内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 世界の国々:カンボジア
2016-10-15 Sat 07:45
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年10月12日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はカンボジアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・アンコール宣伝印

 これは、仏領インドシナ時代の1937年、シエム・リアップからパリ宛の葉書で、「アンコールとその驚くべき遺跡群を訪ねよう」とのフランス語の標語印が押されています。

 アンコール遺跡は、カンボジアの北西部、トンレサップ湖北岸のシェムリアップの北側に位置するクメール王朝時代の首都の跡で、9世紀頃から建設が開始されました。その中心になるのは、主としてスーリヤヴァルマン2世(1113-45年)の治世下で建設されたアンコール・ワットと、主としてジャヤーヴァルマン7世(1181-1218年)の治世下で建設されたアンコール・トムですが、ジャヤーヴァルマン7世の崩御後、アンコールはアユッタヤー王朝の侵入を受けて衰退し、1437年、ポニャー・ヤット王の時代に放棄されました。

 その後、ながらく忘れられた庵クールの遺跡群でしたが、1901年、フランス極東学院によって再発見され、修復作業などを経て、1907年に一般公開されます。以後、多くの観光客が訪れるようになってインフラ整備も進み、1929年には高級ホテルグランド・ホテル・ダンコールが開業。ここに示すように、遺跡最寄りのシエム・リアップ郵便局では郵便物に宣伝標語印を押すことも行われました。

 1953年にカンボジアが独立した後も、アンコールには年間5-7万人の観光客が訪れていましたが、1975年以降、ポルポト派の支配と内戦により観光業は途絶。和平回復後の1993年にようやく再開されました。

 さて、『世界の切手コレクション』10月12日号の「世界の国々」では、アンコールの遺跡群についてまとめた長文コラムのほか、アプサラ・ダンス、シハモニ現国王、1963年のアジア新興国競技大会、水祭り、ガルーダの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、12日発売の10月19日号でのインドの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 河内憲兵隊検閲済のカバー
2015-09-15 Tue 23:11
 ヴェトナム最高指導者のグエン・フー・チョン共産党書記長が、きょう(15日)来日し、安倍首相と会談して、中国が南シナ海で岩礁を埋め立て、軍事拠点化を進めていることについて、「深刻な懸念を表明する」などとした共同ビジョン声明を発表しました。というわけで、ハノイから訪日の書記長に敬意を表して、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      河内憲兵隊検閲済カバー

 これは、第二次大戦中の1942年12月、フランス領インドシナ(仏印)のハノイから名古屋宛に差し出されたカバーで、現地で日本軍の憲兵隊による開封・検閲を受けています。カバーの左側には角型の“河内憲兵隊 検閲済”の印が、裏面には円型の“河内憲兵隊 検閲済”の印(下の画像です)が、それぞれ押されています。念のために申し上げておくと、ここでの河内はハノイのことです。

       河内憲兵隊検閲印(円形)

 第二次欧州大戦勃発後の1940年6月14日、ドイツ軍はパリに入城。同22日、フランスは降伏します。これにより、フランス北部と大西洋沿岸はドイツによって占領され、フランス南部は、親独ヴィシー政府が管轄することになりました。

 この結果、現在のヴェトナム・ラオス・カンボジアに相当する仏印は、いわば主なき状態に放り出されます。そして、この機に乗じて、日本はヴィシー政府に圧力をかけ、8月30日、フランスのアンリ大使との交渉で、北部仏印に関する協定をまとめることに成功しました。

 この協定に基づき、日本側は、極東におけるフランスの権益とインドシナの領土保全を認めた上で、ハノイ経由での援蒋物資の輸送を停止するため、9月23日、北部仏印に進駐し、ここを事実上の軍事占領下に置きます。

 今回ご紹介のカバーは、このカバーは、太平洋戦争勃発後の1942年12月に東洋綿花株式会社(現トーメン)のハノイ支店が差し出したものですが、上述のように、この地域の主権は日本軍の進駐後もフランス側にあったため、仏印当局の発行した切手が貼られ、フランス側の消印で抹消されています。その一方で、カバーはハノイ駐留の日本軍憲兵隊によって開封・検閲されており、フランス側がこの地域の主権を維持していたとはいっても、実際には、相当程度、日本軍の統制下に置かれていたという状況を見て取ることができます。

