内藤陽介 Yosuke NAITO
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 満洲帝国:満鉄・満映・関東軍の謎と真実
2014-11-07 Fri 23:16
 ご報告が遅くなりましたが、洋泉社MOOKの「(歴史REAL)満洲帝国 満鉄・満映・関東軍の謎と真実』が刊行されました。僕も、同書には「植物画家の第一人者と満洲切手」と題する一文を寄稿していますので、きょうは、その記事の中から、こんな切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      溥儀訪日(1940・4分)

 これは、1940年6月から7月にかけて、“紀元2600年”の祝賀のために皇帝溥儀が日本を訪問したことを記念して、満洲国が発行した4分切手で、太田洋愛が原画を手がけた最初の1枚です。

 太田は、1910年、愛知県田原町生まれ。1929年、愛知県立成章中学校(旧制)を卒業後、満洲に渡り、奉天教育専門学校で大賀一郎(後に大賀ハスで有名になる植物学者です)に植物画の指導を受けるとともに、牧野富太郎とも親交を結びました。

 翌1930年、中学時代の恩師・石森延男の紹介により、理科教科書の挿絵画家として南満州教育会教科書編集部に入部。満洲国建国後の1933年、満洲国文教部嘱託となり、国定教科書の挿絵主任となります。なお、この頃の太田は、40号の大作『バルガの女』が安井曾太郎から高い評価を得るなど、人物画を得意とする油絵画家として知られていました。

 太田と満洲国の郵政との関係は、1940年の溥儀訪日の記念切手の原画を手がけたことから始まります。

 記念切手を準備する際、郵政総局郵政処企画科は、宮内府、総務庁弘報処、満洲帝国国立中央博物館、協和会中央本部弘報科、満洲事情案内所(観光業務を担当)、日満文化協会、日本海軍武官府などの協力を得て、デザイン制作のための資料を収集しましたが、おそらく、その過程で文教畑の太田との接点が生まれたのでしょう。

 太田の手がけた原画は、1935年の溥儀の最初の訪日時に、つがいの鶴がお召艦“比叡”上空に飛来したことをとらえ、溥儀が「禽獣にいたるまで日満両国の親善を喜ぶものにして、天地の気と人と物と自ずから相通ずるものあり」と発言したというエピソードにちなむもの。切手では、鶴とともに、満洲国の軍艦旗と日本の海軍旗章の一つである長旗を配することで、鶴が“比叡”の上空に飛来したことが表現されています。

 この切手が好評だったこともあり、以後、太田は「臨時国勢調査紀念」、「日本紀元二六〇〇年」(以上、1940年)、「建国10周年」(1942年)など、次々と満洲国の切手の原画を手がけることになりました。

 これと並行して、太田は大陸科学院による満洲植物図鑑編集事業のため、満洲全域を旅して七百数十種類の植物画を制作したほか、関東軍報道隊員として森繁久弥らと各地を回っていましたが、1945年8月1日、35歳で陸軍衛生一等兵として応召。すぐに終戦を迎えてソ連軍の捕虜となり、アングレン(現ウズベク共和国)に抑留されました。

 1948年9月に帰国すると、翌1949年、東京大学教授・前川文夫の依頼により日本樹木図鑑の原画を作成。以後は植物画家としての活動が中心となり、1970年、人事院総裁・佐藤達夫らとともに日本ボタニカルアート協会を創立するなど、植物画の第一人者として知られるようになります。

 太田が満洲時代に切手の原画を手がけたことについては、本人が余技ないしは生活のための副業と考えていたせいなのか、それとも、“侵略”に加担した過去を咎められたくないという心理が働いたせいなのか、そのあたりは定かではないのですが、あまり語られていません。

 しかし、実際には、太田は1958年に郵政省の委嘱を受けて、郵政審議会・切手図案審査専門委員に就任しており、戦後とも切手との縁が切れたわけではありませんでした。ちなみに、この1955年以降、郵政省の部内では、四季折々の花を切手に登場させようという“花切手”の企画が何度か持ち上がり、最終的に、この企画は、1961年に実現されます。残念ながら、資料的な裏付けは取れないのですが、太田と“花切手”の間には、なんらかのかたちで関連があったと考えるのが自然ではないかと思います。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろと分析しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 シンガポールで深刻な煙害
2013-06-22 Sat 10:50
 シンガポールで、インドネシア・スマトラ島での野焼きや森林火災の煙による大気汚染が深刻化し、きのう(21日)、汚染度を表す数値が観測史上初めて4段階で最悪の“極めて危険”な水準に達しました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       パレンバン・藤田嗣治     パレンバン・藤田(裏面)

