにも、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、戦争の大義であった“大東亜共栄圏の確立”をアピールするための政治イベントとして、1943年11月に東京で大東亜会議を開催しました。

 大東亜会議は、日本とその勢力圏内にあった6つの政府(満洲国、中国汪兆銘政権、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府)の代表を集めて行われたものですが、タイとしては、同会議への参加が、戦後、みずからの立場を悪化させることのないように細心の注意を払わねばなりませんでした。タイにしてみれば、連合国側から、日本の“傀儡政権”とみなされている満洲国などと同列に扱われ、戦後、“傀儡政権”と同様の処分を受けることだけは、なんとしても避けなければならなかったからです。

 このため、会議1ヶ月前の10月6日、タイ駐在の日本大使・坪上貞二が首相のピブーンに対して会議への出席を要請すると、ピブーンは即座に健康上の問題を理由にみずからの参加を拒否。そのうえで、ピブーンが「他の列席国と異なり、タイは古くからの独立国であって日本の同盟国である。他国と異なるタイの立場に対して、日本はどのような待遇をするのか」と質問します。日本側からすれば単なる難癖ですが、タイとしては、自国の領内に日本軍が駐留している中で、戦後の生き残りをかけてのギリギリの抵抗でした。

 結局、この問題は坪上が「(同年7月の)登場総理のタイ国訪問に対する答礼者として接遇する。答礼者としての地位に対しては、あらゆる経緯を尽くすが、会議そのものはイロハ順によらざるを得ない」と回答。これを踏まえ、ピブーンの代理には、名実ともにタイを代表する人物として、王族のワンワイタヤコーン(ナラーティップポンプラパン)親王をタイ代表として会議に派遣することで決着しました。

 さて、ワンワイタヤコーン親王一行は、大東亜会議初日の1943年11月3日に羽田に到着。そのまま、最初の公式日程として、午後4時から首相官邸で開催された東條首相招待のお茶の会に直行しました。

 タイ側は、親王は急病のため、丸2日間、まったく食事を摂らず、40度近い発熱をおしてバンコクを飛び立ってきたと説明。このため、翌4日に予定されていた東條との懇談はキャンセルされ、親王は宿泊先の目黒区駒場の前田利建侯爵邸で“静養”しています。

 5日の会議は、親王を先頭に各代表が議場に入場して始まりました。親王の席はホストで議長の東條英機の右側。日本側は、ピブーンの“難癖”を忠実に受け止めたようです。

 会議では、当初、親王の演説は午後からの予定でしたが、午前中の東條英機、汪兆銘の演説が早めに終わったため、午前中に繰り上げられました。演説において、親王は「タイ国が日本に援助を求めるとすれば、それは戦争完遂のため其の経済力を維持する上に於て必要とするものに限られて居るのであります」と述べ、あくまでも今回の対米英戦争でタイの果たしている役割は限定的なものにすぎないとの姿勢を強調しています。

 ちなみに、当時の駐日タイ大使ディレーク・チャイヤナームは、ピブーンの政敵で開戦当初から連合国との連絡を模索し、抗日の自由タイ運動を組織していた摂政プリーディー・パノムヨンの影響下にあった人物。さらに、ディレークの部下で、親王の演説草稿に手を入れて、戦後、連合国から追及される可能性のある文言を入れ替えた二等書記官のタナート・コーマンも、自由タイに深くかかわっていました。

 演説を終えた親王は、「タイ国は国土の外に置いても戦う用意があるか」との日本人記者の質問に対して、「そんな質問に答えたら、敵に情報を教えるようなものだ」と受け流して日本側に言質を与えず、会議が終了すると、病気を理由に他の代表に先駆けて真っ先に帰国し、日本との関係が深化するのを極力避けることに成功しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯の後に発行されたものでした。

 第一次大戦に参戦したタイは、最小限の犠牲で戦勝国としての立場を確保したことによって、その後の不平等条約改正の足がかりをつかんでいます。したがって、四半世紀という節目にあたり、あらためて第一次大戦の勝利を祝うことは、タイにとって、それ自体、なんら不思議なことではありません。また、戦時かという状況を考えれば、そこに、現在の戦争でも勝利を目指して国民の戦意を鼓舞するという建前のプロパガンダを読み取ることも可能でしょう。

