内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 空飛ぶ国王
2017-05-18 Thu 19:36
 オランダのウィレム・アレクサンダー国王が、きょう(18日)付の地元紙『テレグラフ』で、即位後も含め、これまで21年間、KLMシティーホッパー航空(KLMオランダ航空の子会社)のパートタイム副操縦士を秘密裏に務めていたことを明らかにしました。同航空では現在、国王が操縦してきたフォッカー70を段階的に廃止しているため、国王は、近々、後継機のボーイング737の訓練を始め、今後も副操縦士としての搭乗勤務を続ける意向だそうです。というわけで、パイロット姿の国王を描いた切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・カロル2世即位10年

 これは、1940年6月8日、ルーマニアで発行された国王カロル2世即位10周年の記念切手のうち、パイロット姿の国王を描く32レウ切手です。

 カロル2世は、1893年、ルーマニア国王フェルディナンドと王妃マリア(ザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの長女)の長男として、ペレシュ城で生まれました。
 
 若い頃から派手な女性関係で有名で、1918年には、当時のルーマニアの王室法に反して平民女性のジョアンナ・マリー・ヴァレンティナ・ランブリノ(ジジ・ランブリノ)という平民女性と結婚。このため、2人の間にはカロルという子が生まれたものの、翌1919年には結婚を無効とするイルフォヴ裁定が下されます。

 その後、1921年には、ギリシャ王女エレーニ(エレナ・ア・ロムニエイ)と結婚したものの、カロルがユダヤ系ルーマニア人でカトリック教徒のマグダ・ルペスクと不倫関係になったことから、エレーニとの結婚生活はすぐに破綻。このため、カロルは王位継承権を放棄してマグダとパリに亡命し、1927年7月、エレナ王妃との子、ミハイが国王として即位しました。その後、1928年、カロルの離婚が正式に成立しますが、この間、カロルは高校生の愛人、マリア・マルティーニとの間に一男一女をもうけていました。

 ところが、1930年6月、カロルは突如帰国し、息子のミハイを退位させ、自分が国王であると宣言。以後、政治にも自ら関与して独裁体制を強化していきますが、1939年に第二次大戦が勃発すると、独ソ不可侵条約の密約に基き、ハンガリーがトランシルヴァニアに進駐。さらに、ソ連がルーマニア領ベッサラビア北ブコヴィナを併合するなど、ルーマニアは多くの領土を失いました。このため、今回ご紹介の切手が発行されてから3カ月後の1940年9月6日、カロルは退位を余儀なくされ、ミハイが父親のしりぬぐいをするかたちで復位しました。

 廃位されたカロルは、中立国のポルトガルに亡命。亡命先では、持ち出した財宝を売って贅沢三昧の生活を送っていましたが、1947年、マグダとリオデジャネイロで結婚。1953年、ポルトガルのエストリルで亡くなりました。その遺体は、民主化後の2003年、ルーマニアに返還され、クルテア・デ・アルジェシュ修道院に再埋葬されています。

 なお、カロル2世時代のルーマニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 世界の国々:ルーマニア
2016-08-24 Wed 11:55
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年8月24日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はルーマニア(2回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ブラン城(1929)

 これは、1929年に発行されたブラン城の切手です。

 “ドラキュラ城”と知られるブラン城は、ルーマニアのほぼ中央に位置するブラショヴの南西28km、ブチェジ山麓に位置しています。

 現在のブラン城の直接の起源は、1377年11月、ワラキア平原から侵入するオスマン帝国軍に備えて築かれた城塞で、14世紀末、ワラキア公ヴラド1世(ミルチャ老公)がここを居城としました。“吸血鬼ドラキュラ”のモデルとされるヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は、その孫です。

 1462年、ヴラド3世はワラキアに侵入したオスマン帝国軍を撃退しましたが、捕虜や敵に対して木杭を肛門から口に抜けるまで差し込み、地面に突き立てて野ざらしにする串刺し刑を容赦なく行い、“串刺し”を意味する“ツェペシュ”の名で恐れられました。その一方、ヴラド3世は、父のヴラド2世が神聖ローマ帝国から龍騎士団の騎士に叙任され、龍(ドラコ)にちなんだ“ドラクル”を名乗っていました。

