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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 スプートニクとガガーリンの闇(30・最終回)
2020-07-02 Thu 00:32
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第754号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1961年のヴォストーク1号の打ち上げについて取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ヴォストーク1号(1961年4月 FDC)

 これは、1961年4月のヴォストーク1号の打ち上げ成功に際してソ連が発行した記念切手の初日カバーです。

 ソ連空軍のパイロットだったユーリ・ガガーリンは、1961年4月12日午前9時7分(現地時間)、ヴォストーク3KA-2(ヴォストーク1号)でバイコヌール宇宙基地を飛び立ち、地球を1周した後、10時25分に逆噴射をかけて大気圏に再突入。高度7000mからパラシュートで降下し、無事帰還を果たしました。なお、当初、ガガーリンは宇宙船と共に着陸したとされていましたが、当時の国際航空連盟 (FAI) のルールとして、公式な宇宙飛行となる条件にパイロットは必ず宇宙船と共に着陸することとされていたためです。

 人類初の有人宇宙飛行の成功と同時に、ソ連当局は東西冷戦における自国の優位を示すものとしてこれを大々的に宣伝したが、準備段階では、計画は極秘裏に進められていました。ちなみに、ガガーリンは飛行中(帰還後ではなく)に中尉から少佐に二階級特進したことを告げられていますが、そこには、彼が無事に帰還できない可能性が少なからずあると判断したソ連当局の“温情”があったとも言われています。したがって、不幸にして彼が無事に帰還できなかったときには、事前に用意されていた打ち上げ成功の記念切手もすべて破棄されていた可能性が高いと思われます。

 打ち上げ成功の記念切手は3種発行されましたが、このうちの3コペイカ切手に取り上げられたガガーリンの肖像が宇宙服姿ではなく、スーツ姿になっているのも、彼が宇宙に行くことは極秘とされていたため、切手制作時には宇宙服姿の写真などが手配できなかったためでしょう。

 ちなみに、残りの切手は、クレムリンとパラボラアンテナに過去のスプートニク衛星と宇宙ロケットを描く6コペイカ切手(フルシチョフのメッセージが印刷されたタブつき)、クレムリンのシルエットとロケットと宇宙飛行士のイメージを描いた10コペイカ切手で、いずれも、実際のヴォストーク1号や宇宙服姿のガガーリンに取材しなくてもデザインを作成できるイメージ画です。

 結局、ガガーリンが無事に帰着したことを確認して、ソ連は人類初の有人宇宙飛行の成功を記念する切手を発行しましたが、その実際の発行日をどう考えるかということは、ちょっと厄介な問題です。

 すなわち、ソ連当局の公式な記録では、記念切手は飛行当日の4月12日に発行され、即日、各地の郵便局で売りさばかれたということになっていますが、前日の4月11日まではソ連の一般国民はガガーリンのことを全く知らされていません。当然、各地の郵便局にも記念切手は配給されていなかったと考えるのが自然でしょう。

 したがって、飛行成功が確認されてすぐに切手の配給を始めたとしても、モスクワなどの主要都市でさえ、最短で4月12日の午後にならないと郵便局の窓口で売り出すことはほぼ不可能だったはずです。

 ちなみに、世界の切手カタログでは、この3種の記念切手は4月15日発行の切手と22日発行の切手の間で、日付不詳の4月発行としてリストされています。また、3種の切手に押されている“発行初日”の記念印は、今回ご紹介のカバーもそうですが、公式見解通り、大半が飛行当日に当たる4月12日付となっています。ただし、それらは、しばしば、ソ連が外国の切手収集家向けに輸出用の記念品を作る際におこなっていたように、後になって消印の日付を遡って押印したものと考えらるのが妥当でしょう。

 ちなみに、ガガーリンが1968年に飛行訓練中の事故で亡くなった時の詳細が公表されたのは2011年のことでした。人類初の宇宙飛行士として、ソ連の優位を象徴する英雄の地位に祭り上げられたガガーリンに関しては、歴史的事実とプロパガンダの物語を弁別することが容易ではない面も多々ありますが、それは、彼にまつわる切手についても例外ではないのです。

 さて、2017年9月25日に配信の『本のメルマガ』658号から月一で続けてきた僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」ですが、ちょうど節目の30回でガガーリンのヴォストーク1号まで到達しましたので、とりあえず、今回で終了となります。いままで、連載にお付き合いいただきました皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 
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 スプートニクとガガーリンの闇(29)
2020-06-03 Wed 00:51
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第751号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1961年のヴェネラ1号(1957年のスプートニク1号から通算するとスプートニク8号)について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ヴェネラ1号-10

 これは、1961年4月26日にソ連がが発行したヴェネラ1号打ち上げの記念切手のうち、地球の周回軌道から金星へ向かう探査機を取り上げた1枚です。

 1960年8月19日にスプートニク5号(コラブリ・スプートニク2号)が打ち上げられた後、同年12月1日に打ち上げられたスプートニク6号(コラブリ・スプートニク3号)には、プチョールカとムーシュカの2匹の宇宙犬と植物や昆虫が乗せられていましたが、誘導の失敗により、12月2日の大気圏再突入に失敗して衛星は分解。全ての生き物が死んでしまいました。

 年が明けて1961年2月4日、金星探査を目指して、スプートニク7号がバイコヌール宇宙基地からモルニヤロケットにより打ち上げられます。

 ガリレオ・ガリレイが金星の満ち欠けを発見して以来、多くの天文学者が金星を観測し、「地表に模様が見えた」、「大陸がある」などの報告が蓄積されていました。最終的に、金星の自転周期は約243日であることが明らかになりますが、天文学者たちは模様の変化を観測して自転周期は地球とほぼ同じ約24時間と推測する時間が長らく続いていました。

