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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 エミリアーノ・サパタ没後100年
2019-04-10 Wed 02:43
 メキシコの革命家、エミリアーノ・サパタが1919年4月10日に暗殺されてから、ちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・農地改革50年

 これは、1966年1月10日にメキシコが発行した“農地改革法50周年”の記念切手のうち、“土地および自由(Tierra y libertad)”の旗(ただし、切手では“土地”の部分しか描かれていませんが)を掲げるサパタの肖像を取り上げた1枚です。

 サパタは、1879年8月8日、ポルフィリオ・ディアス独裁体制下のメキシコ、モレロス州アネネクイルコ村でインディオの血の濃いメスティーソ(白人との混血)として生まれました。生家は比較的裕福な小農でしたが、1909年、村の防衛委員会の委員長に選出されると、モレロス州のインディオの権利運動に没頭。当初は州知事への西岸など穏健な活動を行っていましたが、政府や地主層の反応の鈍さに苛立って武装闘争を開始し、官憲から追われる身となります。

 1910年の大統領選にはフランシスコ・マデロが反ディアス勢力を結集し立候補しましたが、選挙の直前、マデロは反乱煽動の罪で逮捕、収監され、ディアスが再選されます。大統領就任式後の同年10月、マデロは恩赦で釈放され米国に亡命しましたが、亡命先のテキサスで、選挙結果は不正があったとして反ディアス派に一斉蜂起を呼びかけました。

 これに呼応して、11月以降、各地で武装蜂起が発生。サパタもこれに呼応して、1911年3月モレロス州の南部解放軍を率いてアヤラを襲撃します。その後、各地の反ディアス派の闘争に抗しきれなくなったディアスは、1911年5月、大統領を辞任し、フランスに亡命しました。

 でい明日政権の崩壊を受け、6月、マデロがメキシコ市に入ります。サパタは、南部解放軍の指導者としてマデロと会談し、インディオへの土地の返還を要求しましたが、マデロはこれを拒否しただけでなく、サパタ派の武装解除を要求。会談は物別れに終わり、サパタは反マデロの武装闘争を開始。1911年11月には、①ディアス独裁政府によって不法に奪われた土地を即時前所有者に返還する、②大土地所有者の所有地の三分の一を買い上げ、土地不足の農民や共同体に与える、③この計画に反対する反動地主の土地はすべて無償没収する、ことを骨子とする「アヤラ綱領」を発表し、メキシコ革命の最も急進的な指導者となりました。

 1913年2月、マデロが右派のビクトリアーノ・ウエルタ将軍の反革命によって逮捕・殺害されると、サパタは“敵の敵”という観点からマデロの後継者、ベヌスティアーノ・カランサに協力して武装闘争を展開し、北部を拠点とする農民軍、護憲革命軍北部師団のフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリャ)と連携してウェルタを追放。1914年12月、メキシコ市の大統領府に入り、政権中枢に加わりました。

 しかし、行政実務の経験が全くないうえに、理想主義的な急進改革を主張するサパタは次第に政府内部で孤立。1915年1月には、サパタ派は政府軍の前に敗走し、サパタも農村に戻りました。ところが、下野後も革命家として人気の高かったサパタを危険視したカランサは、1919年4月10日、サパタ派に合流する風を装った政府軍将校をサパタのもとに送りこみ、彼を謀殺してしまいます。

 ちなみに、今回ご紹介の切手は、1915年、カランサ政権下で施行されたメキシコ発の農地改革法から起算して50周年になるのを記念して発行されたものですが(ただし、実際の切手発行は1965年には間に合わず、1966年にずれ込んでいますが、この時の農地改革法はきわめて不十分なもので、サパタの提唱した「アヤラ綱領」の理念が法律に盛り込まれたのは、1917年革命憲法が最初です。さらに、実際に実効性のある農地改革が(一部)実行に移されたのは、1934年に発足したラサロ・カルデナス政権下でのことでした。


 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 メキシコ大統領、謝罪を要求
2019-03-27 Wed 03:09
 メキシコのアンドレス・マヌエル・ロペスオブラドール大統領は、25日(現地時間)に公開された演説の動画で、スペインによるアメリカ大陸支配に言及し、スペイン国王フェリペ6世と教皇フランシスコに対して、アステカ王国(現メキシコ)征服及びその後の先住民に対する人権侵害について謝罪するよう求めました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・17世紀の古地図

