内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 カンボジアの翼
2015-04-07 Tue 12:38
 日本の政府開発援助(ODA)による無償供与約120億円によるプロジェクトとして、カンボジア南東部ネアックルンのメコン川に架けられていた“つばさ橋(全長2200m)”が完成し、昨日(6日)、フン・セン首相らが出席して開通式が行われました。というわけで、カンボジアの“つばさ”ということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       カンボジア・ガルーダ

 これは、1973年にカンボジアで発行されたガルーダを描く航空切手です。

 カンボジアは、1953年11月9日に“カンボジア王国”として独立しましたが、1960年3月以降、“国家元首”となったシハヌークは“王制社会主義”を掲げ、左派色の強い開発独裁政策を推進しました。これに対して、左派・リベラル色の強いシハヌークを嫌った米国は、1970年3月、シハヌークが北京に外遊している隙をついて、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)らにクーデターを敢行させます。シハヌークは国家元首から解任され、王制は廃止され、“クメール共和国”の樹立が宣言されました。これに伴い、以後、1975年にポルポト派がカンボジア全土を制圧し、“民主カンプチア”の成立を宣言するまでは、今回ご紹介している切手のように“クメール共和国”の表示の切手が発行されることにとなりました。

 切手の題材となっているガルーダは、インド古典文学『マハーバーラタ』に登場する半鳥半人の半神は、頭・翼・爪・口はワシ、胴・腕・脚は人間の姿で表現されるのが一般的です。仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国では他のヒンドゥー諸神と併せて祀られており、タイでは国章などにも用いられています。ちなみに、切手に描かれたガルーダのレリーフは、アンコール・トムの遺跡にある12世紀の像です。

 なお、ガルーダについては、東南アジア各国で様々な切手が発行されていますが、その一部は、拙著『切手が伝える仏像』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ
 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場
 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 世界の国々:カンボジア
2014-11-19 Wed 12:44
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2014年11月19日号が、先週、刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はカンボジアの特集です。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・松葉杖

 これは、内戦終結後の1996年に発行された800リエル切手で、国民和解の象徴として、内戦時に埋められた地雷で負傷する人々のために松葉杖を作る障碍者が取り上げられています。

 1945年3月、日本軍がインドシナ半島のフランス軍を駆逐すると、ノロドム・シハヌークはカンボジアの独立を宣言します。しかし、同年8月15日、日本は連合国に降伏し、ヴェトナムではホーチミンがヴェトナム民主共和国(ヴェトミン)の独立を宣言。その際、歴史的にヴェトナムの圧迫を受け続けてきたカンボジアは、ヴェトミンの侵略を恐れて、一旦フランスの帰還を制限つきで承認するとともに、シハヌークがみずから米国を始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴えました。

 その結果、1949年、カンボジアはフランス連合内での形式的な独立を認められましたが、フランスは警察権・軍事権を手放しませんでした。このため、シハヌークは離宮に籠もり「完全独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言。これを機に、カンボジア国内では反仏デモが盛り上がり、1953年11月9日、カンボジア王国の完全独立が達せられます。

 独立後の1955年3月、立憲君主国の象徴的な元首としての“国王”の地位にあきたらなくなったシハヌークは退位し、父親のノロドム・スラマリットを国王として即位させました。

 退位後のシハヌークは“殿下”の称号を使いつつ、政治団体・社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)を結成。同年の総選挙は与党が全議席を獲得するという圧勝となり、シハヌークは首相兼外相に就任します。さらに、1960年3月、国王が崩御すると、王位を空位として新設の“国家元首”となり、“王制社会主義”の看板を掲げ、左派色の強い開発独裁政策を推進しました。

 これに対して、左派・リベラル色の強いシハヌークを嫌った米国は、1970年3月、シハヌークが北京に外遊している隙をついて、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)らにクーデターを敢行させます。シハヌークは国家元首から解任され、王制は廃止され、“クメール共和国”の樹立が宣言されました。

 これに対して、シハヌークはクーデター後も北京に留まって、亡命政権“カンボジア王国民族連合政府”を結成。ロン・ノル政権打倒を掲げて、中国・北朝鮮の仲介でクメール・ルージュ(ポル・ポト派)と提携し、カンボジアは本格的な内戦の時代に突入します。

 ロン・ノル政権と反政府勢力との内戦は、1975年、カンボジア全土を制圧したポル・ポト派が、シハヌークを国家元首とする共産主義国家“民主カンプチア”の成立を宣言することでいったん終結。シハヌークも滞在先の平壌から帰国しました。

