内藤陽介 Yosuke NAITO
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 スプートニクとガガーリンの闇(5)
2018-02-20 Tue 12:13
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第670号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1957年中にソ連で制作・発行されたスプートニク2号関連のマテリアルについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・スプートニク2号(60コペイカ)

 これは、1957年にソ連が発行したスプートニク2号打ち上げの記念切手です。

 1957年10月4日、ソ連は人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しましたが、当初、ソ連の最高権力者であったフルシチョフは人工衛星の打ち上げを単純に科学技術上の問題と考えており、そのことの持つ軍事的ないしは政治的な意味をほとんど理解していませんでした。ところが、全世界が大騒ぎになるのを見た彼は、ただちに、事態の重大さを認識します。

 10月10日、開発責任者のセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフを呼び出したフルシチョフは、11月7日のロシア革命40周年記念日までの、もうひとつ、よりインパクトのある衛星を打ち上げるよう指示しました。

 1ヶ月以内に2発目の衛星を打ち上げるという無理難題に困惑したコロリョフは、とっさに、犬を載せたスプートニクを打ち上げることを提案します。

 第二次大戦後のロケット開発の文脈の中においては、1949年以降、犬を載せたロケットの打ち上げ実験が行われていました。実験動物としては、当初、犬と猿が候補とされていましたが、躾が容易で飢えにも強く、なおかつ、見栄えが良い(実験成功の暁には、大々的にそのことが報じられることが考慮されたため)などの理由から犬が採用となり、犬を載せるためのコンテナや生命維持装置などには制作実績があったからです。

 ただし、それらのロケットは高度80キロまでで、犬もパラシュートで回収されていました。これに対して、そもそも、大気圏再突入の技術が不十分であるがゆえに、長距離弾道ミサイルではなく、人工衛星を打ち上げざるを得なかった当時の技術力では、衛星に載せた犬を“回収”することは不可能でした。

 それでも、軌道上に打ち上げた衛星に何らかの動物を長時間滞在させ、さまざまなデータを取ることは、将来の有人宇宙飛行の布石として説得力のあるプランで、フルシチョフを大いに満足させました。実際、フルシチョフは、側近でロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国首相(翌1958年、ソ連第一副首相に昇格)のフロル・ロマノヴィチ・コズロフを担当者として直々に任命し、進捗状況を毎日報告させています。

 さて、スプートニク2号の衛星本体は円錐形で、送信機のほか、犬を入れたコンテナと生命維持装置、血圧、心拍数、呼吸数、心電図などの記録装置、紫外線ならびにX線測定装置などを搭載していたため、スプートニク1号(質量83.6キロ)よりも大幅に重い質量は508キロとなりました。

 衛星に載せられる犬は、スペースの都合から、体重6キロ以下、体長は35センチを越えない雌犬(排泄の時に片足を上げない)のうち、実験結果の撮影のために体色は白もしくは明るいもの、ロシア原産の種であること、などの条件の下、航空医学アカデミーが手持ちの10匹の中から3匹を選び、最終的に、巻き毛の“クドリャフカ”という名の犬が選ばれました。

 クドリャフカは、もともと、医学研究目的に保護施設から航空医学アカデミーに送られた雑種犬でしたが、性格が大人しく、打ち上げまでの期間、毎日、数時間コンテナの中に入れられていても、ほとんどじっとしていて動きませんでした。また、コンテナの内部は立ったり座ったりできる程度のスペースがあり、食糧は高カロリーのゼリーが20日分、毎日一定量、自動的に供給される仕組みになっていました。

 ちなみに、この犬は“ライカ犬”という名前でも知られているが、これは、ソ連側が犬種を“ロシアン・ライカ”と発表したことによるものです。

 ロシア語の“ライカ”は“吠える”を意味する動詞の“лаять(ラヤート)”から派生した名詞で、もともとは、ロシア北部およびその周辺地域で伝統的に飼われてきた猟犬全般を指す語でした。このため、たとえば、シベリアン・ハスキーを“ヤクート・ライカ”、サモエドを“サモエド・ライカ”と呼ぶこともあります。国際畜犬連盟(FCI)が認定する“ライカ”犬としては、ロシアおよびシベリア原産の犬から作出されたラッソ・ヨーロピアン・ライカ、ウエスト・シベリアン・ライカ、イースト・シベリアン・ライカの3種がありますが、このほかにも、コーレル・ライカ、ツングース・ライカ等のように、実際に猟犬として使用されているものの、詳細がよくわからないものも少なくありません。

 さて、クドリャフカを乗せ、10日分の酸素と食糧と実験データを取るための各種の計測器を積み込んだスプートニク2号は、スプートニク1号の打ち上げから1ヵ月後の1957年11月3日、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、今回ご紹介の記念切手も発行されました。

 ただし、このとき発行された記念切手には、打ち上げのハイライトともいうべき犬の姿はどこにも描かれておらず、代わりに、クレムリンを背景に描いています。こうしたところにも、衛星の打ち上げが革命40周年の記念事業であったという事情が如実に反映されています。もっとも、クドリャフカに関しては、切手のデザイナーには実験の詳細な内容など知らされていなかった可能性も否定はできません。

