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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ホロコースト記念日(ヨム・ハショア)
2019-05-02 Thu 01:37
 きょう(2日。正確には、1日の日没から2日の日没まで)は、イスラエルのホロコースト記念日(ヨム・ハショア。ユダヤ暦第1月27日)です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・切手剥ぎ取り

 これは、1944年2月6日、アウシュヴィッツ収容所からベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領のプロスチェヨフ(ドイツ語名・プロスニッツ)宛に差し出された郵便物で、検閲のため収容所当局によって切手が剥がされたことを示す“DIE MARKEN WURDEN AMTLICH ABGENOMMEN”の印が押されています。

 アウシュヴィッツの収容者が差し出す郵便物の中には、収容所の検閲担当者が、貼られている切手を剥がして、切手の裏や切手の貼られている場所に秘密の通信が描かれていないかをチェックすることも行われました。その場合、担当者が元の位置に切手を貼りなおすこともあれば、切手を剥がしたままで配送に回すこともありました。現存するアウシュヴィッツ発着の郵便物に切手脱落のモノが多いのは、こうした事情によるものです。

 切手が剥がされた郵便物でも消印の一部はカバー上に残っていますから、受取人が不足料金が徴収されることはないのですが(そもそも、収容者は切手を貼らないと郵便物を差し出すことができません)、そうした状態の郵便物では、検閲の課程で切手が剥がされたのか、それとも、逓送途中ないしは到着後に切手が脱落したのか、識別は困難です。

 これに対して、今回ご紹介の郵便物のように、当局によって切手が剥がされたことを示す印が押されていれば、切手が脱落している理由がきちんとわかるのですが、こうした印が押されたカバーはきわめて少なく(おそらく数通しか確認されていないのではないかと思います)、僕も、最近になってようやく入手することができました。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History o Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の国際切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。そこで、2015年の拙著の増補改訂版を作ることになりました。詳細につきましては、随時、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

 誰もが一度は見たことがある、彼の肖像。
 革命家である彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
 切手や郵便物から彼の足跡を辿ります。

 詳細は特設サイトをご覧ください。

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ウクライナ新大統領にゼレンスキー氏
2019-04-23 Tue 02:58
 21日に投開票が行われたウクライナ大統領選挙の決選投票で、コメディー俳優で新人のボロディミル・ゼレンスキー氏(以下、敬称略)がペトロ・ポロシェンコ現大統領に大差を付けて勝利しました。ゼレンスキー氏は、ウクライナ国内ではマイノリティのユダヤ系ということなので、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツからウクライナ宛

 これは、1944年1月、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に派遣されていたウクライナ人スタッフが祖国宛に差し出したものの、おそらく戦闘が激化したために配達不能となり、差出人戻しとなった葉書です。

 現在のウクライナ国家に相当する地域は、かつて、ポーランド・リトアニア共和国の支配下で、多数のユダヤ人が生活していました。1795年の第3次ポーランド分割でポーランド・リトアニア共和国は完全に消滅し、ウクライナはロシアの支配下に入りますが、すでに1794年から建設が始まっていたウクライナ南部の港湾都市、オデッサとその周辺には多くのユダヤ人が住みつき(19世紀末にはオデッサ市の人口の3分の1がユダヤ人と言われるほどでした)、オデッサはロシア・ユダヤ文化の中心地となります。

 しかし、1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、首謀者はナロードニキ派で貴族出身の非ユダヤ人、ソフィア・ペロフスカヤだったにもかかわらず、犯人グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で事件はユダヤ人の陰謀とする煽動が行われ、ウクライナと南ロシアでポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動)が発生。以後、この地域では断続的にポグロムが発生し、多くのユダヤ人がウクライナから脱出していきました。ちなみに、映画やミュージカルで有名な「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、この時代のウクライナのユダヤ人家庭を舞台に、最終的に、彼らがポグロムによって故郷の村を追われるというストーリーになっています。(原作の小説では、主人公一家はイスラエルの地へ帰還する設定ですが、ミュージカルではニューヨークに向かうところで幕となります)

 1917年のロシア革命を経て、ソ連時代になると、ウクライナ人が激しく弾圧されたのに対して、ユダヤ人に対する弾圧は少なく、ユダヤ人の中には革命政府の要職に就く者も現れます。さらに、ウクライナ人ナショナリストの弾圧の実務責任者だったのが、ウクライナ出身のユダヤ人、カガノーヴィチだったこともあり、もともと反ユダヤ感情の強かったウクライナ人の間には、より強烈な反ユダヤ感情が沈殿していくことになります。

