内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 南ヴェトナム国旗を掲げ禁錮刑
2018-01-25 Thu 11:09
 ヴェトナムの国営メディアは、きのう(24日)、2016年4月30日の“南ヴェトナム解放記念日”に旧南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)の国旗を掲げた1人を含む仏教徒の活動家4人が、“反国家的プロパガンダ”の罪で6-12年の禁錮刑の判決を受け、収監されたと報じました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトナム共和国5周年

 これは、1960年、南ヴェトナムが発行した“ヴェトナム共和国5周年”の記念切手で、ヴェトナム地図を背景に、今回問題となったヴェトナム共和国の国旗が描かれています。

 1945年3月、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きましたが、同年8月には降伏してしまいます。こうした混乱の中で、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ヴェトミン)はヴェトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホーチミンを国家主席とするヴェトナム民主共和国が樹立されます。

 これに対して、1945年9月、英国の支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ヴェトミンと戦闘状態に突入。第一次インドシナ戦争がはじまりました。

 こうした中で、フランスは、ヴェトナム民主共和国に反感を持つ反共知識人や反共民族主義者、阮朝時代の官人や南部ヴェトナムの諸宗教団体などの支持も得て、香港に亡命していた阮朝最後の皇帝バオ・ダイを擁立してヴェトナム国の建国を計画。1948年5月27日、暫定政府としてヴェトナム臨時中央政府を成立させます。これにあわせて、画家のレ・ヴァン・デにより、ヴェトナムでは、古くから、民族の象徴旗として“黄色旗”をベースに、ヴェトナムの北部・中部・南部を象徴する3本の赤線を入れた国旗が制定されました。

 その後、1949年3月のフランス・ベトナム協定を経て、同年6月14日、ヴェトナム国に正式に発足。さらに、1954年にジュネーヴ協定が結ばれて第一次インドシナ戦争が休戦となると、ヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ヴェトナム民主共和国(北ベトナム)とヴェトナム国(南ベトナム)に分割され、バオ・ダイは正式にベトナム国元首となります。

 しかし、バオ・ダイは自らが首相に指名したゴ・ディン・ジエムと対立し、クーデタを企図するも失敗。逆に、米国の支援を受けたゴは、1955年に国民投票を行なってバオ・ダイを免職し、“ヴェトナム共和国”を樹立して自らが初代大統領に就任しました。今回ご紹介の切手は、ここから5周年になるのを記念して発行されたものです。

 なお、ヴェトナム共和国の発足に際して、国旗はヴェトナム国時代のモノがそのまま継承され、1975年の国家消滅まで使用されましたが、ヴェトナム社会主義共和国の成立に伴い、旧南ヴェトナム国旗の掲揚は法律によって禁止され、現在にいたっています。 逆に、海外在中のヴェトナム人の間では、現在のヴェトナム国家に対する体制批判の象徴として、また、中国の侵略を受けている西沙諸島がヴェトナム共和国の領土であったことを示す反中国の象徴として、デモなどに際して掲げられることがあります。
 

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 世界の国々:ヴェトナム
2018-01-07 Sun 15:56
 ご報告が遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年1月3日号が刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はヴェトナム(3回目)を取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      南ヴェトナム・チュン姉妹(1959)

 これは、1959年にヴェトナム共和国(南ヴェトナム)で発行されたチュン姉妹(ハイ・バー・チュン/𠄩婆徵)を讃える切手で、ゾウに乗って漢軍と戦う姉妹の軍が描かれています。

 現在の中国南部からヴェトナム北部にいたる地域は、古代においては百越と呼ばれる南方諸民族(越族)の居住地域でした。紀元前203年、秦の南海郡尉(秦の設置した南海郡の軍事長官)の趙佗は、自らの勢力下にあった南海郡に近隣の桂林郡と象郡を併せ、南越国を建国しました。南越国は、紀元前112年、前漢の武帝は10万の大軍を派遣して南越国を滅ぼし、その旧領を含めて“交州(ヴェトナム北部の交趾郡、九真郡、日南郡と、現在の中国に属する6郡で構成)”を設置。交趾刺史部の管轄下に置きました。

 前漢は、当初、貉侯(在地の領主)や貉将(在地の武将)を利用して交州を統治していましたが、次第に中央の統制を強め、中央に任命された刺史、その部下である太守による統治が拡大していきます。