 なお、スプートニク2号からの地上への通信は11月10日に途絶え、機体そのものも打ち上げ162日後の1958年4月14日に大気圏に再突入し消滅しましたが、打ち上げ後4周目にしてすでに衛星からの信号では生体反応は確認できなかったそうです。これが正しければ、衛星はおよそ100分で地球を1周していましたので、6時間後にはすでにクドリャフカは死んでいたということになりますが、当時のソ連当局者は「ライカ犬は1週間程度生きていた」と発表しています。

 いずれにせよ、クドリャフカの宇宙飛行は国家のために片道燃料で死地に向かう“特攻”のようなものでしたから、英国動物愛護協会はライカの死に対して、ソ連に抗議。これに対して、ソ連側は、追悼のためとして、在りし日のライカの姿を描いたパッケージのタバコ“ライカ”を発売しました。

 なお、かつて、クドリャフカが訓練を受けた、モスクワのペトロフスキー公園の南西にある航空宇宙医学研究所には、スプートニク2号の打ち上げから40周年にあたる1997年、“ライカ”の記念碑が建てられています。


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 小平が金
2018-02-19 Mon 01:10
 現在開催中の平昌五輪は、10日目のきのう(18日)、スピードスケート女子500メートルの小平奈緒が36秒94の五輪新記録で金メダルを獲得しました。日本のスピードスケート界では1998年長野五輪男子500メートルの清水宏保以来、女子では初の金メダル獲得です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・スピードスケート世界選手権(1959)

 これは、1959年2月、スヴェルドロフスク(現エカチェリンブルク)で開催されたスピードスケート女子世界選手権に際して開催国のソ連が発行した切手つき封筒です。スピード・スケートのユニフォームは基本的に男女同じですし、顔も半分はゴーグルで隠れてしまいますので、パッと見には選手が男性なのか女性なのか、なかなか区別しづらいのですが、今回ご紹介の切手つき封筒のイラストは、女性であることがわかりやすい一例ではないかと思います。

 スピードスケートの世界選手権大会は、1889年にアムステルダムで第1回大会が開催されて以来、毎年1回開催されています。女子選手に門戸が開かれたのは1936年の大会からですが、1995年までは、男女別会場での開催でした。ちなみに、今回ご紹介の切手つき封筒の1959年大会は、女子の大会はソ連のスヴェルドロフスクで開催されましたが、男子の大会の開催地はオスロです。

 1959年の大会開催地となったエカチェリンブルクはウラル山脈中部の東側(アジア側)斜面に位置する都市で、11世紀ごろからノヴゴロド共和国の商人が毛皮交易のために訪れていましたが、1721年、冶金工場と要塞が設けられ、エカチェリーナ1世にちなんでエカテリンブルクと命名。ロシア帝国時代のエカチェリンブルクはデミドフ家の投資によってロシア有数の金属工業の中心へと発展しました。また、ロシア革命の後、皇帝ニコライ2世とその家族はこの地に送られ、1918年7月17日に市内のイパチェフ館で銃殺された土地としても知られえています。

 1924年、 エカチェリンブルクは、ソヴィエト政権の初期に全ロシア中央執行委員会の議長を務めたヤーコフ・スヴェルドロフ(1919年没)にちなんで、スヴェルドロフスクと改名されました。また、1941年、いわゆる独ソ戦が始まると、モスクワやレニングラードなどヨーロッパ・ロシアの大都市から軍需工場や研究所、さらにはエルミタージュ美術館の所蔵品がこの地に疎開。1945年10月、独ソ戦の終結に伴い、美術品はレニングラードへ戻りましたが、工場や研究所の多くはそのまま残ったため、スヴェルドロフスクは軍需産業の一大中心地となりました。
 
 なお、ソ連崩壊後の1991年、都市としての名称は旧名のエカチェリンブルクに戻されましたが、州の名称は現在もソ連時代のスヴェルドロフスク州のままとなっています。
 

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 スプートニクとガガーリンの闇(4)
2018-01-02 Tue 11:56
 先月25日、『本のメルマガ』第667号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1957年中にソ連で制作・発行されたスプートニク1号関連のマテリアルについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・年賀はがき(1957年・スプートニク)

 これは、1958年用に作られたソ連の年賀絵葉書で、スプートニク1号にまたがって飛ぶ子供が描かれています。

 スプートニク1号の打ち上げ成功(1957年10月4日)から3日後の10月7日、ソ連はコンスタンチン・ツィオルコフスキー生誕100周年の記念切手を発行しました。ツィオルコフスキーの誕生日は1857年9月17日(新暦では9月5日)、命日は1935年9月19日で、切手発行日の10月7日はそのいずれにも該当しません。

 もちろん、ツィオルコフスキーの生誕100年は、人工衛星打ち上げの成否にかかわらず、記念すべき出来事ではあるのですが、当初の打ち上げ予定日が10月6日だったことを考えると、人工衛星の打ち上げ成功を見越して、その翌日に記念切手の発行日が設定されたと考えるのが妥当なように思われます。

 たとえば、打ち上げの成功を受けて、開発責任者のセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフは次のように演説しており、彼がツィオルコフスキー(の生誕100年)を意識していたことは明らかです。

 同志諸君!本日人類の最高の知性が夢見たことが現実となった。コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキーの、人類は永久に地球上にとどまることはないであろうとの預言が実現した。本日、世界初の人工衛星が地球周回軌道上に投入された。その結果として、宇宙の征服が始まった。そして、宇宙空間への道を敷いた最初の国は、我が国ソヴィエト国家である。諸君とともに、この歴史的な日を祝いたい。(訳文は富田信之『ロシア宇宙開発史 気球からヴォストークまで』 東京大学出版会 2012年)