 こうした背景の下、1941年に始まる独ソ戦では、ドイツ側は「戦争の責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要がある」と主張し、ウクライナを占領。すると、反ソ・反ユダヤ感情の強かった地元のウクライナ人は、進駐してきたドイツ軍に対して、積極的に“ユダヤ人始末の権限”を要求し、多くのウクライナ人“補助警察官”が熱心に“ユダヤ人狩り”を推進しただけでなく、対独協力の一環として、多くのウクライナ人スタッフがアウシュヴィッツ等の収容所に派遣されていきました。

 特に、キエフ近郊のバビ・ヤールでは、1941年9月29-30日 ウクライナ警察の協力の下、ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告を信じて集められたユダヤ人3万7000人が徒歩で移動中に次々に射殺されたのを皮切りに、1943年までに10万人のユダヤ人が殺害されています。こうしたウクライナ人のあまりの暴挙に、一部の地域では、ユダヤ協会の指導者層がドイツ占領当局に「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情していたほどです。

 結局、独ソ戦開戦時の1941年には270万人いたとされるウクライナのユダヤ人のうち、ドイツ占領時代に犠牲になったユダヤ人は90万人とも推定されていますが、第二次大戦後の1949年には、多くのユダヤ人が「イスラエル(1948年建国)と通じている」との嫌疑をかけられ、粛清の大葬となりました、このため、第二次大戦後、最初の国勢調査が行われた1959年には、ウクライナのユダヤ人口は84万人にまで落ち込んでいます。

 フルシチョフによるスターリン批判以降、ユダヤ人が直接的な生命の危機にさらされる危険性は大きく減じられましたが、個別のユダヤ人として差別はソ連崩壊まで温存されます。今回、大統領選挙で当選したゼレンスキーは、こうした時代背景の下で、1978年、ユダヤ人家庭に生まれました。ちなみに、父親はドネツク・ソヴィエト貿易研究所(現・ドネツク国立経済貿易大学)の研究者、母親はエンジニアで、ユダヤ人への差別が比較的少ない職業でした。

 ソ連末期の1991年8月24日、ウクライナがソ連を離脱して再独立すると、過去の先例から、共産主義政権下で抑え込まれていたウクライナ民族主義の高揚に危機感を覚えたユダヤ人の出国(主な出国先はイスラエルです)が相次ぎ、2014年の国勢調査ではユダヤ人口は6万7000人にまで落ち込みました。

 このように、歴史的には反ユダヤ的な傾向がきわめて強かったウクライナですが、2016年4月10日、ソ連時代の1978年にウクライナのヴィーンヌィツャで生まれたユダヤ人、ヴォロディーミル・フロイスマンがウクライナの首相に就任。さらに、今回、ゼレンスキーが大統領に当選するなど、時代は確実に変化してきているようです。それでも、現在なお、ウクライナ国内では、ロシア人や外国人との混血など、生粋のウクライナ人以外の政治家等に対して、“ユダヤ人”とのネガティヴ・キャンペーンが展開されることもあるなど、ウクライナの反ユダヤ感情は抜きがたく残ってはいるのですが…。

 なお、アウシュヴィッツ関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(22日)、アクセスカウンターが204万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 4月28日(日)21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 
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 アウシュヴィッツ収容所跡で追悼式典
2019-01-28 Mon 00:43
 1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなむ“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”のきのう(27日)、ポーランド・オシフィエンチムのアウシュヴィッツ収容所跡で、毎年恒例の追悼式典が行われました。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・女性収容所(1942年11月23日)

 これは、1942年11月23日、ビルケナウの女性収容所から差し出された葉書で、タイプ3と呼ばれるフォーマットが使用されています。タイプ3は、収容所の銘が“F.K.L.Auschwitz”となっていますが、この“F.K.L.”は、女性収容所を意味する“Frauen Konzentrationslager”の略号です。なお、葉書の左側に印刷されている注意書等は、文字のフォントも含めてタイプ2の葉書と同じなので、両者はほぼ同時期に作成したのではないかと推測できます。

 第二次大戦が始まった時点で、ドイツの強制収容所のうち、主として女性収容者を拘束していたのは、ベルリンの北方約80キロ、メクレンブルク州のラーフェンスブリュック収容所でした。

 同収容所は、1938年末からザクセンハウゼン収容所の収容者を動員して建設が開始され、1939年5月13日、最初の収容者としてドイツ人女性860人、オーストリア人女性7人が移送されてきました。その後、9月の開戦を経て、同年末の時点で収容者数は1168人となりましたが、さらに戦線が拡大していったことで収容者の数も増加の一途をたどり、最終的には、総計23ヵ国12万3000人の女性がラーフェンスブリュック収容所に登録されました。

 このように、ラーフェンスブリュック収容所のキャパシティが限界に迫っていったことに加え、戦時下での労働力不足が深刻になっていたという状況もあり、当初は、“労働力にならない”として無条件に抹殺の対象となっていたユダヤ人女性に対しても、男性同様の“選別”の結果、強制労働が課されることになります。

