内藤陽介 Yosuke NAITO
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 コート・ディヴォワールと蹴球
2014-06-14 Sat 11:25
 サッカーのW杯は、日本時間の明朝(15日)、日本代表が初戦の相手コート・ディヴォワールと対戦します。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コートディヴォワール・サッカー

 これは、1961年、当時のコート・ディヴォワールの首都、アビジャンで行われた“友好大会”の記念切手のうち、サッカーを取り上げた25フラン切手です。

 アフリカで国際的なスポーツ大会を開こうというプランは、1923年、ピエール・ド・クーベルタンが最初に提唱。1924年のパリ五輪から準備が進められ、翌1925年には最初の開催地としてアルジェが内定しました。しかし、準備の過程で、スポーツを通じてアフリカのナショナリズムが高揚することを恐れた各国の植民地当局の反対により、大会は行われないままに終わりました。

 その後、あらためて1928年または1929年にエジプトのアレキサンドリアでアフリカ大会を開催することが計画されましたが、この大会もアルジェ大会と同様の理由で英仏両国の反対により中止されています。

 1958年、フランス第5共和政がスタートし、旧フランス連合は共和国(本国・海外県・海外領土)と共同体構成国からなるフランス共同体に改編されることになり、共同体構成国には、外交・国防・通貨・経済などの権限を除き、大幅な自治が認められることになりました。これを受けて、仏領アフリカには多数の自治共和国が発足しましたが、その紐帯を維持するため、ドゴールは“友好大会(Jeux de l'Amitié)”の名でアフリカを中心とする国際スポーツ大会を計画。1960年4月には、その第1回大会がマダガスカルのタナナリボで開催されました。そして、翌1961年12月に第2回大会として開催されたのが、今回ご紹介の切手のアビジャン大会です。

 さて、コート・ディヴォワールは、1958年12月、フランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月7日に正式に独立。初代大統領には、独立運動の指導者だったフェリックス・ウフェ=ボワニが就任しました。

 独立後のウフェ=ボワニ政権は、親仏政策を取るとともに、コート・ディヴォワール民主党(PDCI。もともとはアフリカ民主連合のコート・ディヴォワール支部)による一党独裁体制を敷き、主要産業であるカカオの生産と輸出を国家が管理する体制を構築し、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、彼の国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。
  
 さて、コート・ディヴォワールのサッカー代表チームは、正式独立直前の1960年4月13日、タナナリボでの大会でベナン代表と戦ったのが初の公式戦で、3-2で初勝利を挙げています。

 FIFAワールドカップへの参加は1974年が最初のことでしたが、以後、2002年大会まですべて予選で敗退しており(1982年は不参加)、2006年になってようやく初出場を果たし、以後、2010年、2014年と計3回の出場しています。

 ところで、コートディヴォワールでは、1993年にウフェ=ボワニが現職のまま亡くなると、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しますが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生。2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦状態となりました。

 こうした状況の中で、2005年、コート・ディヴォワール代表がW杯初出場を決めた試合の直後、エース・ストライカーのディディエ・ドログバが、ロッカールームからの中継で国民に内戦の停止と選挙の実施を呼びかけたことで、戦闘が一時休止。さらに、W杯後の2007年6月3日、ドログバが大統領に直訴して、反政府勢力が実効支配していた北部でコート・ディヴォワール代表とマダガスカル代表の試合を実現したことが、南北の和解の糸口となり、その後の暫定和平交渉につながったというエピソードもあります。

 明日の試合では、そのドログバも出場することになるのでしょうが、どんなプレーを見せてくれるのか、楽しみですな。


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       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

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 首相、コート・ディヴォワールへ
2014-01-11 Sat 10:18
 中東・アフリカ諸国を歴訪中の安倍晋三首相は、きのう(10日)、2番目の訪問国、コート・ディヴォワールを訪問し、最大都市のアビジャン(現在のコート・ディヴォワールの首都はヤムスクロです)でワタラ大統領と会談しました。日本の首相の仏語圏西アフリカ地域への訪問は、今回が初めてのことだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       コート・ディヴォワール・切手展

