郵便学者・内藤陽介のブログ
 切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
08 | 2008/09 | 10
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 地中海連合発足
 地中海沿岸と欧州の43カ国の代表が参加する首脳会議がパリで開かれ、沿岸国を中心に構成する新たな枠組み「地中海連合」が創設されました。というわけで、なにか“地中海”ネタはないかと思って探してみたら、こんな切手が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 レバノン・ユスティニアヌス法典

 これは、1967年にレバノンが発行した切手で、首都のベイルートがローマ法学の拠点だったことが表現されています。中央の人物は、ローマ法の集大成『ローマ法大全』の編纂を命じたユスティニアヌス帝で、背後には、ローマ法の影響下にあった地中海世界の地図が描かれています。

 ベイルートのルーツは、古代地中海の交易で栄えたフェニキア人の都市、ベリトスです。この都市は、ローマ時代には東地中海における交易の中心地であると同時に、文化的にも重要な都市となりました。現在のようベイルートと呼ばれるようになったのは、西暦7世紀、イスラム世界に編入されてからのことです。(ただし、アラビア語の発音はバイルートとなりますが…)

 今回の地中海連合の発足にあたっての目玉の一つは、シリアがレバノンとの国交樹立に合意したことにあります。

 さて、第一次大戦以前、東地中海のアラブ地域は“シリア”(歴史的シリア)と呼ばれていました。もちろん、現在はレバノンの首都になっているベイルートも、以前は“シリア”の領域に含まれていました

 ところが、大戦の結果、この地を支配していたオスマン帝国が崩壊すると、歴史的シリアは英仏によって分割されます。このうち、フランスの支配下では、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“大レバノン”が分割され、フランス委任統治領としてのシリアの領域は大きく制限されてしまうことになります。こうした、シリアとレバノンの分割は、1940年代に両国が相次いで独立した後も維持されました。それゆえ、シリア側はレバノンは歴史的にシリアの一部であり、レバノンを“外国”として認めないという姿勢をとってきたわけですが、今回の地中海連合発足にあたって、そうした従来の政策を大きく転換することになったというわけです。

 なお、シリアは、今回、トルコを介してイスラエルとも接触するなど、独立以来の大きな転換点にあり、しばらくは目が離せない状況が続きそうです。

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 切手の中の建設物:ジュピター神殿
 早いもので今月もあっという間に10日になりました。毎月10日付で発行の(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』に僕が連載している「切手の中の建設物」では、今月は、バールベック(レバノン)のジュピター神殿を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ジュピター神殿

 東地中海の国、レバノンでもっとも有名な建造物といえば、なんといっても、ベイルートの北東約85km、バールベックの遺跡群、なかでもジュピター神殿跡でしょう。

 ローマ時代の紀元2世紀はじめ、浴場で有名なカラカラ帝の時代に完成したジュピター神殿は、現在は南側6本の列柱しか残っていませんが、往時は奥行き105メートル、幅70メートルの敷地に58本の列柱に囲まれたヘレニズム様式の巨大神殿がそびえたっていました。その規模は、ギリシャのパルテノン神殿よりもはるかに大きいものです。神殿の列柱はコリント様式で高さ20メートル、頂上部の太さが2.2メートルという巨大なもので、3個の巨石を鉄のパイプでつないで作られました。また、最上部の梁にはライオンの口をした雨水の排水溝も設けられています。

 4世紀になってコンスタンティヌス帝によりキリスト教が公認されると、異教の神殿は一部を取り壊してキリスト教会に変えられ、さらに、7世紀にイスラムの支配下に入ってからは神殿の一部は要塞としても利用されました。ちなみに、1970〜80年代には、神殿一帯はイスラム系民兵組織の拠点として、神殿の死基地内で軍事訓練が行われていたこともあったとか…。

 さて、今回ご紹介しているジュピター神殿の切手は、1927年に発行されたもので、フランスの委任統治下にあったレバノンが、“大レバノン”から“レバノン自治国”へと改組されたのに伴い、“大レバノン”の文字を抹消して“レバノン共和国”の文字が加刷されたものです。ホントは無加刷のモノを使いたかったのですが、手元に状態の良いものがなかったので、間に合わせに加刷切手を使ってみたのですが、“加刷切手”というものを知らない編集部の方々にとっては、かえって、このほうが面白かったみたいです。まぁ、怪我の功名といったところでしょうか。