 また、19世紀後半に発達したスペクトル分析法は、初期の段階では赤外線波長までカバーできなかったため、二酸化炭素の存在が見落とされ、金星の環境は地球の熱帯地方に近いのではないかと考える人も多数ありました。ちなみに、1932年には金星大気のスペクトルは赤外線域まで観測され、専門家の間では、金星の大気には二酸化炭素が多く含まれていることが認識されていましたが、金星と地球を“双子”とみなす俗説はなかなか解消されませんでした。

 ソ連が金星探査を目指したのもこうした事情があったためで、他の惑星大気圏への探査機の投入、惑星表面への軟着陸、惑星表面からの映像転送、高解像度レーダーによる惑星表面の地図の作成などが可能と考えられたからです。

 スプートニク7号は1960年に打ち上げに失敗したM1型火星探査機(マルスニク1号・2号)を流用した設計で、探査機本体は半球と円筒を組み合わせた形状となっており、質量は645kg。観測装置として磁力計、垂直速度計、荷電粒子モニターが搭載され、金星大気に突入しながら調査する計画でそした。

 打ち上げ後のスプートニク7号は、ロケット第4段と結合した状態で地球を1周したところで金星遷移軌道に移動するためにエンジンを点火する予定でしたが、失敗。地球周回軌道にとどまった後、22日後の2月26日に大気圏に突入します。なお、スプートニク7号はロケットが結合したまま、質量6843kgの巨大な物体として地球を周回していたため、西側世界では、失敗した有人宇宙船だという憶測が広まりました。

 次いで、2月12日、西側諸国でスプートニク8号と呼ばれた金星探査機、ヴェネラ1号が打ちあげられました。

 ヴェネラ1号はスプートニク7号とほぼ同型で質量は643.5㎏。今回は、探査機と4段目ロケットを待機軌道に乗せたうえ、そこから4段目ロケットを点火して金星に向かうことに成功し、地球から190万km離れた地点において行われた3回のテレメトリー送信により、太陽風と宇宙線データを送信しています。これにより、ルナ2号で発見された太陽風によるプラズマが深宇宙にまで及んでいる事が確認されました。

 人類で初めて他の惑星に探査機を飛ばすことに成功したことを受けて、1961年4月26日、ソ連は1961年2月12日の日付を入れた記念切手を2種セットで発行。そのうちの1枚が、今回ご紹介の切手です。

 ただし、この間の4月12日、ソ連はガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行に成功し、そのインパクトがあまりにも強烈だったため、ヴェネラ1号の快挙もかすんでしまうことになります。

 なお、金星に向かって宇宙空間を進んでいた探査機は、5月19‐20日、ヴェネラ1号が金星の10万km以内に接近し、太陽周回軌道に入りましたが、おそらく、太陽方向センサーが過熱したために故障し、送信は行われませんでした。

 * 昨日(2日)、アクセスカウンターが219万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 6月5日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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 スプートニクとガガーリンの闇(28)
2020-05-07 Thu 10:29
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第748号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1960年のコラブリ・スプートニク2号(1957年のスプートニク1号から通算するとスプートニク5号)について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・スプートニク5号(1960)

 これは、1960年9月29日に発行されたコラブリ・スプートニク5号打ち上げの記念切手で、クレムリンの上空を飛ぶロケットとスプートニク5号に乗せられた犬のストレルカとベルカが描かれています。

 1960年5月15日にコラブリ・スプートニク1号(スプートニク4号)が打ち上げられた後、6月28日の打ち上げ失敗を経て、8月19日、バイコヌール宇宙基地からコラブリ・スプートニク2号が打ち上げられました。

 コラブリ・スプートニク2号はヴォストーク有人宇宙船の試験機として、生命維持装置を備えた気密室と大気圏突入のための構造を備えており、人間こそ乗らなかったものの、ストレルカとベルカと名づけられた2匹の犬に加え、1匹のウサギ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、沢山の植物や菌類が乗せられていました。

 2匹の犬はモスクワで捕獲された雑種の野良犬で、選別に当たっては、①メスであること(宇宙服とトイレの調達がオスに比べて容易)、②体重7キロ以下、③体毛が明るい色(カメラ写りがよいように)、という条件が付けられていました。ちなみに、名前のストレルカはロシア語で“矢”、ベルカはロシア語で“リス”の意味です。

 8月19日に打ち上げられたコラブリ・スプートニク2号は軌道へ到達した後、地球を18周した後、無事帰還。この間、ボンのラジオ局が衛星からの信号を始めて受信し、3周目にはスウェーデンのラジオ局がそれを確認しました。なお、打ち上げの正確な時刻については、08:38:24 UTC(協定世界時)と08:44:06の2説があります。

 宇宙から無事に帰還した世界初の生物となったストレルカとベルカは、ソ連の宇宙技術の優越性を示すアイドルとして、当時、メディア等でも盛んに取り上げられました。

 コラブリ・スプートニク2号の帰還から8ヶ月後の1961年4月12日、ユーリ・ガガーリンを乗せたヴォストーク1号の打ち上げにより、ソ連はついに、人類初の有人宇宙飛行に成功しますが、その後も、ストレルカとベルカの“アイドル”としての価値は衰えませんでした。

