内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 世界の国々:インド
2016-05-25 Wed 10:22
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年5月25日号が、先週、発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はインドの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ボース・カバー(独立前)

 これは、1947年1月28日、タミル・ナドゥ州のナチアプランから州内のティンドゥッカル宛に差し出された郵便物で、封筒の余白に、スバース・チャンドラ・ボースの写真が印刷されています。

 日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成しました。

 同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関はイギリス軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制。マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任します。

 インド国民軍はインド独立を最終目標と掲げ、白人支配からアジアを解放するためことを大義名分として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになりました。

 ボースは、ガンディーやネルーらとの路線対立から、イギリスという“敵の敵”であるドイツに接近し、ヒトラーに対して枢軸国の共同作戦としてのインド侵攻を要請していました。しかし、この提案はドイツ側から拒絶されたため、1943年5月、ドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込んだのです。

 こうして、同年7月2日、ボースはインド国民軍の総司令官に就任し、10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。

 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。

 ところで、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、太平洋戦争の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実施を要請し、首相・東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。

 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からのイギリス軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙った大惨敗に終わりました。

 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともにイギリス軍と戦ったものの、敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。

 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、イギリスの“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍もイギリス軍に降伏しました。

 戦後、イギリス植民地政府はインド国民軍幹部をイギリス国王に対する反逆罪で裁こうとします。しかし、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放されました。今回ご紹介のカバーも、こうした状況の下で、インド国民軍に対する一般のインド人の敬愛の念が生んだマテリアルと言ってよいでしょう。ちなみに、現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。

 さて、『世界の切手コレクション』5月25日号の「世界の国々」では、チャンドラ・ボースについての長文コラムのほか、タージ・マハル古典舞踊のカタカリターバン姿のシーク教徒、タタ財閥の創始者ジャムシェトジー・タタベンガルトラの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、僕が担当する「世界の国々」は、2週間お休みをいただいて、次回は6月8日発売の6月15号でのエジプトの特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。
 

 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

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 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
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 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

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 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 インドとバングラデシュの国境画定
2015-06-07 Sun 17:45
 インドのモディ首相は、きのう(6日)、バングラデシュの首都ダッカを訪問し、1947年の英領インド帝国解体以来の“飛び地問題”について、国境付近の飛び地を交換して国境線を画定することで合意しました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      インド・クチビハール葉書

 これは、英領インド時代の1881年、クチビハールからカルカッタ(コルコタ)宛に差し出された葉書です。

 現在のバングラデシュ北西部からインド東部、西ベンガル州クチビハール県の一帯は、かつて、クチビハール王国の支配下に置かれていました。

 17世紀以降、クチビハールはムガール帝国の攻撃を受け、1713年の条約により、クチビハールの西側3分の1はムガール帝国に割譲されました。これに伴い、新たにムガール帝国の版図となった土地の一部は、同国の兵士に恩賞として与えられることになりましたが、そうした土地の領主の一部はムガール帝国に屈することを拒んで領地から撤退しなかったため、ムガール帝国の兵士の中には、クチビハール側の都市を勝手に占有する者が現れました。この結果、ムガール帝国とクチビハールの“国境”は、多数の飛び地を含む入り組んだものとなります。これが、いままで続いたインドとバングラデシュの間の“飛び地問題”のルーツです。

 1757年のプラッシーンの戦いを契機にクチビハールは英国東インド会社の影響下に入り、1713年の条約以降、ムガール帝国の支配下にあった土地は18世紀末に東インド会社直轄のベンガル州となりました。その後、英領インド帝国が成立すると、クチ ビハールは藩王国として一定の自治を認められ、ベンガル州と藩王国の境界もそのまま残ります。ただし、この時点では、クチビハールもベンガル州も、どちらも英領インド帝国の一部でしたので、住民の往来についての制限もなく、実際上の不便はほとんどありませんでした。

