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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米国、75年ぶりに石油に純輸出国に
2018-12-10 Mon 13:41
 米国の石油輸出量が、11月末、75年ぶりに輸入量を上回り、週間ベースながら石油の純輸出国となったそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・石油産業100年

 これは、1959年に米国で発行された“石油産業100年”の記念切手です。

 北米ペンシルベニア(ペンシルヴァニア)の地では、古くから先住民が地面に染み出た油を軟膏、虫除け、化粧、宗教儀式などで用いていました。その後、原油はランプの光源として鯨油の代替品として使われ始めます。

 1849年、サミュエル・キアーは自己所有の塩水井から油を抽出し、医療用として販売を開始し、商業的に成功。さらに、1850年代に入ると、キアーは井戸の塩水から油を分離することを止め直接、原油の掘削を開始し、ジョン・カークパトリックとともに照明に使える油を蒸留しました。油の品質改良に努めるとともに、その油を用いた悪臭や煙を出さないオイルランプも発明しています。

 キアーの成功を受けて、ニューヨークの法律家だったジョージ・ビッセルは、1854年、銀行家ジェームス・タウンゼントらの出資を募ってペンシルベニア石油会社を設立。同社は、採掘予定地のタイタスヴィルへ行くための鉄道のフリーパスを持っているという理由で、元車掌のエドウィン・ドレークを雇い入れ、調査とともに用地の確保を行わせます。タイタスビルには地表上に石油が滲みでる場所があり、そこから採取された石油がランプ油として使用できると判断されたためです。

 ドレークの報告を基に、石油産業が莫大な利益を上げる見通しが立ったところで、1858年、ペンシルベニア石油会社はドレークを社長としてセネカ石油会社に改組され、本格的な採掘作業が開始されました。

 採掘作業には、当初、岩塩採掘機などを改造して作ったドリルが使われていましたが、固い岩盤にぶつかってから掘削速度が落ち、時間の経過とともに資金も枯渇して、セネカ・オイルの出資者たちは事業から撤退してしまいます。そこで、ドレークは知人などから資金をかき集め自力で採掘を続け、1859年、地下石油の採掘に成功しました。

 ドレークの成功を機に、米国では空前の石油投資ブームが到来し、産油量は急増。しかし、当時の石油需要はランプ灯に限定されていたため、あっという間に供給過剰となり、1バレル当たり20ドルだった原油価格は、1861年には10セントにまで暴落してしまいます。

 ちなみに、ドイツのニコラウス・オットーが原油から灯油を採った後の“産業廃棄物”だったガソリンを燃料とするエンジンを発明したのは1876年、それを改良してゴットリープ・ダイムラーが特許を出願したのは1885年のことでした。

 昨日(9日)、 名古屋市市政資料館で開催された東海郵趣連盟切手展での内藤の講演「韓国現代史と切手」は、無事、盛況のうちに終了しました。お集まりいただいた皆様、スタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 北朝鮮、米兵遺骨55柱を返還
2018-07-28 Sat 04:38
 北朝鮮は、昨日(27日)、朝鮮戦争の休戦協定締結から65周年の記念日にあわせて、朝鮮戦争で戦死した米兵の遺骨55柱を米側に返還しました。というわけで、朝鮮戦争に参加した米兵関係のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米軍・12月の撤退  米軍・12月の撤退(裏面)

 これは、1950年12月1日、米ヴァージニア州のスタントンから朝鮮に派遣されていた米兵宛に送られたカバーです。当初の宛先は、釜山に置かれていた第59野戦郵便局気付となっていますが、名宛人の所属部隊が38度線を越えて北上したことに伴い、郵便物の宛先も平安南道の黄海に面した粛川(第24野戦郵便局)に変更されています。ちなみに、粛川は、隣接する順川とともに、国連軍が38度線を越えて北上していた1950年10月20日から23日まで、北朝鮮政権首脳と北朝鮮軍主力の退路遮断、平壌付近に拘置されている国連軍捕虜の救出を目的として、大規模な空挺作戦が展開された場所でした。

 しかし、郵便物が朝鮮半島に到達したときには、いわゆる“12月の撤退”が始まっていたため、名宛人と彼の部隊は38度線以北から退避。その際、おそらく名宛人も負傷したらしく、郵便物は各地を転々とした後、最終的に、朝霞(第613野戦郵便局)を経て、名宛人が収容されていた第361野戦病院に送られています。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安保理は北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領しました。

 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認します。

 この時点では、トルーマンは、地上軍を本格的に投入して、朝鮮戦争に全面的に介入すれば、ソ連の介入を招きかねないとして慎重な姿勢を取っていました。

 これに対して、日本占領の総司令官として東京にいたマッカーサーは、6月29日、陥落直後のソウルを漢江南岸から視察。本国政府に地上軍の本格的な投入を主張し、このマッカーサー報告を受けて、翌30日、トルーマンも地上軍の投入を決断します。