 ただし、コロリョフの興奮とは1957年10月4日の時点では、打ち上げに関わっていた実務担当者の多くは、人工衛星よりも、ロケットR-7が正常に飛ぶか否かに関心があり、スタッフの一人で打ち上げ当日、モスクワにいたボリス・エフセーヴィチ・チェルトクは「我々は、宇宙時代が今始まったなどと思いもよらずに散会し、深夜、黙々と家路に就いた」と証言しています。

 フルシチョフもまた、スプートニク1号の打ち上げ成功は、長距離誘導ロケットがいまだ成功に至らぬ中で、あくまでも科学技術上の過渡的な業績の一つとしてしか考えておらず、当初は、その政治的な重要性をあまり理解していなかったとされています。ただし、モスクワ放送(現ロシアの声)は、国内向けのロシア語放送よりも先に、米国向けの英語放送で打ち上げ成功の第一報を報じており、打ち上げの成功を対米戦略に活用しようという意思はあったようです。

 ところが、スプートニク1号の打ち上げ成功は、ソ連関係者の予想をはるかに上回る国際的な反響を呼び起こしました。このため、政治家・フルシチョフは宇宙活動の成果を最大限に活用することを決断。ソ連のメディアはソヴィエト科学の“勝利”を大々的に報じ、国民は、詳細はわからないものの、“なにかすごいこと”をソ連の科学者が達成したことは理解し、フルシチョフに対する支持も上昇しました。

 これを受けて、打ち上げからほぼ1ヶ月後の11月5日、スプートニク1号の成功を記念する切手が発行されます。

 切手は地球を周回するスプートニク1号を描いたもので、左上には1957年10月4日の日付も入っている。また、スプートニク1号は直径58cmのアルミニウム製の球で、それに長さ2.4mのアンテナ4本が一方向についていましたが、実際に打ち上げが成功するまで、この形状は外部に明らかにされませんでしたので、切手のデザインは打ち上げの成功に制作され、そこから突貫作業で切手の製造が進められたと考えてよいでしょう。

 ちなみに、スプートニク1号を球形にしたのはコロリョフのこだわりで、表面積が最小で内容積が最大となるのが大きな利点でした。また、表面を磨き上げることによって、反射率を高めて熱吸収率を下げれば表面の温度上昇を抑えることも可能で、反射により地上からも衛星が見えるという効果も期待されていました。

 さらに、11月28日には、10月7日に発行されたツィオルコフスキー生誕100周年の記念切手に打ち上げ成功の記念銘を加刷した切手も発行されています。

 新たにオリジナル・デザインの正刷切手を発行するよりも、既に存在する切手に記念文字を加刷する方が製造工程としてははるかに簡単で制作期間も短くて済むはずです。それだけに、加刷切手に先んじて正刷切手が先に発行されたことは、結果的に、正刷記念切手の製造がいかに突貫作業で進められたかを物語るものといえましょう。

 なお、11月5日に発行された切手は青みがかった用紙に紺色で印刷されていますが、12月28日には白紙に明るい青色で印刷された切手が発行されています。両者のデザインと額面は全く同じで刷色も同系統なので、このような変更が行われる必然性はあまりないように思われますが、あるいは、突貫作業で作られたために用紙やインクの調達の関係で、2度に分けて製造・発行せざるを得なかったということなのかもしれません。

 今回ご紹介の葉書は、これらの記念切手に加えて、制作されたものです。

 スプートニク1号の反響に気をよくしたフルシチョフは、10月10日、コロリョフに対して、11月7日の革命記念日までにスプートニク2号を打ち上げるよう命じ、それは、11月3日に実現されました。

 ただし、1958年用の年賀絵葉書の場合は、とりあえず、記念切手ほど突貫作業での制作・発行の必要がなく、とりあえず、年末までに間に合わせればよいということだったのか、スプートニク2号を取り上げたものはなく、1号と2号を並べて描くデザインの絵葉書が出回るようになるのは1958年に入ってからのことでした。

 ちなみに、スプートニク1号の電池寿命は3週間で、打ち上げから22日後には電池が切れましたが、その後も衛星は軌道周回を続け、年が明け、打ち上げから92日後の1958年1月4日に高度がさがり、大気圏に再突入して消滅しました。したがって、今回ご紹介の絵葉書は、スプートニク1号が実際に宇宙空間を飛んでいる間に発行されたモノということになります。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

  12月28日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第13回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、年明け1月11日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、12月28日放送分につきましては、1月4日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 スプートニクとガガーリンの闇(3)
2017-12-19 Tue 08:58
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第664号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連側から見た国際地球観測年と宇宙開発の関係について取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・国際地球観測年(観測)

 これは、“国際地球観測年”が始まって間もない7月4日、ソ連が発行した“国際地球観測年”の記念切手です。

 1955年7月、米国のアイゼンハワー政権は国際地球観測年の期間中(1957年7月1日-1958年12月31日)に人工衛星を打ち上げる計画を発表。8月6日には、第6回国際宇宙航行会議の席上、国際宇宙航行連盟会長のフレデリック・デュランが「米国は人工衛星の打ち上げを準備している」とのアイゼンハワー書簡を読み上げました。