 今回ご紹介の葉書も、こうした状況の下、クチビハール藩王国の首府であったクチビハールから、ベンガル州の州都カルカッタ宛に差し出されたもので、英領インド郵政の葉書が使われています。ちなみに、クチビハール藩王国では、藩王国としての独自の切手は発行されず、英領インド切手がそのまま使用されていました。

 さて、1947年、英領インド帝国は解体され、インドとパキスタンに分離・独立しますが、これに伴い、英領インド帝国時代のベンガル州は東西に分割され、ムスリムが多数を占める東ベンガル州は東パキスタン(現バングラデシュ)に、ヒンドゥーが多数を占める西ベンガル州はインドに属することになりました。一方、クチビハール藩王国は、クチビハール州としてインドに属することになりましたが、旧クチビハール藩王国と旧ベンガル州との境界はそのまま維持されたため、パキスタン領東ベンガル州内に、インド領クチビハール州の飛び地が混在するという状況が現出します。

 御承知のように、インドとパキスタンは緊張関係にありますので、飛び地には本国の役人が自由に立ち入りができず、税金を徴収して住民に行政サーヴィスを提供するのは困難です。この結果、政府の管理が行き届かない“飛び地”は、貧困と犯罪の温床ともなっているため、1958年には、飛び地の交換についての合意が成立したものの、インド側の議会の反対などで高官は実現しないままになっていました。

 こうした状況は、1971年12月にバングラデシュが独立した後も、そのまま引き継がれます。その後、1996年にはイン ド領内にあるバングラデシュの最大の飛び地であるダハグラム村とバングラデシュ本土との間に“ティン・ビガ回廊”を設け、昼間の8時間に限り、インド人・バングラデシュ人が時間を区切って移動できるようになりましたが(ただし、バングラデシュの軍・警察が通行する際にはインド政府への事前通告が必要)、完全な自由通行は認められていませんでした。

 その後、2011年9月にインドのシン首相(当時)がバングラデシュを訪問し、両国の国境画定と飛び地交換についての議定書に調印。これを受けて、インド政府は国内の調整を進め、モディ首相が議会の説得に成功したことで、今回の合意成立に至ったというわけです。

 今回の合意を受けて、実際に領土交換が行われれば、関係する地域では、インド切手ないしはバングラデシュ切手の最終/初日使用例だとか、移行期間内の両国コンビネーション・カバーなどが(理論上は)存在することになります。なにか1点くらいはその実物を入手したいところですが、さてさて、どうなりますやら。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 讀賣新聞「オンリーワン」
2014-01-12 Sun 18:28
 本日(12日)付の『讀賣新聞』日曜版に掲載の「オンリーワン」のコーナーで、“内藤陽介の郵便学”を紹介していただきました。下にその画像(以下、画像はクリックで拡大されます)をアップしますが、機会がありましたら、ぜひ、実際の紙面をご覧いただけると幸いです

       讀賣新聞「オンリーワン」

 さて、記事には、昨年の<JAPEX>に出品した作品「A History of Hong Kong」のリーフを壁に貼ったり手に持ったりした写真が掲載されていますが、その中で画面手前に見えているリーフのカバーについて、記事の補足を兼ねてご紹介します。

      東インド会社カバー    東インド会社カバー・印影部分

 これは、1815年8月25日、南インド・マドラス(現チェンナイ)のフォート・セント・ジョージからバンガロールまで、英国東インド会社(以下、東インド会社)によって逓送された郵便物です。右側の画像は郵便物に押されている印影を書き起こしたものです。

 1639年、東インド会社はマドラスパティナムと呼ばれていた沿岸部の土地を買収し、港と要塞を建設しました。要塞は英国の守護聖人である聖ジョージの日(4月23日)に完成したため、フォート・セント・ジョージと命名され、その周辺一帯は東インド会社の貿易活動の中心地として急成長を遂げ、巨大都市マドラスが形成されることになりました。
 
 さて、インド亜大陸における東インド会社の郵便活動は、1688年、ボンベイ(現ムンバイ)に郵便局を開設したのが最初で、ついで、同社の拠点があったカルカッタとマドラスにも郵便局が開設されます。