 もっとも、急遽、朝鮮半島に派遣された米国軍第24師団(開戦当時は九州に駐留していました)は準備不足のためもあって、7月5日に行われた烏山の戦闘で北朝鮮側にまさかの敗北を喫してしまいました。こうした状況の中で、7月7日、国連安保理は国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任します。

 一方、首都・ソウルを陥落させた朝鮮人民軍は、その後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領。この間、国連軍の創設を受けて、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山への移転を余儀なくされました。

 その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領。こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになります。

 さて、1950年8月初の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。

 一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、国連軍は徐々に戦力を回復。こうした状況の中で、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川への上陸作戦を敢行します。

 1950年9月上旬の時点で、北朝鮮の主力は洛東江戦線に集中しており、仁川の防御は手薄になっていたこともあって、マッカーサーの奇襲作戦は見事に成功。1950年9月15日、米国第1海兵師団の1個大隊が仁川市対岸の月尾島に上陸を開始し、国連軍は翌16日までに仁川を奪還してソウルに向けて進撃し、17日には国連軍が金浦空港を奪還しました。

 一方、釜山橋頭堡をめぐる洛東江戦線では、米第8軍が仁川上陸に呼応して攻勢に転じ、大邱=金泉=大田=水原のラインに沿って朝鮮人民軍を撃滅する作戦を開始。9月21日以降、退路を絶たれた朝鮮人民軍は総崩れとなりました。

 仁川に上陸した米国海兵師団は、ただちにソウルへの進撃を開始し、9月20日には漢江の渡河に成功。激しい攻防戦の後、25日、米軍はようやくソウル西側の高地帯と南山を占領。9月28日にはソウルの奪還に成功し、中央政庁には、ふたたび、太極旗が掲げられました。

 国連軍のソウル奪還後、米国政府の内部では38度線を突破するか否か、意見が分かれましたが、最終的に、この問題はマッカーサーの判断に委ねられます。その結果、10月1日、韓国第1軍団が東海岸で38度線を突破すると、マッカーサーは北朝鮮に降伏を勧告。翌2日には国連軍に38度線を越えて北進することを命じました。さらに、7日には国連安保理が国連軍の北進を追認。9日には西部の開城付近で米第1軍団が38度線を突破し、翌10日には韓国第1軍団が東海岸の元山を占領します。

 その後も韓国・国連軍は北上を進め、10月17日には韓国第1軍が咸興・興南を、米第1軍団が沙里院を、それぞれ占領。19日には韓国第1軍団が平壌市内に突入し、翌20日までに国連軍が平壌占領を完了しました。その後も韓国・国連軍は北進を続け、10月26日、韓国第6師団の第7連隊が、ついに楚山で鴨緑江に到達しました。

 これに対して、北朝鮮国家が潰滅する可能性が出てきたことで、10月8日、中国は「唇滅べば歯寒し」として、朝鮮戦争への参戦を決定。「抗美援朝 保家衛國」をスローガンに中国人民志願軍を派遣します。

 国共内戦の経験からゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。これにより、国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。

 これが、いわゆる“12月の撤退”です。

 さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退しました。

 その後、韓国・国連軍はそれまでの正面対決方式を止め、中国側の攻勢が始まってから1週間は緩やかに後退して中国側の食糧・弾薬が尽きるのを待ち、攻勢が弱まった後、相手に補給と休養の隙を与えず、戦車を集中的に用いて反撃する作戦に変更。1951年2月には中国側の攻勢を撃退し、2月20日からは北進に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保しました。

 以後、韓国・国連軍は1953年7月の休戦までソウルを確保し続けるものの、戦況は北緯38度線付近で一進一退の膠着状態が続くことになります。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
      

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 スプートニクとガガーリンの闇(9)
2018-07-25 Wed 00:55
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、6月25日、『本のメルマガ』第685号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中の米国の動向にについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      米・エクスプローラー3号

 これは、1958年3月26日、エクスプローラー3号の打ち上げに際して作られた記念カバーです。

 1955年7月29日、ホワイトハウスは「(国際地球観測年=IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。

 ただし、この時点では、具体的にどのロケットを使用して“世界初”の人工衛星(当時、米国はソ連が先にスプートニク1号を打ち上げるとは夢想だにしていなかった)を打ち上げるかは確定しておらず、空軍のSM-65アトラス、陸軍のSSM-A-14レッドストーンの派生型、海軍のRTV-N-12aヴァイキング観測ロケットを元にした3段式ロケットの3候補がありました。このうち、最終的に海軍案が選択されたことで、ヴァンガード計画が本格的にスタートします。

 1957年10月4日、ソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功すると、同月9日、米大統領のアイゼンハワーは、12月に米国も、既に進行中のヴァンガード計画に基づいて人工衛星を打ち上げる予定だと発言。しかし、この時点では、ヴァンガードロケットは1段目の試射実験が行われた段階でしかなく、2段目と3段目を結合した状態での試験は行われておらず、12月の打ち上げは技術的に困難でした。

