内藤陽介 Yosuke NAITO
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 タイ全土に戒厳令
2014-05-20 Tue 17:38
 昨年から政治混乱が続いているタイで、けさ(現地時間20日午前3時)、プラユット・チャンオチャ陸軍司令官が全土に戒厳令を発令し、国軍がすべての治安権限を掌握しました。タイでの戒厳令の発令は2006年にタクシン元首相を失脚させた軍事クーデター以来のことです。というわけで、今日はタイの国軍がらみということでこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイの砲兵

 これは、第一次大戦後の1920年12月にバンコクからエリトリア(アフリカ北東部、エチオピアの北側にある紅海沿岸の国で、当時はイタリア領でした)宛に差し出された絵葉書の絵面で、第一次大戦当時のタイの砲兵が取り上げられています。ちなみに、葉書に貼られている切手などについては、以前の記事でもご紹介したことがあるのですが、その時は絵面の話を書きませんでしたので、今回は絵面の方をご紹介します。

 タイにおける近代軍隊のルーツは、1852年、第2次英緬戦争でイギリスが海に面した下ビルマを併合したことに衝撃を受けたラーマ4世が軍制改革に乗り出し、歩兵・砲兵・海兵隊からなる常備軍を組織したことに求められます。

 その後、軍制改革はラーマ5世の時代にも引き継がれ、制度改革を経て、1874年には現在のタイ陸軍が創設されましたが、ラーマ6世の時代になると、それまで使用されていた旧式の大砲に代わって、新式の大砲が導入されることになります。これに伴い、1915年に陸軍士官学校を卒業し、見習士官として任官した軍の少壮エリートたちのうち、成績優秀な者は有無を言わさずに砲兵連隊に配属されました。後に、首相として絶大な権力をふるうことになるピブーンソンクラームもまた、このとき、中北部の第7砲兵連隊に配属された1人です。ちなみに、現在でも、タイの士官学校生の間では砲兵はエリートコースに直結する兵種として人気が高いそうですが、そのルーツはこうしたところにあるのかもしれません。

 さて、“大東亜戦争(タイでの第二次世界大戦の呼称)”後のタイでは、ヴェトナム戦争を含むインドシナ紛争の影響もあって、陸軍が政治的・社会的に大きな力を持っていました。しかし、1980年代に入り、インドシナ情勢が比較的安定してくると、外国からの投資が増え、陸軍に対する財界の依存度は相対的に低下していきました。

 こうした中で、1991年に陸軍によるクーデターが発生。クーデターの首謀者であったスチンダー・クラープラユーン(クーデター発生時は陸軍司令官)が1992年に首相に就任すると、これに反発し、民主化を求めた国民は、同年5月17日、元バンコク都知事のチャムロン・シームアンを指導者として、バンコクを中心に大規模な抗議デモを展開。これに対して、軍がデモ隊を武力で弾圧し、300名以上の死者が出る“血の5月事件”が発生しました。

 結局、事件は国王の仲裁により沈静化され、スチンダー・率いる軍事政権は退陣。元外交官で1991年3月から1992年3月まで首相を務めたアーナン・パンヤーラチュンが首相として再登板し、次期総選挙までの暫定政権を組織します。アーナン政権は、軍の政治介入に対する国民の不満を背景に、国営企業役員への軍人就任を制限するなど、軍の政治への影響力を低下させる政策を行いました。そして、1992年9月の下院総選挙を経て誕生したチュアン・リークパイの文民政権もまた、そうしたアーナン政権以来の路線を継承し、以後、軍の政治的影響力は大きく減じられることになりました。

 とはいえ、その後も国軍の政治的影響力は隠然たるものがあり、2006年9月20日には、タクシン派と反タクシン派の正装が激しさを増す中で、ソンティ・ブンヤラットカリン陸軍司令官を中心とする「民主改革評議会」がクーデターを起こしてタイ全土を掌握。憲法及び憲法裁判所と上下議会は停止され、国王を評議会の議長に、またソンティ自身を暫定首相に据えた暫定政権を発足させるなど、政治勢力としての国軍の影響力を見せつけています。

