内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 イスラエル・ワイン
2017-11-16 Thu 08:53
 きょう(16日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、毎年恒例、ワイン関連の切手の中から、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』にちなんで、この1枚です。

      イスラエル・申命記(1993)

 これは、1993年8月22日にイスラエルで発行された“年賀切手”の1枚で、ワインを意味するブドウが描かれています。タブには、ワイン絞りの道具と、『申命記』第11章14節の「主は(あなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、)穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ」との文言が入っています。

  ワインは『旧約聖書』のノアやモーセの物語にも登場しますが、実際、パレスチナの地域では紀元前2000年頃にワインが製造されていたことを示す遺跡が発見されています。ローマ帝国の時代には、パレスチナ産のワインは人気が高く、帝国各地に輸出されていましたが、7世紀に入り、パレスチナがムスリム(イスラム教徒)の支配下に入ると、キリスト教徒やユダヤ教徒が儀式のために使う少数の例外を除き、ワインの製造も禁止されてしまいました。

 ちなみに、近代以前、パレスチナのユダヤ人がワイン製造に際して使っていた圧搾施設は、今回ご紹介の切手のタブに見られるように、石造りのプールのような場所にワインを入れて足で踏みつぶし、プールの底にあけた穴に溜まった果汁を集めるというものでした。

 さて、パレスチナの地でワインの生産が再開されるのは1848年のことで、同年、この地で最初の近代的ワイナリーが開業します。その後、ロスチャイルド家のエドモンドが1882年にワイナリーを創設し、南仏の品種を導入して、ユダヤ教徒によるワイン製造を積極的に支援しました。ただし、当時のパレスチナ・ワインは、ユダヤ教の儀式に使用される甘口赤ワインが中心で、品質はあまり高くはありませんでした。

 しかし、第一次大戦後、パレスチナは英国の委任統治領となり、さらに、1933年以降、ナチスの迫害を逃れたユダヤ系難民がヨーロッパから大挙してパレスチナに移住したことで、パレスチナのユダヤ教徒の間でも、儀式用の甘いワインではなく、辛口ワインへの需要が高まりました。この傾向は、1948年のイスラエル建国後、さらに加速されましたが、1970年代半ばまでは中東戦争が相次いだこともあり、イスラエル国内ではなかなかワイン生産が広がりませんでした。

 その後、1976年、ゴラン高原で葡萄の植樹が行われ、1980年代以降、カリフォルニアを中心に、フランス、オーストラリアなどのから技術移転により、イスラエル・ワインの品質は飛躍的に向上することになりました。中でも特筆すべきは、1983年に創業のゴラン・ハイツ・ワイナリーで、同社が1984年にリリースしたヤルデンとガムラのヴィンテージはイスラエル・ワインとして初めて国際的な評価を得ただけでなく、2011年にはワインのオリンピックともいわれる“ヴィニタリー2011”で最優秀賞を受賞するなど、名実ともに、イスラエルを代表するワイナリーとして知られています。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 バルフォア宣言100年
2017-11-02 Thu 09:04
 1917年11月2日、アーサー・バルフォア英外相名義で、英国が大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めた“バルフォア宣言”が発せられてから、きょう(2日)でちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・バルフォア宣言50年

 これは、1967年にイスラエルが発行した“バルフォア宣言50年”の記念切手のうち、バルフォア外相の肖像を取り上げた40アゴロット切手です。タブの部分には、エレミヤ書第31章17の一節「あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる。」との文言が印刷されています。

 第一次大戦中、ロンドンではシオニズム(世界各地に離散したユダヤ人が“民族的郷土”であるシオンの丘=エルサレムに結集し、ユダヤ人国家を再建しようという政治的主張)の運動を展開していたシオニストたちが英国政府の支援を取り付けるべく工作を展開していました。

 そうしたなかで、シオニスト評議会の議長で、英海軍省の技術顧問だったハイム・ヴァイツマンは、第一次大戦の勃発後、英国に協力し、自らが開発したバクテリア発酵法(無煙火薬の原料となるアセトンをデンプンから合成する技術)の工業化に成功。この結果、年間3万トンのアセトンが英国軍に供給されることになり、その功績から、英政府・軍とのコネクション築きました。

 ヴァイツマンは、そうした人脈を最大限に活用し、アーサー・バルフォア外相から、ユダヤ系貴族院議員ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵宛の書簡というかたちで、「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に民族的郷土を樹立することを好意的に見ており、その目的の達成のために最大限の努力をいたします。ただし、すでにパレスチナに在住している非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位が、これによって害されるものではないことは明確に了解されます」との表明させることに成功しました。

 これがバルフォア宣言です。

 しかし、この時点で、英国はアラブに対して、英国とともにオスマン帝国と戦えば、大戦後、中東地域にアラブの独立国を樹立することを約束していた(フサイン・マクマホン書簡。ただし英国はアラブに対して“独立国”の範囲を明確にしていません)ほか、フランスとは、東地中海のアラブ地域の分割案であるサイクス・ピコ協定をまとめていました。

 こうした中で、1917年11月7日、ロシア10月革命が発生すると、社会主義政権の外相に就任したレフ・トロツキーは旧政権の悪事を暴くとして、サイクス・ピコ協定の内容を暴露。この結果、バルフォア宣言と併せて、中東における英国の“三枚舌外交”が明らかになり、国際世論は騒然となります。