 これは、大東亜戦争中に満洲・東満総省から岐阜県宛に差し出された軍事郵便用の絵葉書で、絵面には藤田嗣治の戦争画「大空に花と咲く挺身落下傘部隊の活躍(パレンバン)」が取り上げられています。差出日を示すものは何もありませんが、差出地の東満総省は、1943年10月1日、満州国が牡丹江省、東安省、間島省を統合して設置(省会は牡丹江市)し、1945年5月28日に廃止され、間島省と東満省(旧牡丹江省+旧東安省)に分割されていることに加え、「満洲も愈々春が訪れて参りました」との文面があることから、1944年もしくは1945年の4月前後に差し出されたのではないかと思います。

 一方、絵面に取り上げられている戦争画は、1942年2月14-15日にかけて、日本軍の落下傘部隊がスマトラ島・パレンバンの油田・製油所と飛行場に降下して制圧し、パレンバン市全域を占領したというエピソードを表現したものです。落下傘部隊の降下した時期は、ちょうど、シンガポール陥落(2月15日)の直前というタイミングで、激戦地のシンガポールからたなびく黒煙でパレンバン上空も視界不良だったそうです。スマトラの煙がシンガポールに影響を与えている今回のニュースとは逆の構図ですが、どちらにせよ、スマトラ島とシンガポールとの地理的な近さを感じさせる話ですな。

 ちなみに、シンガポールでは、毎年5月から10月にかけて、スマトラ島での野焼きや森林火災による煙が季節風に乗って流れ込む煙害が発生しますが、今年は事態が深刻でシンガポールの中心街は白くかすみ、焦げた臭いが立ち込め、シンガポール政府は屋外活動を控えるよう呼びかけています。きのうは両国の環境相がジャカルタで対応を協議したそうですが、シンガポールは東南アジアの金融・物流の中心地であるだけに、ちょっと心配です。

 さて、現在、夏の終戦商戦に合わせて『蘭印戦跡紀行(仮)』と題する書籍を彩流社の切手紀行シリーズ⑥として刊行すべく準備を進めております。正式なタイトルや発売日、定価などの詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、よろしくお願いします。


 ★★★ ラジオ出演のご案内 ★★★

 6月25日 24:00-24:45(正確には、26日00:00-00:45)
 
 TBSラジオ/AM 954kHz  荻上チキ・Session-22

 上記番組に生放送出演して、切手から見る国際関係や歴史といった類の話をすることになりました。番組そのものは25日22:00スタートですが、僕自身は日付変更線をまたいでからの登場予定です。

 聴取可能な地域の方は、ぜひ、お聞きください。

 
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 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 満鉄会、最後の大会
2012-10-19 Fri 22:16
 旧満州国を実質的に支えた戦前の国策会社、南満州鉄道株式会社(満鉄)の元社員や家族でつくる団体「満鉄会」が、高齢化による会員数減少で事実上の解散を決め、きょう(19日)、最後の大会を東京ステーションホテルで開催したそうです。というわけで、きょうは満鉄ネタの中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         葉峯線

 これは、1935年12月1日、満洲国の赤峯で使用された“葉峯鉄路通車紀念”の特印です。

 満鉄国線(満州国国有鉄道委託経営線)の葉峯鉄路は、葉柏寿駅から寧城県、元宝山区を経由して赤峰駅へ至る全長146.9kmの路線で、開通当時は、満洲国の熱河省内を南北に走る路線でしたが、現在の行政上は、葉柏寿は遼寧省、赤峯は内モンゴル自治区となっており、鉄道の路線としては葉赤線と呼ばれています。

 工事のための測量が開始されたのは1933年11月5日のことで、翌1934年3月28日から路盤工事が開始されました。工事の完成は1935年7月25日のことでしたが、この間、石脳トンネルの掘削や大凌河橋梁の架設などは難工事として知られ、トンネル工事では、作業員を督励するため、3000円の懸賞金がかけられました。

