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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ゴールデンバット、販売終了へ
2019-07-25 Thu 01:51
 JTは、きのう(24日)、販売中のたばこ銘柄のうち、日本国内で販売中のたばこの中では現役最古の銘柄である「ゴールデンバットのほか、「わかば」と「エコー」の3種について、10月以降、同社の在庫売りつくしをもって販売を終了し、廃止とすることを発表しました。というわけで、ゴールデンバットにちなんで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      清朝・万寿1分

 これは、1894年11月19日、清朝の実質的な郵政機関として機能していた海関が、西太后の還暦を祝って発行した“慈禧壽辰紀念郵票(万寿郵票)”のうち、吉祥の文様として、5匹のコウモリで表現される“五福捧寿”が中央に描かれています。

 「五福」は、『尚書』では「長寿・富貴・健康安寧・美徳遵奉・全天寿」のことですが、その後、「福・禄・寿・喜・財」を意味するようになりました。

 一方、中国語では“蝙蝠(biānfú)”の音が「福が偏り来る」を意味する“偏福 (piānfú)”に通じるとして、コウモリは幸運の象徴とされてきました。また、百年以上生きた鼠が蝙蝠になるとの伝説もあったため、長寿のシンボルともされています。5匹のコウモリで五福を象徴する五福捧寿の文様も、こうした事情を踏まえたものです。

 わが国でも、漢籍が日常生活に浸透していた時代には蝙蝠は縁起の良い動物とされており、家紋にデザインされることもありました。ゴールデンバットが日本国内で発売開始となったのは1906年のことですが、当初は、清国向けの輸出用ブランドとして企画され、1905年から生産が開始されたことから、漢字文化圏で幸運の象徴とされるコウモリが銘柄として採用されたわけです。
 
 なお、戦時下の1940年、ゴールデンバットの名は“敵性語”として、煙草の銘柄は神武東征の神話に基づく「金鵄」に改称されましたが(ただし、トビとコウモリは全く別の鳥ですが…)、戦後の1949年、ゴールデンバットの旧称に復し、現在まで販売され続けてきました。

 ゴールデンバットは「バット」の略称で芥川龍之介や太宰治、中原中也などの作品にも登場するので、煙草を嗜まない僕にとってもなじみのある銘柄です。それだけに、時代の流れとはいえ、今回の販売終了のニュースには一抹の寂しさを感じますね。


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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 米、UPU脱退手続き開始
2018-10-19 Fri 01:02
 米国のトランプ政権は、17日(現地時間)、万国郵便連合(UPU)から脱退する手続きを開始したことを明らかにしました。というわけで、UPUを通さない郵便物の一例として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      梧州→ザルツブルク(コンビネーション)

 これは、1901年2月1日、清朝末期の広西省・梧州からオーストリアのザルツブルク宛に差し出された葉書で、清朝の葉書・切手に、香港切手を貼り足してオーストラリアに届けられています。

 UPU(1874年成立)の加盟国間では、原則として、郵便物の差出国の切手で宛先地までの料金を納付したと認められます。現在、我々が日本から外国宛に郵便を差し出す場合、日本切手だけを貼れば宛先に届くのは、このためです。逆に、非加盟国の政府が発行する“切手”は国際的には郵便料金前納の証紙としての効力はありませんから、外国あての郵便物にそうした切手を貼って差し出すと、相手国で料金不足ないしは未納の扱いを受ける可能性があります。

 現在、通常の独立国であれば、万国郵便連合への加盟はほぼ自動的に認められていますが、このことは逆に、同連合への加盟が認められないということは郵政面では正統な独立国家として国際社会から認知されていないということを意味しているともいえるわけです。

 さて、旧清朝では、当初は海関(税関にほぼ相当する期間)が郵便事業を担当していましたが、1897年2月20日、海関に代わる国家郵政として、大清郵政局が発足しました。しかし、アヘン戦争から日清戦争にいたるまでの間、ありとあらゆる戦争に負け続け、半植民地化が急速に進んでいた清朝の国家郵政は、国際社会からは自立した独立国の行政機関とはみなされず、UPUへの加盟が認められませんでした。

 このため、清朝から外国宛の郵便物に関しては、清朝側は全国の主要な郵便局に外国の切手を備え付け、外国宛の郵便物には、料金分の中国切手とは別に、用意した外国切手を貼り、それを開港地の外国郵便局に持ち込んで郵便物の差立を依頼するという方法が取られました。

 今回ご紹介の葉書はその一例で、1901年2月1日、この葉書を引き受けた梧州の郵便局では、清朝の官製葉書(額面は1分)に外国宛料金の差額分の清朝の切手3分相当を貼り足した後、さらに、4セントの香港切手を貼り、香港切手には清朝国家郵政を意味する“IPO”(Imperial Post Office)割印を押しています。