 しかし、1979年までに100万人以上の国民が亡くなったとされるポル・ポトの恐怖支配の下では、シハヌークの“国家元首”も名目的なものにすぎず、彼と家族はプノンペンの王宮での事実上の幽閉生活を余儀なくされました。

 シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだものの許されず、1976年4月、国家元首の辞任が認められただけでした。結局、1979年にヴェトナム軍がカンボジアに侵攻すると、彼は、国連でヴェトナム軍の不当性を訴えるという名目で国外に脱出します。

 1979年、ポル・ポト政権が崩壊し、ヴェトナムの支援を受けたカンプチア人民共和国が成立すると、ポル・ポト派とシハヌーク派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の3派は連合し、ヴェトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続くことになります。

 その後、1991年10月、カンボジアの内戦はパリ和平協定が締結されまで続きましたが、和平協定の調印後は、国家再建のため、1992年3月から、明石康を事務総長特別代表とする国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による統治がスタート。1993年5月には国連の監視下で民主選挙が実施されました。選挙は無事に終了し、選挙後の制憲議会は、同年9月、新憲法を発布し、シハヌークを国王とする立憲君主制が復活しました。

 さて、『世界の切手コレクション』11月19日号の「世界の国々」では、シハヌークを軸にしたカンボジア現代史について概観しているほか、アンコール遺跡を取り上げた世界最初の仏像切手、伝統的な銀細工や民族衣装、隣国タイとの係争地にあるプレアヴィヒア寺院の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の11月26日号では、「世界の国々」はアフガニスタンにフォーカスを当てておりますが、こちらについては、来週水曜日に、このブログでもご紹介する予定です。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 シハヌーク前国王崩御
2012-10-15 Mon 11:17
 カンボジアの前国王、ノロドム・シアヌーク陛下(以下、“シハヌーク”と敬称略)が、きょう(15日)未明、療養先の北京で崩御されました。享年89。謹んでご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       シハヌーク(1964)

 これは、1964年、カンボジアで発行された“社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)10周年”の記念切手で、国家元首としてのシハヌークの肖像が大きく取り上げられています。シハヌークの切手は、フランス領インドシナ(仏印)時代にも発行されていますが、今回は、独立後の切手を持ってきました。

 ちなみに、今回ご紹介の切手は、1964年当時、カンボジア政府が国家元首としての正式の肖像として認定していた写真をもとに制作されました。その後、ロン・ノルのクーデターで亡命を余儀なくされ、ポル・ポト政権下で事実上の幽閉状態に置かれ、さらには延々と内戦が続くという状況の中で、1993年に彼が国王として再即位するまで、政府として公認のシハヌークの肖像というのはアップデートされないままになっていましたので、新聞などでこの肖像を目にした記憶のある方も多いのではないかと思います。

 さて、シハヌークは、1922年、カンボジア王族ノロドム・スラマリットとシソワット・コサマック妃の息子としてプノンペン生まれ。同じく腐乱氏の支配下にあったサイゴンに留学中の1941年、祖父のシソワット・モニヴォン国王(コサマック妃の父)の崩御に伴い、請われて帰国し、18歳で即位しました。

 1945年3月、いわゆる明号作戦によって、インドシナ半島に進駐していた日本軍がフランス軍を駆逐すると、日本軍の影響下で、シハヌークは、ヴェトナム(バオ・ダイ)、ラオス(シーサワーンウォン)と相前後してカンボジアの独立を宣言。同年6月には、コーチシナの約半分の領有を主張し、日本へ仲介を依頼しています。

 1945年8月15日の日本の敗戦後、ヴェトナムではホーチミンがヴェトナム民主共和国(ヴェトミン)の独立を宣言しますが、フランス支配以前、歴史的にヴェトナムの圧迫を受け続けてきたカンボジアは、ヴェトミンの侵略を恐れて、一旦フランスの帰還を制限つきで承認。アメリカを始めとする諸外国を歴訪してカンボジアの現状と独立を国際世論に訴えました。

 その後、カンボジアは1949年にフランス連合内での独立を認められますが、フランス側は警察権・軍事権を手放さなかったため、シハヌークは離宮に籠もり「完全に独立が達成されるまで首都・プノンペンには戻らない」と宣言。これを機に、カンボジア国内では反仏デモが盛り上がり、1953年11月9日、カンボジア王国の完全独立が達せられました。

