内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(7)
2013-07-31 Wed 12:41
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』505号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は1948年のイスラエル建国前後の状況について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        ネタニヤ・カバー(1948)

 これは、イスラエル建国直前の時期にユダヤ国民評議会側の支配下にあったネタニヤから差し出されたカバーで、貼られている切手は英領パレスチナ発行のものですが、消印はユダヤ国民評議会のモノという、過渡的な使用例です。

 1947年2月、シオニストの反英テロに手を焼いた英国は自力でのパレスチナ問題の解決を放棄し、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、同年5月、国連にパレスチナ問題特別委員会が設立されました。同委員会は同年8月31日、パレスチナにアラブ、ユダヤの2独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。この分割案は、ユダヤ人国家の創設に同情的であった米国のみならず、国内のユダヤ人をパレスチナへ入植させることで中東地域に影響力を扶植しようと考えていたソ連の賛成もあり、同年11月29日、国連決議第181号として採択されます。

 しかし、分割案は、当時、全体の一割の土地を所有していたに過ぎないユダヤ系住民に対して、東地中海の肥沃な農耕地を含むパレスチナ全土の過半数が与えられるというもので、アラブ系住民にとっては、とうてい承服しがたいものでした。しかも、この分割案の作成に際しては、当事者であるパレスチナのアラブ住民の代表が意見を求められることはありませんでした。この結果、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は「服喪と圧政の日」とされ、パレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再開されることにんります。
 
 こうして、アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦に突入しましたが、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英国人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出します。

 この間、1948年3月には、シオニストたちは、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」を樹立し、新国家樹立に向けての具体的なスタートを切りました。同時に、シオニストたちは、英国の撤退後の軍事的空白を利用して、軍事的にパレスチナを制圧する準備も進めていきました。

 その一環として、1948年5月に入ると、ユダヤ国民評議会は、テルアビブ、ハイファ、エルサレムの各郵便局でユダヤ国民基金の義捐証紙などにヘブライ語で「郵便」を示す加刷したものを、臨時の切手として発行し、自らの支配地域内における郵便物に貼付させるようになりました。こうした暫定切手は、5月3日(1日説もあります)から英国の委任統治が終了する同月14日(一部では15日)まで発売され、イスラエル建国宣言後の同月22日まで有効とされていました。また、これらの切手は、ユダヤ人地区(間)においてのみ有効で外国郵便には無効でした。

 また。地域によっては、今回ご紹介のカバーのように、既存の英領パレスチナ切手をそのまま利用し、消印のみ、ユダヤ国民評議会によるヘブライ語表示のモノを使うというケースもありました。ちなみに、このカバーには書状基本料金10ミリーム+書留領15ミリーム=25ミリーム分の切手が貼られていますが、それぞれの内訳に相当する切手が1枚ずつ貼られているのでわかりやすいですな。

 なお、発信地のネタニヤは、テルアビブ北方30キロの地中海沿岸にあるユダヤ系移民の入植地で、地名は、イスラエルに多額の献金を行ったユダヤ系米国人のネイサン・ストラウスに由来しています。

 もともとは、1928年にブネイ・ビンヤミン協会の会員が350エーカー(約1.4平方キロ)の土地を購入し、同年末に井戸が掘削されて開拓開始。1933年から観光地としての開発も始まりました。第二次大戦後の1947年には近郊のエベン・エフーダ村近くで、シオニスト武装組織のイルグンが、メンバー3人が“テロリスト”として処刑されたことへの報復として、英国の諜報員を殺害(彼らによれば“絞首刑”)した兵長事件が起きたことでも知られており、イスラエルの建国後の1948年12月3日には、イスラエル国家として最初の市に昇格したという土地柄であす。

 こうした状況の中、パレスチナにおける英国の委任統治が終了する1948年5月14日がやってきました。

 同日午後4時6分(現地時間)、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」とするユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。これを受けて、同日、米国のトルーマン政権は主要国の中で最初にイスラエルを承認。ついで、5月17日にはソ連がイスラエルを承認しました。

 この間の5月16日、イスラエル国家は古代の貨幣を描く建国後最初の切手を発行しましたが、この切手には「ヘブライ郵便」との表記はあるものの、「イスラエル」との表記は全くありません。これは、切手の制作時にはまだ新国家の正式な国号が決定されていなかったことによるもので、イスラエルの独立宣言がいかに慌しい状況の下に行われたかということを、雄弁に物語る資料と言ってよいでしょう。


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 パレスチナ分割決議60年
2007-11-30 Fri 09:18
 昨日(11月29日)は、1947年に現在のパレスチナ紛争の直接の引き金となった国連パレスチナ分割決議が採択されてから60周年にあたっていましたが、守屋前次官の逮捕ということで“元祖・防衛汚職”のネタで記事を書いてしまいました。というわけで、1日おくれですが、今日はパレスチナのネタで行きましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ユダヤ国民評議会

 これは、1948年5月にイスラエルが建国されるまでの間、ユダヤ国民評議会の支配下にあったメイル・シェフェヤからテルアビブ宛に差し出されたカバーです。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、アメリカ大統領となったトルーマンは、いわゆる中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、シオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンはイギリス政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(イギリス首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派によりイギリス人兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させたイギリスは、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、イギリスの対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案が、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されます。

 しかし、パレスチナ分割決議は、当時、全体の1割の土地を所有していたに過ぎないユダヤ系住民に対して、東地中海の肥沃な農耕地を含むパレスチナ全土の過半数が与えられるというもので、アラブ系住民にとっては、とうてい承服しがたいものでした。しかも、この分割案の作成に際しては、当事者であるパレスチナのアラブ住民の代表が意見を求められることもありませんでした。この結果、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は「服喪と圧政の日」とされ、第2次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 これに対して、パレスチナの治安に責任を負うべきはずのイギリスは、イギリス人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 さて、事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を受けて、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、イギリス撤退の軍事的空白を利用して、パレスチナを制圧する準備を進めていきました。