 自国の切手であれば、貼付されている切手の料金を確認し、それがきちんと貼られていたことを示すためには、切手に消印を押せばことが足りるのですが、清朝の郵便局で香港切手に消印を押してしまうと、香港の郵便局ではその切手は無効となってしまいます。かといって、切手が貼られていたことを証明するための表示がなければ、切手が脱落した場合(中国では郵便物の逓送途中に、消印の押されていない切手が剥ぎ取られることが少なくありませんでした)、受取人は不足料金を徴収されてしまいます。このため、清朝側は、苦肉の策として、消印ではなくIPOの割印を押して、対応していたわけです。

 こうして、この葉書を引き受けた梧州の郵便局では葉書を広東経由で香港に送り、1901年2月3日、葉書は英領香港の郵便局に引き渡され、そこから先は香港切手(英領植民地として万国郵便連合に加盟しています)の効力によって、ザルツブルクまで届けられました。ザルツブルクへの到着は、葉書に押されている到着印によれば3月8日です。

 その後、清朝は、1902年にはフランス、1903年には日本、1904年には香港(英国)、1905年にはドイツと、それぞれ、個別の郵便協定を結びます。その結果、それぞれの列強が中国に設けていた郵便局を経由しなければならないという制約はあったものの、ようやく清朝の切手だけで、そのまま外国宛に郵便物を差し出せるようになり、コンビネーション・カバーもその役割を終えました。

 なお、中国が万国郵便連合への正式加盟を達成するのは、辛亥革命により中華民国が成立した後の1914年3月1日のことで、清朝国家郵政は自立した郵政機関として国際社会から認知されぬまま消滅してしまいました。

 このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 さて、今回、米国がUPUからの脱退手続きを開始した理由としては、中国企業などがアメリカの郵政公社と比べ、極めて安い値段で小包を配送でき、アメリカに「損害を与えている」からと説明されています。UPUは、国際郵便料金を設定する際に、途上国からの荷物には補助金を出する一方、米国を含む富裕国の料金を高く設定していますが、中国が“途上国”に分類されていることから、こうした問題が生じているわけです。

 ただし、全世界の国際郵便のうち、米国発着の郵便物が占める割合は大きいため、米国としても直ちにUPUから脱退するというわけではなく、今後、1年かけて加盟国などと交渉し、“公平なルール”に改められた場合は脱退を取りやめるとの含みを持たせていますので、今後の交渉の推移に注目していきたいと思います。
     

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 カープが25年ぶりの優勝
2016-09-11 Sun 14:24
 プロ野球のセントラル・リーグは、広島東洋カープが25年ぶりに優勝しました。というわけで、カープにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      日本版蟠龍・3角

 これは、1897年8月16日に清朝国家郵政が発行した3角(30分)切手で、跳ねる鯉が描かれています。

 1897年の国家郵政発足以前の中国大陸の郵便事情は、非常に複雑で、実質的な清朝郵政として機能していた海関にくわえ、政府の公用便を運ぶ駅站、地方の官公署の文書を運ぶ文報局、民間の飛脚に相当する民信(日本の飛脚よりも相当に規模が大きく、シンガポール、マレー、ジャワにまで及ぶ通信網を完備していた業者もあった)、開港地に置かれた列強の郵便局、在住外国人の通信組織である書信館などが、それぞれ、併行して文書の通信を担っていました。

 1895年、日清戦争での敗戦という事態に直面した清朝では、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を樹立しようとする変法の運動が起こり、科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設などの詔勅が次々に発布されました。その一環として、四分五裂状態にあった郵便の統一もはかられるようになり、海関総税務司のロバート・ハートは総理各国衙門を通じて「郵政開辨章程」を上奏。国家郵政発足のための具体的なプランを提案します。

 ハートの上奏案は、1896年3月20日、皇帝の「覧」を得ます。この結果、1897年2月の国家郵政(大清郵政局)の開業へ向けての具体的な動きがスタートし、海関郵政から国家郵政への移行作業が進められました。

 この過程で、郵便料金の基準通貨も、海関時代の銀両から、洋銀に変更され、新通貨に対応した切手を発行する必要が生じます。

 当初、ハートらは、切手の製造をロンドンのウォータールー・アンド・サン社(Waterlow & Sons Co. Ltd. 中国語では華徳路公司)に発注する予定であったといわれていますが、現実には、ロンドンに切手製造を発注していたのでは、1897年2月の開業までに新切手の到着は、とうてい、間に合いません。このため、応急的な措置として、郵政局は、海関時代の切手に「暫作 洋銀 X分」と加刷した切手を暫定的に発行することとし、上海にあった海関の印刷工場(上海海関造冊處)で加刷作業を行うことで対応しました。これらの切手は、その加刷の文字から、「暫作洋銀加蓋票(加蓋は加刷、票は切手の意)」と呼ばれています。