 しかし、第一次大戦では、タイは日本とも盟友関係にありましたが、同時に、英国とも盟友関係にあったことも見逃せません。特に、タイが参戦する以前の1915年、イギリス国王ジョージ5世がワチラーウットに英陸軍の名誉大将の位を授与した際には、局外中立というタイの公式な立場とは別に、これをタイが国際社会から一人前とみなされたことの証として、喜んで受け入れたこと、タイから派遣された“義勇軍”がフランスで訓練を受けていたことなどを想起すれば、タイ人にとっての第一次大戦は、まさに、英仏と共同歩調をとった戦争であり、そこに“日本”のイメージが入る余地はきわめて小さいといえます。

 日泰攻守同盟条約を結び、米英との戦争が継続していたはずの時期でさえ、こうした切手が発行されているところに、タイのしたたかさを感じるのは僕だけではないでしょう。

 なお、ピブーン政権は1944年に入ると、最小限の対日協力は続けながら連合国と内通して、時機を見て抗日に転じる機会をうかがうようになります。その後、ピブーンは1944年7月に政権の座を追われ、タイの権力を握った摂政のプリーディーによって樹立されたクワン・アパイウォン政権には自由タイの重鎮も入閣し、日本との関係は一層冷却しました。ただし、自由タイが連合国の支援を受けて計画していた反日武装蜂起は、それが実際に起きる前に終戦が訪れたため、幻に終わっています。


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 泰国郵便学(13)
2011-04-21 Thu 23:55
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第2号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、前回に引き続き、第二次大戦中の泰俘虜収容所の郵便物についてご紹介しました。その中から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます) 

      泰俘虜収容所・タイプ1(オランダ宛)     泰俘虜収容所・タイプ1(オランダ宛・裏面)

 これは、泰俘虜収容所で使用された最も基本的なタイプ1と呼ばれる葉書の使用例で、チュンカイの第2分所からオランダのスーストデイク宛に差し出されたものです。

 葉書の表面(宛名面)はクリーム色、裏面(通信面)は灰色の厚手の用紙に印刷されており、表面には、「郵便はがき」、「俘虜郵便」、「泰俘虜収容所」の表示と検閲担当者の印を押す欄がオレンジ色で印刷され、差出人の氏名、国籍、階級、収容所名と宛名欄は黒で印刷されています。一方、裏面には、大日本帝国陸軍(IMPERIAL JAPANESE ARMY)の表示の下、以下のような文面があらかじめ印刷されています。

 私は(収容所名)に収容されています。
 健康状態は大変良好です。
 病気で入院しています。
 賃金をもらって働いています。
 働いていません。
 (    )によろしくお伝えください。

 葉書を差し出す捕虜は、2行目と3行目、4行目と5行目に関してはどちらかを選択するようになっていますが、僕が調査した限りでは、「病を得て病院にいます」ならびに「働いていません」を選択した事例は見たことががありません。

 泰俘虜収容所の収容者の中では英国人が最も多かったためか、今回ご紹介の葉書も英国宛と誤認され、当初は赤十字経由で英国に送られて検閲を受けました。そこで、葉書がオランダ宛であることがわかり、中立国のスペイン・マドリードまで航空便で送られ、ベルリンで当時オランダを占領していたドイツ当局の検閲を受けてから(そのことを示すAbの印が押されている)、宛先へ届けられました。なお、マドリードで押された中継印には、1944年1月5日との表示があります。

 今回の記事では、泰俘虜収容所で使用された5つのタイプの葉書についてご紹介しながら、第二次大戦中、タイに置かれていた日本軍の捕虜収容所についてまとめてみました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


  ★★★ イベントのご案内 ★★★

     切手百撰ポスター(小)

 以前の記事でも少しお話ししましたが、4月25日付で平凡社から拙著『切手百撰 昭和戦後』を上梓いたします。これにあわせて、下記のイベントに登場します。

 ・4月30日(土) 15:00- 出版記念トーク
 於 東京・浅草 都立産業貿易センター台東館6階特設会場
 スタンプショウのイベントの一つとして、出版記念のトークを行います。また、会場内で『切手百撰 昭和戦後』をお買い上げの方に、素敵なプレゼントをご用意しております。(画像は、会場内に掲示予定のポスターです。こちらもご覧ください)

 ・5月7日(土) 10:15- 切手市場
 於 東京・池袋 東京セミナー学院
 詳細は主催者HPをご覧ください。最新作の『切手百撰 昭和戦後』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。

