内藤陽介 Yosuke NAITO
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 沿ドニエストルで露軍演習
2014-03-26 Wed 16:38
 ロシア軍は、きのう(25日)、ウクライナ西部に隣接するモルドバ共和国の沿ドニエストル地域で軍事演習を行い、ロシアがクリミアの次はこの地域の編入を狙っているのではないかとの懸念が高まっています。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       沿ドニエストル共和国(2013)

 これは、昨年(2013年)、“沿ドニエストル共和国”で発行された普通切手で、18世紀の露土戦争でルーマニア一帯を制圧し、バルカン侵攻の基礎を固めたロシア陸軍の英雄、アレクサンドル・スヴォーロフ元帥の騎馬像が取り上げられています。ちなみに、切手には、英文による国名表示の“Pridnestrovian Moldavian Republic(沿ドニエストル・モルドヴァ共和国)”の略称としてPMRの文字が入っています。

 現在のルーマニアの東の国境線となっているプルート川=ドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域は、かつてモルダヴィア公国の領土でした。

 ところが、1812年、露土戦争の結果結ばれたブカレスト条約で、この地域はロシアに割譲され、その支配下でベッサラビアと呼ばれるようになりました。この命名は、かつてこの地を支配したワラキア公バサラブにちなむものです。

 もともと、長年にわたってモルダヴィア公国の支配下に置かれていた地域だけに、当時の住民の大半はルーマニア人でルーマニア語を話していましたが、新たな支配者となったロシアのロマノフ王朝は、この地を南下政策の重要拠点と位置付けて、ロシア人やウクライナ人の入植を進め、ロシア化政策を推進。このため、1859年にモルダヴィア=ワラキア連合公国が成立した時も、ベッサラビアはその埒外に置かれていました。

 第一次大戦中の1917年、ロシア革命が起こって帝政ロシアが倒れると、1918年2月16日、モルドヴァ議会はキシナウでロシアからの独立を宣言。つづいて同年4月9日、同議会はベッサラビアのルーマニアとの統一を圧倒的多数で議決し、これをルーマニア議会が承認するというかたちで、ベッサラビアはルーマニア領に復することになります。

 ところが、ロシアのボリシェヴィキ政権は、ルーマニア軍がベッサラビアに駐留していたことを理由に、モルドヴァ議会の決定は無効であると主張。1919年9月、レーニン、スターリン、トロツキーら革命首脳部はベッサラビア政府の転覆をめざすことを決定しました。

 1922年末に誕生した新生ソ連はルーマニアとの国境画定交渉を行ったものの、1924年に交渉は決裂。このため、スターリンは、ドニエストル川東岸のトランスニストリアと呼ばれる地域にモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国を創設し、ベッサラビア奪還の機会を虎視眈々と狙うことになります。

 はたして、1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合しました。

 ソ連に併合されたベッサラビアは、南部のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域(南ベッサラビア)とそれ以外の地域に分けられ、南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせてモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国とされます。

 第2時大戦中、枢軸側としてソ連に宣戦布告したルーマニアは、一時的にベッサラビアの地を回復したものの、戦後、ベッサラビアは再びソ連の支配下に編入されます。

 第二次大戦後のソ連は、モルドヴァのルーマニア民族主義が分離主義につながることを警戒し、ロシア人のイニシアチブの下、モルドヴァの多数派民族はルーマニア人ではなくモルドヴァ人であり、モルドヴァの言語はルーマニア語ではなくモルドヴァ語であると強調し続けてきました。

 しかし、1985年以降のペレストロイカの流れの中でモルドヴァでも民族主義が高揚。特に、1989年のルーマニア革命の後、モルドヴァ人の間でルーマニアとの統合を求める声が上がるに至って、非モルドヴァ系の少数民族は、モルドヴァ社会主義共和国内に自治共和国を樹立し、自分たちの権益を維持しようとするようになります。

 すなわち、1990年8月、南ベッサラビアのガガウズ人(トルコ系正教徒)がガガウズ・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言。ついで、同年9月、ドニエストル川東岸に住むロシア人およびウクライナ人が、ソ連保守派の支援の下、沿ドニエストル・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言しました。

