内藤陽介 Yosuke NAITO
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 一の酉
2016-11-11 Fri 11:30
 きょう(11日)は、一の酉です。というわけで、例年同様、最新の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・サンバ(2005)

 これは、2005年に発行されたブラジル=キューバ友好の切手のうち、ブラジルの象徴として、ニョオウインコと“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”を取り上げた1枚です。

 ニョオウインコはブラジルの固有種で、マットグロッソ州北部、パラー州北部、マラニョン州北部、ロンドニア州の丘陵にある熱帯雨林に生息しています。全長34cmで、全身は黄色い羽毛で被われており、翼の羽先だけが深い緑色という配色は国旗と同じ組み合わせのため、オニオオハシとならんでブラジルの国鳥とされることもあります。また、現在はワシントン条約付属書I で絶滅の恐れが高い種として保護されていますが、一定の手続きを踏めば、ペットとして飼育することも不可能ではありません。

 一方、わが国では、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、サンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことです。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれます。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 これに対して、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 現在でも、ブラジルでは、ただ単に“サンバ”というと、カーニヴァルのサンバではなく、サンバ・ヂ・ガフィエイラを指すことも多く、そうした事情を反映して、今回ご紹介の切手にも、ブラジルの象徴としてサンバ・ヂ・ガフィエイラが取り上げられています。

 なお、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』では、今年100周年を迎えたサンバの歴史についても、1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

 * けさ、アクセスカウンターが172万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑨
2016-11-05 Sat 09:59
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2016年11月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第9回目。今回は、国立歴史博物館とカテドラル・メトロポリターナにフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      カテドラル・メトロポリターナ

 これは、2010年に発行されたカテドラル・メトロポリターナの切手です。

 リオには有名無名の教会が数多くありますが、中でもインパクトがあるのは、リオデジャネイロ大司教座がおかれているカンデラリア・メトロポリターナでしょう。

 もともと、リオの大司教座は、カンデラリア教会からもほど近いプリメイロ・デ・マルソに面したノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会(旧大聖堂)に置かれていました。

 同教会は、もともと、1590年にブラジルにやってきたカルメル修道会が建立した小さな礼拝堂でしたが、その後、礼拝堂は拡張され、1770年、“カルメル山の聖母教会”を意味するノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会として聖化されます。

 1808年、ポルトガル王室がリオに遷移すると、国王マリア1世がカルモ修道院を御座所としたことから、近接するノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は王室礼拝堂となり、あわせて、リオの大司教座がおかれました。

 以後、1889年の帝政廃止までの間、ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は王室/皇室の教会として、ジョアン6世の戴冠式(1816年3月20日)、王太子時代のドン・ペドロ1世の結婚式(1817年11月6日)、ドン・ペドロ1世の戴冠式(1822年10月12日)、ドン・ペドロ2世の戴冠式(1841年7月18日)、皇女イザベルの結婚式(1864年10月15日)など、王室/皇室の慶事の舞台として使われています。

 共和制の発足に伴い、ノッサ・セニョーラ・ド・モンテ・ド・カルモ教会は皇室礼拝堂ではなくなりましたが、その後も、リオデジャネイロ大聖堂としての地位は維持しつづけていました。しかし、リオからブラジリアへの遷都後、リオ市内の再開発の一環として、1964年、レプブリカ・ド・パラグアイ通りとレプブリカ・ド・チリ通りに面した土地に、新たな大聖堂の建設が始まり、1976年、現在の大聖堂としてのカテドラル・メトロポリターナが完成。リオデジャネイロ大司教座もそこに移されました。

 さて、カテドラル・メトロポリターナは、教会建築としては珍しい円錐形で、直径106m、高さ96mで収容人員は2万人。円錐形の形は、人々と神との等しい関係、近さを表しているのだとそうです。天井には十字型の天窓があり、そこから床へ64mのステンドグラスが東西南北4方向に伸びており(下左の画像)、主祭壇の上空には、現代美術風にアレンジされた磔刑のキリスト像が中空に吊り下げられています。また、教会には東西南北に入口があり、東の入口にはキリスト像が、西の入口には、カトリックで人気の高い聖人、“アッシジのフランチェスコ”の像が置かれています。(下右の画像)

      カテドラル・メトロポリターナ内部  カテドラル・メトロポリターナ(フランチェスコ像)