 これは、1979年にメキシコで発行された“ヌエバ・エスパーニャにおける郵便勅許400年”の切手シートで、切手部分にはかつての郵便船が、シートの余白には17世紀のヌエバ・エスパーニャ地図が地図が取り上げられています。

 1519年、メキシコに上陸したスペイン人のエルナン・コルテスら征服者たちは、アステカの内紛や、アステカの神話を悪用して大虐殺を繰り返した末、王都テノチティトランを破壊。8月13日に捕えられた皇帝クアウテモックは、コルテスの短刀を指さして自分を殺すよう求めたものの、コルテスは彼を殺さず、黄金の場所をつきとめるため拷問にかけたうえ、1525年2月28日、反乱を企てたとして絞首刑にしました。こうしてアステカ帝国を滅したスペインは、この地にヌエバ・エスパーニャ副王領を創設します。

 ヌエバ・エスパーニャは“新スペイン”を意味するスペイン語で、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、最盛期には、今回ご紹介の切手シートの地図に示すように、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(現在のカリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島、カリブ海諸島も含んでいました。

 ヌエバ・エスパーニャの郵便制度は、当初、アステカ時代の駅伝制度がそのまま継承されていましたが、1579年以降は、ヌエバ・エスパーニャ副王の直轄下で、メキシコ市=ベラクルーズ間を中心に郵便が行われるようになります。その後、1742年から本国・マドリードの郵便長官によるヌエバ・エスパーニャの郵便改革が行われ、1745年以降、メキシコ市=オアハカ間で週1回の定期便が開始され、1748年にはグアテマラまで月1回の定期便が開始されています。そして、1765年、スペイン王室はヌエバ・エスパーニャの郵政権を接収し、同地の郵便は事実上“国有化”されました。

 その後、多少の領土縮小はあったものの、スペインはヌエバ・エスパーニャを300年にわたり支配していましたが、18世紀後半には米国独立戦争フランス革命ナポレオン戦争に影響され、土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高揚。1809-10年、キト、ラパス、サンティアゴ、カラカス、ボゴタ、ブエノスアイレスなど南米各地でスペインからの独立戦争が始まると、1810年9月15日には、メキシコでもミゲル・イダルゴ神父らにより、スペイン打倒を叫ぶメキシコ独立革命が勃発。スペイン本国で自由派が政権を握ると、1821年9月15日、保守派クリオーリョを代表した独立の指導者アグスティン・デ・イトゥルビデがメキシコシティに入城し、メキシコの独立が宣言されました。

 さて、今回問題となった演説の動画は、古代マヤ文明のコマルカルコ遺跡で撮影されたもので、大統領は「かつて大虐殺と抑圧があった。剣と十字架による侵略が行われ、彼らは先住民たちの神殿の上に教会を築いた」と述べ、「和解の時が訪れた」とした上で、その前にまずスペイン側からの謝罪が必要だと主張しました。

 これに対し、スペイン政府は直ちに声明を発表し、「我が国の国王に送付した書簡の内容を、メキシコ大統領が公にしたことに深い遺憾を覚える」と反発。書簡の内容は断固として受け入れられないと表明し、「500年前のスペイン人による現在のメキシコ領土進出を、現代の尺度で判断することは不可能だ」としたうえで、「これまで我々は常に兄弟国として、共有する過去について怒りを抱かず建設的な視点で向き合ってきた」、「我々は歴史を共に歩み、素晴らしい影響を与え合った自由な民族なのだ」などと反論しているそうです。
 

 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスにて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

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 世界の切手:メキシコ
2019-02-21 Thu 01:24
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月6日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はメキシコ(5回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・フリーダカーロ(1991)

 これは、1991年に発行されたフリーダ・カーロの自画像の切手です。

 フリーダ・カーロは、1907年7月6日、メキシコ市近郊のコヨアカンの“青い家”でハンガリー系ユダヤ人の写真家、ギリェルモ・カーロの三女として生まれました。

 フリーダは6歳の頃、急性灰白髄炎で約9ヵ月間、寝たきりの生活を送り、その影響で右腿から踝にかけて成長が止まり、生涯、痩せ細った脚のままでした。後年、彼女が、脚を露出しないズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用したのは、このためです。写真家だった父は、リハビリを兼ねて彼女を頻繁にハイキングに連れ出し、そこで水彩画やカメラの手ほどきを受けたことが、彼女の画家としての素地をはぐくんだといわれています。