 なお、その後も、仏印は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていましたが、戦争末期になって、東南アジア各地からの撤退を余儀なくされた日本軍は、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れ、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ヴェトナムラオスカンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立しました。

 しかし、ほどなくして、1945年8月に日本軍が降伏すると、これらの地域では、独立を主張する現地の人々と、植民地支配を再開しようとするフランス当局の間で(第一次)インドシナ戦争が勃発することになります。

 
 ★★★ 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月 3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 ルアン・パバーンに来ています
2013-08-10 Sat 07:04
 世界切手展<BANGKOK 2013>も無事に終了しましたので、きのう(9日)からバンコクを離れ、ラオスの世界遺産都市ルアン・パバーン(ルアン・プラバーンとも)に来ています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       シサワンウォン(仏印時代)

 これは、1943年に仏領インドシナで発行されたルアンパバーン国王シーサワーンウォンの切手です。

 現在のラオス国家の領域に相当するメコン川中流域は、歴史的には“百万頭の象の王国”を意味するラーンサーンと呼ばれており、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国、シエンクアーン王国が分立していました。その後、これらのラーンサーン諸王国はシャム(現タイ)のトンブリー王朝に征服され、その属領となりましたが、1893年のいわゆる“シャム危機”の結果、ラオス全領域はフランスの保護国となりました。

 このため、タイにとっては、ラオスなど“失地”の回復は国民国家としての悲願となっていました。こうした中で、1939年9月、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、翌1940年6月、ラオスの宗主国フランスがドイツに降伏。さらに、アジアでは日中戦争を戦っていた日本が、同年9月、中国との国境封鎖を求めて仏印の北部に軍事進駐すると、その機会をとらえて、タイは仏印に対して国境紛争を挑みます。この結果、タイは大きな犠牲を出しながらも、翌1941年1月28日、日本の調停により、ラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復しました。

 これに対して、フランスは、仏印防衛のための拠点として、自らの支配下に残ったルアンパバーン王国を強化することで対抗しようとし、ルアンパバーン域内各地に小学校を新設。ヴィシー政権のスローガンでもある「勤勉・家族・祖国」を掲げて、ルアンパバーンの住民に対して“母なる祖国・フランス”への奉仕を強調しました。このことは、結果的に、現在の“ラオス”という枠組みでのナショナリズムを生み出すこととなります。

 その象徴的な存在となったのが、ルアンパバーン王であったシーサワーンウォンで、今回ご紹介の切手が発行されたのも、そうした事情を反映してのことです。

 さて、シーサワーンウォンは、1885年6月14日生まれ。1904年に仏領保護国としてのルアンパバーン王として即位した人物ですが、1945年3月9日、日本軍が明号作戦を発動し、仏印を軍事占領すると、4月8日、ラオス王国の独立を宣言しています。しかし、もともと(最大の敵であるタイに対抗するために)親仏的な傾向が強かったこともあって、王は日本の敗戦後に独立を撤回。その後、フランスは1949年に改めて立憲君主国としてのラオス王国を建国し、シーサワーンウォンはその初代国王として即位しました。

 現在、僕が滞在しているルアンパバーンは、そうしたルアンパバーン王国ないしはラオス王国のゆかりの地で、シーサワーンウォン王の旧王宮は、現在、ルアンパバーン国立博物館として玉座などはそのまま展示・公開されています。また、敷地内にはラオス最初の立憲君主として、憲法典を手にする王の巨大な銅像が建てられています。ヴィエンチャン市内にも、これと同じと思われる銅像がありました。下の画像の、左がルアンパバーンの国立博物館内の像、右がヴィエンチャン市内の像です。
     
       ヴィエンチャンのシーサワーンウォン像     ルアンパバーンのシーサワーンウォン像

 このほかにも、町全体が世界遺産に指定されているだけあって、ルアンパバーン市内は半日歩いてみただけでも、いろいろと興味深い風景に出会うことができました。それらについても、いずれ機会を作ってご紹介していければ…と思っております。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。