 そこで、釈明を求められたバルフォアは、

 ①メソポタミアは英国の自由裁量(保護国としてのアラブ国家イラク誕生)
 ②レバノンは“純粋なアラブの地”ではなく、フランスの植民地
 ③シリアはフランスの保護下でアラブ人国家となる。ただし、ダマスカス周辺については、“純粋なアラブの地”なのかフランスの勢力圏なのかは不明確
 ④パレスチナは“純粋なアラブの地”の範囲外で、サイクス・ピコ協定で定めた“共同統治”とユダヤ人居住地を意味する“民族的郷土”は矛盾しない、

 とする議会答弁を行い、フサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の三者は矛盾しないと主張しました。

 これに対して、アラブ側は英国に対して強い不信感を抱きましたが、戦時下においてはともかくもオスマン帝国に対する勝利を優先し、英国と行動を共にしました。しかし、当然のことながら、大戦後、それらの矛盾が噴出。英国によるパレスチナの委任統治が始まると、バルフォア宣言に基づいてパレスチナへの移住を求めるシオニストと、それを拒否するアラブ、そして両者の間で右往左往する英国という3者により、パレスチナは混乱の渦に巻き込まれていくことになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 世界切手展<WSC Israel 2018>のご案内
2017-09-28 Thu 17:40
      イスラエル・郵趣の日(1991)

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりましたので、本ブログにて、同展の特別規則のうち、出品に関する事項を抜粋し、その概要をお知らせいたします。

 今回の切手展は、伝統・郵便史に限定した専門展で、一般出品の出品料は1フレームあたり80米ドルです。また、通常のFIP切手展のチャンピオンクラスではなく、過去にFIP切手展で金賞・大金賞を受賞した作品を対象としたワールド・スタンプ・チャンピオンシップ(WSC)のクラスが設けられています。

 なお、正式な規則の文言ならびに出品に必要な書類の用紙は、一般社団法人全日本郵趣連合のウェブサイト左側の「国際切手展情報」に掲載のPDFファイルをクリックしてご利用ください。また、同展のウェブサイトでは、随時、情報がアップされていますので、ご興味をお持ちの方は適宜チェックしてみてください。なお、印刷・製本された状態のブルテン等はこの記事をアップした時点では制作されていません。

 出品をご希望の方は、同展の特別規則をご理解いただいたうえで、指定の書類に必要事項を記入し、2017年11月10日までに、内藤宛にお申し込みください。

 以下、世界切手展<WSC Israel 2018>特別規則の概要です

1.会期 2018年5月27 日 –31日(5日間)

2.会場 International Convention Center, Jerusalem

3.パトロネージ、運用される諸規則
 WSC Israel 2018はFIPパトロネージの “Specialised World Stamp” Exhibition(専門世界切手展)に相当します。
次の規則が適用されます。
- The General Regulations of the FIP for Exhibitions (GREX)
- The General Regulations of the FIP for the Evaluation of Competitive Exhibits at FIP Exhibitions (GREV)
- The Special Regulations of the FIP for the Evaluation of Competitive Exhibits at FIP Exhibitions (SREVs)
- Individual Regulations of WSC Israel 2018 (IREX) (GREX Article 3.10)

4.参加資格
 クラス4の現代郵趣とクラス5の文献を除き、競争出品は国内展で、少なくとも金銀賞を受賞していること。

5.出品クラス:
 競争出品
― Class 1:ワールド・スタンプ・チャンピオンシップ
 伝統郵趣もしくは郵便史の作品で以下の資格に該当するコレクション
 A)FIP展で金賞または大金賞を受賞した作品
 B)FIP展でグランプリを受賞した作品
 通常のFIP展のチャンピオンクラスと異なり、受賞期間の制限はありません
― Class 2:伝統郵趣
 A)ホリー・ランドおよびイスラエル
*ホリー・ランドは地域概念としてのパレスチナのこと。
 B)ヨーロッパ
 C) アジア、オセアニア、アフリカ
 D) アメリカ大陸
― Class 3:郵便史
 A)ホリー・ランドおよびイスラエル
 B)ヨーロッパ
 C) アジア、オセアニア、アフリカ
 D) アメリカ大陸
― Class 4:現代郵趣(1980年以降)
 A)伝統郵趣
 B)郵便史
* 国内展での受賞歴に関わらず、コミッショナーの推薦があれば出品できます。また、他部門への出品と重複しての出品も可能です。
― Class 5:文献
 A) 2013年1月1日以降に出版された書籍、パンフレット、研究書
 B) 2016年1月1日以降発行の雑誌、定期刊行物
 C) 2016年1月1日以降に出版されたカタログ
 通常の出品申込書に加え、文献用の情報フォームを記入すること。

6.審査と賞
 競争クラスの出品物はFIP審査員によりGREV、SREVsに従い審査されます。

7.リーフのサイズとフレームの割当数
・フレームの大きさは97cm×120cmになる予定です。1フレームは原則16リーフ構成で1リーフの大きさは23cm×29cm以内としてください。サイズの大きなリーフの場合、一部を重ねて展示することがあります。
・黒色ないしは濃色のリーフは受け付けません。
・ワールド・スタンプ・チャンピオンシップは8フレーム。それ以外は、GREXに従ってください。