 こうした中で、1991年8月、ソ連が崩壊し、モルドヴァ共和国が独立を宣言(図 )すると、沿ドニエストル共和国がモルドヴァからの分離独立を宣言。モルドヴァ人と非モルドヴァ人(特にロシア人)の対立は先鋭化する中で、1992年にはロシア系武装集団(後にロシア軍が介入して支援)とモルドヴァ軍との間で戦闘が発生しました。

 停戦合意の結果、モルドヴァの領土保全とロシア軍の撤退の代償として、モルドヴァは沿ドニエストルに特別な法的地位を与え、モルドヴァとルーマニアが統一する場合には沿ドニエストルの分離権を保障することが定められました。しかし、沿ドニエストル側は、あくまでもモルドヴァとの対等の地位を求めており、両者の境界線ではロシア、ウクライナ、沿ドニエストル合同の平和維持軍による停戦監視が行われ、沿ドニエストルはモルドヴァ政府の統制が及ばない地域となっています。

 なお、このあたりの歴史的経緯については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 本日未明、カウンターが134万PVを越えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ ポスタル・メディアと朝鮮戦争 ★★★

 4月19日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス3号館2階・326講堂にて開催のメディア史研究会月例会にて、昨年(2013年)夏、バンコクで開催された世界切手展<Thailand 2013>に出品した“Korea and the Cold War 1945-1953”の内容を中心に、切手や郵便物などによって朝鮮戦争とその時代を再構成しようとする試みについてお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★   

 4月から、毎月1回(第1火曜日:4月1日、6月3日、7月1日、8月5日、9月2日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・朝鮮半島のことを学ぼう 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラムを学ぶ 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

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 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 文京生涯カレッジ(第13期)のご案内 ★★★

 文京学院大学が一般向け(=どなたでも受講できます)にさまざまな講師を招いて行う通年の教養講座「文京生涯カレッジ」の第13期が4月15日から始まります。僕も、7月15・22日に「バスコ・ダ・ガマのインドを歩く」、9月9日に「ドバイ歴史紀行」のお題で登場します。詳細はこちらですので、よろしかったら、ぜひご覧ください。


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 3年ぶりの大統領選出
2012-03-17 Sat 16:01
 与野党対立で約3年にわたり大統領を選出できない状況が続いていたモルドヴァ共和国で、きのう(16日)、ようやく大統領選出投票が実施され、裁判官でEU加盟を公約とするティモフティ氏が選出されました。ただし、ロシアとの関係を重視する野党・共産党は結果を認めず、首都キシニョフ(キシナウ)で約1万人の抗議デモを開催するなど、混乱はしばらく続きそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        モルドヴァ・ベンデル

 これは、1993年、モルドヴァ共和国のベンデルから差し出されたカヴァーで、モルドヴァ共和国の切手つき封筒に、旧ソ連切手ならびに旧ソ連切手に加刷した暫定切手、さらに、モルドヴァ共和国としての正刷切手が混貼されています。

 現在のルーマニアの東の国境線となっているプルート川=ドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域は、かつてモルダヴィア公国の領土でしたが、1812年、露土戦争の結果結ばれたブカレスト条約でロシアに割譲され、その支配下でベッサラビアと呼ばれるようになります。

 もともと、長年にわたってモルダヴィア公国の支配下に置かれていた地域だけに住民の大半はルーマニア人でルーマニア語を話していましたが、新たな支配者となったロシアのロマノフ王朝は、この地を南下政策の重要拠点と位置付けて、ロシア人やウクライナ人の入植を進め、ロシア化政策を推進。このため、1859年に、現在のルーマニアの直接のルーツとなるモルダヴィア=ワラキア連合公国が成立した時も、ベッサラビアはその埒外に置かれていました。