 1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業後、ソカロの国立予科高等学校へ進学すると、カチュチャスと呼ばれるサークルに参加。文学に熱中し、作家オクタヴィオ・ブスタマンテ、ミゲル・N・リラ、作曲家アンヘル・サラス、ジャーナリスト、アレハンドロ・ゴメス=アリアス等と親交を結びました。

 1925年9月17日、通学途中だったフリーダは、多数の死傷者が出る事故に巻き込まれて重傷を負い、3ヵ月間に渡る療養生活を余儀なくされましたが、これを機に、入院中の無聊を慰めるため、本格的に絵を描くようになります。

 1928年、体調が回復した彼女は、知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党に入党。そこで、女性写真家の紹介で、メキシコ壁画運動の中心的な画家で共産党員のディエゴ・リベラと出会いました。

 リベラの作品に感銘を受けた彼女は、闘病時代に描いた自分の作品をリベラに見せて意見を求めます。リベラはすぐに彼女の才能を認め、2人の仲は急接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚。当初、2人はメキシコ市中心部に住んでいましたが、リベラの壁画制作の仕事にあわせて、クエルナバカ、サンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトなどを転々とします。しかし、リベラが米国で仕事をすることを快く思わなかったメキシコ共産党は、1929年、彼の党員資格を剥奪。これにあわせて、彼女も共産党を離党しました。

 1930年、フリーダは妊娠しましたが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産。その後も、1932年と1934年に流産を経験し、その後の作風に大きな影響を与えています。

 1933年12月、メキシコに戻った2人は、メキシコ市南郊のサン・アンヘルを活動の拠点としましたが、1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったため一時的に別居。同年末、フリーダはサン・アンヘルに戻ったが、リベラへのあてつけで彫刻家のイサム・ノグチと関係を持ちます。また、1937年には、メキシコに亡命してきたロシアの革命家、レオ・トロツキーと妻ナタリア・セドヴァに夫妻に住居を提供する一方、トロツキーとも関係を持ち、『レオ・トロツキーに捧げた自画像、あるいは、カーテンのあいだ』を制作しました。

 1938年、フリーダは海外での大規模な個展を初めて開催。これがきっかけで、世界的な評価を得るようになりましたが、彼女自身は周囲の高評価に戸惑いを隠せなかったようです。以後、彼女はニューヨーク、パリ、ロンドンなどで精力的に活動するようになりましたが、そのことは夫婦間の擦れ違いを生み、1939年11月6日にリベラと正式に離婚。彼女は生家である“青い家”に戻ります。

 離婚後の彼女は以前にもまして作品制作に没頭しましたが、1940年9月、脊椎の痛みが悪化したことに加え、右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、サンフランシスコで療養生活に入ります。その後、健康状態が安定すると、1940年12月8日、フリーダはサンフランシスコでリベラと再婚しました。

 1940年代に入ると、彼女の画業はさらに高い評価を得て、1942年にはメキシコ文化センター会員、文部省管轄下の絵画・造形専門学校“ラ・エスメラルダ”の教員にも選ばれました。しかし、健康状態の悪化により、彼女は入退院を繰り返し、1950年には右足の指先が壊死したため切断。以後、ベッドの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作を行いましたが、1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった稠密な作品の制作も困難になりました。

 1953年8月、右足の痛みはさらに悪化し、膝までを切断。以後、義足の生活となり、1954年7月13日、肺炎の併発で亡くなりました。彼女の遺体は荼毘に付され、その遺灰は先征服期の壺に入れられて“青い家”に安置されています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月6日号の「世界の国々」では、フリーダ・カーロについてまとめた長文コラムのほか、ディエゴ・リベラの絵画の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のメキシコの次は、2月6日発売の同13日号でのブルガリア、2月13日発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)、2月20日発売の同27日号でのナミビアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。
 

★★ 2月22日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 2月25日発売!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 世界の切手:メキシコ
2018-12-07 Fri 00:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年11月14日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はメキシコの特集(4回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・アボカド(2017)

