内藤陽介 Yosuke NAITO
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 尖閣諸島開拓の日
2017-01-14 Sat 15:18
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・尖閣(2012)

 これは、2012年にギニアビサウが発行した“尖閣諸島の風景”の切手で、左から、木白虹、尖閣諸島と五星紅旗(2種連刷)、アホウドリの切手の4種連刷構成となっています。

 さて、わが国は、1885年以降、沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)、1932年、4島は古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となりました。

 古賀家の私有地として、尖閣諸島では、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれることになりました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めました。しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県の一部となりました。

 これに対して、近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返しているほか、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態になっています。

 また、中国側は“釣魚島(尖閣諸島の中国側の呼称)”の領有権を主張するための対外的なプロパガンダ攻勢を強めており、今回ご紹介の切手も、そうした風潮に迎合した北欧系の切手エージェントが、輸出商品として、ギニアビサウ郵政の名前で制作・発行したものです。中央の2枚の五星紅旗と尖閣の島影だけでなく、左端の木白虹には学名の“Crossostephium chinense”も記載されています。木白虹は、わが国の鹿児島県、トカラ列島以南(尖閣諸島も含む)から台湾、フィリピン、中国南部の海岸の隆起珊瑚礁に分布しており、決して、中国に固有の植物ではないのですが、あえて、“中国”を意味する学名の入った植物を持ってくることで、尖閣諸島が中国の領土であるかのようなイメージを強調しているわけです。

 ギニアビサウに限らず、一部の途上国にとって、切手の発行は外貨獲得のための輸出ビジネスの一つとなっています。国内での郵便への使用を想定せず、輸出ビジネスの一環として発行される切手は、収集家の間では“いかがわしい切手”として忌避される傾向にありますが、そうした切手を発行する側からすれば、“いかがわしい切手”であろうがなかろうが、よりマーケットで人気を得られるようなもの、すなわち、より多くの売り上げが見込めるものこそが適切であるということになります。“いかがわしい切手”を発行する国(正確にはそうした切手に発行者としての名義を貸す国)や、そうした切手を企画するエージェントにとっては、どれほど立派な主義主張や思想信条、愛国心などを掲げてみても、“商品”としてその切手が売れないのであれば、全く意味がないわけです。

 したがって、ギニアビサウと切手エージェントが、“日本領・尖閣諸島”の切手ではなく、“中国領・釣魚島”の切手を制作・発行したのは、彼らにしてみれば、単純に、日中の切手マーケットの規模の大小を反映したものであり、悔しかったら、“日本領・尖閣諸島”の切手がドル箱商品になるような市場を用意しろということになるのでしょう。

 しかし、そうした“市場原理”は否定できないにせよ、こうした切手がギニアビサウ国家の名前で発行されたという事実について、2012年の切手発行当時、日本政府がギニアビサウ政府に対して抗議しなかったとすれば(実際には、外務省はしかるべきアクションを起こしているのかもしれませんが、報道ベースでは、そうした事実は一切確認できませんでした)、国際社会からは、日本は中国の(理不尽な)主張を黙認していると取られかねないわけで、そのことの方が深刻な問題だと僕は考えています。

 なお、領土と切手をめぐる関係、そして、そうした問題に対する日本政府の対応の拙さについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 世界の国々:ギニアビサウ
2016-12-27 Tue 09:38
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年12月21日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はギニアビサウの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・ボラマ島の女性

 これは、ポルトガル領ギニア時代の1948年に発行された、先住民の女性を描く切手です。ポルトガル領ギニアでは、1948年に現地の風俗などを題材とした普通切手のセットを発行していますが、その中でも、この切手は個人的にお気に入りの1枚なので、持ってきてみました。

 西アフリカにおけるポルトガルの植民地は、1444年、ポルトガル人のディアゴ・ディアスがアフリカ大陸西端のヴェルデ岬(カーボヴェルデ)から500kmほど沖合の島々を“発見”したことに始まり、その後、西アフリカの沿岸部にも拡大します。それらは一括して“ポルトガル領カーボヴェルデ”と呼ばれていました。

 その首府は、1558-1697年は大陸のカシェウに置かれていましたが、その後、1770年まではサンティアゴ島のリベイラ・グランデ(現シダーデ・ヴェーリャ)が、1879年までは同島のブライアが首府となっていたことが示すように、あくまでも、植民地経営の中心は大西洋上の島々にありました。

 ところで、1659年、セネガル川河口の中洲にサン・ルイ商館を建設して以来、フランスは西アフリカのセネガンビア地域(現在のセネガルおよびガンビア国家に相当する領域)に進出します。

 これに対して、1792年、英国はフランスの西アフリカ権益に打撃を与えるべく、ジェバ川およびグランデ川の河口沖合に位置するビジャゴ諸島のボラマ島に上陸したものの、定住には至りませんでした。その後も、1794年と1814年に英国人はボラマ島に上陸し、定住の拠点を築こうとして失敗しています。