 これを受けて、会議に出席していたモスクワ大学教授のレオニード・イワノヴィッチ・セドフ(ちなみに、会議には“惑星間飛行の組織ならびに実現分野における共同作業に関わる省庁間委員会”の委員長という資格で参加)は記者会見を開き、「過去、ソヴィエトでは惑星間交通手段の実現に関する研究課題、第一に地球周回人工衛星開発の問題に多くの注意を払ってきている。ソヴィエトの計画は比較的近い将来の実現を予期することができよう」と述べました。この発言は、ソ連でも人工衛星打ち上げの計画が進んでいることを明らかにしたものとして注目されましたが、セドフ本人はソ連の人工衛星開発計画について具体的な知識を持っているわけではありませんでした。

 ソ連国内では、1948年、ミハイル・クラウデイエヴィチ・ティホヌラヴォフを中心とする研究グループが、射程数千キロのロケットを数本束ねれば人工衛星を軌道に投入できると発表していましたが、当時はその実現性はかなり低いとみられていました。

 一方、1950年4月、第88科学研究所(NII-88)第一設計局(OKB-1)の責任者に就任したセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフは、ソ連の長距離ミサイルの開発責任者として、1953年4月、射程7000kmで水爆の搭載が可能な大陸間弾道弾R-7ロケットの開発計画を提出し、政府の承認を得ています。

 R-7の開発は、一義的には、米国に対する軍事的な劣勢を挽回するためのものでしたが、コロリョフは、このロケットを使って世界最初の人工衛星を打ち上げることを夢見ていました。

 実際、彼は、1953年、ソ連科学アカデミーで犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張したものの、軍や党の反対で実現していません。そこで、1954年以降、コロリョフは科学アカデミーを味方につけ、政府や党、軍との折衝を始めたましが、軍は、人工衛星が国防にとって有用であるとは考えず、計画に対して冷淡でした。

 セドフの記者会見は、こうした状況の中で、いわばハプニング的に行われたもので、結果的に、ソ連の人工衛星開発を大きく進める端緒となります。

 すなわち、米国による人工衛星計画の発表から間もない1955年8月初、コロリョフは航空機工業大臣のミハイル・ワシリエヴィチ・フルニチェフ、兵器人民委員部のワシーリー・ミハイロヴィチ・リャビコフとともに、共産党第一書記のニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフと閣僚会議議長のニコライ・アレクサンドロヴィチ・ブルガーニン宛にソ連も人口衛星を打ち上げるべきとの書簡を送りました。フルシチョフはこれを了承し、8月8日付で「地球人工衛星について」と題する政令が発せられます。

 これを受けて、1956年1月30日、質量1000-1400㎏の地球人工衛星を開発し、1957年中に打ち上げることを指示する政令「オブエクトDについて」が出されました。

 しかし、その具体的な調整には予想以上の時間がかかり、1956年末になると、このままでは1957年中の打ち上げは困難で、打ち上げ時期を1958年に延期する政令が出されます。当時のソ連政府にとっては、あくまでも大陸間弾道弾の開発が優先で、人工衛星の打ち上げは二義的なものとしか考えられていなかったため、国際地球観測年の期間内に人工衛星を打ち上げることへのこだわりは、必ずしも強くはなかったのです。

 これに対して、なんとしても米国に先んじて人工衛星を打ち上げたかったコロリョフは、ティホヌラヴォフの提案を容れて、オブエクトDのプランよりも大幅に機能を縮小し、小型で軽量のスプートニク衛星(“最も簡易なスプートニク”を意味するロシア語の頭文字を取ってPSと略される)の製作を決断します。

 一方、コロリョフの“本業”であるR-7の開発は、1957年5月から発射試験が始まりました。

 しかし、R-7は4機を打ち上げた時点で、大陸間弾道弾として最も重要な再突入技術が未熟で、ノーズコーン(大気圏再突入の際に核弾頭を摩擦熱から守るため、ミサイルの先端に装着する耐熱シールド)が機能せず、ミサイルとしては未完成の状態が続いていました。

 ところで、前年の1956年、フルシチョフは共産党大会でスターリン批判を行い、大規模な軍の改革に乗り出しています。大陸間弾道弾の開発はその金看板でしたが、その一方で、改革の影響で通常兵器は削減され、そのことに不満を持つ軍人たちも少なくありませんでした。

 このため、1957年6月の共産党中央委員会幹部会では、反フルシチョフ派がフルシチョフの解任動議を提出。幹部会員11名の内、7人(マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ペルヴーヒン、サブーロフ)が賛成、4人(フルシチョフ、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコ)が反対し、フルシチョフは失脚の危機に追い込まれます。

 しかし、フルシチョフは、第一書記たる自分は中央委員会によって選出された以上、解任できるのも中央委員会のみであると主張。ゲオルギー・ジューコフ国防相(幹部会員候補)とイワン・セーロフKGB議長の協力を取り付け、反フルシチョフ派の工作が及ぶ前に各地の中央委員をモスクワに招集。この結果、党中央委員会総会では形勢が逆転し、中央委員の大多数はフルシチョフを支持し、逆に反対派の行為を厳しく批判。反フルシチョフ派は“反党グループ”として党役職を解任されました。

 こうした情勢でしたから、フルシチョフが主導してきたミサイル開発の“失敗”は、単にコロリョフら技術者の責任が問われるだけでなく、反フルシチョフ派に対してフルシチョフ批判の口実を与え、新たな政争の火種となりかねません。