 プラユット司令官の声明によれば、今回の戒厳令は「(政権側と反政府デモ隊の政治対立により)暴力行為が激化する恐れがあり、平和と秩序の回復を図る」ためのものであり、クーデターではないとされています。実際、プラユット司令官本人は今年9月の退任を間近に控えてクーデターには否定的であるといわれていることに加え、今月15日には反政府デモ隊の集会拠点が襲撃され、デモ参加者ら3人が死亡、20人以上が負傷するなど、衝突による死者はこれまでに約30人にも上っており、プラユット司令官みずから、暴力が続けば「軍が行動を起こす」と警告していたという経緯もありますから、少なくとも現時点では、司令官の声明は額面通りに受け取ってよさそうです。

 現在、国軍は政権側と反政府デモ隊側双方に対し、事態打開に向けて早急に対話するよう促しているということですが、両者の話し合いがまとまらず、政治的空白が長期化するようであれば、今度こそ本当のクーデターに発展する可能性もあり、今後の推移からは目が離せませんな。


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 ドーンムアン空港再開
2012-03-07 Wed 17:20
 昨年(2011年)の大洪水で滑走路に水が押し寄せ、10月25日から閉鎖されていたタイ・バンコクのドーンムアン空港(国内線専用)が、きのう(6日)から4か月ぶりに運航が再開されました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ウボン=バンコクFFC

 これは、1925年2月、タイ東北部のウボンラーチャターニーからバンコク宛の初飛行の葉書です。

 タイの航空事業は、1913年、国防省が将来的に航空隊を組織する目的で購入した7機(ブレゲ複葉機3機とニューポールⅡ単葉機4台)に、富裕な商人のチャオプラヤー・アパイ・プベットが購入して寄贈したブレゲ複葉機1台を加えた計8台からスタートしました。

 これと並行して、3人のタイ人飛行士が渡欧。飛行機操縦の訓練を受けた後、フランス人のメカニックとともに、ロシア、日本を経由し、各地で試験飛行を見学しながら1913年11月2日にバンコクに帰着し、同日早朝、ピッサヌローク親王臨席の下、警察学校の校庭からスポーツクラブまでの試験飛行を行いました。これが、タイにおける最初の航空機の飛行となります。

 初の試験飛行の成功を受けて、バンコク中心部から北に23キロの地点にあるドーンムアンに航空隊の拠点が設けられ(1915年にはこの地に正式に軍用空港が開港)、1914年1月13日には国王ワチラーウット(ラーマ6世)臨席の下、最初の公開試験飛行が行われました。なお、現在、タイの空軍記念日とされている3月27日は、1918年のこの日に官制上の陸軍航空科が正式に発足したことにちなむものです。

 その後、1914年に第一次大戦がはじまった後も飛行距離1キロ未満の短距離訓練が行われていましたが、1916年になって、バンコクからバンコク南西のラーチャブリーまでの航空演習が開始されました。

 さらに、1917年、タイは第一次大戦に参戦し、フランスに400人の飛行部隊を派遣します。もっとも、彼らの能力は玉石混合で、全員が即戦力であったというよりも、タイとしては、大戦の機会をとらえて、“国際協力”の名の下に、短期間で多くの飛行士を養成してしまおうというのが本音だったようです。じっさい、100人以上の飛行士が訓練を受け、95人がフランスで軍事パイロットとしての資格を獲得しましたが、彼らは誰一人として実戦を経験しておらず、無傷のまま、1919年5月1日にタイへと帰国を果たしています。

 こうしたフランス帰りのタイ人飛行士たちは、草創期のタイの航空事業を支える中軸的な人材となりましたが、1919年12月、バンコク=チャンタブリー間でタイ最初の航空郵便(エアメール)が行われたのも、そうした彼らの業績のひとつとして記憶されておいてよいでしょう。