 かくして、1942年3月26日、ラーフェンスブリュックから99人の“犯罪者と反社会分子”の女性(非ユダヤ人)がアウシュヴィッツに移送され、ひとまず、第1収容所1号棟から10号棟に入れられました。そして、同年8月初旬、ビルケナウの第2収容所内のBIa区域に30棟の収容棟が完成すると、最初に到着した99人を囚人頭として、1万3000人の女性がそこに移送されます。その後、1943年7月以降、ビルケナウではBIb区域が女性の収容区域となりました。

 ビルケナウの女性収容者は、収容所内の事務作業のほか、麦・野菜の栽培などの農作業や魚の養殖、家畜の飼育などを主として担当しましたが、屋外での作業は過酷で、働けなくなったと見なされた収容者は収容所内25号棟のガス室で殺されました。また、妊娠が判明するとフェノール注射で殺されたほか、人体実験の材料とされることもありました。

 ちなみに、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
     
 
★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 “ナチスばあちゃん”に禁錮2年6月
2018-08-08 Wed 01:17
 ナチス・ドイツによるホロコーストを何度も否定しては有罪判決を受け続け、“言論の自由”を理由に控訴していた“ナチスばあちゃん(Nazi Oma)”ことウルスラ・ハーバーベック被告(ドイツ人・89歳)の裁判で、ドイツ最高裁判所は、ホロコーストを否定する行為は言論の自由には該当せず、“治安を脅かしている”との裁定を下し、禁錮2年6月を言い渡しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツRSHA工作(赤印)

 これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の存在を外部に秘匿するための、いわゆる“RSHA郵便工作”によって差し出された葉書です。RSHA郵便工作で差し出された葉書に関しては、葉書のフォーマットや押されている印にバラエティがありますが、今回は、差出人の住所氏名記入欄が左上にあり、赤印が押されたモノをご紹介してみました。

 1942年1月に「ユダヤ人問題の最終解決」を策定して以降、ナチス・ドイツは本格的にユダヤ人絶滅政策に着手していくことになりますが、彼らは、自ら行っているユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出て、国際社会の指弾を受けることについてはできる限り避けたいと考えており、そのためのさまざまな偽装工作が行われました。

 その代表例が、ベーメン・メーレン保護領のボヘミア地方に置かれていたテレージエンシュタット(チェコ語名テレジーン)収容所でした。

 テレージエンシュタット収容所は、国際赤十字の視察調査を受け入れるための施設という色彩が強かったため、他の収容所より外観が丁寧に整えるなど、収容者を優遇していることを装う風が整えられていましたが、それでも、1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人が収容され、そのうち3万3000人以上が亡くなっています。この数字は、他の収容所よりは多少はましだったのかもしれませんが、それでも、過酷な状況であったことには変わりありません。

 このように、外部世界に対するショウ・ウィンドウとしてテレージエンシュタット収容所を作ってまで、自分たちの残虐行為を秘匿しようとしていたナチス・ドイツにとっては、最大規模の絶滅収容所である、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所は、その存在さえ、外部には知られたくないものでした。

 このため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの存在そのものの秘匿工作の一環として、1942年8月以降、“RSHA郵便工作”と呼ばれる偽装工作が開始されます。ちなみに、RSHAとは、ナチス親衛隊の12本部のうち、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔であった“国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)の略称です。

 RSHA郵便工作では、新たにアウシュヴィッツに到着した収容者に手紙を書かせる際、通常の収容者の葉書のように注意事項が印刷されてない用紙を支給し、差出人の住所としては強制収容所の施設名として一般に使われる“Konzentlationslager”ではなく、労働者が集団生活を行っているという意味で“Arbeitslager”が用いられています。

 なお、今回、有罪判決が確定した“ナチスばあちゃん”は、「アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所ではなく、強制労働所だった」と長年にわたって主張しており、そのことが今回の判決につながったわけですが、仮に、同収容所が純然たる“労働キャンプ(Arbeitslager)”であったとするなら、今回ご紹介しているようなRSHA郵便工作が行われる必要はないわけで、やはり、ホロコーストそのものを全否定しようとするその主張には無理があるでしょう。

 さて、RSHA郵便工作の一環として書かされた葉書は、収容者の健康状態が良好である、食事や居住環境などに不満はない、労働面でも厚遇されているといった類のもので、収容所におけるユダヤ人迫害を否定し、ナチスの“人道的措置”をアピールするものとなっています。この種の葉書を受け取ったユダヤ人の中には、同胞からの手紙の内容を信じて、アウシュヴィッツに行けばゲットーの中にいるよりも生活状況が改善されると思わされて、自らアウシュヴィッツ行を希望してしまった者さえ少なからずあったと報告されています。

