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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 海の日
2019-07-15 Mon 07:07
 きょうは“海の日”です。というわけで、現在開催中の全日本切手展2019(以下、全日展)の特別展示の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      皇太子(明仁)御帰朝・不採用1

 これは、1953年に行われた“皇太子殿下御外遊”の記念切手の図案公募の応募作品のうちの1点で、朝日を背景に大海原を疾走する船と、皇太子・明仁親王(現在の上皇陛下)の肖像が描かれています。

 今回の全日展では、平成から令和への御代がわりにちなんで、郵政博物館から“皇太子殿下御外遊”の記念切手の図案公募の応募作品19点を特別展示していただきましたが、もともと、海の日は、1876年7月20日、明治天皇がはじめて灯台巡視の汽船“明治丸”で東北巡幸から横浜港へと帰港したことにちなむ祝日ですので、今回は、そのイメージに近い1点を取り上げてみました。

 さて、明仁親王の立太子礼直前の1952年11月8日、宮内庁は、翌1953年6月2日にロンドンのウェストミンスター寺院で行われるエリザベス女王の戴冠式に、昭和天皇の名代として明仁親王が出席することを発表しました。

 皇太子の外遊は、1921年、裕仁親王のヨーロッパ歴訪以来のことで、今回の明仁親王の外遊も、裕仁親王が外遊を通じて人間的に大きく成長したのと同様の“教育的効果”が期待されていたものと考えてよいでしょう。

 さて、皇太子(以下、原則として明仁親王を指す)は1953年3月30日、アメリカン・プレジデント・ラインズ社のプレジデント・ウィルソン号で横浜を出航。いったん、サンフランシスコへ入り、カナダを経由してニューヨークへ寄った後、海路、英国に渡りました。

 皇太子の旅程がわざわざ米国経由で設定されたのは、おそらく、最初の寄港地を米国とすることで、現実の外交関係のうえで日英関係よりも日米関係を重視していることを示す意図が政府部内にあったためでしょう。あるいは、実現しなかったものの、皇太子をアメリカに留学させたかったという昭和天皇夫妻の意向が反映された結果かもしれません。

 この時期の英国は、日本を敵国として戦った大戦の終結からまだ日も浅かったため、一般国民の対日感情は、決して良好とはいえず、皇太子もエリザベス女王に謁見するために1週間以上も待たされたり、戦争捕虜協会や労働組合の抗議により予定されていた歓迎行事が中止に追い込まれたりする等の体験をしています。

 それでも、無難に公務をこなし、日本の若きプリンスとして国際デビューを果した皇太子は、戴冠式への出席後、ヨーロッパ諸国を歴訪。それから、今度は空路、米国へ渡り、約1ヶ月間、米国に滞在した後、パン・アメリカン航空で10月12日に帰国しています。

 さて、皇太子の外遊が発表されると、郵政省は、これを、宮内庁の妨害により立太子礼の際に皇太子の肖像切手を発行できなかった雪辱を果たす絶好の機会ととらえ、“御外遊”の記念切手を発行することを計画。1952年12月18日の郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)において、外遊の最大の目的であるエリザベス2世の戴冠式が行われる6月2日に、記念切手を発行することを決定します。

 もっとも、前回同様、切手に皇太子の肖像を入れることの是非をストレートに宮内庁に問えば、今回も拒否の回答が帰ってくることは目に見えていました。このため、郵政サイドは一計を案じ、外遊の記念切手を発行することを決定した上で、そのデザインに関しては、一般からの公募を行うという方式がとられています。

 当時の一般国民の認識では、皇太子御外遊の記念切手が発行されるとしたら、皇太子の肖像が切手上に描かれるのは当然で、それがどのようなものとなるのか、といった点に関心が集まっていました。それゆえ、図案を公募すれば、応募作品の多くは皇太子の肖像を取り上げることであろうことは、ほぼ確実でした。そして、郵政省は、その中の優秀作品を切手の原画として採用することによって、“国民世論”の反映という錦の御旗を掲げ、宮内庁の反対を押し切って肖像切手を発行することができると考えたのです。

 こうして、全日本切手展の開催などを通じて、郵政省との協力体制が整っていた毎日新聞社が、1953年1月から、毎日新聞社主催・郵政省協賛という形式で切手図案の公募を開始。6月2日の切手発行予定日から逆算して、3月10日が応募の〆切とされました。

 はたして、『毎日新聞』紙上で告知された募集要項には、図案の内容については「大英帝國の戴冠式に御參列の皇太子殿下の御渡歐を慶祝するにふさわしい圖案(または寫真)で新かつ迫力あるもの」との文言しかありませんでしたが、寄せられた2611点もの作品のうち、8割以上がなんらかのかたちで皇太子の肖像を取り上げたものでした。

 このなかから、3月20日に行われた審査の結果、ロンドン塔や自由の女神など、訪問地の建物をバックに皇太子の肖像を描いた山野内孝夫の作品と、世界地図をバックにした皇太子の肖像を描いた大野射水の作品の2点が特選(賞金10万円)に選ばれ、郵政省はこの両作品を元にした切手の制作を開始。また、これと前後して、印刷局では、早くも郵政省から原画が回ってこないうちから、3人の凹版彫刻家が皇太子の肖像部分の彫刻を始めています。

 当然、郵政省はこの2作品を原画として記念切手を発行する予定で、宮内庁との交渉を開始しました。

 しかし、なんとしても肖像切手の発行を阻止したい宮内庁は、郵政省との交渉で時間を稼ぎ、肖像切手の発行を時間切れに追い込もうとする戦術を取ります。実際、郵政大臣・高瀬荘太郎が宮内庁長官・田島道治を訪ねた際も、宮内庁側は言を左右にして、高瀬との交渉にまともに応じようとはしなかったといわれています。

