内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 地元メディアの取材受けました!
2018-05-29 Tue 03:52
 27日に開幕した世界切手展<WSC Israel 2018>ですが、例によって、和装で会場内をふらふらしていたら、地元メディアの取材を受けることになりました。下の画像は、僕の作品 Postal History of Auschwitz 1939-1945 の前でのインタビュー風景です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル展・インタビュー

 まぁ、普段着の和装でエルサレム市内を歩いているというだけでも相当珍しいでしょうが、その男が、アウシュヴィッツの専門コレクションを出品しているとなれば、ローカルニュースのネタとしては面白いということになるのでしょう。

 さて、今回の作品は、昨年10月にブラジル・ブラジリアで開催された世界切手展<Brasilia 2018>に出品した作品の増補改訂版で、タイトル・リーフと全体の構成がわかるプランのページは下の画像の通りです。

      イスラエル展作品・タイトル  イスラエル展作品・プラン

 タイトル・リーフに展示しているのは、収容者が亡くなったことを家族に通知するため、1941年12月、アウシュヴィッツの収容所当局がクラクフ宛に差し出した電報です。アウシュヴィッツ関連のコレクションでは、こうした電報も集めるのがお約束ではあるのですが、通常の郵便物ではないため、作品中でどのように使ったらよいのか頭を悩ませるところです。そこで、今回のコレクションでは、作品全体を象徴するマテリアルということで、本体の内容とは無関係のタイトル・リーフに置いてみました。

 前回のブラジル展では、郵便史部門での国際展出品は初挑戦ということで、いろいろと勝手がわからず、構成・展開の面で、郵便史っぽくないところが少なからず見られるとの指摘がありました。そこで、今回は全面的に作品の構成を見直し、①ドイツによる占領以前、②同占領直後、③アウシュヴィッツ1局(収容所外)、④アウシュヴィッツ2局(第1および第2収容所)、⑤アウシュヴィッツ3局(モノヴィッツ収容所)、⑥解放直後、という章立ては残しつつも、前回は各章内は純粋な時系列順にしていたのをやめ、収容者の郵便、軍事郵便、到着便などに分類したうえで、時系列に沿って展開することにしました。また、それにあわせて書き込みの内容・スタイルも変更しています。

 なお、今回の展覧会に出品を申し込んだ時点では、僕の作品は“郵便史部門・欧州”でのエントリーだったのですが、その後、主催者側の判断で、“(開催国に所縁の)ナショナル・クラス”に変更になりました。当初の出品規則ではナショナル・クラスの対象は、“ホリーランド(地域概念としてのパレスチナ)”とされており、欧州大陸でのホロコースト関連の出品は含まれていませんでしたが、その後、建国70周年の記念イベントということもあって、ディアスポラからイスラエル建国へというイスラエルの歴史観を反映し、僕以外にも、ホロコースト関連の作品はすべてナショナル・クラスへの移動としたのでしょう。

 ちなみに、アウシュヴィッツの歴史とその郵便については、今回の出品作品の元になった拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 アウシュヴィッツ跡地で“生者の行進”
2018-04-13 Fri 13:42
 ポーランド南部オシフィエンチムにあるナチス・ドイツのアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所跡地で、きのう(12日)、ホロコーストの犠牲者を悼み、毎年恒例の“生者の行進”が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ葉・タイプ2(地名印)

 これは、1943年2月9日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がチェンストホヴァ宛に差し出した葉書で、タイプ2と呼ばれるフォーマットの葉書が使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者には、当初、専用の封筒と便箋が支給され、外部への通信用に用いられていました。しかし、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、アウシュヴィッツに移送されてくる収容者の数は激増。これに伴い、おそらく収容者に対して封筒と便箋を別々に支給する製造および管理コストを効率化するため、1942年に入ると、収容者には封筒と便箋に代えて、厚手の用紙を使った専用葉書が支給され、使用されるようになりました。

 収容者用の葉書には、当初、封筒のフォーマットをそのまま転用した文面を踏襲した“タイプ1”と呼ばれるものが使われていましたが、1943年になると、今回ご紹介のタイプ2の葉書が使用されるようになります。

 タイプ2の葉書は、収容所の銘が“Konz.-Lager Auschwitz”と省略形になっており、文字のフォントも変更されています。また、表面左側に印刷されている注意事項の文面では、封筒とタイプ1の葉書では収容者(複数形)を示す語として“Gefangenen”が用いられていたのに対して、タイプ2の葉書では“Häftlingen”の語が用いられています。ただし、これは文意を大きく変えるものではありません。