 RSHA郵便工作では、主として、テレージエンシュタット収容所からビルケナウ収容所に移送されてきたばかりの収容者にこうした手紙を書かせていました。上述のように、テレージエンシュタットの収容者の待遇は、他の収容所に比べれば比較的良好でしたから、その経験の上に、ビルケナウでも屋内の軽作業に従事させてから手紙を書かせれば、「(他の人々の劣悪きわまる悲惨な状況に比べれば)自分たちは良い条件の下で働いている」との手紙の文面は、あながちウソではないとの収容所側の強弁も成立しないわけではないかもしれません。しかしながら、そうした手紙を書き終えた後、収容者たちの生活環境は一挙に暗転するのが常でした。

 さて、RSHA郵便工作の葉書はビルケナウからいったんベルリンに送られた後、そこで検閲を受けるとともに、いまだ収容所に移送されていない受取人の住所氏名をチェックしたうえで、返信時の注意を記した印を押され、国家保安本部によって6ペニヒ切手を貼られた後、ベルリン市内のシャルロッテンブルク2郵便局から発送されています。

 葉書に押されている印の文面は「葉書についての返信はドイツ語で、ベルリン市N65、イラニッシェ通り2番地のドイツ帝国ユダヤ人協会を通じてのみ受け付ける(Rückantwort nur auf/ Postkarten in deutscher Sprache/ über die/ Reichsvereinigung der Juden in Deutschland./ Berlin N65, Iranische Straße 2)」となっていますが、実際に、このルートで収容所の収容者に届けられた郵便物は確認されていません。なお、ドイツ帝国ユダヤ人協会は、オーストリアとベーメン・メーレン保護領を除くドイツ本国の“全ユダヤ人”が強制的に加入させられた組織で、1939年7月4日に創設され、国家保安本部が管轄していました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした郵便工作によってビルケナウの収容者がプラハ宛に差し出した葉書で、葉書が書かれたのは1944年3月25日、シャルロッテンブルク郵便局の消印は同年5月10日です。

 なお、アウシュヴィッツと郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 地元メディアの取材受けました!
2018-05-29 Tue 03:52
 27日に開幕した世界切手展<WSC Israel 2018>ですが、例によって、和装で会場内をふらふらしていたら、地元メディアの取材を受けることになりました。下の画像は、僕の作品 Postal History of Auschwitz 1939-1945 の前でのインタビュー風景です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル展・インタビュー

 まぁ、普段着の和装でエルサレム市内を歩いているというだけでも相当珍しいでしょうが、その男が、アウシュヴィッツの専門コレクションを出品しているとなれば、ローカルニュースのネタとしては面白いということになるのでしょう。

 さて、今回の作品は、昨年10月にブラジル・ブラジリアで開催された世界切手展<Brasilia 2018>に出品した作品の増補改訂版で、タイトル・リーフと全体の構成がわかるプランのページは下の画像の通りです。

      イスラエル展作品・タイトル  イスラエル展作品・プラン

 タイトル・リーフに展示しているのは、収容者が亡くなったことを家族に通知するため、1941年12月、アウシュヴィッツの収容所当局がクラクフ宛に差し出した電報です。アウシュヴィッツ関連のコレクションでは、こうした電報も集めるのがお約束ではあるのですが、通常の郵便物ではないため、作品中でどのように使ったらよいのか頭を悩ませるところです。そこで、今回のコレクションでは、作品全体を象徴するマテリアルということで、本体の内容とは無関係のタイトル・リーフに置いてみました。

 前回のブラジル展では、郵便史部門での国際展出品は初挑戦ということで、いろいろと勝手がわからず、構成・展開の面で、郵便史っぽくないところが少なからず見られるとの指摘がありました。そこで、今回は全面的に作品の構成を見直し、①ドイツによる占領以前、②同占領直後、③アウシュヴィッツ1局(収容所外)、④アウシュヴィッツ2局(第1および第2収容所)、⑤アウシュヴィッツ3局(モノヴィッツ収容所)、⑥解放直後、という章立ては残しつつも、前回は各章内は純粋な時系列順にしていたのをやめ、収容者の郵便、軍事郵便、到着便などに分類したうえで、時系列に沿って展開することにしました。また、それにあわせて書き込みの内容・スタイルも変更しています。

 なお、今回の展覧会に出品を申し込んだ時点では、僕の作品は“郵便史部門・欧州”でのエントリーだったのですが、その後、主催者側の判断で、“(開催国に所縁の)ナショナル・クラス”に変更になりました。当初の出品規則ではナショナル・クラスの対象は、“ホリーランド(地域概念としてのパレスチナ)”とされており、欧州大陸でのホロコースト関連の出品は含まれていませんでしたが、その後、建国70周年の記念イベントということもあって、ディアスポラからイスラエル建国へというイスラエルの歴史観を反映し、僕以外にも、ホロコースト関連の作品はすべてナショナル・クラスへの移動としたのでしょう。