 どちらも入場無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

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 泰国郵便学(10)
2010-10-31 Sun 13:25
 まずは速報から。

 ヨハネスブルグで開催中のアジア国際切手展<JOBURG 2010>ですが、きのう(30日)行われたパルマレス(受賞パーティー)の席上、28日の審査委員会で行われた投票の結果が開票され、3賞は以下のように決まりました。

・グランプリ・ドヌール
 Que, Mr. Mario(フィリピン) Philippines- King Alfonso VIII ‘Baby’Issues
・グランプリ・インターナショナル
 Euarchukiati, Mr. Nuntawat(タイ) Thailand: King Rama VIII and the World War II
・グランプリ・ナショナル
 Klugman, Mr. Keith(米国) Classic Vistorian Natal (1836-1879)

 今回の切手展はアジア展ですが、ドイツ、イタリア、英国、米国など、一部欧米諸国も招待されており、その中から米国の作品がグランプリ・ナショナルとなりました。

 なお、日本からは文献2点のエントリーがありましたが、1点は未着で、正田幸弘さん御出品の KEIO Philatelist 35 が銀銅賞(66点)という結果になりました。

 受賞者の皆様、おめでとうございます。

 さて、日本を出発する直前に財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第5号ができあがってきたのですが、僕が担当している連載「泰国郵便学」では、今回は1939年の第2次大戦勃発から1941年の“大東亜戦争(いわゆる太平洋戦争に相当するタイ語の直訳は大東亜戦争です)”開戦までを取り上げました。偶然ですが、今回のグランプリ・インターナショナルの題材と重なっておりますので、きょうは、その中からこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         1941年シリーズ・農構図

 これは、1941年シリーズの通常切手のうち、水牛による農耕の場面を取り上げた50サタン切手です。

 1939年9月、第2次欧州大戦が勃発すると、タイはただちに中立を宣言します。第一次大戦の際と同様、とりあえずは中立を維持しておき、戦局の帰趨をしっかりと見極めたうえで勝ち馬に乗ろうという戦略です。このため、1940年6月12日、タイは英仏日の主要3ヵ国と不可侵条約(ないしはそれに相当する条約)を締結しました。

 ところが、3日後の6月15日にパリが陥落。同月22日、フランスはドイツに降伏し、パリを含むフランス北部はドイツの占領下に置かれ、南部はイタリアの占領地域を除く部分は実質的なドイツの傀儡政権の支配下に置かれることになりました。

 これに伴い、日中戦争を戦っていた日本は、同年9月、中国との国境封鎖を求めてフランス領インドシナ(仏印)の北部に軍事進駐するとともに、日独伊三国軍事同盟を締結。19世紀以来、英仏の圧迫によって広大な領土を失ってきたタイは、これを失地回復の好機が到来したものと受け止めます。

 ナショナリズムを前面に掲げ、ラッタニヨム政策を発動したピブーン政権としては、フランスが弱体化したのを好機ととらえ、メコン川右岸をはじめ、失地の返還を要求。当然のことながら、フランス側はタイの要求を一蹴しましたが、ピブーンは大タイ主義を唱えて国民の領土返還要求を喚起していきます。

 こうして両者の緊張が高まる中、1940年11月、フランスがタイを空爆することで国境紛争が勃発。翌1941年1月5日、タイ陸軍はフランス領カンボジアに進攻しました。海軍と創立から日の浅かった空軍もフランスと交戦し、大きな犠牲を出しながらも、「タイの失地回復に協力することにより日泰緊密関係を確立するとともに、仏印を利導して仏印に対する帝国勢力の進出拡充を図り、以って帝国の大東亜における指導的地位の確立に資せんとす」とする日本の調停により、5月には東京で両国の条約が調印され、タイがラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復することで紛争は決着しました。

 ピブーン政権は、この結果を、日本以外のアジアの国が欧米と戦って得た初めての勝利と大々的に宣伝し、一連の紛争で亡くなった陸海空軍将兵と警察官583名を慰霊する記念塔をバンコク市内に建立。これが、現在、バンコクから北部のチェンライへ伸びる国道一号線、パホンヨーティン道路の起点とされている“戦勝記念塔”です。

