内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 上野のパンダ・シンシンが出産
2017-06-12 Mon 21:18
 妊娠の兆候があった上野動物園の雌のジャイアントパンダ“シンシン”が、きょう(12日)午前11時52分、赤ちゃん1頭(現時点での性別は不明)を出産しました。上野動物園でのパンダ誕生は、今回と同じシンシンの2012年7月の出産以来、約5年ぶりのことです。というわけで、きょうはパンダを描いた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      中日平和友好条約8分

 これは、1978年の日中平和友好条約調印に際して中国側が発行した記念切手(このため、紀念銘は“中日”になっています)の1枚で、両国の少女を中心に、左下にはパンダの玩具が描かれています。今回生まれたばかりの赤ちゃんパンダは体重150グラム程度だそうですから、それに近い大きさのパンダが描かれている切手ということで持ってきました。

 さて、日本と中国との平和友好条約に関しては、すでに、1972年9月の“国交正常化”の際に発表された日中共同声明の第8項において、将来の締結をめざすことがうたわれていました。

 これを受けて、1974年11月、平和友好条約締結に向けての予備交渉がスタートします。しかし、ソ連を“覇権主義”と批判していた中国側が条約に“反覇権”の文言を盛り込むことを強く主張したため、ソ連との関係悪化を懸念する日本側との間で交渉は難航。さらに、1975年から1977年にかけては日本では田中金脈問題やロッキード事件、中国では毛沢東の死と4人組の逮捕などがあり、両国ともに国内の政治状況が不安定 だったこともあって、交渉は中断されました。

 その後、1977年になって、新たに中国の最高実力者となった鄧小平が“柔軟姿勢”を示すとともに、米中国交正常化の動きが活発化したことを受けて、日本政府(福田赳夫内閣)も交渉打開に積極的に取り組むようになります。翌1978年8月、日本側外相の園田直が訪中して交渉をまとめ、8月12日に中国側外交部長(外相に相当)の黄華が来日し、東京で「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(日中平和友好条約)」が調印され、同年10月23日、鄧小平が来日して批准書の交換が行われ、即日発効しました。

 条約は、主権と領土の相互尊重・相互不可侵・相互内政不干渉などをうたった“平和五原則”を両国関係の基礎とするとした第1条、“反覇権”をうたった第2条、「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」とする“第3国条項”を記した第4条など、前文と本文5条からなっています。また、中国側は日本に対して(日中戦争に関する)賠償金の請求を放棄する見返りとして、日本から多額の経済援助を長期間にわたって引き出し続けることに成功。その後の経済発展の基礎を築くことになります。

 
 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回 は15日! ★★★ 

 6月15日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目が放送予定です。今回は、6月10日に開幕したばかりのアスタナ万博にちなんで、開催国のカザフスタンにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

スポンサーサイト
別窓 | 中国:華国鋒時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 台湾・和平紀念日
2017-02-28 Tue 13:17
 きょう(28日)は、1947年2月28日の“二・二八事件”にちなんで、台湾では“和平紀念日”の祝日です。ことしは、事件から70周年の節目の年でもありますので、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中国・228事件30周年(10分)

 これは、1977年に中国(大陸の中共政権)が発行した「台湾省人民“二・二八”蜂起30周年」の記念切手の1枚で、五星紅旗を手に持ち、北京・天安門前の「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)!」のスローガンに呼応する台湾の人々が描かれています。この切手が発行された当時、台湾は国府による戒厳令下にあり、二・二八事件はタブー視されていましたので、中共側が発行したこの切手が、事件を取り上げた切手としては最初の1枚となりました。

 さて、日本の敗戦後、台湾を接収した国府は、すでに共産党との内戦に追われていたこともあり、台湾に良質の人材を配置する余裕はありませんでした。このため、台湾に進駐してきた外省人には“十官九貪”とよばれたほど貪官汚吏が多く、復興に使われるべき工場施設や備蓄されていた米や砂糖を投機のために上海や南京に売り飛ばすことが横行。「1年の豊作で3年食べられる」といわれた台湾で、日本統治下では戦争末期にもなかったほどの深刻なコメ不足が発生したほか、日本時代の1920年代以来途絶えていたコレラが流行しています。島から逃げ出す犬(強圧的ではあったが規律のあった日本人)と入ってくる豚(無規律で腐敗・無能が蔓延する外省人)を並べ、「犬は人間を守ることはできるが、豚はただ喰って眠るだけだ」と記した風刺画が各所に貼られたのは、この時期のことです。これに対して、外相人の官吏は本省人(第2次大戦以前からの台湾居住者)の“奴隷根性”を批判。両者の溝は深まるばかりでした。