 今回ご紹介の特印の日附となっている1935年12月1日は葉峯鉄路としての本営業開始の日ですが、特印の使用局が僻地であったことに加え、使用日数も短かったため、満洲国の特印としては珍印として知られています。

 なお、満洲国の切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★  T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★
   
・よみうりカルチャー荻窪
 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

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 紅い高梁
2012-10-11 Thu 22:49
 日本人作家・村上春樹の授賞が期待された今年のノーベル文学賞は、中国人作家で中国作家協会副主席の莫言が受賞しました。莫といえば、やはり「紅いコーリャン」でしょうから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       国都建設4分

 これは、1937年9月16日、満洲国で発行された「国都建設記念」の4分切手です。満洲国の切手には、1932年に発行された最初の普通切手以来、しばしば、満洲を象徴する植物として高粱が取り上げられています。そのうち、紅色で最も大きく高粱が描かれているモノということで、持ってきました。

 1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された時、新国家の首都は奉天になるであろうというのが大方の予想でした。当時の奉天は人口50万クラスの大都市であり、満洲在住の日本人経済の中心地であるだけでなく、満洲事変後には関東軍司令部も置かれて政治工作の中心地にもなっていたからです。

 したがって、3月10日、新国家の首都が、奉天に次ぐ第2の都市である哈爾浜でもなければ、“満洲の京都”とも称された吉林でもなく、長春に定められた時、奉天の人々は強い衝撃を受けたといわれています。ちなみに、長春が満洲国の新たな首都として“新京”と改称されたのは3月14日のことでした。

 都市としての長春の歴史は、日本の満鉄支配とほぼ軌を一にしているといえます。

 すなわち、1898年、東清鉄道の南部支線として哈爾浜=旅順間の鉄道敷設権を獲得した帝政ロシアは、この地の行政機関として置かれていた長春城の北西に寛城子駅を設けました。1905年、日露戦争のポーツマス条約でロシアから大連=寛城子間の鉄道(これが南満洲鉄道株式会社、すなわち満鉄のルーツです)を譲り受けた日本は、この寛城子駅と長春城の間に鉄道付属地を設定して長春駅を建設します。以後、長春は東清鉄道と満鉄の接続地として、市街地の建設が本格的に進められることになりました。

 とはいえ、満洲国建国の時点での長春は、人口たかだか13万人のローカル都市に過ぎません。それにもかかわらず、関東軍がこの地を“新京”と改名して満洲国の首都としたのには、それなりの理由がありました。

 まず、奉天や哈爾浜は大都市であるがゆえに、旧東三省政府やロシアないしはソ連などの影響力が抜きがたくしみついていました。さらに、満洲全体のバランスを考えた時、奉天はあまりに南に位置しており、哈爾浜はあまりに北に位置しています。

 さらに、奉天や哈爾浜と比べると長春は地価も安く、用地買収が容易であり、新国家の首都としての都市計画を実施するうえでフリーハンドを確保しやすかったという事情もありました。そうした土地を“新京”と名づけ、新たな都市の建設を通じて、満洲国という新国家の存在を内外にアピールすることは統治の技術論からすればきわめて重要なことですが、既存の大都市である奉天や哈爾浜を舞台としては、そうしたイメージ戦略を発動することは困難です。

 こうして、4月11日、国務院の中に国都建設局を設置して本格的な都市計画に乗り出した満洲国政府は、5年後の1937年中の完成を目指して、国都建設第一期事業としておよそ20平方キロの地域の整備に着手。その総予算は3000万円でした。ちなみに、1932年度の満洲国の国家予算は1億1300万円です。

 新たに建設される都市の軸線になったのは、市街地の南北を貫く大同大街と大同大街の西側を併行に走る順天大街の二本の幹線道路でした。

 このうち、大同大街は満洲国建国当初の年号である“大同”にちなんで名づけられたもので、幅54メートル。満鉄の新京駅から南へまっすぐ伸びており、その途中に設けられた外周約1キロの円形広場(大同広場)から四本の道路が放射状に延びています。満洲国の実質的な支配者である関東軍の司令部は、この大同大街と東西方向の幹線道路であった興仁大街の交差点にありました。

 一方、順天大街は皇帝溥儀のために建てられた新宮殿から南に伸びており、幅は60メートル。その両側は官庁街となっています。順天の名は、満洲国の建国宣言にある「新国家建設の旨は、一に以て順天安民を主と為す」から取られました。