 中原では、紀元後8年、前漢に代わって王莽の新王朝が成立しましたが、その新も23年には滅亡し、25年に光武帝が後漢を建国。この間も、ヴェトナム北部は一貫して中原の王朝の支配下に置かれていましたが、光武帝によって交趾郡太守に任じられた蘇定は勝手に重税を課すなどの悪政を行ったため、南越の人々の不満は高まりました。

 このため、峰州麋泠県の貉将の娘にして、朱䳒県の有力者であった詩索の妻であったチュン・チャク(徴側)は南越の有力者の意向を取りまとめ、蘇定の圧政を廃し、徴税権を南越の貉侯や貉将に戻すよう、後漢政府に要求。40年3月には、南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯がこれに賛同します。

 さらに、後世の伝承によれば、“蛮族”の抵抗に激昂した蘇定がチュン・チャクの夫、詩索を処刑したこともあり(ただし、そのことを裏付ける文献資料はありません)、彼女の妹、チュン・ニ(徴弐)も加わって、後漢からの自立を目指し、チュン・チャクを王とする宮廷が麋泠県に設けられました。

 これに対して、光武帝はチュン姉妹の行動を“重大な叛乱”として、馬援を“伏波将軍”に任じ、42年4月、叛乱鎮圧のため、2万の兵を南越に派遣。馬援の軍は悪天候と疫病に苦しんだものの、浪泊での決戦でチュン軍数千を殺害し、1万人以上を捕虜とします。チュン姉妹は麋泠県・禁谿へ逃れたものの、ついに馬援軍に捕えられ、殺害されました。なお、姉妹の最期については、川に身を投げた、馬援が自ら首を刎ねた、雲の中に消えた、などのさまざまな伝承が伝えられています。

 翌43年、馬援は姉妹の首級を洛陽に送るとともに、徴軍の残党を追って、ヴェトナム中部のゲアンにまで掃討戦を展開。数千人の貉将・貉侯を殺害するとともに、漢民族や親漢派の住民を交阯に移住させました。

 こうして、中原は南越の抵抗を武力で制圧しましたが、その後も、248年の趙嫗の乱など、中国支配に対する反乱は断続的に続くことになります。

 一方、チュン姉妹は中国の非道な支配に立ちあがった民族の英雄として、ヴェトナム各地の寺院に祀られているほか、その名を冠した地名も数多く残されているなど、現在なお、人々の尊敬を集めています。

 さて、『世界の切手コレクション』1月4日号の「世界の国々」では、古代の中越関係とチュン姉妹についてまとめた長文コラムのほか、明に抵抗した英雄グエン・チャイ、チュオンサ諸島(南沙諸島)、バクダン(白藤江)の戦いバクニンのクアンホジャワサイの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のヴェトナムの次は、4日に発売された1月10日号でのアルゼンチンの特集になります。こちらについては、発行日の10日以降、このブログでもご紹介する予定です。

 * 昨晩、アクセスカウンターが187万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 
      
★★ 10日(水) TOKYO FM/JFN “クロノス”に内藤が登場 !★★

 1月10日(水)07:20~ 東京FMの朝のワイド番組「クロノス」に内藤がゲスト出演します。よろしかったら、ぜひお聞きください。

 
★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は11日!★★

 1月11日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第14回が放送予定です。今回は、年明け最初ということで、世界で最初に犬の切手を発行したニューファンドランドについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 ファン・ボイ・チャウの切手
2017-03-04 Sat 09:56
 ヴェトナムをご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きょう(4日)、同国中部のフエにある、東遊運動の指導者、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)の記念館をご訪問されるそうです。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ヴェトナム・ファンボイチャウ

 これは、1967年3月24日にヴェトナム共和国(南ヴェトナム、サイゴン政権)が発行した“ヴェトナムの愛国者”の切手のうち、ファン・ボイ・チャウを取り上げた1枚です。

 ファン・ボイ・チャウは、1867年12月26日、フエ生まれ。幼少時から神童の誉れ高く、6歳にして3日で『三字経』を習得し、7歳にして『論語』を読み、13歳にして科挙の前々段階にあたる、府県レベルで実施される“課”に合格しました。

