内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 新年快樂 吉祥如意
2018-02-16 Fri 01:40
 きょう(16日)は旧正月・春節です。というわけで、戌年の正式なスタートですから、干支にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米軍・朝鮮戦争(清平里・1952)

 これは、1952年5月31日、朝鮮戦争に派遣された米兵が清平里から米国宛に差し出された軍事郵便で、“AIR MAIL FROM KOREA”の文言の下、ハチにお尻を刺されて走る犬のイラストが入った印が押されています。印の下部にある“HUBBA HUBBA”は、この場合は、「急いで、すぐに」を意味する米俗語で、朝鮮戦争期の米軍の軍事郵便では、今回ご紹介のような犬のイラストと組み合わせた印がしばしば使われました。

 今回ご紹介の郵便物の差出地、清平里はソウル(忘憂)=春川間を結ぶ京春線(韓国鉄道公社)の駅がある場所です。清平里を含む加平郡は、韓国・京畿道の北東部に位置しています。郡域は38度線を南北にまたがっているため、第二次大戦後、朝鮮半島が米ソによって南北に分割占領された際には、清平里を含む郡の大半は米軍政下に置かれたものの、一部はソ連の占領下に置かれました。その後、朝鮮戦争を経て、1953年7月27日の休戦協定の結果、 群全体が韓国領とされ、現在に至っています。

 なお、朝鮮戦争と切手・郵便の関係については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は22日!★★

 2月22日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第16回が放送予定です。今回は、前日の21日が国際母語デーということで、この国際デーの由来となったバングラデシュとベンガル語についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★

 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、お待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 スプートニクとガガーリンの闇(2)
2017-11-17 Fri 15:46
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第661号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ロケットメール(1957)

 これは、国際地球観測年の初日にあたる1957年7月1日、米国で行われた“世界最大のロケット郵便”で運ばれたカバーです。

 気象、地磁気、電離層、宇宙線、経緯度、海洋、地震、重力などの諸現象について、期間を定めて、全世界の研究者たちが共同観測を行う極年(Polar Year)は、1882一83年に第1回が実施されました。

 その50年後の1932-33年には第2回の極年が行われ、第3回は1982-1983年に予定されていましたが、1951年の国際学術連合会議(ICSU、現・国際科学会議)で、米オックスフォード大のチャップマンが、第二次世界大戦後の科学技術の急速な発展を考慮し、25年目となる1957-58年に繰り上げることが提案され、承認を得ます。

 さらに、計画が進むうちに、共同観測の対象範囲を極地だけでなく全地球に拡大することや、観測項目にも追加が相次いだため、イベントの名称も“極年”から“国際地球観測年(International Geophysical Year、略称:IGY)”に改称され、1957年7月1日から1958年12月31日まで、ICSUの統括の下、60ヵ国以上が参加し、極光(オーロラ)、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動の12項目、すなわち、地球物理のほぼすべての分野にわたる観測が実施されました。中でも最重要課題とされたのは、太陽の磁気が地球に与える影響の研究でした。

 IGYの計画が持ち上がった当初から、米国はロケット観測を提案。これと連動するかたちで、1955年2月、情報機関のための提案としてキリアン報告書「奇襲攻撃の脅威への対処」がまとめられています。同報告書は、テレビカメラを利用した原子力偵察衛星の実現を目指すフィードバック計画と、高空飛行偵察機の実現を目指すCL282(後のU2)計画が二つの柱となっていました。

 一方、全米科学財団理事長のウォーターマンは、IGYの一環として科学衛星を打ち上げることを提案。国家安全保障会議文書NSC5520として「米国科学衛星計画に関する政策」がまとめられ、1955年7月29日、ホワイトハウスは「(IGY期間中の)1958年春までに人工衛星を打ち上げる」と発表しました。いわゆるヴァンガード計画です。

 これを受けて、ソ連も宇宙開発計画を明らかにするのですが、この時点では、世界の大勢は人類最初の人工衛星は米国が打ち上げるものと信じていました。

 こうした米国の空気を反映して、IGY初日の1957年7月1日、ネヴァダ州ダグラス群から州境を挟んでカリフォルニア州のトパーズまで、“世界最大のロケット郵便”のデモンストレーションが行われました。今回ご紹介のカバーは、そのイベントで実際に運ばれた郵便物です。

 地形的に通常の輸送方法で郵便物を配達することが困難な地域では、“飛び道具”に郵便物を載せて運ぼうとする“ロケット郵便”は以前から試験的に試みられてきました。たとえば、インド北東部、急峻な山岳地帯で知られるシッキムでは、1935年4月7日以降、9回にわたって、当時のシッキム藩王の認可の下、ガントク郵便局からシッキム王立高校まで200通の郵便物を載せたロケットが発射されています。