 これに対して、アフリカ大陸側のビサウやカシェウを大西洋貿易の拠点としていたポルトガルは英国の進出に危機感を抱き、1830年、ボラマ島の領有を宣言。しかし、英国はこれを認めず、ポルトガルとの間で領有権争いが発生します。

 さらに、1860年、英国はボラマ島の英領シエラレオネへの併合を宣言したため、ポルトガルがこれに猛抗議し、軍事衝突の危険が高まりました。そこで、1870年、アメリカ大統領、ユリシーズ・グラントが仲裁に乗り出し、ボラマ島をポルトガル領とすることが正式に確定します。

 一連のイギリスとの対立を通じて、アフリカ大陸西岸の植民地防衛に不安を感じたポルトガルは、1879年、従来の“ポルトガル領カーボヴェルデ(現在のカーボヴェルデとギニアビサウをあわせた領域に相当)”からアフリカ大陸部分とその沿岸のビジャゴ諸島を分離して、“ポルトガル領ギニア”(現在のギニアビサウに相当する部分)を創設しました。

 ポルトガル領ギニアの最大都市はビサウでしたが、ポルトガルは、ボラマ島が自国領であることを示すため、あえて、ビサウではなく、ボラマをポルトガル領ギニアの首府としています。

 以後、ポルトガル当局は道路や港湾施設、金融機関など、ボラマのインフラ整備を進めるとともに、ここを拠点に、ビジャゴ諸島の他の島々でポルトガルの支配に抵抗していた先住民の鎮定を進め、1936年までかかって、同諸島に対するポルトガルの領有権を確定していきました。

 もっとも、ボラマ島内には淡水の水源がなく、ビサウから飲料水などを輸送する必要があり、島内での生活は非常に不便でした。そこで、ビジャゴ諸島の領有権が他国から侵される可能性がほぼなくなったことを確認したうえで、1941年、ポルトガル領ギニアの首府は、経済的な中心地のビサウに移されます。このことが、ポルトガル領ギニアが独立に際して、新国家の国名が“ギニアビサウ”となる要因となりました。

 さて、『世界の切手コレクション』12月21日号の「世界の国々」では、かつてポルトガル領ギアナの首都であったボラマ(島)についての長文コラムに加え、ビサウ教会、伝統的な織物のパノ、マングローブ林、ニシアフリカコビトワニの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、 「世界の国々」の僕の担当回ですが、今回のギニアビサウの次は、24日に発売された2017年1月4日号でのチャドの特集(2回目)になります。こちらについては、発行日の1月4日以降、このブログでもご紹介する予定です。
 

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 世界の国々:ギニアビサウ
2015-01-14 Wed 11:06
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年1月14日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は西アフリカのギニアビサウを取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ギニアビサウ・独立

 これは、独立後のギニアビサウとして発行された最初の切手で、アミルカル・カブラルの肖像と彼の生年月日と忌日、ギニアビサウの地図、PAIGCの旗、独立記念日などが盛り込まれたデザインとなっています。

 ポルトガル領ギニアの独立運動は、中部バファタ出身のアミルカル・カブラルが、1945年、リスボンの農業経営学院(現リスボン工科大学)在学中の1945年、アンゴラ出身の医学生アゴスティーニョ・ネト(後にアンゴラ初代大統領)に出会ったことから始まりました。

 1952年、ポルトガル領ギニアに戻ったカブラルは、1954年、独立運動を行ったかどで一時アンゴラに追放されましたが、1956年9月、独立運動団体としてギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を、さらに、同年12月、ネトとともにアンゴラ解放人民運動(MPLA)を設立。ポルトガルの平和的な撤退を求める穏健な独立運動を展開していました。

 しかし、1959年8月3日のピンジギチ虐殺事件(ポルトガル軍がビサウの港湾労働者のストライキを武力で弾圧した事件)を機に、PAIGCは農村を根拠地とした武装闘争路線に転換します。

 1962年、PAIGCはカーボヴェルデの首府プライアを攻撃したものの失敗。以後、ゲリラ活動は大陸のギニア側が中心となり、1963年1月、ポルトガルに宣戦を布告したPAIGCがチーテのポルトガル軍基地を攻撃して、ギニアビサウ独立戦争が勃発しました。

 PAIGCは東側諸国等の支援を得て1967年までにポルトガル領ギニアの3分の2を解放。一方、ポルトガル側はナパーム弾と枯葉剤でPAIGCの拠点を攻撃したほか、1973年には秘密警察を用いてカブラルを暗殺しました。

 しかし、PAIGCは屈せず、同年9月24日、ギニアビサウ独立を宣言。11月の国連総会ではポルトガルの不当な暴力と占有が弾劾され、独立が承認されます。1974年9月10日にはポルトガルも独立を正式に承認し、11年間の独立戦争はポルトガル1875人、PAIGC約6000人の死者を出し終結しました。