 その一環として、1948年5月に入ると、ユダヤ国民評議会は、テルアビブ、ハイファ、エルサレムの各郵便局でユダヤ国民基金の義捐証紙などにヘブライ語で“郵便”を示す加刷したものを、臨時の切手として発行し、自らの支配地域内における郵便物に貼付させるようになりました。こうした暫定切手は、5月3日(1日説もある)からイギリスの委任統治が終了する同月14日(一部では15日)まで発売され、イスラエル建国宣言後の同月22日まで有効とされています。また、これらの切手は、ユダヤ人地区(間)においてのみ有効で外国郵便には無効でした。

 今回ご紹介のカバーは、その一例で、テルアビブの切手商が作ったフィラテリックなものです。押されている消印の外側の円には“郵便”の文字と局名が、中央には“暫定政府”の文字が、それぞれ入っているのみで日付は入っていません。また、カバーの余白には、ユダヤの象徴であるダビデの星をはさんで、上下に、シオニズム運動の父と呼ばれるテオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』の一節(1896年2月14日)と、パレスチナ分割によるユダヤ人国家の創設を決めた国連決議第181号(1947年11月29日)の文字が入っており、イスラエル建国直前のシオニスト側の昂揚した雰囲気が伝わってくるようです。

 こうした混乱を経て、1948年5月15日にイスラエル国家の建国宣言と、それを認めないアラブ諸国の宣戦布告による第1次中東戦争の勃発という事態につながるわけですが、このあたりは郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルがありますので、いずれ、コレクションとしてきちんとまとめてみたいものです。

 *昨晩、カウンターが26万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。

 【イベントのご案内】  
 明日・12月1日(土)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。

 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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 試験の解説(3)
2005-07-24 Sun 09:29
 今回の試験では、問題用紙のスペースの関係から、切手と消印の部分しか出しませんでしたが、このブログではカバー(封筒)の全体像を示して説明します。

リション・レツィオン

第一次大戦中のイギリスの二枚舌外交の結果、イギリス委任統治下のパレスチナでは、在地のアラブ系住民とユダヤ系入植者の対立が絶えませんでした。特に、第二次大戦中、イギリスはマクドナルド白書を発してユダヤ系移民の受け入れを制限し、将来的にアラブ主導の独立国を作ることを約束するなどしたため、ユダヤ系は反発。一部の過激派は反英テロを繰り返すようになました。

 この結果、大戦で疲弊したイギリスは自力でパレスチナ問題を解決する意欲と能力を失い、1947年2月、問題の解決を国連にゆだねると一方的に宣言。このため、国連は同年5月、パレスチナ問題特別委員会を設立し、パレスチナにアラブ、ユダヤの2独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連の信託統治下に置くというパレスチナ分割案を発表。この分割案が、同年11月29日、国連決議第181号として採択されます。

 しかし、この分割案はユダヤ系に有利な土地の配分になっていたため、アラブ側は猛反発し、反ユダヤ暴動が頻発するようになります。こうして、国連決議に基づいてユダヤ国家の創設を既成事実化しようとするユダヤ系と、それを阻止しようとするアラブ系の間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナは事実上の内戦状態に突入していきました。

 さて、国連決議第181号の採択を受けて、ユダヤ系は新国家の樹立に向けて、テルアビブにユダヤ人居住区を統治するための臨時政府として“ユダヤ国民評議会”を樹立。ユダヤ国民評議会は、自らのプレゼンスを内外に示すため、暫定切手を発行し、郵便サービスの提供を開始します。

 ところで、ユダヤ国民評議会の郵政組織とは別に、アラブ側との戦闘で外界との連絡が途絶する可能性のあった地方のユダヤ人地区では、外部との通信を確保するため、独自の特殊な郵便制度を導入するところもありました。

 このカバーはその一つのサンプルで、テルアビブ南方のリション・レツィオン近郊のナハト・イェフーダからテルアビブ宛に差し出された装甲車郵便(アラブ側の襲撃に耐えられるよう、装甲車で郵便物を運ぶ制度)のカバーです。貼られている切手は、リション・レツィオンのローカル切手で、装甲車とユダヤ系の兵士を描いています。

 カバーの余白には、ユダヤの象徴であるダビデの星を挟んで、上下にシオニズムの父、テオドル・ヘルツルの『ユダヤ人国家』の一節と、国連決議第181号の文字が印刷されており、イスラエル国家建国直前の高揚した雰囲気が伝わってきます。

 こうした状況の中で、1948年5月14日、イギリスのパレスチナ委任統治期間が終了すると、ユダヤ国民評議会はイスラエルの建国を宣言。これに対して、イスラエルの建国を阻止しようとする周辺アラブ諸国が介入し、第一次中東戦争が勃発するのです。

 試験の問題では、切手と角型の消印部分のみを拡大して、この切手が発行されるに至った経緯や歴史的背景について説明してもらうことにしましたので、カバー余白の文言や、カバーの宛先などについての説明は不要です。

 さて、今回の試験では、5つの問題を出し、その中から2問を選んで解答してもらうことにしていましたが、切手がらみの問題は一昨日、昨日、そして今日の3問で、残りの2問は、とりあえず、切手とは無関係の歴史的背景を問う設問でした。こちらに関しては、わざわざ僕のブログを見なくとも、調べる手立てはいくらでもあると思いますので、解説は省略します。

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