 第一次大戦中の1917年、ロシア革命が起こって帝政ロシアが倒れると、1918年2月16日、モルドヴァ議会はキシナウでロシアからの独立を宣言。つづいて同年4月9日、同議会はベッサラビアのルーマニアとの統一を圧倒的多数で議決し、これをルーマニア議会が承認するというかたちで、ベッサラビアはルーマニア領に復しました。これに対して、ロシアのボリシェヴィキ政権は、ルーマニア軍がベッサラビアに駐留していたことを理由に、モルドヴァ議会の決定は無効であると主張。以後、ベッサラビアの回復を虎視眈々と狙うようになります。

 1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合。ソ連に併合されたベッサラビアは、南部のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域(南ベッサラビア)とそれ以外の地域に分けられ、南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせてモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国とされます。

 その後、1941年6月22日に独ソ戦が勃発ルーマニアはドイツ軍とともに参戦し、一時的にベッサラビアの失地を回復しますが、第二次大戦後、北ブコヴィナおよびベッサラビアは再びソ連に割譲されてしまいます。その後、ソ連はモルドヴァのルーマニア民族主義が分離主義につながることを警戒し、モルドヴァの多数派民族はルーマニア人ではなくモルドヴァ人であり、モルドヴァの言語はルーマニア語ではなくモルドヴァ語であると強調し続けました。

 しかし、1985年以降のペレストロイカの流れの中でモルドヴァ民族主義が高揚。特に、1989年のルーマニア革命の後、モルドヴァ人の間でルーマニアとの統合を求める声が上がるに至って、非モルドヴァ系の少数民族は、モルドヴァ社会主義共和国内に自治共和国を樹立し、自分たちの権益を維持しようとします。すなわち、1990年8月、南ベッサラビアのガガウズ人(トルコ系正教徒)がガガウズ・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言。ついで、同年9月、ドニエストル川東岸に住むロシア人およびウクライナ人が、ソ連保守派の支援の下、沿ドニエストル・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言しました。

 こうした中で、1991年8月、ソ連が崩壊し、モルドヴァ共和国が独立を宣言すると、沿ドニエストル共和国がモルドヴァからの分離独立を宣言。モルドヴァ人と非モルドヴァ人(特にロシア人)の対立が先鋭化する中で、1992年にはロシア系武装集団(後にロシア軍が介入して支援)とモルドヴァ軍との間で戦闘が発生し(トランスニストリア戦争)、現在なお沿ドニエストルはモルドヴァ政府の統制が及ばない地域となっています。

 今回ご紹介のカバーが差し出されたベンデルはドニエストル川西岸の都市で、国際的にはモルドヴァ共和国の一部とみなされています。しかし、1992年のトランスニストリア戦争の結果、中立非武装地帯として、ロシア、モルドヴァ、沿ドニエストルからなる平和維持部隊が駐屯しているものの、実際には沿ドニエストル共和国の支配下に置かれています。カバーが差し出された1993年7月は、1991年8月のモルドヴァ独立から2年、1992年7月のトランスニストリア戦争休戦からは1年しか経っていない時期でもあり、旧ソ連とモルドヴァの混貼カバーが生まれたのも、そうした時代背景を反映したものといえます。

 なお、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』では、ルーマニア国内のモルダヴィア(モルドヴァ)地方のみならず、モルドヴァ共和国への訪問記も書いておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 国立市〈歴史講座〉“もの”が語る戦争の歴史

 3月27日(火) 19:00-21:00 於・国立市公民館3階講座室
 *お問い合わせ・お申し込みは、国立市公民館(電話 042-572-5141)までお願いいたします。

 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話
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 ゴールデン・イーグル
2009-10-25 Sun 11:17
 プロ野球のクライマックスシリーズは、きのう(24日)、両リーグともにリーグ優勝をした巨人と日本ハムが制して終了しましたが、パリーグの試合終了後、今季限りで退任する楽天の野村克也監督を両軍で胴上げするという出来事があり話題となりました。というわけで、きょうは楽天にちなみ“ゴールデン・イーグル”の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 モルドヴァ共和国最初の切手  モルドヴァ共和国ナンバープレート