 その後、1922年にはサイアム航空(現在のタイ航空の前身)がナコーンラーチャシーマーとウボンラーチャターニーの間に初の国内線定期航路を開設し(同路線での航空郵便の取扱開始は1924年)、これと前後して、タイ国内の各都市を結ぶ航空郵便網も拡充されていくことになります。今回ご紹介の葉書のウボンラーチャターニー=バンコク線もその一つというわけです。

 なお、タイについては、今から5年ほど前に『タイ三都周郵記』と題する本を上梓しましたが、それがきっかけとなって、日本タイ協会とのお付き合いが始まり、同協会の『タイ国情報』に「泰国郵便学」と題する連載をすることになりました。いずれ同誌での連載終了の暁には、加筆修正して書籍化を目指したいものです。


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 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 
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 泰国郵便学(7)
2010-04-21 Wed 23:09
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第2号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は第一次大戦とタイとのかかわりを中心に取り上げました。その中からこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ワチラーウット1次+2次

 これは、第一次大戦後の1920年12月にバンコクからエリトリア(アフリカ北東部、エチオピアの北側にある紅海沿岸の国で、当時はイタリア領でした)宛に差し出された葉書で、ウィーン印刷の2サタン切手とロンドン印刷の3サタンが貼られています。

 第一次大戦が勃発したときのタイの基本的な外交姿勢は、とりあえずは中立を維持しておき、戦局の帰趨をしっかりと見極めたうえで勝ち馬に乗り、あわよくば参戦の代償として不平等条約改正にこぎつけるというものでした。このため、開戦後まもない1914年8月6日、国王ラーマ6世(ワチラーウット)が早々に中立を宣言しています。

 もっとも、国王本人はイギリスに留学していたこともあって、心情的にはドイツよりもイギリスに親近感を持っていたといわれています。じっさい、1915年にイギリス国王ジョージ5世がワチラーウットに英陸軍の名誉大将の位を授与した際には、局外中立というタイの公式な立場とは別に、これをタイが国際社会から一人前とみなされたことの証として、喜んで受け入れています。

 一方、当時の一般国民の間には、ドイツに対して好感を持っている者も少なくありませんでした。ドイツは、と異なり、タイの領土を蚕食したこともありませんでしたし、高品質のドイツ製品の人気も高かったからです。

 しかし、大戦の勃発により、連合国の英仏(の植民地)に包囲された格好のタイには、ドイツやオーストリアからの商品が輸入しにくくなっていました。切手もまた例外ではありません。

 ラーマ6世即位後の切手はウィーンのオーストリア帝室印刷局で製造されていましたが、大戦により、切手の輸入も困難になったため、1915年4月、需要の多い2サタン切手については、とりあえず、先代のラーマ5世(チュラーロンコーン)時代の切手に加刷したものを発行。その一方で、オーストリア帝室印刷局製のものと同じ図案の切手をロンドンのウォータールー・アンド・サン社に発注しています。

 こうして、ロンドン印刷の切手は1917年1月1日に発行されました。ウィーン印刷の切手とロンドン印刷の切手は、同額面のものについては刷色も同じですが(ただし、12、14、28サタンはウィーン印刷のみ、10および15サタンはロンドン印刷のみ)、目打の違いで区別できます。

 ちなみに、ロンドン印刷の切手が発行された直後の1917年1月、ドイツが無制限潜水艦作戦を再開し(ドイツは1915年2月から無制限潜水艦作戦を展開していますが、同年5月、客船ルシタニア号の撃沈により、中立国の米国人128人を含む多くの民間人が犠牲になり、国際的に非難を浴びたため、作戦を中止していました)、アメリカ国内の反独世論が高まると、アメリカは同じく中立国であったタイに対してもドイツへの抗議に加わるよう勧誘します。