 そのことを示すかのように、1961年6月3-4日、同年1月に米国大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディとフルシチョフがウィーンで首脳会談を行った際、晩餐会でフルシチョフの隣に座ったファースト・レディのジャクリーンは、ストレルカとその子犬について話題にしています。もっとも、ジャクリーンとしては、フルシチョフとの会話に詰まって、とっさに無難な話題として犬のことを話しただけだったようですが、ヴォストーク1号の成功で得意絶頂のフルシチョフは、即座に、ストレルカの産んだ子犬をケネディの娘、キャロライン(後の駐日大使)に贈ることを決断します。

 ちなみに、宇宙から戻った後、ストレルカはプショークと名付けられたオス犬との間に6匹の子犬を産みました。また、そのプショークは、ソ連の宇宙基地内で地上での実験に数多く参加したものの、結局、宇宙には行きませんでした。

 ストレルカの産んだ6匹のうち、米国に贈られることになったのは、“綿毛”を意味するプシンカと名付けられたメス犬で、その名の通り、真っ白でふわふわの毛が特徴でした。

 米国に到着したプシンカは、隠しカメラや盗聴器を仕込まれた“スパイ犬”でないことを確認するための厳重な検査を経て、ホワイトハウスに届けられます。

 ホワイトハウスでは、まず、スタッフのトラフィーズ・ブライアントと、ケネディの息子のジョンがプシンカと対面。そのとき、大統領は私室にいたため、ジョンが「ねえ、ブライアント、プシンカをパパの部屋に連れて行こう」と言ったのに対して、ブライアントは自分には大統領の私室に入る権限がないとして断り、ジョンが大統領のいる部屋に連れて行きました。

 プシンカが無事に到着したことを受けて、ケネディは「親愛なる閣下…妻と私は『プシンカ』を受け取り、大変嬉しい。ソ連から米国への飛行は、プシンカの母親の宇宙飛行ほど劇的ではなかったかもしれないが、やはり長い旅路であり、彼女はそれによく耐えた」とフルシチョフに礼状を送っています。

 その後、ようやく、プシンカは新たな主人となる4歳のキャロラインの元へ届けられました。

 プシンカを初めて見たキャロラインがプシンカを撫でようとしたとき、警戒したプシンカが唸り声をあげると、キャロラインは犬の後ろにまわって尻を蹴飛ばします。この話を聞いたケネディは「それは、悪者のロシア人たちを懲らしめたんだな」と大笑いしたとか。

 当時、ケネディ家には、ウルフ、クリッパー、チャーリー、シャノンの4匹の犬がいましたが、プシンカもすぐに溶け込み、チャーリーとの間に4匹の子犬を産むと、ケネディは子犬を、“子犬とスプートニク(puppy + sputnik)”の造語で“パプニクス(pupniks)”と呼びました。

 パプニクス誕生のニュースに米国は沸き立ち、ホワイトハウスには約5000人から「子犬を一匹分けてください」との手紙が殺到。最終的に、バタフライとストリーカーと命名された2匹が中西部の子供たちに贈られ、ホワイト・チップスおよびブラッキーと命名された2匹はケネディ家で暮らすことになります。

 
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 スプートニクとガガーリンの闇(27)
2020-04-05 Sun 01:50
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第745号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1960年のコラブリ・スプートニク1号(1957年のスプートニク1号から通算するとスプートニク4号)について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・スプートニク4号(1960)

 これは、1960年6月17日に発行されたスプートニク4号打ち上げの記念切手で、クレムリンとソ連地図に上空を飛ぶスプートニク4号が描かれています。

 1958‐59年、月への接近ないしは衝突を目的とした初期のルナ計画が成功裏に終了したことを受けて、ソ連の宇宙開発は、有人飛行の準備段階として、コラブリ・スプートニク計画へと移行します。

 ちなみに、“コラブリ”はロシア語で“船”の意味で、“コラブリ・スプートニク”は直訳すると“船舶衛星”の意味です。現在の辞書的な定義によれば、“宇宙船”は打ち上げロケットを用いて大気圏外で使用される人工物(=宇宙機)のうち、人が乗ることを想定しているものとなっていますが、有人飛行の前段階のコラブリ・スプートニクを“宇宙船”と呼べるかどうかは議論が分かれるかもしれません。ただ、ここではロシア語の原義を尊重して、とりあえず“宇宙船”と呼んでおくことにします。

 さて、コラブリ・スプートニク計画の目的は、有人宇宙飛行へ向けて、生命維持装置の機能の検証、宇宙飛行が生物に与える影響の調査、大気圏突入の実験を行うことで、宇宙船内には生命維持装置、テレビジョン装置、人形などが乗せられていました。また、地上との通信実験を行う目的で、宇宙船はテレメトリー以外に録音された人間の声も送信しました。

 ただし、最初のコラブリ・スプートニク1号=スプートニク4号では、地上への帰還に必要な耐熱シールドの開発が間に合わなかったため、先に完成していた他の技術を実証することを主目的として、耐熱シールドは装備せず、ミッション終了後は大気圏に突入させて、宇宙船そのものを廃棄することが計画されています。

 さて、スプートニク4号は、1960年5月15日にバイコヌール宇宙基地からボストークロケットによって打ち上げられました。宇宙船は予定通り4日間の飛行を終えた後に、地球周回軌道から離脱するために逆噴射エンジンに点火したものの、姿勢制御装置に異常が起きたため、意図しない方向に加速されてしまいます。その結果、宇宙船はより高い軌道に移動してしまい、大気圏再突入は失敗。宇宙船はしばらく地球周回軌道にとどまった後、地球大気の抵抗による軌道の縮小のために1962年9月5日に大気圏に突入し、機体の大部分は大気の断熱圧縮の熱で燃え尽き、重量9キロの金属片が米ウィスコンシン州マニトワックの市街地に落下しました。この破片はソビエト政府に返還され、代わりにレプリカが地元の博物館で展示されているほか、市街地には破片回収地点を示した石碑が建てられています。