 1765年、ベンガル知事として赴任したロバート・クライヴは、ムガル帝国の皇帝から英国のベンガル支配を公認する勅書を受けて英領インドの基礎を築きますが、翌1766年、東インド会社による“政府郵便”を設立する条例を発します。さらに、1773年に英国の初代インド総督に着任したウォーレン・ヘイスティングスは、1774年、100マイルごとに2アンナを支払えば、誰でも東インド会社の郵便サービスを利用できるよう、制度改革を行いました。さらに、チャールズ・コーンウォリス総督時代の1793年に、いわゆる“パーマネント・セトゥルメント(政府と農民の間を仲介する者=ザミンダールに徴税をまかせ、仲介者に土地所有権を認めるザミンダーリー制度を中核とする制度改革)”が導入されると、郵便事業の維持管理もザミンダールが責任を負うことになりました。

 一方、古代以来の土着の飛脚・駅伝制度は東インド会社の郵便事業と併存して活動を続けていましたが、1837年郵便局法により、東インド会社の支配地域では“政府郵便”による郵便事業の独占が原則とされ、制度上、飛脚便は禁止されました。ちなみに、インド亜大陸での最初の切手は、1852年7月1日、現在はパキスタンの一部になっているシンド州で発行された円形の切手で、封緘用のシールに型押しされたものでした。

 なお、「オンリーワン」の記事の“近況”の欄でも告知しておりますが、次の週末、17-19日(金-日)には東京・目白の切手の博物館でテーマティク出品者の会ミニペックスが、そして、24日(金)には東京・両国の江戸東京博物館での大浮世絵展にあわせてのトーク「切手と浮世絵」が開催の予定です。1人でも多くの皆様のご来場を心よりお待ちしておりますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。

 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。

 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。

大浮世絵展・紹介記事


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 英王子にインド人のDNA
2013-06-15 Sat 14:28
 きのう(14日)付の英紙タイムズによると、英チャールズ皇太子の長男で英王位継承順位第2位に当たるウィリアム王子の祖先にインド人がいることが、DNA鑑定の結果、明らかになったそうです。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       インド最初の切手(半アンナ)

 これは、1854年に発行されたインド切手で、当時の英国王ヴィクトリアの肖像が描かれています。切手の印刷はカルカッタ(コルカタ)の測量局で、原版の彫刻はマニールッディンという名前のインド人ですので、インド人のDNAがしっかりと組みこまれた英国王の切手と言ってよいでしょう。

 インド亜大陸での最初の切手は、1852年7月1日、現在はパキスタンの一部になっているシンド州で発行された円形切手ですが、これはあくまでもシンド地方郵便としての発行で、全インド共通の切手としては、今回ご紹介のモノを含む1854年切手が最初となります。
 
 インドでの近代郵便制度の導入に際しては、事前に設置された調査委員会でヨーロッパや南北アメリカの事例を検証したうえ、委員のジェフリー・クラークが、「収益をあげるためではなく、一般のインド人の便益のために」制度を組み立てるべきだと提案。このため、公用便の料金を無料で配達するという習慣は廃止され、東インド会社の管轄地域全域に対して域内均一料金制が導入されることになりました。ちなみに書状の基本料金は4分の1トラ(1トラはほぼ10グラム)までが2分の1アンナ(今回ご紹介の切手の額面ですな)でした。

 さて、王子に伝わるインド人のDNAですが、王子の母親、故ダイアナ元妃の母方のいとこ(一部叔母という報道もあり)の唾液に、インド人女性に特有の珍しいミトコンドリアDNAが含まれていることからわかったそうです。