 この区画に、まず1933年5月、満洲国政府の第一庁舎が建てられ、翌6月、第二庁舎が建てられます。その後、官衙建設は1934年から本格的に開始され、1936年には満洲国政府の象徴ともいうべき国務院庁舎が完成しました。

 こうして、国都建設第一期事業は、1937年9月16日、完了が宣言されます。この日取りは、建設事業の主役であった国都建設局が1932年に発足した記念日にちなんだもので、それゆえ、当日、溥儀の臨席の下、大同広場で行われた記念式典は、正式には「国都建設五周年記念式典」と呼ばれました。

 今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行された4種セットのうちの1枚で、切手の発行に際して、交通部は国都建設事業の成果を広く内外に誇示する意図も込めて、「國都建設の威容及び國民慶祝の状を表現せるものにして、高尚平易なるもの」とする切手図案の懸賞公募を行いました。公募は1937年6月15日に締め切られ、その最高賞を得た石川酵佑の作品が若干の修正を経て切手のデザインとして採用されています。

 このうち、今回ご紹介の切手の主題は、国務院庁舎と満洲国国旗です。切手の構図は、1936年のベルリン・オリンピックのポスターをもとにして作られたもので、切手の両脇には、満洲国の象徴としての高粱と勝利と栄誉のシンボルである月桂樹が描かれました。

 なお、この切手を含む満洲国の切手とその背景については、拙著『満洲切手』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

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 * よみうりカルチャー北千住の講座受付は終了いたしました。

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 満洲国建国80年
2012-03-01 Thu 10:49
 1932年3月1日に満洲国が建国を宣言して、きょうでちょうど80年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        満洲国建国5周年(3分)

 これは、1937年3月1日に満洲国が発行した建国5周年の記念切手のうち、3分切手です。

 1932年3月1日に満洲国の建国が宣言された時、新国家の首都は奉天になるであろうというのが大方の予想でした。当時の奉天は人口50万クラスの大都市であり、満洲在住の日本人経済の中心地であるだけでなく、満洲事変後には関東軍司令部も置かれて政治工作の中心地にもなっていたからです。

 このため、3月10日、新国家の首都が、奉天に次ぐ第2の都市である哈爾浜でもなければ、“満洲の京都”とも称された古都・吉林でもなく、長春に定められた時、奉天の人々は強い衝撃を受けたといわれています。ちなみに、長春が満洲国の新たな首都として“新京”と改称されたのは3月14日のことでした。

 都市としての長春の歴史は、日本の満鉄支配とほぼ軌を一にしています。

 1898年、東清鉄道の南部支線として哈爾浜=旅順間の鉄道敷設権を獲得した帝政ロシアは、この地の行政機関として置かれていた長春城の北西に寛城子駅を設けます。1905年、ポーツマス条約でロシアから大連=寛城子間の鉄道(これが南満洲鉄道株式会社、すなわち満鉄のルーツです)を譲り受けた日本は、この寛城子駅と長春城の間に鉄道付属地を設定して長春駅を建設しました。以後、長春は東清鉄道と満鉄の接続地として、市街地の建設が本格的に進められることになりました。

 とはいえ、満洲国建国の時点での長春は、人口たかだか13万人のローカル都市に過ぎません。それにもかかわらず、関東軍がこの地を“新京”と改名して満洲国の首都としたのには、それなりの理由がありました。

 まず、奉天や哈爾浜は大都市であるがゆえに、旧東三省政府やロシアないしはソ連などの影響力が抜きがたくしみついていました。さらに、満洲全体のバランスを考えた時、奉天はあまりに南に位置しており、哈爾浜はあまりに北に位置しています。

 また、奉天や哈爾浜と比べると長春は地価も安く、用地買収が容易であり、新国家の首都としての都市計画を実施するうえでフリーハンドを確保しやすいという面もありました。そうした土地を“新京”と名づけ、新たな都市の建設を通じて、満洲国という新国家の存在を内外にアピールすることは統治の技術論からすればきわめて重要なことですが、既存の大都市である奉天や哈爾浜を舞台としては、そうしたイメージ戦略を発動することはできません。ちなみに、満鉄や中東鉄道の路線からはずれた吉林は、そのアクセスの悪さから、早々に首都候補から脱落しています。