 これは、1969年2月14-23日にアビジャンで開催されたアフリカ地域の国際切手展<PHILEXAFRIQUE>の記念切手で、同国出身の画家、クリスティアン・アシャルムの1966年の作品『グラン・バッサム』が取り上げられています。グラン・バッサムは、コート・ディヴォワール南部、ギニア湾岸の都市で、1893年から1896年までは仏領コート・ディヴォワールの首都だったこともあります。

 1969年の<PHILEXAFRIQUE>は仏語圏西アフリカ諸国からの出品を中心に開催された国際切手展で、当時、仏語圏西アフリカ諸国ではオムニバス形式で記念切手が発行されました。コート・ディヴォワールが最初の開催国となったのは、当時、この地域で同国の政情がきわめて安定しており、経済力でも他を圧倒していたという事情があります。今回、安倍首相が、仏語圏西アフリカ諸国で最初の訪問先にコート・ディヴォワールを選んだのは、3億人を擁する西アフリカ諸国の中で同国が経済の中心と位置付けられているからと説明されていますが、今回ご紹介の切手も、それを歴史的に裏付ける証拠といえるかもしれません。

 コート・ディヴォワールは西アフリカのギニア湾に面した国で、東にガーナ、北にブルキナファソ、マリ、西にギニア、リベリアと国境を接しています。

 もともと、この地域は、15世紀にポルトガル、イギリス、オランダなど西欧の貿易船が奴隷と象牙の売買に来航し、以来、象牙海岸と呼ばれていました。1960年の独立に際しては、フランス語の“コート・ディヴォワール(Côte d'Ivoire)”が国号とされましたが、その後も多くの国は“象牙海岸”を自国語に訳してしまい、日本語・中国語の“象牙海岸”、英語の“Ivory Coast”、ドイツ語の“Elfenbeinküste”、スペイン語の“Costa de Marfil”、イタリア語の“Costa d'Avorio”等の表記が各国で用いられていました。このため、コート・ディヴォワール政府は、各国に対して翻訳国名ではなくフランス語国名の使用を要請。現在では、日本の公文書でも“象牙海岸”ではなく、“コートジボワール”と表示されるようになりました。

 さて、この地域におけるフランスの進出は17世紀から本格的に始まり、1893年にはフランスが植民地化します。ただし、現地住民の抵抗も強く、現在のコート・ディヴォワール国家に相当する領域全域をフランスが制圧したのは1917年のことでした。

 第二次大戦後、フランス第4共和政が成立し、植民地からも議員が選出できるようになると、1946年、ウフェ=ボワニ(後のコート・ディヴォワール初代大統領)を中心に仏領西アフリカと仏領赤道アフリカの政治家が集まってアフリカ民主連合を結成。独立運動を展開します。

 その後、アフリカ民主連合内で、仏領各植民地の分離独立論と汎アフリカ主義・仏領西アフリカ連合論が対立すると、ウフェ=ボワニは分離独立派の中心人物として活動。フランス第5共和政の発足に伴い、コート・ディヴォワールは、1958年12月、フランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月7日に正式に独立。初代大統領にはウフェ=ボワニが就任しました。

 独立後のウフェ=ボワニ政権は、親仏政策を取るとともに、コート・ディヴォワール民主党(PDCI。もともとはアフリカ民主連合のコート・ディヴォワール支部)による一党独裁体制を敷き、主要産業であるカカオの生産と輸出を国家が管理する体制を構築し、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、彼の国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、1980年代以降はカカオの国際相場の下落による経済の悪化や、PDCIの一党独裁に対する国民の不満が高まったこともあり、1990年10月には初めて複数候補による大統領選を実施せざるを得なくなります。このときの選挙ではウフェ=ボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イヴォワール人民戦線(FPI)など野党もわずかながら初めて議席を獲得しました。

 ウフェ=ボワニは大統領在任中の1993年に現職のまま亡くなると、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しますが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生。2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦状態となりました。

