内藤陽介 Yosuke NAITO
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 伊藤忠、米ドールの事業買収
2012-09-19 Wed 18:02
 伊藤忠商事は、きのう(18日)、米食品大手ドール・フード・カンパニーの缶詰や飲料などの事業(ドール社が欧米やアジアなど約90ヵ国・地域で展開する缶詰などの加工食品事業と、アジアでバナナやパイナップルを生産・販売する青果物事業)を16億8500万ドル(約1330億円)で買収することを正式に決めた、と発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       サンフォード・ドール

 これは、1894年にハワイ共和国で発行された切手で、当時の同国大統領、サンフォード・ドールの肖像が取り上げられています。

 サンフォード・ドールは、1844年、アメリカ人宣教師の子としてオアフ島ホノルルで生まれました。今回、話題となった食品会社のドールを創業したジョージ・ドールはサンフォードの従妹で、マサチューセッツ州の出身。サンフォード一家を追ってハワイにわたってきたという来歴の持ち主です。

 1820年代以降、ハワイでは白人(その中心はアメリカ人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。白人たちが上陸するようになると、ハワイには外来の疫病が蔓延し、ネイティヴ・ハワイアンの人口は激減。あわせて、アメリカ人によるプランテーション経営の規模は拡大の一途をたどり、ハワイにおけるアメリカのプレゼンスはますます増大していくことになります。

 こうした状況の中で、近代化の推進に伴うハワイ人の民族意識の高まりを背景に、ハワイ人による王制の強化を求める王制派と、ドールらアメリカ人資本家を中心に、王制を打倒しアメリカへの併合をめざす共和派の対立が深刻化。ドールら共和派はハワイ連盟を組織し、1887年、クーデタを敢行。白人市民たちからなる民兵部隊ホノルル・ライフル連隊の後ろ盾を得て、国王カラカウアに新憲法への署名を強要します。この新憲法は、国王の権限を大幅に制限して議会へ委譲するものでしたが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、実質的に、ハワイ人とアジア系移民の参政権を排除するものとなっていました。

 1891年、失意の中でカラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、後継女王として即位した妹のリリウオカラニは共和派との対決姿勢を強め、1893年1月14日、国王の権限強化を盛り込んだ憲法草案を閣議に提出します。これに対して、アメリカ公使のスティーヴンスは社会不安を理由に、1月16日、アメリカ海兵隊の“応援”を要請。海兵隊はイオラニ宮殿を包囲し、翌17日には共和派が政府庁舎を占拠し、王政廃止と“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の樹立を宣言。サンフォード・ドールが大統領に就任しました。これが、いわゆるハワイ革命です。

 共和派のクーデタによって臨時政府が発足したことに対して、当初、アメリカ政府は現地のアメリカ系財閥の暴走を苦々しく見ており、“革命”を不法なものとして、ハワイ併合を拒否。スティーブンス公使を更迭し、調査団を派遣しました。このため、臨時政府側は、1894年7月4日(アメリカ独立記念日)、ハワイ共和国の独立を宣言。サンフォードが引き続き大統領となります。

 その後、1895年1月、王制派は反共和制の反乱を起こすものの失敗。リリウオカラニは逮捕され、女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は完全に滅亡しました。

 さて、今回、ドールの事業を買収した伊藤忠といえば、先ごろ、丹羽宇一郎・前中国大使がかつて社長・会長を務めていた会社ですな。前大使は、かつて、「将来は大中華圏の時代が到来します」、「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」、「それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」と発言したことがあり、外国人移民の受け入れにも積極的という人物ですから、まぁ、日本もハワイ王国の先例に倣うことが良いと考えているのでしょう。彼が現在なお、そうした主義主張を維持しているのかどうかは定かではありませんが、後輩経営者陣が買収したドール社の歴史をどう思っているのか、ご意見を聞いてみたいものです。


 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 10月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

 T-moneyで歩くソウル歴史散歩 
・よみうりカルチャー荻窪
 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 * 10月2日は公開講座として、お試し聴講も可能です。
 
・よみうりカルチャー北千住
 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00


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 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち
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 ハワイアンズ全面営業再開
2012-02-08 Wed 12:11
 福島県いわき市常磐藤原町のスパリゾートハワイアンズが、きょう(8日)、全館の営業を再開しました。東日本大震災の影響による約半年間の休館を経て、昨年10月1日から部分営業が行われてきましたが、全面的な営業再開は、震災から約11ヶ月ぶりになります。というわけで、ハワイアンズの皆さんに敬意を表して、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        リリウオカラニ

