内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(6)
2013-06-09 Sun 09:33
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』502号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は第2次大戦前後のシオニスト過激派の反英テロの話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      イルグン・カバー    イルグン・カバー(裏面)

 これは、1945年10月、テルアビブからイルグンの活動家であったダヴィド・シュプリッツァー宛に差し出されたカバーとその裏面(部分)で、宛先の住所はエルサレムのパレスチナ警察本部気付になっていますが、実際には、エリトリアのセンベル収容所に転送されたモノです。

 1945年5月、欧州大戦はナチス・ドイツの敗戦によって終結しました。そのひと月前の4月、米国では大統領ローズヴェルトが亡くなり、副大統領のトルーマンが大統領に昇格します。

 前任者のローズヴェルトは、アラブ諸国の指導者に対して、米国としては、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないと約束し、トルーマンも基本的にはこの方針を継承しました。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになったトルーマンは、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、シオニストに対して同情的な姿勢をとることになります。

 すなわち、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住を制限する政策(1939年5月のマクドナルド白書で決定)を解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、アトリー(英首相)宛の書簡で求めました。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立。委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめます。

 しかし、報告書発表の直前、シュテルンによりイギリス人兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示すようになりました。

 今回ご紹介のカバーは、まさにこうした時期に収監中のイルグンの活動家宛に差し出されたものです。

 イルグンとは、もともとは“組織”を意味するヘブライ語で、シオニストの武装組織としては、“ユダヤ民族軍事機構”を意味するヘブライ語の“ハ=イルグン・ハ=ツヴァイ・ハ=レウミー・べ=エレツ・イスラエル”が正式名称ですが、ヘブライ語では、略称の“エツェル”、英語では、正式名称の最初の単語である“イルグン”の名で呼ばれるのが一般的です。

 第一次大戦以前から、パレスチナに移住したユダヤ系移民は自分たちの定住地で自警団を組織していました。英国によるパレスチナの委任統治が始まると、ユダヤ系移民の急増に反発するアラブの暴動が発生したため、1920年6月、各地の自警団を統括する軍事組織として、ハガナーが組織されます。

 英国のパレスチナ当局は治安維持のためハガナーの野戦部隊に訓練を施しましたが、その中には、英国のパレスチナ政策に反発して過激化する勢力が現れるようになりました。イルグンもその一つで、ハガナーの穏健路線に飽き足らなくなったシオニスト強硬派が、1931年にハガナーを脱退して組織した武装集団です。特に、マクドナルド白書に対しては激しい敵意をむき出しにし、ウォルター・モイン植民地相を暗殺したシュテルンともども、反英のためには“敵の敵”であるナチス・ドイツとの連携さえ厭わないという姿勢を鮮明にしていました。

 その活動家であったシュプリッツァーは、1944年2月、ジャッファの警察署本部に対する爆弾テロを行って逮捕・収監されています。

 シュプリッツァーの事件の後も、シオニスト過激派による反英テロは止むことがなく、逮捕・収監される活動家も増加していったが、それに伴い、彼らの脱獄や収監されたテロリストを奪還するための新たなテロが生じる危険性も憂慮されるようになりました。

 そこで、英当局は、1944年10月19日、“スノー・ボール作戦”を発動。まずは251人のテロリストを飛行機で極秘裏にアフリカ各地の収容所に移送し、彼らをパレスチナの地から切り離すことにします。

 テロリストたちの移送先は、センベル(エリトリア)、カルタゴ(この場合は、テュニジアの首都・テュニス近郊の都市ではなく、英領スーダン紅海州の町)、ギルギル(ケニアの首都ナイロビ北方の町)の3ヵ所でした。最終的にこの3ヵ所に分散して移送されたテロリストの数は439人で、そのうちの約6割がイルグンの活動家で、3割がシュテルンの活動家、残りの1割がどちらの組織にも属さないテロリストだったといわれています。

 さて、シュプリッツァーが収監されていたセンベルの収容所は、エリトリアの首都、アスマラの近郊に位置しています。

 エリトリアは、アフリカ北東部、エチオピアの北側に位置する紅海沿岸の地域で、第二次大戦以前はイタリア領でしたが、1941年に英軍がイタリア軍を駆逐し、以後、1952年まで保護領としていました。