 1957年7月1日のロケット郵便も、同じく、計5000通の郵便物を載せた5台のロケットをネヴァダ=カリフォルニア両州の境を挟んで発射したもので、イベントの資金調達の手段として宣伝ラベル(封筒の左下に貼られています)も作られましたが、ラベルのデザインは、ヴァンガード計画をイメージして、地球の周囲を廻る衛星の軌道がデザインされています。

 このロケット郵便を企画したのは、民間のロケット研究所長、ジョージ・ジェイムズですが、彼のみならず、ラベルを買って資金援助を行った人々、さらには、ロケットで運ばれた郵便物を記念品として買った人々は、誰一人として、IGYの期間内にヴァンガード計画によって米国は人工衛星を発射することに何の疑念も抱いていなかったに違いありません。

 それだけに、同年10月4日、ソ連が米国に先立ってスプートニク1号の打ち上げに成功したことは、ロケット開発や宇宙研究の専門家以上に、ジェイムズの記念品を買った善男善女に衝撃を与え、彼らを大いに落胆させることになりました。


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 ジョン・トランブル『独立宣言』
2017-07-04 Tue 09:12
 きょう(4日)は、米国の独立記念日です。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米独立宣言(小型シート)       

 これは、1976年に米国で発行された“独立200年記念”のシートのうち、ジョン・トランブルの絵画『独立宣言』の一部を取り上げた1枚です。今回ご紹介のモノは、ちょっとわかりづらいのですが、下に示すように、右から2番目の切手が額面印刷漏れになっているのがミソです。      

      米独立宣言(部分)

 トランブルは1756年、コネチカット生まれで、父親のジョナサンは独立戦争の時代をはさみ、1769-84年にコネチカット州知事を務めました。1773年にハーヴァードを卒業後、1776年に独立戦争が勃発すると兵士として参戦し、ジョージ・ワシントンの副官補にもなりましたが、幼少期の事故で片目の視力を失っていたこともあり、1777年に除隊しました。

 1780年、ロンドンに渡って王室画家ベンジャミン・ウエストに師事。その後、パリなどを経て、1789年に帰国しますが、ウェストから独立戦争を題材とした作品を書くように勧められたのをきっかけに、米国最初の歴史画家として、独立戦争やその指導者の肖像などを題材とする作品を数多く残しました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた『独立宣言』は、1794-95年に制作され、現在、イェール大学が所蔵している小ぶりの作品と、連邦議会から依頼を受けて1817-19年に制作され、現在は連邦議事堂に掲げられている大型の作品の2点がありますが、内容的にはほぼ同じです。

 ところで、この作品は、しばしば独立宣言への署名場面として紹介されることが多いのですが、正確に言うと、独立宣言の草案を5人の起草者が大陸会議・議長のジョン・ハンコックに提出している場面で、署名をしている場面ではありません。5人の起草者のうち、草案を手に持っている赤色のベストの人物がトマス・ジェファーソンですが、彼の足元を見ると、一番左側に描かれているジョン・アダムス(後にジェファーソンの政敵になります)の足を踏んづけているように見えるなど、トランブルによる歴史解釈が垣間見えるのが面白いところです。(下の画像)

      米独立宣言(足元部分)

 なお、額面漏れの切手に描かれている人物は、ペンシルベニアの“自由の息子達”の指導者で、会議の書記官を務めチャールズ・トムソンです。トムソンは、代議員の入れ替わりが激しかった大陸会議の全期間(1774-89年)で書記官として議事録の作成に関わったことから、大陸会議の生き字引として、“米国の首相”とも呼ばれた人物です。

 ちなみに、独立戦争から建国初期の米国については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも、初代財務長官として10ドル紙幣にも取り上げられているアレクサンダー・ハミルトンを軸にまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。よろしかったら、ぜひ会場にてご覧ください。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

  6月29日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第5回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲があるため、少し間が開いて7月27日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、29日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 朝鮮戦争で届かなかった葉書
2017-06-25 Sun 12:10
 今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      朝鮮戦争・米→釜山宛返戻

 これは、朝鮮戦争初期の1950年8月18日、米オハイオ州から釜山宛に差し出されたものの、戦争により、朝鮮宛の郵便物が取扱停止となっていたため差出人戻しとなった葉書です。

 1950年6月25日、南侵を開始した北朝鮮の朝鮮人民軍は、3日後の6月28日、首都・ソウルを陥落させた後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領しました。