 ちなみに、カテドラル・メトロポリターナとは通りのを挟んで反対側のビルの外壁は鏡面加工となっており、そこにカテドラルの外観が映っていますが、“近未来”風のカテドラルが、ガラスの窓枠でいくつにも細分され、ところどころで微妙に歪んでいるのは、それこそ、SF映画に出てくる時空の歪みが目の前に表現されているようで、ちょっとした奇観だったのが、印象に残っています。(下の画像)

      カテドラル・メトロポリターナ(鏡面)

 なお、カテドラル・メトロポリターナについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。なお、雑誌『キュリオマガジン』の「郵便学者の世界漫郵記:リオデジャネイロ篇」も、同書に収録しきれなかった内容を加えて、年内いっぱい連載を続けていく予定ですので、よろしくお願いいたします。
 

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 日本ハムが10年ぶり日本一
2016-10-30 Sun 10:06
 プロ野球の日本シリーズは、北海道日本ハムファイターズ広島東洋カープを4勝2敗で下して10年ぶりの日本一となりました。というわけで、“戦士”の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・モンテカステッロ攻略50年

 これは、1995年2月21日にブラジルが発行した”モンテ・カステッロ攻略50年”の記念切手で、ブラジル国旗を背景に戦うブラジルの兵士たちが描かれています。

  1939年9月に第二次大戦が勃発した当初、ブラジル国内では、陸軍の上層部はドイツに好意的でしたが、大統領のヴァルガスは中立を維持していました。

 ところが、1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受けて大戦に参戦した米国は、ブラジル北東部の戦略的な位置を重視し、ブラジルを自陣営に取り込もうとします。その一環として、米国は、ヴァルガス政権の経済政策の目玉の一つであったヴォルタ・レドンダ国立製鉄所の建設資金として2000億ドルを供与し、その代償として、レシーフェに米軍基地を設置。一方、ヴァルガス政権も、中立を掲げながらも、明らかに米国寄りの外交路線に舵を切るようになっていきます。

 一方、米国と戦闘状態に突入したドイツは大西洋戦線で潜水艦Uボートを用いた連合国の通商破壊作戦を展開していましたが、その結果、1942年1月から7月までの間に13隻のブラジル商船がドイツの潜水艦攻撃によって沈められました。さらに、同年8月には、潜水艦U-507により、2日間で5隻のブラジル船が沈められ、600人以上が犠牲になっています。この8月のUボート攻撃に対して、ブラジル国内の反独世論が沸騰。ヴァルガスは陸軍内の反対論を抑え込んで、8月22日、ドイツに対して宣戦を布告しました。

 さらに、大戦末期の1944年になると、ブラジルは連合国の一員として、ラテンアメリカ諸国として唯一、米軍の指揮下に2万5000名余の遠征軍(FEB:Força Expedicionária Brasileira)をイタリア戦線に派遣しました。すでに、イタリアは前年の1943年に降伏しており、主たる戦闘対象はドイツ軍です。

 1944年7月2日にブラジルを出発したFEBの第一陣5000人は同16日にイタリア・ナポリに到着。その後、順次、後続部隊が到着し、米軍を中心とする連合軍部隊と合流しました。その中には、アフリカ系黒人で構成される米第92歩兵師団、日系人で構成される米第442歩兵連隊、ニュージーランド、カナダ、インド、グルカ、英領パレスチナ、南アフリカ出身の英連邦軍、英連邦指揮下のポーランド、チェコスロヴァキアの各亡命政府軍、イタリアの反ファシスト勢力、セネガル、モロッコ、アルジェリア出身のフランス軍など、多種多様な人々が含まれていました。

 FEBは、ドイツのケッセルリンク元帥が設定したイタリア北部の最後の防衛線“ゴシック・ライン(リグリア海から内陸に入り、標高1000メートルのアルティッシモ山の山頂を連ねた線)”の攻略戦に参加しましたが、なかでも、1944年11月25日から1945年2月21日までのモンテ・カステッロの戦いでは、FEBはドイツ軍の70名を大きく上回る443名の死傷者を出して奮闘し、連合国の勝利に貢献したことで知られています。今回ご紹介の切手は、その50周年を記念して発行されたものです。

 その後も、FEBは連合国諸部隊とともに1945年4月7日にまでに難攻不落と謳われたゴシック・ラインの制圧を完了します。さらに、米第4軍と共に北上して4月14日にはモンテーゼを攻略して4月25日にはパルマに到達し、ターロ川の戦いでは撤退する枢軸軍の激しい抵抗を受けつつも、28日にはフォルノーヴォで枢軸側を包囲してドイツ第148師団を降伏させ、1万3000人を捕虜としました。