 これは、2017年に発行されたアボカドの切手です。

 日本でも食用として好まれるアボカドはメキシコおよび中米の原産で、先住民のナワトル語で“アーワカトル”と呼ばれていたものがスペイン語に入って転訛し、スペインと中米のスペイン語圏では“アグアカテ”または“アワカテ”と呼ばれるようになりました。

 英語ではavocadoと呼ばれていますが、これは、スペイン語でこの果実を指すaguacate と“弁護士”を意味する avocado(現代の綴りは abogado)との混同で生じたものです。日本語では、表皮が鰐皮に似ていることからワニナシの和名もありますが、英語の音訳でアボカドと表記されるのが一般的です。

 ただし、多くの日本人にとっては“アボド”は発音しづらいため“アボド”と称されることも少なくありません。この点をとらえて、時々、「“アボド”は誤り」などと賢しらにいう人がいますが、そういう人には、「そもそも、英名ではなくナワトル語の“アーワカトル”、百歩譲って原産国メキシコの公用語であるスペイン語の“アグアカテ”と呼ばなければおかしいではないか」と応じてやりたいですな。

 さて、『世界の切手コレクション』11月14日号の「世界の国々」では、カルデナス政権時代を中心にしたメキシコ現代史についての長文コラムのほか、死者の日第2回パンアメリカン競技大会パレンケ遺跡の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のメキシコの次は、11月14日発売の同21日号でのブルガリア、11月21日発売の同28日号でのスリランカ、12月5日発売の同12日号でのフィリピン(と一部カンボジア)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 体育の日
2018-10-08 Mon 01:46
 きょう(8日)は体育の日です。というわけで、スポーツ関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・汎米競技大会(1955)

 これは、1955年の汎米競技大会に際してメキシコが発行した記念切手のうち、メキシコシティのスタジアムと先住民の扮装をした聖火ランナーを描いた20センタボ切手です。

 汎米競技大会は南北アメリカ大陸の国々が参加して4年に1度開催される総合競技大会で、1920年代に中米で行われた中央アメリカ・カリブ海競技大会に影響され、1942年にブエノスアイレスで第1回大会を開催する準備が進められていました。しかし、第二次大戦の影響で延期となり、実際にブエノスアイレスで第1回大会が開催されたのは大戦後の1951年のことでした。今回ご紹介の切手の題材となった1955年のメキシコシティ大会は、その第2回にあたります。

 1954年6月、グアテマラでは、CIAの支援を受けたカルロス・カスティージョ・アルマスにより、当時、ラテンアメリカで最もリベラルといわれたグアテマラのアルベンス政権が崩壊。当時、グアテマラに滞在していた青年医師のエルネスト・ゲバラ(後のチェ・ゲバラ)は、グアテマラ市民に対して、武器を取ってアルマス軍と戦うことを呼びかけましたが、このため、アルマス政権によって“共産主義者”と認定され、当時の恋人で、純然たる共産主義者のイルダ・ガデアともども粛清の対象となります。

 このため、1954年9月、ゲバラはメキシコへの亡命を決意。ひとまず、メキシコシティ中心部、ナポリ街40番地の安アパートに小さな部屋を借りて友人のエル・パトーホとともに共同生活を始め、カメラを借りて、通りすがりの旅行者などを撮影して金銭を得る街頭カメラマンの仕事で糊口をしのいでいました。

 その後、1954年11月、グアテマラを追放されたイルダがメキシコシティに到着。彼女はレフォルマ通りの別の下宿でベネズエラ出身の女流詩人、ルシーラ・ヴェラスケスとルームシェアし、ゲバラとは週に1-2度会うという関係が続きます。

 そうしているうちに、エルネストはアルゼンチンの政府系通信社“ラティーナ通信”のコーディネーター、アルフォンソ・ペレス・ピスカイーノの紹介で報道カメラマンの仕事を得るとともに、大学の聴講生となり、病院でアレルギーの研究を行うことになりました。

 ラティーナ通信のスタッフとしてのゲバラは、1955年の汎米競技大会を取材し、競技中の選手の写真も何枚か撮影しています。この仕事で彼は総額6000ペソを稼ぎ、経済的にも一息つくことができるがはずでした。ところが、突如、アルゼンチン本国からの指令でラティーナ通信は閉鎖されてしまい、エルネストらスタッフに対する給与も約束の半額しか支払われませんでした。