 その後、7月7日、国連安保理が国連派遣軍(以下、国連軍)の創設を決議し、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山に移転。その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領します。

 こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになりました。今回ご紹介の葉書は、まさに釜山橋頭堡をめぐる攻防戦最中の釜山宛に差し出されたものです。

 なお、1950年8月の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、米本土からの弾薬船が釜山に到着するようになったのは8月下旬以降のことで、それまで、第8軍は日本本土に備蓄されていた弾薬で急場をしのがざるをえず、苦境が続いていました。

 こうした中で、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、ようやく国連軍は徐々に戦力を回復。北朝鮮側の戦力が釜山橋頭堡攻略に集中している機会をとらえて、9月15日、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川上陸作戦を敢行。これにより、戦況は一挙に逆転し、朝鮮人民軍は敗走していくことになります。

 なお、朝鮮戦争と関連の切手・郵便物については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

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 ホノルル空港がイノウエ空港に
2017-05-03 Wed 09:21
 ハワイ・ホノルル国際空港の正式名称が、第二次大戦で米陸軍日系人部隊の一員として戦い、右腕を失いなかがらも1963年から連続9期上院議員を務めた日系2世のダニエル・イノウエ米上院議員にちなみ、ことし4月27日付で “ダニエル・K・イノウエ国際空港(以下、イノウエ空港)”に改称されたことが、きのう(2日)、明らかになりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホノルル国際空港(1962)

 これは、1962年8月22日にホノルル国際空港(当時)内の郵便局からニューヨーク宛に差し出された葉書で、“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”完成の記念のカシェが押されています。

 イノウエ空港のルーツは、1927年3月、ハワイ初の本格的な空港として開港したジョン・ロジャーズ空港です。空港名となったロジャーズは、米海軍航空隊における初期のパイロットの1人で、1925年に米海軍航空局次官に就任しましたが、ワシントンDCからフィラデルフィアに空路移動中、1926年8月、機体トラブルで殉職しました。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、空港はロジャーズ海軍航空基地となり、海軍管理の下で新たな管制塔とターミナルが建設されるなど拡張が進められ、戦後の1946年にハワイ準州(ハワイが米国の50番目の州に昇格するのは1959年)に返還されたときには、16.26平方キロの敷地に地上滑走路4本、飛行艇用滑走路3本を有する米国内最大の空港となっていました。

 これを受けて、1946年、パンナムはホノルル経由で米西海岸とオセアニア地域(フィジーニューカレドニア、ニュージーランド)を結ぶ路線の運行を開始し、翌1947年にはミッドウェイ、ウェイク島経由で東アジアまで航空路を延伸します。

 こうした状況を踏まえて、1947年、空港名はジョン・ロジャーズ空港からホノルル空港に改称され、さらに、1951年にはホノルル国際空港へと改称されます。その後も乗り入れる航空会社の増加にあわせて空港の拡大は続き、1950年までには年間の離着陸数で米国内第3位に、1953年には当時世界最長の3992メートルの滑走路を備える巨大空港に成長しました。

 1962年8月22日には新ターミナルとして“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”が完成し(今回ご紹介の葉書は、その当日、記念カシェを押して差し出したものです)、同年10月4日から運用が開始されます。さらに、1970年から1978年にかけて、ウラディミール・オシポフの設計による大規模な増改築が行われ、ダイアモンド・コンコース(1970年)、エワ・コンコース(1972年)、中央コンコース(1980年)などが相次いで作られました。

 2006年3月には、総額23億ドルを投じ、12年かけて空港および関連施設を大々的に刷新する計画が発表され、2009年にはその第1期工事が、2010年には第2期工事が完了。現在は、新コンコースの建設などが進められています。1963年から2012年に亡くなるまでハワイ選出の議席を維持していたイノウエ上院議員は、こうした大規模リニューアルの予算確保に大いに貢献。そのことが、今回の空港名の改称の理由となりました。

 
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 きょう、ピュリッツァー賞授賞式
2017-04-10 Mon 11:44
 きょう(10日)は、ジョーゼフ・ピュリッツァーの誕生日(1847年)です。今年は、彼の生誕170周年にして、彼の冠した“ピュリッツアー賞”の第1回授賞式が1917年に行われてから100周年ということで、彼の誕生日にあたる今日、授賞式が行われるそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ピュリッツァー生誕100年

 これは、1947年に発行されたピュリッツァー生誕100周年の切手で、彼の肖像と、自由の女神を背景に「我々の共和国と報道は一蓮托生だ」との彼の言葉が取り上げられています。