 これは、1891年にハワイ王国で発行された2セント切手で、同国最後の女王で、ハワイアン音楽の名曲「アロハ・オエ」の作者であるリリウオカラニの肖像が描かれています。

 リリウオカラニは、1838年9月2日、ホノルルでハワイ王族のカラカウア家に生まれ、1860年、米国出身の白人で、後にオアフ島知事となるドミニスと結婚します。

 1873年、カメハメハ5世が崩御し、統一ハワイ王国の創始者・カメハメハ1世の直系が断絶。このため、王位はカメハメハ1世の異母兄弟カライママフの孫であったルナリロが継承しましたが、ルナリロも翌1874年に崩御。このため、リリウオカラニの兄であったカラカウアがハワイ国王として即位し、彼女は女性として初のハワイ王位継承者となりました。

 1887年、リリウオカラニはイギリスのヴィクトリアの在位50周年祝典に招待され、王妃のカピオラニと共に国王の名代として渡英しました。しかし、彼女たちの不在中、いわゆる共和派(プランテーション経営のアメリカ人資本家を中心に、王制を打倒しアメリカへの併合をめざすグループ)のクーデターが発生。国王に新憲法への署名を強要します。この新憲法は、国王の権限を大幅に制限して議会へ委譲するものでしたが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、実質的に、ハワイ人とアジア系移民の参政権を排除するものとなっていました。

 1891年、失意の中でカラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、後継女王として即位したリリウオカラニは共和派との対決姿勢を強め、1893年1月14日、国王の権限強化を盛り込んだ憲法草案を閣議に提出します。これに対して、アメリカ公使のスティーヴンスは社会不安を理由に、1月16日、アメリカ海兵隊の“応援”を要請。海兵隊はイオラニ宮殿を包囲し、翌17日には共和派が政府庁舎を占拠し、王政廃止と“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の樹立を宣言しました。これが、いわゆるハワイ革命です。

 共和派のクーデタによって臨時政府が発足したことに対して、当初、アメリカ政府は現地のアメリカ系財閥の暴走を苦々しく見ており、“革命”を不法なものとして、ハワイ併合を拒否。スティーブンス公使を更迭し、調査団を派遣しました。このため、臨時政府側は、1894年7月4日(アメリカ独立記念日)、ハワイ共和国の独立を宣言しました。

 その後、1895年1月、王制派は反共和制の反乱を起こすものの失敗。リリウオカラニは逮捕され、女王廃位の署名を強制されてハワイ王国は完全に滅亡します。さらに、米西戦争の勃発に伴い、ハワイがフィリピンへの中継基地としての役割を担うようになると、1898年8月、アメリカはハワイの領有を宣言。1900年にはハワイを準州として正式な属領に編入し、米領としてのハワイの歴史が始まることになります。

 さて、今回ご紹介の切手のリリウオカラニが作った「アロハ・オエ」、1878年、若き王女であったリリウオカラニが、オアフ島北部のマウナヴィリで、ある少女と軍人との別れの光景を目にして書いた詞であるとされていますが、歌詞の中に「去っていく前に もう一度あなたを抱きしめよう また会えるその時まで」、「愛する人よ 我が愛しき人よ 真心は決して引き裂くことはできない」とのフレーズがあることから、亡国の悲しみを歌った女王の歌と解釈されることも多いようです。

 いずれにせよ、一概に比定することはできないとはいえ、防衛予算はどんどん削減したうえで、移民をどんどん受け入れて、外国人にも(地方)参政権を与えようと主張する人たちには、ぜひとも、ハワイ王国の先例を学んでいただかないと困りますな。


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 アヘンのけし印
2010-05-27 Thu 12:24
 アヘンの原料となる不正なケシ約400株が、今月上旬に都内や神奈川県内などの生花店で販売されていたことがわかりました。ケシ属の花には、園芸用のものと、アヘンの原料になるため栽培が禁止されているものがありますが、今回のものについて、県職員は栽培農家に「栽培してもいい種類だ」と説明していたそうです。というわけで、アヘンがらみのこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハワイ・アヘン消し

 これは、1883年に当時のハワイ王国が発行した1ドル切手ですが、郵便使用ではなく、アヘン貿易の印紙として使われたものです。

 郵便切手と収入印紙が兼用という例は諸外国ではまま見られますが、ハワイ王国の場合、1ドル切手はアヘン貿易の際の関税支払いにも用いられています。その場合、通常の郵便印ではなく、ここにご紹介しているようなマルタ十字の専用消印(大きさや印色にバラエティがあります)が押されるか、税関担当者のサインで印面が抹消されるため、郵便使用のモノとは簡単に区別できます。