 ちなみに、大会から約半年後の1955年9月16日、アルゼンチンでは権勢を誇ったフアン・ペロンがクーデターで政権を追われており、通信社が突如閉鎖されたのも、そうした政権の末期症状を示す兆候の一つだったのかもしれません。

 なお、汎米競技大会の仕事をしながらも、ゲバラは病院での研究活動を続け、「半吸収食物抗原の皮膚に関する研究」と題する論文を仕上げています。この論文が1955年5月の『イベロアメリカ・アレルギー学雑誌』に掲載されたことで、彼は、ヘネラル病院で、無給ながら衣食つきの住込みの仕事を得ています。なお、生活費は書籍販売のセールスマンをして稼いでいました。

 また、1955年5月にはイルダもエルネストのプロポーズを受け入れ、2人は正式に結婚しましたが、それとほぼ時を同じくして、キューバでモンカダ兵営襲撃事件に加わったラウル・カストロがメキシコに到着。ラウルは同地で襲撃事件の同志、ニコ・ロペスらと再会し、ロペスから“アルゼンチンのチェ”を紹介されます。ここから、ゲバラはラウルの兄、フィデルと知り合い、キューバ革命に深く関わっていくことになるのです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラやカストロ兄弟など、キューバ革命の志士たちのメキシコ時代についてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。

 * 先ほど、アクセスカウンターが197万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 

 
★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 米墨、NAFTA再交渉で合意
2018-08-28 Tue 11:12
 米国とメキシコが、27日(現地時間)、北米自由貿易協定(NAFTA)再交渉の2国間協議で合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・輸出品シリーズ(自動車)

 これは、1975年からメキシコで発行が開始された普通切手“輸出品シリーズ”のうち、1983年に発行された“自動車(産業)”の300ペソ切手です。

 メキシコにおける自動車産業は、1925年に米フォード社が完成車の組立工場を建設したことから始まり、しばらくはノックダウン生産が行われていました。

 1962年、メキシコ政府は政令として“自動車令”を発し、完成車の国産化率60%以上を義務付け、国内の移動車部品メーカーの育成を本格的に開始します。これを機に、メキシコでは完成車や主要部品の輸入が困難になったため、米国のビッグ3や日産自動車がメキシコに進出することになりました。ちなみに、日産自動車が日系完成車メーカーとして、メキシコ最初のクエルナバカ工場を稼働させたのは、1966年のことです。

 その後も、メキシコ政府は、エンジンなど国産化義務部品の指定、部品メーカーに対する外資出資比率の制限(40%以下)、“外貨予算”制による収支均衡の義務化など、部品メーカー育成のための保護主義政策を展開していました。今回ご紹介の切手を含む“輸出品シリーズ”も、そうした背景の下、発行されたものです。

 しかし、1982年に発生した通貨危機により、状況は一変。以後、外貨獲得の必要から自動車産業でも市場開放が進んだことから、部品メーカー等の地場産業が十分に育たぬまま外国資本が流入し、外資依存型での自動車産業が発展することになりました。こうした傾向は、1994年にNAFTAが発行するとさらに加速され、2004年にはNAFTA域内での自動車貿易が完全自由化されたことで、NAFTA域内での自動車貿易であれば部品の原産地は問われなくなり、メキシコの自動車産業は、外国資本の下、ほぼ、部品を輸入し手の組立工場に特化されていくことになります。

 さて、今回のNAFTA再交渉では、米墨間で、自動車の現地調達比率引き上げが最大の争点の一つになっており、最終的に、現地調達率を現行の62.5%から75%に引き上げることで合意。また、 両国はまた40-45%を、時間当たり賃金が最低16ドルの工場で生産することで合意し、メキシコ側には、米国製の鉄鋼、アルミニウム、ガラス、プラスチックの利用を増やすことも義務付けられました。

 また、長期的投資を阻害するとして企業からの反対が強かった“サンセット条項(協定が5年ごとに再交渉され、合意に至らなければ自動的に廃止になる)の導入は撤回され、代わりに、6年ごとの協定の見直しとなりました。また、NAFTAには16年の期限が設けられ、見直しを経てさらに16年の延長が可能ともされています。

 また、自動車関連以外の合意では、米墨間で取引される農産物は関税をゼロに据え置くほか、農業技術の発展を支援するためバイオテクノロジーの導入に取り組むこと、メキシコ人労働者の賃金を引き上げる取り組みとして、国際労働機関(ILO)の労働基準の遵守をメキシコに義務付ける条項も盛り込まれました。