 こうして、突貫作業が進められた結果、暫作洋銀加蓋票は、国家郵政発足に先駆け、1897年2月2日(光緒23年の元日に相当)から一般に発売されました。

 これと並行して、郵政局は、書信館の切手製造を受注していた実績があり、欧州の印刷所に比べてはるかに地の利がある日本の東京築地活版印刷所(以下、築地活版所)に切手製造を発注します。

 築地活版所は、日本の活版印刷の父と呼ばれる本木昌造の流れを汲む印刷所です。

 本木は、オランダ語の通詞(通訳)として語学のほか諸学に通じた知識人で、幕府直轄の長崎製鉄所の主任・頭取などを歴任し、上海の印刷出版所、美華書館のウィリアム・ガンブルの指導の下、日本語活字の製造に成功しました。ちなみに、現在の日本語活字の主流を占める明朝体は、本木の採用した書体です。

 明治維新後の1869年、本木は長崎製鉄所・頭取の職を辞し、旧士族子弟の教育機関として「新町私塾」を開設。塾の運営費を捻出するために、塾に併設して「長崎新町活版所」を設立しました。翌年には、これを拡張して「長崎活版製造会社」とし、活字の製造ならびに印刷を本格的に開始するとともに、門人を派遣して、大阪(長崎新塾出張大阪活版所、後に大阪活版製造所と改称)、京都(點林堂活版所)、横浜の各地に活版所を開設します。

 もっとも、本木は優れた知識人にして教育者ではあったのですが、経営の才には乏しく事業はすぐに行き詰まってしまいます。このため、門人の平野富二が長崎活版製造会社の経営を引き継ぎました。

 平野は、1877年に石川島平野造船所を設立して現在の石川島播磨重工業の基礎を一代で築いたほどの人物で、本木の期待にたがわず、短期間のうちに長崎活版製造所の経営再建に成功。1871年、本木の門人、小幡正蔵の東京での活字販売が好調なのに目をつけて、翌年以降、本格的に東京での事業展開を開始しました。

 平野は、おりから、大量の布告文書を発していた明治政府に活字を販売したほか、1872年末の太陽暦の採用にともなう新暦5万部の印刷も受注。さらに、新聞・雑誌の創刊ラッシュの中で急激に社業を拡大し、1873年、築地に当時としては東京第一の大工場を建設し、本社機能を移転しました。これが「東京築地活版製造所」の直接のルーツです。

 その後、平野は1883年に築地活版所の上海出張所として、松野直之助を責任者として修文書館を設立します。

 築地活版所の上海進出は、1879年、活字父型を彫刻する熟練の職人を求めて、同社の曲田成が上海に派遣されたのが発端で、後に修文書館は印刷業務一般にも事業を拡大し、1885年には築地活版所から正式に独立。1890年には上海最初の日本語紙「上海新報」(ニュースだけではなく、小説や挿絵も掲載されていた)を創刊しました。ただし、同紙は、翌1891年5月、同紙は日清貿易研究所についての特集記事を掲載したことから、関係筋から圧力を受け、廃刊に追い込まれてしまうのですが…。

 一方、築地活版所の本体は、1884年に印刷部を設置。顧客の印刷業者との競合を避けるため、活字の鋳造と販売を中心としていた体制を転換し、本格的に印刷業にも参入しました。

 築地活版所が経営方針を転換した背景には、佐久間貞一ひきいる秀英舎(現在の大日本印刷)の成功がありました。

 秀英舎は、1876年に設立され、当初は仏教系新聞『明教新誌』の印刷を行っていましたが、その後、明治初期のベストセラー、スマイルズ著・中村正直訳の『西国立志編』の活版印刷による翻刻版(オリジナルは木版の和装本)の印刷を受注したことから経営を軌道に載せ、1879年からは『東京横浜毎日新聞』の印刷も担当するようになっていました。

 当初、秀英舎は築地活版所から活字を購入していましたが、事業の拡大に伴い、1881年、活字の自家鋳造を開始。翌1882年には活版製造所製文堂を創設し、一般の印刷業者への活字販売を開始して、築地活版所の縄張りに正面から切り込んできます。このため、築地活版所も、活字の製造と印刷を分離するという従来の建前をかなぐり捨てざるをえなくなったのです。

 こうして、築地活版所と秀英舎は、互いに切磋琢磨するかたちで日本の印刷技術をリードしながら急成長を遂げ、その顧客網はアジア諸国にまで広がります。その過程で、築地活版所は宜昌書信館、鎮江書信館、南京書信館のローカル切手の製造を請け負うことになりました。