 こうして、6月上旬の切手発行に間に合わせるためのデッドラインとなった4月上旬になると、しびれを切らした郵政省は、ついに、宮内庁に対して公文書で期限付きの回答を要求。これに対して、宮内庁側は、従前通り、“拒否”の回答を郵政省に送付します。その文面は非公開のため、詳細は不明ですが、実質的には恫喝といってよいほどのものだったようで、4月10日に開かれた図案審査専門委員会では、それまでとは雰囲気が一転。ただちに、切手への肖像の使用を見合わせることが決定されています。

 ちなみに、郵政省と毎日新聞社による切手図案募集の企画を聞いた秩父宮は、「(非常に良いアイディアだが)宮内庁がなかなか難かしいだろうな」と語っており、皇族でさえも宮内庁の頑迷固陋さには頭を抱えていたことがうかがわれます。

 なお、切手図案の懸賞公募を取り仕切った毎日新聞社は、当初こそ、肖像切手を発行しないという郵政省の決定に不満を示していたものの、ある時期から、突如、この件について完全に沈黙してしまいます。関係方面からのさまざまな圧力があったのか、あるいは、今後の皇室取材に関して支障が出ることを怖れた会社の上層部が“自粛”を関係部署に命じたのか、現在となっては、真相は薮の中ですが、このこともまた、今回の切手に関して後味の悪い印象を残すことになりました。
 
 こうして、肖像切手の発行が中止となって緊張の糸が途切れた郵政省に対して、宮内庁は追い討ちをかけ、立太子礼の記念切手同様、今回の記念切手に関しても発行までの主導権を握ろうとします。

 すなわち、宮内庁側は、エリザベス女王の戴冠式にあわせて記念切手を発行することは、女王の戴冠式を記念するような印象を与えるので好ましくない、と突如、強硬に主張。そのうえで、“皇太子”にまつわる記念切手である限り、発行の名目を“御外遊”とすることも認められないとして、記念名称の変更まで要求したのです。

 結局、郵政省側は、宮内庁に押し切られるかたちで、彼らの主張をことごとく受け入れ、皇太子が欧米歴訪を終えて日本に帰国された10月12日に“御帰朝”の記念切手を発行することで決着がはかられました。

 また、これに伴い、山野内孝夫と大野射水の作品は切手の原画としてはお蔵入りとなり、代わって、“御外遊”記念切手の図案として毎日新聞社に寄せられた作品の中から、中尾龍作の「鳳凰」と前川治朗の「鶴」が切手の原画として採用されることになりました。

 あいつぐ宮内庁からの無理難題に対して、すっかり今回の記念切手発行への意欲を失った郵政省は、その後、暑中見舞葉書や通常切手の制作に追われていたこともあって、しばらく作業を中断。その後、6月中旬になって、「鳳凰」を久野実が、「鶴」を渡辺三郎が、それぞれ、切手の原画として構成しています。

 その後、8月10日には、試刷の第1回目の回校()となりましたが、その時の様子について、“郵務局管理課切手係同人(中村宗文か?)”は『切手』紙上に「(5円の)製版は少し細か過ぎて思つた程凹版のよさが出なかつたが、これは全部をやり直しても、こちらの望む程の出来栄は六ヶ敷しいと思つたので、そのままで進むことになつた」と記しています。こうしたところからも、“御帰朝”の記念切手に対する郵政省の投げやりな姿勢が見て取れるように思われます。ちなみに、今回の特別展示では、この時の試刷も展示されていますが、その画像も下に貼っておきます。

      皇太子(明仁)御帰朝試刷

      皇太子(明仁)御帰朝試刷10円

 以上のような経緯を経て、御帰朝当日の10月12日に発行された記念切手については、当初、皇太子の肖像が入った切手が発行されるものとの期待が大きかっただけに、それが裏切られたことに対する失望感は相当なもので、著名な収集家であった荒井国太郎が『切手趣味』誌に「皇太子殿下御帰朝記念切手に失望す」と題する文章を寄せたのをはじめ、多数の収集家がさまざまな郵趣誌(紙)上で不満と失望を述べています。

 また、漫画家の横山泰三が、切手発行からまもなくの『サンデー毎日』11月1日号の連載漫画「ミス・ガンコ」で取り上げ、登場人物に「コノ切手ノ鳥ハホントニイルノ」と言わせるなど、今回の一連の騒動での宮内庁の対応が、収集家だけでなく、広く一般の国民からも批判の的になっていたことがうかがえます。また、この切手のデザインに関しては、背景に描かれている瑞雲が、鳳凰の糞または放屁のように見えるとして、主として小中学生の間では揶揄の対象とされていたことも報じられています。

 さて、はやいもので、13日から始まった全日展も本日が最終日となりました。本日は通常より1時間早く、16時の閉場となっておりますが、1人でも多くの皆様の御来場を心よりお待ち申しております。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2019ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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 井岡一翔、日本人初の4階級制覇
2019-06-20 Thu 00:41
 ボクシングの元世界3階級王者(WBCおよびWBAミニマム級、WBAライトフライ級、同フライ級)で、WBO世界スーパーフライ級2位の井岡一翔が、きのう(19日)、同級1位のアストン・パリクテ(フィリピン)を破り、日本人初の世界4階級制覇を達成。さらに、具志堅用高氏を突き放し、国内ボクサー世界戦勝利数15で単独首位となりました。というわけで、きょうはこの切手です。

      第12回国体(ボクシング)

 これは、1957年10月26日に発行された“第12回国民体育大会(以下、国体)”の記念切手のうち、ボクシングを取り上げた1枚です。

 1957年の夏季・秋季の国民体育大会は、10月26日から30日まで、静岡県下の各地で行われました。

 静岡県が国体の誘致に乗り出したのは1950年のことで、その後、県側は、半ば強引ともいえる誘致活動を展開。1953年、1957年の国体開催権を獲得します。

 しかし、他県同様、1950年代半ばの静岡県の財政は慢性的な赤字を抱えて危機的な状況にあり、普通に考えれば、国体開催に伴う巨額の出費に耐えられるような状態ではありませんでした。