 その後、2007年3月、紛争当事者であるバグボ大統領と反政府勢力ソロ“新勢力”事務局長との間で和平プロセスを進めるための合意(ワガドゥグ合意)が成立し、とりあえず、国を二分する状況は解消されました。しかし、和平ならびに選挙プロセスは大幅に遅れ、2010年11月に行われた内戦後初の大統領選挙では、ワタラ新大統領が国際社会の承認を得て勝利宣言を行い、一度は就任式を行ったものの、バグボ前大統領側がこれを認めず、独自に就任式を行って内戦が再燃。2011年4月11日に前大統領の身柄が拘束されるまで、約4カ月にわたる内戦で、推計3000人が犠牲になり、敵対勢力の襲撃を恐れ避難生活を続ける住民も全土で3万人にも及びました。また、その余波で、現地の日本大使公邸が襲撃され、岡村善文大使がフランス軍に救出され命からがらパリに逃げ出すということもありましたな。

 前大統領の拘束を受け、新大統領は、2011年5月5日に旧バグボ派の憲法評議会に当選を改めて認定させ、翌6日には就任宣誓もやり直し、手順を踏んだ上で、ようやく、ワタラ政権が正式にスタートしました。その後は、情勢は落ち着きつつあるものの、虐殺疑惑の真相解明、国民和解などの重い課題が残されています。

 コート・ディヴォワールの現代史を概観すると、あらためて、初代大統領ウフェ=ボワニの偉大さがわかります。過去の植民地支配に対する怨念にとらわれず、西側寄りの穏健かつ現実的な外交政策をとってきたことで“イヴォワールの奇跡”と称される経済成長を実現したウフェ=ボワニの物語は、一党独裁体制下での長期政権ということともあわせて、“漢江の奇跡”を実現した韓国の朴正熙時代とパラレルなものがあるともいえそうです。いずれにせよ、外国人による植民地支配の経験がその国の人々にとって不愉快なものであることは誰しも否定できない事実ですが、そのこととは別に、植民地支配によってもたらされた“恩恵”の部分を冷静に受け止め、現実的な国益という観点から、旧宗主国に対しても穏健な外交政策を展開できるか否かが、新興独立国の国家建設が成功するかの分かれ道となっているといえそうです。その意味でも、漢江とイヴォワールのふたつの“奇跡”の物語を比較してみると、いろいろと興味深いことが浮かび上がってくるかもしれません。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。

 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。

 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。

大浮世絵展・紹介記事


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 約5ヵ月ぶりの大統領就任式
2011-05-22 Sun 22:55
 昨年11月に行われた大統領選挙の結果をめぐり内戦状態にあったアフリカのコート・ディヴォワールで、きのう(21日)、選挙で勝利していたワタラ新大統領の就任式がようやく開かれました。というわけで、きょうはコート・ディヴォワールのネタです。(画像はクリックで拡大されます)

        コート・ディヴォワール軍事切手

 これは、1967年にコート・ディヴォワールで発行された“軍事切手”です。デザインは、国旗と同じ並びの三色のストライプを背景に、太陽と月桂樹に象(やはり“象牙海岸”ですからね)を組み合わせたコート・ディヴォワール国軍の徽章を配し、その上に軍事切手であることを示す“Franchise Militaire”の文字もしっかりと入っています。

 コート・ディヴォワールの軍事切手については、その詳細はよくわからないのですが、旧宗主国のフランスでは、部隊に勤務している兵・下士官に対して1人1ヵ月2通分の軍事切手が無償配布され、その“切手”を貼れば郵便物料金は免除で取り扱われるということになっていましたから、おそらく、それがそのまま踏襲されていたのではないかと思います。

 第二次大戦後、いわゆる軍事切手の利用は世界的に少なくなりましたが、コート・ディヴォワールに関しては、1967年発行の切手を貼った1970年代のカバーというのを何通か見たことがあります。ちょうど、初代大統領のフェリックス・ウフェ=ボワニの開発独裁政策が順調に進められ、年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成し、“イヴォワールの奇跡”と称賛されていたころのことですな。