 ピュリッツァー賞にその名を留めるジョーゼフ・ピュリッツァーは、1847年4月10日、ハプスブルク帝国支配下のハンガリー南部のマコーで、ユダヤ人家庭に生まれました。南北戦争中の1864年、米国に移住し、北軍兵士としての従軍経験を経て、1868年、コロンビア大学を卒業します。

 その後、ミズーリ州セントルイスでドイツ語の日刊紙『ウェストリッヒ・ポスト』で働き始めるとともに、共和党に参加し、1869年にはミズーリ州議会議員に選出されました。

 ちなみに、現在でこそ、米国の民主党はマイノリティの権利を尊重するリベラル派というイメージが定着していますが、これは、20世紀のフランクリン・ローズヴェルト政権以降のことです。一方、共和党は、もともと、1854年に奴隷制反対を掲げ、南部を牙城とする民主党に対抗するために結成されたという経緯もあって、19世紀の時点では、民主党に比べると、人種間の平等という点でははるかにリベラルな立場を取っていました。

 さて、州議会議員としてセントルイスでの社会的な地歩を固めたピュリッツァーは、1872年、3000ドルで『ウェストリッヒ・ポスト』を買収。さらに、1878年には、ライバル紙の『セントルイス・ディスパッチ』を2700ドルで買収し、2紙を統合して『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』を創刊し、セントルイスのメディアを牛耳る存在となります。

 ローカル紙で成功を収めたピュリッツァーは、全米制覇の足掛かりとして、“泥棒男爵”ことジェイ・グールドが所有していた『ニューヨーク・ワールド』(以下、『ワールド』)紙に目をつけます。当時、米国内の鉄道を盛んに買収していたグールドにとって、年間4万ドルの赤字を垂れ流していた『ワールド』の売却話は渡りに船でしたから、1883年、同紙は34万6000ドルでピュリッツァーに売却されました。

 『ワールド』を買収したピュリッツァーは、1833年に創刊の『ニューヨーク・サン』が大衆向けに犯罪報道や、自殺、死去、離婚といった個人的事件を報道して成功していたことに倣い、よりセンセーショナルなスキャンダル中心の編集方針を掲げます。彼の狙いは見事に当たり、1883年に1万5000部しかなかった『ワールド』の部数は、1885年には米国最大の60万部にまで急増しました。

 『ワールド』の躍進を支えた名物記者としては、1887年に入社した女性記者のネリー・ブライ(本名:エリザベス・ジェーン・コクラン。ユダヤ人ではなくアイルランド系)が有名です。彼女は、患者を装ってブラックウェル島の女性精神病院に潜入し、秘密を調査し暴露したほか、1888年にはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際に世界一周リポートを行うなど、当時としては斬新な企画で多くの読者を獲得しました。

 米国一の新聞王となったピュリッツァーは、1892年、母校のコロンビア大学に世界初のジャーナリズム・スクールを設立する資金の提供を申し出ましたが、当時の学長セス・ロウはこれを拒絶しています。生真面目な学者のロウからすれば、ユダヤ人で、なおかつ“いかがわしい新聞”の発行者からの資金など受け取れないということだったのでしょう。ちなみに、ピュリッツァーの資金でコロンビア大学にジャーナリズム大学院が設立されるのは、彼が亡くなった後の1912年のことでした。

 さて、1895年2月17日、それまで雑誌『トゥルース』に連載されていたリチャード・F・アウトコールトの漫画『ホーガンズ・アレイ』が、『ワールド』に場所を移して連載スタートします。『トゥルース』での『ホーガンズ・アレイ』はモノクロの不定期連載でしたが、『ワールド』では同年5月5日からカラー版が掲載されるようになり、ニューヨークではその人気が沸騰しました。

 ところが、ほぼ時を同じくして、1895年に『ニューヨーク・ジャーナル』紙(以下、『ジャーナル』)を買収したアイルランド系プロテスタントのウィリアム・ランドルフ・ハーストは、同紙の目玉として、アウトコールトを引き抜き、『ホーガンズ・アレイ』は主人公のイエロー・キッドにちなんで『イエロー・キッド』と改題されて『ジャーナル』での新連載が始まりました。

 人気のコンテンツを横取りされた格好のピュリッツァーは、対抗措置として、画家ジョージ・ラックスにイエロー・キッド漫画の新シリーズを書かせ、連載を継続します。この結果、イエロー・キッドの漫画が競合2紙で同時に連載されるという前代未聞の事態となりました。

 三流新聞を揶揄していう“イエロー・ペーパー”との表現は、『ワールド』と『ジャーナル』が、いずれもセンセーショナルな記事を特徴とした大衆紙だったことにくわえ、イエロー・キッド漫画を掲載していたことに由来するものです。