 はたして、1957年12月6日、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設(LC-18)で、米国発の人工衛星となるべくヴァンガードTV3が打ち上げられましたが、発射2秒後に爆発し、惨憺たる失敗に終わっっています。しかも、その一部始終は生中継で放映され、米国の面目は丸つぶれとなりました。

 一方、ヴァンガード計画の進捗状況に不安を感じていた国防省は、1957年11月の時点で、陸軍にも人工衛星の準備を命じていました。そこで、レッドストーン短距離弾道ミサイルとして開発が進められてきたものを“ジュノー1ロケット”として、陸軍ジェット推進研究所が衛星“エクスプローラー1号”を製造し、同弾道ミサイル局がそれを打ち上げるプランが動き出します。

 エクスプローラー1号の衛星本体は、ジェット推進研究所のウイリアム・ヘイワード・ピカリングの指揮により、84日間で組み立てられました。なお、ジュノー1の性能上の制約から、本体の重量はわずか18ポンド(約8.16キロ)に抑えられています。また、人工衛星の打ち上げは、あくまでもIGYの一環として行われるというのが建前でしたから、ジェームズ・ヴァン・アレン指揮の下で組み立てられた宇宙線計測用のガイガーカウンターなどの計測機器も搭載されました。

 1958年1月31日に行われたジュノーIの打ち上げは成功し、エクスプローラー1号は地球を周回する長楕円軌道に投入。エクスプローラー1号のガイガーカウンターは高度により、宇宙線計測数に大きな差異があることを報告し、これは後のエクスプローラー3号の観測結果と合わせてヴァン・アレン帯の発見につながりました。

 ついで、2月5日に行われたエクスプローラー2号は発射57秒後に爆発して失敗したものの、3月17日に行われたヴァンガード1号の打ち上げは成功。衛生は無事に軌道に投入されています。この時点で、地球周回軌道上に投入された人工物は米ソそれぞれ2個ずつとなり、米国はソ連に追いつきました。また、ヴァンガード1号は太陽電池パネルを利用した最初の衛星という点でも、重要なものでした。

 さらに、3月26日にはエクスプローラー3号が、7月26日にはエクスプローラー4号が、それぞれ軌道投入に成功するなど、米国は着実に宇宙開発の実績を積み重ね、ソ連に遜色のない技術力を有していることを証明しています。

 しかし、米国の衛星は専門的な実績を積み上げていった一方で、プロパガンダを主目的としたソ連の衛星に比べると地味な印象はぬぐえず、打ち上げ当時は記念切手も発行されませんでした。

 このため、1957年10月のスプートニク1号の打ち上げ以来、ミサイル防衛力において米国はソ連の後塵を拝しているのではないかという“スプートニク・ショック”の感覚を、一般庶民が払拭するにはしばらく時間が必要となるのです。


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 新年快樂 吉祥如意
2018-02-16 Fri 01:40
 きょう(16日)は旧正月・春節です。というわけで、戌年の正式なスタートですから、干支にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米軍・朝鮮戦争(清平里・1952)

 これは、1952年5月31日、朝鮮戦争に派遣された米兵が清平里から米国宛に差し出された軍事郵便で、“AIR MAIL FROM KOREA”の文言の下、ハチにお尻を刺されて走る犬のイラストが入った印が押されています。印の下部にある“HUBBA HUBBA”は、この場合は、「急いで、すぐに」を意味する米俗語で、朝鮮戦争期の米軍の軍事郵便では、今回ご紹介のような犬のイラストと組み合わせた印がしばしば使われました。

 今回ご紹介の郵便物の差出地、清平里はソウル(忘憂)=春川間を結ぶ京春線(韓国鉄道公社)の駅がある場所です。清平里を含む加平郡は、韓国・京畿道の北東部に位置しています。郡域は38度線を南北にまたがっているため、第二次大戦後、朝鮮半島が米ソによって南北に分割占領された際には、清平里を含む郡の大半は米軍政下に置かれたものの、一部はソ連の占領下に置かれました。その後、朝鮮戦争を経て、1953年7月27日の休戦協定の結果、 群全体が韓国領とされ、現在に至っています。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便の関係については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は22日!★★

 2月22日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第16回が放送予定です。今回は、前日の21日が国際母語デーということで、この国際デーの由来となったバングラデシュとベンガル語についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★

 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、お待ちしております。


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 スプートニクとガガーリンの闇(2)
2017-11-17 Fri 15:46
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第661号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ロケットメール(1957)

 これは、国際地球観測年の初日にあたる1957年7月1日、米国で行われた“世界最大のロケット郵便”で運ばれたカバーです。

 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882一83年に第1回が実施されました。

 その50年後の1932-33年には第2回の極年が行われ、第3回は1982-1983年に予定されていましたが、1951年の国際学術連合会議(ICSU、現・国際科学会議)で、米オックスフォード大のチャップマンが、第二次世界大戦後の科学技術の急速な発展を考慮し、25年目となる1957-58年に繰り上げることが提案され、承認を得ます。