 内容的な変更としては、第1項のうち、封筒とタイプ1の葉書では、収容者宛の郵便物に同封できる切手が“12ペニヒのみ”とされているのに対して、タイプ2の葉書では“12ペニヒまたは6ペニヒ”に変更されており、収容者が葉書を差し出すことを想定した改定になっており、実際、この葉書にも6ペニヒ切手が発行されています。

 さて、“生者の行進”は、毎年、イスラエルのホロコース記念日(ヨム・ハショア。ユダヤ暦第1月27日)に、虐殺された人々を追悼するのみならず、“ユダヤの民の不死の魂について証言するため”に行われています。いまから30年前の1988年、ナチスによるユダヤ人虐殺はなかったと主張する人々に反論するために開始されたもので、当初は隔年開催で参加者もユダヤ人に限られていましたが、1995年から毎年開催となり、現在は、非ユダヤ人も参加しています。ちなみに、今年の行進には、ポーランドとイスラエルの派遣団を含む数千人が参加しました。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 


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 国際ホロコースト記念日
2018-01-27 Sat 11:01
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      RSHA郵便工作・紫印

 これは、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所の存在を外部に秘匿するための、いわゆる“RSHA郵便工作”によって差し出された葉書です。

 1942年1月に「ユダヤ人問題の最終解決」を策定して以降、ナチス・ドイツは本格的にユダヤ人絶滅政策に着手していくことになりますが、彼らは、自ら行っているユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出て、国際社会の指弾を受けることについてはできる限り避けたいと考えており、そのためのさまざまな偽装工作が行われました。

 その代表例が、ベーメン・メーレン保護領のボヘミア地方に置かれていたテレージエンシュタット(チェコ語名テレジーン)収容所でした。

 テレージエンシュタット収容所は、国際赤十字の視察調査を受け入れるための施設という色彩が強かったため、他の収容所より外観が丁寧に整えるなど、収容者を優遇していることを装う風が整えられていましたが、それでも、1941年11月24日から1945年4月20日までの間、総計14万人以上のユダヤ人が収容され、そのうち3万3000人以上が亡くなっています。この数字は、他の収容所よりは多少はましだったのかもしれませんが、それでも、過酷な状況であったことには変わりありません。

 このように、外部世界に対するショウ・ウィンドウとしてテレージエンシュタット収容所を作ってまで、自分たちの残虐行為を秘匿しようとしていたナチス・ドイツにとっては、最大規模の絶滅収容所である、ビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所は、その存在さえ、外部には知られたくないものでした。

 このため、アウシュヴィッツ・ビルケナウの存在そのものの秘匿工作の一環として、1942年8月以降、“RSHA郵便工作”と呼ばれる偽装工作が開始されます。ちなみに、RSHAとは、ナチス親衛隊の12本部のうち、ドイツ本国およびドイツ占領地の敵性分子を諜報・摘発・排除する政治警察機構の司令塔であった“国家保安本部(Reichssicherheitshauptamt der SS)の略称です。

 RSHA郵便工作では、新たにアウシュヴィッツに到着した収容者に手紙を書かせる際、通常の収容者の葉書のように注意事項が印刷されてない用紙を支給し、差出人の住所としては強制収容所の施設名として一般に使われる“Konzentlationslager”ではなく、労働者が集団生活を行っているという意味で“Arbeitslager”が用いられています。

 工作活動の一環として書かされた手紙ですから、内容面でも、収容者の健康状態が良好である、食事や居住環境などに不満はない、労働面でも厚遇されているといった類のもので、収容所におけるユダヤ人迫害を否定し、ナチスの“人道的措置”をアピールするものとなっています。この種の葉書を受け取ったユダヤ人の中には、同胞からの手紙の内容を信じて、アウシュヴィッツに行けばゲットーの中にいるよりも生活状況が改善されると思わされて、自らアウシュヴィッツ行を希望してしまった者さえ少なからずあったと報告されています。

 RSHA郵便工作では、主として、テレージエンシュタット収容所からビルケナウ収容所に移送されてきたばかりの収容者にこうした手紙を書かせていました。上述のように、テレージエンシュタットの収容者の待遇は、他の収容所に比べれば比較的良好でしたから、その経験の上に、ビルケナウでも屋内の軽作業に従事させてから手紙を書かせれば、「(他の人々の劣悪きわまる悲惨な状況に比べれば)自分たちは良い条件の下で働いている」との手紙の文面は、あながちウソではないとの収容所側の強弁も成立しないわけではないかもしれません。しかしながら、そうした手紙を書き終えた後、収容者たちの生活環境は一挙に暗転するのが常でした。