 これらのエピソードをつなぎ合わせて、1897年、アイルランドの作家ブラム・ストーカーは小説『吸血鬼ドラキュラ』を発表し、ブラン城を主人公ドラキュラ伯爵の居城と設定したのです。ただし、歴史的事実をいえば、ヴラド3世は、ハンガリー王の招きにより、この城に数日間、滞在した可能性は高いのですが、決してここに住んでいたわけではありません。

 その後、ブラン城はハンガリー王の所有になっていましたが、1513年、クローンシュタット市(現ブラショヴ市)が城の所有権を獲得します。

 1918年、第一次大戦の戦勝国となったルーマニアは、オーストリア=ハンガリーの支配からトランシルヴァニアを奪還し、悲願の“大ルーマニア”を実現しました。これに伴い、クローンシュタットはブラショヴと改称され、同市はルーマニア王室に城を寄進。以後、ブラン城は王妃マリアが手を入れて王室の離宮の一つとして利用されました。当然、城の内部も王妃好みに改修され、現在の姿になっています。

 1944年以降、ブラン城は国王カロル2世の妹、イレアナの居城となりましたが、第二次大戦後の1947年、ルーマニアの王制は崩壊し、共産主義政権が発足すると、ブラン城は共産党政権に接収されてしまいました。

 共産党支配下のルーマニアでは、その独自の民族主義路線ゆえに、小説としてのドラキュラのイメージをヴラド3世と混同することはタブー視され、小説『ドラキュラ』は発禁とされます。その一方で、オスマン帝国と戦った民族の英雄であるヴラド3世は国民統合の象徴として最大限に活用され、彼にまつわる(とされた)ブラン城も、ルーマニア民族の誇るべき文化遺産として称揚されました。

 さらに、反対派を容赦なく串刺しの刑に処したというヴラド3世の恐怖政治は、同じく、反対派や不満分子を徹底的に弾圧していたチャウシェスクにとって格好のお手本でした。チャウシェスクが「ヴラドの恐怖支配のおかげでワラキアには犯罪者がいなかった。ヴラッドは社会革命の指導者である」と称賛していたというエピソードは、現在となってはブラックジョークでしかありません。

 さて、1989年、チャウシェスクの独裁政権は崩壊しましたが、その後を継いだルーマニア政府はブラン城を決して手放しませんでした。ドラキュラ城としてのイメージが世界的に定着しているブラン城は、民主化後のルーマニアに莫大な外貨をもたらす観光資源として、重要な意味を持っていたからです。

 じっさい、ルーマニア政府はストーカーの小説発表から100周年にあたる1997年を“ドラキュラ年”として、(歴史的事実とは異なるが)ブラン城はヴラド3世ゆかりの城であり、『吸血鬼ドラキュラ』の舞台であるとの観光キャンペーンを大々的に展開しています。

 ところが、2006年末、ルーマニア政府は、ルーマニア王家の末裔(イレアナ王女と、夫でハプスブルク家につながるトスカーナ大公家出身のアントンの子)でニューヨーク在住の建築家、ドミニク・フォン・ハプスブルクに3年間は博物館としての用途を変更できないという条件を付けて、返還しました。2007年、EUに加盟することになったルーマニアは、旧東欧共産圏の一員であった自分たちが、スラブ・ロシアよりも、ハプスブルク家のヨーロッパとの関係が深かったことを示すため、あえて、“フォン・ハプスブルク”にブラン城を返還するというパフォーマンスを行ったわけです。

 なお、2014年以降、城の現所有者たちは、高齢を理由に、ルーマニア政府に城の買い取りを求めて交渉を続けています。

 さて、『世界の切手コレクション』8月24日号の「世界の国々」では、ブラン城についてまとめた長文コラムのほか、ルーマニア人の心の故郷とされるプトナ寺院、プロイェシュティ油田、ヴラド3世の生家、カーサ・ヴラド・ドラクル2007年の欧州文化都市シビウ、ルーマニア・ワインの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。また、ルーマニアについては、機会がありましたら、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』も、ぜひ、ご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、本日(24日)発売の8月31日号でのメキシコ(2回目)の特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 国王フェルディナンド150年
2015-08-24 Mon 23:09
 ルーマニア国王フェルディナンドが1865年8月24日に生まれてから、きょうでちょうど150年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      トランシルヴァニア統合10周年(フェルディナンド)