 
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 メキシコ初の左派政権誕生か
2018-07-02 Mon 03:38
 エンリケ・ペーニャ・ニエト大統領の任期満了に伴うメキシコ大統領選挙の投票が、現地時間の1日朝(日本時間同日夜)、始まりました。各種世論調査によると、元メキシコ市長で、新興左派政党“国家再生運動(MORENA)”党首のアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(Andrés Manuel López Obrador:AMLO。アムロ)候補が他の候補を大きくリードしており、メキシコで初めて左派政権が誕生する可能性が高まっています。というわけで、きょうはこの切手です。

      メキシコ・カルデナス(1978)

 これは、1978年にメキシコが発行した“石油国有化40年”の記念切手で、石油国有化を断行したカルデナス大統領の肖像が取り上げられています。

 ラサロ・カルデナス・デル・リオは、1895年、メキシコ中部のミチョアカン州生まれ。1913年、メキシコ革命(1910-20年)に参加して騎兵隊の指揮官として軍功を挙げ、革命後、チョアカン州知事、内務大臣、陸軍長官を歴任して、1934年、国民革命党(メキシコで圧倒的な力を持っている与党で、現在の制度的革命党=PRIのルーツ)から大統領選挙に立候補し、当選しました。

 当選後は、当時の政界の黒幕だったプルタルコ・エリアス・カジェス元大統領(任期1924-28)やその側近、労働組合幹部の腐敗を追及し、革命後も実行されないままだった農地改革に着手。また、1937年には鉄道国有化、翌1938年には石油産業の国有化を断行しました。特に、石油産業の国有化は米国が猛反発したものの、財政危機に陥るほどの巨額の補償金を支払ってこれを乗り切り、国民の支持を得ています。

 大統領在任中の1936年、スペインでフランコ派と共和政府の内戦が勃発すると、カルデナスは共和政府支持の旗幟を鮮明にし、その一環として、共和派の亡命者を大量に受け入れます。また、その流れで、1937年には、スターリンと対立したロシア革命の指導者、レオン・トロツキーの亡命も受け入れました。ただし、その後ソ連とは和解し、1955年にはスターリン平和賞を受賞しています。

 ちなみに、カルデナスの息子、クアウテモクも政治家であり、父親同様、ミチョアカン州知事の経験があります。1988年、クアウテモクは、与党PRIを離れて中道左派政党の国民民主戦線(FDN。後の民主革命党:PRD)を結成し、その党首として大統領選に挑戦します。当時、タバスコ州の先住民チョンタルパ族の支援活動や首都メキシコ市の消費者教育の促進運動などを展開していたアムロは、クアウテモクに従ってFDNに参加し、陣営の選挙運動に関わっています。

 また、クアウテモクは1997-2000年にメキシコ市長を務めましたが、アムロはその後任として2000年の選挙でメキシコ市長に当選。その後、PRDを含む既成政党への国民への不満を背景に、アムロは、PRDから分裂して、より左派色を強めたMORENAを結成しました。

 これまで、メキシコ史上、最も左派色の強い大統領とされてきたのは、今回ご紹介の切手に描かれているカルデナスでしたが、より左派色の強いアムロが、今回の選挙戦で、さかんにカルデナスと自分を比較するイメージ戦略を展開しているのはなかなか興味深いものがあります。


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 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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 夏至
2018-06-21 Thu 00:11
 きょう(21日)は夏至です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・パレンケ(2008)

 これは、2008年にメキシコが発行したパレンケ遺跡の切手シートのうち、碑文の神殿(左)と宮殿(右)を取り上げた切手2枚です。パレンケ遺跡では、夏至の日には、宮殿の塔から見ると碑文の神殿の位置に太陽が沈む構造になっているので、両者が並ぶ状態でご紹介しました。

 パレンケは、ユカタン半島付根、メキシコ南東部のチアパス州にあるマヤ文明の古代都市遺跡です。都市としてのパレンケには紀元前から人が住み着いていましたが、最盛期は7世紀のことで、現在の遺跡はほぼこの時代のものです。