 日本の調停によってタイが失地を回復したことで、日本はタイが親日国となり、来るべき米英との戦争に際して日本に協力的な態度を取るものと期待しましたが、失地の回復という果実を得たタイは再び中立政策に回帰し、米英と日本のパワーバランスを均衡させ、勝ち馬に乗る道を模索するようになります。

 すでに、仏印との国境紛争の最中からタイは、日本のほか、イギリスに対しても支援を求めており、イギリスもこれに応える用意があったとされる。ただし、このときはアメリカがタイと日本の関係を疑ったため、イギリスはタイに対する積極的な支援は控えざるを得ませんでした。

 それでも、1941年4月17日から、ロンドンのウォータールー・アンド・サン社で製造された新たな通常切手がタイで発行されるようになったのは、タイとイギリスの良好な関係が維持されていたことの証拠といってよいでしょう。

 新たな通常切手は、1935年に新国王としてアーナンタマヒドン(ラーマ8世)が即位したことを受けて、従来のプラチャーティポック王の切手に代わるものとして発行されたものですが、国王の肖像が取り上げられているのは、全12種のうち、低額面の4種類(2サタン、3サタン、5サタン、10サタン)のみで、中額面の15サタン、25サタン、50サタンには水牛を使った農構図が、高額面の1バーツ、2バーツ、3バーツ、5バーツ、10バーツにはアユッタヤー郊外にあるバーンパイン離宮のアイサワン亭が取り上げられています。

 1883年に発行された最初の切手以来、タイの通常切手は国王の肖像を描くものだけでしたから、国王の肖像以外のデザインの通常切手が発行されたのは、タイの切手史においては画期的なことであったといえます。

 1932年の立憲革命の後、革命を主導した人民党政権はプラチャーティポック王と対立を深め、1934年、国王は眼病治療の名目でイギリスに渡ったまま、1935年3月2日に退位してしまいました。その後、幼少の甥、アーナンタマヒドンが即位するものの、新国王は第二次大戦の終結までスイスにとどまり、タイは実質的に国王不在の状態となっています。

 こうした状況の下で、ラッタニヨム政策を発動してタイのナショナリズムを宣揚しようとしたピブーン政権にとっては、国号をタイと改めた新たな体制が国王の占有物ではなく、近代的な国民国家であることを内外に示す必要がありました。国王の肖像以外にも“タイ”を象徴するデザインの切手が発行されたこと、特に、外国郵便にも使用される可能性の高い中・高額面の切手に国王の肖像が登場していないのは、そうした政権の意思の表れとみなすことができます。

 特に、中額面のデザインとなった農耕作業は、タイが東南アジア有数のコメの生産国であるということもさることながら、中国人による経済活動の独占状況を打破するため、政権が積極的に経済活動に介入し、国営企業としてのタイ米穀社を設立し、コメの流通や精米などの業務に乗り出したこととも無縁ではないでしょう。

 今回の連載記事では、こうした“大東亜戦争”直前のタイが置かれていた微妙な状況を切手や郵便物を使ってご説明しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 11月13日(土)13:00から、東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く』刊行記念のトークイベントを予定しております。一般書店での販売は11月25日以降の予定ですが、今回は会場限定での先行発売も行いますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。

 
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 泰国郵便学(9)
2010-08-28 Sat 11:42
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第4号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は1932年の立憲革命とその後の状況について取り上げました。その中からこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         タイ表示の最初の切手

 これは、1940年5月13日に発行されたチャクリー宮殿の切手です。

 立憲革命後の1932年12月に発布された恒久憲法は、形式的にはイギリス型の議会制民主主義の体裁を取っていました。しかし、議会制民主主義が定着するまでの“経過措置”として、国会は人民が選挙する民選議員と国王(実際には幼少の国王に代わって人民党政権)が任命する任命議員が同数を占めるものとされていました。当然のことながら、人民党はこの“経過措置”を利用して権力の独占をはかり、純粋に民意を背景に当選してきた民選議員と対立することになります。

 こうした状況の下で、民選議員が激しい政府批判を展開すると、パホン政権は民選議員に対して弱腰であるとの批判が人民党内部で強まり、内閣は退陣に追い込まれ、41歳のピブーンが首相として表舞台に登場してきました。