 さらに、計画が進むうちに、共同観測の対象範囲を極地だけでなく全地球に拡大することや、観測項目にも追加が相次いだため、イベントの名称も“極年”から“国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)”に改称され、1957年7月1日から1958年12月31日まで、ICSUの統括の下、60ヵ国以上が参加し、極光(オーロラ)、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動の12項目、すなわち、地球物理のほぼすべての分野にわたる観測が実施されました。中でも最重要課題とされたのは、太陽の磁気が地球に与える影響の研究でした。

 IGYの計画が持ち上がった当初から、米国はロケット観測を提案。これと連動するかたちで、1955年2月、情報機関のための提案としてキリアン報告書「奇襲攻撃の脅威への対処」がまとめられています。同報告書は、テレビカメラを利用した原子力偵察衛星の実現を目指すフィードバック計画と、高空飛行偵察機の実現を目指すCL282(後のU2)計画が二つの柱となっていました。

 一方、全米科学財団理事長のウォーターマンは、IGYの一環として科学衛星を打ち上げることを提案。国家安全保障会議文書NSC5520として「米国科学衛星計画に関する政策」がまとめられ、1955年7月29日、ホワイトハウスは「(IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。

 これを受けて、ソ連も宇宙開発計画を明らかにするのですが、この時点では、世界の大勢は人類最初の人工衛星は米国が打ち上げるものと信じていました。

 こうした米国の空気を反映して、IGY初日の1957年7月1日、ネヴァダ州ダグラス群から州境を挟んでカリフォルニア州のトパーズまで、“世界最大のロケット郵便”のデモンストレーションが行われました。今回ご紹介のカバーは、そのイベントで実際に運ばれた郵便物です。

 地形的に通常の輸送方法で郵便物を配達することが困難な地域では、“飛び道具”に郵便物を載せて運ぼうとする“ロケット郵便”は以前から試験的に試みられてきました。たとえば、インド北東部、急峻な山岳地帯で知られるシッキムでは、1935年4月7日以降、9回にわたって、当時のシッキム藩王の認可の下、ガントク郵便局からシッキム王立高校まで200通の郵便物を載せたロケットが発射されています。

 1957年7月1日のロケット郵便も、同じく、計5000通の郵便物を載せた5台のロケットをネヴァダ=カリフォルニア両州の境を挟んで発射したもので、イベントの資金調達の手段として宣伝ラベル(封筒の左下に貼られています)も作られましたが、ラベルのデザインは、ヴァンガード計画をイメージして、地球の周囲を廻る衛星の軌道がデザインされています。

 このロケット郵便を企画したのは、民間のロケット研究所長、ジョージ・ジェイムズですが、彼のみならず、ラベルを買って資金援助を行った人々、さらには、ロケットで運ばれた郵便物を記念品として買った人々は、誰一人として、IGYの期間内にヴァンガード計画によって米国は人工衛星を発射することに何の疑念も抱いていなかったに違いありません。

 それだけに、同年10月4日、ソ連が米国に先立ってスプートニク1号の打ち上げに成功したことは、ロケット開発や宇宙研究の専門家以上に、ジェイムズの記念品を買った善男善女に衝撃を与え、彼らを大いに落胆させることになりました。


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 ジョン・トランブル『独立宣言』
2017-07-04 Tue 09:12
 きょう(4日)は、米国の独立記念日です。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米独立宣言(小型シート)       

 これは、1976年に米国で発行された“独立200年記念”のシートのうち、ジョン・トランブルの絵画『独立宣言』の一部を取り上げた1枚です。今回ご紹介のモノは、ちょっとわかりづらいのですが、下に示すように、右から2番目の切手が額面印刷漏れになっているのがミソです。      

      米独立宣言(部分)

 トランブルは1756年、コネチカット生まれで、父親のジョナサンは独立戦争の時代をはさみ、1769-84年にコネチカット州知事を務めました。1773年にハーヴァードを卒業後、1776年に独立戦争が勃発すると兵士として参戦し、ジョージ・ワシントンの副官補にもなりましたが、幼少期の事故で片目の視力を失っていたこともあり、1777年に除隊しました。

 1780年、ロンドンに渡って王室画家ベンジャミン・ウエストに師事。その後、パリなどを経て、1789年に帰国しますが、ウェストから独立戦争を題材とした作品を書くように勧められたのをきっかけに、米国最初の歴史画家として、独立戦争やその指導者の肖像などを題材とする作品を数多く残しました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた『独立宣言』は、1794-95年に制作され、現在、イェール大学が所蔵している小ぶりの作品と、連邦議会から依頼を受けて1817-19年に制作され、現在は連邦議事堂に掲げられている大型の作品の2点がありますが、内容的にはほぼ同じです。