 ちなみに、アウシュヴィッツの歴史とその郵便については、今回の出品作品の元になった拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 アウシュヴィッツ跡地で“生者の行進”
2018-04-13 Fri 13:42
 ポーランド南部オシフィエンチムにあるナチス・ドイツのアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所跡地で、きのう(12日)、ホロコーストの犠牲者を悼み、毎年恒例の“生者の行進”が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ葉・タイプ2(地名印)

 これは、1943年2月9日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がチェンストホヴァ宛に差し出した葉書で、タイプ2と呼ばれるフォーマットの葉書が使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者には、当初、専用の封筒と便箋が支給され、外部への通信用に用いられていました。しかし、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、アウシュヴィッツに移送されてくる収容者の数は激増。これに伴い、おそらく収容者に対して封筒と便箋を別々に支給する製造および管理コストを効率化するため、1942年に入ると、収容者には封筒と便箋に代えて、厚手の用紙を使った専用葉書が支給され、使用されるようになりました。

 収容者用の葉書には、当初、封筒のフォーマットをそのまま転用した文面を踏襲した“タイプ1”と呼ばれるものが使われていましたが、1943年になると、今回ご紹介のタイプ2の葉書が使用されるようになります。

 タイプ2の葉書は、収容所の銘が“Konz.-Lager Auschwitz”と省略形になっており、文字のフォントも変更されています。また、表面左側に印刷されている注意事項の文面では、封筒とタイプ1の葉書では収容者(複数形)を示す語として“Gefangenen”が用いられていたのに対して、タイプ2の葉書では“Häftlingen”の語が用いられています。ただし、これは文意を大きく変えるものではありません。

 内容的な変更としては、第1項のうち、封筒とタイプ1の葉書では、収容者宛の郵便物に同封できる切手が“12ペニヒのみ”とされているのに対して、タイプ2の葉書では“12ペニヒまたは6ペニヒ”に変更されており、収容者が葉書を差し出すことを想定した改定になっており、実際、この葉書にも6ペニヒ切手が発行されています。

 さて、“生者の行進”は、毎年、イスラエルのホロコース記念日(ヨム・ハショア。ユダヤ暦第1月27日)に、虐殺された人々を追悼するのみならず、“ユダヤの民の不死の魂について証言するため”に行われています。いまから30年前の1988年、ナチスによるユダヤ人虐殺はなかったと主張する人々に反論するために開始されたもので、当初は隔年開催で参加者もユダヤ人に限られていましたが、1995年から毎年開催となり、現在は、非ユダヤ人も参加しています。ちなみに、今年の行進には、ポーランドとイスラエルの派遣団を含む数千人が参加しました。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


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 国際ホロコースト記念日
2018-01-27 Sat 11:01
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      RSHA郵便工作・紫印

 これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の存在を外部に秘匿するための、いわゆる“RSHA郵便工作”によって差し出された葉書です。

 1942年1月に「ユダヤ人問題の最終解決」を策定して以降、ナチス・ドイツは本格的にユダヤ人絶滅政策に着手していくことになりますが、彼らは、自ら行っているユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出て、国際社会の指弾を受けることについてはできる限り避けたいと考えており、そのためのさまざまな偽装工作が行われました。

 その代表例が、ベーメン・メーレン保護領のボヘミア地方に置かれていたテレージエンシュタット(チェコ語名テレジーン)収容所でした。

 テレージエンシュタット収容所は、国際赤十字の視察調査を受け入れるための施設という色彩が強かったため、他の収容所より外観が丁寧に整えるなど、収容者を優遇していることを装う風が整えられていましたが、それでも、1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人が収容され、そのうち3万3000人以上が亡くなっています。この数字は、他の収容所よりは多少はましだったのかもしれませんが、それでも、過酷な状況であったことには変わりありません。

 このように、外部世界に対するショウ・ウィンドウとしてテレージエンシュタット収容所を作ってまで、自分たちの残虐行為を秘匿しようとしていたナチス・ドイツにとっては、最大規模の絶滅収容所である、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所は、その存在さえ、外部には知られたくないものでした。

 このため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの存在そのものの秘匿工作の一環として、1942年8月以降、“RSHA郵便工作”と呼ばれる偽装工作が開始されます。ちなみに、RSHAとは、ナチス親衛隊の12本部のうち、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔であった“国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)の略称です。