 そこで、1957年8月21日、バイコヌール基地から打ち上げられた5機目のR-7が6800km飛翔してカムチャッカ半島へ着弾し、一定の成果を上げると、コロリョフは大胆な賭けに出ました。

 すなわち、R-7を大陸間弾道弾としてではなく、人工衛星PS打ち上げ用のロケットとして打ち上げることができると提案したのであす。

 PSを打ち上げるのであれば、宇宙空間に衛星を放出してしまえば大気圏に再突入する必要はありませんので、ノーズコーンの不具合は問題になりません。それゆえ、R-7は(大陸間弾道弾としては未完成であっても)ロケットとしては完成されたものであると主張が可能です。さらに、コロリョフは党幹部の前で「ソ連は、(米国に先んじて)世界で最初に人工衛星の打上げを行う国家を目指さなくてよいのか」と獅子吼し、渋る幹部たちを説得しました。人工衛星そのものにはほとんど興味のなかったフルシチョフも、ともかくも、自分の支援してきたミサイル開発が一定の成果を上げていることを見せる必要がありましたから、コロリョフの提案を認めざるを得ませんでした。

 後に、世界初の人工衛星として歴史に名を残すことになるスプートニク1号の打ち上げは、こうして、慌ただしく決められます。

 今回ご紹介の切手が純然たる天体観測の図案となっており、ロケットやそれに類するものが全く描かれていないのは、この切手が制作・発行された時点では、上記のような事情から、ソ連当局でさえ、国際地球観測年の事業として、本当に人工衛星を打ち上げられるかどうか、懐疑的だったことによるものです。

 かくして、1957年10月、人工衛星PSを搭載した通算6機目のR-7が打ち上げらることになりました。当初の打ち上げ予定は6日に設定されていましたが、米国がこの日に衛星を打ち上げるのではないかとの情報があり、急遽、打ち上げ日は4日(モスクワ時間)に繰り上げられます。

 ちなみに、この時点では、関係者の圧倒的多数にとっては、R-7が正常に飛ぶか否かこそが最大の関心事であり、PSの成否はほとんど眼中になかったとの証言が少なからず残されています。
 

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 12月14日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第12回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、12月28日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、14日放送分につきましては、21日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 ルハーンスク/ルガーンスク
2014-04-30 Wed 10:10
 ロシアと国境を接するウクライナ東部ルハーンシク(ロシア名:ルガーンスク。ルガンスクとも)州の州都ルハーンシクで、きのう(29日)、数百人の親露派が州政府庁舎を急襲して占拠。親露派勢力は“ルガンスク人民共和国”の創設を計画し、5月11日に住民投票を行って賛成多数ならウクライナからの分離独立を宣言すると主張しているそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ヴォロシーロフ・不発行

 これは、1958年、ソ連が発行を予定していたものの、不発行に終わった“ヴォロシーロフグラード機関車工場”の切手です。

 現在のウクライナ・ルハーンシク州の地域は、17世紀にロシア帝国が併合しました。1790年、現在のルガンスク周辺で砂鉄と石炭が発見されたことから、エカテリーナ2世はこの地に鋳鉄製造工場の建立を命じました。これに伴い、工場周辺に“イエカテリノスラヴスキ・ザヴォド”と呼ばれる集落が形成されました。これが、現在のルガンスク市の起源とされています。

 イエカテリノスラヴスキ・ザヴォドは、1797年、“ルガーンスキイ・ザヴォート”と改称されます。1800年にはウクライナ発の高炉が建設され、英国出身の技師とセルビア出身の軍人を中心に、武器の生産がスタート。その後、1882年には“ルガーンスク”と改称され、1896年に蒸気機関車工場が建設されるなど、ロシア帝国有数の工業都市へと成長しました。

 ソ連成立後は、帝政ロシア時代のエカテリーノスラフ県(ソ連成立後はルガンースク州)出身の軍人、クリメント・エフレモヴィチ・ヴォロシーロフにちなんで、1935年、“ヴォロシーロフグラード”と改称されます。

 ヴォロシーロフはスターリンの側近として、1934年に国防人民委員(国防相)に就任し、翌1935年にはソ連邦元帥の称号を得て、赤軍内の大粛清を推進した人物です。ただし、大粛清の結果、赤軍は有能な幹部を多数失うことになり、1939-40年の第1次蘇芬(ソ連=フィンランド)戦争でのソ連側の苦戦や1941年以降の独ソ戦での緒戦での敗退の原因を作ることになりました。

 その後もヴォロシーロフはスターリンの中心であり続けましたが、1953年にスターリンが亡くなると、ソ連共産党第一書記のフルシチョフ、首相のゲオルギー・マレンコフによって、国家元首である最高会議幹部会議長に選出されます。当初は、フルシチョフによるスターリン批判に対しても否定的でしたが、最終的にフルシチョフ側に寝返り、その地位を維持しましたが、1960年5月7日、引退に追い込まれ、同年7月16日、党幹部会員から解任されました。

 こうした時勢の変化に伴い、ヴォロシーロフグラードは、1958年、旧称のルガーンスクに戻されます。今回ご紹介の切手は、改称後の発行が計画されていたものの、地名の表記が旧称の“ヴォロシーロフグラード”のままであったため、実際には発行されずに終わったものです。