8.出品申込と結果の通知
 出品申込に際しては、所定の書式(全日本郵趣連合のホームページもしくは展覧会のウェブサイトでダウンロードできます)に必要事項を記載の上、作品の内容を説明するページ(タイトルないしはプランのリーフ。英文)のコピーを添えてコミッショナー宛にお送りください。郵送だけではなく、電子メールでのご送付も受け付けます。なお、連絡先は文末に記載しております。

 *以前の出品作品のタイトルを変更して出品する場合は、必ず、以前のタイトルを出品申込書に記載してください。

 現地組織委員会への提出期限が2017年11月15日ですので、国内の受付〆切は11月10日(コミッショナー必着)とします。(10月下旬~11月初はブラジリア展へコミッショナーとして参加しているため、11月6日以降に到着するようにお送りいただけると助かります)ご出品の可否は、2018年1月15日までにコミッショナーに告知されることになっています。

9.出品料 1フレームにつき80米ドル。(出品の可否が決まった後、ご請求いたします。なお、2月15日までに組織委員会に送金するよう指示されています)

10.作品の搬入と返却
作品搬入は2018年5月25日までにコミッショナーが行うことになっております。したがって、コミッショナーと同行の上、ご本人が作品を搬入される場合を除き、コミッショナーが作品をお預かりすることになりますが、その場合は、別途、指定の条件をご承諾いただくことが前提となります。そのほか、なお、コミッショナーとの作品の受け渡しに関する詳細等については、内藤までお問い合わせください。
文献出品は2018年2月15日までに各タイトルにつき2部ずつ、下記宛に送付してください。
Israel Philatelic Federation, POB 3301, Tel Aviv 6103201, Israel.
 *価格が75米ドル以上の文献については、約20%のVATが課税されます。その場合、組織委員会がいったん立替払いを行い、後日、コミッショナーにその金額が請求されることになっております。ご出品者には、コミッショナーに請求された金額をお支払いいただきます。(お支払いの時期・方法等は、別途、ご相談させてください)
・〆切を過ぎて到着した作品は審査の対象外となります。作品未着の場合、出品料は返金されません。
・出品物は取り外し可能な保護カバーをつけ、各リーフの表面左下に展示順の番号を記してください。また、出品物は組織委員会の支給する指定の封筒に入れて搬入してください。

11.日本コミッショナー連絡先
 内藤陽介(ないとう・ようすけ)
 ご連絡は本ブログ右側、プロフィール下のメールフォームをご利用ください。

 ちなみに、本日の記事の冒頭に掲げた切手は、1991年にイスラエルで発行された“郵趣の日”の切手で、イスラエル最初の切手の初日印オンピースが取り上げられています。タブにFIPならびに今回の切手展の主催者の一団体、イスラエル郵趣連合のロゴが入っているので、持ってきてみました。

 1人でも多くの皆様のお申込み・お問い合わせを心よりお待ちしております。

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は5日!★★

 10月5日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第9回が放送予定です。今回は、10月9日に没後50周年を迎えるチェ・ゲヴァラの切手にスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 “武装難民”の危険性
2017-09-24 Sun 21:17
 麻生太郎副総理兼財務相が、きのう(23日)、宇都宮市での講演で、北朝鮮で有事が発生すれば日本に武装難民が押し寄せる可能性に言及し「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言したことが物議を醸しているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・レヒ(1991)

 これは、1991年12月2日にイスラエルが発行した“レヒ:イスラエル解放戦士団”の顕彰切手で、タブには、レヒの創設者であるアブラハム・シュテルンの言葉「永遠に自由であるために」が記されています。後述するように、レヒは反英テロ組織ともみなしうる団体ですが、現在のイスラエル国家の歴史観では、彼らは、イスラエルの独立に貢献したレジスタンスの闘士という位置づけになっており、今回ご紹介の切手もそうした価値観に沿って発行されたものです。

 1939年5月17日、英国はパレスチナ問題に関する基本方針として「マクドナルド白書」を発表。①アラブ系住民による土地所有の保護(=ユダヤ人移民に対する土地売却の制限)、②10以内にアラブ主導のパレスチナ国家を創設し英国と同盟を結ぶ(=ユダヤ人国家の否定)、③パレスチナへのユダヤ人の新規入植を5年間で7万5000人に制限する(ただし、ヨーロッパのユダヤ人難民に対しては特別に2万5000人の移住許可を与える)、という方針を明らかにします。

 当時、パレスチナのユダヤ人口は45万人に達していたことから、英国はすでにパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”は成立したとみなしうるとの認識の下、アラブ地域の反英感情を和らげようと考えたわけですが、当然のことながら、パレスチナのユダヤ人社会はこれに激しく反発します。

 1939年9月1日、第二次大戦が勃発すると、パレスチナのユダヤ人たちの中にはマクドナルド白書への不満から、英国を含む連合諸国への戦争協力には否定的な者も少なくありませんでしたが、シオニズムの指導者であったダヴィド・ベングリオンは、連合国の戦争に協力することでユダヤ系の実力を示し、それによって、自らユダヤ国家の独立を勝ち取るべきだと考え、「ユダヤ人の敵はマクドナルド白書であって英国ではない」との声明を発表。これにより、多くのシオニストは英国への不満を抑えて、ナチス・ドイツとの戦いを優先させ、中東地域での連合国の作戦に参加することになります。