 こうして、4月11日、国務院の中に国都建設局を設置して本格的な都市計画に乗り出した満洲国政府は、5年後の1937年中の完成を目指して、国都建設第1期事業としておよそ20平方キロの地域の整備に着手しました。その総予算は3000万円。ちなみに、1932年度の満洲国の国家予算は1億1300万円です。

 新たに建設される都市の軸線になったのは、市街地の南北を貫く大同大街と大同大街の西側を併行に走る順天大街の2本の幹線道路でした。

 このうち、大同大街は満洲国建国当初の年号である“大同”にちなんで名づけられたもので、幅54メートル。満鉄の新京駅から南へまっすぐ伸びており、その途中に設けられた外周約1キロの円形広場(大同広場)から4本の道路が放射状に延びています。満洲国の実質的な支配者である関東軍の司令部は、この大同大街と東西方向の幹線道路であった興仁大街の交差点にありました。

 一方、順天大街は皇帝溥儀のために建てられた新宮殿から南に伸びており、幅は60メートル。その両側は官庁街となっている。順天の名は、満洲国の建国宣言にある「新国家建設の旨は、一に以て順天安民を主と為す」から取られました。

 ここに、まず1933年5月、満洲国政府の第一庁舎が建てられ、翌6月、第二庁舎が建てられました。その後、官衙建設は1934年から本格的に開始され、1936年には満洲国政府の象徴ともいうべき国務院庁舎が完成しています。

 今回ご紹介の切手は、そうした国都建設第一期事業も完了間近となった1937年3月1日に発行されたものですが、建設が進む国都・新京の様子を象徴するものとして、「大廈高楼に車馬輻輳の影絵を配し」たデザインとなっています。

 “大廈高楼”とは、現代の日本語で言うと“巨大高層建築”くらいの意味になりましょうか。ちなみに、1933年に満洲帝国国務院国都建設局が発行した『国都建設の全貌』では、新たに建設されるべき官庁街を指して次のように説明しています。

 満洲国の官庁の中、文教部、司法部、外交部、国都建設局、財政部、交通部、国道局の洋風建物はすでに荒蕪の一廓に聳立している。その他官衙の造営も間近に迫っている。古代的優雅な殿堂と近代的明朗な大廈高楼が色とりどりの趣向を凝らし、緑樹に埋まる大市街の出現する日も遠くはない。
 
 一方、“車馬輻輳”とは、自動車や馬(車)などが集中して混雑する様子を意味する言葉ですが、切手では画面の下のほうに小さく描かれているだけなので、ややわかりづらいですな。それだけ、新たに造営された“大廈高楼”が巨大であることを示したかったということなのでしょう。昨日完成した東京スカイツリーの巨大さを示すために、下方に豆粒のような人や車を描くのと同じということなのかもしれません。

 なお、満洲国の切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * けさ、カウンターが99万PVを越えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

  ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 

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 切手を作った人々:加曾利鼎造 ②
2009-03-21 Sat 11:54
 ご報告が遅くなりましたが、東京郵便切手類取引所(TOPHEX)による『スター☆オークション』(3月28日実施)のカタログ第3号ができあがりました。同誌のオマケの読み物として、僕が担当している連載「切手を作った人々」は加曾利鼎造の2回目。今回はこんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

 満洲・白塔

 これは、1932年7月26日に発行された満洲国の第一次通常切手のうち、遼陽の白塔を取り上げた1分切手です。

 1932年3月1日、満洲国の建国が宣言されると、さっそく新国家の新しい切手の制作作業が開始されます。原画の制作作業は関東庁逓信局の集めた資料を基に東京の逓信博物館の吉田豊を中心に進められ、最終的に遼陽の白塔を取り上げたものと溥儀の肖像を描いたものが関東軍司令官・本庄繁らの承認を得て採用されたのは広く知られています。

 このうち、溥儀の切手は吉田単独の作品でしたが、白塔の切手は、塔の部分を吉田が担当し、周囲の輪郭を加曾利が担当しています。

 切手の原画作者としての加曾利を評する際、文字や輪郭など、いわばデザイン上の脇役の部分にその才能がいかんなく発揮されていたことが指摘されていますが、それは、彼が画家としてではなく純然たる図案家として出発したことと無関係ではないのかもしれません。

 すなわち、加曾利は1923年に東京美術学校の図案科を卒業し、教師などを経て1925年に逓信博物館図案部員として逓信省に入省しています。美術学校時代の卒業制作は「客室及喫煙室附属装飾図案」で、いわゆる絵画作品ではありません。