 これにより、ドイツ軍はイタリア戦線で抵抗を続けることが不可能となり、休戦交渉が開始されます。そして、5月2日、FEBはトリノに到達し、スーザ渓谷で南下してきたフランス軍と合流したところで、5月8日の終戦を迎え、戦勝国としての地位を確保しました。

 なお、第二次大戦中のブラジルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろと関連のマテリアルをご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(29日)のトークイベント「ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く」は、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、スタッフの皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。


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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑧
2016-10-05 Wed 10:06
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2016年10月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第8回目。今回は、リオの東西のメインストリート、プレジデンチ・ヴァルガス通りにフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      カンデラリア教会(2007)

 これは、2007年に発行されたカンデラリア教会の切手です。

 カンデラリア教会はリオ最古の教会で、プレジデンチ・ヴァルガス通りの東端近くに中洲のようなかたちで位置しています。

 1609年、カンデラリア号に乗って航海していたスペイン人たちが嵐に見舞われて沈没寸前の状況に追い込まれましたが、彼らは、カナリア諸島の守護者で船名と同じカンデラリアの聖母に祈りつづけ、リオデジャネイロに漂着することができました。この故事にちなみ、1630年、グアナバラ湾に近いリオの地に、カンデラリアの聖母に捧げる小さな礼拝堂が建立されます。これが、現在のカンデラリア教会のルーツとなりました。

 1775年にはポルトガル人のフランシスコ・ジョアン・ロシオを責任者として大規模な州改築工事が始まり、1811年、現在のファサード部分が完成。摂政ドン・ジョアン隣席の下、落成式典が行われます。ただし、建物本体の工事はその後も続けられ、リスボン産の石材を用いたドームの屋根が最終的に完成したのは、1877年のことでした。

 一方、教会の内装は、1878年にバロック様式から新古典主義とネオ・ルネッサンス様式に改修されましたが、その際、ジョアン・ゼフェリーノ・ダ・コスタらにより、聖母マリアと彼女の美徳(「慎重さ」、「慈愛」、「信仰」、「希望」、「正義」、「節制」、「毅然とした姿勢」)を表現した天井のフレスコ画が制作されました。(下の画像です)

      カンデラリア教会・天井画

 ちなみに、プレジデンチ・ヴァルガス通りとカンデラリア教会については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。なお、雑誌『キュリオマガジン』の「郵便学者の世界漫郵記:リオデジャネイロ篇」も、同書に収録しきれなかった内容を加えて、年内いっぱい連載を続けていく予定ですので、よろしくお願いいたします。


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 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 開催御礼
2016-09-24 Sat 10:51
      ブラジル大使館・ペドロ文化担当官

 おかげ様で、きのう(23日)、ブラジル大使館で開催された拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行記念トークイヴェントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただいた皆様、ブラジル大使館はじめ開催にあたりご支援いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。(冒頭の画像は、今回のイベントの開催にご尽力いただいたブラジル大使館のペドロ・ブランカンチ文化担当官との2ショットです)

 さて、今回のイベントでは、ブラジル大使館のご厚意で、ご来場の皆様にアサイー・ドリンクをご提供いただきました。そこで、きょうは、そのお礼の意味も込めて、この切手をご紹介したいと思います。(右側に、ご提供いただいたアサイー・ドリンクの画像も貼っておきます)

      ブラジル・アサイー  アサイー・ドリンク

 切手は、1994年4月24日、ドイツ植物学者のカール・フレデリック・フィリップ・フォン・マルティウスの生誕200年を記念して発行されたもので、アサイーの木と実が描かれています。

 アサイー(和名はワカバキャベツヤシ)は、ブラジル・アマゾンが原産のヤシ科の植物で、木の高さは20-30m。ブルーベリーに似た外観の実が枝の間に房状に実り、1本の木には1房3-6kgの実が3-4房の実なります。収穫は、木を切り倒すのではなく、農家の人が木に登り手掴みで実だけを採取します。

 アサイーの実は栄養価が非常に高く、アサイー果実100g中に含まれるポリフェノールは約4.5gで、ココアの約4.5倍、ブルーベリーの約18倍ともいわれています。他にも、鉄分はレバーの3倍で、食物繊維、カルシウムなども豊富です。