 実際、1955年の神奈川国体の収支が、後援会による猛烈な募金活動にもかかわらず、大幅な赤字となっており、これらは、地元の各自治体にとって大きな負担となってのしかかっていました。こうした状況を踏まえ、地方に対する中央の統制を強化しようとしていた自治庁(後の自治省、現総務省)は、国体の地方開催を中止させるべく、動き始めます。

 すなわち、静岡国体の開催経費が、すでに当初の計画において4億5000万円以上となっていたことをとらえ、自治庁は地元の市長に対して国体開催返上を申し入れるよう説得。これを受けて、1956年1月、浜松市長・岩崎豊は、地元を訪れた自治庁長官・太田正孝に静岡国体の返上を申し入れ、その要望が容れられるかたちで、同27日、静岡国体以降、国体の地方開催を中止することが閣議決定されています。

 これに対して、日本体育協会や静岡国体以降の国体開催を予定していた自治体などは、地元選出の国会議員を通じて衆議院地方行政委員会などで抵抗。衆議院議員の星島二郎を座長とし、開催予定地となっていた静岡・富山・熊本・秋田岡山の各県選出の自民党議員と知事、文部省、スポーツ関係者等が集まり、国体の地方開催を推進するための「国体推進協議会」を結成して、自由民主党(1955年11月結党)を通じ、政府に国体の地方開催を呼びかけます。

 これと併行して、静岡県内では、県体育協会会長の斉藤了英(後、大昭和製紙社長・会長)を中心に、開催経費1億円以内という“緊縮国体”の開催実現に向けて各方面への根回しを開始。また、大会復活のための街頭署名も活発に行われ、七万人の署名も集められています。

 巨額の財政赤字を抱える中で、静岡県側が国体の開催に固執したのは、彼らが、今回の国体開催を地域開発の重要な契機ととらえていたためです。すなわち、国体開催にあわせて大規模な公共事業(道路や上下水道などの都市基盤整備)を行うことで、地元経済を活性化し、工業化を推進するだけでなく、その“遺産”により大規模な工場を誘致すれば、最終的に財政赤字からの脱却が可能である、というのが彼らの発想でした。

 同時に、自民党議員にとっては、そうした地元の意向を国政の場において代弁することによって、地元関係者を“集票マシン”として組織化できるというメリットがありました。

 さらに、地元の経済界は、静岡国体の開催を、地元との結びつきを強め、経営を拡大させるための絶好の機会ととらえていました。たとえば、斉藤了英の大昭和製紙の場合、そうした文脈にそって、以前から野球や陸上競技などの企業スポーツに力を入れていましたが、国体の開催決定後には、吉原市立体育館の総工費2400万のうち2000万円を寄附するなど、地元では国体の実質的な冠スポンサーとしてのイメージを定着させることに成功しています。

 こうした関係者たちの思惑は、のちに、高度成長期を通じて“政・官・業”のトライアングルにもとづく利益誘導型の政治システムとして確立されていくことになりますが、静岡国体の開催は、まさに、その走りであったとみなしてよいでしょう。

 結局、静岡国体の開催問題は、1956年5月、9500万円の開催予算案を携え、国体推進競技会の関係者等が太田自治庁長官と面談し、“緊縮国体”ないしは“自粛国体”としての静岡国体の開催を承認させています。こうして、同年9月、静岡国体の開催は正式に決定されました。

 静岡国体以後、地元選出の国会議員を動員して国体の開催を実現し、それを地域開発の手段として活用していくという手法は、国体の基本的なスタイルとして定着していくことになります。その意味では、静岡国体は、国体の歴史を考える上で、きわめて重要な大会であったということができます。

 さて、静岡国体の記念切手発行について、具体的な切手発行の準備か開始されたのは1957年6月26日のことで、このとき、部内関係者の協議により、男子の競技としてはボクシングを、女子の競技としては段違い平行棒もしくは平均台を用いることが決められました。

 このうち、ボクシングの図案に関しては、7月16日付の『朝日新聞』に掲載された写真と、8月3日付の『スポーツニッポン』に掲載された写真の2点のうち、後者を元に長谷部日出男が下図を作成しました。ただし、『スポーツニッポン』の写真は、毎日新聞大阪本社電送のもので、作画資料としては、伝送前のオリジナルが用いられています。なお、原画の制作中、長谷部の身内に不幸があったため、急遽、渡辺三郎がボクシングの原画も担当することになり、8月20日までに、部内手続きを経て原稿が印刷局に渡されました。

 また、当初、今回の切手の印刷に関しては、郵政省では、同時に発行された段違い平行棒の切手とあわせ、2色刷のザンメル凹版で印刷することを希望していました。しかし、これは納期ならびに技術上の問題から不可能であるとして印刷局から断られたため、前年同様、凹版単色刷となっています。


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 切手歳時記:ホトトギス
2019-05-26 Sun 03:27
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2019年5月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホトトギス(1954)

 これは、1954年5月10日に発行されたホトトギスを描く3円切手です。

 「目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹」の句にもあるように、江戸っ子はカツオの初物を珍重しましたが、1000年前の平安貴族たちは、その年に初めて聞くホトトギスの鳴き声を“忍音”と呼び、夏の到来をつげるものとして珍重していました。

 『枕草子』の第41段には「五月雨の短き夜に寝ざめをして、いかで人よりさきに聞かむと待たれて(五月雨の短い夜に目をさまして、なんとしても人より先にホトトギスの声を聞きたいものだと待ち遠しく思っていると)」との一節がありますが、花より団子の僕などは、初鰹を肴にしこたま飲んでしまいますので、夜半にホトトギスが鳴いていても気がつかないでしょうねぇ。今回ご紹介の切手のホトトギスは口を開けている姿なので、あるいは、忍音の瞬間をとらえたものなのかもしれません。

 ホトトギスの漢字表記には、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑など、さまざまなものがありますが、一般に使われるのは、不如帰と時鳥でしょうか。このうち、時鳥の方は初夏の訪れを象徴する鳥という意味で使われるようになったものですが、不如帰は、西暦4世紀、中国・東晋の時代に編纂された『華陽国志』の記述が元になっているそうです。