 ところで、この作品は、しばしば独立宣言への署名場面として紹介されることが多いのですが、正確に言うと、独立宣言の草案を5人の起草者が大陸会議・議長のジョン・ハンコックに提出している場面で、署名をしている場面ではありません。5人の起草者のうち、草案を手に持っている赤色のベストの人物がトマス・ジェファーソンですが、彼の足元を見ると、一番左側に描かれているジョン・アダムス(後にジェファーソンの政敵になります)の足を踏んづけているように見えるなど、トランブルによる歴史解釈が垣間見えるのが面白いところです。(下の画像)

      米独立宣言(足元部分)

 なお、額面漏れの切手に描かれている人物は、ペンシルベニアの“自由の息子達”の指導者で、会議の書記官を務めチャールズ・トムソンです。トムソンは、代議員の入れ替わりが激しかった大陸会議の全期間(1774-89年)で書記官として議事録の作成に関わったことから、大陸会議の生き字引として、“米国の首相”とも呼ばれた人物です。

 ちなみに、独立戦争から建国初期の米国については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも、初代財務長官として10ドル紙幣にも取り上げられているアレクサンダー・ハミルトンを軸にまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。よろしかったら、ぜひ会場にてご覧ください。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

  6月29日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第5回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲があるため、少し間が開いて7月27日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、29日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 朝鮮戦争で届かなかった葉書
2017-06-25 Sun 12:10
 今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      朝鮮戦争・米→釜山宛返戻

 これは、朝鮮戦争初期の1950年8月18日、米オハイオ州から釜山宛に差し出されたものの、戦争により、朝鮮宛の郵便物が取扱停止となっていたため差出人戻しとなった葉書です。

 1950年6月25日、南侵を開始した北朝鮮の朝鮮人民軍は、3日後の6月28日、首都・ソウルを陥落させた後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領しました。

 その後、7月7日、国連安保理が国連派遣軍(以下、国連軍)の創設を決議し、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山に移転。その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領します。

 こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになりました。今回ご紹介の葉書は、まさに釜山橋頭堡をめぐる攻防戦最中の釜山宛に差し出されたものです。

 なお、1950年8月の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、米本土からの弾薬船が釜山に到着するようになったのは8月下旬以降のことで、それまで、第8軍は日本本土に備蓄されていた弾薬で急場をしのがざるをえず、苦境が続いていました。

 こうした中で、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、ようやく国連軍は徐々に戦力を回復。北朝鮮側の戦力が釜山橋頭堡攻略に集中している機会をとらえて、9月15日、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川上陸作戦を敢行。これにより、戦況は一挙に逆転し、朝鮮人民軍は敗走していくことになります。

 なお、朝鮮戦争と関連の切手・郵便物については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 ホノルル空港がイノウエ空港に
2017-05-03 Wed 09:21
 ハワイ・ホノルル国際空港の正式名称が、第二次大戦で米陸軍日系人部隊の一員として戦い、右腕を失いなかがらも1963年から連続9期上院議員を務めた日系2世のダニエル・イノウエ米上院議員にちなみ、ことし4月27日付で “ダニエル・K・イノウエ国際空港(以下、イノウエ空港)”に改称されたことが、きのう(2日)、明らかになりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホノルル国際空港(1962)

 これは、1962年8月22日にホノルル国際空港(当時)内の郵便局からニューヨーク宛に差し出された葉書で、“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”完成の記念のカシェが押されています。

 イノウエ空港のルーツは、1927年3月、ハワイ初の本格的な空港として開港したジョン・ロジャーズ空港です。空港名となったロジャーズは、米海軍航空隊における初期のパイロットの1人で、1925年に米海軍航空局次官に就任しましたが、ワシントンDCからフィラデルフィアに空路移動中、1926年8月、機体トラブルで殉職しました。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、空港はロジャーズ海軍航空基地となり、海軍管理の下で新たな管制塔とターミナルが建設されるなど拡張が進められ、戦後の1946年にハワイ準州(ハワイが米国の50番目の州に昇格するのは1959年)に返還されたときには、16.26平方キロの敷地に地上滑走路4本、飛行艇用滑走路3本を有する米国内最大の空港となっていました。

 これを受けて、1946年、パンナムはホノルル経由で米西海岸とオセアニア地域(フィジーニューカレドニア、ニュージーランド)を結ぶ路線の運行を開始し、翌1947年にはミッドウェイ、ウェイク島経由で東アジアまで航空路を延伸します。

 こうした状況を踏まえて、1947年、空港名はジョン・ロジャーズ空港からホノルル空港に改称され、さらに、1951年にはホノルル国際空港へと改称されます。その後も乗り入れる航空会社の増加にあわせて空港の拡大は続き、1950年までには年間の離着陸数で米国内第3位に、1953年には当時世界最長の3992メートルの滑走路を備える巨大空港に成長しました。