 ダイアナ元妃のご先祖とインドとの関係を示す手紙(こんな感じでしょうか)などをもとに歴史的な事実関係を調べてみると、ダイアナ元妃の第4曽祖母(6代前)の父親はスコットランド人の商人で、インドのムンバイ(ボンベイ)の北に位置するスーラトという都市で働いていたことがあり、彼とインド人女性との間に娘(ダイアナ元妃の第4曽祖母)が生まれています。そして、彼女以降、母親からのみ子に伝わるミトコンドリアDNAが伝わり、子孫の1人であるダイアナ元妃の母親フランセス・ロシェとダイアナ元妃を経て、王子にも受け継がれたということのようです。最初、ニュースの見出しを見た時には、ダイアナ元妃の不倫の結果、王子が生まれたということなのかとも思ってしまいましたが…(すみません)

 いずれにせよ、将来的に王子が国王として即位することになれば、アジア人の血を引く英国王の誕生は初めてということで、ちょっと面白いですな。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 アヘン業者のカバー
2012-06-26 Tue 07:46
 きょう(26日)は、いまから25年前の1987年6月26日に薬物乱用・不正取引防止に関する国際会議で「薬物乱用統制における将来の活動の包括的多面的概要」が採択されたことにちなみ、“国際麻薬乱用・不正取引防止デー”です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

      ジャーディン・マセソンカバー(1838)     ジャーディン・マセソン封蝋

 これは、1838年10月25日、当時、アヘンの密輸で大儲けしていたジャーディン・マセソン商会がロンドン宛に差し出した郵便物です。

 ジャーディン・マセソン商会は、清朝からの茶の輸入によって生じた赤字を、インド産のアヘンを密輸することによって解消しようとするイギリスの三角貿易が行われていた時代背景の下で生まれました。

 創立者の一人、ウィリアム・ジャーディンは、1774年、スコットランドの南西部の生まれ。9歳で父親と死別し、兄の援助を受けてエディンバラで医学を学び、1802年にイギリス東インド会社のボンベイ=広州航路の船医として就職しました。

 船医時代のジャーディンは、副業として、アジア各地に駐在している東インド会社のスタッフのために本国商品のブローカーのようなことをやって、15年間にわたって、商売人としてのノウハウを体得するとともに、各地のインド系ならびに中国系の商人とのコネクション作りに精を出していました。

 こうして、1817年、ジャーディンは東インド会社を退職。いったんはロンドンに戻ったものの、1822年には広州に乗り込み、船医時代に培ったボンベイのイラン系商人とのコネクションを活かしてアヘン貿易に手を染めて巨額の利益を得て、当時の一大企業だったマグニアック商会のパートナーになります。

 一方、ほぼ同じ時期にアヘン商人として派手に売り出していたのが、ジェイムズ・マセソンでした。

 マセソンは、ジャーディン同様、スコットランドの出身で、ジャーディンよりも12歳若い1796年の生まれ。エディンバラ大学で学んだ後、1815年に叔父の会計事務所を手伝うためにカルカッタへ渡り、その後、広州で貿易に携わるようになります。1821年には広州駐在のデンマーク領事の肩書きを手に入れ、1823年には、福建沿岸で清朝官憲の監視をかいくぐってアヘンの直接密輸を成功させ、広州のアヘン商人の間ではちょっとした有名人になっていました。

 2人は、1827年頃からビジネス・パートナーとして活動していましたが、1832年、マグニアック商会の破産に伴い、広州にジャーディン・マセソン商会を設立しました。

 今回ご紹介の郵便物は、そのジャーディン・マセソン商会が1838年にロンドン宛に差し出した郵便物で、裏面には同商会のマークの入った封蝋が押されています。郵便物の具体的な差出地を示す表示などはありませんが、カバーには“INDIA”の表示がありますから、アヘンの仕入先であるインドから差し出されたものでしょう。この郵便物の場合は、差出地からボンベイなどの港までは民間の信書便業者であるレミントン商会(その印が封筒の右上に押されています)が取り扱い、そこから先は、イギリスの郵便船でロンドンまで運ばれたものと考えられます。

 さて、ジャーディン・マセソン商会の設立からほどなくして、1833年には東インド会社による対清貿易の独占が撤廃されたため、新たな対清貿易のお目付け役として、イギリス政府はウィリアム・ネーピアを貿易監督官として広州に派遣します。