 これは、ルーマニアとトランシルヴァニアの統合10周年を記念して1929年5月10日に発行された切手のうち、統一ルーマニア国王としてのフェルディナンドの肖像を掲げる人々が描かれています。なお、フェルディナンドについては、“フェルディナンド1世”という表記が時折見られますが、1881-1947年に存在していたルーマニア王国の国王でフェルディナンドという名前の人物は1人だけですので、“1世”は不要かと思います。

 フェルディナンドは、ホーエンツォレルン侯レオポルトと、ポルトガル女王マリア2世の長女アントニアの次男としてジクマリンゲンで生まれました。叔父のルーマニア国王カロル1世には嗣子がなかったことに加え、フェルディナンドの父レオポルトと兄ヴィルヘルムもルーマニア王位継承を辞退したため、第一次大戦中の1914年10月10日にカロル1世が亡くなると、フェルディナンドがる0マニア王位を継承することになりました。

 ところで、当時のルーマニア王室はホーエンツォレルン家(ドイツ皇室)の血統であったため、先代のカロル1世はドイツ側に立っての参戦を企図していましたが、フェルディナンドは「私は善良なルーマニア人として統治する」と宣言。戦局は英仏側に有利と見極めたうえで1916年8月、ドイツに対して宣戦を布告し、カルパティア山脈を越え、オーストリア=ハンガリーの支配下にあったトランシルヴァニアのいくつかの都市を解放しました。

 しかし、ドイツは身内であるとばかり思い込んでいたルーマニア王室の裏切りに激昂。ただちに反撃し、トランシルヴァニアのルーマニア軍は撃破されます。同盟国側の反撃はとどまるところを知らず、ドイツ軍やブルガリア軍がルーマニア領内に侵攻し、首都ブカレストを含む国土の半分はドイツ軍に蹂躙され、政府と国王はヤシに避難しました。この結果、ルーマニア政府は、1918年4月、ドブロジャのブルガリアへの割譲や東カルパティア山脈でのオーストリア=ハンガリーとの国境線の東側への移動(ルーマニア領土の縮小)、軍隊の縮小などを定めた屈辱的なブカレスト条約を調印しました。

 このとき、夫である国王フェルディナンドを叱咤し、国難を救ったのが、熱烈な愛国者として自らも負傷兵の看護を行っていた王妃マリアです。

 彼女の説得もあって、国王は政府の調印したブカレスト条約を批准せず、ルーマニア軍を再動員して英仏側に立って再度参戦。この結果、1918年11月、第一次大戦が終結すると、ルーマニアは戦勝国としての立場を確保します。

 これに先立ち、1918年10月、トランシルヴァニアのルーマニア人たちはアラド(現在のルーマニア=ハンガリー国境に近い都市)を本拠地としてルーマニア民族評議会を結成。12月1日、アルバ・ユリアでトランシルヴァニアのルーマニアとの統一に関する決議を採択しました。

 そして、大戦の戦後処理を決めるヴェルサイユ会議には、“戦士女王”として戦勝国に置いて絶大な人気を誇っていた王妃マリアがルーマニアの顔として参加し、大ルーマニア(紀元前のダキア公国の領域で、現在のルーマニア領に南ドブロジャ、北ブコヴィナ、それに現在のモルドヴァ共和国の領域をあわせた地域にほぼ相当)復活のために尽力。その結果、領土問題に関するルーマニアの主張はほぼ認められ、トランシルヴァニアのルーマニアへの帰属も正式に承認されました。

 大ルーマニアの再現という民族の悲願を達したルーマニアは、そのことを内外に宣言するためのセレモニーとして、1922年10月15日、大戦により行われないままになっていた国王夫妻の戴冠式を行います。なお、戴冠式の場所は、首都のブカレストではなく、1599年にワラキア公のミハイ勇敢公がトランシルヴァニア総督就任の儀式を行い、統一ルーマニアを象徴する土地となっていたアルバ・ユリアで、1921年に新築されたばかりのルーマニア正教会聖堂が儀式の会場となりました。

 なお、このあたりの事情のついては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 ルーマニア現職首相の切手
2015-07-14 Tue 21:00
 ルーマニア検察当局は、きのう(13日)、首相就任以前の2007-08年に弁護士として脱税やマネーロンダリング(資金洗浄)などに関与した罪で、現職のポンタ首相を起訴しました。というわけで、“ルーマニアの現職首相”を取り上げた切手がないかと思って探してみたら、この切手がありました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・プルート川渡河