 こうした状況の下で、1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国府官憲が発見し、暴行を加えた上、商品と所持金を没収するという事件が起こると、かねてから国府の台湾支配に不満を持っていた市民の怒りが爆発。自然発生的な暴動が台湾全土を覆うことになりました。これが、いわゆる二・二八事件です。

 これに対して、国府は大陸から第21師団を派遣して、本省人に対する大規模な弾圧を開始。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、約3万人が犠牲になったといわれています。

 事件後、国府は台湾支配を強化するために台湾省を設置。さらに、1949年には国共内戦に敗れて台湾に移転し、事件から40年後の1987年に戒厳令が解除されるまで恐怖政治を続けることになります。

 こうした背景の下、かつての中共は、二・二八事件を“国民党政府に対する台湾人民の英雄的抵抗”として盛んに賞賛していました。今回ご紹介の切手も、そうしたプロパガンダの一環として発行されたものです。

 しかし、1988年に発足した李登輝政権が、それまでの「反攻大陸」のスローガンを下ろし、中華人民共和国が中国大陸を有効に支配していることを認めると同時に、台湾・澎湖・金門・馬祖には中華民国という別の国家が存在するという“中華民国在台湾”を主張。以後、台湾の台湾化が進行し、台湾での二・二八事件についての歴史的評価が大きく変わると、中共側は台湾独立論を警戒し、事件を称揚しなくなりました。

 まぁ、もともと、二・二八事件は、台湾に対する外省人の理不尽な統治に原因があったわけですから、中共であれ国府であれ、台湾人を無視して「我們一定要解放台湾(我々は台湾を解放しなければならない)」と主張する人たちは、信用されるはず、ありませんけどね。
 

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 中国:華国鋒時代 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 チワン族自治区でデモ
2011-12-27 Tue 23:53
 香港の人権団体、中国人権民主化運動ニュースセンターによると、1979年の中越戦争に参加した中国広西チワン族自治区の退役軍人約1000人が、きのう(26日)、中国当局に補償金の支払いを求めて同自治区桂林の街頭をデモ行進したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        
        広西チワン自治区

 これは、1978年12月11日に中国が発行した広西チワン族自治区20周年の記念切手の1枚で、自治区成立20年を祝う自治区の人民が描かれています。

 チワン族は、中国南部の広西チワン族自治区中西部や雲南省南西部、広東省東部、貴州省南部、湖南省南部などの山間部とベトナム北部を中心に居住している民族です。中国国内の人口は1800万人で、中国の“少数民族”としては最大勢力となっています。秦・漢の時代から中国中央政府の統制下に置かれ、1949年12月11日、中華人民共和国によって“解放”されました。現在の広西チワン自治区が発足したのは、1958年3月5日のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手の発行日は、自治区発足記念日の3月5日ではなく、中共による“解放”の記念日にあたる12月11日です。ちなみに、切手発行直後の12月18日から12月22日にかけて、北京では中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)が開催されましたが、この会議により、文化大革命の清算と改革開放路線の推進が決定され、毛沢東の後継指名を受けた華国鋒が失脚し、小平が権力を完全に掌握しました。

 すでに、前年の1977年7月に開催された第10期3中全会において、小平は、党中央政治局常務委員、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長、国務院常務副総理に復帰しており、実権掌握は時間の問題とみられていましたが、この切手が制作されていた時点では、華国鋒が掲げていた「毛主席の決定した事は支持し、毛主席の指示は変えない」とする“二つのすべて”路線は公式には放棄されていませんでした。したがって、毛沢東時代の典型的な表現スタイルである“労農兵”が、この切手の人民の描き方にも採用されていてよさそうなものですが、切手には、労(工員)と民族衣装の人民は見られるのですが、兵士の姿は見られません。あるいは、すでに翌年の中越紛争を見越してチワン族の兵士たちは前線に動員されていて“慶祝”どころではなかったということなんでしょう。それだけ中共に尽くしたのに、ろくに保証金ももらえないというのであれば、そりゃ、チワン族の退役軍人たちが起こるのも無理はありませんな。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★
   
         年賀状の戦後史(帯つき)
         年賀状の戦後史
     角川oneテーマ21(税込760円)

    日本人は「年賀状」に何を託してきたのか?
    「年賀状」から見える新しい戦後史!