 また、同年2月、革命によってロシアのロマノフ王朝が倒れ、チュラーロンコーンとも個人的な親交のあったニコライ2世は退位を余儀なくされたが、臨時政府はタイとの友好関係を継続し、タイに参戦を勧めるとともに、その代償として、タイの悲願である条約改正についても英仏に対して根回しを行いました。

 こうした経緯の後、4月6日にアメリカがドイツに対して宣戦を布告し、戦局の帰趨が定まってくると、5月28日、ラーマ6世は閣議を招集し、英仏側に立っての参戦の方針を明らかにします。そして、タイ政府は、ドイツならびにオーストリア人のお雇い外国人を解雇し、政府系新聞でのドイツ非難キャンペーンによる国内世論の地ならしを経て、7月22日、ドイツ・オーストリアに対して宣戦を布告。戦後は戦勝国としての立場を確保することになるのです。

 なお、第一次大戦前後のタイの状況については、拙著『タイ三都周郵記』でも、簡単にではありますがまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 タイの旧正月
2010-04-13 Tue 13:40
 今日(4月13日)から15日まではソンクラーン。タイの旧正月です。現在、タクシン派と反タクシン派の対立で混乱のさなかにあるタイですが、彼らにとって今日から始まるトラ年の1年が落ち着きを取り戻しますように、との意味を込めて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スア・パー加刷2次

 これは、1919年にタイで発行されたスア・パー加刷(2次)の1枚です。

 スア・パーとは、もともとは斥候や偵察を意味するタイ語で、英語の“スカウト”に相当します。1911年5月、ラーマ6世(ワチラーウット)が、国民の愛国心を涵養するための手段として組織しており、野虎隊とも呼ばれました。加刷がトラの顔と“Scout's Fund”となっているのはこのためです。ちなみに、タイではボーイスカウトのことをルーク・スアと呼んでいますが、ルーク・スアはスア・パーの下部組織として、スア・パー結成から2ヵ月後の1911年7月に組織されました。

 イギリス留学の経験から、現地でボーイスカウトの活動を実際に見聞きしていたラーマ6世は、スカウト運動の柱となる①神(特定の宗教の神を指すものではない)と国家に対する忠誠、②他者への奉仕、③心身の健全の“三つの誓い”を、国王を中心としたタイのナショナリズムを構築していくうえでも格好の支柱たりうるものと考え、帰国後の1905年頃から、近習の小姓たちを動員して“疑似戦争”を始めます。疑似戦争はサラーンロム宮殿周辺を演習場とし、彼らを2つのグループに分け、基本的には夜間に行われました。疑似戦争の目的は、参加者に国家と国王に対する忠誠心が刷り込んでいくのとあわせて、チュラーロンコーンの重臣団とは別に、ワチラーウット自身の側近グループを育成していくことにあたっとされています。

 こうした経緯を経て1910年に国王となったラーマ6世は、はやくも同年末には、近習学校に最初のルーク・スア部隊として“ルーク・スア・クルンテープ第1隊”を組織し、国王の警護が命令。以後、ルーク・スアは全国に拡大していきますが、国王はその一部を“国王直属隊”として、後に特別な制服や制帽を支給しています。

 しかし、正規軍とは別にスア・パーやルーク・スアを組織したことは、当然のことながら、正規軍の側の不満を醸成。はたして、1912年3月、陸軍士官学校軍医のクン・トゥアイハーンピタックらを首謀者とするクーデター未遂事件が発生しました。これが、ラッタナコーシン暦130年反乱事件です。

 事件の本質は、専制君主の濫費(彼らから見れば、スア・パーはその最たるものでした)により国家財政が疲弊し、国防がないがしろにされていると考えた彼らが、専制君主を廃して立憲民主主義を樹立することで問題を解決しようとしたもので、彼らの主張は、20年後の1932年革命へとつながっていくことになります。