 その一方で、シオニストの間には、どうしても英国への協力を潔しとしない強硬派も存在していました。

 なかでも、アブラハム・シュテルンはマクドナルド白書と対英融和路線のシオニスト主流派に反発し、1940年、“イスラエル解放戦士団”(レヒ。ただし、この名前が正式に採用されるのは彼の死後で、当時の英当局は彼らをシュテルン・ギャング、もしくはシュテルンと呼んでいました)を組織し、英当局に対するテロ活動を展開。この結果、アブラハム自身も逮捕・投獄されています。

 さらに、1941年12月、レヒの幹部、ナタン・イェリン=モルがナチスと接触し、ドイツに協力して英国と戦う代わりに、東欧のユダヤ人の“解放”するための交渉を計画し、交渉場所のトルコへ向かう途中、シリアで身柄を拘束される事件が発生。このため、1942年2月12日、英国政府はレヒを危険視し、その頭目としてのアブラハムを暗殺しました。

 しかし、アブラハムの暗殺後も組織の壊滅には至らず、レヒは思想的指導者のイスラエル・エルダド、軍事作戦を指揮したイツハク・シャミル(後の首相)、政治的調整を担当するイェリン=モルの三頭体制で存続することになります。

 こうした中で、1941年12月12日、781人のユダヤ系難民を乗せ、ルーマニア(当時は親独政権下)のコンスタンツァ港を出港した難民船シュトルーマ号がパレスチナに入港しようとしたものの、パレスチナ当局はマクドナルド白書を理由に難民船の入港を拒否。シュトルーマ号は行き場のないまま地中海を迷走しつづけ、1942年2月、ルーマニアへ戻る途中、黒海で沈没し、760人以上の難民が亡くなりました。

 いわゆるシュトルーマ号事件です。

 この事件は、ユダヤ系社会に大きな衝撃を与え、英国の責任者にあたる植民地相のウォルター・モインは彼らの怨嗟の対象となり、1944年11月6日、レヒの活動家、エリヤフ・ベト=ズリとエリヤフ・ハキムがカイロでモインを暗殺。これを機に、英国ではシオニスト過激派への反発と不信が決定的になりました。

 さて、1945年5月、第二次大戦はドイツの敗北により終結。これに伴い、アウシュヴィッツをはじめ強制収容所の悲惨な実態が白日の下にさらされるようになると、戦勝国の大義を示すためにも、ユダヤ人犠牲者の救済は重要な課題となります。

 このため、1945年7月、米大統領のトルーマンは英国政府に対して、マクドナルド白書によるユダヤ人のパレスチナへの移住制限の解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、英国首相アトリー宛の書簡で要請しました。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、同委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめました。

 ところが、報告書発表の直前、またしても、レヒにより英国人兵士6人が殺害されるテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示します。

 パレスチナの英当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものだったのです。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。

 否、むしろ、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重なパレスチナ当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどることになります。

 その結果、シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これが、“英委任統治領パレスチナ”の終わりの始まりとなりました。

 なお、このあたりの事情については、新刊の拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 ユダヤ新年
2017-09-21 Thu 07:09
 きのう(20日)の日没をもって、ユダヤ暦5778年の“ローシュ・ハッシャーナー”(新年。直訳すると“年の頭”の意)となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・年賀(2001・軍人)

 これは、2001年9月3日に発行された“年賀切手”の1枚です。2001年のイスラエルの年賀切手は、ハイム・シュタイヤーの年賀絵葉書コレクションから題材を選んで6種セットで発行されました。今回ご紹介の切手の元になった年賀絵葉書は、鳩とオリーヴに兵士を組み合わせることで“平和と安全”を表現しているとのことですが、タブに“Happy New Year”となければ、年賀切手とはわかりづらいかもしれません。

 古代ユダヤには、春から1年が始まる宗教暦と秋から1年が始まる政治暦が併存していました。政治暦は旧約聖書・レビ記23章24節に「第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい」とあるのを根拠として、宗教暦の7月1日から始まります。ただし、ユダヤ暦は太陰暦ですので、毎年、新年の日付は異なります。また、ユダヤ暦の紀元は、ユダヤ教において神が世界を創世した日を西暦に換算したとして、紀元前3761年10月7日とされています。

 さて、第一次大戦以前から、パレスチナに移住したユダヤ系移民は自分たちの定住地で自警団を組織していました。英国によるパレスチナ統治が始まると、ユダヤ系移民の急増に反発するアラブの暴動が発生したため、1920年6月、各地の自警団を統括する民兵組織として“ハガナー”が結成され、英軍による指導・訓練を受けました。また、第二次世界大戦中の1944年5月には、ナチスに対抗するために、英陸軍内にユダヤ旅団が編成され、5000人以上のユダヤ人志願兵が軍事訓練を受け、イタリア戦線に投入されました。

 1948年5月14日、英国によるパレスチナの委任統治が終了し、イスラエルが独立宣言を行うと、これを認めない周辺アラブ諸国がイスラエルに対して宣戦を布告し、第一次中東戦争が勃発します。しかし、この時点では、新生イスラエル国家には正規の国軍は存在しなかったため、5月26日付で臨時政府政令4号が発せられ、国防大臣の下にユダヤ人各武装勢力が集結・統合されることになりました。その結果、最大武装勢力であったハガナー(パルマッハ含む)を基盤に指揮系統等が再編され、5月31日以降、イスラエル国防軍として本格的に活動を開始します。