 今回ご紹介のカバーに関しては、宛先表示の“エルサレム”の脇に、赤鉛筆でEの文字が書き加えられており、これにより、名宛人の移送先がエリトリア、すなわち、センベル収容所であることが関係者にはわかります。

 切手が脱落しているのは、アフリカ各地に移送されたテロリスト宛の郵便物に関しては、表には見えない切手の裏や下のスペースを使って不正な連絡がなされていないかどうかをチェックするための措置で、英当局が、いかに彼らの動向に神経質になっていたかがうかがえます。

 こうした状況でしたから、英当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものでした。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。それどころか、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。こうした視点からすれば、パレスチナの土地を“かわいそうなユダヤ人”に与えることは無条件に善行であるという短絡的な結論しか生じません。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重な英当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどることになります。

 その結果、シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合(以下、国連)に問題の解決を一任すると一方的に宣言。まさに、これが“英領パレスチナ”終わりの始まりとなりました。


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 岩のドームの郵便学(4)
2013-04-14 Sun 18:22
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』496号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は“岩のドーム”を取り上げたイギリス委任統治領パレスチナの切手の使用面に注目して、いろいろと書いてみました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        アラブフェア・宣伝印葉書

 これは、1934年3月20日、エルサレムからスイス・ルツェルン宛に差し出された葉書で、エルサレムの“アラブ・フェア”を宣伝する標語印が押されています。

 1927年11月1日、イギリス委任統治下のパレスチナ(以下、英領パレスチナ)でスターリング・ポンドとリンクしたパレスチナ・ポンドが導入された際の主な郵便料金は以下の通りです。

 ・英領パレスチナ域内の書状料金:20グラムまで5ミリーム、20グラム加わるごとに3ミリーム追加
 ・外信書状料金:20グラムまで13ミリーム、20グラム加わるごとに9ミリーム追加
 ・英国・アイルランド宛書状(優遇料金):20グラムまで7ミリーム、20グラム加わるごとに4ミリーム
 ・域内宛葉書料金:4ミリーム
 ・外信葉書料金:7ミリーム
 ・域内宛印刷物料金:250グラムまで15ミリーム、50グラム加わるごとに3ミリーム追加
 ・外信印刷物基本料金:3ミリーム
 ・書留料金:13ミリーム
 ・速達料金:エルサレム、ジャッファ、ハイファ、テルアビブのみでの取り扱いで、距離別料金。1kmまで20ミリーム、2kmまで30ミリーム、以後、2kmごとに40ミリーム

 1927年11月に発行された岩のドームを描く普通切手の額面は、4、8、13、15ミリームの4種類でしたから、4ミリーム切手は域内葉書料金として、8ミリーム切手は20-40グラムの書状料金として、13ミリーム切手は外信書状ならびに書留料金用として、15ミリームは印刷物料金として、主に使われることが想定されていたことになります。
 
 英領パレスチナ域内宛の書状と葉書の料金は1941年3月末まで、切手発行後12年以上も値上げされなかったが、外信料金に関しては、1932年7月1日に料金改正があり、20グラムまでの書状基本料金が15ミリーム(20グラム加わるごとに9ミリーム追加)、葉書料金が8ミリームに値上げされた。このため、岩のドームを描く15ミリームおよび8ミリームの切手は、以後、英領パレスチナの外信便用として盛んに使用されていくことになります。

 今回ご紹介の葉書もその一例というわけですが、ここでは“アラブ・フェア”を宣伝する標語印が押されている点に注目したいところです。

 パレスチナの委任統治を開始した当初、英国のパレスチナ当局は、パレスチナへのユダヤ人の移民枠を年間1万6500人と規定していました。しかし、この移民枠いっぱいにユダヤ人の入植が行われると、アラブが9割を占めていたパレスチナの人口構成は、40年足らずのうちにユダヤ人が半数を占めることになるため、パレスチナのアラブはこの決定に反発し、1921年4~5月にかけて、パレスチナ各地で大規模な反ユダヤ暴動が発生。その死傷者は3000名を越えたといわれています。