 さて、RSHA郵便工作の葉書はビルケナウからいったんベルリンに送られた後、そこで検閲を受けるとともに、いまだ収容所に移送されていない受取人の住所氏名をチェックしたうえで、返信時の注意を記した紫色の印を押されて、ベルリン市内のシャルロッテンブルク郵便局に持ち込まれました。

 紫色の印の文面は「葉書についての返信はドイツ語で、ベルリン市N65、イラニッシェ通り2番地のドイツ帝国ユダヤ人協会を通じてのみ受け付ける(Rückantwort nur auf/ Postkarten in deutscher Sprache/ über die/ Reichsvereinigung der Juden in Deutschland./ Berlin N65, Iranische Straße 2)」となっていますが、実際に、このルートで収容所の収容者に届けられた郵便物は確認されていません。なお、ドイツ帝国ユダヤ人協会は、オーストリアとベーメン・メーレン保護領を除くドイツ本国の“全ユダヤ人”が強制的に加入させられた組織で、1939年7月4日に創設され、国家保安本部が管轄していました。

 郵便工作による郵便物は、ベルリンに運ばれた後、国家保安本部によって6ペニヒ切手を貼られた後、ベルリン・シャルロッテンブルク2郵便局から発送されました。

 今回ご紹介の葉書は、そうした郵便工作によってビルケナウの収容者がブリュン宛に差し出した葉書で、葉書が書かれたのは1943年10月20日、シャルロッテンブルク郵便局の消印は同年11月15日である。宛先のブリュンは現在のチェコ共和国ブルノのこと。第一次大戦以前はハプスブルク帝国が支配していましたが、戦間期にチェコスロヴァキア領に編入されています。モラヴィアの中心都市でしたが、ナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体によりベーメン・メーレン保護領に編入。歴史的にはドイツ系住民が多かったため、周囲をチェコ語圏に囲まれたドイツ語の言語島を構成していましたが、第二次大戦後、この地域に住んでいたドイツ系住民は復活したチェコスロヴァキア政府により国外追放処分となりました。

 なお、葉書に押されている消印には、「食糧は武器だ(Nahrung ist Waffe)」と戦時下の食糧増産を訴えるスローガンが入っており、この点からも当時の世情がうかがえるのが興味深いところです。

 ちなみに、アウシュヴィッツと郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 113歳のアウシュヴィッツ生還者亡くなる
2017-08-12 Sat 10:46
 1903年生まれで、アウシュヴィッツを生き延びた世界最高齢のイスラエル人男性、イスラエル・クリスタルさんが、きのう(11日)亡くなりました。享年113歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうはアウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・レターシート(1945年)

 これは、1945年1月5日、アウシュヴィッツの収容者がポーランド南部のベンジン(ドイツ語名ベンズブルク)宛に差し出した郵便物で、収容者専用のレターシートが使用されています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィツェ(ドイツ語名モノヴィッツ)に第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者の通信には専用の封筒・便箋・葉書が使用されていましたが、外部から差し入れられるなどして、通常の葉書等が用いられることもありました。その後、戦況の悪化に伴い、封筒と便箋が一体となったレターシートが使われるようになります。その後、1944年夏頃から、さらなる戦況の悪化に伴い、今回ご紹介の画像のような、さらに簡便化された2つ折り形式のレターシートが導入・使用されています。

 その後、1944年11月に入ると、ソ連軍の接近に伴い、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所からの撤収が開始されます。その際、病気などで移動が不可能と判断されたものを除き、6万以上の収容者が西方のヴォディスワフまで徒歩で行進させられ、そこからグロスローゼン、ブーヘンヴァルト、ダッハウ、マウトハウゼン等の各収容所に移送され、その過程で1万数千人が命を落としました。このため、1944年11月以降、アウシュヴィッツ発の郵便物は激減。特に、1945年1月27日にはソ連軍が進駐して収容所を“解放”するため、今回ご紹介の郵便物のように、1945年の発信は現存数は1桁レベルではないかと思います。

 ちなみに、1945年1月の収容所解放の時点で、アウシュヴィッツに残されていた収容者は7000人ですが、今回亡くなったイスラエル・クリスタルさんもそのうちの1人で、体重がわずか37キロと危機的な状態で救出されたそうです。 