 さて、築地活版所の製造した清朝国家郵政の切手は、国家郵政発足から半年後の1897年8月16日に発行されました。

 切手のデザインは、蟠龍(龍が天に昇らず地上にわだかまること)を描くもの、跳ねる鯉を描くもの(今回ご紹介の切手はそのうちの1枚)、飛雁を描くものの3種類がありました。これらの切手は、低額の蟠龍のものにちなんで「日本版蟠龍票」と総称されています。

 なお、日本版蟠龍票の発行から、さらに約5ヶ月が経過した1898年1月28日、日本版蟠龍票とほぼ同じデザインで、ロンドンのウォータールー・アンド・サン社の製造した凹版印刷の切手が発行され、以後、清朝の滅亡まで使用されることになりました。こちらの切手は、日本版と区別して、倫敦(ロンドン)版蟠龍票と呼ばれています。

 日本版と倫敦版の両蟠龍切手を比べてみると、どうしても、日本版の方が見劣りしてしまうのですが、これは当時の日英両国の国力を考えれば致し方ないことでしょう。とはいえ、開国からわずか半世紀の間に、極東の島国が急激な近代化(=西洋化)を成し遂げて近隣諸国の近代化改革のモデルとなり、隣国の国家郵政創業の際には、切手の製造をも請け負うほどに成長していたことは、もっと多くの人に知られていても良いのではないかと思います。

 なお、築地活版印刷所については、拙著『外国切手に描かれた日本』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 1897年・日本生まれ
2012-12-18 Tue 18:17
 いままで世界最高齢とされてきた米女性・ディナ・マンフレディニさんが、現地時間17日、アイオワ州ジョンストンの高齢者施設で亡くなりました。これにより、誕生日が15日違いで現在115歳の木村次郎右衛門さん(京都府京丹後市)が世界最高齢になりました。いつまでもお元気ていていただきたいものです。というわけで、木村さんと同じ、1897年の“メイド・イン・ジャパン”をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         日本版蟠龍・半分

 これは、1897年8月16日に清朝国家郵政が発行した半分切手で、日本の築地活版印刷所で作られたため、日本版蟠龍票と呼ばれています。

 1897年の国家郵政発足以前の中国の郵便事情は、非常に複雑で、実質的な清朝郵政として機能していた海関にくわえ、政府の公用便を運ぶ駅站、地方の官公署の文書を運ぶ文報局、民間の飛脚に相当する民信(日本の飛脚よりも相当に規模が大きく、シンガポール、マレー、ジャワにまで及ぶ通信網を完備していた業者もあった)、開港地に置かれた列強の郵便局、在住外国人の通信組織である書信館などが、それぞれ、併行して文書の通信を担っていました。

 1895年、日清戦争での敗戦という事態に直面した清朝では、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を樹立しようとする変法の運動が起こり、科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設などの詔勅が次々に発布されました。その一環として、四分五裂状態にあった郵便の統一もはかられるようになり、海関総税務司のロバート・ハートは総理各国衙門を通じて「郵政開辨章程」を上奏。国家郵政発足のための具体的なプランを提案します。

 ハートの上奏案は、1896年3月20日、皇帝の「覧」を得ます。この結果、1897年2月の国家郵政(大清郵政局)の開業へ向けての具体的な動きがスタートし、海関郵政から国家郵政への移行作業が進められました。

 この過程で、郵便料金の基準通貨も、海関時代の銀両から、中国自鋳の銀円(当時、民間では「洋銀」と呼ばれていた)に変更され、新通貨に対応した切手を発行する必要が生じます。

 当初、ハートらは、切手の製造をロンドンのウォータールー・アンド・サン社(Waterlow & Sons Co. Ltd. 中国語では華徳路公司)に発注する予定であったといわれていますが、現実には、ロンドンに切手製造を発注していたのでは、1897年2月の開業までに新切手の到着は、とうてい、間に合いません。このため、応急的な措置として、郵政局は、海関時代の切手に「暫作 洋銀 X分」と加刷した切手を暫定的に発行することとし、上海にあった海関の印刷工場(上海海関造冊處)で加刷作業を行うことで対応しました。これらの切手は、その加刷の文字から、「暫作洋銀加蓋票(加蓋は加刷、票は切手の意)」と呼ばれています。

 こうして、突貫作業が進められた結果、暫作洋銀加蓋票は、国家郵政発足に先駆け、1897年2月2日(光緒23年の元日に相当)から一般に発売されました。

 これと並行して、郵政局は、書信館の切手製造を受注していた実績があり、欧州の印刷所に比べてはるかに地の利がある日本の東京築地活版印刷所(以下、築地活版所)に切手製造を発注します。