 事態の収拾に迫られた英当局は、一転してパレスチナへのユダヤ人移民の受け入れの一時凍結を発表。当然のことながら、こうした英国の“変節”に対しては、シオニスト側は不信感を抱くことになりました。

 その後も、英国のパレスチナ政策は、アラブ側とイスラエル側のうち、その時々でより強く反発する側に対して場当たり的に妥協を重ねるものとなりましたが、1920年代後半になると、パレスチナへのユダヤ系移民の流入が制限されたことに加え、パレスチナに永住せず、アメリカ大陸などへ渡るユダヤ人の数も次第に増加するようになったため、アラブ側による反シオニスト暴動も沈静化し、パレスチナの政情は安定化していくように思われました。

 ところが、英当局が、シオニストとアラブないしはムスリムとの対立の根本的な解決を先延ばしにしている間に、1933年、ドイツにヒトラー政権が成立してしまいます。

 強烈な反ユダヤ主義を掲げ、政権発足早々に「職業官吏再建法」によって公務員からのユダヤ人排除が行うなど、反ユダヤ主義政策を展開するヒトラー政権の支配下からはパレスチナへ流入するユダヤ人の数が激増し、1933年には約23万人だったパレスチナのユダヤ系人口は、3年後の1936年には約40万人にまで増加しました。

 こうした状況の中で、パレスチナにおけるアラブの文化や風俗習慣などを広く紹介し、パレスチナがアラブの土地であることをアピールするために企画されたのが、“エルサレム・アラブ博覧会”(アラブ・フェア)で、その第1回は1933年に開催されまています。

 今回ご紹介の葉書は、1934年4月6日からの第2回開催時の宣伝標語が入った消印が押されています。標語は、英語・ドイツ語・フランス語・アラビア語の4ヵ国語で「1934年4月6日 エルサレム・アラブ博覧会に行こう」という趣旨の文言ですが、フランス語やドイツ語の文言も入っているのは、標語印の押された葉書が広く世界中に流通する過程で標語の内容が各国の人々にも周知されることを想定してのことですが、実際に、ヨーロッパからの参観者がどの程度あったのか(=標語印の効果がどの程度あったのか)までは、残念ながら、調べきれませんでした。今後の課題ですな。


 * 本日の東京国立近代美術館でのギャラリートークは、無事、盛況のうちに終了しました。ご来場いただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★

・4月27日(土) 15:00- 『マリ近現代史』出版記念トーク
 於 東京・浅草 都立産業貿易センター台東館6階特設会場
 スタンプショウのイベントの一つとして、出版記念のトークを行います。書店に並ぶ前の先行販売はスタンプショウ会場内が最初となります。入場は完全に無料です。


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 岩のドームの郵便学(3)
2013-03-23 Sat 22:19
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』493号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は“岩のドーム”を取り上げた最初の切手として、イギリス委任統治領パレスチナの1927年シリーズが発行されるまでのいきさつをご紹介しました。その中から、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        岩のドーム(1927年・8ミリーム)

 これは、イギリス委任統治領パレスチナの8ミリーム切手です。

 第一次大戦後、英国占領下のパレスチナでは、当初、エジプトポンドが使用されていましたが、1923年初、同年9月からの英国による委任統治のスタートを前に、独自通貨を導入するため、財務官を長とし、主要銀行の経営者をメンバーに含む検討委員会が発足。検討の結果、本国植民地省の監督の下、ロンドンにパレスチナ通貨管理委員会を設け、スターリング・ポンドとリンクしたパレスチナ・ポンドを創設することが決定されました。

 ただし、部内の調整などが長引いた結果、独自通貨の導入は委任統治の開始には間に合わず、新通貨の製造が開始されたのは1926年11月のことで、実際に新通貨が導入されるようになったのは1927年11月でした。新通貨は、パレスチナから分離したトランス・ヨルダンにも導入され、年末までに163万5296ポンドが発行されています。