 ジュピター神殿を含むバールベックの遺跡群はユネスコの世界遺産にも登録されていますが、今年(2006年)7〜8月のイスラエルによるレバノンへの攻撃で付近一帯に被害が出ているとのこと。『建設業しんこう』の原稿を書いていた頃は毎日のようにレバノン情勢がマスコミをにぎわしていたのですが、その後の詳しい状況がなかなか日本では報じられることもないだけに、遺跡のこともちょっと気になるところです。

 レバノンの国軍
 8月2日の記事に関連して、hillsidecnxさんから「ところで、”レバノン政府の正規軍”というものは今何をしてるんでしょうかね?」という書き込みをいただきました。そこで、ちょっと遅くなりましたが、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

レバノンの兵士

 これは、レバノンが独立26周年を記念して発行した切手で、国旗を掲げて行軍するレバノン国軍(正規軍)の兵士たちが取り上げられています。

 レバノンも独立国家ですから、当然のことながら、防衛力としての軍隊を持っています。

 もともと、さまざまな宗派がモザイクのように入り組んでいるレバノンでは、“宗派体制”といって、各宗派ごとにポストや予算を按分するという体制が取られていました。たとえば、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンナ派ムスリム(イスラム教徒)、国会議長はシーア派ムスリム、といった具合です。当然のことながら、軍隊の編成も宗派ごとの人口バランスに沿ったものとなっており、1960年代までは、それなりに国軍としての機能を果たしていました。今回ご紹介している切手はこのレバノン国軍の姿です。

 ところが、1970年に、それまでヨルダンを拠点にしていたPLOがヨルダン政府と対立してヨルダンを追われ、レバノン南部に進駐した頃から事情が徐々に変わってきます。

 もともと、決して強い軍隊ではなかったレバノン国軍に対して、“歴戦の勇士”で構成されているPLOの軍事部門は軍事面で優位に立っていましたので、PLOが進駐していたレバノン南部は、すぐに、実質的なPLOの占領地のような形になってしまいました。このため、レバノンの各宗派は、もともと“外部勢力”であったPLOの勢力がレバノンで影響力を拡大していくことを恐れ、PLOに対抗して民兵組織を結成。こうして、国内にさまざまな武装組織が並存することになったことで、各宗派間の対立が軍事紛争化したのが1975年に始まったレバノン内戦の基本的な構図です。

 内戦が本格化すると、国軍の兵士たちの中には脱走して自分の宗派の民兵組織に参加してしまう者が続出。この結果、国軍は急速に衰退していきます。じっさい、イスラエルの攻撃により、PLOがベイルートからの撤退に追い込まれた1982年8月の時点では、国軍の兵力が約1万だったのに対して、レバノン国内には3万のシリア軍が駐留していたほか、シリアの支援を得ているパレスチナ・ゲリラが数千人、イスラム左派民兵3〜4千人、イスラム・ドルーズ派民兵が数千人などが存在しており、国軍だけで彼らを抑えることは実質的に不可能な状況にありました。

 こうした構造は、基本的にはシリア軍が撤退した現在でも同じで、国軍の力だけでは、シーア派組織であるヒズボラが抱えている強大な軍事力を押さえ込むことが出来ないのが実情です。このため、レバノンの安定化のためには、国軍そのものを強化し、最終的にはヒズボラの兵力を吸収することが必要なのですが、それを実現するのはかなり困難だろうというのが、大方の見方のようです。

 フェニキア人の末裔
 昨日の記事でレバノンの国旗の話を書いたら、hillsidecnxさんから、「(バンコクの2軒のレバノン料理屋は)ともにこの木をお店のマークにしている。レバノン人はこの木に特別な思い入れがあるようです。」との書き込みをコメント欄に頂戴しました。そこで、昨日の記事を補足する意味で、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フェニキア人の活動