 さて、コート・ディヴォワールでは、昨年11月の大統領選決選投票後、ワタラ新大統領が国際社会の承認を得て勝利宣言を行い、一度は就任式を行ったものの、バグボ前大統領側がこれを認めず、内戦に突入。ことし4月11日に前大統領の身柄が拘束されるまで、約4カ月にわたる内戦で、推計3000人が犠牲になり、敵対勢力の襲撃を恐れ避難生活を続ける住民も全土で3万人近いといわれています。また、その余波で、現地の日本大使公邸が襲撃され、岡村善文大使がフランス軍に救出され命からがらパリに逃げ出すということもありましたな。

 前大統領の拘束を受け、新大統領は、今月5日に旧バグボ派の憲法評議会に当選を改めて認定させ、翌日には就任宣誓もやり直し、手順を踏んだ上で、今回の就任式となったわけですが、虐殺疑惑の真相解明、国民和解などの重い課題を抱え、新政権にとっては前途多難の船出となりそうです。


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 コート・ディヴォワールの大統領
2010-12-05 Sun 23:02
 先月28日、2002-03年の内戦後初の大統領選挙が行われた西アフリカのコートディヴォワールで、きのう(4日)、再選を狙う現職のバグボ大統領と元首相で野党候補のワタラがともに勝利宣言し、大統領就任を宣誓。2人が“大統領”を名乗る異常事態が起きています。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ボワニMC

 これは、1959年12月4日に発行されたコート・ディヴォワール自治共和国発足1周年の記念切手のマキシマムカードで、切手には初代大統領のフェリックス・ウフェ=ボワニの肖像が取り上げられています。ちなみに、コート・ディヴォワールが完全独立を果たすのは、翌1960年8月7日のことでした。

 ウフェ=ボワニは、1905年10月18日、コート・ディヴォワール中南部のヤムスクロ出身。第二次大戦後、フランス第4共和政が成立し、植民地からも議員が選出できるようになると、1946年、アフリカ民主連合(フランス領西アフリカとフランス領赤道アフリカの政治家が集まって結成)の総裁に就任。同党のコート・ディヴォワール支部としてコートジボワール民主党(PDCI)を設立し、党首として独立運動を主導しました。

 その後、アフリカ民主連合内で、仏領各植民地の分離独立論と汎アフリカ主義・仏領西アフリカ連合論が対立すると、分離独立派の中心人物として活動。1960年にコート・ディヴォワールの完全独立を達成します。

 独立後は、親仏政策を取るとともに、コート・ディヴォワール民主党による一党独裁体制を敷き、主要産業であるカカオの生産と輸出を国家が管理する体制を構築し、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、彼の国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、1980年代以降はカカオの国際相場の下落による経済の悪化や、PDCIの一党独裁に対する国民の不満が高まったこともあり、1990年10月には初めて複数候補による大統領選を実施せざるを得なくなります。このときの選挙ではボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イボワール人民戦線(FPI)など野党もわずかながら初めて議席を獲得しました。

 その後、ウフェ=ボワニは大統領在任中の1993年に現職のまま亡くなりますが、それにより、国内の対立が表面化。後継大統領となったコナン・ベディエの能力不足もあって、コート・ディヴォワール情勢は一挙に不安定化し、2002年の内戦勃発を招くことになります。

 今回の事件も、建国の父であるウフェ=ボワニ亡き後、国家をまとめきれる人物が育たなかったがゆえに起きたともいえるわけですが、そう考えると、明らかに国家を束ねるだけの力量にかける人物が首相の座にかじりついていても、なんとか社会秩序が維持できている日本は、やはり、幸せな国なんでしょうな。


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 イラク戦争終結
2010-09-01 Wed 22:34
 アメリカのオバマ大統領が31日夜(日本時間1日朝)、2003年3月に始まったイラク戦争の終結を宣言しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

         コート・ディヴォワール:イラク戦争勝利

 これは、2003年に西アフリカのコート・ディヴォワールが発行した「世界の航空機の歴史」と題する小型シートの一つですが、左上には“イラクでの勝利”を宣言するイギリスのトニー・ブレア首相とアメリカのブッシュJr大統領の写真が取り上げられています。