 画家の作品がそれ自体独立して完結したものであるのに対して、図案家の作品は、彼の“図面”を元に別の人間が製品化することで初めて現実のものとなります。それはちょうど、建築家の作品(設計図)が職人の手を経ない限り、現実の建物としては存在しえないのと全く同じことです。図案家には単なる画力だけではない、別の能力が必要とされるということは、たとえば、著名画家の作品が切手の原画としてそのまま優れているわけではないというケースがままあることからもお分かりいただけるものと思います。

 さて、今回の切手の輪郭に描かれた高粱は、写実的なものではなく(例えば、写実的な高粱をフレームに描く切手としては、満洲の航空切手があります)、多分にデザイン化・簡略化されたものですが、そこにこそ、図案家としての加曾利の個性を感じ取ることができるのではないかと思います。

 なお、満洲国とその切手については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、そちらもあわせてご覧いただけると幸いです。

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 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(右上の画像:山内和彦さん撮影)が掲載されました。記事はこちらでお読みいただけます。
 
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 『郵趣』今月の表紙:満洲国建国1周年
2008-10-29 Wed 14:57
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』2008年11月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 満洲国建国1周年(10分)

 これは、1933年3月1日に満洲国で発行された“建国1周年”の記念切手のうちの10分(1角)切手です。“建国1周年”の記念切手は4種セット(デザインは2種)で発行され、『郵趣』の表紙にもセットで載せているのですが、地図と国旗のデザインのモノは以前の記事でもご紹介しましたので、今回は旧国務院庁舎を取り上げたモノをご紹介することにします。

 満洲国の国務院庁舎は、後に新国家の首都である新京の都市計画の一環として新築されますが、建国当初は、旧長春市公署の建物が接収され、使用されていました。この建物は、もともとは、清代にこの地域を管轄していた地方役所、道台衙門の建物で1908年の竣工です。満洲国の建国後は国務院のほか、参議府(執政・溥儀の諮問機関。日本の枢密院に相当)、外交部(日本の外務省に相当)、法制局などにも用いられ、国務院の新庁舎完成後は、一般に“旧国務院庁舎”と呼ばれていました。

 切手に取り上げられているのは庁舎の玄関部分で、その両脇には、高粱と並ぶ満洲国の主要農産物である大豆が配されています。

 ところで、今回ご紹介の切手では“建国一周年記念”と“記念”の表示が使われている点も見逃せません。

 実は、“記念”という表記は日本式のものであって、中国語で同様の意味内容を伝える場合には“紀念”と表記するのが一般的です。これは、切手のデザインを担当したのが、日本人の吉田豊であったがゆえの結果なのでしょうが、そうしたところからも、満洲国の支配下で生活している人々は、彼らを統治している政府が日本人によって作られたものであることを結果的に見せつけられていたと解釈することは可能でしょう。

 さて、今回の『郵趣』では、いよいよ今週末から開催の<JAPEX>を前に、満洲・東北切手展とブラジル切手展の2大特別展示の誌上予告特集となっています。このうち、満洲・東北切手展は、リニューアルされた旧水原コレクションをはじめ、日本国内はもとより、台湾・香港から満洲・東北地域に関する超一流のコレクションが一堂に会する滅多にない機会です。また、ブラジル切手展では、世界的な名品として名高い“牛の目”のコレクションをはじめ、こちらも見逃せない内容となっています。みなさまのお越しを心よりお待ちしております。
  

 イベントのご案内

 11月1日(土)-3日(月・祝) 全国切手展<JAPEX>

 ことしも、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館と目白の切手の博物館の2ヶ所で開催します。今年の目玉は、何といっても“満洲・東北切手展”ですが、トーク関係での僕の出番は、以下のとおりです。

 11月1日(土)
  13:00 “満洲・東北切手展”特別シンポジウム(池袋会場)
  16:00 特別対談「満洲における写真、絵葉書、郵趣」(池袋会場)
 11月2日(日)
  13:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)
  15:00 中公新書ラクレ presents 『大統領になりそこなった男たち』刊行記念トーク(池袋会場)
 11月3日(月・祝)
  11:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)

 トークそのものの参加費は無料ですが、<JAPEX>への入場料として、両会場共通・3日間有効のチケット(500円)が必要となります。あしからずご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。