 ちなみに、スプートニク4号の破片の落下とほぼ同時に、ワシントン州スノホミッシュにも宇宙船の破片らしき金属塊が落下しており、地元では、この物体もスプートニク4号の一部ではないかと考えられました。しかし、調査の結果、この破片はスプートニク4号のものではないことが確認されたものの、結局、その素性は不明のままで、一部ではUFOの破片ではないかとする声(ただし、専門家は否定的である)も根強いようです。

 なお、スプートニク4号には間に合わなかった耐熱シールドですが、1960年6月28日に打ち上げられた宇宙船では初めて装備され、地球への帰還を想定して、2匹の犬が乗せられました。しかし、この時はロケットが発射数十秒後に爆発し、実験は失敗。このため、6月28日の宇宙船は命名されぬままに終わっています。


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 スプートニクとガガーリンの闇(22)
2019-11-28 Thu 02:09
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第727号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連のルナ2号について取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・フルシチョフ訪米

 1957年10月のスプートニク1号の打ち上げ成功以降、西側世界では、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、ソ連は米国を凌駕しているという“ボンバー・ギャップ”や“ミサイル・ギャップ”の議論が説得力をもって語られていました。

 実際には、米国は経済力・軍事力ともに終始一貫してソ連を圧倒していましたが、ソ連は、西側に蔓延していた“誤解”を活用して、「ソ連に対する圧力と攻撃は深刻な反撃を招きかねないので、ソ連とは一定の妥協をはかり、平和共存を目指すべきだ」という国際世論を誘導しようとします。その真の目標は、米ソ両国の軍縮という形式をとって、米国により多くの核兵器を削減させ、ソ連包囲網を緩和させようという点にあったことはいうまでもありません。

 そうした誘導に沿って、西側世界でも、「ソ連の宇宙開発は純粋な科学技術研究で平和目的のものである」、「米国が膨大な核兵器を保有するがゆえに、ソ連は、自衛のため、やむを得ず最低限の核を保有しているのみである」といった論調がソ連に親和的な左派リベラル勢力を中心に盛んに唱えられるようになりました。

 こうした世論工作の総仕上げとして計画されたのが、フルシチョフの訪米でした。

 すでに1958年1月、フルシチョフはミンスクにおいて、“平和共存”に基づいて話し合いによる国際問題を解決すべく、首脳会談を提唱していましたが、1959年1月27日から2月3日にかけて開催されたソ連共産党第21回大会では、大会直前、第一副首相のアナスタス・ミコヤンが非公式訪米を成功裏に終えたことを受けて、次のように演説しています。

  我々はすでに何度も、ソ連と米国という二大国が平和維持のうえで大きな責任を持っていることを指摘した。…両国間においては、お互いに領土的要求はいままでも存在しなかったし、現在も存在していない。両国民が衝突する理由はないのに、ソ連と米国の関係は長期にわたって変則的なままである。…米国にも、ソ連との善隣友好関係の支持者の数が増えていることは、訪米したミコヤンに対する歓迎ぶりからも明らかである。…(平和共存の)途をとるからには、両当事者は大きな相互理解の努力、大きな忍耐力、そして、もし望むなら、大きな寛容を発揮しなければならない。

 これを機に、フルシチョフ訪米のための地ならしが本格的に始まり、1959年6月には第一副首相のフロル・コズロフが訪米。7月24日には、モスクワで開催の“米国産業博覧会”の開会式に出席するという名目で米副大統領リチャード・ニクソンがモスクワを訪問します。

 博覧会会場に展示してあった米国製のキッチンおよび電化製品を前に、フルシチョフとニクソンは、米国の自由経済とソ連の計画経済を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論。その際、ニクソンが消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのに対して、フルシチョフは自国の宇宙および軍事分野における成功を感情的にまくしたてていました。いわゆる“キッチン論争”です。

 キッチン論争でのフルシチョフの態度は、ソ連の経済力が米国に到底及ばないことを熟知していたが故の焦りによるものであるのは明らかでしたから、米大統領のアイゼンハワーは、豊かで自由な米国社会を実際に見せれば、フルシチョフは、いっそう平和共存路線にかじを切るだろうと考えていました。

 かくして、1959年9月15日から27日までの13日間、フルシチョフは、夫人と3人の子供ともども、アイゼンハワーの招待を受けて、ソ連首相として初の訪米を果たします。

 米国側は、フルシチョフに対してアイオワ州の成功した個人経営の大農場を見せ、社会主義型の国営農場・集団農場の失敗を認めさせようとしましたが、もとより、フルシチョフも本心では米国の優位を十分に認識していましたから、社会主義の優位を象徴する宇宙開発の実績を強調しつつ平和共存を訴えざるを得ませんでした。

 さらに、国連総会に出席して、世界各国の軍備全廃を提案したフルシチョフは、9月25-27日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドにあるアイゼンハワーの別荘で首脳会談を行います。会談では、軍縮、ベルリン危機、貿易、人物交流などの諸問題について話合いが進められ「すべての重要な国際問題は、武力に訴えることなく、交渉による平和的手段によって解決されるべきである」ことについて意見が一致。その一方で、フルシチョフは、アイゼンハワーにルナ2号が月に運んだペナントのレプリカを渡しながら、「米国も必ずや月に到達してソ連のペナントを見つけるでしょう。ソ連のペナントがお待ちしていますよ。米ソのペナントは、きっと、平和と友好の下に共存することになります」と得意げに語ったそうです。