 高等弁務官(植民地行政の責任者)として英領パレスチナに着任したハーバート・サミュエルは、当初、委任統治の正式スタートに合わせて、それまでの暫定加刷切手に代えて、パレスチナ独自の正刷切手(加刷ではないオリジナルデザインの切手)を発行することを計画していましたが、当時のパレスチナの独自通貨の導入が間に合わなかったことから、正刷切手の発行も独自通貨の導入まで延期されることになりました。

 正刷切手のデザインについて、サミュエルは、岩のドーム内のモザイクのパターンを元に、抽象的なアラベスク文様が良いと考えていました。これは、大戦中の1916年、いわゆるアラブ反乱によって発足したヒジャーズ政府の切手が、偶像崇拝を禁ずるイスラムの教義に反しないよう、当初、“聖メッカ”のカリグラフィーとアラベスク文様をデザインとしていたことに倣おうとしたものです。

 これに対して、英領パレスチナ政府関係者の間には、岩のドームのほか、エルサレム旧市街の城壁、シオン門、黄金門など、歴史的な建造物を取り上げるのが良いとの意見も少なからずありました。

 このため、サミュエルを長とする切手図案の検討委員会が組織され、利用者に親しみのある風景として、岩のドーム、ゲッセマネの教会、ナブルスの風景、ラムラの風景、嘆きの壁、ラヘルの墓(ベツレヘム)、オリーブの丘、などが切手に取り上げる題材の候補として挙げられ、切手の原画用の写真コンテストが行われています。

 コンテストの結果、最終的に委員会は、ラヘルの墓、エルサレム旧市街の城壁、岩のドーム、ティベリアスのモスクの4点が切手として採用されることになりました。

 なお、入選作品の写真を切手の原画として構成したのは、フレッド・テイラーです。テイラーは、1875年、ロンドン生まれのデザイナーで、ロンドンのゴールド・スミスカレッジやパリの市立美術学校アカデミー・ジュリアンでの修業を経て、1908年から1946年にかけてロンドン地下鉄のポスターを手掛けて人気を博していました。

 テイラーの原画をもとに、原版彫刻を担当したのはロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社でしたが、どういうわけか、実際の印刷を担当したのはハリソン・アンド・サン社です。ハリソン・アンド・サン社は1927年4月13日から切手の製造を開始し、パレスチナ独自の正刷切手(4図案・18額面)は、新通貨が導入された11月1日から発行されました。

 その後、郵便料金の改正などにより、新たな額面の切手も追加で発行されることになるが、図案の変更は行われませんでした。かくして、岩のドームを描く切手は、他の普通切手とともに、1948年にパレスチナにおける英国の委任統治が終了し、イスラエル国家が建国を宣言するまで、アラブ系・ユダヤ系を問わず、パレスチナの住民が日常的に郵便物に利用し、彼らの生活とは切り離すことのできないモノとなっていきます。


 ★★★ 『FLASH』グラビア特集“「趣味の切手」進化論!”の御案内 ★★★

        FLASH 切手特集号表紙     FLASH 切手特集扉

 現在発売中の雑誌『FLASH』4月2日号の「新シリーズ『いま』を究める!FLASHグラビア新書Vol.12」では“「趣味の切手」進化論!”と題して、7ページの切手特集が組まれています。記事では、昭和30-40年代に発行された記念切手の現状や中国の切手バブルの話、そして、各国事情が反映された“世界のオモシロ切手”の話など、盛りだくさんの内容となっており、僕も搭乗してコメントしております。雑誌は全国書店はもとより、駅売店・コンビニなどでも実物をお手に取っていただけますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★   

 4月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

・よみうりカルチャー荻窪
 4月2日、5月7日、6月4日、7月2日、7月30日、9月3日
 (原則・毎月第1火曜日)13:00~14:30
 予算1日2000円のソウル歴史散歩

・よみうりカルチャー川崎
 4月12日、5月10日、6月14日、7月12日、8月30日、9月13日
 (原則・毎月第2金曜日)13:00~14:30
 切手で歩く世界遺産