 これは、1966年9月にレバノンが発行した航空切手の1枚です。

 紀元前15世紀以降、現在のレバノン南部を中心に都市国家を形成したフェニキア人は、紀元前12世紀頃から海上交易を活発に行って北アフリカからイベリア半島まで進出して、地中海の覇者として君臨しました。切手は、そうした彼らの交易活動により、地中海全域にアルファベットが伝えられたことを表現するために、フェニキア人の活動範囲を示す地図を題材として取り上げたものです。

 まぁ、現在、レバノンに居住している人々がフェニキア人の直系の子孫であると言い切れるかどうかは微妙な問題ですが、かつてのフェニキア人の居住地域(現在のシリア領タルトゥースの近辺から、同イスラエル領カルメル山までの地中海沿岸)が、ほぼ、現在のレバノン国家の領域を重なっていることから、レバノン人の語るレバノンの歴史はフェニキアからスタートするのが常道となっています。

 ところで、そのフェニキア人の繁栄を支えたのが、レバノン山脈で採れるレバノン杉でした。レバノン杉はマツ科の針葉樹で、腐敗や虫に強く、フェニキア人じしんが船の建材として活用していただけでなく、エジプトやメソポタミアにも輸出され、宮殿や神殿の天井などに使われていました。古代イスラエル王国のソロモン王は、神殿を建設に際してレバノン杉を求めたといわれていますし、エジプトのピラミッドから発見された“太陽の舟”もレバノン杉でできています。

 こうしたことから、レバノン杉は古代フェニキア人の繁栄を象徴するものとして、フェニキア人の末裔を自認するレバノンの国旗にも大きく取り上げられているというわけです。

 もっとも、古代においてはレバノン全域に数多く自生していたレバノン杉ですが、長年の伐採がたたり、現在は約1200本しか残っていません。それでも、樹齢1200年以上のものが400本ほどあるそうですから、杉に込められた悠久の歴史を感じずにはいられません。なお、現在、レバノン中央部にあるカディーシャ渓谷は、レバノン杉の自生地としてユネスコの世界遺産にも登録されています。

 レバノン国旗の意味
 7月12日以来、イスラエル軍はレバノン南部のシーア派イスラム組織ヒズボラの拠点に対する掃討作戦と称して、レバノン南部への攻撃を続けています。イスラエル軍とヒズボラの戦闘がエスカレートするにつれ、女性や子供を含む一般市民の犠牲も拡大。当然のことながら、国際社会はイスラエルの行動を非難しています。

 この問題については、今後も何回かに分けて取り上げることになると思うのですが、とりあえず、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

レバノン国旗

 これは、2003年にレバノンが独立60周年を記念して発行した切手の1枚で、レバノン国旗の制定にあたって作られたラフ・スケッチが取り上げられています。実際の国旗は中央のレバノン杉の部分が若干異なっていますが、基本的な構図はこのままです。

 国旗の赤は勇気と(独立運動のために流された)尊い犠牲を、白は純潔と平和を象徴しており、白の部分の幅は赤の部分の幅の2倍と決められています。なお、中央はレバノン杉はいうまでもなく、レバノン国家のシンボルですが、同時に、国家の高潔さと不滅という意味も込められているのだそうです。

 イスラエルによるレバノンへの攻撃が始まってまもなく、フランスの大統領だったか外相だったかが「イスラエルはレバノンという国家そのものを解体するつもりなのか」と強い口調で非難していたのが強く印象に残っているのですが、最近の情勢を見ると、この表現は決して大げさなものとはいえなくなっています。

 一日も早く停戦が実現し、平和や国家の不滅といった、国旗に表現されている理念が、現実のものとしてレバノンに回復されることを願わずにはいられません。

 レバノンのスキー
 アラブ世界というと、日本では“ひたすら砂漠が広がっている灼熱の地”というイメージが強いようです。でも、一口に、アラブ世界と言っても、東はイラクから西はモロッコまで非常に広い範囲にわたっているわけで、その全てを一緒くたにすることはできません。