 結局、事件は鎮圧され、スア・パーやルーク・スアもそのまま維持されていくことになるのですが、全国民的な運動としてのスカウト活動の展開には、反乱将校たちが指摘したように、巨額の経費がかかることもまた事実でした。このため、第1次大戦後の1919年から1921年にかけて、タイ郵政は、今回ご紹介したような寄付金つき切手を発行したというわけです。ちなみに、今回ご紹介の切手に関しては、額面2サタンの切手に3サタンの寄付金が上乗せされて発売されました。

 なお、第一次大戦前後のタイの状況については、拙著『タイ三都周郵記』でも、簡単にではありますがまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 泰国郵便学(6)
2010-02-24 Wed 17:52
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第1号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回はラーマ5世(チュラーロンコーン)からラーマ6世(ワチラーウット)への代替わりのことを中心に取り上げました。その中からこの1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・1912年シリーズ(高額)

 これは、ワチラーウット即位後最初に発行された1912年シリーズの1バーツ切手です。

 1910年10月のチュラーロンコーン崩御に伴い、皇太子であったワチラーウットがラーマ6世として即位します。

 ワチラーウットは1880年1月1日、チュラーロンコーンの第29子として生まれました。幼少時には王宮内のスワンクラープ校でタイ語と英語による教育を受けましたが、1893年にイギリスに留学し、当初はロンドン北西のアスコットに滞在。1898年以降はサンドハーストの陸軍士官学校で軍事教育を受けました。士官学校を卒業した1899年には、一時、オルダーショットの歩兵部隊にも配属され、軍人としての実地訓練も受けています。

 当初、ワチラーウットに期待されていた役回りは、国王を支える藩屏としての皇族官僚・政治家としての研鑽を積むことでしたが、1895年に兄で皇太子ワチルナヒットが16歳で亡くなったため、皇太子に指名されました。1900年以降は、オクスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで法律と歴史、経済、地理などを学んでいます。

 1902年12月、留学を終えたワチラーウットはアメリカ、日本などを経由し、翌1903年1月末に帰国し、陸軍監察総監に就任。イギリス留学で得た知見を活かして、タイにおける近代徴兵制度の導入に向けて尽力しました。

 近代以前のタイでも、制度上は首都近郊の平民に兵役が課せられていたが、実際には一定の金額を支払い役務の免除を受ける者が多く、軍の構成員は基本的には軍人の子弟もしくは志願者のみでした。ワチラーウットらによる近代徴兵制度の実施は、このように形骸化した徴兵制度の立て直し、近代常備軍を編成することによって、列強による植民地化の危機に対抗するためのもので、1903年、東北タイのコーラート州で試験的に実施された後、1905年に正式な徴兵令公布となりました。

 この他にも、1903年にワチラーウットが帰国してから1910年に即位するまでの期間は、青年将校を留学生としてさかんに列強諸国に派遣するなどして、タイ国軍の近代化が急速に進められ、一定の成果を上げつつある時期でした。

 かくして、1911年1月13日付で完成した第一軍管区の3師団は、チュラーロンコーンの喪が明けた後の同年12月2日に行われたワチラーウットの即位戴冠式の記念イベントの一環として、欧米ならびに日本の計13ヵ国から出席した国賓を前に、王宮前広場で大観兵式を行い、タイが曲がりなりにも近代常備軍を備えた国家であることを列強諸国に認識させようとしています。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯を経て1912年10月15日に発行されたもので、ウィーンのオーストリア帝室印刷局に製造が委託されました。切手の図案は、1バーツ以上の高額面が大型で軍装姿(右手に指揮杖を持ち、左手を剣の上に置いている)の国王のほぼ全身像を描いたもので、額面1バーツ未満の低額面は、そのうちの胸から上の部分を取り上げた小型のものとなっています。

 チュラーロンコーン時代の切手は、基本的には国王の胸像のみを取り上げたもので、軍装であるか否かが必ずしも判然としないデザインでしたが、新しく発行された切手は、従来以上に、国軍の長としての国王のイメージを強調するものとなっています。その背景には、曲がりなりにも近代国家としての軍制が整ったことに伴い、国王もまた近代的な国軍の最高指揮官へと脱皮したことを諸外国にアピールする意図が込められていたことは言うまでもありません。