 RSHA郵便工作では、新たにアウシュヴィッツに到着した収容者に手紙を書かせる際、通常の収容者の葉書のように注意事項が印刷されてない用紙を支給し、差出人の住所としては強制収容所の施設名として一般に使われる“Konzentlationslager”ではなく、労働者が集団生活を行っているという意味で“Arbeitslager”が用いられています。

 工作活動の一環として書かされた手紙ですから、内容面でも、収容者の健康状態が良好である、食事や居住環境などに不満はない、労働面でも厚遇されているといった類のもので、収容所におけるユダヤ人迫害を否定し、ナチスの“人道的措置”をアピールするものとなっています。この種の葉書を受け取ったユダヤ人の中には、同胞からの手紙の内容を信じて、アウシュヴィッツに行けばゲットーの中にいるよりも生活状況が改善されると思わされて、自らアウシュヴィッツ行を希望してしまった者さえ少なからずあったと報告されています。

 RSHA郵便工作では、主として、テレージエンシュタット収容所からビルケナウ収容所に移送されてきたばかりの収容者にこうした手紙を書かせていました。上述のように、テレージエンシュタットの収容者の待遇は、他の収容所に比べれば比較的良好でしたから、その経験の上に、ビルケナウでも屋内の軽作業に従事させてから手紙を書かせれば、「(他の人々の劣悪きわまる悲惨な状況に比べれば)自分たちは良い条件の下で働いている」との手紙の文面は、あながちウソではないとの収容所側の強弁も成立しないわけではないかもしれません。しかしながら、そうした手紙を書き終えた後、収容者たちの生活環境は一挙に暗転するのが常でした。

 さて、RSHA郵便工作の葉書はビルケナウからいったんベルリンに送られた後、そこで検閲を受けるとともに、いまだ収容所に移送されていない受取人の住所氏名をチェックしたうえで、返信時の注意を記した紫色の印を押されて、ベルリン市内のシャルロッテンブルク郵便局に持ち込まれました。

 紫色の印の文面は「葉書についての返信はドイツ語で、ベルリン市N65、イラニッシェ通り2番地のドイツ帝国ユダヤ人協会を通じてのみ受け付ける(Rückantwort nur auf/ Postkarten in deutscher Sprache/ über die/ Reichsvereinigung der Juden in Deutschland./ Berlin N65, Iranische Straße 2)」となっていますが、実際に、このルートで収容所の収容者に届けられた郵便物は確認されていません。なお、ドイツ帝国ユダヤ人協会は、オーストリアとベーメン・メーレン保護領を除くドイツ本国の“全ユダヤ人”が強制的に加入させられた組織で、1939年7月4日に創設され、国家保安本部が管轄していました。

 郵便工作による郵便物は、ベルリンに運ばれた後、国家保安本部によって6ペニヒ切手を貼られた後、ベルリン・シャルロッテンブルク2郵便局から発送されました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした郵便工作によってビルケナウの収容者がブリュン宛に差し出した葉書で、葉書が書かれたのは1943年10月20日、シャルロッテンブルク郵便局の消印は同年11月15日である。宛先のブリュンは現在のチェコ共和国ブルノのこと。第一次大戦以前はハプスブルク帝国が支配していましたが、戦間期にチェコスロヴァキア領に編入されています。モラヴィアの中心都市でしたが、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体によりベーメン・メーレン保護領に編入。歴史的にはドイツ系住民が多かったため、周囲をチェコ語圏に囲まれたドイツ語の言語島を構成していましたが、第二次大戦後、この地域に住んでいたドイツ系住民は復活したチェコスロヴァキア政府により国外追放処分となりました。

 なお、葉書に押されている消印には、「食糧は武器だ(Nahrung ist Waffe)」と戦時下の食糧増産を訴えるスローガンが入っており、この点からも当時の世情がうかがえるのが興味深いところです。

 ちなみに、アウシュヴィッツと郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 113歳のアウシュヴィッツ生還者亡くなる
2017-08-12 Sat 10:46
 1903年生まれで、アウシュヴィッツを生き延びた世界最高齢のイスラエル人男性、イスラエル・クリスタルさんが、きのう(11日)亡くなりました。享年113歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうはアウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・レターシート(1945年)

 これは、1945年1月5日、アウシュヴィッツの収容者がポーランド南部のベンジン(ドイツ語名ベンズブルク)宛に差し出した郵便物で、収容者専用のレターシートが使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者の通信には専用の封筒・便箋・葉書が使用されていましたが、外部から差し入れられるなどして、通常の葉書等が用いられることもありました。その後、戦況の悪化に伴い、封筒と便箋が一体となったレターシートが使われるようになります。その後、1944年夏頃から、さらなる戦況の悪化に伴い、今回ご紹介の画像のような、さらに簡便化された2つ折り形式のレターシートが導入・使用されています。