 極東のことなど何も知らないネーピアが、当時のヨーロッパでは一流の中国通であったジャーディンに取り込まれるのは時間の問題で、自由貿易の実現のためには清朝に対して強硬措置を取るべきだと確信するにいたったネーピアは、清朝とのトラブルを解決するための手段として広州に軍艦を呼び寄せて清朝の役人を威嚇するという砲艦外交を展開。ネーピア本人は広州到着からわずか3ヵ月後に亡くなりますが、ジャーディンらは広州のイギリス商人は「ネーピアの死を無駄にするな」という大義名分を掲げ、清朝に対して武力制裁を発動すべしとの運動を展開しました。

 これが1840年のアヘン戦争にもつながっていくわけですが、そのあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも、当時の郵便物などを紹介しつつご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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   『韓国現代史』の韓国語訳、出ました
    
       韓国語版・韓国現代史
     우표로 그려낸 한국현대사
    (切手で描き出した韓国現代史)

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    米国と20世紀を問い直す意欲作

   切手、歴史を送る
       우표,역사를 부치다
       (切手、歴史を送る)

      延恩文庫より好評発売中!

 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。なお、『우표,역사를 부치다(切手、歴史を送る)』につきましては、7月以降、このブログでも刊行のご挨拶を申し上げる予定です。


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 F1インドGP開幕
2011-10-28 Fri 23:59
 インドで初のF1世界選手権大会となるインドグランプリが、きょう(28日)、デリーから50kmのノイーダ大都市圏にあるブッダ・インターナショナル・サーキットで開幕しました。というわけで、きょうはインドの自動車切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        インド・トラック

 これは、1937年12月15日に発行された8アンナ切手で、郵便トラックが描かれています。インドの自動車切手としてはこれが最初の1枚です。

 さて、インドの郵便トラックといえば、今年2月にデリーで開催された世界切手展<INDIPEX>の最終日にこんな体験をしました。

 作品のピックアップは22:00ということで、僕は日本コミッショナーの山崎好是さんと21:30にはビンルームに行ったのですが、現場はインド的な混沌が支配していて、タイやアメリカのコミッショナーは18:00から待っているにもかかわらず、まだ作品が出てこないとのこと。はっきりいって、すべてがぐちゃぐちゃの状態で、僕たちは早々に、日付変更線をまたぐ前に解放されることはなさそうだと覚悟を決めざるをえませんでした。(下の画像は、いらだつコミッショナーたちをよそに、のんびりと荷車で作品を運んでいるスタッフです)

        インド展ビンルーム・荷車

 インド的な混沌を象徴するかのように、作品返却が滞っている中、ビンルームにはチャイ売りが出現。この男、どう見ても、実行委員スタッフや出品者、コミッショナーではなく、切手とは縁のなさそうなただのチャイ売りにしか見えなかったのですが、日付変更線も近くなると、インド人スタッフ以外はみんなぐったりしてしまい、もはや、セキュリティ・チェックはどうなっているんだなどと訊く者はもはや誰もいません。(画像は問題のチャイ売りです)

        インド展・ビンルームのチャイ売り

 はたして、実際に日本からの全作品が戻ってきて、通関関係の書類も整ったのは26:00過ぎ。そこから、オフィシャル・ホテルのラリットまでは、インド郵政が車を出すというのですが、これがフツーの乗用車やバスではなく郵便車(下の画像。ちなみに、英領時代の切手では車体に“ROYAL MAIL”と入っていますが、現在の郵便車は、当然、“India Post”と表示されています)で、我々は作品ともども荷台部分に乗る羽目になりました。

        インド郵政の郵便車

 もっとも、ここまでくると、各国のコミッショナーや出品者も、インドのぐちゃぐちゃぶりを面白がる余裕が出てきて、囚人の護送者を体験できるなんて、やっぱり“Incredible India”(インド観光局のスローガン)だとはしゃいで、車内の鉄格子をバックに写真を撮ったり(下の画像)していました。ちなみに、インドのナショナル・コミッショナーは、ご自身の高級車(ベンツだったかBMWだったかは忘れましたが)で、ホテルまでゆうゆうと戻ってきました。