 第一次中東戦争後は、地下組織だったエツェルおよびレヒも国防軍に参加。以後、イスラエル国防軍はアラブ諸国との戦争をとおして近代化と効率化を進め、世界で最も練度の高い軍隊の一つに成長しました。

 なお、イスラエル建国後のイスラエル国防軍が周辺アラブ諸国・組織とどのように戦ってきたかについては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

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 第1回シオニスト会議から120年
2017-08-29 Tue 10:11
 スイスのバーゼルで、1897年8月29日に第1回シオニスト会議が開催されてから、ちょうど120周年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・シオニスト会議100年

 これは、1996年9月3日にイスラエルが発行した“第1回シオニスト会議100周年”の切手シートで、会議の会場となったバーゼルのコンサート・ホール“シュタットカジノ”が取り上げられています。第1回シオニスト会議は1897年8月29-31日の3日間で、シート上の表示も“1897-1997”となっているのですが、シートそのものは1996年の発行ですので、注意が必要です。

 さて、近代以前のヨーロッパでは、ユダヤ人・ユダヤ教徒(以下、便宜的に“ユダヤ人”と総称)は、キリスト教徒からさまざまな差別と圧迫を受けてきた一方で、一部は金融や医術などに長じた存在として、権力者の個人的な庇護をうけるという特殊な存在でした。

 1789年のフランス革命後、フランスでは“国民国家”の理念の下、ユダヤ人にも“フランス国民”として制度上はキリスト教徒と同等の権利・義務が与えられました。19世紀以降、国民国家の理念が他の西欧諸国にも拡散していくと、ユダヤ人社会は、積極的に西欧社会に同化しようとするグループと、西洋化によりユダヤ人としての伝統的な信仰や習慣が毀損されることに反発し、ユダヤ人の独自性を強調するグループに事実上分裂します。

 1860年代、ドイツ系ユダヤ人の社会主義者、モーゼス(ドイツ名モリッツ)・ヘスは、「ヨーロッパ社会でユダヤ人が同化できる可能性は全くなく、ユダヤ人は自分の民族性を否定することによって他の民族の軽蔑を招いている。ユダヤ人はパレスチナに自分たちの国家を持つべきである」と主張し、“政治的シオニズム”を提唱します。ここから派生するかたちで、“宗教的シオニズム(信仰の崩壊や周囲への同化から、ユダヤ民族の統一を守ろうとし、ユダヤ人が自らイスラエルヘの帰還を準備するとき、神の助けが期待されるとする主張。パレスチナの植民地化を要求するものの、時期尚早の国家建設は、神への冒涜と批判)”、“文化的シオニズム(ユダヤ国家の建設は当面は不可能なので、2-3の入植地に集中して移住するのがよいとする主張。パレスチナはユダヤ民族全体の精神的拠点と位置付け、東欧ユダヤ人の文化的独自性を強調し、その再生復活を重視)”等、シオニズム諸派が生まれました。

 こうしたなかで、19世紀後半にはロシア帝国の支配下でポグロム(流血を伴うユダヤ人迫害事件)が繰り返されていたことに加え、1894年にフランスで、ユダヤ系将校のアルフレッド・ドレフュスがドイツのスパイであるとして冤罪逮捕・投獄された“ドレフュス事件”が発生。最終的に、ドレフュスは無罪となりましたが、ユダヤ人に対して最も寛容とみられていたフランスで事件が起きたことに多くのユダヤ人社会に大きな衝撃を与えます。

 ジャーナリストとしてドレフュス事件を取材していたユダヤ系オーストリア人、テオドール・ヘルツルは、もともとはユダヤ人の西洋化に積極的な人物でしたが、事件を機に失われた祖国“イスラエル”を取り戻す政治的シオニズム運動の活動家に転身。1896年、ユダヤ人国家像と国家建設の詳細なプログラムを記した『ユダヤ人国家』を出版しました。

 そして、翌1897年、スイスのバーゼルに各国から200人を集めて第1回シオニスト会議を開催。ヘルツル本人は、ユダヤ人国家の建設地としては、必ずしも聖地エルサレムがあるパレスチナにこだわらず、アルゼンチンやウガンダも候補地として挙げていましたが、最終的に、①シオニズムはユダヤ民族のためにパレスチナの地に公法で認められた郷土(ホームランド)を建設することを目的とする、②その実現のための組織としてシオニスト機構(現・世界シオニスト機構)を創設することなどを謳った「バーゼル綱領」を採択。その目標を達成するため、“世界シオニスト機”が創設されました。

 当初、シオニストは、パレスチナの主権者であるオスマン帝国のスルターン、アブデュルハミト2世から許可を得てパレスチナへ入植することを計画していましたが、オスマン帝国側の反応が芳しくなかったため、小規模移住による“ホームランド”の形成に方針を転換。1901年に創設されたユダヤ民族基金創設、1903年にナサニエル・ロスチャイルドの資金援助で設立されたアングロ・パレスチナ銀行創設が土地買収のための資金を提供するというかたちで、入植が進められることになりました。

 さて、ことし(2017年)は、第1回シオニスト会議の開催(1897年)から120年、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、『本のメルマガ』の連載「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 