 これは、1942年。王制時代のルーマニアで発行されたベッサラビア奪還1周年の記念切手で、プルート川を渡るルーマニア軍と、当時のルーマニア首相、イオン・アントネスクの肖像が描かれています。ベッサラビア奪還1周年の記念切手は3種セットで発行されたのですが、そのうちの2種類は、アントネスクと他の人物が描かれていますので、個人が識別できる肖像としてはアントネスクしか描かれていないモノということで、この1枚を選びました。

 さて、アントネスクは、1882年、ピテシュティ生まれ。フランスで軍事教育を受け、1913年のバルカン戦争で軍功を挙げ、勲三等ミハイ勇敢公勲章を受けました。第一次大戦中は参謀将校となり、ルーマニアによるトランシルヴァニア併合に貢献しました。

 第一次大戦後は、パリ、ロンドンでの駐在武官、ルーマニア陸軍騎兵学校長、参謀大学校等を歴任し、1933年に陸軍参謀総長に就任。軍の近代化に尽力したものの、政治的対立から、1937年には、一時、投獄されています。

 第二次大戦直前の1939年8月23日、独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ソ連はルーマニア領ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合します。

 ソ連に併合されたベッサラビアは、南部のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域(南ベッサラビア)とそれ以外の地域に分けられ、南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に併合され、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせてモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国とされてしまいます。

 こうした状況の中で、アントネスクは国王カロル2世と対立して再度投獄されましたが、1940年には釈放され、クーデターによりカロル2世を退位させて首相に就任。国民投票の結果、元帥として“国家指導者”の地位に就き、ベッサラビアの回復を目指して独伊と連携する枢軸外交を推進しました。

 1941年6月22日に独ソ戦が勃発すると、アントネスク政権はドイツ軍とともにソ連に宣戦を布告。ルーマニア軍はソ連によって押しつけられた国境であるプルート川を越え、7月16日にキシナウを解放。26日までにベッサラビア全域を解放しました。今回ご紹介の切手は、ここから1周年になるのを記念して発行されたモノです。

 失地の回復という民族の悲願を果たしたアントネスクの声望は否が応でも高まりましたが、ドイツ側は、ルーマニアに対してここで戦線を離脱することを許しませんでした。このため、彼らはドイツの要求に従い、さらにドニエストル川を越えてオデッサ占領作戦に参加。さらに、ドイツ軍とともにクリミア半島やスターリングラードでも戦い、ヴォルガ川にまで到達します。

 しかし、1943年以降のソ連軍の攻勢により、しだいに枢軸側は追い詰められ、1944年にはベッサラビアは再びソ連の支配下に組み込まれ、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国が復活。しだいに、ソ連軍によるルーマニア占領が現実のものとなりつつある中で、劣勢のドイツ軍とともに対ソ戦を続けることに対して、国王以下、ルーマニア国内では不安が高まり、1944年8月22日、遂にクーデターが発生して、アントネスクは逮捕され、失脚しました。

 その後、国王は一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を締結。戦後、アントネスクはソ連に捕らえられてルーマニア共産政権に引き渡され、戦犯としてブカレスト郊外のジラヴァで処刑されました。

 なお、ルーマニアとベッサラビアの関係については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会があり増したら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ 全日本切手展+韓国切手展のご案内 ★★★ 

 7月17-19日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびに日韓国交正常化50周年記念・韓国切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページ(全日展はこちら、韓国切手展はこちら)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展チラシ  全日展チラシ(裏)

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。

 なお、内藤は、会期中の18日(土)11:00より、韓国切手展の展示解説を、16:00より「切手と郵便に見る韓国現代史と日本」と題する記念講演を行いますので、皆様、是非、遊びに来てください。
 
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 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 “オデッサ”独立宣言
2014-04-17 Thu 16:28
 ウクライナ東部・ドネツク州スラビャンスクで政府関係施設を占拠している親ロシア派武装勢力とウクライナ暫定政府の衝突が続く中、同国南部のオデッサ(ウクライナ語ではオデーサ)では、きのう(17日)、親露派が「オデッサ人民共和国」の樹立を宣言したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ルーマニア・オデッサ加刷

 これは、第二次大戦中の1941年、ルーマニア軍によるオデッサ占領を記念して発行された加刷切手です。

 1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ルーマニア領ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合しました。