 【世界切手展BRASILIANA 2013・出品募集期間延長!】

 今年11月、ブラジル・リオデジャネイロで世界切手展 <BRASILIANA 2013> が開催される予定です。当初、現地事務局への出品申し込みは2月28日〆切(必着)でしたが、〆切日が3月31日まで延長されました。つきましては、2月14日に締め切った国内での出品申し込みを再開します。出品ご希望の方は、3月20日(必着)で、日本コミッショナー(内藤)まで、書類をお送りください。なお、同展の詳細はこちらをご覧ください。


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 岩のドームの郵便学(2)
2013-02-18 Mon 15:24
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』490号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回はイギリス委任統治領としてのパレスチナの形成過程について切手やカバーなどを使ってご説明しました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        パレスチナ・OETA

 これは、第一次大戦の終結直後の1919年1月20日、英占領下のエルサレムから差し出された葉書です。なお、貼られている切手は、この時期の中東における他の英軍占領地同様、英国エジプト遠征軍用の切手です。

 1918年10月30日、オスマン帝国が連合国に降伏。さらに翌11月にはオーストリアとドイツも降伏し、第一次大戦は連合国の勝利をもって終結しました。オスマン帝国を占領下に置いた連合国は、大戦の戦後処理のため、1919年1月からヴェルサイユ講和会議を開催します。

 大戦中、英国はアラブに対しては戦後のアラブ国家の独立を約束する密約(フサイン・マクマホン書簡)を結んでいながら、その一方で、フランスとは旧オスマン帝国を両国で分割するサイクス・ピコ協定、シオニストに対してはパレスチナにユダヤ人国家を樹立することを支持するとのバルフォア宣言を発していました。

 このため、大戦後の講和会議では、互いに矛盾する3つの密約をどのように処理するかが問題となります。結局、講和会議には、アラブ代表としてシリア攻略の英雄、ファイサルがヒジャーズ代表団の団長として招待され、「列強が中東を支配するのは大義に反する」と主張しましたが、これはほとんど顧みられることはなく、シリア・パレスチナ地域は、①英支配の南部OETA(敵国領土占領行政区域:Occupied Enemy Territory Administration):現在のイスラエル国境とほぼ同じパレスチナ、②アラブ支配の東部OETA:アカバからアレッポにいたる内陸部、③フランス支配の西部OETA:ティールからキリキア(シリアとトルコの国境地帯で、現在はトルコ領)にいたるレバノンとシリアの海岸地帯、に分割されることになりました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした状況の下で差し出されたもので、、消印は不鮮明ですが、OETAの文字とエルサレムの地名表示の一部が読み取れます。


 なお、会議にはシオニスト代表としてワイズマンが出席し、パレスチナをユダヤ人が排他的に支配することを主張していました。結局、“パレスチナ”の範囲はワイズマンの主張よりも大幅に縮小されましたが、会議では、バルフォア宣言に従い、パレスチナを英国の委任統治領としてシオニストの移民を受け入れ、将来、シオニストに対して自治を付与するという大枠が決定されています。

 なお、1920年7月、英国によるパレスチナ統治が実質的にスタートすると、これを受けて、同年9月、パレスチナでは、それまで無加刷で使用されていたエジプト遠征軍用の切手に、(上から)アラビア語・英語・ヘブライ語の3か国語で“パレスチナ”と加刷した切手が発行されました。いずれにせよ、現在の中東の国境が確定されていく過程で、当初、英国の占領ないしは支配地域ではエジプト遠征軍用の切手が幅広く使われていたわけですが、次第に、それらに代わって各地で独自の図案の切手が発行されていくことになります。

 英領パレスチナで岩のドームを描く最初の切手もまた、そうした経緯を経て発行されるのですが、そのあたりの事情については、次回、詳しくご説明することにしたいと思います。


 【世界切手展BRASILIANA 2013の出品について】

 今年11月、ブラジル・リオデジャネイロで世界切手展 <BRASILIANA 2013> が開催される予定です。出品の国内受付期間は14日で終了しましたが、出品をお考えの方で、まだ書類をお送りいただいていない方は、至急、内藤までご連絡ください。展覧会の詳細はこちらをご覧ください。なお、現時点でお申込みいただいている出品の件数は、伝統1、郵便史1、テーマティク5、文献4です。