 アサイー自体にはほとんど味がないため、ジュース状にした後、牛乳やヨーグルト等の乳製品、バナナやイチゴあるいはそれらの果汁などと混ぜて飲むのが一般的で、ボウルにアサイーのスムージーを入れ、バナナやクラッカーなどとともに“アサイーボウル”として食されることもあります。また、成長点(ハートオブパーム)は、野菜としてサラダなどに利用されています。

 切手の題材となったカール・フリードリヒ・フィリップ・フォン・マルティウスは、1794年4月17日、バイエルン北部のエアランゲンに生まれました。1814年にエルランゲン大学を卒業し、大学の植物園の植物目録を作成。その後も植物学の研究を続け、1817年から行われた、オーストリアのブラジル学術探検に参加します。その範囲は、ブラジル南部、東部を経て、リオデジャネイロからアマゾン川やその支流を遡上し、ブラジル北部のタバティンガにまで及んでいます。

 1820年の帰国後、ミュンヘン植物園に採用され、1826年にミュンヘン大学の植物学の教授に就任。ブラジル植物の専門家として、主著に『ブラジルの新種植物』(Nova Genera et Species Plantarum Brasiliensium, 1823–1832, 3 vols)、『ブラジルの隠花植物図鑑』(Icones selectae Plantarum Cryptogamicarum Brasiliensium, 1827))、『ヤシの自然史』(Historia naturalis palmarum, 1823–1850, 3vols)などがあります。今回ご紹介の切手の図案は、このうちの『ヤシの自然史』から採られたものです。また、植物以外にも、ともにブラジル探検をおこなったヨハン・バプチスト・フォン・スピックスの集めたブラジルの動物の研究も行ったほか、ブラジルの先住民に関する論文もあります。

 なお、切手は“国内宛ファースト・クラス”用の無額面永久保証切手ですが、切手発行時の販売価格は144クルゼイロ・レアルでした。


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 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。

 ・毎日文化センター
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 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 ズンビの国
2016-09-20 Tue 12:56
 きのう(現地時間18日)閉幕したパラリンピックの閉会式で、出演したブラジルの音楽グループ“ナサォン・ズンビ”のメンバーが演奏の最中、「テメル(大統領)は出ていけ」と書いた紙をステージ上で掲げる一幕がありました。というわけで、“ズンビの国(バンド名の直訳)”といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・ズンビ・ドス・パルマーレス

 これは、1995年にブラジルで発行された“ズンビ・ドス・パルマーレス没後300年”の記念切手です。

 ポルトガル植民地時代、アフリカからブラジルに連れてこられた黒人奴隷の中には過酷な労働から逃げ出して密林地帯や山間の僻地などに“キロンボ”と呼ばれる集落を形成するものが少なからずいました。1570年以降、キロンボはブラジル北東部のバイーア、ペルナンブーコ、アラゴアスに拡大し、18世紀には南東部のサンパウロ州からミナス・ジェライス州にも登場します。キロンボの規模は50軒程度の小規模なものから数千軒規模のものまでさまざまで、彼らは独自に農耕・狩猟等に従事するほか、白人の集落を襲撃したりすることもありました。

 そうしたキロンボの中でも、1597年、ペルナンブコ州で40人の奴隷が反乱を起こし、農園主などを殺害してセーラ・ダ・バヒーガ山の山頂付近に逃げ込んでつくったのが、“キロンボ・ドス・パルマーレス”のルーツです。その後、彼らの逃げ込んだ土地が肥沃だったこともあり、キロンボ・ドス・パルマーレスは順調に発展し、ポルトガルやオランダ人(一時期、ブラジル北東部を支配していました)の攻撃も退け、最盛期には約3万人の住民を擁して、事実上の独立国家の様相を呈していました。

 そうしたなかで、1655年、ポルトガル軍の司令官、ブラス・ダ・ロッシャ・カルドーゾが数人の捕虜と1人の生まれたばかりの赤ん坊を捕えてパルマーレスとの戦いから帰還。赤ん坊は、ポルト・カルヴォに住んでいたアントニオ・メロ神父の元に引き渡され、フランシスコと名付けられ、キリスト教の教義やポルトガル語、ラテン語の教育を受けて育てられた。