 ピブーンは首相就任早々、反対派を逮捕・投獄するなどの大弾圧を行うとともに、王室財産とそこから生じる収益を流用して議員たちに利益を分配することで、短期間に議会を掌握。権力基盤を確立したピブーンは、1939年6月24日の革命7周年の記念日から、従来、チャクリー王朝の創始記念日であった4月6日に代えて、6月24日をナショナルデーとしました。もはや、王室ではなく革命を主導した人民党政権こそがタイの権力の中心にあることを宣言したといってよいでしょう。

 さて、1939年6月24日の革命記念日に際して、ピブーンは「文明国人と同一の完全な愛国心をタイ人にもたせるための出発の日にすべき」と演説して、ラッタニヨム政策(国家信条)を発動。その第一弾として、彼は従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国号を“タイ”に変更することを明言。同年10月6日の憲法改正により、国号は正式にタイへと変更されました。今回ご紹介の切手は、この国号変更に伴って、切手の国名表示が“タイ”となった最初のケースとなりました。

 なお、切手に取り上げられたチャクリー宮殿については、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 


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 バンコクの戦勝記念塔
2009-11-06 Fri 08:53
 おととい(4日)、カンボジア政府がフン・セン首相の経済顧問に、汚職で実刑判決を受け国外で逃亡生活を送るタイのタクシン元首相を任命したことに抗議し、きのう(5日)、タイ政府は駐カンボジア大使の召還を決定。カンボジアも駐タイ大使の召還を決めるなど、タイ=カンボジア関係が急速に悪化しています。というわけで、きょうはこんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 戦勝記念塔   戦勝記念塔(実物)

 左の画像は1943年にタイで発行された戦勝記念塔の切手です。右側に、塔の建っているロータリーの写真(画面の右側が記念塔。2007年撮影)も貼っておきましょう。

 1868年にラーマ5世が即位した頃のタイは、現在の領土のみならず、現在の国名でいうラオスのほぼ全域やベトナムの北部、カンボジア西部、さらには、マレーシアの北部までをも勢力化に収めた域内の大国でした。もっとも、タイのラタナコーシン王朝(チャクリー王朝)の直接支配はその全域に及んでいたわけではなく、地方の小領主がバンコクの王室に服属し、結果として緩やかな連合国家を形成されていたというのが実態でしたが…。

 イギリスとフランスは、こうしたタイ国家の構造を利用して、周辺の属国をラタナコーシン王朝の支配下から切り離すことで領土を拡大していきました。このため、タイ側から見れば、そうした失地の回復は国民国家としての悲願となっていました。

 こうした歴史的な背景の下で、1939年9月、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、翌1940年6月、フランスがドイツに降伏します。さらに、アジアでは日中戦争を戦っていた日本が、同年9月、中国との国境封鎖を求めて仏印の北部に軍事進駐しました。民族主義を前面に掲げて1938年に発足したピブーン政権の目には、こうした国際環境の変化は、失地回復のための絶好のチャンスと映ります。

 かくして、1940年11月、タイと仏印との間で国境紛争が勃発。翌1941年1月5日、タイ陸軍はフランス領カンボジアに侵攻しました。海軍と創立から日の浅かった空軍もフランス側と交戦し、大きな犠牲を出しながらも、1月28日、日本の調停により、タイがラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復することで紛争は決着しています。

 ピブーン政権は、この結果を、日本以外のアジアの国が欧米と戦って得た初めての勝利と大々的に宣伝し、一連の紛争で亡くなった陸海空軍将兵と警察官583名を慰霊する記念塔を建立。立憲革命の記念日である1941年6月24日に除幕式を行いました。この塔が、まさに今回ご紹介の記念塔です。

 さて、1941年に太平洋戦争が始まると、タイはそれまでの経緯もあって日本と同盟関係を結び、米英に宣戦布告しましたが、この切手が発行された1943年頃には、すでに日本には緒戦の勢いはなく、戦況は日本に不利になっていました。それでも、日本の後ろ盾を得て仏印から奪還した領土を維持するためには、ピブーン政権が表立って日本と敵対することは不可能でした。その一方でタイは戦後の生き残りをかけて日本と距離を置き始め、1943年11月に日本が“大東亜共栄圏”の各国代表を招集した大東亜会議にはピブーンは欠席し、ワンワイタヤコーン親王が代理として出席。親王は会議後の大東亜宣言に、全権大使としてではなくあくまでも一個人として署名し、その内容にタイ政府は拘束されないとの姿勢を暗に主張しています。また、親日派のピブーン政権とは別に、プリディー摂政が指揮する抗日地下組織がアメリカと秘密裏に協議して亡命政権を作るというチャンネルも確保されていました。