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 4回使われた封筒
2009-01-18 Sun 17:46
 先月27日以来、パレスチナ自治区ガザに対して大規模攻撃を続けてきたイスラエルが、軍事作戦開始時に設定した目標を達成するとともに、ハマスに「深刻な打撃」を与えたなどとして、現地時間の18日午前2時に攻撃を一方的に停止すると発表しました。というわけで、ガザがらみのネタのなかから、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガザ・戦時再使用(表)  ガザ・戦時再使用(裏)

 これは、第二次大戦中の1944年10月、ガザからヤッファ宛に差し出された公用便です。第二次大戦中、英領地域では物資節約のため、郵便に使われた封筒にラベルを貼って公用便用に再使用することが行われていました。これは、そのパレスチナ(当時はイギリスの委任統治領)での使用例の一つで、押されている郵便印から類推すると、テルアビブからエルサレム地裁宛に差し出されたカバーを、エルサレムからベルシェバ宛に再利用し、さらにベルシェバからガザ宛に再々利用したうえで、ガザからヤッファ宛に再々々利用したものと考えられます。

 第二次大戦において、パレスチナは決して主戦場となっていたわけではありません。それでも、ナチス・ドイツの迫害を逃れて亡命を希望するユダヤ系難民が大量に押し寄せたりして、必ずしも経済的に余裕があったとは言いがたい状況でした。今回ご紹介のカバーは、その一端を示すものといってよいでしょう。

 さて、イスラエル側の停戦宣言に対して、ガザを実効支配しているイスラム原理主義組織ハマスはイスラエル軍が撤退するまで攻撃を続行すると宣言していますし、イスラエル側も当面は軍の地上部隊をガザに駐留させるとしていますから、今回の停戦宣言によって実際に戦闘が終結するかどうかは大いに疑問があります。また、イスラエルによるガザ地区の封鎖は今後も継続されますので、住民の生活は厳しい状況が続くことに変わりはないでしょう。となると、現在のガザ地区でも、今回ご紹介しているような使用済み封筒の再利用ということが行われているのかもしれません。

 いずれにせよ、今後もしばらくガザ地区をめぐっては緊迫した情勢が続くことになると思います。このブログでもガザについては何度か取り上げていますが、そろそろ、それを元にして“切手で読み解くガザとその歴史”といったたぐいの仕事をまとめるべき時期なのかもしれませんね。そういうことなら、さっそく、企画書を作って営業に回らなくっちゃ。

 
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 試験問題の解説(2007年7月)-4
2007-08-02 Thu 01:25
 昨日(1日)に引き続いて“中東郵便学”の前期試験の問題についての解説の3回目(最終回)です。今日は「この切手について説明せよ」という問題を取り上げましょう。(画像はクリックで拡大されます)

パレスチナ加刷

 これは、イギリスによるパレスチナの委任統治が開始されたことを受けて、1920年9月に発行された切手です。

 第一次大戦中、イギリスは、アラブに対してはフサイン・マクマホン書簡、フランスに対してはサイクス・ピコ協定、シオニストに対してはバルフォア宣言と、ひとつの土地に3通の権利書を発行するような矛盾した外交政策を展開。その火種は、大戦の終結とともに一挙に噴出します。

 そもそも、第一次大戦末期の1917年12月、アレンビーひきいるイギリス軍がエルサレムに入城したとき、70万ともいわれたパレスチナの人口のうち、ユダヤ系は約5・6万人しかいませんでした。ところが、大戦後の1919年に開催されたパリ講和会議には、シオニスト代表としてワイズマンが出席し、パレスチナをユダヤ人が排他的に支配することを主張。結局、“パレスチナ”の範囲はワイズマンの主張よりも大幅に縮小されましたが、会議では、バルフォア宣言に従い、パレスチナをイギリスの委任統治領として、将来、シオニストに対して自治を付与するという大枠が決定されます。

 そして、1920年7月、サンレモ会議を経て、イギリスによるパレスチナ統治が実質的にスタートし、統治の最高責任者である高等弁務官としてハーバート・サミュエルが着任。今回の切手は、こうした状況の下で、従来、この地域で使用されていたエジプト遠征軍の切手にアラビア語・英語・ヘブライ語で“パレスチナ”と加刷した発行されたものです。