 イラク戦争は、2003年3月19日、米英軍による空襲“イラクの自由作戦”が開始されたことで勃発。4月7日、米軍がバグダードの宮殿の一つを占拠します。同月11日、アメリカ政府が、サッダーム・フセイン政権は事実上崩壊したと発表するとともに、モースルを防衛していたイラク陸軍・第5軍団が米軍との交渉により投降。15日には西部軍管区司令官のムハンマド・ジャラーウィー将軍がラマーディーで米軍との降伏文書に署名し、5月1日には、ブッシュJrが“大規模戦闘終結”を宣言しました。そして、同月22日、国連安保理でアメリカとイギリスによるイラクの統治権限の承認、経済制裁の解除などを盛込んだ国際連合安全保障理事会決議1483が採択され、イラクの占領統治がはじまりました。

 さて、イラク戦争の開戦時に掲げられた大義は「大量破壊兵器を開発している独裁者サダム・フセインを打倒してイラクを“民主化”し、中東全体の“民主化”の先鞭をつける」というものでしたが、大量破壊兵器は結局見つからず、フセイン政権は打倒されたものの、アラブ世界の民主化は依然として達せられたとはいいがたい状況です。

 そもそも、現在のアラブ地域で西側風の民主主義を制度として根付かせることは、きわめて困難でしょう。

 まず、この地域の圧倒的多数を占めているムスリムの世界観では“国民主権”の概念は認められていません。イスラムにおける主権者、立法者は神のみであり、人間にできるのはただ神の命令(イスラム法)を解釈・実行することだけだという原則があるからです。もちろん、現実にはイスラム法の解釈という建前で議会が実質的な立法行為を行ってはいますが、それでも西側風の“国民主権”や基本的人権という発想に対してアレルギーを持つ人は少なくありません。

 そうした思想的な背景にくわえて、この地域の多くの国が産油国であり、政府が石油利権を独占的に掌握しているという事情も見逃せません。

 アメリカ独立戦争時の“代表なくして課税なし”という決議を持ち出すまでもなく、議会というものは、本来、納税者たる国民の代表が集まって予算の使い道を決定し、それが適正に使われているか否かを監視するための機関です。逆にいえば、国民の納税によって支えられているからこそ、政府は民意を斟酌した政治を行わなければならないというロジックになります。

 ところが、国民の納める税金よりも、オイルマネーによって支えられている国の場合、国民が納税者として国家を支えるというよりも、石油収入を元手にした政府が国民に利権をばら撒くという構図になりがちです。当然のことながら、政府や国家指導者に対する批判はタブー視されますし、公正な選挙によって政府の実績を評価し、必要な場合には政権交代を実現するということは起こりにくいのが実情です。

 たとえば、内閣も国会も存在しないサウジアラビアは極端な事例ですが、クウェートやアラブ首長国連邦、カタールなどの湾岸首長国は、三権分立という制度上の建前はあっても、実質的には王族が権力を独占する体制が続いています。いやしくも中東の“民主化”を主張するのであれば、アメリカは、曲がりなりにも議会が存在していたイラクではなく、まずサウジアラビアに乗り込んで“民主化”を要求すべきなのですが、“親米国”とされているサウジアラビアの内政に関してアメリカが本格的に干渉したことはありません。

 それゆえ、イラク戦争というのは、結果的に、大義なき戦争、つまりは大量虐殺でしかなかったのではないかという批判があるのも無理からぬところです。

 さて、今回ご紹介の「世界の航空機の歴史」のシートは、世界各国の航空機が取り上げられた数種類のシートの1種で、実際に現地の郵便で使うためというよりも、海外に輸出して外貨を稼ぐためのものであるのは明らかです。なかでも、今回ご紹介の1枚は、ナチス・ドイツの航空機が取り上げられているという点で、①単純にイラク戦争勝利の切手としてイラク戦争支持者に売る、②イラク戦争反対派に対してはブッシュとブレアの行為をナチス並みの大量虐殺として非難する材料として売る、③イラク戦争とは無関係に、純粋な航空ファンに売る、という3種類のマーケットに対応するもので、なかなか、売り手としては知恵を絞った1点ということなのでしょう。