 古蜀(紀元前316年に滅亡)の草創期、杜宇という男が人々に農業を指導して蜀の地を発展させ、やがて王として望帝を称するようになりました。あるとき、蜀の地に水害が発生すると、宰相の開明は玉塁山を切り崩して水害を鎮めました。そこで、望帝は、堯舜の禅譲の故事に倣い、開明に位を譲り、西山に隠棲します。

 やがて、望帝が歿すると、蜀の人はホトトギスの声を聞いて、望帝の魂が鳴いて、種まきの時季を知らせていると思うようになりました。ここから、“杜宇の鵑(鳥の一種)”の意味で、ホトトギスに“杜鵑”の字が当てられるようになったとのことです。

 さらに、時代は下って、蜀が秦の攻撃を受けて滅亡すると、望帝の化身であるホトトギスは嘆き悲しんで、血を吐くまで「不如帰去(不如帰とも)」と泣き続けました。今回ご紹介の切手は濃緑色の単色刷なのでわからないのですが、以来、ホトトギスの口の中が赤くなったとされています。

 「不如帰去」は書き下すと、「帰り去るに如かず」。“不如”は兵法の「三十六計、逃げるに如かず」と同じく「~が最も良い」の意味ですから、「不如帰去」も「(故郷に)帰るのが一番、何を措いても帰りたい」という意味になります。

 この言葉は、故郷を離れた旅人に里心を抱かせるので“思帰”ともいいますが、それがいつしか“子規”に転訛して、ホトトギスの漢字表記のひとつになりました。

 ちなみに、明治の俳人、正岡常規は、当時、“不治の病”と言われた結核を病み、喀血する自分の姿に、血を吐くまで泣き続けたホトトギスを重ね合わせ、自らを子規と号しています。

 一方、子規の盟友、夏目漱石は、1907年、時の首相、西園寺公望が主催するサロン、「雨声会」に招待された際、「時鳥 厠半ばに出かねたり」の句を書いた断りの葉書を送りました。

 明治時代までは、厠で用を足している時にホトトギスの声を聴くのは凶兆であり、すぐに、その場で犬の鳴き真似して禍を福に転じなければならないとの俗信がありました。漱石はこれを踏まえて、犬の鳴き真似をしないといけないので出席はできないと断ったわけですが、西園寺の性格なら、自分が宴席で鳴くことを拒んだとしても、よもや「殺してしまえ」となることはあるまいと踏んでいたんでしょうね。


★★ 〈岡田英弘三回忌 シンポジウム〉岡田英弘の歴史学とは何か ★★

      岡田英弘の歴史学とは何か

 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定)
 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分)
 * 資料代として1000円が必要です。

 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!!
朝鮮史を出発点に、満洲史、モンゴル史と深めてゆくなかで、「13 世紀のモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西をつなぎ、“世界史”が始まった」と、「世界史とは何か」を初めて提示しえた歴史学者、岡田英弘氏(1931-2017)。その仕事を改めて見直し、次代に継承する!

 このシンポジウムに、内藤も登壇してお話しします。宜しかったら、ぜひ、ご参加ください。
 お申し込みやイベントの詳細はこちらをご覧ください
 

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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
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 切手歳時記:天皇誕生日
2018-12-23 Sun 01:30
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年12月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、平成最後の天皇誕生日にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      立太子礼(明仁)小型シート

 これは、1952年12月23日に発行された“立太子礼記念”の小型シートです。

 天皇誕生日は、古くは“天長節”と言っていましたが、これは皇后誕生日の“地久節”とともに、『老子』第七章の「天長地久」に由来し、両陛下のご長寿をお祈りするという意味が込められていました。『老子』では「天長地久」に続けて「天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生」とあり、天地が永久なのは、天地に自ら永久であろうとする意志がないからだと説明したうえで、“道”を知った聖人は無視無欲であると説いています。

 ところで、現実の君主が聖人であることは稀ですが、五経の『礼記』によれば、聖人が王となり、仁のある政治を行うときに現れるのが、霊獣の麒麟です。

 麒麟は、鳳凰、霊亀、應龍とともに中国の古代思想における“四霊”のひとつで、鹿の身体に、角の生えた狼の頭、牛の尾、馬の足と角を持つとされています。日本では、キリンビールのラベルのイメージが強いのではないでしょうか。なお、麒麟という語は、本来は、この霊獣の総称で、麒がオス、麟がメスです。

 今回ご紹介の小型シートには、麒麟を描いた5円および10円切手が収められています。

 立太子礼は、勅旨によって皇太子が天皇の後継者であることを内外に示すために行われる儀式で、皇位継承についての明確な規定のなかった明治以前には、皇位継承者の正式な発表の場として重要な意味を持っていました。明治以降は、天皇の長男が皇太子となることが制度として定められたため、儀礼的なお祝いとしての面が強調されています。

 1933年12月23日、昭和天皇の第一皇男子としてお生まれになった明仁親王(今上陛下)の立太子礼は、1947年に改正された「皇室典範」に基づき、当初、親王殿下が満18歳に達した1951年12月に行われる予定でしたが、当時のわが国は連合国の占領下で、立太子礼は予算規模71円の質素なものとして計画されていました。

 ところが、1951年5月、皇太后(貞明皇后=大正天皇の皇后)が崩御され、その諒闇中ということで立太子礼の儀式は一年延期。その間、1952年4月に講和条約が発効してわが国が独立を回復したことから、立太子礼は、同年11月10日、独立回復初の皇室の慶事として盛大に行われ、記念切手も発行されることになりました。