 左の画像は、1991年のモルドヴァ共和国独立後最初の切手です。ルーマニアの国章は、ワラキアの鷲のフレームの中に、ワラキアの鷲・モルダヴィアの牛・バナトのライオン・トランシルヴァニアの黒鷲の各紋章を配したデザインになっていますが、モルドヴァ共和国の場合は、鷲のフレームの中にモルダヴィアの牛のみが入ったデザインです。なお、フレーム部分の鷲は黄色で表現されることも多いのですが、本来は、右の画像(車のナンバープレートの一部です)のように、金色です。

 現在のルーマニアの東の国境線となっているプルート川=ドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域は、かつてモルダヴィア公国の領土でしたが、1812年、露土戦争の結果結ばれたブカレスト条約で、この地域はロシアに割譲され、その支配下でベッサラビアと呼ばれるようになります。

 もともと、長年にわたってモルダヴィア公国の支配下に置かれていた地域だけに住民の大半はルーマニア人でルーマニア語を話していましたが、新たな支配者となったロシアのロマノフ王朝は、この地を南下政策の重要拠点と位置付けて、ロシア人やウクライナ人の入植を進め、ロシア化政策を推進。このため、1859年に、現在のルーマニアの直接のルーツとなるモルダヴィア=ワラキア連合公国が成立した時も、ベッサラビアはその埒外に置かれていました。

 第一次大戦中の1917年、ロシア革命が起こって帝政ロシアが倒れると、1918年2月16日、モルドヴァ議会はキシナウでロシアからの独立を宣言。つづいて同年4月9日、同議会はベッサラビアのルーマニアとの統一を圧倒的多数で議決し、これをルーマニア議会が承認するというかたちで、ベッサラビアはルーマニア領に復しました。これに対して、ロシアのボリシェヴィキ政権は、ルーマニア軍がベッサラビアに駐留していたことを理由に、モルドヴァ議会の決定は無効であると主張。以後、ベッサラビアの回復を虎視眈々と狙うようになります。

 1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合。ソ連に併合されたベッサラビアは、南部のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域(南ベッサラビア)とそれ以外の地域に分けられ、南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせてモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国とされます。

 その後、1941年6月22日に独ソ戦が勃発し、ルーマニアはドイツ軍とともに参戦し、一時的にベッサラビアの失地を回復しますが、第二次大戦後、北ブコヴィナおよびベッサラビアは再びソ連に割譲されてしまいます。その後、ソ連はモルドヴァのルーマニア民族主義が分離主義につながることを警戒し、モルドヴァの多数派民族はルーマニア人ではなくモルドヴァ人であり、モルドヴァの言語はルーマニア語ではなくモルドヴァ語であると強調し続けました。

 しかし、1985年以降のペレストロイカの流れの中でモルドヴァ民族主義が高揚。特に、1989年のルーマニア革命の後、モルドヴァ人の間でルーマニアとの統合を求める声が上がるに至って、非モルドヴァ系の少数民族は、モルドヴァ社会主義共和国内に自治共和国を樹立し、自分たちの権益を維持しようとします。すなわち、1990年8月、南ベッサラビアのガガウズ人(トルコ系正教徒)がガガウズ・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言。ついで、同年9月、ドニエストル川東岸に住むロシア人およびウクライナ人が、ソ連保守派の支援の下、1990年9月、沿ドニエストル・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言しました。

 こうした中で、1991年8月、ソ連が崩壊し、モルドヴァ共和国が独立を宣言すると、沿ドニエストル共和国がモルドヴァからの分離独立を宣言。モルドヴァ人と非モルドヴァ人(特にロシア人)の対立は先鋭化する中で、1992年にはロシア系武装集団(後にロシア軍が介入して支援)とモルドヴァ軍との間で戦闘が発生し、現在なお沿ドニエストルはモルドヴァ政府の統制が及ばない地域となっています。

 さて、新刊の拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』では、そうしたモルドヴァ共和国のあらましと、ルーマニアから国境を越えてモルドヴァ共和国にちょこっと入ってみた時の体験談についても1章を設けて書いています。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

10月31日(土) 11:00から、<JAPEX09>会場内(於・サンシャイン文化会館)で刊行記念のトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

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