 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は9月3日(原則第1火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 泰国郵便学(3)
2009-08-22 Sat 14:09
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第43巻第4号が出来上がりました。僕の担当している連載「泰国郵便学」では、今回は1893年のパークナーム事件(シャム危機)を中心に取り上げました。その中から、今日はこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 ルアン・パバーン(仏印)

 これは、現在ラオス領となっているルアン・プラバーン(ルアン・パバーン)で使われた仏印切手のオンピースです。

 現在のラオスの領域には、ヴィエンチャン、ルアン・プラバーン、チャンパーサックのラーオ族3王国が併存していたが、これらはいずれもかつてのタイの属国でした。

 この地域の北部に対しては、1872年から漢族ホー(太平天国の残党といわれている武装集団)の襲撃が繰り返し行われてきましたが、1885年の襲撃でヴィエンチャンが襲撃されると、タイとフランスがそれぞれ討伐隊を派遣。これを機に、1886年5月7日、フランスはルアン・プラバーンに領事館を設置します。さらに、1887年にルアン・プラバーンの王都が襲撃された際、フランス領事館のオーギュスト・パヴィがルアン・プラバーン王とその家族を救出したことで、ルアン・プラバーンはフランスに対する親近感を持つようになりました。

 こうした状況の中で、1888年、タイとフランスはラオス地域での国境線画定交渉を行い、現地軍が駐屯する範囲をそれぞれの領土とすることとして、ルアン・プラバーンの属国(タイから見ると属国の属国)であったシップソーンチュタイ(十二主タイ)がフランス領に編入されます。これ以後、フランスは「ルアン・プラバーン地域の宗主権はヴェトナムにあり、ヴェトナム領を有する仏領インドシナがルアン・プラバーンの宗主権を持っている」とのロジックで、バンコク駐在のフランス領事がメコン川左岸(東岸)はヴェトナムの保護領であると主張するようになりました。

 1892年、ルアン・プラバーン王救出劇の英雄だったパヴィはルアン・プラバーン領事となり、タイ側が提案していた交渉による国境画定を拒否して、メコン川左岸からのタイ軍の撤兵を要求。両国の緊張が高まる中、カムムアン県の知事であったプラ・ヨートムアンクワーンが現地に駐留していたフランス軍と衝突し、フランス人将校が死亡する事件が発生。これを機に、フランスではタイ討つべしとの世論が高揚します。

 そして、1893年7月13日夕方、フランス海軍の戦艦2隻が、タイ側官憲の制止を無視してチャオプラヤー川の河口を強行突破したため、パークナーム(“河口”の意。現・サムットプラーカーン)に置かれていたタイ側の要塞では備え付けの大砲と軍艦で攻撃しました。しかし、フランス側はこれを一蹴。チャオプラヤー川を遡って、午後10時頃までにバンコクのフランス領事館(チャオプラヤー川に面している)へ到着し、港を封鎖してタイ政府に対して、メコン川左岸の割譲を求める最後通牒を突きつけました。これがいわゆるパークナーム事件ないしはシャム危機です。

 国家存亡の危機というべき事態に直面したタイ政府は、当初、賠償金の支払いによって領土の割譲を免れようと考えました。その間に、タイに莫大な経済的権益を有するイギリスが介入してフランスの横暴を食い止めてくれるかもしれないとの淡い期待もあったようです。しかし、最終的にイギリスはこの問題に関しては“中立”を守り、タイを支援することはなく、賠償金支払いのための借款も供与しませんでした。

 結局、1893年10月にタイとフランスの間で結ばれた“講和条約”の内容は、①メコン川左岸の割譲、②メコン川の中州すべての割譲、③ メコン川西岸25キロ地域の武装解除、④カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州での武装解除ならびに徴税権の喪失、⑤フランス領からタイへの輸入時における関税自主権の放棄、⑥保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイの司法権の管轄外とすること、⑦300万フランの賠償金支払い、というタイにとって苛酷な内容のものとなりました。さらに、フランス側は、賠償金支払い完了までの保障占領としてチャンタブリーならびにトラートの両県に駐留し、港湾施設を占領し続けたほか、講和条約の規定を悪用し、仏印のヴェトナム人、ラオス人、カンボジア人のみならず、タイ国民(特に華僑)にまでワイロで保護民の地位を与えています。この結果、治外法権を悪用してタイ国内で不法行為を働く者が急増。タイの治安は急速に悪化していきました。