 独立後の1955年3月、立憲君主国の象徴的な元首としての“国王”の地位にあきたらなくなったシハヌークは退位し、父親のノロドム・スラマリットを国王として即位させました。退位後のシハヌークは“殿下”の称号を使いつつ、政治団体“社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム)”を結成。同年の総選挙で圧勝(全議席を制したそうです!)し、首相兼外相に就任しました。さらに、1960年3月、国王が崩御すると、王位を空位とし、自身は新設の“国家元首”となり、“王制社会主義”を推進しました。

 王制社会主義というのは、一種の語義矛盾ですが、仏教の保護と王室(実質的にはシハヌーク)の指導の下、対外的には中立政策を守り、国内では社会主義的な政策を進めるというもので、要するに、東寄りないしはリベラル色の強い開発独裁体制と言えましょう。じっさい、隣国ヴェトナムでの戦争に関して、シハヌーク政権は、ヴェベトナム解放民族戦線の補給基地や北ベトナムから南ベトナムへの人員物資補給路であるホーチミンルートの存在を黙認し、その結果として、アメリカ軍と南ベトナムの攻撃を受けています。

 こうしたシハヌークの容共姿勢に対して、1970年3月、首相兼国防相ロン・ノル将軍と副首相シリク・マタク(シハヌークの従兄弟)らは、アメリカの支援を受けてクーデターを敢行。北京に外遊中のシハヌークを国家元首から解任し、王制廃止と共和制施行を宣言しました。これに伴い、国名は“クメール共和国”と改められています。

 これに対して、シハヌークはクーデター後も北京に留まって、亡命政権“カンボジア王国民族連合政府”を結成。ロン・ノル政権打倒を掲げて、中国・北朝鮮の仲介でクメール・ルージュ(ポル・ポト派)と提携することになりました。

 1975年、カンボジア全土を制圧したポル・ポト派が、シハヌークを国家元首とする共産主義国家“民主カンプチア”の成立を宣言すると、シハヌークは平壌から帰国しました。1979年までに100万人以上の国民が亡くなったとされる悲惨な状況の下で、シハヌークの“国家元首”は名目的な地位にとどまり、事実上、プノンペンの王宮に幽閉されてしまいます。第6夫人のモニク妃と2人の間に生まれた2人の王子(シハモニ、ナリンドラポン)とわずかな側近・従者以外との同居は許されず、残りの王族は容赦なく虐殺されました。このため、シハヌークは病気療養を理由に海外出国を望んだものの許されず、1976年4月、国家元首の辞任が認められただけでした。結局、1979年にヴェトナム軍がカンボジアに侵攻すると、彼は、国連安保理でヴェトナム軍の不当性を訴えるという名目で、ようやく、国外に脱出しました。

 その後、カンボジア国内では、クメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続きましたが、1992年3月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和維持活動を開始。翌1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、シハヌークの二男ラナリット王子の率いるフンシンペック党が第一党となり、同年9月に制定された新憲法で立憲君主制が復活。シハヌーク国王として再即位しました。

 なお、シハヌークは2004年10月29日に国王を退位し、癌治療のため、定期的に北京を訪れる生活を送っていましたが、きょう、崩御したというわけです。ちなみに、ギネスブックでは「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」として、シハヌークが認定されています。


 ★★★  T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★
   
・よみうりカルチャー荻窪
 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★

 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち
 そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史

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 猫ひろし、五輪出場不可
2012-05-09 Wed 22:08
 カンボジア国籍を取得し、いったんはロンドン五輪男子マラソンの同国代表に選ばれたタレント、猫ひろしについて、国際陸上競技連盟は「参加資格を満たしていない」と判断。猫のロンドン五輪出場の可能性は消滅しました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        キンナリー小型シート(カンボジア)

 これは、1953年4月に発行されたカンボジアの航空切手の小型シートで、それぞれの切手にはキンナリーが描かれています。

 キンナリーは、もとはヒマラヤに住む精霊の一種で、一般には、上半身が人間、下半身が鳥の姿で表現されることが多いようです。歌と踊りで神々に仕え、古典文学では美人の象徴として女性の姿で登場しますが、単語としては男性形のキンナラもあります。今回ご紹介の切手に描かれているのは中性的な顔つきですが、キンナリーとなっていますので、女性の姿ということなのでしょう。なお、キンナリーを取り上げた各国の切手については、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、ぜひ、見比べていただけると幸いです。