 しかし、フランスによるインドシナの植民地化が進行していく中で、旧来型の四書五経を中心とした勉強には飽き足らなくなり、10代の頃から反仏運動に傾倒。1885年、清仏戦争に敗れた清朝がヴェトナムに対するフランスの保護権を認めたことに対して、阮朝の咸宜帝がフエを脱出し、反仏蜂起を起こすと、ファンもこれに参加します。そして、蜂起がフランス軍によって鎮圧されたことでフランスに対する強い憎しみを持つようになりました。ちなみに、蜂起翌年の1886年、フランスはフエの阮朝宮廷を形式的に残したまま、アンナン、トンキンを保護国とし(南部のコーチシナはフランスの直轄植民地)、1887年にはインドシナ総督府を設置。インドシナの植民地化をほぼ完成させました。

 その後、ファンは1897年に科挙に首席で合格したものの、官職には就かず、祖国再興をめざす勤王運動に参加。1904年には、阮朝の祖・嘉隆帝の血筋をひくクォン・デ(彊柢)を擁立して“維新会”を結成し、1905年初、ヴェトナム独立のための武器支援を求めて、2名の同志とともに出国し、香港、廣州上海、神戸を経由して、1905年初夏、横浜に到着しました。

 ちなみに、1904年2月に日露戦争が勃発すると、ファンは日本の勝利を予言していましたが、多くのヴェトナム人は半信半疑でした。特に、ファンの出国後、1905年5月9日にロシアのバルチック艦隊がカムラン港に寄航すると、その威容に圧倒されたヴェトナムの多くは日本の勝利は絶望的と考えましたが、実際には日本海海戦で日本連合艦隊が圧勝。このため、ファンの声望は一挙に高まることになりました。

 横浜に到着したファンは、戊戌の変で失脚し、亡命中だった清朝・変法運動の指導者、梁啓超を訪ねます。このとき、ファンが訴えたヴェトナムの状況を梁が書き留めたというかたちで出版されたのが『ヴェトナム亡国史』です。反仏武装闘争の計画についてアドヴァイスを求めたファンに対して、梁は日本政府に武器の援助を求めるよりも、独立のための人材育成が急務であると説得。さらに、ファンは梁の紹介で大隈重信、犬養毅らとも面談し、彼らからも同様の意見を得たことに加え、日本の社会を実地に観察したことで、性急な武装蜂起よりも、まずは人材の育成が重要であることを確信し、いったん、帰国しました。

 帰国したファンは、3人の学生を伴い日本に再入国し、さらに6人の学生を呼び寄せ、犬養毅の紹介で東京振武学校と東京同文書院に入学させます。これが、「日本に学べ」という意味の“ドンズー運動”の始まりで、以後、200名を超えるヴェトナム人青年が日本で軍事教練を含む質の高い教育を受けました。その中には、維新会の長であったクォン・デも含まれていました。また、ヴェトナムでは、ファンの呼びかけに応じて、慶応義塾をモデルに“東京義塾”が作られ、愛国青年の育成が始まります。
 
 これに対して、フランスは1907年、日仏協約を調印。同協約では、フランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに、日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、日本を拠点とした独立運動を取り締まることを規定していました。フランスはこれを根拠に、日本政府に圧力をかけ、1909年、ヴェトナム人留学生を日本から退去させます。さらに、ヴェトナムの東京義塾も閉鎖を命じられ、責任者は逮捕されました。

 ファンも日本からの退去を命じられ、失意の中、香港、バンコク、シンガポールなどで活動。1911年に中国で辛亥革命がおこると、皇帝の復権から、民族の独立と民主国家の建設に目標を変更し、それまでの維新会を解散。新たに、「仏賊を駆逐し、ヴェトナムを回復して、共和制のヴェトナム民国を樹立すること」を目標とするヴェトナム光復会を組織しました。その後、ヴェトナム光復会は、廣州を拠点に党員をヴェトナムに派遣して植民地政府要員の殺害を狙ったものの、ほとんど失敗。1914年にはファン自身も逮捕され、1917年まで廣州で獄中生活を送りました。

