内藤陽介 Yosuke NAITO
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 台湾・和平紀念日
2017-02-28 Tue 13:17
 きょう(28日)は、1947年2月28日の“二・二八事件”にちなんで、台湾では“和平紀念日”の祝日です。ことしは、事件から70周年の節目の年でもありますので、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・228事件30周年(10分)

 これは、1977年に中国(大陸の中共政権)が発行した「台湾省人民“二・二八”蜂起30周年」の記念切手の1枚で、五星紅旗を手に持ち、北京・天安門前の「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)!」のスローガンに呼応する台湾の人々が描かれています。この切手が発行された当時、台湾は国府による戒厳令下にあり、二・二八事件はタブー視されていましたので、中共側が発行したこの切手が、事件を取り上げた切手としては最初の1枚となりました。

 さて、日本の敗戦後、台湾を接収した国府は、すでに共産党との内戦に追われていたこともあり、台湾に良質の人材を配置する余裕はありませんでした。このため、台湾に進駐してきた外省人には“十官九貪”とよばれたほど貪官汚吏が多く、復興に使われるべき工場施設や備蓄されていた米や砂糖を投機のために上海や南京に売り飛ばすことが横行。「1年の豊作で3年食べられる」といわれた台湾で、日本統治下では戦争末期にもなかったほどの深刻なコメ不足が発生したほか、日本時代の1920年代以来途絶えていたコレラが流行しています。島から逃げ出す犬(強圧的ではあったが規律のあった日本人)と入ってくる豚(無規律で腐敗・無能が蔓延する外省人)を並べ、「犬は人間を守ることはできるが、豚はただ喰って眠るだけだ」と記した風刺画が各所に貼られたのは、この時期のことです。これに対して、外相人の官吏は本省人(第2次大戦以前からの台湾居住者)の“奴隷根性”を批判。両者の溝は深まるばかりでした。

 こうした状況の下で、1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国府官憲が発見し、暴行を加えた上、商品と所持金を没収するという事件が起こると、かねてから国府の台湾支配に不満を持っていた市民の怒りが爆発。自然発生的な暴動が台湾全土を覆うことになりました。これが、いわゆる二・二八事件です。

 これに対して、国府は大陸から第21師団を派遣して、本省人に対する大規模な弾圧を開始。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、約3万人が犠牲になったといわれています。

 事件後、国府は台湾支配を強化するために台湾省を設置。さらに、1949年には国共内戦に敗れて台湾に移転し、事件から40年後の1987年に戒厳令が解除されるまで恐怖政治を続けることになります。

 こうした背景の下、かつての中共は、二・二八事件を“国民党政府に対する台湾人民の英雄的抵抗”として盛んに賞賛していました。今回ご紹介の切手も、そうしたプロパガンダの一環として発行されたものです。

 しかし、1988年に発足した李登輝政権が、それまでの「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという“中華民国在台湾”を主張。以後、台湾の台湾化が進行し、台湾での二・二八事件についての歴史的評価が大きく変わると、中共側は台湾独立論を警戒し、事件を称揚しなくなりました。

 まぁ、もともと、二・二八事件は、台湾に対する外省人の理不尽な統治に原因があったわけですから、中共であれ国府であれ、台湾人を無視して「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)」と主張する人たちは、信用されるはず、ありませんけどね。
 

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 チワン族自治区でデモ
2011-12-27 Tue 23:53
 香港の人権団体、中国人権民主化運動ニュースセンターによると、1979年の中越戦争に参加した中国広西チワン族自治区の退役軍人約1000人が、きのう(26日)、中国当局に補償金の支払いを求めて同自治区桂林の街頭をデモ行進したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        
        広西チワン自治区

 これは、1978年12月11日に中国が発行した広西チワン族自治区20周年の記念切手の1枚で、自治区成立20年を祝う自治区の人民が描かれています。

 チワン族は、中国南部の広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部とベトナム北部を中心に居住している民族です。中国国内の人口は1800万人で、中国の“少数民族”としては最大勢力となっています。秦・漢の時代から中国中央政府の統制下に置かれ、1949年12月11日、中華人民共和国によって“解放”されました。現在の広西チワン自治区が発足したのは、1958年3月5日のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手の発行日は、自治区発足記念日の3月5日ではなく、中共による“解放”の記念日にあたる12月11日です。ちなみに、切手発行直後の12月18日から12月22日にかけて、北京では中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)が開催されましたが、この会議により、文化大革命の清算と改革開放路線の推進が決定され、毛沢東の後継指名を受けた華国鋒が失脚し、小平が権力を完全に掌握しました。