 1820年代以降、ハワイでは白人(その中心はアメリカ人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からはサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。

 しかし、白人たちが上陸するようになると、ハワイには外来の疫病が蔓延し、ハワイの人口は激減。15~25万人いたとされるハワイ人は一挙に4万人にまで減少してしまいます。その一方で、白人によるプランテーション経営の規模は拡大していったため、労働力の不足を補うため、1852年以降、中国人労働者が移民としてやってくることになります。

 当時、中国大陸ではアヘン吸引の習慣が蔓延していましたが、ハワイにわたった中国人移民はハワイにアヘンを持ち込みました。このため、ハワイ政府は輸入アヘンに課税することになり、今回ご紹介したようなマテリアルが生まれたというわけです。

 なお、かつてのハワイ王国は、曲がりなりにも憲法と議会を備えた近代国家の体裁を整えていましたが、移民の急増によりネイティヴ・ハワイアンの社会的なプレゼンスが低下。議会は外国人(アメリカ人)に牛耳られ、軍事的に弱体であったことから、アメリカ人の起こした“革命”によって滅亡に追い込まれています。一概に比定することはできないとはいえ、防衛予算はどんどん削減したうえで、移民をどんどん受け入れて、外国人にも(地方)参政権を与えようと主張する人たちには、ぜひとも、ハワイ王国の先例を学んでいただかないと困りますな。


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      捕鯨浪漫主義  

 捕鯨は日本だけの特殊な文化・伝統なのか。否、そんなことは断じてない。むしろ、歴史的に見れば、欧米社会こそ、捕鯨を題材とした文学・演劇・音楽・絵画などさまざまな文化を残してきたではないか。 陸の西部劇と海の捕鯨は、カッコいい荒くれ男たちの物語の双璧である。知力・体力の限りを尽くし、命の危険を顧みずに大自然の中で奮闘する男たちの姿を見て、単純素朴に美しいと感じる人も多いはずだ。 

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 ハワイ切手のバッグ
2010-01-10 Sun 21:08
 きょう(10日)は、東京・池袋の桐杏学園で行われた切手市場で、拙著『昭和終焉の時代』行商即売・サイン会を行ってきました。大勢の方にお集まりいただき、また、予想以上に売り上げも上がり、あらためてお礼申し上げます。

 さて、僕は普段、著書の行商即売・サイン会に出かける場合、和装で行くことが多いのですが、今回はカジュアルな洋装で行きました。昨年末に入手した下の画像の鞄を持って行きたかったからです。

      レスポートサック(ハワイ)

 これは、カラフルなナイロン鞄で知られるアメリカのブランド、レスポートサックのショルダーバッグ(ハワイ限定商品だと都内のディスカウントショップの店員は言っていましたが、真偽のほどは定かではありません)で、ハワイを題材とした切手柄がちりばめられています。レスポートサックといえば、女性に人気のあるブランドですので、スーツ姿の男が持ち歩くのは抵抗があるのですが、このかばんの場合、茶系のカジュアルな格好なら、まぁ許容範囲かなと思ったわけです。で、鞄にプリントされている“切手”の大半は架空のものですが、なかには、実際の切手を取り上げたモノもありました。その部分と、オリジナルの切手の画像をお見せしましょう。

      レスポートサック(ハワイ・部分)     ハワイ・紋章1セント

 画像右の切手は、1894年に“ハワイ共和国“が発行した1セント切手です。

 1820年代以降、ハワイでは白人(その中心はアメリカ人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。白人たちが上陸するようになると、ハワイには外来の疫病が蔓延し、ネイティヴ・ハワイアンの人口は激減。あわせて、アメリカ人によるプランテーション経営の規模は拡大の一途をたどり、ハワイにおけるアメリカのプレゼンスはますます増大していくことになります。

 こうした状況の中で、近代化の推進に伴うハワイ人の民族意識の高まりを背景に、ハワイ人による王制の強化を求める王制派と、アメリカ人資本家を中心に、王制を打倒しアメリカへの併合をめざす共和派の対立が深刻化。1887年、共和派はクーデタを敢行し、国王カラカウアに新憲法への署名を強要します。この新憲法は、国王の権限を大幅に制限して議会へ委譲するものでしたが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、実質的に、ハワイ人とアジア系移民の参政権を排除するものとなっていました。