 ★★★ NHK・BSプレミアム 「アーススキャナー」  ★★★ 

 8月30日(水)21:00-22:30 NHK・BSプレミアムで放送予定の「アーススキャナー~“空白地帯”の謎に迫る~」で、シーランド公国の切手について、内藤が少しお話しますので、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 8月24日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第7回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、9月7日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、24日放送分につきましては、8月31日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 山の日
2017-08-11 Fri 11:04
 きょう(11日)は“山の日”です。というわけで、山に関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・エルサレムへの道(1949)

 これは、1949年にイスラエルが発行した普通切手のうち、“エルサレムへの道”をデザイン化した1枚で、城壁とダヴィデの塔を見上げる山道が描かれています。切手の下部にはイザヤ書52章9節の「主は(その民を慰め)エルサレムを贖われた」の文言が入っています。今回は、切手下のタブに同49章11節の「わたしはすべての山に道をひらき」の文言と山の絵が入っていますので、“山の日”ネタの1枚として持ってきました。

 ダヴィデ王の時代以前のエルサレムの集落は現在の城壁の南東部の斜面にありました。ちなみに、切手に描かれた“ダヴィデの塔”は、エルサレム旧市街の西側、ヤッファ門の近くに位置しており、ダヴィデ王が建立したとの伝承により、東ローマ帝国時代に“ダヴィデの塔”の名称が定着しました。ただし、歴史的事実としては、紀元前20年にヘロデ王がエルサレム防衛のために建設した要塞がその起源で、その後の増改築を経て、オスマン帝国のスレイマーン1世の治世下で現在の姿となりました。現在では、『旧約聖書』に登場するカナンの時代からイスラエル建国までの歴史を紹介する博物館として公開されています。

 ちなみに、歴代誌によれば、ダヴィデ王の子、ソロモン王の時代、“エルサレムのモリヤ山上”に神殿が建設されました。これは、今回ご紹介の切手にあるダヴィデの塔の付近から北側に向かって斜面を上りきった頂上を指しているとされ、現在の“神殿の丘/ハラム・シャリーフ”の起源となりました。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

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 トルキスタン総督府150年
2017-07-11 Tue 22:58
 1867年7月11日、ロシアによる中央アジア支配の拠点として、タシュケントにトルキスタン総督府が設置されて、今日でちょうど150年です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブハラ・ユダヤ人(19世紀後半)

 これは、2015年にイスラエルが発行した“ユダヤ・コミュニティの宝石”の切手のうち、19世紀後半、トルキスタン総督府支配下のブハラ・ユダヤ人の結婚式の新婦の髪飾りを取り上げた1枚で、タブには、当時の新郎新婦の写真が取り上げられています。

 現在、ウズベキスタンをはじめとする中央アジア諸国では人口の9割以上をムスリムが占めていますが、かつては、相当数のユダヤ人が住んでいました。

 歴史的にみると、中央アジアで比較的大きなユダヤ人コミュニティが存在していたのは、ブハラ、サマルカンド、タシュケント、コーカンドなど、現在のウズベキスタン領内の諸都市が中心でしたが、その居住地域は、現在の国名でいうと、ロシアやカザフスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、パキスタン、キルギス等にまで広がっていました。

 こうした中央アジアのユダヤ人は、ロシア人やアシュケナジーム(イディッシュ語を話すドイツ系ユダヤ人)から“ブハラ・アミール国(現在のウズベキスタンの前身の一つ)のユダヤ人”という意味で“ブハラ・ユダヤ人”と呼ばれていました。また、ブハラ、サマルカンド、タシュケント、コーカンドの各都市は、いずれも、シルクロードのオアシス都市として繁栄していたことから、イランやアフガニスタンなどから中央アジアへ移住するユダヤ人もあり、外部からは、彼らも一括してブハラ・ユダヤ人とされていました。

 ブハラ・ユダヤ人の多くは、自らを“ユダヤの失われた10支族(『旧約聖書』に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族)”のうち、紀元前6世紀のバビロン捕囚からの解放以後、カナンの地に戻らなかった支族の子孫であると主張しています。この伝承が歴史的事実であるかどうかはともかく、彼らが、中央アジアでも最も古い宗教・エスニック集団の一つとして独自の文化を育んできたことは間違いありません。

 ブハラ・ユダヤ人は、ヘブライ文字を使うタジク・ペルシャ語(通常のペルシャ語はアラビア文字を使います)を母語としていたため、周辺のムスリム系諸民族とも容易にコミュニケーションをとることができました。ただし、都市部においては、ブハラ・ユダヤ人は、ムスリムとは混在せず、シナゴーグを中心としたユダヤ人のみの居住区を作り、商業や手工業等に従事するというのが近代以前の一般的な姿でした。

 19世紀中盤以降、中央アジアへの本格的な進出を始めた帝政ロシアは、ブハラ・ユダヤ人を積極的に活用し、ユダヤ人の側もロシアとの交易拡大を期待してロシア人の進出を歓迎。この結果、1867年にトルキスタン総督府が設置され、ブハラ・アミール国が帝政ロシアによって保護国化されると、ロシアと結んで巨額の利益を得るユダヤ商人が数多く登場します。今回ご紹介の切手に取り上げられたブハラ・ユダヤ人の宝飾も、そうした彼らの財力を反映したものでした。