 同時に、国王としてのカリスマ性という点において、新国王のワチラーウットは、とうてい父王チュラーロンコーンに及ぶべくもありませんでした。それゆえ、タイ国家は、国王の代替わりに際して、偉大なる先王チュラーロンコーンの権威を損なうことなく、新国王としてのワチラーウットのイメージを国民に速やかに浸透させていくという課題を抱えむことになりましたが、この点でも、“国軍の長”というわかりやすい記号は好都合だったといえましょう。

 なお、今回の記事では、このほかにも有名なボーイスカウト加刷についても触れていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 試験問題の解説(2008年7月)-3
2008-08-03 Sun 09:43
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)とに描かれているものについて説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 ガルーダ

 これは、1925年に発行されたタイ最初の航空切手の1枚で、ガルーダが描かれています。

 ガルーダは頭・翼・爪・口は鷲、胴・腕・脚は人間の半鳥半人の半神。もともとはインド神話に登場する想像上の動物ですが、仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国で、他のヒンドゥー教の神々と併せて取り上げられています。

 インドの『マハーバーラタ』によると、造物主であるプラジャーパティにはヴィナターとカドゥルーという2人の娘がいました。あるとき、2人は賭けをしましたが、カドゥルーがいかさまで勝ち、ヴィナターを奴隷にしてしまいます。

 その後、ヴィナターの産んだ卵から、ガルーダが生まれました。ガルーダは生まれたときから天をつくほどに巨大で、稲妻のような瞬きをし、大山も風神とともに逃げるほどに羽ばたき、口から吐く光は四方に広がって火事のようであったため、神々は驚いて火の神と崇めたといわれています。

 母親がいかさまによって奴隷となったことを知ったガルーダは、母親を解放するための条件として要求された聖水を得るため、天上界に乗り込みます。ガルーダは天上界の神々を次々に打ち破り、聖水を奪って飛び去ります。その勇気と力に感動したヴィシュヌ神は、ガルーダに不死の命を与え、ガルーダはそれを受けてヴィシュヌの乗り物(ヴァーハナ)となりました。ガルーダがタイでは国王の御座船の舳先の飾りとなっていたり、インドネシアでは航空会社のシンボルになっていたりするのは、このためです。ここで取り上げている航空切手のモチーフに使われているのも、同様の理由と考えてよいでしょう。

 その後、ガルーダは聖水を追ってきた最強の神、インドラをも打ち破り、インドラとは永遠の友情を誓うようになります。そして、聖水を地上に持ち帰り、母親を無事に解放しました。一方、聖水がガルーダの手を離れたことを確認したインドラは、聖水を奪還しています。

 試験の答案としては、『マハーバーラタ』の詳細な内容を記す必要はありませんが、ガルーダがインド起源の半神であることや、なぜ、タイの国章や国王の御座船に用いられていることの意味などについては、きちんと説明をしてもらう必要があります。

 トーク・イベントのご案内
 本日(3日)14:30から、東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。内容は、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

 * 昨日のトークは、無事、盛況のうちに終了いたしました。遊びに来ていただいた皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 バンコクの7月22日広場
2008-07-22 Tue 10:39
 タイのバンコクには、かつて日本人バックパッカー御用達の安宿として有名なジュライホテルがありましたが、このホテルの名前は、ホテルに面した“7月22日広場“にちなむものです。で、きょうはその7月22日なので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ・victory加刷

 これは、1918年12月、第一次大戦の勝利を記念してタイで発行された切手で、当時の国王、ラーマ6世を描く通常切手にVICTORYの文字が加刷されています。実は、“7月22日”というのは、1917年にタイが第一次大戦への参戦を決めた日で、戦後、戦勝国となったことを記念して、国王から下賜された土地に“7月22日広場”が作られたというわけです。

