内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 リトアニアの落選
2012-06-09 Sat 10:00
 国連総会できのう(8日)、今年9月から1年にわたり議長を務める国を決める選挙が行われ、大本命とみられたていたリトアニアが落選し、セルビアが当選しました。投票での決着は異例で1991年以来、21年ぶりのことだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        リトアニア・ソ連加刷

 これは、1940年にソ連占領下のリトアニアで発行された加刷切手です。

 長年にわたり帝政ロシアの支配下に置かれていたリトアニアは、第一次大戦末期の1918年2月16日、ロシア革命による帝政ロシアの崩壊を受けて独立を宣言。当初、独立リトアニアは王国でしたが、大戦後、共和国となりました。

 1939年8月23日、ソ連はドイツと不可侵条約を調印。同条約と合せて締結された秘密議定書において、バルト3国ルーマニア東部のベッサラビアフィンランドがソ連の勢力圏とされ、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意します。これを受けて、ドイツは同年9月1日、ソ連は9月17日にポーランドに侵攻、東西から分割占領し、第二次世界大戦が勃発しました。

 リトアニアを含むバルト3国の併合を既定路線としていたソ連は、リトアニアを油断させるため、ポーランド東部への侵攻後、リトアニアとポーランドとの係争地であったヴィリニュス地域をリトアニアに“返還”します。しかし、9ヶ月後の1940年6月、リトアニアそのものを侵攻し、ヴィリニュス地域もろとも併合してしまいました。今回ご紹介の切手は、この時期に発行されたものです。

 翌1941年6月、いわゆる独ソ戦が勃発すると、リトアニアはドイツ軍の占領下に置かれましたが、1944年、ソ連軍が再侵攻し、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入されてしまいます。リトアニアが独立を回復するのは、それから約半世紀後の1990年のことでした。

 こうした歴史的背景があるために、リトアニアでは反ソ・反露感情が根強く、欧州終戦65年に当たる2010年には国連の演説で、リトアニアが旧ソ連による併合を批判しています。

 これに対して、ロシアはリトアニアを含むバルト3国に対する反発と警戒感を隠そうとせず、2006年の国連事務総長選でラトビアのビケフレイベルガ大統領(当時)が出馬したときには「“裏庭”から影響力のある人物を出したくない」との思惑から強硬に反対し、同大統領の当選を阻止しました。

 国連総会の議長に関しては、世界の5地域から順番に選ばれ、今回は東欧グループの番だったことから、リトアニアが数年前から立候補を宣言し、選出が確実視されていました。ところが、これを阻止したいロシアの意を汲むかたちで、ロシアの伝統的な友好国であるセルビアがことし1月に名乗りを上げ、今回の投票によりセルビアが当選を果たしたというものです。

 まぁ、隣国が勢力を拡大することを望まないというのは、どこの国でも同じなわけですが、親日国でもあるリトアニアには同情を禁じえませんな。

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

 内藤陽介の『韓国現代史』・韓国進出!
       
       韓国語版・韓国現代史
     우표로 그려낸 한국현대사
    (切手で描き出した韓国現代史)

     ハヌル出版より好評発売中!

 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
スポンサーサイト
別窓 | リトアニア | コメント:0 | トラックバック:1 | top↑
 リトアニアのユダヤ人
2005-07-18 Mon 09:10
 第二次大戦下の1940年、リトアニア には、ナチス・ドイツの迫害を逃れてヨーロッパから脱出しようとするユダヤ系難民があふれていました。彼らに対して、7月18日から9月4日までの間に、2000枚以上の日本通過ビザを発給した杉原千畝のエピソードは、広く知られています。(杉原千畝については、大正出版の社長で、牛切手の世界的なコレクターでもある渡辺勝正さんの『杉原千畝―六千人の命を救った外交官 』、『決断・命のビザ 』、『真相・杉原ビザ 』が詳しいので、ご興味をお持ちの方は、ご一読をおすすめします)

 さて、そのことにちなんで、今日はこんなカバーをご紹介しましょう。

リトアニア

 このカバーは、まさにこの時期のリトアニアからパレスチナ宛に差し出されたカバーで、封筒にはリトアニア語・ヘブライ語・英語で「100万人のユダヤ人がイギリスによるバルフォア宣言の履行を求めている。ユダヤ国際嘆願書に署名しよう!」との文言が入っています。

 “バルフォア宣言”というのは、第一次大戦中、イギリスが、外相バルフォアの名前で、イギリス・シオニスト連盟会長ロスチャイルドに送った書簡の中で、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する」ことに同意をしめしたものです。イギリスがヨーロッパやアメリカのユダヤ人の支持を獲得し、また、ユダヤ系財閥の財政的支援を取り付けるために出されたもので、戦後、独立アラブ国家の建設を認めていた“フサイン・マクマホン協定”とは明らかに矛盾するもので、現在のパレスチナ問題の直接的なルーツといってよいでしょう。

 大戦間期のパレスチナでは、このバルフォア宣言をもとにパレスチナにユダヤ系移民が大量に流入したことで、在地のアラブ系パレスチナ人との間に摩擦が絶えませんでした。これに対して、パレスチナを委任統治領としていたイギリス当局の政策はまさに行き当たりばったりで、問題の解決は先延ばしにされていましたが、1939年、アラブ人の土地所有の保護や、ユダヤ人入植者の大幅な制限、アラブ主導のパレスチナ国家の独立をうたった“マクドナルド白書”をパレスチナ統治政策の柱として打ち出します。

 当然、シオニスト側は、マクドナルド白書に反発します。特に、ナチスの迫害を逃れてパレスチナへ避難することを求めるユダヤ人が急増している中で、パレスチナへのユダヤ人の入植を制限しようとするイギリス当局の姿勢は、彼らの目からすれば、バルフォア宣言を反故にした裏切り行為以外の何者でもありませんでした。

 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の中でつくられたもので、バルフォア宣言の履行、すなわち、パレスチナでのユダヤ国家の建設とユダヤ系移民の入植制限の撤廃を求めたものです。ナチスの迫害で生命の危機にさらされている彼らとしては、まさに必死の訴えだったといえます。
別窓 | リトアニア | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/