 その後、1941年6月22日に独ソ戦が勃発。ルーマニアはソ連によって奪われた土地を奪還すべく、事実上の最高権力者であったイオン・アントネスク元帥の下、ドイツ軍とともに参戦します。

 ルーマニア軍はソ連によって押しつけられた国境であるプルート川を越え、7月16日にキシナウを解放。26日までにベッサラビアを解放しました。

 ルーマニア国内では、失地の回復という民族の悲願を果たしたアントネスクの声望は否が応でも高まりましたが、ドイツ側は、ルーマニアに対してここで戦線を離脱することを許しませんでした。このため、彼らはドイツの要求に従い、さらにドニエストル川を越えてオデッサ占領作戦に参加。1941年10月16日には赤軍をセヴァストーポリまで撤退させ、オデッサを占領しました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。

 その後、ルーマニア軍はドイツ軍とともにクリミア半島やスターリングラードでも戦い、ヴォルガ川にまで到達しました。しかし、1943年以降のソ連軍の攻勢により、しだいに枢軸側は追い詰められ、1944年にはベッサラビアは再びソ連の支配下に組み込まれ、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国が復活。同年8月22日、ルーマニア国内ではクーデターが発生してアントネスクは逮捕され、国王は一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定も結ばれることになりました。

 なお、この間の事情については拙著『トランシルヴァニア・モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ ポスタル・メディアと朝鮮戦争 ★★★

 4月19日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス本館2階 第2会議室(以前ご案内していた会場から変更になりました)にて開催のメディア史研究会月例会にて、昨年(2013年)夏、バンコクで開催された世界切手展<Thailand 2013>に出品した“Korea and the Cold War 1945-1953”の内容を中心に、切手や郵便物などによって朝鮮戦争とその時代を再構成しようとする試みについてお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

亀戸講座(2014前期)・広告

 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 ルーマニアの元王女(?)逮捕
2013-08-18 Sun 16:25
 1947年に退位したルーマニアのミハイ元国王(ルーマニア王国最後の国王)の三女、イリーナ(英語読み)・ウォーカーが、夫で地元保安官事務所の元幹部ジョン・ウォーカーらと、今年春までの約1年で少なくとも10回、闘鶏賭博を開設した疑いで、現地時間の16日までに逮捕されていたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ミハイ・郵税免除証紙(航空)

 これは、1947年12月1日にルーマニアで発行された航空郵便用の郵税免除証紙です。郵税免除証紙は、この証紙が貼られた郵便物は料金無料で運ばれることを示すためのモノで、切手の下部にある“SCUTIT DE TAXA POSTALA”は郵便料金無料の意味です。なお、航空郵便用を示す“PRIN AVION”の加刷のない証紙は1947年9月に発行されました。

 ルーマニア最後の国王となったミハイ元国王は、1921年に皇太子カロル(後のカロル2世)の長子として生まれました。当時の国王は祖父のフェルディナンド1世でしたが、国王は1927年に崩御。このため、本来であれば、父のカロルがカロル2世として即位するはずでしたが、父親は恋愛関係のもつれから王位継承権を放棄して愛妾とともに国外へ逃亡。このため、孫のミハイが6歳で王位を継承しました。

 ところが、3年後の1930年、カロルは突如帰国し、息子を退位させて自分が国王カロル2世として玉座に収まってしまいます。その後、カロル2世は独裁体制を強化していきましたが、1939年に始まった第二次大戦でルーマニアは多くの領土を失ったため、1940年に退位を余儀なくされました。これを受けて、ミハイが父親のしりぬぐいをするかたちで復位するという経緯をたどっています。

 1941年6月、いわゆる独ソ戦が始まると、ルーマニアはソ連に奪われた給料の回復をめざし、枢軸国側に立って参戦。しかし、次第に戦況はドイツ降りに傾いていったことから、1944年8月23日、国王ミハイは宮廷クーデターを起こして、親独派のアントネスク政権を追放するとともに、一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を締結しています。

 戦後、ルーマニアは敗戦国となることはなんとか免れたものの、国土にはソ連軍が進駐し、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に抑留されました。ソ連占領当局は、国王に対して親共産党政府の任命を強要しましたが、国王はこれをかたくなに拒否。このため、1947年12月30日、国王は共産主義者たちに銃口を突きつけられ退位文書に署名し、スイスへ亡命しています。今回ご紹介の証紙は、まさに国王退位の直前の1947年12月1日に発行されたもので、国王の肖像を描く王制時代の切手類としては、最後の1枚となりました。