 第一次世界大戦が勃発すると、タイはドイツとイギリスのどちらが勝つかを見極めたうえで、勝ち馬に乗って参戦し、列強諸国との不平等条約改正交渉を進めようと考えました。一方、食料の輸出国であったタイの参戦は、連合国側にとっても歓迎すべき申し出だったのですが、タイ側が関税自主権の回復を代償として求めたことなどから、連合国のうちフランスがタイの参戦に難色を示し、タイの参戦問題はうやむやのまま放置されてしまいます。

 それでも、戦争が長期化すると、連合国はタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ六世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。ちなみに、現在のタイの国旗は、この参戦を機に三色旗風のものに改められたもので、それ以前は赤字に白抜きの像を描くものでした。

 さて、参戦を決めると、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵の募集が始まります。その第1陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことで、それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部が陸上輸送部隊として実際に戦争に参加したのは、10月17日のことでした。

 ところが、それから1ヶ月もたたない11月11日にドイツは降伏。タイは最小限の犠牲で“戦勝国”としての地位を獲得し、タイの兵士たちはパリでの凱旋パレードにも参加します。もちろん、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃され、講和会議にも参加する資格を与えられたほか、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 もっとも、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えましたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926年までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されることになりました。

 日本で7月22日広場が話題となる場合には、かつて日本人バックパッカー御用達だったジュライホテルとの関連で取り上げられることが圧倒的に多いのですが、バンコクの歴史散歩のポイントという点でも、7月22日広場は見逃せないポイントだろうと僕は思っています。

 なお、昨年刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、バンコクの歴史散歩と切手や絵はがきをからめた「曼谷三十六景」なる1章も設けてみましたので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

 トーク・イベントのご案内
 8月2・3日(土・日)に東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 タイの赤十字切手
2008-05-08 Thu 11:15
 今日(5月8日)は世界赤十字デー。というわけで、赤十字がらみの切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ赤十字募金

 これは、1917年1月、タイで発行された赤十字募金の切手です。切手上には寄付金つきの表示はないのですが、当時の普通切手(ラーマ6世シリーズ)に赤十字のマークを加刷したうえで、額面に一定の金額を上乗せして販売したもので、今回ご紹介の3サタン切手の場合は、2サタンの寄付金が上乗せされています。

 タイの赤十字は、1893年のフランスの侵攻によるシャム危機に際して、フランスとの戦闘で傷ついた将兵の看護にあたった民間のボランティア組織がそのルーツで、同年4月26日、当時の国王・ラーマ5世によって設立が認可されました。ただし、当時のタイは英仏による植民地化の危機の真只中で、国際赤十字への加盟申請を行うどころではありませんでした。そうこうしているうちに、1914年に第1次世界大戦が始まってしまい、タイの加盟申請はますます遅れ、結局、第一次大戦後の1920年5月27日になって、ようやく国際赤十字への正式加盟が認められています。

 この間もタイ赤十字協会は活動を続けており、1911年には狂犬病対策としてクイーン・サオワパー研究所が作られ、ワクチンの製造が開始されました。今回ご紹介の切手は、こうした活動資金を捻出するために発行されたものです。なお、この切手への加刷は、バンコクの日本企業、大山商店が担当したもので、20世紀初頭の日本企業の海外での活動を考える上でも興味深い史料となっています。

 なお、タイの歴史と切手については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 ご案内
 5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

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 第一次大戦とタイ
2007-11-11 Sun 10:26
 今日(11月11日)は、第一次大戦終結の記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

victory二重加刷

 これは、タイが発行した第一次大戦の戦勝記念の切手で、当時の通常切手にVICTORYの文字が加刷されていますが、加刷もの文字が二重印刷になっています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、タイは連合国側での参戦を表明。その見返りとして、関税自主権の回復を代償として要求しました。これに対して、不平等条約の維持をもくろむフランスは、タイの参戦に否定的な態度を示しています。