 立太子礼の記念切手については、当初、郵政省は肖像切手の発行を希望していましたが、宮内庁が首を縦に振らず、立太子礼の儀式の際、皇太子の証として天皇から授けられる秘法“壺切剣”が題材として選ばれます。しかし、剣は宮中の秘宝で、切手制作のために借り出して模写することが許されなかったため、郵政省は、1916年の裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼を撮影した膨大な新聞写真の中から剣の写っているものを探し出し、宮内庁に確認のために照会しましたが、宮内庁側の説明によると、件の写真は合成したもので実物とは異なるとのこと。そこで、郵政省は文献資料を調査し、剣には海浦模様の蒔絵と麒麟の螺鈿が施されていること、正倉院御物、高御座、そして壺切剣の麒麟は基本的にはほぼ同じ形状であることを確認したうえで、正倉院御物を資料として切手のデザインを制作しました。

 このように、宮内庁との調整などに手間取ったこともあって、単片の記念切手は立太子礼当日の11月10日に発行されたものの、3種の切手を収めた小型シートは間に合わず、殿下18歳のお誕生日にあたる12月23日の発行となりました。


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 切手歳時記:谷中の紅葉
2018-11-30 Fri 01:30
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年11月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、紅葉の時季にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      まりつき

 これは、1957年11月1日に発行された切手趣味週間の記念切手で、鈴木春信の「まりつき」が取り上げられています。絵の中の少女が着ている着物は川の流れと紅葉の図柄というのが歳時記としてのミソです。

 さて、今回の切手は、おそらく、当時の技術的な制約が原因なのでしょうが、切手と東京国立博物館所蔵のオリジナルの錦絵では色味が少し違っており、オリジナルでは、川の流れともみじ葉(の一部)がより緑色に近い碧になっています。

 紅葉する前の“青もみじ”といえば初夏から夏にかけての景色ですが、少女の着物は明らかに秋冬物の袷ですし、なにより、地色の紅と川、もみじ葉の組み合わせは、小倉百人一首にも収められている在原業平の和歌、「千早ぶる神世もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」を連想させますから、やはり、晩秋の図と見るのが自然でしょう。

 ところで、絵の中の少女は、無言で毬をついていたわけではなく、なにか手毬歌を歌っていたはずですが、あるいは、笠森お仙の手毬歌だったのではなかろうかと僕は考えています。

 将軍が徳川家治の時代、明和(1764-71年)の頃、江戸は谷中の笠森稲荷門前に「鍵屋」という茶屋がありました。茶屋の娘、お仙は宝暦元(1751)年の生まれで、当時の江戸三大美人の一人としてその名は天下に轟き、晴信の作品にもしばしば取り上げられました。

 若き日の大田南畝が舳羅山人のペンネームで刊行した『小説売飴土平伝』には、彼女の美貌について「美目の艶、往来を流し目にす。将に去らんとして去り難し」、「十目の見る所、十手の指す所 一たび顧みれば、人の足を駐め、再び顧みれば、人の腰を抜かす」との記述があります。彼女が往来をちらっと見たら、もう他所へは行けず、彼女が振り向けば男たちは歩みを止め、もう一回振り向けば腰を抜かすというわけで、彼女目当てに笠森稲荷にお参りに来る男も多かったようです。

 また、当時の江戸の子供たちの間では、そんなお仙を歌った次のような手毬歌が流行しました。

 向う横町のお稲荷さんへ
 壱銭上げてちゃっと拝んでお仙の茶屋へ
 腰を掛けたら渋茶を出して
 渋茶よこよこ横目で見たらば
 米の団子か土の団子かお団子団子
 この団子を犬にやろうか猫にやろうか
 とうとう鳶にさらわれた

 “米の団子か土の団子か”とあるのは、笠森稲荷では、願をかける時にはまず土の団子を供え、それが成就してお礼参りをするときは米の団子を供える風習があったことを踏まえたものです。もっとも、男たちにしてみれば、参拝はあくまでもお仙を拝みに行くための口実でしたから、団子なんか、本当はどうだっていいのですが…。

 ところが、お仙は、20歳になったある日、何の前触れもなく、御庭番衆の倉地政之助のもとに嫁いでしまい、人々の前から忽然と姿を消してしまいます。彼女を目当てに茶屋に来た男たちからすれば、団子は油揚げよろしく鳶にさらわれた格好ですが、倉地は後に幕府の金庫を管理する払方御金奉行にまで出世しましたから、実際には、鳶というより鷹というべきでしょうか。

 ちなみに、「まりつき」の絵が描かれた当時の笠森稲荷社は、現在の天王寺(当時の名は感応寺)の塔頭・福泉院境内にありましたが、天王寺は紅葉の名所で、寺から日暮里方向に抜ける坂道は紅葉坂と名付けられたほどです。

 お仙の絵を好んで描いた晴信は、天王寺と笠森稲荷を連想させる紅葉の着物を「まりつき」の少女に着せ、頭の中をめぐる手毬歌のメロディとともに、茶屋の店先に立っていた彼女を懐かしむ縁としたかったのかもしれません。

 * 本日未明、アクセスカウンターが199万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 

★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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      表紙帯つき 本体2000円+税

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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 イスラエルに行ってきます!
2018-05-24 Thu 03:55
 私事で恐縮ですが、エルサレムで開催される世界切手展<WSC Israel 2018>に出品者およびコミッショナーとして参加するため、きょう(24日)午後の飛行機で羽田を発ち、香港経由でテルアヴィヴに向かいます。というわけで、テルアヴィヴへの無事の到着を祈って、こんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エールフランス・東京=テルアヴィヴFFC

 これは、1957年4月18日、東京・羽田空港からテルアヴィヴ宛のエールフランスの初飛行カバー(FFC)です。エールフランスの日本就航は1952年秋のことで、ベイルートカラチサイゴンで乗り継ぐ南回りのルートで、飛行時間は41時間10分でした。その後、路線が拡大され、1957年には、今回ご紹介の東京=イスラエル間の路線がスタートしました。ただし、乗継時の待ち時間もそれなりに長かったようで、裏面に押されているテルアヴィヴの着印は、差出から6日後の4月24日となっています。