 さて、スイス亡命後の元国王は、一時、ホーエンツォレルン公を名乗ったものの、基本的にはルーマニア国王を名乗り続けました。今回逮捕された三女は、亡命後の1953年の生まれですから、元国王ご本人からすれば“王女”ということになるのでしょうが、それをすんなりルーマニア国民が受け入れたいたかどうかは、ちょっと微妙なところかもしれません。ちなみに、元国王は現在なおご存命で、王族のウェブサイト上の声明で元王女の逮捕に対し「深い悲しみ」を表明したそうです。

 なお、王制時代を含むルーマニアの近現代史については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも、現地のカラー写真を交えてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 VEデイ
2010-05-08 Sat 23:20
 きょう(8日)は、第二次欧州大戦の対独戦勝記念日(VEデイ)です。というわけで、ナチス打倒のプロパガンダ関連マテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ソ連軍のナチス打倒

 これは、大戦末期にルーマニアで発行された軍事絵葉書で、ソ連軍とともにナチス・ドイツを打倒するルーマニア兵が描かれています。

 第二次欧州大戦直前の1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合し、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国を樹立します。

 これに対して、1941年6月22日、独ソ戦が勃発すると、ルーマニアはソ連によって奪われた土地を奪還すべく、事実上の最高権力者であったイオン・アントネスク元帥の下、ドイツ軍とともに参戦。ルーマニア軍はソ連によって押しつけられた国境であるプルート川を越え、7月16日にキシナウを解放。26日までにベッサラビアを解放しました。

 失地の回復という民族の悲願を果たしたアントネスクの声望は否が応でも高まりましたが、ドイツ側は、ルーマニアに対してここで戦線を離脱することを許しませんでした。このため、彼らはドイツの要求に従い、さらにドニエストル川を越えてオデッサ占領作戦に参加。さらに、ドイツ軍とともにクリミア半島やスターリングラードでも戦い、ヴォルガ川にまで到達しています。

 しかし、1943年以降のソ連軍の攻勢により、しだいに枢軸側は追い詰められ、1944年にはベッサラビアは再び、ソ連の支配下に組み込まれ、モルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国が復活することになりました。
 
 ソ連軍によるルーマニア占領が現実のものとなりつつある中で、劣勢のドイツ軍とともに対ソ戦を続けることに対して、国王以下、ルーマニア国内では不安が高まり、1944年8月22日、遂にクーデターが発生して、アントネスクは逮捕されます。国王は一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定も結ばれました。

 この結果、ルーマニアは“敵国”としてソ連に占領されるという最悪の事態は免れます。そして、枢軸国のハンガリーに占領されていた北トランシルヴァニアの回復を目指すことになります。

 第一次大戦終結後の1918年12月1日、トランシルヴァニアは、ハプスブルク帝国と戦い戦勝国となったルーマニアに統合されました。このとき、ルーマニア領となったトランシルヴァニアの面積は約10万3000平方キロ。旧ハンガリー政府の支配地域の31.7%を占める広大なものでした。このため、ハンガリーの親独政権は、ナチス・ドイツの支援を得て失地の回復を目指すようになり、北トランシルヴァニアをルーマニアから奪還していました。

 アントネスク体制下のルーマニアは、ドイツとの同盟関係から、北トランシルヴァニアのハンガリーへの割譲を容認せざるを得なかったわけですが、対独宣戦後は、ソ連によるベッサラビア支配を認める代償として、北トランシルヴァニアの回復が目指されるようになったというわけです。

 結局、ルーマニアは北トランシルヴァニアを回復したものの、戦勝国としての地位は認められず、1947年の講和条約では、北ブコヴィナおよびベッサラビアのソ連への割譲と賠償金の支払いを認めざるを得ませんでした。なお、ソ連のトランシルヴァニア侵攻を前に、ドイツ軍はトランシルヴァニアからおよそ10万人のドイツ系住民(ザクセン人)をソ連軍から守るため引き上げさせましたが、大戦後、ルーマニアに進駐したソ連軍は8万人以上ものザクセン人たちに“ナチスの手先”との嫌疑をかけてシベリアへ連行し、強制収容所での過酷な労働を課しています。