 さて、1961年以降、ヴォロシーロフは引退して年金生活に入っていましたが、フルシチョフ失脚後の1966年、ブレジネフ(ちなみに、彼はヴォロシーロフの後任の最高会議幹部会議長でした)によって1966年に中央委員に返り咲き、1969年12月2日、モスクワで亡くなりました。

 これを受けて、1970年、ルガーンスクは再びヴォロシーロフグラードに改称されます。その後、ソ連末期の1990年には旧称のルガーンスクが3度目の復活を果たしたものの、翌1991年のウクライナ独立に伴い、地名もウクライナ語の“ルハーンシク”へと変更され、現在に至っているわけですが、今後も親露派勢力による都市の選挙が続き、5月11日の住民投票の結果、ウクライナからの分離独立が賛成多数を占めれば、当然、地名もロシア語のルガーンスクが復活することになるでしょう。そうすると、現在の“Луганськ(ウクライナ語)”となっている消印の表記も“Луганск(ロシア語)”に変わることが予想されますが、状況によっては、ウクライナ切手にロシア語表示の消印が押されていたり、ロシア切手にウクライナ語の消印が押されていたりと、過渡的なマテリアルが生まれることになりそうで、今後の推移に注目したいところです。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


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 セヴァストーポリの提督
2014-03-03 Mon 14:12
 おととい(1日)、ウクライナ新政権により同国の海軍総司令官に任命されたばかりのデニス・ベレゾフスキー提督が、きのう(2日)、セヴァストーポリの海軍本部をロシア軍の特殊部隊に包囲され、抵抗せずに降伏。これを受けて、クリミア自治共和国政府のアクショーノフ首相は、同日付で“クリミア海軍”を創設し、提督を同海軍司令官に任命するとともに、クリミア半島に駐留するウクライナ軍の全部隊に対し、自らへの忠誠を求めました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ナヒーモフ提督

 これは、1954年10月17日、ソ連が発行したセヴァストーポリ防衛100周年の記念切手のうち、1855年にセヴァストーポリ要塞で戦死したロシア海軍の英雄、パーヴェル・ステパーノヴィチ・ナヒーモフ提督を取り上げた1ルーブル切手です。“セヴァストーポリの提督”というと真っ先に名前の挙がる人物でしょう。ちなみに、この切手が発行された1954年は、ウクライナのロシアへの統合300年を記念して、クリミア州はソ連構成国のロシアからウクライナに移管された年でもあります。

 1853年7月、ロシアはオスマン帝国の宗主権の下で自治を認められていたモルダヴィアとワラキアを解放するとの名目で同地に進軍。これに対して、オスマン帝国はロシア側に撤兵を求めたものの、ロシア側がこれを無視したことで、同年10月、クリミア戦争が勃発しました。

 これに対して、ロシアの南下を嫌った英仏は、翌1854年3月28日、オスマン帝国と同盟を結んでロシアに対して宣戦布告。当初、同盟軍は黒海の要衝オデッサの攻略を目指していましたが、オーストリアが国境線に部隊を配置して同盟軍のバルカン山脈以北への進軍を阻止したため、黒海艦隊の基地があるセヴァストーポリが攻略目標となります。

 一方、迎え撃つロシア側は、英仏艦隊によるセヴァストーポリへの砲撃を防ぐため、湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化して対抗。1854年9月28日に始まった包囲戦は長期化し、1855年9月11日の要塞陥落まで、両軍で20万人以上の死者(病死を含む)を出す激戦となりました。この間、1855年7月12日には、黒海艦隊司令長官のナヒーモフが頭に銃弾を受けて戦死。この結果、ナヒーモフはロシア海軍の英雄となり、ソ連時代の1944年には、現在まで続く“ナヒーモフ勲章”が制定されたほか、海軍幼年学校は“ナヒーモフ海軍学校”と称されるようになりました。

 さて、きのう、わずか1日でウクライナから寝返ったベレゾフスキーは、セヴァストーポリの海軍本部がロシア軍の特殊部隊に包囲されたため、抵抗できなかったということになっていますが、ウクライナ人からすると、セヴァストーポリの包囲戦で殉職したナヒーモフを見習えと言いたいところでしょうな。まぁ、今回、彼が“クリミア海軍”の初代海軍司令官に就任したことで、クリミア自治共和国内の海軍幼年学校が“ベレゾフスキー海軍学校”と名前を変えることぐらいはありうるかもしれません。そうなったら、同校の授業では、まず「寝返りは戦国の常」と学生たちに教えるんでしょうかね。


 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★   

 4月から、毎月1回(第1火曜日:4月1日、6月3日、7月1日、8月5日、9月2日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・朝鮮半島のことを学ぼう 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラムを学ぶ 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 文京生涯カレッジ(第13期)のご案内 ★★★

 文京学院大学が一般向け(=どなたでも受講できます)にさまざまな講師を招いて行う通年の教養講座「文京生涯カレッジ」の第13期が4月15日から始まります。僕も、7月15・22日に「バスコ・ダ・ガマのインドを歩く」、9月9日に「ドバイ歴史紀行」のお題で登場します。詳細はこちらですので、よろしかったら、ぜひご覧ください。


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 “私はカモメ”から50年
2013-06-16 Sun 11:31
 1963年6月16日に旧ソ連の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが女性で世界初の宇宙飛行を果たして、きょう(16日)で、ちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       テレシコワ