 さて、ついでなので、この切手が発行されるまでのカンボジア近代史についてもおさらいしておきましょう。

 フランスによるインドシナ植民地化の過程で、1863年8月、フランスはカンボジア王と「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結し、カンボジアを保護国化します。1867年7月には、カンボジアの宗主国であったシャム(現タイ)もカンボジアに対するフランスの保護権を承認。1887年には現在のカンボジア領の大半がフランス領インドシナの一部となり、1893年のパークナーム事件を経て、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンの各地域もフランスに割譲され、カンボジア全土がフランス領インドシナに編入されました。

 こうした経緯もあって、第2次大戦でフランス本国が敗れた後の1940年11月、タイ・フランス領インドシナ間で、カンボジア、ラオスの領土をめぐり国境紛争が勃発。1941年5月、日本の調停によりタイ・フランス両国間で平和条約(東京条約)が結ばれ、タイはバッタンバンなどカンボジアの失地を回復します。さらに、1945年3月、カンボジア王ノロドム・シハヌークが日本軍の明号作戦に呼応してカンボジアの独立を宣言しましたが、日本の敗戦により、カンボジアは再びフランスの支配下に置かれることになりました。

 これに対して、シハヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、1949年にフランス連合内での独立を獲得。1953年には警察権・軍事権を回復してカンボジア王国として完全独立を達成し、今回ご紹介の切手が発行されるに至ったというわけです。

 その後のカンボジアは、1970年のロン・ノルによるクーデターで発足したクメール共和国、1976-79年のポルポト時代、1979年に始まるヘン・サムリン政権と1982-91年の内戦を経て、1991年に現在のカンボジア王国が成立するという激動の歴史をたどることになります。

 さて、“カンボジア人”になったばかりの猫ひろしが、カンボジアの近現代史についてどの程度の知識を持っているのか、テレビのインタビューなどを見る限りでは良くわからないのですが、報道によれば、ご本人いわく「カンボジア人として4年後のリオデジャネイロ五輪を目指す」ということだそうです。そういうことなら、その間、近現代史の概説を含めたカンボジア入門の番組なり書籍なりを、ぜひ、作っていただきたいものですな。

 *けさ、カウンターが103万PVを越えました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 タイ=カンボジア国境で交戦
2011-02-05 Sat 19:21
 世界遺産のプレアヴィヒア寺院周辺にあるタイとカンボジアの国境未画定地域付近で、きのう(4日)からきょう(5日)にかけて両国軍が2度交戦し、カンボジア側によると、カンボジア人兵士2人と民間人1人が死亡、12人が負傷し、タイ軍兵士が23人死亡、数十人が負傷したとのことです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        プレアヴィヒア寺院(1963)

 これは、1963年にカンボジアが発行したプレアヴィヒア寺院の切手です。

 現在のタイとカンボジアならびにラオスとの国境は、基本的に、1893年のパークナーム事件の後、フランスがタイの領土や属国の一部を併吞した結果として、1904年に画定されたものですが、カンボジアとタイ国境にあるダンレク山地内については未確定なままになっていました。

 このため、プレアヴィヒア寺院を含む山地内土地については、タイと仏印ならびに独立後のカンボジアがそれぞれ領有権を主張していました。このため、問題はハーグの国際司法裁判所に持ち込まれ、1962年、とりあえず寺院そのものはカンボジア領とされましたが、周辺の土地の帰属は確定されませんでした。

 その後、カンボジアは1970年代から内戦に突入し、この問題も棚上げとなっていましたが、1993年に内戦が終結し、カンボジアが急速に復興を遂げていく中で、2008年、カンボジアはプレアヴィヒア寺院のユネスコ世界遺産への登録申請を行います。これに対して、もともとカンボジアそのものがタイの属国であったという歴史認識をもつタイ国民の多くが激昂。同年7月、外務大臣がカンボジアによる世界遺産登録に反対しなかったため辞職に追い込まれると、それに報復するかのように、カンボジア側はタイ人3人が寺院に不法侵入したとして彼らを拘束し、一事、国境地帯で両国の軍隊がにらみ合う状況となりました。

 以来、プレアヴィヒア寺院問題は、タイとカンボジアの間の火種としてくすぶっており、それが今回の衝突につながったというわけです。

 なお、タイ側が主張するように、かつてカンボジア西部のバッタンバンやシェムリアップなどはタイ領としてタイの切手が使われていましたが、その実例については、拙著『タイ三都周郵記』でもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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