 たとえば、この1枚(画像はクリックで拡大されます)をご覧ください。

レバノンのスキー

 この切手は、1955年にレバノンで発行された航空切手(エアメール用の切手)に、1959年、新たな額面を加刷したものですが、杉林の中を疾走するスキーヤーが描かれています。エアメール用の切手ですから、上空に小さく飛行機も描かれていますが、デザイナーとしては、スピードの表現としてスキーの滑走を取り上げたものと思われます。

 中東のレバノンでスキーなんかできるのか?とお思いになる方も多いかもしれませんが、できるんですねぇ。

 じつは、レバノンはアラブ諸国の中では非常に水資源が豊かで、国土の南北には標高2500〜3000m級の2大山脈(レバノン山脈とアンチレバノン山脈)がそびえています。このため、山岳地帯では積雪が観測され、1975年の内戦以前はスキー目的の観光客も多数訪れていました。(現在では内戦も終わっていますが、どうなんでしょうねぇ)

 ちなみに、レバノンとシリアの国境地帯の山脈の自然条件は同じですから、シリアの山岳地帯でもスキーが可能なのは言うまでもありません。

 昨日の引き続き、トリノ・オリンピックの最中ということで手持ちのウィンタースポーツの切手のなかから探してきた1枚をご紹介しました。

 試験の解説(2)
 昨日に引き続き、試験問題の解説です。

 大レバノン

 この切手は、1924年、フランスが“大レバノン”で用いるために発行した加刷切手です。

 第一次大戦中、イギリスは、アラブがオスマン帝国に対して反乱を起こす代わりに、戦後のアラブ国家樹立を認めるという密約を結びます。これをもとに、大戦後、現在の国名でいうとシリア・レバノンの地域を占領したファイサルは、アラブ王国の建国を宣言し、アラブ国家の存在を既成事実化しようとしました。

 しかし、同じくイギリスと大戦後の中東分割について密約を結んでいたフランスは、シリア・レバノン地域を自分たちの勢力下におくことを強硬に主張。結局、フランスのこの主張が通り、1920年7月、ファイサルの勢力はシリア・レバノン地域から駆逐されてしまいます。

 その後、フランスはこの地域を委任統治下に置き、レバノン国・ダマスカス国・アレッポ国・アラウィ自治区に分割。各地域に知事を置き、これを高等弁務官が統括するという古典的な分割統治政策を行いました。

 このうち、レバノンに関しては、1920年8月、“大レバノン”が設置され、オスマン帝国時代の1860年に設置された旧レバノン県(キリスト教徒自治区)にトリポリ、ベイルート、シドンなどの海岸地区とベカー高原を加えた区域が、内陸シリアとは別の行政単位となりました。この“大レバノン”は、旧レバノン県に比べて面積は2倍以上になりましたが、キリスト教系住民が人口の過半数を維持することを最優先にして、これ以上は拡大されませんでした。これは、フランスが“大レバノン”を、イスラム教徒が多数を占める内陸シリアから分離して、中東支配の拠点として育成しようとしたためです。

 ところで、当初、フランスの委任統治下に置かれたシリア・レバノンの全域では、共通の切手が使われていましたが、1924年、フランスの分割統治が軌道に乗ってきたことで、それぞれの地域で別個の切手が使用されるようになり、ここに取り上げた“大レバノン”加刷の切手が発行されるようになったというわけです。

 その後、フランスは1926年5月、委任統治下の保護国として“レバノン共和国”を創設。これにより、“大レバノン”という呼称は使われなくなりました。なお、現在のような完全な独立国家としてのレバノン共和国が発足したのは、1943年のことです。

 試験の解答としては、まず、フランスによるシリア・レバノン地域の分割統治政策に沿って、第一次大戦後、新たに“大レバノン”という行政区域が創設されたことをきちんと指摘したうえで、切手の説明をしているかどうかが大きなポイントになります。その上で、旧レバノン県との比較や、内陸シリアと“大レバノン”を分割しようとしたフランスの意図が説明できていれば、完璧といえましょう。
 アラブの都市の物語:ベイルート拾遺
9日の日記でNHKラジオの中国語講座のテキストで連載している「外国切手の中の中国」の話を書きましたが、おなじくNHKのアラビア語講座のテキストで「切手に見るアラブの都市の物語」という連載も持っています。