 築地活版所は、日本の活版印刷の父と呼ばれる本木昌造の流れを汲む印刷所です。

 本木は、オランダ語の通詞(通訳)として語学のほか諸学に通じた知識人で、幕府直轄の長崎製鉄所の主任・頭取などを歴任し、上海の印刷出版所、美華書館のウィリアム・ガンブルの指導の下、日本語活字の製造に成功しました。ちなみに、現在の日本語活字の主流を占める明朝体は、本木の採用した書体です。

 明治維新後の1869年、本木は長崎製鉄所・頭取の職を辞し、旧士族子弟の教育機関として「新町私塾」を開設。塾の運営費を捻出するために、塾に併設して「長崎新町活版所」を設立しました。翌年には、これを拡張して「長崎活版製造会社」とし、活字の製造ならびに印刷を本格的に開始するとともに、門人を派遣して、大阪(長崎新塾出張大阪活版所、後に大阪活版製造所と改称)、京都(點林堂活版所)、横浜の各地に活版所を開設します。

 もっとも、本木は優れた知識人にして教育者ではあったのですが、経営の才には乏しく事業はすぐに行き詰まってしまいます。このため、門人の平野富二が長崎活版製造会社の経営を引き継ぎました。

 平野は、1877年に石川島平野造船所を設立して現在の石川島播磨重工業の基礎を一代で築いたほどの人物で、本木の期待にたがわず、短期間のうちに長崎活版製造所の経営再建に成功。1871年、本木の門人、小幡正蔵の東京での活字販売が好調なのに目をつけて、翌年以降、本格的に東京での事業展開を開始しました。

 平野は、おりから、大量の布告文書を発していた明治政府に活字を販売したほか、1872年末の太陽暦の採用にともなう新暦5万部の印刷も受注。さらに、新聞・雑誌の創刊ラッシュの中で急激に社業を拡大し、1873年、築地に当時としては東京第一の大工場を建設し、本社機能を移転しました。これが「東京築地活版製造所」の直接のルーツです。

 その後、平野は1883年に築地活版所の上海出張所として、松野直之助を責任者として修文書館を設立します。

 築地活版所の上海進出は、1879年、活字父型を彫刻する熟練の職人を求めて、同社の曲田成が上海に派遣されたのが発端で、後に修文書館は印刷業務一般にも事業を拡大し、1885年には築地活版所から正式に独立。1890年には上海最初の日本語紙「上海新報」(ニュースだけではなく、小説や挿絵も掲載されていた)を創刊しました。ただし、同紙は、翌1891年5月、同紙は日清貿易研究所についての特集記事を掲載したことから、関係筋から圧力を受け、廃刊に追い込まれてしまうのですが…。

 一方、築地活版所の本体は、1884年に印刷部を設置。顧客の印刷業者との競合を避けるため、活字の鋳造と販売を中心としていた体制を転換し、本格的に印刷業にも参入しました。

 築地活版所が経営方針を転換した背景には、佐久間貞一ひきいる秀英舎(現在の大日本印刷)の成功がありました。

 秀英舎は、1876年に設立され、当初は仏教系新聞『明教新誌』の印刷を行っていた。その後、明治初期のベストセラー、スマイルズ著・中村正直訳の『西国立志編』の活版印刷による翻刻版(オリジナルは木版の和装本)の印刷を受注したことから経営を軌道に載せ、1879年からは『東京横浜毎日新聞』の印刷も担当するようになっていました。

 当初、秀英舎は築地活版所から活字を購入していましたが、事業の拡大に伴い、1881年、活字の自家鋳造を開始。翌1882年には活版製造所製文堂を創設し、一般の印刷業者への活字販売を開始して、築地活版所の縄張りに正面から切り込んできます。このため、築地活版所も、活字の製造と印刷を分離するという従来の建前をかなぐり捨てざるをえなくなったのです。

 こうして、築地活版所と秀英舎は、互いに切磋琢磨するかたちで日本の印刷技術をリードしながら急成長を遂げ、その顧客網はアジア諸国にまで広がり、築地活版側は宜昌書信館、鎮江書信館、南京書信館のローカル切手の製造を請け負うことになりました。

 さて、築地活版所の製造した清朝国家郵政の切手は、国家郵政発足から半年後の1897年8月16日に発行されました。

 切手のデザインは、蟠龍(龍が天に昇らず地上にわだかまること)を描くもの、跳ねる鯉を描くもの、飛雁を描くものの3種類がありました。これらの切手は、低額の蟠龍のものにちなんで「日本版蟠龍票」と総称されています。

 なお、日本版蟠龍票の発行から、さらに約5ヶ月が経過した1898年1月28日、日本版蟠龍票とほぼ同じデザインで、ロンドンのウォータールー・アンド・サン社の製造した凹版印刷の切手が発行され、以後、清朝の滅亡まで使用されることになりました。こちらの切手は、日本版と区別して、「倫敦(ロンドン)版蟠龍票」と呼ばれています。