 19世紀末になり、シオニズムが登場すると、ブハラ・ユダヤ人の中にも、それに共鳴してエルサレムに移住する者が現れます。彼らの中には富裕な商人も少なくなかったため、1898年には、その財力を背景にエルサレム旧市街の城壁外にブハラ・ユダヤ人の居住区も建設されました。

 エルサレム在住のブハラ・ユダヤ人の人口は第一次大戦までに1500人にまで拡大したが、1917年のロシア革命で社会主義政権が誕生すると、ソ連(1922年末成立)領内からユダヤ人の出国は大きく制限され、ブハラ・ユダヤ人のパレスチナへの移住も途絶しました。

 さらに、ソ連の支配下で成立したウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の支配下では、従来からのブハラ・ユダヤ人に加え、東欧など、他の地域から労働者や官僚、軍人などとしてウズベキスタンの地に移住するユダヤ人(その大半はアシュケナジーム)も増加したため、現在のウズベキスタン国家においては、ふたつの異なるユダヤ人コミュニティが併存するようになります。また、ソ連の教育により、彼らの間にロシア語が急速に普及していきました。

 1967年に第3次中東戦争が勃発した時点で、イスラエル在住のブハラ・ユダヤ人は約2万人でしたが、その後、ソ連は国内のユダヤ人の出国制限を緩和し、1980年代初頭までに約3万人が移住。さらに、1985年にペレストロイカが始まると、ブハラ・ユダヤ人の国外出国には拍車がかかり、1991年末のソ連崩壊を経て、1992年までに約4万人がイスラエル、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどに移住していきました。現在、ウズベキスタン国内のブハラ・ユダヤ人は、タシュケントを中心に、5000人以下にまで減少しています。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。また、会期中、16日(日)15:30~、展示解説も行いますので、皆様よろしくお願いします。


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 第三次中東戦争勃発50年
2017-06-05 Mon 12:10
 1967年6月5日に第3次中東戦争が勃発してから、今日(5日)でちょうど50周年です。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・再統一50年

 これは、今年(2017年)4月4日にイスラエルが発行した“再統一50年”の記念シートです。ここでいう“再統一”とは、第三次中東戦争の結果、それまでヨルダン領だった東エルサレムをイスラエルが占領し、戦前からのイスラエル領だった西エルサレムと統合したことを意味しています。ちなみに、イスラエルでは“(エルサレム)再統一”の記念日(ヨム・イェルシャライム:エルサレム記念日)は、毎年、ユダヤ暦イヤール月(第8月)28日に祝うことになっているため、一般的なグレゴリオ暦では毎年、日付が異なっており、今年は5月25日がその祝日にあたっていました。

 1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)は、英仏の侵攻に屈せず耐え抜いたという点で、エジプトは政治的に勝利を収め、ナセルの権威は絶頂に達したものの、純粋に軍事的な見地から見ると、英仏との密約によりエジプト領内に侵攻したイスラエル軍は、いともたやすくシナイ半島を横断してスエズ運河地帯まで進軍し、エジプト軍はそれを阻止することができず、惨敗に等しい状況でした。

 このため、イスラエルとの全面戦争になればエジプトには勝ち目はないことをナセルも思い知り、イスラエル打倒の勇ましいスローガンとは裏腹に、本音では、イスラエルとの戦争を回避しなければならないと考えるようになりました。そこで、ナセルは、対イスラエル闘争の統一司令部として“パレスチナ解放機構(PLO)”を作り、その傘下にパレスチナ人の武装組織を組み込むことで、強硬派の暴走を抑え、イスラエルを決して本気で怒らせない(=全面戦争には突入しない)程度に“抵抗運動”を継続して、パレスチナ解放の大義は維持した体裁をとりながら、アラブ世論のガス抜きをするという戦略を立てます。

 ところが、現実には、パレスチナ人武装勢力の中には、ナセルの微温的な姿勢を拒否して、PLOには参加せず、イスラエル領内での武装闘争をエスカレートさせるものも少なくなくありませでした。その代表的な存在が、ヤーセル・アラファート(以下、アラファト)ひきいるファタハです。

 1957年に創設され、反イスラエルの武装闘争(イスラエル側から見ればテロ活動)を展開していたファタハは、武装闘争/テロ活動をエスカレートさせてイスラエルの報復攻撃を引き出せば、アラブ諸国も対イスラエル全面戦争に参加せざるを得なくなると考えており、ソ連、東欧はもとより、中国を含む反西側諸国から武器を調達し、シリアの庇護下で戦闘能力を強化していました。

 一方、イスラエルの政府と国民にしてみれば、PLO傘下の団体であろうとなかろうと、国内の治安を乱すテロリストは駆逐すべき存在ですから、その討伐を求める世論が高揚。イスラエル=シリア国境では緊張感が高まっていきました。

 こうした中で、1967年4月、シリア、イスラエル両国の空軍が空中戦を展開し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜される事件が発生。これを機に、軍事的緊張は一挙に高まり、“アラブ世界の盟主”ナセルにイスラエルへの実力行使を求めるアラブ諸国の世論が沸騰します。

 当初、ナセルは慎重姿勢を保っていましたが、同年5月14日、アラブ諸国からの要請を拒否しきれずに、シナイ半島に兵力を進駐させ、第二次中東戦争の終結以来駐留を続けていた国連緊急軍に撤兵を要求。同月22日、チラン海峡(紅海につながるアカバ湾の出口)を封鎖しました。