        インドの郵便車の内部

 結局、“護送車”がオフィシャル・ホテルに着いたのは27:00ちょっと前。そこからタクシーで、僕が自分の安宿にたどりついたのは27:15。まぁ、普段、我々が集めている郵便物が、どんなふうに運ばれているのか、身をもって知ることができたのは、なかなか得難い体験であることには違いありませんが、さすがに疲れましたね。

 まぁ、今になってみれば良い思い出なのですが、今回のインドGPでも、参加チームのスタッフのヴィザが一部間に合わなかったり、大会開始後もコースに犬が出てきてセッションが中止になるなど、いかにもインド的な光景が随所で見られるようです。

 僕自身も、インド的な混沌に満ち溢れた国際イベントの記憶が生々しいだけに、関係者の皆様には、心より「お疲れ様です」と申し上げたいですな。


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 11月5日(土)、東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、以下のトークを行います。

・11:00 ハバロフスク…日本人の足跡を訪ねて
 切手紀行シリーズ④『ハバロフスク』の刊行を記念してのトークです。同書の中から、シベリア抑留の痕跡を中心に、ハバロフスクに残る日本人の活動の跡をたどります。なお、1フレーム作品として出品の「シベリア抑留日本人用往復葉書」についても、あわせて、簡単な解説を行います。

・16:00 年賀状の戦後史
 角川 one テーマ21(新書)『年賀状の戦後史』の刊行を記念してのトークです。同書の内容をご紹介しつつ、10日の一般発売に先駆け、会場内でのみの先行発売(限定30部)も行います。

 今回は、2冊の刊行時期が接近しているため、トークイベントもダブル・ヘッダーとなりました。ぜひ、遊びに来てください。


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        切手紀行シリーズ④『ハバロフスク』
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 ゴアにいます
2011-02-20 Sun 10:41
 きのう(19日)の記事にも少し書きましたが、現在、旧ポルトガル領インドの中心だったゴアに来ています。というわけで、ご当地ネタです。(画像はクリックで拡大されます)

        ノヴァ・ゴア消

 これは、ノヴァ・ゴア(パナジ)の消印が押された英領インド切手です。

 ポルトガル領インドとポルトガル本国リスボンとの定期的な郵便交換は1825年から始まりました。郵便印が使用されるようになったのは1854年のことで、同年、ゴアとイギリス東インド会社領のダマンに郵便局が設置されています。

 1874年に万国郵便連合が発足する以前、ポルトガルはイギリスと郵便交換協定を結び、ポルトガル領インドと海外との郵便交換はボンベイ経由でイギリス商船によって行われていました。その料金を徴収するための英領インド切手は、ダマンでは1854年から発売されましたが、同時に、ゴアのポルトガル局でも英領インド切手が有効とされていました。

 その後、1871年10月にポルトガル領インドとして最初の切手が発行されましたが、この切手はポルトガル領インド域内においてのみ有効で、1877年まで、ポルトガル領インドから海外宛の郵便物の料金は英領インド切手で徴収する状況が続きます。

 今回ご紹介の切手の消印のノヴァ・ゴアはポルトガル領インドの首府ゴアの中心地で、現在ではインド・ゴア州の州都としてパナジと呼ばれています。横線で構成された楕円の中に1の番号が入っているのが、ノヴァ・ゴア局の消印で、英領インド切手のゴア使用の中では比較的よく見られるのではないかと思います。ちなみに、上記のダムンの番号は13です。

 パナジの中央局は、市内を流れる運河のすぐ西側にあり、こんな外観をしています。

      パナジ局外観     パナジ局庭園

 さすがに、19世紀の建物がそのまま残されているというのではないでしょうが、敷地の中に庭園を作って噴水を置いているところなどを見ると、基本的にはポルトガル時代の建物が現在もなお踏襲されているのではないかと思います。ちなみに、中央郵便局前のMGロードを挟んで反対側にはゴア地区の郵政総局長のオフィスがありますが、こちらもなかなか風情のある建物です。