 さて、今回の切手展の会期は27日からなのですが、その前に、作品を搬入・設営しなければなりません。イスラエルならではの特殊事情で、金曜日の日没から土曜日の日没までは安息日で作業がストップしてしまいますので、金曜日の朝にテルアヴィヴでイスラエルに入国してエルサレムに向かい、なんとか、日没までに展示作業を済ませてしまいたいと考えています。なお、展覧会の会期は31日までで、作品をピックアップした後、現地時間の1日にテルアヴィヴから出国し、翌2日に帰国の予定です。

 今回の旅行期間中も、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただ、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。 


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 桐生が日本選手初の9秒台
2017-09-10 Sun 10:02
 きのう(9日)、福井市で行われた日本学生対校選手権の陸上男子100メートルで、東洋大学の桐生祥秀選手が日本選手初の9秒台となる9秒98の日本新記録をマークしました。というわけで、、きょうは桐生選手を讃えて、ランナーを描く切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      第3回アジア大会(ランナー)

 これは、1958年5月24日に発行された「第3回アジア競技大会」の記念切手のうち、ゴールテープを切るランナーを描く14円切手です。

 4年に1度開かれるアジア競技大会は、戦前の極東選手権競技大会と西アジア競技会が合併するかたちでスタートしました。

 このうち、前者は、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されたのが最初で、以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとに開催されていました。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催されました。なお、この大会からインドが参加国に加わったほか、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インドも参加しています。しかし、日中戦争の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされてしまいました。

 一方、西アジア競技大会は、第1回大会が、1934年にニューデリーで、インド、アフガニスタン、セイロン(現スリランカ)、パレスチナ(英委任統治領)の4ヶ国が参加して行われましたが、こちらも、1938年に予定されていた第2回大会は欧州情勢の緊迫に伴い、中止に追い込まれています。

 こうして、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流ですが、1948年、アジア競技連盟が結成され、1951年3月、戦前の両大会を統合して第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。

 ついで、第2回大会は、1954年5月、マニラで開催され、このときも日本が優勝しました。

 そして、1958年の第3回大会は、アジア競技連盟、東京都、日本体育協会の共催により、5月24日から6月1日まで、東京・明治神宮外苑の国立競技場 で開催されました。

 大会の総裁は皇太子殿下(当時。今上陛下)で、参加国は、アフガニスタン、ビルマ、カンボジア、セイロン、台湾、香港、インド、インドネシア、イラン、イスラエル、日本、韓国、マラヤ連邦(現マレーシア)、ネパール、北ボルネオ、パキスタン、フィリピン、シンガポール、タイ、南ベトナムの20ヶ国で、選手・役員2000名以上が参加しました。

 第3回アジア競技大会に関しては、過去の開催国であるインドとフィリピンが、それぞれ、大会開催時に記念切手を発行していることもあり、郵政省内では早くから記念切手の発行を視野に入れて準備を進めていたようです。

 実際、郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)の審議を経て、記念切手の発行が決定されたのは1957年12月20日のことでしたが、同月5-6日には、大会組織委員会の塚原十四一が記念切手発行の打合せを行うために郵政省を訪問。さらに、10日には、デザイナーの木村勝、久野実、渡辺三郎、長谷部日出男が国立競技場の建設現場を取材し、はやくも19日には4人で7枚の下図を作成しています。

 さて、図案審査専門委員会の審議を経て、記念切手の発行が正式に決定されると、1月7日、あらためて原画についての競技が行われました。

 その結果、①5円、10円、14円、24円の4種セットの構成とする、②取り上げる題材は、国立競技場、聖火ランナーと大会マーク、陸上競技、水上競技、とする、③記念名称は、日本語だけでなく、3RD ASIAN GAMESの英文も入れ、西暦、大会マークを入れる、④形は正方形とする、⑤料額以外の文字原稿は、統一をはかるため、一人が代表して書いたものを、製版の際に転写する、という切手制作の基本方針が決定されました。

 これを受けて、1月13日、郵政省は共同通信社からスポーツ記録写真を購入。さらに、翌14日には、大会組織委員会から、大会旗の写真を借り受けています。その際、組織委員会側は、大会旗のマークには“EVER ONWARD(限りなき前進)”との大会スローガンは入っていないが、正式の大会マークにはこれが入っているので、切手にもこれを入れてほしいと要望しています。

 こうして、1月22日、4点の原画が完成しました。この段階では、共同通信社の記録写真に忠実に、14円切手のランナーは女性選手で、24円切手のダイビングは男性選手のシルエットになっていましたが、郵務局長の板野学が男女の組み合わせを入れ替えるように指示したため、そのように修正され、2月4日、印刷局に回されました。

 切手の発行枚数は、5円ならびに10円切手が各3000万枚、14円ならびに24円切手が各1000万枚という、当時としては異例の規模でしたが、これだけの量の記念切手が、すべて、発行初日の5月24日までに、すべて、全国の郵便局に配給されたということではないようです。

 じつは、今回の記念切手は、4種ともにグラビア4色刷であったため、刷色の決定までに郵政省と印刷局との間で調整が難航し、最終的に正式な試刷が提出されたときには、発行日まであと半月ほどに迫った5月7日になっていました。

 このため、一部の地域では、発行初日の5月24日には当初の予定量のごく一部しか配給されないということもあったとの報告が残されています。とりわけ、関西地区では、極端な販売制限が行われたにもかかわらず、一時間以内で完売する局が続出。特に、同日の神戸地区では、今回の5円および10円切手の半分、1500万枚の発行であった“開国百年”の記念切手の半分以下しか新切手の配給がなされておらず、初日のうちに切手を入手できなかった収集家もかなりな数に上りました。

 結局、これらの地域に記念切手の配給が完了したのは、大会も後半になってからのことで、会期終了後の6月2日になると、大阪中央局では、発行初日の発売制限が嘘のように、積極的な販売活動が展開されました。

 このため、第3回アジア競技大会の記念切手は、大会終了後もかなりの長期間にわたって大量に売れ残っており、特に、今回ご紹介の14円切手に関しては、東京中央局の郵趣窓口では昭和50年代まで販売されていたとの報告もあります。