 パレスチナに着任したサミュエルは、当初、自らもシオニズムの支持者として、パレスチナへのユダヤ人の移民枠を年間1万6500人と規定します。しかし、1921年4~5月にかけて、サミュエルの決定に憤激したアラブ系の反ユダヤ暴動がパレスチナ各地で発生すると、事態の収拾に迫られたサミュエルは、一転してパレスチナへのユダヤ人移民の受け入れの一時凍結を発表してしまいます。こうしたイギリス当局の場当たり的な姿勢は、当然のことながら、シオニスト側の不信感も醸成することになりました。

 さて、7月に僕の授業に関して実施した前期試験のうち、切手や郵便物が絡む問題については、とりあえず、今日で解説を終わります。切手と関係のない一般的な語句説明の問題(たとえば、「スルタン・カリフ制とは何か、説明せよ」といった類の問題です)については、ネットでもいろいろと調べられるでしょうから、ご興味をお持ちの受講者の方はご自身で対応していただきますよう、お願い申し上げます。

 なお、後期の試験は2008年1月に行うことになると思うのですが、その際には、今回の「反米の世界史」と「中東郵便学」以外の科目もあるので、よく言えば、ネタに困ることはなさそうです。ただ、受験者の方々へのフォローも必要でしょうが、さりとて、ブログの中身が試験問題の解説ばっかりだと一般の方々は退屈なさるのではないかとの不安がないわけではありません。まぁ、あと半年ありますので、なんとか上手くバランスを取る方法を考えてはみますが…。
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 試験問題の解説(2006年7月)-3
2006-07-23 Sun 21:42
 昨日に引き続いて、試験問題の解説の3回目(最終回)です。今日は、このカバー(画像はクリックで拡大されます)について、マクドナルド白書のことにも留意しつつ説明するよう求めた問題を考えて見ましょう。

ユダヤ系兵士のカバー

 このカバーは、第二次大戦中の1942年7月、イギリス軍に動員されたユダヤ系(と思われる)兵士の差し出したものです。差出人がユダヤ系の兵士であると推測できるのは、カバー左上にある“Written in Hebrew”の書き込みにより、同封されていた手紙がヘブライ語で書かれていたことが分かるためです。(非ユダヤ系の兵士がわざわざヘブライ語で手紙を書くということもありえなくはありませんが、その可能性はきわめて低いでしょう)

 第一次大戦後、パレスチナの委任統治を開始したイギリスでしたが、大戦中の“3枚舌外交”のツケは大きく、在地のアラブ系住民と新たに入植してくるシオニスト(パレスチナにユダヤ国家を建設しようというシオニズムの信奉者)との対立から、社会状況はなかなか安定しませんでした。特に、1933年にドイツでナチスが政権を掌握し、組織的なユダヤ人迫害が始まると、迫害を逃れてパレスチナに流入するユダヤ系移民が急増。パレスチナでのアラブとシオニストの対立はますます激化していきます。

 こうした状況の下で、ドイツとの戦争が時間の問題となりつつあった1939年5月(ドイツ軍がポーランドに侵攻し、実際に第二次大戦が勃発するのはこの年の9月1日)、イギリスはパレスチナ統治の基本方針として「マクドナルド白書」を発表しました。その内容は、①10年以内にアラブ主導のパレスチナ国家を創設し、イギリスと同盟を結ぶことと、②パレスチナへのユダヤ人入植を5年間で7万5000人に制限するというもので、ドイツとの戦争が始まれば第一次大戦のときと同様、戦場となることが予想されていたアラブ地域の反英感情を和らげるための政治的配慮によるものでした。

 しかし、対独戦争の都合から(パレスチナでのユダヤ国家建設を認めた、第一次大戦中のバルフォア宣言を無視して)アラブを懐柔しようとするイギリスの姿勢にシオニストは憤激。こうして、第二次大戦は、パレスチナのユダヤ人にとって、不倶戴天の敵であるナチス・ドイツと、マクドナルド白書により自分たちを裏切ったイギリスとの戦争という性格をもつことにことになり、彼らは微妙な立場にたたされることになります。

