郵便学者・内藤陽介のブログ
 切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
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 試験問題の解説(2008年7月)−3
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)とに描かれているものについて説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 ガルーダ

 これは、1925年に発行されたタイ最初の航空切手の1枚で、ガルーダが描かれています。

 ガルーダは頭・翼・爪・口は鷲、胴・腕・脚は人間の半鳥半人の半神。もともとはインド神話に登場する想像上の動物ですが、仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国で、他のヒンドゥー教の神々と併せて取り上げられています。

 インドの『マハーバーラタ』によると、造物主であるプラジャーパティにはヴィナターとカドゥルーという2人の娘がいました。あるとき、2人は賭けをしましたが、カドゥルーがいかさまで勝ち、ヴィナターを奴隷にしてしまいます。

 その後、ヴィナターの産んだ卵から、ガルーダが生まれました。ガルーダは生まれたときから天をつくほどに巨大で、稲妻のような瞬きをし、大山も風神とともに逃げるほどに羽ばたき、口から吐く光は四方に広がって火事のようであったため、神々は驚いて火の神と崇めたといわれています。

 母親がいかさまによって奴隷となったことを知ったガルーダは、母親を解放するための条件として要求された聖水を得るため、天上界に乗り込みます。ガルーダは天上界の神々を次々に打ち破り、聖水を奪って飛び去ります。その勇気と力に感動したヴィシュヌ神は、ガルーダに不死の命を与え、ガルーダはそれを受けてヴィシュヌの乗り物(ヴァーハナ)となりました。ガルーダがタイでは国王の御座船の舳先の飾りとなっていたり、インドネシアでは航空会社のシンボルになっていたりするのは、このためです。ここで取り上げている航空切手のモチーフに使われているのも、同様の理由と考えてよいでしょう。

 その後、ガルーダは聖水を追ってきた最強の神、インドラをも打ち破り、インドラとは永遠の友情を誓うようになります。そして、聖水を地上に持ち帰り、母親を無事に解放しました。一方、聖水がガルーダの手を離れたことを確認したインドラは、聖水を奪還しています。

 試験の答案としては、『マハーバーラタ』の詳細な内容を記す必要はありませんが、ガルーダがインド起源の半神であることや、なぜ、タイの国章や国王の御座船に用いられていることの意味などについては、きちんと説明をしてもらう必要があります。

 トーク・イベントのご案内
 本日(3日)14:30から、東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。内容は、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

 * 昨日のトークは、無事、盛況のうちに終了いたしました。遊びに来ていただいた皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
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 バンコクの7月22日広場
 タイのバンコクには、かつて日本人バックパッカー御用達の安宿として有名なジュライホテルがありましたが、このホテルの名前は、ホテルに面した“7月22日広場“にちなむものです。で、きょうはその7月22日なので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ・victory加刷

 これは、1918年12月、第一次大戦の勝利を記念してタイで発行された切手で、当時の国王、ラーマ6世を描く通常切手にVICTORYの文字が加刷されています。実は、“7月22日”というのは、1917年にタイが第一次大戦への参戦を決めた日で、戦後、戦勝国となったことを記念して、国王から下賜された土地に“7月22日広場”が作られたというわけです。

 第一次世界大戦が勃発すると、タイはドイツとイギリスのどちらが勝つかを見極めたうえで、勝ち馬に乗って参戦し、列強諸国との不平等条約改正交渉を進めようと考えました。一方、食料の輸出国であったタイの参戦は、連合国側にとっても歓迎すべき申し出だったのですが、タイ側が関税自主権の回復を代償として求めたことなどから、連合国のうちフランスがタイの参戦に難色を示し、タイの参戦問題はうやむやのまま放置されてしまいます。

 それでも、戦争が長期化すると、連合国はタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ六世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。ちなみに、現在のタイの国旗は、この参戦を機に三色旗風のものに改められたもので、それ以前は赤字に白抜きの像を描くものでした。

 さて、参戦を決めると、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵の募集が始まります。その第1陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことで、それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部が陸上輸送部隊として実際に戦争に参加したのは、10月17日のことでした。

 ところが、それから1ヶ月もたたない11月11日にドイツは降伏。タイは最小限の犠牲で“戦勝国”としての地位を獲得し、タイの兵士たちはパリでの凱旋パレードにも参加します。もちろん、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃され、講和会議にも参加する資格を与えられたほか、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 もっとも、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えましたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926年までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されることになりました。

 日本で7月22日広場が話題となる場合には、かつて日本人バックパッカー御用達だったジュライホテルとの関連で取り上げられることが圧倒的に多いのですが、バンコクの歴史散歩のポイントという点でも、7月22日広場は見逃せないポイントだろうと僕は思っています。

 なお、昨年刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、バンコクの歴史散歩と切手や絵はがきをからめた「曼谷三十六景」なる1章も設けてみましたので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

 トーク・イベントのご案内
 8月2・3日(土・日)に東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 タイの赤十字切手
 今日(5月8日)は世界赤十字デー。というわけで、赤十字がらみの切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ赤十字募金

 これは、1917年1月、タイで発行された赤十字募金の切手です。切手上には寄付金つきの表示はないのですが、当時の普通切手(ラーマ6世シリーズ)に赤十字のマークを加刷したうえで、額面に一定の金額を上乗せして販売したもので、今回ご紹介の3サタン切手の場合は、2サタンの寄付金が上乗せされています。

 タイの赤十字は、1893年のフランスの侵攻によるシャム危機に際して、フランスとの戦闘で傷ついた将兵の看護にあたった民間のボランティア組織がそのルーツで、同年4月26日、当時の国王・ラーマ5世によって設立が認可されました。ただし、当時のタイは英仏による植民地化の危機の真只中で、国際赤十字への加盟申請を行うどころではありませんでした。そうこうしているうちに、1914年に第1次世界大戦が始まってしまい、タイの加盟申請はますます遅れ、結局、第一次大戦後の1920年5月27日になって、ようやく国際赤十字への正式加盟が認められています。