 フルシチョフ帰国後の10月27日、ともかくも米ソ首脳会談が無事に終了したことを受けて、ソ連は、今回ご紹介の切手を発行しました。そのデザインは、ワシントンの連邦議事堂モスクワのクレムリンの間に地球を描き、宇宙空間におけるソ連の優位を暗示させるようなものとなっています。

 
★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )



★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 スプートニクとガガーリンの闇(20)
2019-07-29 Mon 02:03
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、6月25日、『本のメルマガ』第721号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連のルナ1号について取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ルナ1号(1959・青)

 これは、1959年4月、ソ連が発行したルナ1号打ち上げの記念切手です。

 1958年の時点で人工衛星の地球周回軌道投入に成功していた米ソ両国にとって、次なる課題となったのが無人の月探査でした。

 1958年9月以降、米国はパイオニア月探査機の打ち上げを繰り返していましたが、成果を上げることができませんでした。一方、ソ連もルナ探査機を3回にわたって打ち上げたものの、1958年中はすべて失敗に終わっています。

 しかし、1959年1月1日、ソ連首相のフルシチョフが新年の辞で社会主義の優位をうたいあげ、その翌日の2日、バイコヌール宇宙基地から探査機を載せて打ち上げられたボストーク・ロケットは、ついに月へと向かう軌道に探査機を投入することに成功しました。ルナ1号です。

 ルナ1号の目的は月面への着陸ないしは衝突でしたが、結果的に、同機は1月4日に月から5995キロの地点を通過し、初期の目的を達成できずに終わっています。

 もちろん、米国はU-2偵察機により、ルナ1号の打ち上げを察知しており、ソ連の“失敗”も把握していましたが、世界の世論は、米国のパイオニア1号が達成していた高度記録をソ連があっさりと破ったことに加え、衛星からナトリウムを放出して“人工彗星”をつくる実験に成功したこと、さらに、第2宇宙速度達成を達成したことに目を奪われ、スプートニク・ショック以来のソ連優位のイメージはますます強固になりました。

 ソ連科学アカデミーのブラゴヌラボフが「月ロケットのスピードは非常に大きく月の重力圏に入るには早すぎた。ロケットは月の衛星にはならず月を飛びこして太陽系内の宇宙を飛び続けるだろう」と“弁明”したことも、かえって、宇宙開発競争におけるソ連の優位を世界に印象づけ、多くの人々に月一番乗りもソ連が達成するのではないかと思わせる効果をもたらしたといってよいでしょう。

 はたして、ソ連は早速、ルナ1号の打ち上げを1月27日からの共産党党大会を記念してのものと主張。これに先立つ1月4日から、副首相のミコヤンはルナ1号の成功を手土産に意気揚々と訪米します。

 党大会にあわせて発行された記念切手・切手つき封筒に、“ソヴィエト人民による宇宙征服”のモチーフ画取り上げられていたのも、こうした文脈に沿ったもので、そのデザインは、公式には、スプートニク13号の人工衛星とルナ1号を打ち上げたロケットを描くと説明されています。しかし、切手の製作準備が進められていた1958年中、ソ連がルナ探査機の打ち上げにことごとく失敗していたことに加え、それらのマテリアルにルナ1号そのものが描かれていないことからも、これは後付けの説明のように思われます。

 ちなみに、ソ連がルナ1号打ち上げ成功の記念切手2種を発行したのは、打ち上げから3ヶ月以上がたった4月13日のことでした。おそらく、それまでの経緯からして、打ち上げの成功を確認してからでないと、切手の制作作業に取り掛かれなかったためでしょう。

 2種類の記念切手のうち、今回ご紹介の青い40コペイカ切手は、1月2日に打ち上げられたロケットが、3日、4日、5日と地球の周りを周回し、月方向へと飛んで行ったイメージが表現されています。こちらに描かれている地球の地図はモスクワを含むユーラシア大陸とオーストラリア、アフリカの一部となっていますが、日本地図の部分は本州・四国・九州が一体化し、北海道と樺太が一体化しているなど、かなりいい加減です。

 ちなみに、ソ連ないしはロシアが“デザイン”として作成する世界地図はかなりデフォルメされていることも珍しくありません。たとえば、下の画像は、ハバロフスクの戦没者慰霊碑の前に設置された、戦没者の分布を示す地球儀ですが、日本列島は本州と北海道をつなげてアヒルのような格好になっていて、九州や四国、沖縄などは完全に無視されているだけでなく、今回ご紹介の切手同様、北方領土問題の焦点となっている千島列島が無視されています。(なお、ハバロフスクの戦没者慰霊碑については、拙著『ハバロフスク』でも詳しく説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください)

      ハバロフスク・慰霊碑の地球

 縮尺の問題で、千島列島を表現できないという物理的な制約もあるのでしょうが、領土問題を抱える国はあらゆる手段を通じて係争地の領有権を主張するのが一般的であることを考えると、北方領土を不法占拠しているロシア側の主張を強調するような地図になっていないのはいささか意外な感じがしますね。


★ 8月2日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 8月2日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 スプートニクとガガーリンの闇(19)
2019-06-24 Mon 01:11
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、5月25日、『本のメルマガ』第718号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連共産党第21回大会について取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連共産党21回大会切手つき封筒(ロケット)

 これは、1959年のソ連共産党第21回大会に際してソ連が発行した切手つき封筒で、カシェには、クレムリンから飛び立つロケットのイメージが描かれています。また、印面に押されている記念スタンプには、1958年までにソ連が打ち上げに成功していた3機の人工衛星とロケットが描かれています。