       ゴア郵政総局長オフィス

 こういうところを、かつてのポルトガル人は英領インド切手やそれを貼ったカバーなんかを手にうろうろしていたんですねぇ。
 
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 間違った列車
2010-07-20 Tue 12:10
 きのう(19日)未明、インド東部・西ベンガル州サインティア(州都コルカタの北約200キロ)で、駅に停車中の夜行列車に別の夜行列車が衝突し、少なくとも乗客ら60人が死亡、170人以上が負傷する大事故がありました。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方にはお見舞い申し上げます。というわけで、きょうは、インドの鉄道がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      wrong train(表)     wrong train

 これは、1901年5月にバハワルプール(現在のパキスタン・パンジャブ州の南東)宛に差し出された英領インドの切手つき封筒ですが、宛先とは別方向行きの列車の中から差し出されたため、“POSTED IN WRONG TRAIN”(間違った列車で投函された)との三角形の印を押して途中でおろされ、あらためて、正しいバハワルプール宛に運ばれたものです。左の画像が表面の全体像、右が裏面に押された印の部分の切り抜き画像です。日付を見ると、5月10日の投函で12日にはバハワルプールに到着していますから、列車を“間違った”ことによる影響は大したことはなかったといえそうです。

 インドはアジア最古の鉄道国ですが、現在でも世界有数の鉄道大国として知られています。1951年以降、インドの全鉄道は国有化され、現在はインド政府の鉄道省の監督下に置かれていますが、その総延長は6万3327キロ(米露加中に次いで世界5位)、駅の数は6909にも及んでいます。1日あたりの乗客は約1800万人、貨物は200万トンというのも相当な規模で、160万人が働いています。

 これだけ規模が大きくなれば、その分、事故の件数が増えるのもある程度はやむを得ないのでしょうが、インドではしばしば大きな鉄道事故が起きています。すなわち、当局の発表した大規模鉄道事故の件数は、2009-10年度には少なくとも100件、2008-09年度には115件となっており、鉄道の安全性という点では大いに不安が残ります。この中には、ことし5月、やはり西ベンガル州で反政府極左勢力によるテロとみられる列車事故で約140人が亡くなったというようなケースもありますが、事故の大半は、テロではなく、鉄道側の人為的ミスによるものが大半なのだとか。

 インドの鉄道職員の方には、乗客の命を預かっているという自覚を持って、利用者が“間違った列車”に乗って後悔することのないよう、くれぐれも安全運行をお願いしたいものですな。

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  戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結!

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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 タージマハル・ホテル
2008-11-28 Fri 12:24
 インドのムンバイ(ボンベイ)で現地時間26日夜(日本時間27日未明)、市中心部のターミナル駅や高級ホテルなどを狙った武装グループによる襲撃事件が発生。きょう未明までに日本人1人を含む少なくとも125人が死亡し、315人が負傷。犯行グループは、英米人を標的に多数の客らを人質に取り、タージマハルホテルとトライデントホテルなどに立てこもるという事件が起こりました。亡くなられた方々のご冥福を謹んでお祈りするとともに、無辜の市民を巻き添えにするテロリストの所業に怒りを感じます。

 さて、今回の事件の舞台となったタージマハル・ホテルに関して、こんなマテリアルがありましたので、ご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 タージマハル・ホテルのカバー タージマハル・ホテルのカバー(裏)