 このため、タイ側はさらなる譲歩として、1904年にはチャンタブリーならびにトラートの両県からのフランス軍の撤退と保護民の登録制限を求めて、1904年、メコン川右岸のマノープライ、チャンパーサック、ルアン・プラバーンの各州をフランスに割譲せざるを得なくなった。こうして1905年1月22日、フランス海軍はようやくチャンタブリー県から撤退。ルアン・プラバーンのフランスへの割譲に伴い、今回ご紹介するようなマテリアルが生まれることになったわけです。

 なお、一連の事件の後、タイは英仏両国に対する不信感を募らせ、ロシア、ドイツ、日本などとの関係を重視する外交の多角化を志向するようになっていくのですが、その点については、連載の次回で書いてみたいと思います。


 「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>のご案内

 9月4日(金)午後2時より、東京・丸の内の三井住友銀行丸ノ内クラブにて、タイ王国大使館、財団法人日本タイ協会、日本タイクラブの主催、日本経済新聞社 日メコン交流年2009事業の後援により、「タイ」フォーラム<タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>が開催されます。『タイ三都周郵記』の著者・内藤陽介も、学習院大学の川嶋辰彦先生(紀子妃殿下のお父上です)やタレントのいとうまい子さんとともに、パネラーとして登場する予定です。

 入場は無料ですが、会場スペースの都合から、ご参加いただけるのは先着100名様(要・事前申込)となっております。イベントの詳細や、お申し込み方法などは、主催者特設HPをご覧ください。

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 仏像切手トーク・予告編
2009-04-24 Fri 11:50
 きょうから東京・浅草の都立産業貿易センター台東館スタンプショウ’09がスタートします。僕は、あす(25日)11時から、会場内にて拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』の刊行を記念してトークイベントを行います。というわけで、きょうはその予告編として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バイヨン・カバー

 これは、1931年にフランス領インドシナで発行された5サンチーム切手のカバーで、1932年10月にコンポン・トムからフランス本国宛のものです。

 1931年、フランス領インドシナは、アンコール遺跡バイヨン寺院の4面尊顔塔(観音菩薩の巨大な頭像で構成されている)を取り上げた普通切手4種を発行しました。これが世界最初の仏像切手といわれています。

 この切手は、未使用は1枚数十円程度なのですが、気の利いたカバーを探すとなると、なかなか苦労させられます。今回ご紹介のモノは切手発行翌年の2枚貼りでルックスも良い上に、カンボジア発という点でも気に入っています。いわゆる仏印時代のカバーは、ヴェトナムのものが圧倒的に多く、カンボジアはずっと少なくなるということもあるのですが、切手に取り上げられているバイヨン遺跡はカンボジアにありますからねぇ。“仏像”というくくりでこの切手を使おうというのなら、やはり、ヴェトナムの消印が押されていたのでは興ざめというものでしょう。

 なお、バイヨンの尊顔塔の切手は、最初の1931年の4種に加え、1934年、1938年、1940年、1941年の5次にわたって計11種類が発行されています。今回の拙著では、カラーの特性を生かしてそれらをずらっと並べてみようかとも思ったのですが、“世界最初の仏像切手”ということで、最初の4種とカバーのみのご紹介となりました。

 今日のトークでは、まず、日本最初の仏像切手と世界最初の仏像切手をお見せした後で、国ごとの仏像(切手)の違いなどについて、いろいろとお話ししていくつもりです。スタンプショウは入場無料ですし、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 4月25日(土)11:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’09会場内にて、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料ですので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 
 

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 バオダイ没後10年
2007-07-30 Mon 02:40
 今日(7月30日)は、ベトナムのラスト・エンペラー、バオダイ(保大)が1997年に亡くなって10周年の日です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