 しかし、戦争が長期化したことで、連合諸国もタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ6世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。その後、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵を募り、その第一陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことでした。それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部は10月17日に陸上輸送部隊として出陣します。

 ところが、それから1月もたたない11月11日には大戦が終結。タイはちゃっかり戦勝国となりました。この結果、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃。講和会議にも参加する資格を与えられ、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 一方、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されました。

 こうしたことから、王宮前広場の西北には第一次大戦で戦死した将兵をたたえる碑が建てられたほか、参戦が決定された日にちなむ“7月22日広場”がバンコクに作られました。

 今回ご紹介した切手は、そうした第一次大戦記念の一環として、1918年12月に発行されたもので、タイ語と英語で“勝利”の文字が加刷されています。

 バンコクの旅行ガイドを見ると、“7月22日広場”の項には、かつてはその周囲にバックパッカー御用達の安宿がいくつかあった場所という記述がありますが、そうしたこととは別に、タイにとっての第一次大戦の意義をつたえる史跡として興味深いものと僕は思います。

 このたび彩流社から刊行したばかりの拙著『タイ三都周郵記』は、今回の7月22日広場をはじめ、タイの近現代史にとっての重要スポットを僕自身が歩いてみた体験記をいくつか収めています。奥付上の刊行日は11月15日ですが、すでに紀伊国屋ジュンク堂などの大手書店の店頭には並んでいるようですので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 バンコク大山商店
2007-08-10 Fri 08:39
 今回のタイ旅行に先立ち、タイの切手に取り上げられている風景や建物などがどこにあるのか、簡単なエクセルの一覧表を作ってみたのですが、やっぱり、バンコクがらみのモノが一番多いという結果になりました。もっとも、その切手にゆかりの場所がバンコクにあることはわかっていても、それがバンコクのどこにあるのか良くわからないモノというのも幾つかあります。下の切手もその一例です。(画像はクリックで拡大されます)

大山商店加刷

 これは、1915年4月3日に発行された暫定加刷切手です。もとの台切手は1905年12月に発行された通常切手で、当時のラーマ5世とワット・アルン(暁寺院)を組み合わせたもの。ワット・アルンはバンコク随一の観光地のひとつですから、その場所がわからないというわけではありません。

 じつは、僕がここで問題にしたいのは、切手本体ではなくって加刷のほうです。というのも、この加刷は、当時バンコクにあった日本人企業の大山商店に委託して行われたからなのです。

 バンコクにおける日本人商店の進出が始まったのは1895年のことで、同年1月に日本シャム商会が、8月に大山商店と桜木商店が、11月に図南商会が、それぞれ開店しています。このうち、大山商店は、いったん閉鎖された後、翌1896年10月に営業を再開。他の日本人商店がすべて雑貨商だったのに対して、大山商店は、当初はビールと鉱泉水の販売、再開後には陶器を取り扱っていたという特異な存在でした。

 この大山商店は、1913年にラーマ6世シリーズへの暫定加刷を担当したのを皮切りに、1930年までの間、しばしばタイ切手の加刷を担当しています。当時、バンコクには他の印刷所もありましたし、じっさい、1913年以前には別の会社が加刷を担当しているのですが、どういう経緯で大山商店が加刷を担当するようになったのか、よくわかりません。ただ、ラーマ7世の時代には、やはりバンコク在住の日本人、三木栄が王の玉座を制作していますから、当時のバンコクでは、コスト・パフォーマンスと技術力のバランスという点で、日本人は高く評価されていたということなのかもしれません。

 大山商店の当時の所在地がわかれば、せっかくなのでその跡地にでも行ってみたいのですが、あいにく、現時点では調べきれていません。仕方がありませんので、せめて今夜は、大山商店が販売していたというビールを飲みながら、かつての日本人の活躍に思いを馳せつつ、バンコク最後の夜を過そうかと考えています。
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