 結局、タイは第二次大戦を通じて、ラーマ五世の時代に失った領土の一部を回復したものの、日本の敗戦によってそれらはすべて、英仏両国に返還されることになります。また、親日政策を推進したピブーンは1944年7月に政権を追われて下野し、戦後は戦犯容疑者として拘置されました。ただし、戦後に制定された戦犯を裁く法によって、戦前・戦中の行為を裁くのは憲法違反であるということになって1946年には釈放され、1948年には再び首相の座に就いています。

 戦後のタイは、日本軍が駐留している中での米英への宣戦布告は対国民の自由意志ではなかったと主張して、アメリカによる敗戦国の指定を免れました(イギリスはタイの親日行為を許さず敗戦国として扱いましたが、東西冷戦下で反共を優先したいアメリカの圧力で、1946年1月にはタイとの講和条約を結んでいます)が、日本の支援を受けて仏印と戦い、勝利を収めたことまでが否定されたわけではありません。

 その証拠に、戦勝記念塔は現在なお撤去されずにバンコクから北部のチェンライへ伸びる国道一号線、パホンヨーティン道路の起点とされており、タイ国民にとっては国軍の栄光を物語る重要なシンボルとしての意味を維持し続けています。

 なお、バンコクの戦勝記念塔とその周辺については、<切手紀行シリーズ>の第1巻として2007年に刊行の拙著『タイ三都周郵記』でも、いろいろと書いておりますので、機会がありましいたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(5日)の午後、無事に青島から帰国いたしました。凱特設計会社の金忠杰社長ご夫妻をはじめ、現地でお世話になった皆様には、あらためて、お礼申し上げます。


 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。ちょっと変わったオフ会あるいは忘年会としていかがでしょうか。当日は、僕のトークのほか、楽しいアトラクションを予定しております。

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、12月18日までにキュリオマガジン編集部まで、電子メール(info@fujimint.com)にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。
 

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 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』

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 試験問題の解説(2008年7月)-2
2008-08-02 Sat 09:57
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)とについて説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 アイサワン亭

 これは、1941年に発行された5バーツの通常切手で、アユタヤのバーン・パイン宮殿のアイサワン亭が取り上げられています。

 バーン・パイン宮殿は、もともとは、アユタヤ王朝第24代の王、プラーサート・トーンが1632年にチャオプラヤー川の中洲、バーン・パインに建てた離宮で、当初は舟遊びに用いられていたといわれています。1767年、アユタヤが滅亡すると、バーン・パインの離宮も破壊されましたが、ラーマ4世の時代に再建が始められ、次のラーマ5世の時代に、現在の離宮の主な建物が建てられています。

 バーン・パインのシンボルともいうべき、アイサワン亭(正式名称はプラ・ティナン・アイサワン・ティッパアット)は、ラーマ4世がバンコクの王宮内に建てたアーポーン・ピモーク・プラサートを息子のラーマ5世がコピーして建てたもので、建物の中にはラーマ5世の銅像が立っていますが、この切手では確認できません。

 ところで、タイの通常切手は、1883年以来、原則として国王の肖像を描くものばかりでしたが、1941年シリーズでは、国王の肖像を描くもののにくわえ、水牛による耕作風景を描くモノや、アイサワン亭を描くモノなど、国王の肖像のない切手も登場しています。

 1932年の立憲革命の後、革命を主導した人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強め国王と対立を深めていきました。このため、1934年、国王ラーマ7世は眼病治療の名目でイギリスに渡り、1935年3月2日、そのまま退位。幼少の甥、ラーマ8世が即位するものの、新国王は第二次大戦の終結までスイスにとどまり、タイは実質的に国王不在の状態となります。

 こうした状況の下、1938年に首相に就任したピブーン・ソンクラームは、ナショナリズムを宣揚するラッタニヨム政策(国家信条)を発動。従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国名を“タイ”に変更したほか、タイ語を国語とする国民形成、国民の服装の西洋化、国産品の愛用、華僑の同化政策、全タイ民族の大同団結などの民族主義政策を展開していきました。その一環として、切手のデザインも、国王の肖像のみならず、広く“タイ“を象徴するものとして、バーンパイン宮殿などが取り上げられることになったというわけです。