 なお、専門的には、今回ご紹介の切手のバックの赤色に関しては、スクリーンの角度にバラエティがあることが明らかになっています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 最新作 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 近日発売!★★★ 

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 切手歳時記:国蝶論争
2017-06-17 Sat 09:16
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年6月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オオムラサキ(旧)

 日本の国蝶、オオムラサキの成虫は、年に1度、6-7月に発生します。1956年に発行の75円切手も、オオムラサキの季節に合わせ6月20日に発行されました。

 切手の発行当時の郵政省の説明では「国蝶としても恥ずかしくない風格を持ち」となっていましたが、実は、オオムラサキが正式に国蝶として決定されたのは、切手発行の翌年、1957年のことでした。

 もともと、国蝶の選定は日本政府によるものではなく、1933年、蝶類同好会のメンバーが集まった宴席での雑談で、“国蝶”を決めてはどうかという話題になったのが発端とされています。

 蝶類同好会は、“同好会”と銘打っていましたが、当時の日本の主な博物学者はほぼ全員が会員という本格的な組織で、九州帝国大学教授の江崎悌三が会長を務めていました。

 さて、件の宴席で、江崎は国蝶にはオオムラサキが相応しいと提案します。

 オオムラサキは日本で発見された蝶で、それゆえ、昆虫学者で近代養蚕学・製糸学を開拓した佐々木忠次郎にちなんで学名(属名)も“佐々木の~”を意味する“Sasakia”となっています。また、江崎は、佐々木門下の俊英として、日本の昆虫学を牽引した人物でした。

 宴席に居合わせた会員の多くは江崎の提案に賛同。後日、会報で会員に賛否を問うた上で、正式に国蝶を決定しようということでお開きになりました。

 ところが、江崎の提案が会報で報じられると、会員の結城次郎が真正面から異議を唱えます。

 結城は広島工業学校(現県立広島工業高校)の数学教師で、1936年6月21日、宮島でミヤジマトンボを発見し、その名を日本の昆虫(学)史に残すことになるのですが、江崎に論争を挑んだ1933年当時は無名のアマテュア研究家でした。

 結城は、国蝶の条件として、①日本全国に分布する、②小学校の教科書にも載っている、③飛び方が優雅である、という3点を挙げ、オオムラサキではなくナミアゲハこそが国蝶に相応しいと提案します。

 オオムラサキを国蝶にという江崎の提案の根拠がいまひとつ曖昧だったこともあり、以後、同好会はオオムラサキ派とナミアゲハ派に分れて激しい論争が巻き起こりました。論争は4年間も続き、最後は、会報上で相手陣営を罵倒しあうなど、殺伐たる雰囲気にりました。

 そこで、会員投票で決着させることになり、その結果、オオムラサキが78票を得て、2位のナミアゲハの35票を大きく引き離して1位となります。ところが、投票総数が過半数に達しなかったため、反オオムラサキ派は投票の無効を主張。そうこうしているうちに、本格的な戦争の時代が到来し、同好会は解散に追い込まれてしまいました。

 こうして、昆虫関係者の間で国蝶の話題がタブーとなっていたなかで、戦後の1954年、保育社から『原色日本蝶類図鑑』が刊行されます。同書の校閲は江崎が担当し、オオムラサキの項目には「国蝶として…」との文言がさりげなく付け加えられていました。

 今回ご紹介の75円切手の制作は、こうしたタイミングで行われたわけです。

 図案の制作を担当した久野実は、当初、天然記念物のミカドアゲハを取り上げるつもりだったようですが、蝶についての専門知識のなかったため、“蝶聖”との評判が高かった林慶に助言を求めます。

 その林は、戦前からの論争では、オオムラサキ派の急先鋒。林からすれば、久野が接触してきたのは、まさに「飛んで火にいる~」といったところだったでしょう。久野から相談を受けると切手の図案には“国蝶”のオオムラサキこそがふさわしいと力説しました。蝶に対する特段のこだわりがなかった久野も、林がそこまでいうのならと、オオムラサキの図案を制作し、“国蝶としても恥ずかしくない風格”の75円切手が世に出ることになりました。

 こうして、オオムラサキ派は、周到に“世論”を誘導し、郵政省の“お墨付き”も得たうえで、1957年の日本昆虫学会総会で、オオムラサキを国蝶とする緊急動議を抜き打ちで提出。これが通ったことで、オオムラサキは正式に国蝶としての地位を確立したのです。

 * 今回の記事の作成に際しては、主として、星野フサ「第21回談話会 国蝶オオムラサキ選定論争始末記(後援者:青山慎一 昆虫ボランティア)」(北海道大学総合博物館『ボランティア・ニュース』第23号:2011年12月 4頁)を参照しています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 

 6月15日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月29日(木)16:05~の予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、15日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 建国記念の日
2017-02-11 Sat 13:28
 きょう(11日)は、建国記念の日です。というわけで、例年どおり、建国神話にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

     天橋立

 これは、1960年7月15日に発行された日本三景切手の“天橋立”で、観光写真などで定番の成相山(西岸の江尻の後ろ側)の傘松公園から眺めた風景が取り上げられています。

 天橋立は、京都府の北部、若狭湾国定公園の一角にあり、1952年11月に国の特別名勝に指定されました。日本海に面する宮津湾の潮流と風によって運ばれた砂が積もって出来た砂嘴で、西岸の江尻から対岸の文殊まで、南西に2.2 km 突き出しています。

 『丹後国風土記』には、国産み神話の伊射奈芸命(イザナギ)は天に通うために天に通うための“椅(はしご)”として“天椅立(あまのはしだて)”をつくりましたが、命が眠っている間に椅が倒れ、現在の“天橋立”になったとの記述があります。また、『古事記』の国つくりの場面で、イザナギ・イザナミが立っている“天浮橋”は天橋立であるとする伝承もあります。