 日本版と倫敦版の両蟠龍切手を比べてみると、どうしても、日本版の方が見劣りしてしまうのですが、これは当時の日英両国の国力を考えれば致し方ないことでしょう。とはいえ、わずか半世紀前、黒船に慌てふためいていた極東の島国が、急激な近代化(=西洋化)を成し遂げて近隣諸国の近代化改革のモデルとなり、隣国の国家郵政創業の際には、切手の製造をも請け負うほどに成長していたことは、記憶に留めておく価値があると思います。


 ★★★ テレビ出演のご案内 ★★★

 ABCテレビ 2012年12月20日(木) 23:17~24:17 「ビーバップ!ハイヒール」

 今回は「年賀状にまつわる物語を紹介! 心に響く年賀状」と題して年賀状の特集で、内藤が『年賀状の戦後史』の著者としてゲスト出演します。ご視聴可能な地域の皆様は、よろしかったら、ぜひ、聞いてやってください。

 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★

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 間にあわなかった切手
2011-10-10 Mon 21:59
 1911年10月10日の辛亥革命からきょうでちょうど100年です。というわけで、ちょっと地味ですが、この切手を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        清朝・不発行欠資

 これは、辛亥革命によって清朝が崩壊したために不発行に終わった不足料切手です。

 近代郵便が料金の前納制を原則としている以上、料金の未納・不足というのは一定の割合で必ず発生します。そうした場合、郵便サービスを提供する側としては、不足分+ペナルティを受取人から徴収しようとするわけですが、そうしたペナルティ込みの料金を徴収するための切手、すなわち不足料切手を発行している国というのは少なからずあります。(日本では発行されたことがありません)

 中国大陸でも、20世紀初頭、郵便物の増加に伴い、料金不足・未納の郵便物も増加したため、清朝は欧米諸国に倣った不足料切手の発行を計画しました。なお、その背景には、当時の清朝国家郵政が自立した独立国の郵政機関とはみなされておらず、UPUに加盟できていなかったため、諸外国と同様の制度を降り入れることで、早く“一人前”と認めてもらおうという意識があったともいわれています。

 不足料切手の発行を決定した清朝は、さっそく、ロンドンのウォータールー・アンド・サン社に切手の製造を発注しましたが、現物が届くまで暫定的な措置として、1904年4月1日、取りあえず、当時の普通切手である蟠龍切手に“POSTAGE DUE/ 欠資”と加刷したモノを発行し、ロンドンから現物が届くと、同年11月10日、今回ご紹介の切手と同図案で青色の不足料切手を発行しました。

 その後、青色の不足料切手の在庫がわずかになると、1910年、清朝は再びウォータールー・アンド・サン社に切手の製造を発注します。ただし、2回目に発注した切手は青色ではなく茶色で、1分と2分の切手が先に到着したので、とりあえず、この2種のみを1911年2月22日に発行しました。

 ところが、残りの半分、4分、5分、2角(20分)の切手は到着が遅れ、中国大陸に届いたときには、すでに辛亥革命で清朝が倒れていました。このため、遅れてきた茶色の不足料切手は、1912年3月以降、“中華民国”の文字を加刷したうえで発行・使用されました。

 さて、昨日、新刊の拙著『ハバロフスク』のご案内をしたばかりなのですが、実は、現在、“年賀状(年賀はがき・切手)”を題材とした新書を制作しております。フツーの新書でしたら、諸般の事情で刊行が予定より1-2ヶ月遅れてもなんとか大目に見てくれるケースが多いのですが、今回は“季節商品”だけに、作業が遅れてタイミングを逃してしまうと、今回ご紹介の切手のように日の目を見ずに終わってしまいかねないので、現在、追い込み作業に必死の毎日です。

 今後、正式なタイトルや定価、ページ数などが決まりましたら、随時、このブログでもご案内してまいりますので、よろしくお願いいたします。 

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 上海租界のノスタルジー
2010-03-29 Mon 13:40
 上海万博を前にリニューアル工事中だった上海のバンド(外灘)の工事が完了し、きのう(28日)から一般に開放されました。というわけで、きょうは、上海の租界を偲ばせるマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      清仏コンビネーション

 これは、清代の1900年1月、上海のフランス局を経て運ばれた清仏コンビネーションの葉書です。

 清朝が国家として郵政事業をスタートさせたのは、1897年2月20日のことでしたが、当時の清朝郵政は万国郵便連合への加盟を認められませんでした。列強に蚕食されていた清朝の郵政は、国際社会からは自立した独立国の行政機関とはみなされなかったためです。