 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、『郵趣』1月号で紹介されました。

  amazonbk1e-honHMVlivedoor BOOKS紀伊國屋書店BookWebセブンネットショッピング楽天ブックスなどで好評発売中!


   ★★★ 好評既刊より ★★★

        切手紀行シリーズ?『ハバロフスク』
   ハバロフスク(切手紀行シリーズ?)
       彩流社(本体2800円+税)    

   空路2時間の知られざる欧州
   大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根…
   夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行
   シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容!

 amazonbk1e-honHMVlivedoorBOOKS紀伊國屋書店BookWebセブンネットショッピング楽天ブックスなどで好評発売中!
別窓 | 中国:華国鋒時代 | コメント:1 | トラックバック:0 | top↑
 カシミール・プリンセス号事件
2007-08-21 Tue 11:16
 昨日(20日)、台湾の中華航空機が那覇空港で爆発炎上した事件にはビックリしました。まぁ、乗客・乗員165人全員が無事に脱出できたことは奇跡的な幸運といっても良いことですし、テロ事件ではないようなのでまずは一安心というところです。

 ところで、ニュースを聞きながら、台湾がらみで飛行機の爆発炎上ってのは何かなかったかなと思って考えてみたら、こんなネタを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます。)

周恩来の帰国

 これは、1977年9月に発行された毛沢東没後1周年の追悼切手の1枚で、バンドン会議から帰国した周恩来を空港で出迎える毛沢東の写真が取り上げられています。何事もなかったかのようにニッコリ笑っている2人ですが、周恩来はこのときのインドネシア行きの途中、あやうく暗殺されかかっています。

 1950年代、中国共産党政権は、“中国”を代表する存在として着々とその国際的な地歩を固めていました。1954年にインドと共同で発せられた「平和五原則」は、内政不干渉の美名の下にチベットにおける共産党政府の苛烈な支配への批判を封じようとするものでしたが、当時の国際世論の大半は、無邪気にその美辞麗句を信じていました。また、同年7月、インドシナ戦争の停戦を決めたジュネーブ会議では、中国は自国の防衛のためにベトナムを南北に分割したうえでその北半部をアメリカに対する防波堤として確保することに成功しますが、国際社会は北ベトナムの犠牲には目をつぶり、中国主導の“平和”を賞賛しています。

 このように、中国の国際的なプレゼンスが高まっていくことに強い危機感を抱いた台湾は、中国に対抗すべく香港で合法・非合法を含めたあらゆる政治工作を展開します。このうち、非合法活動の代表例がカシミール・プリンセス号事件です。

 1955年4月、インドネシアのバンドンで開催される「第1回アジア・アフリカ会議」に出席する代表団のため、中国はインド国際航空の“カシミール・プリンセス号”をチャーターしました。当時の中国民航には中国本土からインドネシアに飛行できる民間航空機を保有していなかったからです。

 このため、北京を出発した代表団は、同月11日、香港でカシミール・プリンセス号に乗り換え、インドネシアに向けて出発することになっていました。そこで、中国国民党の特務機関は、香港の空港に勤めている中国人清掃員の一人を買収し、旅客機右翼の着陸装置の格納庫に発火装置を仕掛けて、事故に見せかけて周恩来を暗殺することを計画しました。

 しかし、計画を事前に察知した中国側は、虫垂炎の手術という理由で周恩来の出発を4月14日に延期。このため、カシミール・プリンセス号は報道記者5名(新華社の記者3名とポーランドとオーストリアの通信社の報道記者)と中国政府派遣団6名の乗客11名と乗員8名を乗せて、予定通り香港を出発。離陸から4時間後に南シナ海のボルネオ島沖の上空で爆発し、16名の死者が出るという惨事となりました。

 事件後、中国外交部は「事件はアメリカ合衆国と国民党特務が周恩来総理暗殺を目的として企てた謀略事件」との声明を発表。香港政庁に対しても、中国側が事前に注意を促していたにもかかわらず、事件を防げなかったことを非難し、事件の徹底究明を求めます。

 捜査の結果、事件にはアメリカ製のMK-7爆弾が使用されていたことが判明。また、容疑者として国民党に買収された中国人が特定されましたが、容疑者は台湾に逃亡。台湾側は容疑者の香港当局への身柄引き渡しを拒否しています。このため、香港政庁は香港で活動している台湾の特務を国外追放とし、事件の決着を図られました。

 なお、1950年代から1960年代にかけての香港は、国共両派によるさまざまな政治工作の舞台になっていますが、そのあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。
別窓 | 中国:華国鋒時代 | コメント:2 | トラックバック:1 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/