 1962年8月22日には新ターミナルとして“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”が完成し(今回ご紹介の葉書は、その当日、記念カシェを押して差し出したものです)、同年10月4日から運用が開始されます。さらに、1970年から1978年にかけて、ウラディミール・オシポフの設計による大規模な増改築が行われ、ダイアモンド・コンコース(1970年)、エワ・コンコース(1972年)、中央コンコース(1980年)などが相次いで作られました。

 2006年3月には、総額23億ドルを投じ、12年かけて空港および関連施設を大々的に刷新する計画が発表され、2009年にはその第1期工事が、2010年には第2期工事が完了。現在は、新コンコースの建設などが進められています。1963年から2012年に亡くなるまでハワイ選出の議席を維持していたイノウエ上院議員は、こうした大規模リニューアルの予算確保に大いに貢献。そのことが、今回の空港名の改称の理由となりました。

 
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 きょう、ピュリッツァー賞授賞式
2017-04-10 Mon 11:44
 きょう(10日)は、ジョーゼフ・ピュリッツァーの誕生日(1847年)です。今年は、彼の生誕170周年にして、彼の冠した“ピュリッツアー賞”の第1回授賞式が1917年に行われてから100周年ということで、彼の誕生日にあたる今日、授賞式が行われるそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ピュリッツァー生誕100年

 これは、1947年に発行されたピュリッツァー生誕100周年の切手で、彼の肖像と、自由の女神を背景に「我々の共和国と報道は一蓮托生だ」との彼の言葉が取り上げられています。

 ピュリッツァー賞にその名を留めるジョーゼフ・ピュリッツァーは、1847年4月10日、ハプスブルク帝国支配下のハンガリー南部のマコーで、ユダヤ人家庭に生まれました。南北戦争中の1864年、米国に移住し、北軍兵士としての従軍経験を経て、1868年、コロンビア大学を卒業します。

 その後、ミズーリ州セントルイスでドイツ語の日刊紙『ウェストリッヒ・ポスト』で働き始めるとともに、共和党に参加し、1869年にはミズーリ州議会議員に選出されました。

 ちなみに、現在でこそ、米国の民主党はマイノリティの権利を尊重するリベラル派というイメージが定着していますが、これは、20世紀のフランクリン・ローズヴェルト政権以降のことです。一方、共和党は、もともと、1854年に奴隷制反対を掲げ、南部を牙城とする民主党に対抗するために結成されたという経緯もあって、19世紀の時点では、民主党に比べると、人種間の平等という点でははるかにリベラルな立場を取っていました。

 さて、州議会議員としてセントルイスでの社会的な地歩を固めたピュリッツァーは、1872年、3000ドルで『ウェストリッヒ・ポスト』を買収。さらに、1878年には、ライバル紙の『セントルイス・ディスパッチ』を2700ドルで買収し、2紙を統合して『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』を創刊し、セントルイスのメディアを牛耳る存在となります。

 ローカル紙で成功を収めたピュリッツァーは、全米制覇の足掛かりとして、“泥棒男爵”ことジェイ・グールドが所有していた『ニューヨーク・ワールド』(以下、『ワールド』)紙に目をつけます。当時、米国内の鉄道を盛んに買収していたグールドにとって、年間4万ドルの赤字を垂れ流していた『ワールド』の売却話は渡りに船でしたから、1883年、同紙は34万6000ドルでピュリッツァーに売却されました。

 『ワールド』を買収したピュリッツァーは、1833年に創刊の『ニューヨーク・サン』が大衆向けに犯罪報道や、自殺、死去、離婚といった個人的事件を報道して成功していたことに倣い、よりセンセーショナルなスキャンダル中心の編集方針を掲げます。彼の狙いは見事に当たり、1883年に1万5000部しかなかった『ワールド』の部数は、1885年には米国最大の60万部にまで急増しました。

 『ワールド』の躍進を支えた名物記者としては、1887年に入社した女性記者のネリー・ブライ(本名:エリザベス・ジェーン・コクラン。ユダヤ人ではなくアイルランド系)が有名です。彼女は、患者を装ってブラックウェル島の女性精神病院に潜入し、秘密を調査し暴露したほか、1888年にはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際に世界一周リポートを行うなど、当時としては斬新な企画で多くの読者を獲得しました。

 米国一の新聞王となったピュリッツァーは、1892年、母校のコロンビア大学に世界初のジャーナリズム・スクールを設立する資金の提供を申し出ましたが、当時の学長セス・ロウはこれを拒絶しています。生真面目な学者のロウからすれば、ユダヤ人で、なおかつ“いかがわしい新聞”の発行者からの資金など受け取れないということだったのでしょう。ちなみに、ピュリッツァーの資金でコロンビア大学にジャーナリズム大学院が設立されるのは、彼が亡くなった後の1912年のことでした。