 その後、1944年11月に入ると、ソ連軍の接近に伴い、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所からの撤収が開始されます。その際、病気などで移動が不可能と判断されたものを除き、6万以上の収容者が西方のヴォディスワフまで徒歩で行進させられ、そこからグロスローゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、マウトハウゼン等の各収容所に移送され、その過程で1万数千人が命を落としました。このため、1944年11月以降、アウシュヴィッツ発の郵便物は激減。特に、1945年1月27日にはソ連軍が進駐して収容所を“解放”するため、今回ご紹介の郵便物のように、1945年の発信は現存数は1桁レベルではないかと思います。

 ちなみに、1945年1月の収容所解放の時点で、アウシュヴィッツに残されていた収容者は7000人ですが、今回亡くなったイスラエル・クリスタルさんもそのうちの1人で、体重がわずか37キロと危機的な状態で救出されたそうです。 

 なお、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 ダッハウの門扉返還
2017-02-23 Thu 22:02
 ドイツ南部のダッハウ強制収容所跡から2014年11月に盗まれ、昨年12月、ノルウェー南西部のベルゲンで発見された“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言の入った鉄製の門扉の返還式典が、きのう(22日)、ダッハウの収容所跡で行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ダッハウ・1939年

 これは、1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者がウィーン宛に差し出したカバーです。

 1933年1月30日に政権を掌握したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、同年2月27日に起こった国会議事堂放火事件を奇禍として、翌28日、ヒンデンブルク大統領名で「民族と国家の防衛のための緊急令」を発し、警察に対して「好ましくない人物」を、期限を定めずに“保護拘禁”する権限を与えます。これにより、放火事件の犯人として逮捕したドイツ共産党員を対象として、オラニエンブルク(ベルリン中心部から北に35キロ、ハーフェル川沿の都市)にある電機会社の工場を改造して拘禁施設を設けました。これが、後に“オラニエンブルク強制収容所”と呼ばれる施設です。

 一方、これをほぼ時を同じくして、ミュンヘンの北西15キロにあるダッハウにも、1933年3月20日、第一次大戦中の火薬工場跡を利用して、Konzentrationslager、すなわち、集団生活所という名の強制収容所が設置されます。ちなみに、今回返還された門扉の“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言は、後に、アウシュヴィッツの門扉にも同様の文言が掲げられていたことから、ナチスの強制収容所と結び付けられることが多いのですが、この文言は、もともとは、1873年に発表されたロレンツ・ディーフェンバッハの小説のタイトルで、ワイマール共和国の時代には、失業対策として公共事業を拡充する際の標語としても使われていたこともあり、ナチスが考案したものではありません。

 なお、Konzentrationslagerという施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、ダッハウ収容所は1933年3月22日に開設され、翌23日には最初の収容者として60人の政治犯が送られてきましたが、同年5月には、収容されていた共産党の国会議員4名が殺害されたことから、初代所長のヒルマール・ヴェケルレは解任され、テオドール・アイケが着任。アイケは、同年10月1日、収容所規則を制定し、収容者を250人ずつのブロックに分けて管理する体制や収容者への罰則規定、さらに、収容者を処刑する際の基準(たとえば、収容所内での政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行などが、処刑に値する“罪”とされた)等を体系化します。これが、その後の各地の強制収容所の運営の基本的なモデルとなりました。

 今回ご紹介のカバーは、第二次大戦開戦以前の1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者が差し出したものですが、封筒は緑色の用紙で、中央には差出人(=収容者)の氏名、生年月日、収容所内の監房番号を書くスペースがあり、左側には、収容者と郵便物をやり取りする際の注意事項が6項目にわたって列挙されています。その概要は、以下の通りです。

 1.収容者は1月に2通の手紙もしくは2枚の葉書を親族に送り、または親族から受け取ることができる。収容者宛の通信はインクでよく読めるように書かねばならず、便箋1頁につき15行まで書いてよい。便箋は通常の大きさのもののみ認められる。二重封筒の使用は認めない。12ペニヒ切手5枚のみ同封できる。それ以外のものは禁止されており、没収の対象となる。葉書は10行まで記載してよい。写真を葉書として使うことは認められない。
 2.(収容者への)送金は認められる
 3.新聞(の購読)は認められるが、収容所当局を通して注文しなければならない。
 4.収容者は収容所内で何でも買うことができるので、収容者宛に小包を送ることは認められない。
 5.収容者の釈放に関する嘆願は受け付けない。
 6.収容者への面会や収容者との会話は原則として認められない。

 また、注意書きの末尾には、これらの要件を満たさない通信は廃棄されることが明記されています。この封筒のフォーマットは、アウシュヴィッツを含め、ナチス支配下の多くの収容所で収容者に支給される郵便用の用紙類の基本形のひとつとなります。このことは、郵便の面でも、ダッハウが収容所のモデルとなっていたことをうかがわせるものといえましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。  