 フランシスコは非常に優秀で、メロン神父も彼に愛情を注いでいましたが、次第に、自分と同じ黒人の奴隷が白人の下で苦役を強いられていることに心を痛めるとともに、まだ見ぬ家族への思慕が募り、1670年、15歳にしてパルマーレスへ逃亡。住民たちは彼を歓迎し、彼のことを“ズンビ”と呼ぶようになりました。

 ズンビは、当時のパルマーレスのリーダーだったガンガ・ズンバの片腕として、ポルトガル軍の相次ぐ攻撃からキロンボを防衛することに力を注ぎます。1680年にガンガ・ズンバが毒殺されると、ズンビは25歳で後継指導者となり、キロンボを率いることになります。

 1694年、植民地政府はドミンゴス・ジョルジ・ヴェーリョひきいる9000のポルトガル軍を派遣し、パルマーレスに対して総攻撃を仕掛けてきました。圧倒的な火力を有するポルトガル軍はパルマーレスの城壁を破壊して中心地マカコに侵入。キロンボは崩壊し、ズンビも戦闘で負傷して、命からがら逃げだしました。

 しかし、信頼していた一部隊のリーダー、アントーニオ・ソアレスの裏切りによって、ポルトガル軍はズンビの潜伏場所を急襲し、彼を逮捕。翌1695年11月20日、ズンビは斬首され、その遺体はレシーフェの街の広場に遺体は晒し者にされました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して300年になるのを記念して発行されたものです。

 現在、ズンビは、黒人の自由とアフリカ文化を守り抜いた歴史上の英雄として、彼の命日にあたる11月20日は、ブラジル各地で“黒人の意識向上の日”の記念日になっています。

 ちなみに、パラリンピックの閉会式で抗議の紙を掲げたナサォン・ズンビは、シコ・サイエンスが1991年にズンビ終焉の地レシーフェで結成した音楽グループで、ブラジル北東部の伝統音楽であるマラカトゥやコーコに、ハードロック系のノイジーなギターとサンプリング、そしてラップ風のボーカルといったヒップポップ感覚をミックスした“マンギビート”を作り出し、ブラジル現代音楽に一台革命をもたらしました。リーダーのシコは1997年に自動車事故で亡くなりましたが、グループとしての活動は現在も継続しており、閉会式でのパフォーマンスになったというわけです。

★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順) 

 * ブラジル大使館のご厚意で、当日いきなりのご参加もOKになりました。ただし、残席僅少です。
  
 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 
 お問い合わせ・懇親会のお申し込みは、下記宛にお願いいたします。

  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 一人でも多くの方にお会いできるのを楽しみにしております。

★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。

 ・毎日文化センター
 それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 リオデジャネイロ・パラリンピック開幕
2016-09-08 Thu 11:10
 リオデジャネイロ・パラリンピックが、現地時間の7日夜(日本時間8日午前)、開幕しました。というわけで、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・パラリンピック

 これは、今回のパラリンピックのマスコット“トム”を取り上げた2015年のブラジル切手です。

 トムは、オリンピックのキャラクター、ヴィニシウスとともに、アニメーション会社、“バードスタジオ(Birdo Producoes)”が制作し、2014年の11月20日に発表されました。

 南米初開催のオリンピック・パラリンピックということをふまえ、トムは、南米の豊かな植物を象徴するキャラクターとして、青と緑を基調とし、頭は葉で覆われています。また、サンバを始めとしたブラジル音楽が大好きという設定に合わせて、今回ご紹介の切手では、リオの象徴であるポン・ヂ・アスーカルを背景に、タンバリンを叩き、踊る姿がデザインされています。
 
 マスコットの名前としては、当初、同社内ではオバ、エバの名で呼ばれていたそうですが、最終的に、「イパネマの娘」などで知られるブラジル音楽の巨匠、ヴィニシウス・ヂ・モライスとアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)にちなんで、オリンピックのマスコットが“ヴィニシウス”、パラリンピックのマスコットが“トム”と命名されています。

 今回ご紹介の切手のマスコットの名前の由来となったトム・ジョビンは、1927年、リオのチジュッカ地区生まれ。14歳の頃からピアノを弾きはじめ、音楽家になることを夢見ていましたが、高校卒業後は、生活の安定を考えて建築学校に入学しました。しかし、音楽への夢を捨てきれず、ナイト・クラブでピアノを弾いていたところ、1952年、当時のブラジル音楽界の大御所、ハダメス・ジナタリに見いだされ、コンチネンタル・レコードに入社。翌1953年、オデオン・レコード(EMI・ブラジル)に移って、作編曲家として活動するようになります。