 さて、1895年2月17日、それまで雑誌『トゥルース』に連載されていたリチャード・F・アウトコールトの漫画『ホーガンズ・アレイ』が、『ワールド』に場所を移して連載スタートします。『トゥルース』での『ホーガンズ・アレイ』はモノクロの不定期連載でしたが、『ワールド』では同年5月5日からカラー版が掲載されるようになり、ニューヨークではその人気が沸騰しました。

 ところが、ほぼ時を同じくして、1895年に『ニューヨーク・ジャーナル』紙(以下、『ジャーナル』)を買収したアイルランド系プロテスタントのウィリアム・ランドルフ・ハーストは、同紙の目玉として、アウトコールトを引き抜き、『ホーガンズ・アレイ』は主人公のイエロー・キッドにちなんで『イエロー・キッド』と改題されて『ジャーナル』での新連載が始まりました。

 人気のコンテンツを横取りされた格好のピュリッツァーは、対抗措置として、画家ジョージ・ラックスにイエロー・キッド漫画の新シリーズを書かせ、連載を継続します。この結果、イエロー・キッドの漫画が競合2紙で同時に連載されるという前代未聞の事態となりました。

 三流新聞を揶揄していう“イエロー・ペーパー”との表現は、『ワールド』と『ジャーナル』が、いずれもセンセーショナルな記事を特徴とした大衆紙だったことにくわえ、イエロー・キッド漫画を掲載していたことに由来するものです。

 ちなみに、イエロー・ペーパーに対して、“クオリティ・ペーパー”の筆頭とされることの多い『ニューヨーク・タイムズ』ですが、1851年創刊の同紙は、1896年、『チャタヌーガ・タイムズ』紙の経営者でユダヤ系移民2世のアドルフ・オークスによって買収されています。

 生粋の新聞人として、『ワールド』と『ジャーナル』のイエロー・ペーパー戦争を苦々しく思っていたオークスは、「恐怖や好みに陥らない、公平なニュースを届ける」ことを編集方針の基本とし、1897年からは新聞の第一面に“All The News That's Fit To Print(印刷に値するニュースのすべてを)”とのスローガンを掲げ、『ワールド』や『ジャーナル』に対して真っ向から勝負を挑みました。

 オークスは、資金的には必ずしも余裕があるわけではなかったにもかかわらず、広告も内容も吟味して不良スポンサーを排除し、料金も一部3セントから1セントに値下げします。そのうえで、質の高い編集方針を維持することで、1年で部数を3倍に延ばし、現在の同紙の基礎を築きました。

 一方、イエロー・ペーパーとしての『ワールド』と『ジャーナル』の熾烈な競争は、やがて、1898年の米西戦争につながっていきます。

 スペイン領だったキューバの地主たちの間では、19世紀を通じて製糖業と米国市場との結びつきが深まっていくにつれ、米国への統合を望む声も高まっていきましたが、1890年代半ばまでの米政府は、ヨーロッパの植民地主義に対する国民の嫌悪感に加え、いずれスペインはキューバを売却するものと確信していたこともあり、武力によってキューバを併呑することには否定的な態度をとりつづけていました。

 こうした背景の下で、1895年4月、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868-78年の独立戦争と区別して第二次独立戦争ということもある)が勃発。マルティは「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」と主張してキューバ革命党を結成したカリスマ的人物でしたが、開戦早々に戦死してしまいます。しかし、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。

 キューバの独立戦争がはじまると、米国内では、『ワールド』と『ジャーナル』は、スペインの“暴政”をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、米国の権益(米国はキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていました)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を誘導します。

 こうした状況の中で、1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなる事件が発生。現在では、爆発はメイン号の内部機関のトラブルによるものとの説が有力となっていますが、このことが明らかになるのはずっと後のことで、当時の『ワールド』と『ジャーナル』は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開しました。

 「風景は散文詩にしかならない。キューバに戦争はない」と報告してきた特派員からの電報に対して、ハーストが「君は散文詩を提供せよ。僕は戦争を起こす」と返電したというエピソードは、映画『市民ケーン』にも採用されていますから、ご存じの方も多いかと思いでしょう。

 案の定、加熱するキャンペーン報道に煽られた米国の世論は「メイン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、米国政府は、ついに、スペインに対して宣戦を布告し、米西戦争が勃発。戦争の結果、キューバは米国の勢力圏に組み込まれることになります。

 このように、米西戦争は新聞が誘導した戦争として、メディアの歴史において特筆すべき出来事ですが、その一端を、ユダヤ人のピュリッツァーが経営する『ワールド』が担っていたということは、後に、“メディアを牛耳るユダヤ人”というイメージが形成される一因になったのではないかと思います。

 なお、米西戦争については、拙著『反米の世界史』でも、まとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 

 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 Merry Christmas Again!
2016-12-25 Sun 10:51
 きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・クリスマス(1975)