 ちなみに、第二次大戦時の大国に翻弄されたルーマニアの姿については、拙著『トランシルヴァニ/モルダヴィア歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧板いただけると幸いです。

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 牛に注意!
2010-05-04 Tue 18:18
 きのう(3日)未明、茨城県那珂市田崎の市道で軽乗用車が大破して止まっているのを通行人が見つけ、110番通報しました。運転していた男性は首の骨を折る重傷で「牛とぶつかった」と話しているほか、現場周辺には牧場があり、車にも牛のものとみられる白い体毛が多数付着していたそうです。で、このニュースを聞いて、ふとこんな写真を思い出しました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      牛に注意・標識

 これは、2008年にルーマニア・モルダヴィア地方の修道院めぐりをした際に、チューミルナ峠付近で見かけた“牛に注意”の道路標識の写真です。運転手の話によると、モルダヴィアの田舎では、どこの家でも最低1頭、たいていは3-4頭の牛を飼っているのだそうです。当然、牧場も多いので、柵を超えて道路に飛び出してくる牛も多く、ドライバーに注意を喚起する必要があるのでしょう。今回のような事故が続くようだと、日本でも、類似の道路標識を立てなければならなくなるかもしれませんね。

 さて、“モルダヴィアの牛”については、このブログでもいままで何度か取り上げてきましたが、こんなデザインのモノもあります。

      モルダヴィアの牛(スチャヴァ民俗博物館)     ブコヴィナ解放1周年(牛)

 左は、スチャヴァの民俗博物館の看板の紋章、右は1942年11月1日に発行された“ブコヴィナ解放1周年”の切手に描かれた“モルダビアの牛”です。いわゆる“モルダヴィアの牛”の切手の牛は、どことなく丸みを帯びた愛嬌のある顔をしていますが、今回ご紹介のものはリアルな雰囲気の精悍な顔つきです。

 さて、切手の発行の名目となった“ブコヴィナ解放1周年”についてもご説明しておきましょう。

 第1次大戦以前のブコヴィナはハプスブルク帝国の支配下に置かれていましたが、ルーマニア人が多く居住していたこともあり、第1次大戦後はルーマニア領に編入されました。

 これに対して、1939年8月23日に結ばれた独ソ不可侵条約と、9月1日の開戦を経て同月28日に結ばれた独ソ境界・友好条約を経て、ソ連はルーマニア東部、ベッサラビアを勢力圏とすることが密約されます。そして、フランス降伏翌日の1940年6月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約に基づいてルーマニア領ベッサラビアを併合するとともに、突如、ブコヴィナの割譲も要求しました。

 ブコヴィナは帝政ロシアの時代にもロシア領となったことはなく、密約の範囲を超えたソ連の要求に対してはドイツも抗議したましが、結局、ブコヴィナ地方のうちウクライナ系住民の多い北ブコヴィナ(チェルナウツィ県)のみをソ連に割譲することで独ソの妥協が成立。同月28日にはソ連軍が北ブコヴィナに進駐し、8月2日、ソ連は北ブコヴィナを南部ベッサラビアと合わせて、連邦を構成するウクライナに割譲しました。このときひかれた境界線が現在のルーマニアとウクライナとの国境となります。

 その後、1941年6月に独ソ戦が勃発すると、ルーマニアはベッサラビアと北ブコヴィナの失地を回復するためにドイツ側に立って参戦し、一時は北ブコヴィナを回復します。今回ご紹介の切手は、その1周年記念として発行されたもので、国防献金を上乗せして発売されているのが、戦時下の緊迫した空気を良く伝えています。

 しかし、スターリングラードの戦い以降、独ソ戦の戦局は急速にドイツ不利に傾き、ルーマニアでも1944年8月23日、クーデターが発生して親独派政権は崩壊。新政権はドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を調印しました。その結果、ルーマニアは1940年6月の国境を受け入れ、北ブコヴィナはルーマニアから切り離され、ソ連領に編入されることになります。そして、1991年のソ連崩壊により、この地は現在、ウクライナ領になったというわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 taxa
2010-03-15 Mon 13:57
 所得税の確定申告は今日まででしたが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ましたという方も多いのでしょうが、僕は今年もまた〆切ギリギリの提出で、ようやくホッと一息ついたというところです。というわけで、今日は“tax”ネタです。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・未納便