 1958年末に国際地球観測年の期間が終了した直後の1959年1月27日から2月3日にかけて、ソ連共産党第21回大会が開催されました。

 ソ連の共産党大会は原則として5年に1度の開催で、前回の第20回大会は1956年2月に開催され、フルシチョフがスターリン批判演説を行ったことで知られています。したがって、第21回大会は、本来であれば1961年の開催となるはずでしたが、1959年から1965年にかけてのソ連邦国民経済発展7ヵ年計画(以下、7ヵ年計画)に対する承認を得る必要もあって、臨時党大会として1959年の開催となりました。

 党大会では、フルシチョフが「1970年ごろには、ソ連は工業生産でも、人口1人あたりの生産高でも世界第1位となり、資本主義との平和な競争において社会主義が勝利するであろう」と演説し、7ヵ年計画の主要な課題は「共産主義の物質的・技術的土台をつくりだすこと、ソ連邦の経済力と国防力をさらにいっそう強化すること、同時に、国民の増大する物質的、精神的欲求を、ますます完全にみたすこと」とされました。ただし、そうした目標を実現するためには、米国に比べて圧倒的に劣る経済力でありながら、第三次世界大戦を想定して米国と張り合うような、過重な軍事負担を軽減しなければなりません。

 しかし、自国の利益のために米国に妥協し、東側陣営の安全保障をないがしろにしたと見なされれば、社会主義陣営の盟主としてのソ連の国際的な権威は一挙に失墜してしまいます。

 そこで、ソ連は、1957年のスプートニク1号の打ち上げ以降、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数においてソ連が米国を凌駕しているのではないかとの西側社会の誤解を最大限に活用し、米ソ両国の軍縮という形式をとって米国により多くの核兵器を削減させることで、自国の軍縮が可能となる状況をつくりだそうとしました。

 こうした国家の意思を反映して、ソ連が発行した党大会の記念切手のうちの1ルーブル切手には、「ソヴィエト人民による宇宙征服」の題目の下、クレムリンを背景に、1958年までにソ連が打ち上げに成功していた3機の人工衛星とロケットが描かれています。今回ご紹介の切手つき封筒も、これと同時に発行されたもので、その趣旨は同じで、1959年の党大会において“宇宙征服”がいかに重要なモチーフとして扱われていたか、その一端をうかがい知ることができます。


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 奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー
2019-03-25 Mon 03:08
 きょう(25日)は“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・キューバの人民はくじけない

 これは、1962年にソ連が作った「キューバの人民はくじけない!」と題するプロパガンダ絵葉書で、キューバ国旗を背景に銃を持つ男性2人サトウキビを手にする女性が描かれています。2人の男性のうち、右側に描かれた1人はアフリカ系となっているのがミソです。

 スペイン統治時代のキューバでは、アフリカ出身の奴隷がプランテーションの主な労働力となっていました。当時の奴隷を労働場所によって分類すると、全奴隷の3分の1が砂糖農場で、4分の1が都市部で、4分の1がコーヒー農場で、残りがその他の農場という比率です。

 奴隷労働力を使うことで、キューバの砂糖産業は拡大し、19世紀初頭には、英領ジャマイカと仏領サン・ドマング(現ハイチ)に代わって、キューバがカリブ海で最大の砂糖植民地となります。このため、英国で奴隷解放が進められていくと、スペイン政府は英国の圧力に屈して、1817年と1831年に奴隷貿易の廃止を受け入れたものの、効果はありませんでした。

 その後、1860年代になると、キューバでも契約労働者の移民が増加して奴隷貿易は衰頽。1867年を最後に奴隷の輸入も行われなくなりました。さらに、1870年には奴隷解放のための法律が制定され、60歳以上の奴隷と子供は解放され、1880年の奴隷解放法制定を経て、1886年、キューバでも最終的に奴隷制が廃止されました。

 現在、キューバの人種構成は、カストロ兄弟を含む欧州系白人が64%、ムラート(白人とアフリカ系などの混血)が26%、アフリカ系が9%、アジア系その他が1%以下となっていますが、歴史的にもその比率は大きく変わっておらず、アフリカ系およびその混血が人口の3分の1程度を占めてきました。今回ご紹介のソ連の絵葉書で、3人の人物のうち1人がアフリカ系として描かれているのも、そうした事情を踏まえてのことでしょう。

 また、主に西アフリカのヨルバ人の民俗信仰と、カトリック教会、スピリティズム(心霊主義/別名カルデシズム)などが混交して成立したキューバ人の民間信仰の“サンテリア”が広く信仰されているほか、音楽や料理などでも、アフリカ起源の要素が多くみられます。

 ただし、1959年の革命後、キューバでは制度的な人種差別の撤廃が進められたものの、現実には、人種間の格差が厳然と残っています。

 たとえば、高収入が見込める“新興部門(外国人を対象としたホテルやレストランなど)”の幹部職員の75.4%が白人であるのに対して、アフリカ系は5.1%、ムラートは19.5%にすぎず、技術職・管理職では白人が79.3%なのに対して、アフリカ系は6.1%、ムラートは14.6%にとどまっています。また、白人が国外から受け取る海外送金は、平均して、アフリカ系の2.5倍、ムラートの2.2倍となっており、「犯罪者の多くは黒人」という偏見も根強く残っているため、警察官による職務質問の対象も黒人が中心となっているとも報告されています。