 1956年、ヴィニシウス・ヂ・モライスがプロデュースしたミュージカル『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1959年に『黒いオルフェ』としてフランス・イタリア・ブラジル合作で映画化され、カンヌのパルム・ドールなどを受賞)の音楽を担当して以来、ヂ・モライスとジョビンはコンビを組んで数々の曲を発表するようになり、1958年には、“サンバ・カンサゥン(白人を中心に、比較的穏やかなリズムで叙情的な内容を歌ったサンバ)の女王”、“ブラジル音楽の至宝”などと呼ばれていた当代一の女性歌手、エリゼッチ・カルドーゾのアルバム『愛しすぎた者の歌』の全収録曲を手がけるようになりました。

 このアルバム収録曲のうち、「想いあふれて」「もう一度」の2曲にギタリストとして参加したのが、ジョアン・ジルベルトです。

 ジルベルトのギターは、ジャズのコードを駆使して、1本のギターでバチーダ(サンバのリズム)を刻むという独創的なものでした。また、彼のささやくような歌い方は、当時としてはかなり斬新で、その音楽性にほれ込んだジョビンは、2ヶ月後、ジルベルトのために「想いあふれて」をアレンジしてレコーディングし、1959年にリリースします。このジルベルトの「想いあふれて」こそ、現在にいたるボサノヴァの歴史の原点となりました。

 ボサノヴァという言葉は、もともとは、“新しい傾向”を意味するポルトガル語ですが、この新ジャンルはすぐに学生たちの支持を得ます。以後、ヂ・モライスとジョビンのコンビは次々にヒット曲を生み出し、ヴィニシウスとトムは現代ブラジル文化を象徴するビッグ・ネームとなりました。

 なお、このあたりの事情につきましては、新刊の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 きょうから浅草サンバ・カーニヴァル
2016-08-27 Sat 11:28
 きょう・あす(27・28日)、毎年恒例の浅草サンバカーニバルが開催されます。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カーニヴァル(1991)

 これは、1991年にブラジルで発行された“ブラジル各地のカーニヴァル”の切手のうち、リオのカーニヴァルに繰り出したサンバチーム、“エスコーラ・ヂ・サンバ”が取り上げられています。

 もともと、カーニヴァルは、西方キリスト教会で、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる“謝肉祭”のことで、本来は、パレードもその一環として行われるものです。それゆえ、リオのカーニヴァルは、本来の趣旨に沿って、現在でも毎年2-3月に行われています。

 ところが、1970年代以降、カーニヴァルのパレードが多くの観光客を集めることが注目され、本来の宗教的な意味とは無関係に、参加者が仮装して踊りながら行う大規模なパレードのことを“カーニヴァル”として、観光客の集まりやすい時期を選んでカーニヴァルを行う国や地域が現れるようになります。1981年から始まった浅草サンバカーニバルも、世界的にみれば、そうした潮流の中に位置づけることも可能かもしれません。

 さて、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、現在の日本ではサンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことで、それ以前は、カーニヴァルのパレードで用いられる音楽は、音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流でした。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれました。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 なお、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの公式なパレードには中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれます。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 1930年、リオではカーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グロボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなり、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがったことで、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 この結果、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”は次第に突出した存在になり、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。さらに、1937年以降、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになりましたが、その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されるようになりました。1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を拒否されたのはその象徴的な出来事といえましょう。

 浅草サンバカーニバルは、当初は、“サンバ”の様式にとらわれず、さまざまなスタイルのチームが参加していましたが、現在では、リオのエスコーラに倣ったチーム対抗の本格的なコンテストになっています。

 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 リオ五輪閉幕
2016-08-22 Mon 12:07
 今月5日から行われていたリオデジャネイロ五輪は、現地時間の21日夜(日本時間22日午前)、閉会式が行われ、次回開催都市の東京へ五輪旗引き継ぎの“フラッグ・ハンド・オーヴァー”のセレモニーが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・五輪旗引継

 これは、前回のロンドン五輪から今回のリオ五輪への五輪旗の引き継ぎを題材にブラジルが発行した切手です。切手上の年号表示は、ロンドン五輪閉会式で引き継ぎのセレモニーが行われた2012年となっていますが、実際に切手が発行されたのは2015年2月2日のことです。