 すでに、前年の1977年7月に開催された第10期3中全会において、小平は、党中央政治局常務委員、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長、国務院常務副総理に復帰しており、実権掌握は時間の問題とみられていましたが、この切手が制作されていた時点では、華国鋒が掲げていた「毛主席の決定した事は支持し、毛主席の指示は変えない」とする“二つのすべて”路線は公式には放棄されていませんでした。したがって、毛沢東時代の典型的な表現スタイルである“労農兵”が、この切手の人民の描き方にも採用されていてよさそうなものですが、切手には、労(工員)と民族衣装の人民は見られるのですが、兵士の姿は見られません。あるいは、すでに翌年の中越紛争を見越してチワン族の兵士たちは前線に動員されていて“慶祝”どころではなかったということなんでしょう。それだけ中共に尽くしたのに、ろくに保証金ももらえないというのであれば、そりゃ、チワン族の退役軍人たちが起こるのも無理はありませんな。


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 カシミール・プリンセス号事件
2007-08-21 Tue 11:16
 昨日(20日)、台湾の中華航空機が那覇空港で爆発炎上した事件にはビックリしました。まぁ、乗客・乗員165人全員が無事に脱出できたことは奇跡的な幸運といっても良いことですし、テロ事件ではないようなのでまずは一安心というところです。

 ところで、ニュースを聞きながら、台湾がらみで飛行機の爆発炎上ってのは何かなかったかなと思って考えてみたら、こんなネタを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます。)

周恩来の帰国

 これは、1977年9月に発行された毛沢東没後1周年の追悼切手の1枚で、バンドン会議から帰国した周恩来を空港で出迎える毛沢東の写真が取り上げられています。何事もなかったかのようにニッコリ笑っている2人ですが、周恩来はこのときのインドネシア行きの途中、あやうく暗殺されかかっています。

 1950年代、中国共産党政権は、“中国”を代表する存在として着々とその国際的な地歩を固めていました。1954年にインドと共同で発せられた「平和五原則」は、内政不干渉の美名の下にチベットにおける共産党政府の苛烈な支配への批判を封じようとするものでしたが、当時の国際世論の大半は、無邪気にその美辞麗句を信じていました。また、同年7月、インドシナ戦争の停戦を決めたジュネーブ会議では、中国は自国の防衛のためにベトナムを南北に分割したうえでその北半部をアメリカに対する防波堤として確保することに成功しますが、国際社会は北ベトナムの犠牲には目をつぶり、中国主導の“平和”を賞賛しています。

 このように、中国の国際的なプレゼンスが高まっていくことに強い危機感を抱いた台湾は、中国に対抗すべく香港で合法・非合法を含めたあらゆる政治工作を展開します。このうち、非合法活動の代表例がカシミール・プリンセス号事件です。

 1955年4月、インドネシアのバンドンで開催される「第1回アジア・アフリカ会議」に出席する代表団のため、中国はインド国際航空の“カシミール・プリンセス号”をチャーターしました。当時の中国民航には中国本土からインドネシアに飛行できる民間航空機を保有していなかったからです。

 このため、北京を出発した代表団は、同月11日、香港でカシミール・プリンセス号に乗り換え、インドネシアに向けて出発することになっていました。そこで、中国国民党の特務機関は、香港の空港に勤めている中国人清掃員の一人を買収し、旅客機右翼の着陸装置の格納庫に発火装置を仕掛けて、事故に見せかけて周恩来を暗殺することを計画しました。

 しかし、計画を事前に察知した中国側は、虫垂炎の手術という理由で周恩来の出発を4月14日に延期。このため、カシミール・プリンセス号は報道記者5名(新華社の記者3名とポーランドとオーストリアの通信社の報道記者)と中国政府派遣団6名の乗客11名と乗員8名を乗せて、予定通り香港を出発。離陸から4時間後に南シナ海のボルネオ島沖の上空で爆発し、16名の死者が出るという惨事となりました。

 事件後、中国外交部は「事件はアメリカ合衆国と国民党特務が周恩来総理暗殺を目的として企てた謀略事件」との声明を発表。香港政庁に対しても、中国側が事前に注意を促していたにもかかわらず、事件を防げなかったことを非難し、事件の徹底究明を求めます。

 捜査の結果、事件にはアメリカ製のMK-7爆弾が使用されていたことが判明。また、容疑者として国民党に買収された中国人が特定されましたが、容疑者は台湾に逃亡。台湾側は容疑者の香港当局への身柄引き渡しを拒否しています。このため、香港政庁は香港で活動している台湾の特務を国外追放とし、事件の決着を図られました。

 なお、1950年代から1960年代にかけての香港は、国共両派によるさまざまな政治工作の舞台になっていますが、そのあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。
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