 出獄後のファンは、廣州を拠点に、日本を再訪したり、1920年には北京でソヴィエト代表団と接触したりした後、1924年には中国国民党をモデルにヴェトナム光復会をヴェトナム国民党に改組するなどの活動を行っていましたが、1925年、廣州でフランス官憲に再逮捕され、ハノイでの裁判で終身禁固の判決を受け、入獄しました。これに対して、ヴェトナムではファンの釈放を求める大規模なデモが発生したため、フランス当局は彼を釈放したものの、以後、フエ郊外でファンを監禁し続けました。ちなみに、ファンが亡くなったのは1940年10月25日のことでしたが、その直前の9月23日、日本軍は北部仏印に進駐しています。


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 サイゴン陥落40年
2015-04-30 Thu 11:17
 1975年4月30日、ヴェトナム共和国(南ヴェトナム)の首都だったサイゴン(現ホーチミン)が陥落し、ヴェトナム戦争が終結してから、きょう(30日)でちょうど40年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         南ヴェトナム・不発行(ポークロンガライ)

 これは、南ヴェトナム郵政が準備していたものの、1975年4月30日のサイゴン陥落によって南ヴェトナム国家そのものが消滅してしまったため、不発行に終わった切手です。

 いわゆるドミノ理論によってヴェトナムに軍事介入し、南ヴェトナム政府を支え続けてきた米国ですが、1973年1月27日、南ヴェトナム、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)、南ヴェトナム臨時革命政府(解放戦線)とのパリ和平協定に調印し、同年3月末には米軍最後の部隊を撤退させました。さらに、同年8月には、米空軍機によるカンボジアへの爆撃も終了し、インドシナにおけるアメリカの軍事活動は終了。この時点で、インドシナ戦争は実質的に終わったといえます。

 その後、米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れとなり、北ヴェトナムと解放戦線は、2年はかかると見られていた南の制圧を驚異的な速度で進め、1975年4月には首都サイゴンに肉薄。これにより、市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れ米国大使館や空港に殺到。米国もサイゴンからの撤退を開始し、米大使グラハム・マーチンをはじめとする米国人関係者と南ベトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出し、サイゴンは4月30日に陥落する。かくして、北ヴェトナム正規軍はサイゴンにほぼ無血入城し、南ヴェトナム政府は崩壊。ヴェトナム戦争は終結しました。

 こうした混乱の中で、南ヴェトナム郵政は、1975年3月26日に「農業の日(農業改革法5周年)」の記念切手を発行。さらに、サイゴン陥落までの間に、すでに発行済みの切手に額面改定の加刷を施した切手を3種発行しています。しかし、4月30日に南ヴェトナム国家そのものが消滅してしまったため、21種の切手(正刷19種・加刷2種)については、準備はされていたものの、発行されずに終わってしまいました。これらの不発行切手が市場に出回るようになったのは、1980年代以降のことでした。

 今回ご紹介の切手は、そのうちのポークロンガライ遺跡を取り上げた1枚です。

 ポークロンガライ遺跡は、13-14世紀にかけてチャンパ王国が建立した遺構で、ヴェトナム南部、ホーチミン市の北350kmの位置にあるファンランにあります。切手に描かれているのは、そのうちの主祠堂で、入口にはシバ神像のレリーフが掲げられ、中にはポークロンガライ王(1151-1205)の像が祀られています。廃墟となった遺跡の姿が、切手を発行しようとして果たせなかった南ヴェトナムの姿とも重なるようで、なんとなくうら淋しい感じがしますな。


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  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

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 マクナマラ亡くなる
2009-07-07 Tue 21:39
 ベトナム戦争時のアメリカの国防長官だったロバート・マクナマラがきのう(6日)亡くなりました。というわけで、きょうはベトナム戦争ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 南ベトナム・反ベトコン標語印   南ベトナム・反ベトコン標語印(裏)

 これは、1965年4月、ベトナム戦争時のベトナム共和国(南ベトナム、サイゴン政権)の支配下にあったサデックからフエ宛に差し出されたカバーで、同年3月23日に発行の“世界気象の日”50スー切手のペアが貼られています。北ベトナムで悲惨な暮らしを続ける同胞に手を差し伸べる南ベトナム人民というデザインが“いかにも”という感じです。また、裏面(右側の画像)には“Chi co hoa binh khi Viet cong rut khoi mien Nam(南ベトナムからベトコンが撤退して初めて平和が訪れる)”とのスローガン印が押されているのも興味深いところです。