 このため、外国宛の郵便物に関しては、清朝側は全国の主要な郵便局に外国の切手を備え付け、外国宛の郵便物には、料金分の中国切手とは別に、用意した外国切手を貼り、それを開港地の外国郵便局(列強諸国は、中国進出の過程で、主要都市に自国の郵便局を開設し、郵政業務を取り扱う権利を獲得していた)に持ち込んで郵便物の差立を依頼しなければなりませんでした。

 今回ご紹介している葉書は、そうしたスタイルで差し出されたもので、1900年1月6日、揚子江沿岸の都市、鎮江からロンドン宛に差し出されました。清朝郵政のものとしては、1897年8月に発行された額面1分の葉書に、1898年に発行され1分および2分の切手が貼られています。これは、当時の外国宛葉書の料金4分に相当しています。

 一方、葉書の左側にはフランスが中国に設けていた郵便局で使用するために発行した切手(本国切手に中国を意味するChineの文字が加刷されている)が貼られています。

 20世紀初頭、フランスは清朝の領域内のうち、上海、天津、漢口、煙台、北京、厦門、福州、寧波、羅星塔(福州の分局)に郵便局を設置し、郵便活動を行っていました。

 フランス側の切手に押されている消印を見ると、この葉書は、1月8日、上海の租界内にあったフランス郵便局に持ち込まれ、そこからイギリス宛に逓送されたことがわかります。この葉書の宛先地がイギリスであるにもかかわらず、フランスの郵便局を経由して逓送されているのは、おそらく、船便の都合によるもので、それじたいは特に珍しいことではありません。

 その後、清朝は、1902年にはフランスと、1903年には日本と、1904年には香港(イギリス)と、1905年にはドイツと、それぞれ、個別の郵便協定を結び、それぞれの列強が中国に設けていた郵便局を経由しなければならないという制約はあったものの、ようやく自国の切手をそのまま外国郵便にも使える状況を勝ち取ります。そして、それに伴い、コンビネーション・カバーもその役割を終えることになりました。

 とはいえ、中国が万国郵便連合への正式加盟を達成するのは、辛亥革命により中華民国が成立した後の1914年3月1日のことで、清朝国家郵政は自立した郵政機関として国際社会から認知されぬまま消滅してしまいました。

 さて、今回リニューアル工事の終わった上海の外灘地区は、かつて欧米列強の租界地区だった面影を色濃く残すエリアで、写真や映像で見るだけでも、なんとも言えない風情があり、個人的にもいずれは行ってみたいエリアのひとつです。そのときは、一日かけて、かつての外国局の跡をたどってみたいものですな。


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 颱風票
2009-10-08 Thu 11:23
 けさ5時すぎ、台風18号が愛知県の知多半島付近に上陸しました。台風上陸は2年ぶりのことです。というわけで、きょうは台風ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 福州バイセクト

 これは、“颱風票 ”とも呼ばれる福州バイセクトのオンピースです。

 清末の1893年10月、福建省の省都・福州に向けて切手を運搬していた船が台風により沈没します。このため、1分切手の在庫が底をついた福州郵便局では、10月22日から24日までの3日間、2分切手を半分に切って郵便物に貼り、“Postage 1 Cent Paid”の印を押して1分切手の代用としました。

 ある額面の切手が不足したときに、暫定的に、在庫に余裕がある切手を半分に切って使用するバイセクトは、今回ご紹介した清代の中国のみならず、世界各国で行われており、収集家に人気があります。そのため、収集家や切手商などが郵便局に頼んでバイセクトの使用例を作ってもらうということも盛んに行われており、今回ご紹介のものもその一例ではないかと思われます。

 とまれ、台風18号はこれから今夜にかけて北陸、東北と進み、あす(9日)には北海道付近に達する見込みだそうです。東京でも、11時現在、雨は止んで青空が見えていますが、かなりの強風が吹いています。これから台風の通過する地域の皆様は十分お気を付けください。


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 『郵趣』今月の表紙:紅印花小字1円
2009-09-27 Sun 09:36
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』2009年10月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月はこんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 紅印花

 これは、旧水原コレクションの名品として知られる“紅印花小字1円”です。

 1897年以前の清朝の郵便事情は非常に複雑で、実質的な清朝郵政として機能していた海関にくわえ、政府の公用便を運ぶ駅站、地方の官公署の文書を運ぶ文報局、民間の飛脚に相当する民信(日本の飛脚よりも相当に規模が大きく、シンガポール、マレー、ジャワにまで及ぶ通信網を完備していた業者もありました)、開港地に置かれた列強の郵便局、在住外国人の通信組織である書信館などが、それぞれ、併行して文書の通信を担っていました。
 