 これは、1911年、フランスのエクサン・プロヴァンスからブカレスト宛に差し出されたものの、切手が貼られていなかったため、到着地のブカレストでルーマニアの不足料切手を貼って料金を徴収した葉書です。

 葉書の右側に押されているTの印は、万国郵便連合の公用語・フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“taxe”の略で、郵便物の上にTの表示がある場合には、不足料を徴収すべきであることを意味しています。ちなみに、今回ご紹介しているルーマニアの不足料切手には“TAXA”の表示がありますが、これが、フランス語の“taxe”に対応するルーマニア語の単語ということになります。

 近代郵便が料金の前納制を原則としている以上、料金の未納・不足というのは一定の割合で必ず発生します。そうした場合、郵便サービスを提供する側としては、不足分+ペナルティを受取人から徴収しようとするわけですが、そうしたペナルティ込みの料金を徴収するための切手、すなわち不足料切手を発行している国というのは少なからずあります。(日本では発行されたことがありません)

 今年の申告では、昨年刊行の『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』からの収入も課税対象になっていますので、今回はルーマニアの不足料切手を持ってきてみました。来年の確定申告の日にも、今年の仕事に絡めた“tax"ネタの切手を持ってきて、シリーズ化するのも悪くないかもしれませんね。
 

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 ルーマニアの対米戦争
2009-12-08 Tue 10:36
 きょう(12月8日)は、いわずと知れた“真珠湾”の日です。というわけで、先月刊行の拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』にからめて、第二次大戦中、ルーマニアが日本の同盟国として連合国と戦っていた時代のモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ドイツ混貼・軍事    ルーマニア・ドイツ混貼・軍事(裏)

 これは、1944年8月14日、対ソ戦線のルーマニア野戦局から差し出された葉書です。ルーマニア切手に加えてドイツ軍の航空郵便用の切手(青色の飛行機の切手)が貼られているのは、ドイツ軍の軍事航空便で運ばれたからといわれています。なお、裏面にはソ連軍と戦うドイツ兵の写真が印刷されていて、なかなかカッコいいので、あわせてご紹介しておきます。

 1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合します。一方、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、同年9月に日独伊三国同盟条約(以下、枢軸条約)が結ばれると、11月にはルーマニアもこれに加入しました。

 1941年6月22日に独ソ戦が勃発すると、ルーマニアはソ連によって奪われた土地を奪還すべく、事実上の最高権力者であったイオン・アントネスク元帥の下、ドイツ軍とともに参戦し、26日までにベッサラビアを解放しました。その後もドイツは、ルーマニアに対して戦線離脱を許さなかったため、ルーマニア軍はドニエストル川を越えてオデッサ占領作戦に参加したほか、ドイツ軍とともにクリミア半島やスターリングラードでも戦い、ヴォルガ川にまで到達しています。

 この間の1941年12月8日(日本時間)、日本が米英に宣戦し、ドイツも対米宣戦を行うと、ルーマニアも枢軸陣営の一角として連合国から敵国に認定されます。そして、1942年、アメリカがルーマニアに対して宣戦布告を行い、ルーマニアはアメリカと正式な戦争状態に突入しました。

 その後、1943年降のソ連軍の攻勢により、しだいに枢軸側は追い詰められていき、1944年にはベッサラビアは再び、ソ連の支配下に組み込まれ、ルーマニア本国もソ連による占領の危機にさらされることになります。このため、劣勢のドイツ軍とともに対ソ戦を続けることに対して、国王以下、ルーマニア国内では不安が高まり、1944年8月22日、遂にクーデターが発生して、アントネスクは逮捕されました。そして、国王はドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定も結ばれました。
 
 この結果、国際法上、ルーマニアは日本とも交戦状態に突入し、第二次大戦後の1959年の国交回復まで、日本はルーマニアの“敵国”という状態になりました。

 なお、第2次大戦期のルーマニアをめぐる複雑な状況を反映したマテリアルについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さん(当日は彼女のCDも販売します)による生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。

      トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行      古館由佳子 古館由佳子さん

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです。)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。
      料理は下の画像のようなイメージで、ブッフェ・スタイルです。
      ルーマニアのワイン(もちろん飲み放題)も出ます。

       ルーマニア料理

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、12月18日までにキュリオマガジン編集部まで、電子メール(info@fujimint.com)にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。

 
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 さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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