 こうした状況を打開したのが、シオニズムの指導者であったダヴィッド・ベングリオン(後のイスラエル首相)でした。彼は、ユダヤ人の敵はマクドナルド白書であって、イギリスではないと声明。反ヒトラーの戦いを優先させるため、中東地域での連合国の作戦(その主力はいうまでもなくイギリス軍であった)にユダヤ人を動員していきます。その見返りとして、ベングリオンらは訪米を繰り返し、大統領のローズヴェルトにユダヤ人国家創設にむけた支援を要請したほか、シオニスト支援の資本家たちから多額の資金援助(大戦の終結までに数十万ドルに及んだ)を獲得することに成功。こうして、シオニストとアメリカとの関係は次第に緊密なものとなっていくのでした。

 試験の答案としては、①このカバーが第二次大戦中にイギリス軍に動員されたユダヤ系兵士が差し出したものを明らかにした上で、②「マクドナルド白書」の内容を説明し、③それに対するベングリオンらの対応をまとめる、ということがポイントになります。

 さて、今回の試験では、この問題のほかに、“ハーシム家”や“スルターン”という語句について説明する設問も設けましたが、これらについては、wikipediaで検索することも可能ですから、僕のブログではあえて解説しません。

 なお、明日(24日付)からは通常通りのコラム記事に戻ります。僕の授業の試験を受けているわけでもないのに、お付き合いいただいた皆様、お疲れ様でございました。

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 パレスチナはアラブのものだ!
2005-11-29 Tue 15:56
 今日(11月29日)は、1947年に国連でパレスチナ分割決議案が採択された日です。

 第一次大戦以来、パレスチナではアラブ系住民とユダヤ系移民の対立が続いていましたが、第2次大戦で疲弊し、完全に当事者能力を失ったイギリスは、自らの責任を放棄して問題の解決を一方的に国連に委ねてしまいます。その国連が出した解決案が、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムは国連の管理下に置くというものでした。

 当時、パレスチナ地域の人口の大半はアラブ系でしたが、国連の決議案では、“ユダヤ国家”に割り当てられる地域は全体の約2分の1に設定されていました。しかも、その中には、沿岸部の豊かな地域も含まれています。当然、アラブ側はこの決定に不服でした。

 この結果、国連決議をたてにユダヤ国家樹立を既成事実化したいユダヤ系、それを阻止したいアラブ系の対立は激化し、1947年末には、パレスチナは事実上の内戦に突入。1948年5月のイギリスの撤退にあわせて、イスラエル国家の建国が宣言され、それを阻止しようとするアラブ諸国の介入で第一次中東戦争が勃発することになります。

 この間の複雑な事情は郵便の上にもさまざまな影を落としており、いろいろと面白いモノが残されているのですが、その中から、今日はこんなものを引っ張り出して見ました。

パレスチナはアラブのものだ

 このカバー(封筒)は、上述のような混乱の最中にあった1948年2月、パレスチナのベツレヘムからアンマン宛に差し出されたものです。当時は、まだ、パレスチナの主権者はイギリスでしたから、イギリス当局の発行したパレスチナ切手が貼られています。

 で、ご注目いただきたいのは、カバーの左側に貼られているラベルで、パレスチナの地図を背景にエルサレムの風景を描き、「パレスチナはアラブのものだ!」のスローガンが入っています。もともと、このラベルは1930年代に作られたものですが、国連による分割決議に抗議して、差出人が郵便物に貼ったのでしょう。

 分割決議からイスラエル建国までの過渡的な時期に関しては、ユダヤ側のマテリアルは豊富に残っているのですが、アラブ側のマテリアルで気の利いたものはあまり見かけません。それだけに、このカバーは、バランスの取れたコレクションを作るうえで、ちょっとしたアクセントになるので気に入っています。

 年明け早々、東京・目白の<切手の博物館 >で中東切手展というのをやる予定です。現在、何を展示しようかと思案しているところですが、もしかすると、このカバーも展示することになるかもしれませんが、さてさて、どうなりますやら。
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