 ちなみに、イエロー・ペーパーに対して、“クオリティ・ペーパー”の筆頭とされることの多い『ニューヨーク・タイムズ』ですが、1851年創刊の同紙は、1896年、『チャタヌーガ・タイムズ』紙の経営者でユダヤ系移民2世のアドルフ・オークスによって買収されています。

 生粋の新聞人として、『ワールド』と『ジャーナル』のイエロー・ペーパー戦争を苦々しく思っていたオークスは、「恐怖や好みに陥らない、公平なニュースを届ける」ことを編集方針の基本とし、1897年からは新聞の第一面に“All The News That's Fit To Print(印刷に値するニュースのすべてを)”とのスローガンを掲げ、『ワールド』や『ジャーナル』に対して真っ向から勝負を挑みました。

 オークスは、資金的には必ずしも余裕があるわけではなかったにもかかわらず、広告も内容も吟味して不良スポンサーを排除し、料金も一部3セントから1セントに値下げします。そのうえで、質の高い編集方針を維持することで、1年で部数を3倍に延ばし、現在の同紙の基礎を築きました。

 一方、イエロー・ペーパーとしての『ワールド』と『ジャーナル』の熾烈な競争は、やがて、1898年の米西戦争につながっていきます。

 スペイン領だったキューバの地主たちの間では、19世紀を通じて製糖業と米国市場との結びつきが深まっていくにつれ、米国への統合を望む声も高まっていきましたが、1890年代半ばまでの米政府は、ヨーロッパの植民地主義に対する国民の嫌悪感に加え、いずれスペインはキューバを売却するものと確信していたこともあり、武力によってキューバを併呑することには否定的な態度をとりつづけていました。

 こうした背景の下で、1895年4月、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868-78年の独立戦争と区別して第二次独立戦争ということもある)が勃発。マルティは「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」と主張してキューバ革命党を結成したカリスマ的人物でしたが、開戦早々に戦死してしまいます。しかし、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。

 キューバの独立戦争がはじまると、米国内では、『ワールド』と『ジャーナル』は、スペインの“暴政”をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、米国の権益(米国はキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていました)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を誘導します。

 こうした状況の中で、1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなる事件が発生。現在では、爆発はメイン号の内部機関のトラブルによるものとの説が有力となっていますが、このことが明らかになるのはずっと後のことで、当時の『ワールド』と『ジャーナル』は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開しました。

 「風景は散文詩にしかならない。キューバに戦争はない」と報告してきた特派員からの電報に対して、ハーストが「君は散文詩を提供せよ。僕は戦争を起こす」と返電したというエピソードは、映画『市民ケーン』にも採用されていますから、ご存じの方も多いかと思いでしょう。

 案の定、加熱するキャンペーン報道に煽られた米国の世論は「メイン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、米国政府は、ついに、スペインに対して宣戦を布告し、米西戦争が勃発。戦争の結果、キューバは米国の勢力圏に組み込まれることになります。

 このように、米西戦争は新聞が誘導した戦争として、メディアの歴史において特筆すべき出来事ですが、その一端を、ユダヤ人のピュリッツァーが経営する『ワールド』が担っていたということは、後に、“メディアを牛耳るユダヤ人”というイメージが形成される一因になったのではないかと思います。

 なお、米西戦争については、拙著『反米の世界史』でも、まとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 

 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 Merry Christmas Again!
2016-12-25 Sun 10:51
 きょう(25日)はクリスマスです。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・クリスマス(1975)

 これは、1975年に米国で発行されたクリスマス切手で、1878年にルイス・プランが制作したクリスマスカードが取り上げられています。

 クリスマス・カードの起源は、1840年に英国で郵便改革が行われたことを受けて、ヴィクトリア・アルバート美術館長のヘンリー・コールが、郵便事業の振興を兼ねて、1ペニー料金で送ることのできるグリーティング・カードを制作したことに求めるのが一般的です。 一方、米国では、早くも1840年代にマサチューセッツ州の女性、エスター・ホランドがカード制作会社を設立。ヴァレンタイン・カードから着想を得て、装飾用のレースの紙などを輸入して手作りカードを販売しています。

 ただし、初期のクリスマス・カードは、制作コストがかかりすぎるなど、庶民にはなかなか手の届かないものだったため、実際にカードのやり取りが普及するようになるのは、大量印刷が可能になった1860年代以降のことでした。