 1954年7月のジュネーブ協定により、フランスからの独立戦争としての第一次インドシナ戦争は停戦となり、ベトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されます。このうちの南ベトナムに誕生したゴ・ディエン・ジェム政権に対して、アメリカは“反共の防波堤“としての役割を期待し、多額の援助を投入しましたが、ジェム政権は国内での独裁傾向を強めて反対派を弾圧。こうしたジェム政権に対する不満から、南ベトナムの農村では半ば自然発生的に抵抗運動が発生し、これを北ベトナムが支援するという形で南ベトナム情勢は不安定化しました。

 このため、マクナマラが国防長官を務めていたケネディ政権は、1961年5月、南ベトナム支援のために特殊部隊400人と軍事顧問100人の派遣を決定。小規模ながら、ベトナムへの軍事介入を開始しますが、以後、解放戦線の予想を上回る活動に接したアメリカは、なし崩し的にベトナムへの軍事介入を強化していくことになります。

 こうした状況の中で、1963年5月、中部ベトナムの古都フエで仏教徒による大規模な反政府デモが発生。デモはたちまちベトナム全土に波及し、6月8日、1人の僧侶がサイゴンで抗議の焼身自殺を行うと、これに対して、ジエムの弟で大統領顧問であったゴ・ディン・ヌーの夫人が“坊主のバーベキュー”と発言。ジエム政権は世界的規模で激しい非難を浴び、国民の信を完全に失いました。

 このため、アメリカもジエム政権を完全に見放し、ジエム政権に代わる新たな親米政権を樹立して、あらためて共産主義者と対決する方向を模索するようになり、1963年11月1日、CIAの立案した計画により、南ベトナム軍の将軍たちがクーデタを起こし、ジエム兄弟は逮捕・射殺されました。しかし、ジエム政権の後に登場したズオン・バン・ミン政権も安定せず、以後、サイゴン政権では将軍たちによるクーデタが繰り返され、南ベトナムの状況はますます動揺し、解放戦線は攻勢を強めていくことになります。

 ジエム政権の崩壊当初、マクナマラは年内の1000人の顧問団の引き上げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表しましたが、ケネディ暗殺のためこの撤退計画は頓挫してしまいます。さらに、翌1964年8月にいわゆるトンキン湾事件が発生すると、アメリカは北ベトナムに対する空爆(北爆)を開始しますが、北ベトナム側の抵抗によって戦況は好転せず、南ベトナム軍の将兵たちは次第に戦意を喪失。戦局の悪化に反比例するかのように、南ベトナムに駐留する米軍の数は膨脹し、アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいくことになるのです。

 なお、ベトナム戦争に関する切手や郵便物については、拙著『反米の世界史』でもいろいろとご紹介したことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 早めに撤退すりゃ良かった?
2007-11-25 Sun 11:37
 オーストラリアの連邦議会(上下両院)選挙で与党の保守連合がハワード首相みずから落選という大敗を喫し、11年ぶりに労働党政権が誕生することになりました。このニュースを聞いて思い出したのがこんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム・国際協力の日

 これは、1968年に南ベトナムが発行した“国際協力の日”の記念切手です。切手を見ればすぐにわかるように、ここでいう“国際協力”というのは、ベトナム戦争において南ベトナム支援のために自由主義諸国が派兵することで、その一員としてオーストラリアの国旗も描かれています。

 東南アジアと隣接するオーストラリアは、ベトナム戦争にも積極的に関与し、1965年以降、軍隊を派遣しています。ところが、その前年の1964年にオーストラリアでは徴兵制(兵役義務制度)が導入され、しかも、ベトナム戦争の長期化でオーストラリア兵の犠牲も急増したことから、次第に国民世論は派兵反対へと傾くようになりました。

 その結果、1972年の選挙では、ベトナムからの撤兵を公約に掲げるゴウ・ウィットラムの労働党が勝利し、オーストラリア軍はベトナムから撤退することになります。その後、ウィットラム政権は、兵役義務と高等教育費を廃止し、自由に広く利用できる健康保険制度をつくり、アボリジニーに対して土地の所有権を認めるなど、リベラルな政策を展開しています。