 なお、ギニアビサウ独立後、PAIGCはギニアビサウとカーボヴェルデにおける唯一の合法的政党として、両者の統一を目指しましたが、1980年の軍事クーデターにより、カーボヴェルデ出身のルイス・カブラル大統領(アミルカルの弟)が失脚。統一は白紙となり、現在に至っています。

 さて、『世界の切手コレクション』1月14日号の「世界の国々」では、独立までのギニアビサウア近現代史の概説のほか、ポルトガル時代の城塞や民族色豊かなカーニヴァル、米国との意外な関係を示す切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の1月21日号では、「世界の国々」はポーランドを特集していますが、こちらについては、来週水曜日に、このブログでもご紹介する予定です。 

 
 ★★★ イベント「みんなで絵手紙」(2月8日)のご案内 ★★★

      狛江絵手紙チラシ・表     狛江絵手紙チラシ・裏

 2月8日(日) 10:00-17:00に東京・狛江のエコルマホールにて開催のイベント「みんなで絵手紙 見て、知って、書いて、楽しもう」のトークイベントに内藤陽介が登場します。内藤の出番は13:30-14:15。「切手と絵・手紙」と題してお話しする予定です。是非、遊びに来てください。主宰者サイトはこちら。画像をクリックしていただくと、チラシの拡大画像がごらんになれます。


 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 

       ミズーリの消印

 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。

 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。

 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) 

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は2月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 ギニアビサウ
2009-03-03 Tue 20:42
 アフリカ西部のギニアビサウでは、今月1日に大統領と対立していた軍司令官が爆殺されたばかりですが、きのう(2日)はその報復とみられるテロが発生し、国軍兵士がヴィエイラ大統領を殺害したそうです。なんだか大変なことになっていますが、とりあえず、ギニアビサウってどんな国?ということでこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ポルトガル領ギニア(1898)

 これは、現在のギニアビサウがポルトガル領だった1898年に発行された切手で、ポルトガル植民地共通のデザインに、発行地名の“ギニア”と額面の200を別途、刷りこんだ形式になっています。

 現在のギニアビサウの一帯は、1446年 ポルトガルが領有を宣言し、1630年に総督府が設置されました。当初、この地域はカーボヴェルデ植民地の一部とされていましたが、1879年に分離さて、“ポルトガル領ギニア”となり、1881年には最初の切手も発行されました。

 第二次大戦後、ポルトガルの植民地でも独立運動が盛んになりましたが、ポルトガル領ギニアとカーボヴェルデでは、1956年以降、アミルカル・カブラルが指導するクレオールのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)の活動が本格化。東西冷戦という国際状況の下で、ソ連やキューバの支援を受けたPAIGCと、アメリカの支援を受けたポルトガル軍事政権の間で植民地戦争が続きます。

 1973年9月24日 領土の大部分を押さえたPAIGCは、東部の町マディナ・ド・ボエでギニアビサウ独立共和国の独立を宣言。翌1974年4月25日 ポルトガル本国の革命で左派政権が誕生すると、同年9月、ギニアビサウの正式独立が承認されました。

 今回暗殺されたジョアン・ヴィエイラはPAIGCのメンバーとして独立戦争を戦ったゲリラ戦の闘士で、1980年の軍事クーデターによって実権を掌握。1990年には複数政党制民主主義への移行を表明し、1994年の建国後初の複数政党制選挙で大統領に当選しました。選挙は一応、公正なものでしたが、それだけに、反ヴィエイラ陣営の力も強く、国内の政治情勢は不安定な状況が続き、1998年にはクーデターをきっかけに内戦が勃発。翌1999年にはヴィエイラ本人もポルトガルへの亡命を余儀なくされました。

 その後も政情不安が続いていましたが、2005年4月、ヴィエイラはギニアビサウに帰国し、同年の大統領選挙で返り咲き当選を果たします。しかし、2008年 11月、議会選挙で多数派与党が勝利したことに不満を持つ軍の一部が大統領官邸を襲撃。このとき、反乱軍は撃退され、大統領警護隊が組織されましたが、軍に対する大統領の影響力拡大をきらった参謀総長のバティステ・タグメ・ナワイは2009年1月に警護隊の解散を命じるなど、軍と大統領の対立が激化していました。参謀総長と大統領が相次いで暗殺されるという今回の事件は、こうした背景のもとで起こったわけです。

 ギニアビサウというと、切手収集家の間では、自国では使用できるのかどうかよくわからない“いかがわしい切手”を濫発する国というイメージがあるのですが、まさか、こんな形でニュースに登場するとは思っても見ませんでした。こうなると、人情としては内戦時の国内便の実逓カバーなんかがほしくなるのですが、やっぱり、入手は難しいのでしょうねぇ。


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