 これに対して、1998年に開催されたキューバ作家・芸術家協会の第6回総会では、フィデル・カストロが「人種主義に関する問題は、十分に深く分析しなくてはならない」と発言し、革命政府として、初めて、キューバ社会に人種差別があることを認め、その解決に取り組む方針を明らかにしたものの、キューバ共産党による一党独裁体制の下、現在なお、国民の政治活動や言論の自由が大きく制約されている現状では、人種間の格差是正も十分には進んでいないというのが実情です。

 なお、ソ連・東欧諸国によるキューバ関連のプロパガンダ・マテリアルについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取って後ンいただけると幸いです。

      
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 ロシア革命記念日
2018-11-07 Wed 01:22
 きょう(7日)は、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)に、ロシア10月革命でボリシェヴィキ政権が樹立されたことにちなむ“ロシア革命記念日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・ロシア革命記念日(1960)

 これは、1960年にソ連が発行したロシア10月革命43周年の記念切手です。同年のロシア革命記念日の式典には、キューバ使節団が初めて参加しています。

 1959年の革命後、1960年4月のプラヤヒロン事件を経て米国との対立が決定的となったキューバのカストロ政権は、1960年10月、キューバ経済の生き残りをかけ、ゲバラを代表とする使節団を東側諸国歴訪の旅に派遣しました。

 一行は、マドリード、プラハを経由して、10月29日、モスクワ入りし、2日後の31日、レーニン博物館への訪問の後、ソ連の経済商業部門の幹部らと最初の懇談を行います。

 初日の会談で、フルシチョフは「キューバが望むものは全て与えられる」と口火を切ったものの、肝心のキューバ側は要望を具体的に整理できておらず、ゲバラは「さまざまな社会主義国のうち、どの国に何を要請すべきかわからない」と釈明せざるを得ませんでした。

 この時点で、1週間後に迫った革命記念日の式典に参加するため、すでに東側諸国の代表団がモスクワ入りし始めていたため、ゲバラは急遽“キューバ代表団”を組織。ソヴィエツカヤ・ホテルの1フロアを借り切って、交渉相手国ごとに一室を割り当て、モスクワに到着した各国代表団と順次交渉を行いました。その過程で、ゲバラは11月1日にはチェコスロヴァキアのノヴォトニーからレオン・ブランコ勲章を授与されたほか、3日にはソ連側の案内で強化コンクリートの製造工場も視察しています。

 11月7日、キューバ使節団は、10月革命43周年の記念パレードに招待されましたが、その際、ゲバラの席は最高会議幹部会用の場所に設けられました。これは、国賓級の待遇を意味しており、ソ連としては、米国の喉元に位置するキューバを、なんとしても、自分たちの陣営に引き込んでおきたいという意思表示でした。もちろん、ゲバラが姿を現すと、場内からは万雷の拍手とともに「キューバ萬歳」の大歓声が上がるという、お決まりの演出も行われています。

 さて、ソ連との交渉では、キューバ側は砂糖の輸出先と、既存の工業を維持するための石油と部品、輸入代替のための小規模な工業を求めましたが、交渉には、値段や条件面以外にも、米州と欧州での電圧の違いや度量衡の違い(ソ連がメートル法を採用していたのに対して、キューバでは長年に及ぶ米国の影響もあってポンド・ヤード法だった)など、さまざまな困難がありました。

 また、キューバ側には、ソ連は東側諸国の盟主であり、米国に匹敵する大国というイメージがあったが、実際のソ連製品の技術水準や生活水準は、米国に比べて大きく劣っていました。たとえば、熱帯のキューバでは制汗・消臭剤が必需品で、革命以前、それらは米国からの輸入品がごく当たり前に使われていました。革命後、それらの輸入が途絶したため、ゲバラはそのことをモスクワで話しましたが、これに対して、ソ連側は「デオドラント?君たちはあまりにも快楽に慣れすぎている」と一蹴したと伝えられています。キューバとモスクワでは気象条件が違うのですが、やはり、彼我の生活水準の差も大きかったのです。

 革命記念日の記念式典の後、キューバ使節団は、8日のクレムリンでのレセプション、11日のミコヤン副首相との会談、15日のモスクワ駐在キューバ大使のレセプションでフルシチョフとの会合を終えて、17日、次の訪問先である中国へ向けて、モスクワを出発しました。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラが訪れた当時の各国の状況やキューバとの関係についても、詳しく解説しています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、大変心苦しいのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 11月11日(日) 昭和12年学会大会 於・ベルサール神田
 「昭和切手の発行」 *入場は無料ですが、学会への御入会が必要です。

 11月16日(金) 全国切手展<JAPEX 2018> 於・都立産業貿易センター台東館
 15:30- 「チェ・ゲバラとキューバ革命」 *切手展の入場料が必要です

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 スプートニクとガガーリンの闇(5)
2018-02-20 Tue 12:13
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、『本のメルマガ』第670号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1957年中にソ連で制作・発行されたスプートニク2号関連のマテリアルについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ソ連・スプートニク2号(60コペイカ)

 これは、1957年にソ連が発行したスプートニク2号打ち上げの記念切手です。

 1957年10月4日、ソ連は人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しましたが、当初、ソ連の最高権力者であったフルシチョフは人工衛星の打ち上げを単純に科学技術上の問題と考えており、そのことの持つ軍事的ないしは政治的な意味をほとんど理解していませんでした。ところが、全世界が大騒ぎになるのを見た彼は、ただちに、事態の重大さを認識します。

 10月10日、開発責任者のセルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフを呼び出したフルシチョフは、11月7日のロシア革命40周年記念日までの、もうひとつ、よりインパクトのある衛星を打ち上げるよう指示しました。