 1891年、失意の中でカラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、後継女王として即位した妹のリリウオカラニは共和派との対決姿勢を強め、1893年1月14日、国王の権限強化を盛り込んだ憲法草案を閣議に提出します。これに対して、アメリカ公使のスティーヴンスは社会不安を理由に、1月16日、アメリカ海兵隊の“応援”を要請。海兵隊はイオラニ宮殿を包囲し、翌17日には共和派が政府庁舎を占拠し、王政廃止と“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の樹立を宣言しました。これが、いわゆるハワイ革命です。

 共和派のクーデタによって臨時政府が発足したことに対して、当初、アメリカ政府は現地のアメリカ系財閥の暴走を苦々しく見ており、“革命”を不法なものとして、ハワイ併合を拒否。スティーブンス公使を更迭し、調査団を派遣しました。このため、臨時政府側は、1894年7月4日(アメリカ独立記念日)、ハワイ共和国の独立を宣言しました。

 今回、ご紹介の切手はそのハワイ共和国の切手の1枚で、共和国の国章が取り上げられています。国章のデザインが星条旗を意識して作られていることは明らかで、アメリカ本国への統合を求める共和国首脳部の意識がうかがえます。

 その後、1895年1月、王制派は反共和制の反乱を起こすものの失敗。リリウオカラニは逮捕され、女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は完全に滅亡しました。

 このハワイ王国の事例を思い起こすたびに、現在の民主党政権が導入を目指そうとしている外国人の地方参政権に対して大いに不安を感じるのは僕だけではないはずです。まぁ、この問題については、今後もこのブログで取り上げる機会があると思いますので、きょうのところはこのくらいで。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 1月15~17日(金~日) 第1回“テーマティク出品者の会”切手展
 於・切手の博物館3階(東京・目白)
 僕も、「マシュリク近現代史」と題して、スエズ以東のアラブ世界の近現代史をたどるコレクションを出品する予定です。詳細はこちらをご覧ください。


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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 * おかげさまで大変ご好評をいただいており、ネット書店でも在庫切れの場合が多く、皆様にご迷惑をおかけしております。9日19:00の時点で、上記ネット書店のうち紀伊国屋書店BookWebには在庫がございますが(ただし僅少です)、その他では品切れの模様です。問題の解決は連休明けになりそうですが、いましばらく、ご容赦ください。
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 ハワイ州50年
2009-08-21 Fri 16:34
 1959年8月21日にハワイがそれまでの準州から昇格してアメリカ合衆国の正式な州になってから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ハワイ暫定加刷

 これは、1893年に発行された“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の切手です。

 1795年以降、ハワイ王朝(カメハメハ王朝)の支配下にあったハワイには、1820年代以降、白人(その中心はアメリカ人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。

 こうして、白人たちが上陸するようになると、ハワイには外来の疫病が蔓延し、ハワイの人口は激減。15~25万人いたとされるハワイ人は一挙に4万人にまで減少する。あわせて、アメリカ人(白人)によるプランテーション経営の規模は拡大の一途をたどり、ハワイにおけるアメリカのプレゼンスはますます増大していくことになります。

 そして、1876年のアメリカ・ハワイ互恵条約により、アメリカはオアフ島の真珠湾を軍事目的で利用する権利を獲得し、ハワイの軍事基地化を開始。その代償として、ハワイ産の砂糖は無関税でアメリカに輸出できるようになり、アメリカ人の経営するハワイの砂糖産業は急激に発展を遂げることになります。

 こうした状況の下、近代化の推進に伴うハワイ人の民族意識の高まりを背景に、ハワイ人による王制の強化を求める王制派と、アメリカ人資本家を中心に、王制を打倒しアメリカへの併合をめざす共和派の対立が深刻化。1887年、共和派はクーデタを敢行し、国王カラカウアに新憲法への署名を強要します。この新憲法は、国王の権限を大幅に制限して議会へ委譲するものでしたが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、実質的に、ハワイ人とアジア系移民の参政権を排除するものでしかありませんでした。

 1891年に即位した女王、リリウオカラニは共和派との対決姿勢を強め、1893年1月14日、国王の権限強化を盛り込んだ憲法草案を閣議に提出しました。これに対して、1月16日、アメリカ公使スティーブンスの要請により、アメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲。翌17日には共和派が政府庁舎を占拠し、王政廃止と“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の樹立を宣言するという事件が発生しました。これが、いわゆるハワイ革命です。

 共和派のクーデタによって臨時政府が発足したことに対して、アメリカ政府は現地のアメリカ系財閥の暴走を苦々しく見ており、“革命”を不法なものとして、ハワイ併合を拒否。このため、臨時政府側は、1894年7月4日(アメリカ独立記念日)、ハワイ共和国の独立を宣言します。