 アラブ諸国はナセルの決断を歓迎し、5月30日にはヨルダンとエジプトとの間で相互防衛条約が調印されたほか、エジプトとシリア、ヨルダンの間では軍事同盟が結成された。さらに、イラク、クウェート、スーダン、アルジェリアの各国も有事の際の派兵を約束。イスラエルは周囲を完全に包囲されます。

 このため、イスラエルはアラブ諸国軍に対する戦闘準備を急ぎ、先制攻撃を計画。当初、米国はイスラエルの先制攻撃に反対し、問題の政治的解決を求めましたが、最終的には、和平解決のための具体的行動をとる用意がないことをイスラエルに通告します。これを受けて、6月5日、イスラエルはアラブ諸国軍に対する先制攻撃を開始しました。

 こうして、いわゆる第三次中東戦争の勃発します。

 戦争の勝敗は、開戦後まもなく、イスラエル空軍が、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国の空軍基地を壊滅状態に追い込んだことによって、早々に決せられました。イスラエル軍は早くも6月7日には東エルサレムを占領し、同月10日にはゴラン高原のシリア軍が潰滅。この間、6月8日には国連安保理の勧告を受けて、エジプトが無条件停戦に応じ、シリアも10日には停戦に応じました。このため、イスラエル側は、この戦争を誇らしげに“6日戦争”と呼んでいます。

 第三次中東戦争の結果、イスラエルの占領地は一挙に戦前の3倍に拡大します。しかし、理由はどうあれ、戦争がイスラエル側の先制攻撃ではじまったことから、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども否定的で、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、現在でも、東西エルサレムはイスラエルの“不可分の永遠の首都”であるというのが彼らの主張です。

 ちなみに、今回ご紹介の切手では、シートは中央のタブを挟んで左右に1枚ずつ切手が収められていますが、エルサレムを象徴するものとして左側の切手にはヘブライ大学の時計塔を、右側の切手には嘆きの壁を、それぞれ取り上げています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。
 
 
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 米大統領“嘆きの壁”初訪問
2017-05-23 Tue 11:20
 中東歴訪中のトランプ米大統領は、きのう(22日)、現職の米大統領としては初めて、エルサレムの“嘆きの壁”を訪問しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・エルサレム3000年

 これは、1995年9月4日にイスラエルで発行された“エルサレム3000年”の記念切手のうち、嘆きの壁を含む“神殿の丘”の絵図が取り上げた1枚で、切手の左側には壁越しの岩のドームが、切手の下についているタブには嘆きの壁で祈るユダヤ教徒が取り上げられています。ちなみに、エルサレムの歴史的な起源は、紀元前30世紀頃、古代セム系民族がカナンの地の“オフェルの丘”に築いた集落とされていますが、今回ご紹介の切手の“エルサレム3000年”は、紀元前1000年頃にヘブライ王国が成立し、ダヴィデ王がここを首都と定めたことから起算した年回りです。

 さて、切手の絵地図に取り上げられた“神殿の丘(ハラム・シャリーフ”は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ダヴィデ王の子、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。

 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手のタブにも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。

 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。

 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカメディナに次ぐ第3の聖地とされています。エルサレムの中でも、ムスリムが(特にピンポイントで)聖地としている場所は、691年、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に建造された岩のドームですが、当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。

 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっても聖地だったのですが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、“神殿の丘”の敷地内にイスラムの聖地としてモスク等が建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。

 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。

 神殿の丘を含むエルサレム旧市街は、英国によるパレスチナ委任統治の終了後、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれ、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。

 1967年6月の第三次中東戦争でイスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸を占領しましたが、同年11月22日の国連安保理はイスラエルの占領を無効とする安保理決議242を全会一致(中華民国、フランス、イギリス、アメリカ、ソビエト連邦、アルゼンチン、ブラジル、ブルガリア、カナダ、デンマーク、エチオピア、インド、日本、マリ、ナイジェリア)で可決。ただし、同決議では撤退期限は定められず、経済制裁などの具体的なイスラエルへの対抗措置も行われなかったため、イスラエルは決議を無視し、占領地の支配を継続しました。

 1979年のイスラエル=エジプト平和条約が調印されると、1980年、イスラエル議会は、あらためて、東西エルサレムを統合した“統一エルサレム”はイスラエルの永遠の首都であると宣言しました。エジプトとの平和条約により国境が画定し、東エルサレムの支配も追認されたというのがイスラエル側の主張です。

 このため、同年の国連総会は、安保理決議242が有効であることを改めて確認したうえで、イスラエルによる東エルサレムの占領を非難し、エルサレムを首都としたイスラエルの決定の無効を143対1(反対はイスラエルのみ、棄権は米国など4)で決議。この決議も現在なお有効で、国際社会はイスラエルによる東エルサレム支配の正当性を認めていません。
 
 こうした事情を踏まえて、今回のトランプ大統領の嘆きの壁訪問に際しては、この場所の主権がイスラエルにあることを(国連決議を無視して)認めたとの批判を避けるため、イスラエル側の関係者は同行しないという措置が取られたほか、米当局者も壁の帰属がイスラエルにあるのか否かについてはコメントを拒否しています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正して書籍化する企画も現在進行中です。具体的な内容や発売日などが決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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