 これは、1975年に米国で発行されたクリスマス切手で、1878年にルイス・プランが制作したクリスマスカードが取り上げられています。

 クリスマス・カードの起源は、1840年に英国で郵便改革が行われたことを受けて、ヴィクトリア・アルバート美術館長のヘンリー・コールが、郵便事業の振興を兼ねて、1ペニー料金で送ることのできるグリーティング・カードを制作したことに求めるのが一般的です。 一方、米国では、早くも1840年代にマサチューセッツ州の女性、エスター・ホランドがカード制作会社を設立。ヴァレンタイン・カードから着想を得て、装飾用のレースの紙などを輸入して手作りカードを販売しています。

 ただし、初期のクリスマス・カードは、制作コストがかかりすぎるなど、庶民にはなかなか手の届かないものだったため、実際にカードのやり取りが普及するようになるのは、大量印刷が可能になった1860年代以降のことでした。

 こうした中で、1873年(日本語の資料では1874年とされていることも多いのですが、これは誤り)、ドイツ系移民のルイス・プラングが亜鉛版を利用したクリスマス・カードを制作して英国に輸出。翌年には国内での販売も開始します。

 プラングは、1824年、プロイセンの支配下にあったブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)で織物職人の家に生まれました。1840年代前半、彼は印刷と織物の修行のため、ボヘミア周辺を旅していましたが、そのために、1848年革命に際しては革命派との関係ができ、プロイセン領内にはいられなくなります。そこで、1850年、スイス経由で米国に渡り、ボストンに定着しました。

 渡米当初、プラングは建築書の出版と皮革製品の制作を行っていたものの、こちらはあまり成功せず、書籍の挿絵として木版画の制作を開始。これが徐々に軌道に乗っていったことから、1856年、マサチューセッツの建築や風景を専門とするリトグラフの制作・販売を行う“プラング&メイヤー”を設立しました。1860年、プラングは共同経営者のメイヤーら経営権を買い取り、プラング&メイヤーを“L.プラング商会”に改組。多色刷の広告制作にも着手したほか、南北戦争中の戦況地図(主として新聞掲載用)を制作して大いに繁盛しました。さらに、1864年、プラングは渡欧してドイツの平版印刷技術を学び、翌1865年に帰国すると、美術品の複製等も手掛けるようになります。

 その後、プラング商会は学校の教科書や美術教師向けの指南書など、あらゆる印刷物を手掛けるようになりましたが、その一環として、1873年、いまだ割高だった英国のクリスマス・カードに目をつけ、英国向けのカードを制作して輸出。これが成功したことから、翌1874年には米国内でもクリスマス・カードの販売を開始しました。

 プラング商会のカードは、それ自体、当時の米国社会で人気を集めましたが、プラングは自社の成功だけに満足せず、クリスマス・カードのコンテストを主催するなどして、カード交換の習慣を普及させるうえで多大な貢献をしたため、現在では“米国におけるクリスマス・カードの父”とも称されています。

 さて、今回ご紹介の切手は、クリスマス・カードから図案を採っていますので、当然のことながら、“Merry Christmas!”の文言が切手にもしっかり入っています。この切手が発行された1975年当時は、こうした切手を発行しても、誰も文句を言う人はいませんでした。

 ところが、1980年代に入り、いわゆるポリティカル・コレクトネスが猖獗を極め、差別を是正するという大義名分のもと、リベラル勢力による激しい言葉狩りが横行(議長を“チェアマン”と呼ぶのは男女差別なので“チェアパーソン”と呼ばねばならない、など)するようになると、“メリー・クリスマス”は非キリスト教徒に配慮して“ハッピー・ホリデー”と言い換えなければならないとされるようになり、米国切手から“Merry Christmas!”の文言は消えていくことになります。

 もちろん、明かな悪意を持って差別語を使うことは厳に慎むべきでしょうが、あまりにも極端なリベラルの主張に対して、善男善女が素朴な疑問を持つのは当然のことです。しかし、これまでの米国の言論空間では、フツーの人たちが、自分たちの“常識”に照らして、ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに疑義を呈することさえ、“差別”として糾弾されかねないという現状があり、そうした風潮に対する不満が、今年の大統領選挙でのトランプ候補の当選につながったという面があったことは間違いありません。

 ちなみに、トランプ次期大統領は、選挙戦を通じて、極端なポリティカル・コレクトネスの愚行を非難し、「米国が再び『メリークリスマス』と言える国に」と訴え続けてきました。そして、今月13日には、ウィスコンシン州での遊説で、「18カ月前、私はウィスコンシンの聴衆にこう言った。いつかここに戻って来たときに、我々は再び『メリークリスマス』と口にするのだと。......だからみんな、メリークリスマス!」と語っています。

 僕は、トランプ次期大統領を全面的に支持するというわけではないのですが、“メリー・クリスマス”ということさえタブー視される社会というのは、やはり異常だと思います。そうした気持ちから、今年のクリスマスには、“メリー・クリスマス”の文言の入った米国切手をご紹介した次第です。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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