バオダイ

 これは、フランス領インドシナ(仏印)時代の1936年11月20日、アンナンで使用するために発行された切手で、バオダイの肖像が描かれています。

 バオダイは阮王朝の皇帝、啓定帝の息子として1913年10月22日に生まれました。幼名は阮福晪です。当時のインドシナはすでにフランス支配下にあり、植民地貴族の常として彼もフランスで教育を受けていました。啓定帝の崩御により、フランスから帰国して、1926年1月8日に皇帝として即位。年号を保大(ベトナム語の発音でバオダイ)とします。バオダイないしはバオダイ帝というのは、この年号にちなむものです。

 皇帝として即位したものの、政治の実権を持たないバオダイはすぐにフランスに帰国。ベトナムの完全独立を認めるよう、フランスでのロビー活動を展開します。また、第2次大戦中は仏印に進駐してきた日本軍に協力し、フランスからの独立も宣言しました。

 しかし、1945年8月、後ろ盾となっていた日本が降伏すると、彼も退位に追い込まれ、阮朝は名実ともに滅亡。同年9月2日にホー・チ・ミンひきいるベトミンがベトナム民主共和国の独立宣言を行うと新政府の“最高顧問”になりますが、外交代表団の一員として訪中した機会をとらえて亡命。1946年には香港へ移りました。

 その後、インドシナ独立を阻止するフランスの支援で、1949年には“ベトナム国”の元首としてベトナムに帰国。1954年のジュネーヴ会議によって正式にベトナム国元首となります。その後、ゴ・ディン・ジエムを首相に指名したものの、彼と対立し、クーデタを企図するも失敗。逆に、アメリカの支援を受けたゴは、1955年に国民投票(このときの国民投票の郵便投票用紙はこちら)を行なってバオ・ダイを免職し、ベトナム共和国の設立して自らが初代大統領に就任してしまいます。

 バオダイはフランスへの亡命を余儀なくされ、1997年に亡くなるまで、パリですごしました。

 こうやってみると、バオダイの生涯もまた、同じくラスト・エンペラーの溥儀同様、波乱に富んだもので興味をそそられます。なお、インドシナの切手と現代史については、以前、拙著『反米の世界史』でも概観してみたことがありますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(4)
2005-08-01 Mon 09:53
 太平洋戦争の始まる直前、日本軍はフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジアの地域、以下仏印)に軍事進駐しました。欧州戦線でフランスがドイツに敗北した機会をとらえ、仏印から中国(日中戦争の敵国です)への支援物資の流入を防ぐために、北部仏印に進駐したのが、その最初でした。

 その後、日本軍は仏印全体に進駐。仏印におけるフランス当局(当然、ドゴール派ではなく、親独政府側です)の主権を尊重する代わりに、日本軍は仏印を実質的な軍事占領下に置き、仏印は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていました。

 ところが、戦争末期になって、東南アジアから日本軍の撤退が相次ぐと、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れた日本軍は、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ベトナム、ラオス、カンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立します。

 その後、1945年8月に日本軍が降伏すると、これらの地域では、独立を主張する現地の人々と、植民地支配を再開しようとするフランス当局の間で(第一次)インドシナ戦争が勃発することになります。

 さて、今回ご紹介するのは、こうした日本軍支配下の仏印から差し出された捕虜郵便です。

仏印捕虜郵便

 この葉書は、もともとは、タイの収容所で遣うことを想定して作られたものですが、実際には、ほとんど仏印のサイゴン(現ホーチミン)の収容所(制度的には“泰俘虜収容所”の管理下に置かれていた)で使われています。赤いヘルメットに鳩のデザインが、なんとなくかわいらしい感じがして(不謹慎な感想でしょうか)、気に入っています。

 裏面を見ると、この葉書は終戦直後の8月17日に書かれたことが分かります。日本がポツダム宣言を受諾して降伏することを内外に明らかにしたといっても、この時点では、フランス側による(旧)日本軍の武装解除は進められておらず、引き続き、日本側が収容所の管理などを行っていたことが分かります。

 なお、当時、収容所の外が独立運動でなんとなく騒然としている様子は、収容所にいた捕虜たちもなんとなく感じ取っていたものと思われますが、実際はどうだったんでしょう。そんなことも考えてしまう1枚です。

 さて、今度の土・日曜日、8月6・7日に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、この葉書を含めて、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示する予定です。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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