 これは、1963年にソ連で発行されたテレシコワの宇宙飛行成功の記念切手で、彼女を乗せたボストーク6号の軌道を背景に、彼女の肖像が大きく描かれています。

 テレシコワは、1937年、ロシア西部、ヤロスラヴリ州マスレンニコフの生まれ。地元の航空クラブでスカイダイビングを行っていたところ、1962年に女性飛行士候補に選抜され、翌1963年6月、ボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周して帰還しました。

 テレシコワといえば「わたしはカモメ」というフレーズが日本では有名ですが、これはもともと、彼女に与えられた個人識別用のコールサインがカモメ(チャイカ)であることから、ただ単に「こちら、チャイカ」と事務的に応じただけというのが真相です。しかし、彼女が女性初の宇宙飛行士であったことに加え、わが国ではチェーホフの戯曲『かもめ』のイメージが付け加えられて流布するようになったようです。

 宇宙飛行の後、テレシコワはジュコフスキー空軍大学で学び、1966年から1974年までソ連邦最高会議議員、1974年から1989年まで同会議の常任幹部会委員、さらに、1969年からソ連崩壊の1991年までソ連共産党中央委員会委員を歴任しました。

 その後、政界からは一時引退していましたが、2011年12月4日のロシア下院選に政権与党“統一ロシア”から出馬・当選して政界に復帰。76歳になった現在も下院議員として活動しており、今回の飛行50周年を機に、おととい(14日)、プーチン大統領は彼女を公邸に招いて勲章を授与したことが日本のメディアでも報じられました。

 なお、ソ連の宇宙開発とそれをめぐる各国のまなざしについては、以前、雑誌『ハッカージャパン』で4年間にわたり「切手が語る宇宙開発史」と題する連載をしていたのですが、連載はガガーリンが登場したところで終わってしまいました。ちゃんとペース配分を考えていれば、テレシコワの話題も取り上げることができたかもしれませんね。ちょっと反省しています。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 切手が語る宇宙開発史(24・最終回)
2013-02-23 Sat 15:36
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『ハッカージャパン』の2013年3月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」は、今回は、ガガーリンの有人宇宙飛行を取り上げました。その中から、きょうはこのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

        ガガーリン(ソ連・1961年)

 これは、人類初の有人宇宙飛行を記念してソ連が発行した記念切手のうち、ガガーリンの肖像を大きく取り上げた1枚です。

 ソ連空軍のパイロットだったユーリ・ガガーリンは、1961年4月12日午前9時7分、ボストーク3KA-2(ボストーク1号)でバイコヌール宇宙基地を飛び立ち、地球を1周した後、10時25分に逆噴射をかけて大気圏に再突入。高度7000mからパラシュートで降下し、無事帰還を果たしました。

 人類初の有人宇宙飛行の成功と同時に、ソ連当局は東西冷戦における自国の優位を示すものとしてこれを大々的に宣伝しましたが、準備段階では、計画は極秘裏に進められていました。ちなみに、ガガーリンは飛行中(帰還後ではなく)に中尉から少佐に二階級特進したことを告げられていますが、そこには、彼が無事に帰還できない可能性が少なからずあると判断したソ連当局の“温情”があったとも言われています。したがって、不幸にして彼が無事に帰還できなかったときには、事前に用意されていた切手もすべて破棄されていたものと思われます。

 結局、ガガーリンが無事に帰国したことを確認して、ソ連は人類初の有人宇宙飛行の成功を記念する切手を発行するのですが、その実際の発行日をどう考えるかということは、ちょっと厄介な問題です。

 すなわち、ソ連当局の公式な記録では、飛行当日の4月12日に切手が発行され、即日、各地の郵便局で売りさばかれたということになっていますが、前日の4月11日まではソ連の一般国民はガガーリンのことを全く知らされていません。当然、各地の郵便局にも記念切手は配給されていなかったと考えるのが自然でしょう。したがって、飛行成功が確認されてすぐに切手の配給を始めたとしても、モスクワなどの主要都市でさえ、最短で4月12日の午後にならないと郵便局の窓口で売り出すことはきわめて困難です。

 ちなみに、世界の切手カタログでは、ソ連のガガーリン切手は4月15日発行の切手と22日発行の切手の間で、日付不詳の4月発行としてリストされています。僕の個人的な経験としては、ソ連のガガーリン切手を貼って、“発行日”の消印として4月19日付の印を押した記念の封筒を見たことがありますが、おそらく妥当な日付と思われます。なお、現在残されているソ連のガガーリン切手に押されている“発行初日”の記念印は、公式見解通り、大半が飛行当日に当たる4月12日付となっていますが、それらは、後になって消印の日付を遡って押印したものだろうと思います。

 ちなみに、ガガーリンが1968年に飛行訓練中の事故で亡くなった時の詳細が公表されたのは2011年のことです。人類初の宇宙飛行士として、ソ連の優位を象徴する英雄の地位に祭り上げられたガガーリンに関しては、歴史的事実とプロパガンダの物語を弁別することが容易ではない面も多々ありますが、それは、彼にまつわる切手についても例外ではないと言えそうです。