 着々と体制を固めていく共和派に対して、1895年1月、王制派は反乱を起こしましたが、反乱はほどなくして鎮圧され、リリウオカラニも首謀者の容疑で逮捕されてしまいます。彼女は、イオラニ宮殿に幽閉され、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、女王廃位の署名を強制され、ここに、ハワイ王国は完全に滅亡しました。

 その後、米西戦争の勃発に伴い、ハワイがフィリピンへの中継基地としての役割を担うようになると、1898年8月、アメリカはハワイの領有を宣言。1900年にはハワイを準州として正式な属領に編入し、米領としてのハワイの歴史が始まるのです。


 「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>のご案内

 9月4日(金)午後2時より、東京・丸の内の三井住友銀行丸ノ内クラブにて、タイ王国大使館、財団法人日本タイ協会、日本タイクラブの主催、日本経済新聞社 日メコン交流年2009事業の後援により、「タイ」フォーラム<タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>が開催されます。『タイ三都周郵記』の著者・内藤陽介も、学習院大学の川嶋辰彦先生(紀子妃殿下のお父上です)やタレントのいとうまい子さんとともに、パネラーとして登場する予定です。

 入場は無料ですが、会場スペースの都合から、ご参加いただけるのは先着100名様(要・事前申込)となっております。イベントの詳細や、お申し込み方法などは、主催者特設HPをご覧ください。

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 捕鯨船からの手紙
2006-10-24 Tue 00:49
 アイスランドが商業捕鯨を再開して、ナガスクジラ1頭を捕獲したのだそうです。僕は、鯨肉に対して特別な思い入れがあるわけではないのですが、いわゆる捕鯨反対運動の活動家たちに対しては生理的な嫌悪感を感じていますので、「アイスランドよ、良くやった! 日本もこれに続け!」と言う気分です。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ブラガンザ号のカバー

 これは、1841年4月25日、ハワイに停泊していた捕鯨船ブラガンザ(BRAGANZA)号の船員が差し出したエンタイアです。ハワイから差し出された後、太平洋航路の船に託されて(カバー中央には、少し見にくいがSHIPの印がおされています)、5月26日、当時世界最大の捕鯨基地だったニュー・ベッドフォードに到着。そこから、宛先地のマサチューセッツ州ローウェルに届けられました。

 当時は、まだアメリカ本国でも最初の切手が発行されていない時代だから、当然のことながら、この郵便物にも切手は貼られていません。また、便箋に手紙を書いて封筒に入れるというスタイルではなく、厚手の紙に手紙の本文を書いて、それを折りたたんで表面に宛名を書くというフォールデッド・レターのスタイルが取られています。

 手紙の文章を要約すると、①差出人は、サンドウィッチ諸島のオアフ(差出人のスペルはOahuではなく、Waohooとなっている)から手紙を書いている、②彼の乗っている船は4500バレルの鯨油を積むことができる、③航海はあと2年ほど続くが、行く先々で珍しいものを目にし、土産物、土産話を持ち帰るだろう、④ハワイの後、差出人の船は太平洋を北上してアラスカまで行き、鯨油を限界まで積んで帰還するであろう、との内容になっています。

 差出人の乗っていた捕鯨船ブラガンザ号は1840年12月にニュー・ベッドフォードを出港し、1843年2月、マッコウクジラの鯨油400バレル、通常の鯨油3600バレル等を積んで帰港しました。

 ちなみに、日本人にもなじみの深いジョン万次郎が遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてハワイに上陸したのが1841年。その後、万次郎が船長のホットフィールドに見込まれて、アメリカでの教育を受けるべくニュー・ベッドフォードに連れてこられたのが、1843年でしたから、ブラガンザ号と似たような航海スケジュールです。当時の捕鯨船の航海としては、それが一般的なルートと所要日数だったとみてよいでしょう。

 現在でこそ捕鯨反対の急先鋒となっているアメリカですが、19世紀の段階では世界最大の捕鯨国でした。そもそも、ペリーが日本に開港を迫ったのも、アメリカ側に、捕鯨のための寄港地を確保するという意図があったためだったことは広く知られています。今回ご紹介しているマテリアルは、まさに、そうした19世紀の捕鯨大国であったアメリカの一面を記録したものにほかなりません。

 なお、鯨を求めて太平洋に乗り出したアメリカの白人たちは、その後、ハワイ、フィリピンへと影響力を拡大していくわけですが、そうしたプロセスについては拙著『反米の世界史』でもまとめてみました。ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください)
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