 こうした中で、1873年(日本語の資料では1874年とされていることも多いのですが、これは誤り)、ドイツ系移民のルイス・プラングが亜鉛版を利用したクリスマス・カードを制作して英国に輸出。翌年には国内での販売も開始します。

 プラングは、1824年、プロイセンの支配下にあったブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)で織物職人の家に生まれました。1840年代前半、彼は印刷と織物の修行のため、ボヘミア周辺を旅していましたが、そのために、1848年革命に際しては革命派との関係ができ、プロイセン領内にはいられなくなります。そこで、1850年、スイス経由で米国に渡り、ボストンに定着しました。

 渡米当初、プラングは建築書の出版と皮革製品の制作を行っていたものの、こちらはあまり成功せず、書籍の挿絵として木版画の制作を開始。これが徐々に軌道に乗っていったことから、1856年、マサチューセッツの建築や風景を専門とするリトグラフの制作・販売を行う“プラング&メイヤー”を設立しました。1860年、プラングは共同経営者のメイヤーら経営権を買い取り、プラング&メイヤーを“L.プラング商会”に改組。多色刷の広告制作にも着手したほか、南北戦争中の戦況地図(主として新聞掲載用)を制作して大いに繁盛しました。さらに、1864年、プラングは渡欧してドイツの平版印刷技術を学び、翌1865年に帰国すると、美術品の複製等も手掛けるようになります。

 その後、プラング商会は学校の教科書や美術教師向けの指南書など、あらゆる印刷物を手掛けるようになりましたが、その一環として、1873年、いまだ割高だった英国のクリスマス・カードに目をつけ、英国向けのカードを制作して輸出。これが成功したことから、翌1874年には米国内でもクリスマス・カードの販売を開始しました。

 プラング商会のカードは、それ自体、当時の米国社会で人気を集めましたが、プラングは自社の成功だけに満足せず、クリスマス・カードのコンテストを主催するなどして、カード交換の習慣を普及させるうえで多大な貢献をしたため、現在では“米国におけるクリスマス・カードの父”とも称されています。

 さて、今回ご紹介の切手は、クリスマス・カードから図案を採っていますので、当然のことながら、“Merry Christmas!”の文言が切手にもしっかり入っています。この切手が発行された1975年当時は、こうした切手を発行しても、誰も文句を言う人はいませんでした。

 ところが、1980年代に入り、いわゆるポリティカル・コレクトネスが猖獗を極め、差別を是正するという大義名分のもと、リベラル勢力による激しい言葉狩りが横行(議長を“チェアマン”と呼ぶのは男女差別なので“チェアパーソン”と呼ばねばならない、など)するようになると、“メリー・クリスマス”は非キリスト教徒に配慮して“ハッピー・ホリデー”と言い換えなければならないとされるようになり、米国切手から“Merry Christmas!”の文言は消えていくことになります。

 もちろん、明かな悪意を持って差別語を使うことは厳に慎むべきでしょうが、あまりにも極端なリベラルの主張に対して、善男善女が素朴な疑問を持つのは当然のことです。しかし、これまでの米国の言論空間では、フツーの人たちが、自分たちの“常識”に照らして、ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎに疑義を呈することさえ、“差別”として糾弾されかねないという現状があり、そうした風潮に対する不満が、今年の大統領選挙でのトランプ候補の当選につながったという面があったことは間違いありません。

 ちなみに、トランプ次期大統領は、選挙戦を通じて、極端なポリティカル・コレクトネスの愚行を非難し、「米国が再び『メリークリスマス』と言える国に」と訴え続けてきました。そして、今月13日には、ウィスコンシン州での遊説で、「18カ月前、私はウィスコンシンの聴衆にこう言った。いつかここに戻って来たときに、我々は再び『メリークリスマス』と口にするのだと。......だからみんな、メリークリスマス!」と語っています。

 僕は、トランプ次期大統領を全面的に支持するというわけではないのですが、“メリー・クリスマス”ということさえタブー視される社会というのは、やはり異常だと思います。そうした気持ちから、今年のクリスマスには、“メリー・クリスマス”の文言の入った米国切手をご紹介した次第です。


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 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 サンバ100年
2016-12-16 Fri 12:25
 1916年12月16日、音楽としてのサンバの最初の一曲とされる「電話で(Pelo Telephone)」がブラジルで楽曲登録されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コパカバーナ・宣伝絵葉書  

 これは、ニューヨークのナイトクラブ、“コパカバーナ”が1950年代末に制作した宣伝絵葉書で、1930-40年代に“ブラジルの爆弾”、“サンバの女王”と呼ばれたカルメン・ミランダをイメージしたフルーツ・ハットの女性の顔が大きく描かれています。