 なお、この切手は、当初の年間計画で7月の発行とされており、3月中には試刷もつくられ、4月1日に正式な刷色も決定されるなど順調に作業が進められていました。ところが、4月後半になって、突如、郵政省は8月1日に発行の予定であった足摺国定公園切手を7月15日に発行する代わりに、7月15日に発行の予定であった天橋立の発行は8月1日に変更すると発表。しかし、結局、5月に入ると、両切手の発行日は当初の予定通りとすることがあらためて発表されるなど、マネージメント面での混乱が見られました。

 さて、以前から繰り返し書いていることですが、天孫降臨神武東征などの建国神話は、それがそのまま歴史的事実であるとは考えられません。ただし、そういうレベルでいえば、『聖書』の記述にも歴史的事実としては認めがたい部分が多々あるわけで、欧米のキリスト教世界で(信じるか信じないかは別の問題として)『聖書』の物語をたしなみとして国民に教えているのであれば、わが国でも民族の物語=神話としての建国神話を日本人の大半が常識として共有しているのが本来の姿だと僕は思います。

 したがって、僕に言わせれば、歴史の授業ではなく、国語の授業でこそ、小学生のうちから徹底的に記紀神話を教え込むべきだと思うのですが、そういうことを言うと、左巻きの人たちは「戦前の皇国史観が大日本帝国の侵略戦争を支える役割を果たした」などと主張して反対するんでしょうな。困ったものです。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

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 昭和基地60年
2017-01-29 Sun 11:19
 1957年1月29日、南極に昭和基地が開設されてから、きょうでちょうど60年です。というわけで、南極関連の日本切手といえば、やはりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      国際地球観測年

 これは、1957年7月1日に発行された“国際地球観測年”の記念切手で、観測年のマークと南極観測船“宗谷”、コウテイペンギンを組み合わせたデザインとなっています。

 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882-83年に第1回が実施されました。

 その後、50年後の1932-33年には第2回の極年が行われましたが、科学の急速な進歩を考慮して、第3回目は間隔を短縮して25年後の1957年7月1日から翌1958年12月31日までの間に、“国際地球観測年(International Geophysical Year)”の名のもとに実施されることになりました。ちなみに、この国際地球観測年は、世界各国が協力して特定の事業を行う「国際年」の企画としては最初のものです。

 国際地球観測年の共同観測事業は、ブリュッセルの国際学術連合(ICSU) が国際地球観測年特別委員会(CSAGI)を設置して準備を進め、地球の中心を縦に割って東経10度付近、同110度付近、同140度付近、西経60-70度付近で、また、地球を横に割って北極、赤道、南極の7大地帯でそれぞれ行われました。

 このうち、東経140度付近地帯の中心国となったわが国では、日本学術会議の中に設けられた国際地球観測年研究連絡委員会が学術的な見地から、また、文部省測地学審議会の中に設けられた国際地球観測年特別委員会が関係各機関の行政実務を調整する立場から、それぞれ準備を進めることになりました。当初、日本は赤道観測を行う予定でしたが、予定地の領有権を持つ米国の許可が出ず、1955年2月、南極観測に切り替えています。

 このように、国際地球年の準備が進められていった過程で、1956年11月、内閣官房副長官と文部事務次官は、次年度の記念切手発行計画に関する郵政省からのヒヤリングに応えて、国際地球観測年と南極地球観測の2件を回答しました。

 日本人による本格的な南極観測は、1956年11月に東京港を出港した観測船“宗谷”が翌1957年1月25日に南極大陸に到着し、同月29日にオングル島に昭和基地を設営することでスタートします。

 回答を受けて、郵政省サイドでは、当初、地球観測年と南極観測を別の記念切手として発行することも検討しましたが、1957年1月24日に開催された郵政審議会専門委員打合会議の結果、記念切手の発行は国際地球観測年のみにしぼり、南極観測は切手の図案において表現するということで決着がはかられることになりました。

 切手発行の方針が決定されると、1957年4月9日、郵政省の担当者が文部省3階の南極地域観測統合推進本部を訪ね、宗谷やペンギンの写真などを資料として借用しようとしました。しかし、同本部にはマスコミ各社の閲覧希望者があとをたたず、郵政省が写真原簿を持ち出すことは不可能でした。

 このため、郵政省は同本部の紹介を得て、東京大学南極資料室から資料を借用。また、CSAGI本部で作成した観測年のマーク(地球と人工衛星を描いたものと、これに西暦や記念銘を添えて八角形の枠で囲んだものの二種類があった)については、南極観測隊長の永田武 を通じて、CSAGI本部に使用許諾を求める手続きがとられました。

 一方、切手の発行日としては、観測強化の世界デーにあたる7月4日も考慮されましたが、結局、観測年がスタートする7月1日が妥当ということになり、この日にあわせて作業が進められます。

 4月10日、記念切手はグラビア4色刷とする方針が決められ、久野実、渡辺三郎、長谷部日出男の3人のデザイナーが下図を作成します。これに対して、郵務局長・松井一郎は、オーロラとペンギン、宗谷、観測年のマークを組み合わせた渡辺の原画をもとに、オーロラをやめて観測年のマークを中心に、宗谷とペンギンを添えることを提案。この案に沿って再度、コウテイペンギンを大きく描いた原図が渡辺によって作成されました。その際、画面構成の都合から、観測年のマークは左上に寄せ、半分くらい欠けた形にトリミングして用いられています。

 こうして、5月6日、原画が完成し、印刷局での作業が開始されました。なお、切手の発行枚数は、当初の予定では500万枚となっていましたが、実際には600万枚に変更され、6月21日に記念切手の現品(見本字入り)と記念スタンプの印影を添えた報道資料がマスコミ各社に配布されました。

 切手の発行日には、東京・上野の日本学術会議講堂で、午前9時(グリニッジ標準時の午前0時00分にあたる)から国際地球観測年開始記念式典が行われ、セレモニーの一環として、郵政大臣署名入りの記念切手一シートが長谷川万吉(国際地球観測年研究連絡委員会委員長)に贈呈されています。


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