 この間もタイ赤十字協会は活動を続けており、1911年には狂犬病対策としてクイーン・サオワパー研究所が作られ、ワクチンの製造が開始されました。今回ご紹介の切手は、こうした活動資金を捻出するために発行されたものです。なお、この切手への加刷は、バンコクの日本企業、大山商店が担当したもので、20世紀初頭の日本企業の海外での活動を考える上でも興味深い史料となっています。

 なお、タイの歴史と切手については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 ご案内
 5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

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 第一次大戦とタイ
 今日(11月11日)は、第一次大戦終結の記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

victory二重加刷

 これは、タイが発行した第一次大戦の戦勝記念の切手で、当時の通常切手にVICTORYの文字が加刷されていますが、加刷もの文字が二重印刷になっています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、タイは連合国側での参戦を表明。その見返りとして、関税自主権の回復を代償として要求しました。これに対して、不平等条約の維持をもくろむフランスは、タイの参戦に否定的な態度を示しています。

 しかし、戦争が長期化したことで、連合諸国もタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ6世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。その後、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵を募り、その第一陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことでした。それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部は10月17日に陸上輸送部隊として出陣します。

 ところが、それから1月もたたない11月11日には大戦が終結。タイはちゃっかり戦勝国となりました。この結果、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃。講和会議にも参加する資格を与えられ、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 一方、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されました。

 こうしたことから、王宮前広場の西北には第一次大戦で戦死した将兵をたたえる碑が建てられたほか、参戦が決定された日にちなむ“7月22日広場”がバンコクに作られました。

 今回ご紹介した切手は、そうした第一次大戦記念の一環として、1918年12月に発行されたもので、タイ語と英語で“勝利”の文字が加刷されています。

 バンコクの旅行ガイドを見ると、“7月22日広場”の項には、かつてはその周囲にバックパッカー御用達の安宿がいくつかあった場所という記述がありますが、そうしたこととは別に、タイにとっての第一次大戦の意義をつたえる史跡として興味深いものと僕は思います。

 このたび彩流社から刊行したばかりの拙著『タイ三都周郵記』は、今回の7月22日広場をはじめ、タイの近現代史にとっての重要スポットを僕自身が歩いてみた体験記をいくつか収めています。奥付上の刊行日は11月15日ですが、すでに紀伊国屋ジュンク堂などの大手書店の店頭には並んでいるようですので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
 バンコク大山商店
 今回のタイ旅行に先立ち、タイの切手に取り上げられている風景や建物などがどこにあるのか、簡単なエクセルの一覧表を作ってみたのですが、やっぱり、バンコクがらみのモノが一番多いという結果になりました。もっとも、その切手にゆかりの場所がバンコクにあることはわかっていても、それがバンコクのどこにあるのか良くわからないモノというのも幾つかあります。下の切手もその一例です。(画像はクリックで拡大されます)

大山商店加刷

 これは、1915年4月3日に発行された暫定加刷切手です。もとの台切手は1905年12月に発行された通常切手で、当時のラーマ5世とワット・アルン(暁寺院)を組み合わせたもの。ワット・アルンはバンコク随一の観光地のひとつですから、その場所がわからないというわけではありません。

 じつは、僕がここで問題にしたいのは、切手本体ではなくって加刷のほうです。というのも、この加刷は、当時バンコクにあった日本人企業の大山商店に委託して行われたからなのです。

 バンコクにおける日本人商店の進出が始まったのは1895年のことで、同年1月に日本シャム商会が、8月に大山商店と桜木商店が、11月に図南商会が、それぞれ開店しています。このうち、大山商店は、いったん閉鎖された後、翌1896年10月に営業を再開。他の日本人商店がすべて雑貨商だったのに対して、大山商店は、当初はビールと鉱泉水の販売、再開後には陶器を取り扱っていたという特異な存在でした。

 この大山商店は、1913年にラーマ6世シリーズへの暫定加刷を担当したのを皮切りに、1930年までの間、しばしばタイ切手の加刷を担当しています。当時、バンコクには他の印刷所もありましたし、じっさい、1913年以前には別の会社が加刷を担当しているのですが、どういう経緯で大山商店が加刷を担当するようになったのか、よくわかりません。ただ、ラーマ7世の時代には、やはりバンコク在住の日本人、三木栄が王の玉座を制作していますから、当時のバンコクでは、コスト・パフォーマンスと技術力のバランスという点で、日本人は高く評価されていたということなのかもしれません。

 大山商店の当時の所在地がわかれば、せっかくなのでその跡地にでも行ってみたいのですが、あいにく、現時点では調べきれていません。仕方がありませんので、せめて今夜は、大山商店が販売していたというビールを飲みながら、かつての日本人の活躍に思いを馳せつつ、バンコク最後の夜を過そうかと考えています。


アクセス数 (2005年6月1日〜)

プロフィール

内藤陽介 (ないとう・ようすけ)

Author:内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
 1967年、東京都生。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。切手の博物館・副館長。切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている。
 主著:<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵趣出版、現在、第6巻まで刊行)、『北朝鮮事典』、(竹内書店新社)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『切手と戦争』(新潮新書)、『反米の世界史』(講談社現代新書)、『皇室切手』(平凡社)、『これが戦争だ!』(ちくま新書)、『満洲切手』(角川選書)、『香港歴史漫郵記』(大修館書店)、『タイ三都周郵記』(彩流社)ほか著書多数。最新作は『韓国現代史:切手でたどる60年』(福村出版)

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