 * 本日、アクセスカウンターが176万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 エリ・ウィーゼル、亡くなる
2016-07-04 Mon 09:41
 アウシュヴィッツを生き延び、ホロコーストを題材にした著作を多数発表したことで、1986年にノーベル平和賞を受賞した米国籍の作家、エリ・ウィーゼル氏が、2日(米国時間)、ニューヨークの自宅で亡くなりました。享年87。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうは、アウシュヴィッツ関連のネタの中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      モノヴィッツ・6条タイプ

 これは、1944年9月30日、アウシュヴィッツ収容所のうち、モノヴィッツ(ポーランド語名モノビツェ)に置かれていた第3収容所の収容者が差し出したカバーです。第二次大戦中のアウシュヴィッツ収容所関連の郵便物には、“AUSCHWITZ(OBERSCHLES)”と表示された郵便印が押されていますが、局名の後ろには1から3までの番号が振られています。このうち、モノヴィッツの第3収容所関連の郵便物には、今回ご紹介のカバーに見られるように、“AUSCHWITZ(OBERSCHLES)3”の消印が使用されています。

 アウシュヴィッツ収容所のうち、ビルケナウの第2収容所がユダヤ人等の虐殺に力点を置いていた“絶滅収容所”の性格が強かったのに対して、第1収容所から東に7キロほどの地点に、イーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)の工場に隣接して設けられたモノヴィッツの第3収容所は、収容者の安価な労働力を工場に動員するための施設でした。

 IGファルベンは、第一次大戦後の1925年、ドイツの6大化学工業会社であるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業(現バスフ=BASF)、フリードリヒ・バイエル染料(現バイエル)、アグファ(現アグファ・ゲバルトの前身)、ワイラー・テル・メール化学、グリースハイム・エレクトロン化学工業、ヘキスト染料(現ヘキスト)の合同により生まれたトラストで、社名のIGは“利益共同体”の意味です。本社はフランクフルト・アム・マインにあり、資本金は11億マルクでした。

 ヒトラー政権が誕生する以前の1932年頃からナチスに接近し、ヒトラーが政権を掌握した後は、4ヵ年計画庁に技術者として多くの人材を送り込み、政権との関係を強化。1939年の第二次大戦勃発以降は戦争にも積極的に協力し、ユダヤ人の大量虐殺に使われた毒ガス、ツィクロンBは子会社のデゲッシュがパテントを有していました。

 IGファルベンとアウシュヴィッツとの密接な関係は、1941年1月、同社の役員だったオットー・アンブロスが現地を視察し、アウシュヴィッツ東郊のソワ川とヴィスワ川の合流地点に、700万マルクを投じて年間3万トンの生産能力を有する合成ゴム工場BUNAを建設することを決定したところから始まります。ちなみに、アウシュヴィッツ第1収容所でツィクロンBの人体実験が行われたのは、1941年9月のことでした。

 工場の建設は、私企業としてのIGファルベンの経済活動として進められましたが、ドイツ政府はこの計画を積極的に支援し、該当する土地から住民を退去させること、第1収容所から8000-1万2000人の労働者・作業員を派遣することを決定。3月下旬には、IGファルベンと収容所を管理していた親衛隊との間で協議が行われ、IGファルベンが未熟練労働者1人につき3マルク、熟練労働者1人につき4マルクを支払うこと、収容者の労働時間についても、夏季は1日10-11時間、冬季は1日9時間とすることが決められました。

 これを受けて、1941年4月7日、アウシュヴィッツ第1収容所の収容者たちを動員してのBUNAの建設作業が始まり、1942-44年にかけて、IGファルベンのほか、クルップやシーメンスなど、ドイツを代表する大企業の製造プラントなどに付随して、大小あわせて40の収容施設が作られ、多くの収容者が過酷な労働に従事させられました。これが、モノヴィッツの第3収容所です。

 第3収容所と隣接するプラント施設は、連合国の爆撃目標になったことに加え、1945年1月の解放後、ソ連軍によって破壊されたため、現在、その跡は残っていません。ちなみに、戦後、ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」を理由に、IGファルベンの役員や技術者など被告の24人全員が有罪となり、1948年には戦犯企業としてのIGファルベンは解体されています。

 なお、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 下記の通り、各地のよみうりカルチャーで公開講座を行います。ぜひ、ご参加ください。

 ・切手でたどる東京五輪とその時代
 よみうりカルチャー荻窪 7/9(土) 13:00~14:30

 詳細につきましては、それぞれの会場・時間をクリックしてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★

 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

       全日展2016チラシ

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『ペニー・ブラック物語』  好評発売中! ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


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