 今回の選挙でも、ベトナム同様、泥沼化するイラクからのオーストラリア軍の撤退問題が大きな争点になっていたわけですが、やはり、派兵にこだわり続けた与党が敗北し、撤退を公約に掲げた労働党が勝利を収める結果となりました。まもなく発足する新政権は、アメリカとの同盟を外交の基軸としながら、イラク駐留部隊の部分撤退や京都議定書の批准など、ハワード路線の軌道修正を図るのだそうですが、まずはお手並み拝見というところでしょうかね。

【イベントのご案内】  
 12月1日(土)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。

 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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 国民投票
2007-05-14 Mon 00:37
 今日(14日)の午前中にも憲法改正手続きを定める国民投票法が参議院で可決・成立するのだそうです。

 というわけで、“国民投票”がらみということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム国民投票

 これは、1955年、当時の南ベトナムで行なわれた国民投票の際の郵便用の投票用紙です。

 第2次大戦後、ベトナムの独立をめぐって戦われた第1次インドシナ戦争は、1954年7月21日にジュネーブ協定が調印され、ベトナムは共産主義国家の北ベトナムと、親西側陣営の南ベトナムにベトナムを一時的に分割されます。ジュネーブ協定では、1956年7月に自由選挙を行い、南北統一の中央政府を樹立することを定めていましたが、この協定に調印したのはフランスと北ベトナムのみで、統一選挙を行なえば勝ち目がないと考えていたアメリカと南ベトナムは調印を拒否します。

 その後、南ベトナムの国家元首であるバオ・ダイは、首相にゴ・ディン・ジエムを任命しましたが、アメリカの支援を受けたゴ・ジン・ジェムは、1955年に国民投票を行なってバオ・ダイを免職し、ベトナム共和国の設立して自らが初代大統領に就任してしまいます。以後、これに反対して南ベトナム政府の打倒を目標とする南ベトナム解放戦線(ベトコン)によるゲリラ活動が活発化し、南ベトナムの内戦から第2次インドシナ戦争が導かれていくのです。

 さて、今回ご紹介しているのは、その1955年の国民投票のときのもので、投票部分を折りたたんで料金無料でゴ・ジン・ジェム宛に送ることが出来るようになっています。裏面には、投票にかける3項目について、それぞれ、Yes-Noを選べるようになっています。ただし、このマテリアルに関しては、実際には投票に用いられていません。まぁ、実際に使われたものが市場に出回ったら、それはそれで大変なことなので、いたし方のないことではあるのですが…。

 なお、この時期の南ベトナムの切手や郵便については、拙著『反米の世界史』でもいろいろとご紹介していますので、もしよろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 サイゴンからホーチミンへ
2006-05-19 Fri 23:45
 “XXの日”というのは、何かとこじつけっぽい語呂合わせが多いので、今日(5月19日)あたりは“ゴイクン(ベトナム風春巻き)の日”にでも指定されているのかと思ったら、さすがに、そういう日はないようです。でも、今日はホーチミンの誕生日(1890年)なので、「まぁ、こんなモノを持ってきても罰は当たるまい」という気分で引っ張り出してきたカバー(封筒)が下の1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム共和国カバー

 これは、ベトナム戦争終結後の1976年5月、南ベトナム共和国の支配地域で差し出されたもので、同共和国の発行した切手が貼られています。

 1975年、サイゴンが陥落し、ベトナム共和国(いわゆる南ベトナム)が崩壊した後、南ベトナムは“南ベトナム共和国”の支配下に置かれます。同共和国を支配していた南ベトナム共和国臨時革命政府は、もともとは、ベトナム戦争下の1969年、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立した地下政府で、南ベトナム解放民族戦線(いわゆるベトコン)の労働党員が主要なポストを独占していました。

 その後、臨時政府は正式な政府に発展しないまま、1976年7月1日に北ベトナムが南ベトナムを吸収するかたちで“ベトナム社会主義共和国”が樹立されると、消滅しています。

 南ベトナム共和国の切手は、かつて、未使用の単片や注文消しの使用済み切手なんかが日本でも盛んに出回っていましたが、ここに示しているような実逓カバー(実際に郵便に使われたカバー)を探そうとすると、案外、苦労するものです。

 今回ご紹介しているカバーは特別に珍しいものというわけではありませんが、統一ベトナムの誕生によって“ホーチミン”と改称される直前のサイゴン宛にホーチミンの切手を貼って差し出したというところが、ちょっと面白いかなと思っています。

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