 右の切手に取り上げられた宮殿は、パレンケ遺跡で最も大きな建造物です。最大の特徴はマヤ建築の中では他に例がない高さ15メートルの4階建ての塔で、天体観測に利用されたと考えられています。

 一方、碑文の神殿は、最上部に600以上の碑文が刻まれた石版があったことが名前の由来です。1952年6月15日、メキシコの考古学者アルベルト・ルスが神殿の地下室で、翡翠の仮面をまとったパカル王(在位615-83年)の遺体を発見。マヤ遺跡でもピラミッドが墓として建てられていたことが明らかになりました。

 ちなみに、1955年11月、メキシコにいたチェ・ゲバラは、結婚したばかりの最初の妻イルダとともにパレンケ遺跡を訪ね、その時の感動を以下のような詩に残しています。

 何世紀にもわたり君を支えているのはいかなる力か
 まるで青年期のように生き生きと脈打つ
 この仕事の最期にいかなる神が吹き込んだのか
 君の石柱の生きた息吹を

 若き日のゲバラは、インカやマヤの遺跡に触れることで、“ラテンアメリカ”を強く意識するようになり、そのことが、後の彼の世界観にも大きな影響を与えています。現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そうしたゲバラと遺跡の関係について、さまざまなエピソードをご紹介する予定です。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れている同書ですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。
 
      
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 メキシコでM7.1地震
2017-09-20 Wed 12:07
 メキシコで、現地時間19日午後1時14分(日本時間20日午前3時14分)ごろ、首都メキシコシティに隣接するプエブラ州チアウトラデタピアの西7キロ(同州ラボソの東北東5キロ)・深さ51キロの地点を震源とするマグニテュード7.1の地震が発生。この記事を書いている時点で、149人が亡くなったと報じられています。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・1909年地震25周年カバー

 これは、1909年7月30日のゲレーロ地震から25周年に際して民間で作られたメモリアル封筒の使用例で、1934年8月3日、メキシコシティから米ジョージ州サヴァンナ宛に送られています。1909年のゲレーロ地震はマグニテュード7.6。死者は2人と少なかったのですが、リゾート地として知られるアカプルコでも建物などに大きな被害が生じました。

 さて、メキシコは世界でも有数の地震国で、つい2週間ほど前の今月7日にはチアパスでマグニテュード8.1の巨大地震が発生し、90人以上が亡くなったばかりでした。(ただし、メキシコ地震当局は今回の地震について、7日に発生した地震とは無関係としています)

 また、2000年以降に限っても、2003年のコリマ(M7.5)、2010年4月4日のバハ・カリフォルニア(M7.2)、2012年3月20日のゲレーロ(M7.4)、2014年4月18日のゲレーロ(M7.2)と、マグニテュード7以上の大地震が頻繁に起きています。

 今回、地震が発生した9月19日(現地時間)は、くしくも、1985年にいわゆるメキシコ地震(メキシコ政府の公式発表で死者約1万人、倒壊した建物約3万棟)が起きた日にあたっており、各地で避難訓練などが行われていました。ところが、地震の発生は訓練の終了から2時間後のことだったため、地震警報を訓練の一部だと誤解した人もいたそうです。

 現在、メキシコシティでは約200万人が停電状態にあり、電話回線も不通。複数個所で高速道路や橋が崩壊しているほか、主要ガス管が破損し、大規模な火災や爆発が発生する危険性も指摘されています。

 あらためて、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災者の方には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の復旧・復興が一日も早く進むことをお祈りしております。


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 米墨国境
2017-01-27 Fri 12:28
 米国のトランプ大統領は、25日(日本時間26日)、大統領選挙での公約通り、不法移民の侵入を阻止するため、メキシコとの国境沿いに“大型の物理的障壁”を建設するための大統領令に署名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ地図(1923)

 これは、1923年にメキシコが発行した自国地図の切手で米国(切手ではスペイン語で“ESTADOS UNIDOS”と表示されています)との国境線がしっかりとわかるデザインとなっています。

 現在のメキシコ国家の直接のルーツは、16世紀にメキシコシティを首都として創設されたスペインの副王領“ヌエヴァ・エスパーニャ”にさかのぼることができます。

 “新スペイン”を意味するヌエヴァ・エスパーニャは、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、大陸部分では、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がり、カリブ海諸島や、さらには、フィリピンとマリアナ諸島をも含んでいました。