 ニューヨークのコパカバーナは、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸にちなんで名づけられたナイトクラブで、バリー・マニロウの往年のヒット曲『コパカバーナ』は、ここを舞台にした悲恋の歌です。ちなみに、現在、“デヴィ夫人”として芸能活動を行っている根本七保子が働いていた赤坂のクラブ、コパカバーナは、ニューヨークのクラブを真似て作られたものです。ちなみに、ついでですので、今回ご紹介の葉書のイラストの元ネタともいうべき、実際のカルメンの写真を下に貼っておきます。

      カルメン・ミランダ絵葉書

 さて、サンバの原型となった舞踏と音楽は、19世紀初までにアフリカ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーアに持ち込まれました。その後、1888年の奴隷制の完全廃止を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めて、当時のブラジルの首都だったリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれることになります。

 19世紀末以降、リオに流入した黒人たちは、プラッサ・オンゼ(第11広場)と呼ばれる地域を中心に集住。この地域では、“チア”と呼ばれる年配女性の家がアフリカ系の土着信仰の礼拝所にして、ダンスや音楽などの社交場となっていましたが、なかでも、“チア・シアータ”と呼ばれていたイラーリア・バチスタ・ヂ・アルメイダの家には、腕の良いミュージシャンたちが数多く集まっていました。

 当時、彼らが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみで演奏する2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパ伝来のポルカやマズルカの要素が入り込む。「電話で」とサンバは、こうしたチア・シアータでのセッションから生まれた1曲でした。

 さらに、1920年代以降、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置き、ゆったりとしたリズムで男女がペアで踊る“サンバ・カンサォン”が誕生。このサンバ・カンサォンの女王として君臨したのがカルメン・ミランダです。

 カルメンは1909年、ポルトガル北部のマルコ・デ・カナヴェセスで生まれ、翌1910年、リオに渡りました。生まれた時の名は、マリア・ド・カルモ・ミランダ・ダ・クーニャでしたが、オペラ好きの父は、ビゼーのカルメンにちなんで、彼女をカルメンと呼び、それが、後に彼女の通り名になります。

 カルメンは、幼いころから歌と踊りの才能を発揮。10代からラジオ番組のオーディションを受け、パーティーやイベントで歌っているうちに、作曲家のジョズエ・デ・バロスに見出され、1929年、最初のレコーディングを行いました。

 さらに、1933年、ラジオ・メイリング・ベイガと2年契約を結び、サンバ・カンサォンの歌手としてデビュー。さらに、翌1935年には「アロー・アロー・ブラジル」「エストゥダンテス」などの映画にも出演し、女優としても注目されます。1939年の映画『バナナ・ダ・テラ』で彼女が歌った「O Que E Que A Baiana Tem?(バイーア女には何がある?)」は、現在なお、ブラジル音楽のスタンダードとして有名です。

 カルメンの人気に目を付けた米ブロードウェイの劇場主、リー・シューバートは、1939年6月、英語がほとんど話せなかった彼女をニューヨークに呼び寄せました。翌1940年、彼女は『遥かなるアルゼンチン』に出演して成功しましたが、ブラジルでは「米国人の偏見を強調し、ステレオタイプにはめこんで売り出している」として彼女への反感も強く、1940年7月、彼女がリオで行った凱旋公演には容赦のない罵声が浴びせられました。ショックを受けた彼女は楽屋で号泣し、以後14年間、帰国しなかったほどです。

 その一方、米国での彼女の人気はますます高まり、1943年、果物を盛った“フルーツ・ハット”をかぶって出演した映画「ザ・ギャングス・オール・ヒア」で、ハリウッドでの人気は頂点に達する。ギャラも高騰し、年収は20万ドル(現在の貨幣価値で200万ドル以上と推定)にまで跳ね上がります。“フルーツ・ハット”のインパクトは絶大で、その後も、多くのデザイナーが彼女にインスパイアされたフルーツ・ジュエリーを制作するようになりました。今回ご紹介の宣伝絵葉書にも、カルメンを意識したと思しきフルーツ・ハットの女性の顔が描かれていますが、当時の米国人にとっては、“コパカバーナの女神”といえば、やはり、カルメン以外にはありえないということだったのでしょう。

 第二次大戦後は1950年に発表した「ウェディング・サンバ」が全米23位のヒットとなります。この頃になると、ブラジル社会も彼女の米国での成功を素直に祝福するようになっており、1953年10月、彼女が過労で倒れた後、休養のためにブラジルに帰国した際には、人々は温かく彼女を迎え、彼女も1955年4月までブラジルに留まりました。