 1ヶ月以内に2発目の衛星を打ち上げるという無理難題に困惑したコロリョフは、とっさに、犬を載せたスプートニクを打ち上げることを提案します。

 第二次大戦後のロケット開発の文脈の中においては、1949年以降、犬を載せたロケットの打ち上げ実験が行われていました。実験動物としては、当初、犬と猿が候補とされていましたが、躾が容易で飢えにも強く、なおかつ、見栄えが良い(実験成功の暁には、大々的にそのことが報じられることが考慮されたため)などの理由から犬が採用となり、犬を載せるためのコンテナや生命維持装置などには制作実績があったからです。

 ただし、それらのロケットは高度80キロまでで、犬もパラシュートで回収されていました。これに対して、そもそも、大気圏再突入の技術が不十分であるがゆえに、長距離弾道ミサイルではなく、人工衛星を打ち上げざるを得なかった当時の技術力では、衛星に載せた犬を“回収”することは不可能でした。

 それでも、軌道上に打ち上げた衛星に何らかの動物を長時間滞在させ、さまざまなデータを取ることは、将来の有人宇宙飛行の布石として説得力のあるプランで、フルシチョフを大いに満足させました。実際、フルシチョフは、側近でロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国首相(翌1958年、ソ連第一副首相に昇格)のフロル・ロマノヴィチ・コズロフを担当者として直々に任命し、進捗状況を毎日報告させています。

 さて、スプートニク2号の衛星本体は円錐形で、送信機のほか、犬を入れたコンテナと生命維持装置、血圧、心拍数、呼吸数、心電図などの記録装置、紫外線ならびにX線測定装置などを搭載していたため、スプートニク1号(質量83.6キロ)よりも大幅に重い質量は508キロとなりました。

 衛星に載せられる犬は、スペースの都合から、体重6キロ以下、体長は35センチを越えない雌犬(排泄の時に片足を上げない)のうち、実験結果の撮影のために体色は白もしくは明るいもの、ロシア原産の種であること、などの条件の下、航空医学アカデミーが手持ちの10匹の中から3匹を選び、最終的に、巻き毛の“クドリャフカ”という名の犬が選ばれました。

 クドリャフカは、もともと、医学研究目的に保護施設から航空医学アカデミーに送られた雑種犬でしたが、性格が大人しく、打ち上げまでの期間、毎日、数時間コンテナの中に入れられていても、ほとんどじっとしていて動きませんでした。また、コンテナの内部は立ったり座ったりできる程度のスペースがあり、食糧は高カロリーのゼリーが20日分、毎日一定量、自動的に供給される仕組みになっていました。

 ちなみに、この犬は“ライカ犬”という名前でも知られているが、これは、ソ連側が犬種を“ロシアン・ライカ”と発表したことによるものです。

 ロシア語の“ライカ”は“吠える”を意味する動詞の“лаять(ラヤート)”から派生した名詞で、もともとは、ロシア北部およびその周辺地域で伝統的に飼われてきた猟犬全般を指す語でした。このため、たとえば、シベリアン・ハスキーを“ヤクート・ライカ”、サモエドを“サモエド・ライカ”と呼ぶこともあります。国際畜犬連盟(FCI)が認定する“ライカ”犬としては、ロシアおよびシベリア原産の犬から作出されたラッソ・ヨーロピアン・ライカ、ウエスト・シベリアン・ライカ、イースト・シベリアン・ライカの3種がありますが、このほかにも、コーレル・ライカ、ツングース・ライカ等のように、実際に猟犬として使用されているものの、詳細がよくわからないものも少なくありません。

 さて、クドリャフカを乗せ、10日分の酸素と食糧と実験データを取るための各種の計測器を積み込んだスプートニク2号は、スプートニク1号の打ち上げから1ヵ月後の1957年11月3日、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、今回ご紹介の記念切手も発行されました。

 ただし、このとき発行された記念切手には、打ち上げのハイライトともいうべき犬の姿はどこにも描かれておらず、代わりに、クレムリンを背景に描いています。こうしたところにも、衛星の打ち上げが革命40周年の記念事業であったという事情が如実に反映されています。もっとも、クドリャフカに関しては、切手のデザイナーには実験の詳細な内容など知らされていなかった可能性も否定はできません。

 なお、スプートニク2号からの地上への通信は11月10日に途絶え、機体そのものも打ち上げ162日後の1958年4月14日に大気圏に再突入し消滅しましたが、打ち上げ後4周目にしてすでに衛星からの信号では生体反応は確認できなかったそうです。これが正しければ、衛星はおよそ100分で地球を1周していましたので、6時間後にはすでにクドリャフカは死んでいたということになりますが、当時のソ連当局者は「ライカ犬は1週間程度生きていた」と発表しています。

 いずれにせよ、クドリャフカの宇宙飛行は国家のために片道燃料で死地に向かう“特攻”のようなものでしたから、英国動物愛護協会はライカの死に対して、ソ連に抗議。これに対して、ソ連側は、追悼のためとして、在りし日のライカの姿を描いたパッケージのタバコ“ライカ”を発売しました。

 なお、かつて、クドリャフカが訓練を受けた、モスクワのペトロフスキー公園の南西にある航空宇宙医学研究所には、スプートニク2号の打ち上げから40周年にあたる1997年、“ライカ”の記念碑が建てられています。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は22日!★★

 2月22日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第16回が放送予定です。今回は、前日の21日が国際母語デーということで、この国際デーの由来となったバングラデシュとベンガル語についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★

 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、お待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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