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 チチハルからの葉書
2008-06-08 Sun 11:41
 中国黒竜江省斉斉哈爾(チチハル)市で5日に有毒ガスが漏れ、3人が死亡する事故がありました。当初、一部のメディアは旧日本軍の遺棄化学兵器であるかのように報じていましたが、結局、問題のガスは旧日本軍とは何の関係もなかったことが明らかになりました。まぁ、なんだかなぁ…というお騒がせニュースですが、斉斉哈爾がらみということで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 チチハルの葉書

 これは、満洲国時代の1943年7月3日、斉斉哈爾から福岡県宛の葉書です。消印には、斉斉哈爾の属する“龍北(省)”の文字も小さく入っています。使われている葉書は、満洲国の建国10周年にあたる1942年9月15日に発行された“一徳一心葉書”と呼ばれるもので、下部には“死生存亡斷弗分攜”の標語が入れられています。

 満洲国では、1942年3月1日、郵便料金が改正され、葉書料金は2分から3分に値上げされましたが、あらたに新料金用の葉書である一徳一心葉書は、料金改正から半年以上も過ぎてから、ようやく、発行されました。

 葉書の印面は、日本の象徴である菊と満洲国の象徴である蘭をならべて“一徳一心”のスローガンを入れたもの。ここでいう“一徳一心”とは、1935年に最初の訪日から帰国した溥儀が発した“囘鑾訓民詔書”の一節、「朕、日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ此ノ意ヲ休シ友邦ト一徳一心以テ両国永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道徳ノ真義ヲ発揚スヘシ」からとったスローガンで、ここでは、日本と満洲国が一体であり、日本の戦争に満洲国が協力するのは義務であるという主旨で使われています。

 一方、下部に入っている“死生存亡斷弗分攜”の標語は太平洋戦争の開戦時に溥儀が発した詔書の一節「死生存亡斷シテ分攜セス」を引用したもので、やはり、日満両国は生きるも死ぬも一体であることを訴えたものといえます。その意味では、日満の一徳一心を表現した印面のデザインを補強するようなものといってよいでしょう。

 なお、一徳一心葉書の下部に入っている標語には、中文4種・和文4種のバリエーションがありますが、その内容や歴史的背景などについては、拙著『満洲切手』でご説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 満洲切手とTの印
2008-03-17 Mon 23:50
 今年は曜日の関係で、例年だと3月15日締め切りの所得税の確定申告が2日後の17日締め切りで助かりました。手回し良く2月中に済ましたという方も多いのでしょうが、僕なんかは今年もまた〆切ギリギリの提出で、ようやくホッと一息ついたというところです。

 というわけで、今日は“taxe(=tax)”がらみのネタを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 満洲・不足料カバー

 これは、1933年8月、満洲国の支配下にあった延吉から北平(現・北京)宛に差し出されたカバーで30分(=3角)の切手が1枚貼られています。当時、満州国から中国本土宛の封書の基本料金は4分でしたが、延吉のYMCAの封筒を用いているところを見ると、差出人は外国人で(宣教師か?)、手元にあった切手をそのまま使ったのでしょう。30分という金額は、当時の中国人にとっては無駄にするには惜しい金額だったでしょうが、欧米人の感覚からするとたいしたことはなかったのかもしれません。

 さて、1932年3月1日に満州国は建国を宣言しますが、当初は中華郵政の時代の切手がそのまま使われており、満州国独自の切手が発行されたのは1932年7月26日のことでした。ところが、満洲国の存在じたいを認めなかった中国側は、満洲国の発行した切手についても、郵便には無効なラベルとして扱い、満洲国の切手が貼られた中国宛の郵便物については、受取人から不足料金を徴収するという対応をとっています。

 すなわち、1932年7月、東三省からの郵政撤退に際して中国側が発した声明には「(満洲国の支配下にある地域の郵便)業務停止期間中、欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず、スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送するよう改め、万国郵便連合加盟国の郵便局は中国と各国との往来郵便物に対しても、これに準じて扱ってほしい。東三省(=満洲国の支配地域)において発行される切手は、中国郵政総局の許可を得ていないもので、これは絶対に承認せず、この種の切手を貼った各種書状や小包は、すべて料金不足として処理する」との内容が記されています。