 中国語のテキストは月刊でアラビア語は隔月刊ですが、いずれも、発売日は18日なので、2ヶ月に1度は、中国語の原稿を出したら、すぐにアラビア語の原稿をつくらねばならないというスケジュールになっています。(中国語の原稿を先に出すというのは、単純に、編集部からの督促が早いという理由です)

 「切手に見るアラブの都市の物語」は、タイトルの通り、毎回、アラブの都市を一つ取り上げて、その歴史や文化、特色などを、切手や郵便物を用いて紹介するというもので、去年の4・5月号からスタートしました。いままでに取り上げたのは、バグダード、カイロ、ドバイ、ダマスカス、サナア(イエメン)、エルサレム、アルジェ、マナーマ(バハレーン)の8都市。今回は、シリア軍のレバノンからの撤退が話題になっていることでもありますし、7月18日発売の8・9月号では、ベイルートを取り上げることにしました。

 で、その原稿に使いそこなったモノ(↓)がありますので、今日の日記でご紹介します。

PFLP

 ご注目いただきたいのは、カバー(封筒)の左側に貼られているラベルです。

 これは、PLO(パレスチナ解放機構)の非主流派で、過激な武装闘争路線を掲げていたPFLP(パレスチナ民族解放戦線)の作った宣伝ラベルで、旅客機の爆破を成功させた同志をたたえるデザインとなっています。封筒の左側には、パレスチナ解放闘争への支持を訴えるイラストとアラビア語の文言も印刷されており、プロパガンダ色の非常に濃厚な一品です。

 1970年9月、ヨルダン政府と対立して弾圧され、ヨルダンを追われたPLOは、1982年にイスラエルによるベイルート包囲によってテュニスへの撤退を余儀なくされるまで、ベイルートを拠点に反イスラエル闘争を展開していました。その一環として、PFLPやアラファトの組織であるファタハなどは、自らの存在と主義主張をアピールするため、切手状のラベルを作成。支持者たちはそれらを郵便物に貼ることで、彼らのプロパガンダ戦略の一翼を担っていました。ただし、これらのラベルは、所詮はラベルですから、切手としての効力はなく、郵便物を差し出す場合には、別にレバノン政府が発行した切手を貼らなければなりませんでした。

 今回のカバーは、数年前、PFLP関連のモノということで手に入れたもので、つい先ほど原稿を書くまで、ベイルートから差し出されたものとばかり思い込んでいました。そして、今回、ベイルートの物語を書くに当たって、かの地での反イスラエル闘争の一端を示すものとして、「アラブの都市の物語」でも使おうと考えていました。

 ところが、消印をよく見ると、(レバノンの)トリポリとなっているではありませんか!そこで、今回の仕事では、デザインがはるかに大人しいファタハのラベルを貼ってベイルートから差し出されたカバーを使うことにして、PFLPは泣く泣く、引っ込めることにしました。もっとも、NHKの教育番組のテキストですから、このカバーみたいに、どぎつい(絵的にはどことなく素朴な感じが漂っていないわけでもありませんが)ものは、編集部で没にされてしまったかもしれません。

 いずれにせよ、せっかく探し出してきたので、このまま、かび臭い僕の書斎でまた埋もれさせてしまうのは、ちょっともったいない気がしたので、この日記に登場させて見たという次第です。


アクセス数 (2005年6月1日〜)

プロフィール

内藤陽介 (ないとう・ようすけ)

Author:内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
 1967年、東京都生。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。切手の博物館・副館長。切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている。
 主著:<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵趣出版、現在、第6巻まで刊行)、『北朝鮮事典』、(竹内書店新社)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『切手と戦争』(新潮新書)、『反米の世界史』(講談社現代新書)、『皇室切手』(平凡社)、『これが戦争だ!』(ちくま新書)、『満洲切手』(角川選書)、『香港歴史漫郵記』(大修館書店)、『タイ三都周郵記』(彩流社)ほか著書多数。最新作は『韓国現代史:切手でたどる60年』(福村出版)

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