 これは、1937年4月19日、ボンベイからイギリスのケント宛に航空便で差し立てられたタージマハル・ホテルの封筒です。

 タージマハル・ホテルはムンバイのアラビア海に面した場所に位置する超高級ホテルで、開業は1903年です。

 インドを代表する世界的な大財閥、タタ・グループの創立者であるジャムセトジー・タタは、あるとき、イギリス人の友人とムンバイの某ホテルに入ろうとしたところ、ドアマンから“非白人”であることを理由に入館を拒否されます。このことに激怒した彼は、インド人も入れる一流ホテルを作ることを誓い、贅を尽くして作り上げたのがタージマハル・ホテルだったというわけです。ちなみに、今回のカバーには6アンナと1.5アンナの通常切手が貼られていますが、このカバーが差し出される2年ほど前の1935年に発行されたジョージ5世即位25周年の記念切手には、本家のタージマハルを取り上げた2.5アンナの切手もありますので、どうせならそっちを使ってくれればよかったのに…と思わないでもありません。

 ムンバイの欧米名“ボンベイ”は、ポルトガル語の“ボン・バイア(良港)“に由来するともいわれているように、欧米人にとって、ムンバイは海からインドへ入る玄関口でした。しかし、民族主義者のタタは、ホテルの正面玄関を、あえて、欧米人がやってくる海側にではなく、インド人が訪れる陸側に配し、気概を示しています。

 今回のテロ事件の舞台となったムンバイには、インド準備銀行(中央銀行)や証券取引所があり、タタ・グループが本拠を構えるなど、インド経済の中心地ですが、今回のテロを受けて、ムンバイ証券取引所は27日の取引を中止しています。また、犯人グループの襲撃で、ムンバイの象徴ともいうべきタージマハル・ホテルも炎上し、屋根の一部が焼失したそうです。

 まさに、インド資本主義に対する正面からの挑戦ともいうべき犯行がインド社会に与えた損害は、もちろん、物理的にも甚大なものですが、同時に、それがインド人にとっての深刻な精神的トラウマとなり、“911”後のアメリカのように、インド社会全体がおかしな方向に行かなければよいのですが…。


 ★★★ 年末年始はコタツにミカンとこの1冊 ★★★
 
 <解説・戦後記念切手>シリーズの別冊 『年賀切手』が12月25日日付で刊行されます!(下の画像は出版元制作の広告:クリックで拡大されます)

 『年賀切手』広告

 奥付上の刊行日は12月25日ですが、すでに、原稿は僕の手を離れて、印刷所の輪転機は回っていますので、17日の羽子板市の頃には実物はできあがっていると思います。なにとぞ、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

 
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 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中!

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 インドが敵国だった頃
2007-05-24 Thu 00:24
 今年は日印交流年ということで、昨日(23日)は記念切手も発行されました。というわけで、今日は“日印”がらみということでこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマ宛差出人戻し

 これは、第2次大戦末期の1945年7月15日、南インドのナチャプランからビルマ宛に差し出されたものの、郵便物取扱停止中のため、差出人に返送されたカバーです。カバーの中央には、そのことを示す“SERVICE SUSPENDED RETURN TO SENDER”の印が押されています。

 1941年12月の日英開戦に伴い、イギリスならびに英領地域から日本の勢力圏内への郵便物の取り扱いは停止されました。これは、日本占領下のビルマに関しても同様です。

 大戦末期の1945年3月、イギリス軍とアウンサン将軍ひきいるビルマ軍は日本軍に対して総攻撃をかけ、5月1日にはラングーンを解放します。これに伴い、イギリス軍は解放地域で軍政を施行し、郵便に関してはBritish Military Administrationを意味する“BMA”加刷の切手が使用されました。

 ところが、その後も1945年9月2日に日本軍が正式に降伏するまでは、ビルマは“日本占領地域”とみなされていたためか、ビルマ宛の郵便物は“敵国宛”として取り扱いが停止されていました。今回ご紹介しているカバーはそうした時期のもので、差出人戻しとなっています。

 余談ですが、僕の手元には、ほぼ同じ時期にイギリス軍政下のビルマからインド宛に差し出され、無事に宛先まで届けられているカバー(いずれ、機会を見つけてご紹介しましょう)というのもあります。ビルマ→インドの郵便がOKなのに、インド→ビルマの郵便がダメというのも、戦争末期の混乱を示していて、なかなか興味深いですね。
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