 切手は、ロンドンの象徴として、ウェストミンスター地区とタワーブリッジを、リオデジャネイロの象徴としてポン・ヂ・アスーカル巨大なキリスト像のあるコルコヴァードの丘を、左から順にシルエットで描くことによって、2012年のロンドンから2016年のリオデジャネイロへの変遷を表現しています。

 五輪の開催にあたって開催国が記念切手を発行することは、1896年の第1回アテネ大会の時から行われてきましたが、2大会での引き継ぎを題材とした切手が発行されたのは、1996年のアトランタ大会から2000年のシドニー大会への引き継ぎの切手をシドニー大会の開催国、オーストリアが発行したのが最初ではないかと思われます。ただし、この時のオーストリア切手は、大会最終日の1996年8月4日ではなく、会期真只中の7月22日に発行されました。なお、ソウル大会閉会式翌日の1988年10月3日、1992年のバルセロナ大会開催国のスペインがバルセロナ大会の事前周知の切手を発行していますが、この切手にはソウル大会のことは何も触れられていませんので、“引き継ぎ”を題材とした切手とは言い難いでしょう。

 その後、2000年のシドニー大会から2004年のアテネ大会への引き継ぎに関しては、2000年9月15日(シドニー五輪開会式の日)、オーストラリアとギリシャで同図案で同時に発行されています。2004年のアテネ大会から北京大会への引き継ぎに関してもこれに倣い、8月13日(大会開催中)、中国とギリシャで同図案で同時に記念切手が発行され、2008年の北京大会方ロンドン大会への引き継ぎに関しても、同年8月22日(閉会式の24日が日曜日のため、直近の金曜日)に英国が、24日(閉会式の日)に中国が同図案の切手を発行しました。

 これに対して、2012年のロンドン大会からリオ大会への引き継ぎに関しては、パラリンピック終了(9月9日)後の9月27日、英国が切手を発行していますが、ブラジルでの切手発行は上述のように2015年までずれ込んでおり、両者の図案もまったく異なっています。

 今回のリオ大会から東京大会への引き継ぎに関しては、現時点では、ブラジル・日本ともに切手の発行はありません。まぁ、大会が終了してしまったブラジルはともかく、2020年の東京大会を盛り上げるという点では、日本も過去の先例に倣い、リオ大会から東京大会への引き継ぎの切手を発行して「次は東京」をアピールしたらよかったのに…と僕などは思ってしまいます。

 なお、今回ご紹介の切手に取り上げられたポン・ヂ・アスーカルやコルコヴァードの丘を含むリオの名所旧跡については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』で詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 カヌーの羽根田が銅
2016-08-10 Wed 12:22
 リオデジャネイロ五輪5日目(現地時間9日)は、競泳男子200mバタフライの坂井聖人が銀、カヌー・スラローム男子カナディアンシングルの羽根田卓也、柔道男子81kg級の永瀬貴規、 競泳男子4×200mリレーの日本チームが銅のメダルを獲得しました。 すでに水泳柔道は取り上げましたし、日本勢のカヌーでのメダル獲得は今回が初めてということなので、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・リオ+20

 これは、2012年6月1日にブラジルで発行された“リオ+20”の記念切手で、右側にカヌーを楽しむ人が描かれています。

 切手の題材となった“リオ+20”は、1992年のリオ地球サミットから20周年にあたる2012年6月20-22日にリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議」の略称です。

 会議では、①現在70億人を数える世界人口は2050年までに90億人に達する、②世界の5人に1人にあたる14億人が1日1ドル25セント以下で生活している、③世界で電気を利用できない人々は約15億人、④トイレがない人々は約25億人、⑤日々飢えに苦しんでいる人は約10億人、⑥温室効果ガス排出量は増え続けており、気候変動に歯止めがかからなければ、これまで確認されている生物種全体のうち、3分の1以上が絶滅する恐れがある、という現実を踏まえ、世界の指導者が民間企業、NGOなどのグループを代表する参加者と一堂に会し、どのように貧困を削減し、社会的公正を高め、環境保護を確保できるかについての討議が行われました。

 今回ご紹介の切手は、そうしたリオ+20の趣旨を踏まえ、会議に先立ち20連刷シートの形式で発行された切手の1枚で、「自然環境や歴史文化を対象とし、それらを体験し、学ぶとともに、対象となる地域の自然環境や歴史文化の保全に責任を持つ観光のありかた」の“エコツーリズム”を題材に、ガイドとともにオニオオハシの写真を撮っている人たちも描かれています。
 
 
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