 1775年に米国独立戦争が勃発し、1776年の独立宣言を経て、1783年には諸外国が正式に米国の独立を承認。大西洋岸の東部13州で独立した米国でしたが、1803年にフランスからルイジアを購入すると、米国とヌエヴァ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じます。

 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市はスペイン領と考えていましたが、米国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られました。また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けてきました。

 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、米西間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されます。

 さて、1821年のメキシコ独立前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込んでしまいます。

 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが1824年憲法を廃止して、中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、米国からの移住者たちがメキシコ中央政府からの分離独立を唱えて叛乱を起こしました。

 叛乱側は、1836年2-3月のアラモ砦の攻防戦で守備隊が全滅する敗北を喫したものの、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、大統領を辞しメキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とし、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させました。

 さて、テキサス共和国はリオ・グランデをメキシコとの国境と主張していましたが、メキシコ側はより北側のヌエセス川を国境と主張しており、対立がありました。また、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会には併合慎重派が少なくありませんでした。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。

 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、米大統領ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうしてテキサスを併合した米国は、その西側の領土の買収もメキシコに持ちかけましたが、メキシコはこれに猛反発します。

 こうした状況の下、1846年春、米国務省の命を受けた探検家のジョン・フレモントがロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニア(当時はメキシコ領)に到着。探検の継続をめぐってメキシコの上カリフォルニア軍事総督と対立したフレモントは、地元の入植者を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせます。これが、カリフォルニアにおける米墨戦争の発端となりました。

 さて、戦争は、終始、米国優位で進み、1847年9月には首都メキシコシティが陥落。翌1848年2月に結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、リオ・グランデ以北、テキサスからカリフォルニアまでの広大な領土をわずか1500万ドルで米国に売却します。

 しかし、さすがにこの金額は安すぎるとして批判も強かったため、1853年、米国は、メキシコに対する金銭保証の意味を込めて、現在のアリゾナ州南部およびニューメキシコ州にあたる地域を1000万ドルで購入。これにより、今回ご紹介の切手に描かれたような米墨国境が画定しました。

 こうして確定された現在の米墨国境線は、日本列島とほぼ同じ長さの約3200km になりますが、2001年の同時多発テロを機に、国境にはフェンス建設が進み、現在、全体の3分の1の約1126km (700マイル)に高さ約5m の鉄柵が築かれています。これに対して、トランプ大統領の構想では、万里の長城(高さ6-9m)より高い12m のコンクリート壁を国境線のすべてに設置しようというものです。

 建設費は最大で250億ドルで、米メディアの試算によるとは、4万人が建設にあたっても完成までに4年かかるのだとか。さらに、国境警備隊員が5000人、入管当局者が1万人増員されるほか、建設後は壁の維持費も必要となります。

 トランプ大統領は、選挙期間中から、“壁”の建設費用をメキシコに負担させると主張してきましたが、当然のことながらメキシコ側は壁の建設そのものに反対し、建設の支払も断固拒否する姿勢を示しています。(ただし、メキシコ側も米国への不法移民の流出を防ぐために、何もしなくていいということにはならないと思いますが…)

 このため、両国関係を主復するため、今月31日にはメキシコのペニャニエト大統領が訪米し、首脳会談も計画されていましたが、トランプ大統領が「国境沿いの壁の建設費用を負担する用意がないなら、首脳会談は取り止めるべき」と発言したことことから、首脳会談は中止されてしまいました。

 そこで、米国側では、メキシコからの輸入に20%の“輸入税”を導入し、年間100億ドルを捻出するプランが浮上しているとのことですが、こちらも、輸出補助金を禁じた世界貿易機関(WTO)協定にも違反する可能性が指摘されています。

 また、仮に建設資金の目途がついたとして、米墨国境沿いの土地は大半が私有地で、所有者の中には建設反対派も相当含まれていますから、壁を建設するための土地を確保するのは容易ではないでしょう。さらに、米墨間の自然国境となっているリオグランデの周辺では、洪水管理を妨げたり、資源の共有を妨害したりするものの建築が法律で禁じられているほか、米墨どちらの国も川の流れを変えることも条約で禁じられていますので、設計には様々な制約が課されることになります。

 “トランプの壁”は、これらをすべてクリアしていかねばならないわけで、そう考えると、実現に向けてのハードルは相当に高そうですな。


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