 試験の解答としては、この切手に描かれているのがバーンパイン宮殿のアイサワン亭であることを明らかにした上で、バーンパイン宮殿とアイサワン亭についてきちんと説明し、この切手がラッタニヨム政策の時代のものであることを指摘できていれば、十分です。

 トーク・イベントのご案内
 きょう・あす(8月2・3日)の2日間、東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。

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 メディア史研究会・予告編
2008-01-26 Sat 10:42
 かねてご案内のとおり、本日(26日)14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)で開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題して、研究発表をしてきます。というわけで、その予告編を兼ねて、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 議事堂(1939年)

 これは、1939年6月24日にタイで発行された“6月24日革命(立憲革命)”の記念切手です。

 1925年、ラーマ6世の跡を継いで即位した弟のラーマ7世は、ラーマ6世時代の放漫財政によって生じた赤字の解消を最優先の課題としていました。このため、国王は大胆な行政整理を行ったが、そのことは官僚層の不満を鬱積させることになりました。

 ところで、当時のタイは絶対君主制で一般国民の参政権は認められていませんでしたが、国王は立憲君主制への移行措置として1927年に勅撰議員からなる枢密院委員会を創設。1932年3月には外相から提出させた憲法草案を修正のうえ、同年4月のバンコク建都150周年の記念式典をめどに公布しようとしていましが、有力王族の反対もあって果たせませんでした。

 こうしたなかで、おりからの世界恐慌の中でタイ経済の落ち込みがひどくなり、給与税などの新税が導入され、一般の官吏が減俸されている中で、特権的王族への支出は削減されず、国民の不満が爆発。1932年6月24日、立憲君主制の実施を求めていた人民党がクーデターを起こして王族を人質に取り、国王に憲法公布を要求します。国王の側近たちはクーデターを武力で鎮圧することを主張しましたが、国王は「憲法公布は自分も考えていた」としてこれに応じ、6月27日、人民主権の憲法に署名・公布し、タイは無血革命で立憲君主制へと移行しました。これが、立憲革命のあらましです。

 ところが、革命後の人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強めていきます。これに対して、巻き返しを図る国王は“真の議会制民主主義”の実現を求めて人民党政権と対立しますが、かえって“護憲民主勢力”と自称する人民党は反対派を“旧体制への復帰を意図する憲法の敵”として弾圧。このため、立憲君主制のお飾りとなることを嫌った国王は1934年1月、眼病治療の名目でイギリスに渡り、1935年3月2日、そのまま退位。2度と帰国することのないまま、1941年にロンドンで客死しました。

 さて、今回の僕の発表の主役となるプレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)は、立憲革命の際に陸軍の青年将校として指導的な役割を果たした結果、革命後、次第に権力を拡大。1938年、ついに首相に就任します。ピブーンはヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢いに感嘆して国家主義を掲げ、首相就任後初の革命記念日となった1939年6月24日、「文明国人と同一の完全な愛国心をタイ人にもたせるための出発の日にすべき」と演説して、ラッタニヨム政策(国家信条)を発動します。

 その第一弾として、従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国名を“タイ”に変更したほか、タイ語を国語とする国民形成、国民の服装の西洋化、国産品の愛用、華僑の同化政策、全タイ民族の大同団結などの民族主義政策を展開していくことになるのです。

 今回ご紹介の切手は、そうしたラッタニヨム政策の出発点となった1939年の革命記念日に発行されたもので、革命の成果として国会議事堂(旧アナンタ・サマーコム宮殿)が取り上げられています。もっとも、切手を発行したピブーン政権が議会制民主主義を尊重していたかというと、話はまったく逆で、1944年8月1日までの前期ピブーン政権の時代、総選挙はまったく行われていません。

 なお、この切手の国名表示は“サヤーム”ですが、この切手が発行されてすぐに国名はタイに変わりますので、翌1940年に発行の切手からは切手の国名表示も変更されることになります。

 今日の発表では、こうしてスタートしたピブーン政権の時代の切手や郵便が、当時の政治状況や社会状況とどのように関わっていたのか、また、1940年に仏印に進駐し、1941年に対米英戦争に突入した日本とどのように関わっていたのか、ということを、拙著『タイ三都周郵記』の内容を補いながら、お話しする予定です。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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