 1895年、日清戦争での敗北という事態に直面した清朝では、日本の明治維新をモデルとして立憲君主制を樹立しようとする変法の運動が起こり、科挙の改革、近代的な学校の建設、農工商業の振興、新式陸軍の建設などの詔勅が次々に発布されましたが(ただし、これらの改革は、守旧派の抵抗により、ほとんど実現されずに終わります)、その一環として、四分五裂状態にあった郵便の統一もはかられるようになり、海関総税務司のロバート・ハートは総理各国衙門を通じて「郵政開辨章程」を上奏。国家郵政発足のための具体的なプランを提案しました。ハートの上奏案は、1896年3月20日、皇帝の「覧」を得て、1897年2月の国家郵政(大清郵政局)の開業へ向けての具体的な動きがスタートします。

 この過程で、郵便料金の基準通貨も、海関時代の銀両から、中国自鋳の銀円(当時、民間では「洋銀」と呼ばれていた)に変更され、新通貨に対応した切手を発行する必要が生じました。ちなみに、それまで海関郵政が発行していた切手の額面は、銅銭表示(銅銭16枚で1カンダリン、洋銀1ドルは銅銭1000枚)です。

 当初、ハートらは、切手の製造をロンドンのウォータールー・アンド・サン社(Waterlow & Sons Co. Ltd. 中国語では華徳路公司)に発注する予定でしたが、ロンドンに切手製造を発注していたのでは、1897年2月の開業までに新切手の到着は、とうてい、間に合わいません。このため、応急的な措置として、東京の築地活版製作所(書信館切手を製造した実績がありました)に新切手と消印の製造が発注されました。しかし、それでも、国家郵政の開業に間に合わせて切手と消印を納品することは不可能であったため(ちなみに、築地活版製作所がつくった切手が発行されたのは、1897年8月のことです)、郵政局は、海関時代の切手に「暫作 洋銀 X分」と加刷した切手を暫定的に発行することとし、上海にあった海関の印刷工場(上海海関造冊處)で加刷作業を行うことで対応しました。これらの切手は、その加刷の文字から、「暫作洋銀加蓋票(加蓋は加刷、票は切手の意)」と呼ばれています。

 そうした加刷切手の中で、額面3セントの赤色の印紙に加刷したものが“紅印花”です。紅印花には加刷文字の大小のほか、さまざまなバラエティが存在していますが、その中でもずば抜けて少ないのが額面部分の文字が小さな小字加刷のうちの1円切手で、現在確認されている枚数はわずか32枚とされています。今回、ご紹介の切手は、そのなかでも“dollar”の後のピリオドが漏れたユニークな存在です。

 ちなみに、一般に“紅学”というと、中国の長編白話小説『紅楼夢』の専門研究のことを指しますが、フィラテリーの世界では“紅印花”の専門収集・研究のことを意味しており、“小字1円”については1点ずつ番号がふられており、その所蔵歴なども明らかにされています。

 なお、清朝国家郵政の発足と前後して中国大陸でも活動していた築地活版製作所については、拙著『外国切手に描かれた日本』でもまとめてみたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 祈年殿
2006-01-29 Sun 22:59
 さっき帰宅したら、アクセス数が4万を超えていました。次は5万アクセス目指して頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお付き合いください。

 さて、今日(1月29日)は、旧暦の1月1日、春節です。4万アクセス突破と重なり、2重にハッピーな気分です。

 というわけで、試験問題の解説は1日お休みして、春節にふさわしいネタとして、こんな1枚(画像はクリックで拡大されます)を持ってきました。

天壇

 この切手は、1909年、清朝最後の皇帝・溥儀が即位した記念に発行されたもので、北京の天壇・祈年殿が描かれています。

 祈年殿は、天壇でもっとも有名な建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボルというべき存在です。直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇で、明・清の時代には、皇帝が正月に五穀豊穣の祈りを捧げました。現在、北京に残っているのは、いまからちょうど100年前、1906年(偶然ですが、溥儀の生まれた年です)に再建されたもので、オリジナルの祈年殿は、1889年、落雷により一度焼失しています。

 宣統帝即位の記念切手に取り上げられたのも、そうした皇帝の祭祀を象徴するものという意味付けによるわけで、切手の左右には、やはり、皇帝の象徴である龍が描かれています。黄色系統の枠というのも、皇帝のシンボルカラーが黄色であることを意識したものでしょう。

 清朝の時代を暗黒時代と決め付けていた以前の中国では考えられなかったことですが、2002年の春節から、祈年殿前では、伝統的な“祭天”の儀式が復活していますので、いずれ、祈年殿が春節のシンボルとして年賀切手に登場するというようなこともあるかもしれません。

 ところで、現在、秋口を目途に“満州”をテーマにした本を刊行すべく準備を進めています。今日ご紹介している切手についても、当然、溥儀との絡みでその本の中で触れることになると思いますが、今後、このブログでは、仕事のペースメーカーとして、満州ネタにもちょくちょく触れていこうかと考えていますので、よろしくお付き合いください。

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