 しかし、ブラジルから米国に戻った直後の1955年8月5日、カルメンはロサンゼルスでの番組の収録後、ビバリーヒルズの自宅で、急性心臓発作で亡くなりました。享年46歳。彼女の遺体はリオデジャネイロへ戻り、6万人がリオ市役所での彼女の追悼儀式に参加。50万人以上のブラジル国民に見送られて、リオデジャネイロのサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されました。

 なお、カルメンのエピソードを含むサンバの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 <NEW YORK 2016>終了
2016-06-05 Sun 13:56
 早いもので、5月28日から始まった世界切手展<NEW YORK 2016>は、昨日(4日・現地時間)、無事に終了しました。先ほど、現地時間で日附が変わった頃に作品とメダルのピックアップも終了し、本日のフライトでニューヨークを発ちます。というわけで、無事の帰国を願って、毎度恒例、2都市間のエアメールの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      パンナムFFC ニューヨーク→東京  パンナムFFC ニューヨーク→東京(裏)

 これは、1947年のパンアメリカン航空(以下、パンナム)の世界周遊飛行によるニューヨーク=東京間の初飛行カバー(FFC)で、1947年9月26日にニューヨークを出発し、10月3日に東京に到着しています。

 パンナムの世界周遊飛行は、サンフランシスコを出発してホノルル→東京→香港→バンコク→デリー→ベイルート→イスタンブル→フランクフルト→ロンドン→ニューヨークというルートの001便と、ニューヨークを出発して逆回りでサンフランシスコにいたる002便がありますが、今回は、ニューヨーク発の002便のカバーを持ってきました。ついでですので、9月27日に東京を発ち、10月3日にニューヨークに到着した001便のカバーの画像も下に貼っておきましょう。

      パンナムFFC 東京→ニューヨーク

 さて、今回の切手展では、コミッショナーの吉田敬さん、アシスタント・コミッショナーの池田健三郎さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多いニューヨーク滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、あす(日本時間で6日)の午後には、成田に到着の予定です。無事に帰国しましたら、すぐにそのまま、平常通り仕事をするつもりですので、内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 B-52爆撃機が墜落、炎上
2016-05-19 Thu 16:56
 グアムのアンダーセン空軍基地で、けさ(19日朝)、B‐52爆撃機が離陸直後に墜落、炎上しました。7人の搭乗員は全員無事だったそうです。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)

      米空軍50年

 これは、1957年8月1日に米国が発行した“空軍50年”の記念切手で、B-52爆撃機とF-104戦闘機が描かれています。

 米空軍のルーツは、1907年、気球部隊を職掌としていた陸軍通信隊の一部門として創設された航空機部門です。

 その後、航空部(1914年)、航空機部門(1918年)、航空部(同)、陸軍航空隊 (1926年)等陸軍内の組織として改編・拡充され、1941年に陸軍地上軍と対等の部門として、陸軍航空軍 (USAAF) が設置されました。陸軍航空軍が陸軍から独立し、空軍省となったのは、1947年9月18日のことです。

 切手に描かれたB-52は、ボーイング社が開発し米空軍に採用された戦略爆撃機で、“成層圏の要塞”を意味するストラトフォートレスの愛称で親しまれています。

 特に、ヴェトナム戦争を象徴する米軍機としてのB-52D爆撃機は、ヴェトナム戦争時に最大で108発の爆弾(爆弾庫に84発、翼に24発)を搭載して出撃し、BUFF(Big Ugly Fat Fellow:でかくてデブで醜いヤツ)とも呼ばれました。ちなみに、現役戦闘機で最も搭載力のあるF-15Eは26発が搭載可能ということなので、108発というのはとてつもない数字です。“でかくでデブ”といわれるのも無理からぬことです。

 今回の事故のニュースで、僕などは、ヴェトナム戦争の時代の爆撃機だとばかり思っていたB-52がまだ現役で使われているのかと驚いたのですが、調べてみると、アフガニスタンへの空爆でも、B-52はしっかりと使われていました。超音速やステルスなどの新機能を拡充した航空機は種々あれど、多種多様な兵器を大量に搭載し、遠方に投入・投下するという、爆撃機としての基本性能と、調達・運用コストの両面から、B-52を超える米軍機はなかなか出てこないのだとか。このため、B-52は、少なくとも2040年までは現役で運用される予定になっているそうです。

 すでに、親子2代でB-52に乗ったというパイロットは珍しくないそうですが、このまま行くと、孫まで3代、さらには曾孫まで4代、B-52のパイロットだというケースも出てくるかもしれませんね。
 
 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

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