 なお、コート・ディヴォワールそのものについては触れていないのですが、こうした切手を売って外貨を稼ぐビジネス・モデルについては、新刊の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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  於・東京・浅草 台東区民会館 10:30~20:00 
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* 2010年8月に頂戴した拍手の数の多かった記事のベスト3は以下のとおりです。ありがとうございました。
 1位(11票):アーリントンと靖国
 2位(8票):“日韓併合”の切手
 3位(7票):日豪戦争①
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 コート・ディヴォワール独立50年
2010-08-07 Sat 19:30
 西アフリカのコート・ディヴォワールが1960年8月7日に独立してから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コート・ディヴォワール

 これは、1892年に発行されたコート・ディヴォワール最初の切手のうちの5サンチームで、航海と商業の神を図案化した“サージュ”タイプの共通図案の雛型に、国名表記のみを“コート・ディヴォワール”としたスタイルになっています。

 コート・ディヴォワールは西アフリカのギニア湾に面した国で、東にガーナ、北にブルキナファソ、マリ、西にギニア、リベリアと国境を接しています。

 もともと、この地域は、15世紀にポルトガル、イギリス、オランダなど西欧の貿易船が奴隷と象牙の売買に来航し、以来、象牙海岸と呼ばれていました。1960年の独立に際しては、フランス語の“コート・ディヴォワール(Côte d'Ivoire)”が国号とされましたが、その後も多くの国は“象牙海岸”を自国語に訳してしまい、日本語・中国語の“象牙海岸”、英語の“Ivory Coast”、ドイツ語の“Elfenbeinküste”、スペイン語の“Costa de Marfil”、イタリア語の“Costa d'Avorio”等の表記が各国で用いられていました。このため、コート・ディヴォワール政府は、各国に対して翻訳国名ではなくフランス語国名の使用を要請。現在では、日本の公文書でも“象牙海岸”ではなく、“コートジボワール”と表示されるようになりました。

 さて、この地域におけるフランスの進出は17世紀から本格的に始まり、今回ご紹介の切手が発行された翌年の1893年にはフランスが植民地化します。ただし、現地住民の抵抗も強く、現在のコート・ディヴォワール国家に相当する領域全域をフランスが制圧したのは1917年のことでした。

 1958年12月、フランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月7日に正式に独立。初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のフェリックス・ウフェ=ボワニが就任しました。ボワニ政権は、独立後も親仏政権を採用し、いわゆる開発独裁の手法により、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、彼の国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、PDCIの一党独裁に対する国民の不満も高まり、1990年10月には初めて複数候補による大統領選が行われます。このときの選挙ではボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イボワール人民戦線(FPI)など野党もわずかながら初めて議席を獲得しています。

 1993年、ボワニは現職大統領のまま亡くなり、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しますが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生。2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦状態となりました。その後、2007年3月、紛争当事者であるバグボ大統領と反政府勢力ソロ“新勢力”事務局長との間で和平プロセスを進めるための合意(ワガドゥグ合意)が成立し、とりあえず、国を二分する状況は解消されましたが、現在なお、和平ならびに選挙プロセスは進展せず、中断されたままになっている大統領選挙を2010年中に行うよう調整が進められていますが、先行きは不透明なままです。

 過去の植民地支配に対する怨念にとらわれず、西側寄りの穏健かつ現実的な外交政策をとってきたことで“イヴォワールの奇跡”と称される経済成長を実現したボワニの物語は、一党独裁体制下での長期政権ということともあわせて、“漢江の奇跡”を実現した韓国の朴正熙時代をなんとなく連想させます。いずれにせよ、外国人による植民地支配の経験がその国の人々にとって不愉快なものであることは事実ですが、そのこととは別に、植民地支配によってもたらされた“恩恵”の部分を冷静に受け止め、現実的な国益という観点から、旧宗主国に対しても穏健な外交政策を展開できるか否かが、新興独立国の国家建設が成功するかの分かれ道となっているといえそうです。その意味でも、漢江とイヴォワールのふたつの“奇跡”の物語を比較してみると、いろいろと興味深いことが浮かび上がってくるかもしれません。


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