 この声明にしたがって、このカバーの場合、郵便物を受け取った中国側は、満洲切手を無効のものとして、カバーの表面に料金の未納・不足を示すTの印を押し、受取人から徴収すべき金額として10(分。ペナルティ込み)と青鉛筆で記しました。なお、Tの文字は、万国郵便連合の公用語・フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“taxe”の略で、郵便物の上にTの表示がある場合には、不足料を徴収すべきであることを意味しています。

 このカバーの場合は、到着地の北平で10分相当の不足料切手(未納・不足分の料金を徴収するために用いられる切手)が貼られており、その金額が受取人から徴収されていることがわかります。このように、中国側としては、満洲国の切手の有効性を否定することによって、切手を発行した満洲国の正統性も否定しようとしていたわけです。 

 なお、このあたりの事情については、拙著『満洲切手』でもいろいろとまとめてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 松花江鉄橋とハルピン
2008-03-01 Sat 07:55
 かねてご案内のとおり、本日10:10から、東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性のセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」にコメンテーターとして登場します。というわけで、かつてのハルピンの風景をしのばせるものは何かないかと思って、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 松花江

 これは、1937年4月1日に満洲国が発行したエアメール用の39分切手で、松花江鉄橋上空を飛ぶ飛行機が描かれています。前年の1936年12月5日には、これと同じデザインの38分切手が発行されていますが、1937年4月1日の郵便料金改正で今回ご紹介の切手が発行されたため、こちらは短命に終わりました。

 黒龍江省の中南部、北流してアムール川に注ぐ松花江の河畔に位置するハルピンは、19世紀末まではひなびた田舎町でした。しかし、1898年、帝政ロシアが清朝と旅順大連租借条約を結び、ハルビンから大連に至る南満州支線の敷設権を獲得したことで、ハルピンは帝政ロシアによる満洲支配の拠点として急速に発展することになります。今回ご紹介の松花江鉄橋は、ロシアの鉄道がハルピンに入るために架けられたもので、ハルピンのランドマークのひとつでした。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得します。これらの鉄道を経営し、それに付随するさまざまな業務(付属地経営など)を担当する国策会社として1906年に設立されたのが、南満洲鉄道株式会社、いわゆる満鉄です。

 しかし、長春以北の1732.8キロの区間に関しては、日露戦争後も、帝政ロシアが営業権のみならず沿線の鉱山権や林業権も含めて保持。さらに、ロシア革命後の1919年、ボリシェビキ政権はカラハン宣言を発して中国にあった帝政ロシアの権益一切の放棄を表明したものの、中東鉄道(中華民国の成立後、こう呼ばれるようになった)については、一方的にその権益を放棄するのではなく、条約を締結して処理しようとしています。これに対して、中国側は中東鉄道の利権回収を強く主張し、1920年、中東鉄道は中国と露亜銀行(Russo-Asiatic Bank)の共同管理下に置かれ、1924年には民営化されましたが、それでも、長春以北の鉄道経営はソ連が実質的に掌握していました。そして、ハルピンは、そうしたロシアないしはソ連の満洲支配の拠点として重きをなしています。

 こうしたことから、1931年に満洲事変が勃発した際にも、長春以北への関東軍の進軍は容易ではなく、満洲域内の鉄道網は、長春を境界として、ソ連と日本が勢力を二分する状況が続いていました。

 このため、満洲国は建国直後の1932年からソ連との交渉を開始し、1935年3月、ようやく中東鉄道の買収に成功。かくして、中東鉄道は国線(満洲国の国有鉄道)の北満鉄道として満洲国内の他の鉄道と同じく満鉄が経営することになり、満洲の鉄道の一元化がようやく実現。同年9月には、満鉄が世界に誇る豪華特急列車“あじあ号”の運転区間もそれまでの大連=新京間からハルピンまで延長され、ハルピンへの日本人の進出も加速されていくことになります。

 今回ご紹介の切手が発行されたのは、まさに、中東鉄道が満洲国の支配下に入って間もない時期のことで、飛行機とあわせて、ハルピン以北へ満洲国の交通網が拡充されていくことの象徴として、松花江鉄橋が取り上げられたものと考えられます。

 なお、満鉄と切手や郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明していますので、きかいがありましたら、ぜひ、こちらも合わせてご覧いただけると幸いです。

 ご案内 
 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(パーティーの詳細やお申し込みはこちらからお願いします)

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