 なお、『ハッカージャパン』2009年5月号から24回にわたって連載してきた「切手が語る宇宙開発史」ですが、今回で最終回となりました。今まで4年間にわたりお付き合いいただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 ロシアの隕石
2013-02-15 Fri 18:29
 ロシア中部で、けさ(15日午前)、隕石とみられる物体が落下し、ウラル地方のチェラビンスク州からカザフスタンにかけての広い範囲で、窓ガラスが割れるなどの被害が出たほか、400人以上が負傷したそうです。というわけで、“ロシアの隕石”と言えば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

        ツングースカ大爆発50年

 これは、1958年にソ連が発行したツングースカ大爆発50年の記念切手で、切手には隕石を意味するロシア語の“МЕТЕОРИТА”の語も入っており、この切手が発行された時点では、ソ連当局はツングースカ爆発が隕石によるものと考えていたことがわかります。なお、切手に描かれている人物は、現地調査を行った天文学者レオニード・クーリックです。

 ツングースカ大爆発は、1908年6月30日、中央シベリア・エニセイ川支流のポドカメンナヤ・ツングースカ川上流(現クラスノヤルスク地方)の上空で起こった爆発で、半径約30キロメートルにわたって森林が炎上し、1000キロメートル離れた家の窓ガラスも割れたといわれています。爆発によって生じたキノコ雲は数百キロメートル離れた場所からも観測できたほか、イルクーツクでは、衝撃による地震も観測されました。ただし、爆発が起きた場所は非常な僻地であったため、死者は報告されていません。

 爆発地点では地球表面にはほとんど存在しない元素のイリジウムが検出されていることから、爆発は何らかの物体(破壊規模からして大きさは最小3m、最大70mと推定されています)が地球に落下したことによるものであるのは確実なのですが、いわゆる隕石の痕跡が発見されていないことから、何が落下してきたのかは現在でも諸説があり、結論は出ていません。

 爆発事故が起きたのは、帝政末期で日露戦争の終戦から間もない時期でもあったため、現地調査はしばらく行われず、ロシア革命後、ボリシェヴィキ政権下の1921年になって、ようやく、レオニード・クーリックを中心とする調査団による最初の現地調査が行われました。なお、クーリックはその後もツングースカ大爆発についての調査を重ね、計4度の現地調査を行っています。

 ちなみに、今回、落下した物体についても、現時点では“隕石とみられる物体”として報じられていますが、今後、調査が進めば、小惑星など、隕石以外の何かということになるかもしれません。


 【世界切手展BRASILIANA 2013の出品について】

 今年11月、ブラジル・リオデジャネイロで世界切手展 <BRASILIANA 2013> が開催される予定です。出品の国内受付期間は昨日(14日)で終了しましたが、出品をお考えの方で、まだ書類をお送りいただいていない方は、至急、内藤までご連絡ください。展覧会の詳細はこちらをご覧ください。なお、現時点でお申込みいただいている出品の件数は、伝統1、郵便史1、テーマティク5、文献4です。


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 レスリング女子で金2
2012-08-09 Thu 08:14
 きのう(現地時間8日)のロンドン五輪では、レスリング女子の2階級が行われ、63キロ級の伊調馨と48キロ級の小原日登美がそろって金メダルを獲得しました。すでに、このブログでは日本のレスリング切手を全部紹介してしまいましたので、おととい(7日)同様、2020年の東京五輪招致応援企画を兼ね、1964年の東京五輪関連のマテリアルの中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ソ連・東京五輪切手つき封筒

 これは、1964年の東京五輪に際してソ連が発行した切手つき封筒で、余白にレスリングが描かれています。日章旗と五輪マークとあわせて、キリル文字で“東京”と入っているのも良いですな。

 さて、東京五輪のレスリング競技は、男子のみグレコローマン8階級、フリースタイル8階級の計16階級で行われました。日程は10月11-19日です。ソ連選手は、グレコローマンで金1、銀3、銅1、フリースタイルで金2、銀1、銅2の計10個のメダルを獲得しています。

 ところで、会期中の10月13-14日、ソ連国内では、フルシチョフの電撃解任という衝撃的な事件が起こっています。すなわち、“火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会”を開くためとして、急遽、休暇先の黒海沿岸のピツンダから呼び戻されたフルシチョフに対して、ミコヤンを除く幹部会員全員が彼の更迭を要求。フルシチョフは、年金生活に入るために“自発的”に党中央委員会第一書記と閣僚会議議長を辞任することに同意せざるを得なくなり、後任には第2書記のブレジネフと閣僚会議第一副議長のアレクセイ・コスイギンがそれぞれ昇格しています。このため、東京五輪の開会時と閉会時では、ソ連の最高指導者は別人になっていたというわけですが、東京に派遣されていた選手団の中にも、特に、役員や指導者たちのなかには、その影響を受けた人もいたかもしれません。

 そういえば、わが日本の政界では、早期解散の確約を求めていたはずの自民党が、社会保障・税一体改革関連法案の早期成立と法案成立後“近いうちに”国民に信を問うことで合意してしまいましたな。“近いうちに飯でも食おう”という近飯といえば、通常の日本語では実現しないものの代表格とされていますから、結局は、茶番だったということでしょう。やはり、デタラメ民主党を政権から引きずりおろすには電撃的にことを進めないと…。こりゃ、谷垣総裁が夏休みでサイクリングに興じている隙にでも、自民党は緊急役員会を招集して、総裁には自発的に年金生活に入ってもらうようにするしかないでしょうな。もっとも、その年金こそ、なんとかしないといけない懸案の一つであるわけですが…。


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