 なお、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 ダッハウの門扉返還
2017-02-23 Thu 22:02
 ドイツ南部のダッハウ強制収容所跡から2014年11月に盗まれ、昨年12月、ノルウェー南西部のベルゲンで発見された“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言の入った鉄製の門扉の返還式典が、きのう(22日)、ダッハウの収容所跡で行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ダッハウ・1939年

 これは、1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者がウィーン宛に差し出したカバーです。

 1933年1月30日に政権を掌握したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、同年2月27日に起こった国会議事堂放火事件を奇禍として、翌28日、ヒンデンブルク大統領名で「民族と国家の防衛のための緊急令」を発し、警察に対して「好ましくない人物」を、期限を定めずに“保護拘禁”する権限を与えます。これにより、放火事件の犯人として逮捕したドイツ共産党員を対象として、オラニエンブルク(ベルリン中心部から北に35キロ、ハーフェル川沿の都市)にある電機会社の工場を改造して拘禁施設を設けました。これが、後に“オラニエンブルク強制収容所”と呼ばれる施設です。

 一方、これをほぼ時を同じくして、ミュンヘンの北西15キロにあるダッハウにも、1933年3月20日、第一次大戦中の火薬工場跡を利用して、Konzentrationslager、すなわち、集団生活所という名の強制収容所が設置されます。ちなみに、今回返還された門扉の“働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)”の文言は、後に、アウシュヴィッツの門扉にも同様の文言が掲げられていたことから、ナチスの強制収容所と結び付けられることが多いのですが、この文言は、もともとは、1873年に発表されたロレンツ・ディーフェンバッハの小説のタイトルで、ワイマール共和国の時代には、失業対策として公共事業を拡充する際の標語としても使われていたこともあり、ナチスが考案したものではありません。

 なお、Konzentrationslagerという施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、ダッハウ収容所は1933年3月22日に開設され、翌23日には最初の収容者として60人の政治犯が送られてきましたが、同年5月には、収容されていた共産党の国会議員4名が殺害されたことから、初代所長のヒルマール・ヴェケルレは解任され、テオドール・アイケが着任。アイケは、同年10月1日、収容所規則を制定し、収容者を250人ずつのブロックに分けて管理する体制や収容者への罰則規定、さらに、収容者を処刑する際の基準(たとえば、収容所内での政治的扇動やデマ、破壊活動、反逆的行為、脱走、看守への暴行などが、処刑に値する“罪”とされた)等を体系化します。これが、その後の各地の強制収容所の運営の基本的なモデルとなりました。

 今回ご紹介のカバーは、第二次大戦開戦以前の1939年3月22日、ダッハウ収容所の収容者が差し出したものですが、封筒は緑色の用紙で、中央には差出人(=収容者)の氏名、生年月日、収容所内の監房番号を書くスペースがあり、左側には、収容者と郵便物をやり取りする際の注意事項が6項目にわたって列挙されています。その概要は、以下の通りです。

 1.収容者は1月に2通の手紙もしくは2枚の葉書を親族に送り、または親族から受け取ることができる。収容者宛の通信はインクでよく読めるように書かねばならず、便箋1頁につき15行まで書いてよい。便箋は通常の大きさのもののみ認められる。二重封筒の使用は認めない。12ペニヒ切手5枚のみ同封できる。それ以外のものは禁止されており、没収の対象となる。葉書は10行まで記載してよい。写真を葉書として使うことは認められない。
 2.(収容者への)送金は認められる
 3.新聞(の購読)は認められるが、収容所当局を通して注文しなければならない。
 4.収容者は収容所内で何でも買うことができるので、収容者宛に小包を送ることは認められない。
 5.収容者の釈放に関する嘆願は受け付けない。
 6.収容者への面会や収容者との会話は原則として認められない。

 また、注意書きの末尾には、これらの要件を満たさない通信は廃棄されることが明記されています。この封筒のフォーマットは、アウシュヴィッツを含め、ナチス支配下の多くの収容所で収容者に支給される郵便用の用紙類の基本形のひとつとなります。このことは、郵便の面でも、ダッハウが収容所のモデルとなっていたことをうかがわせるものといえましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。  

 * 本日、アクセスカウンターが176万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 エリ・ウィーゼル、亡くなる
2016-07-04 Mon 09:41
 アウシュヴィッツを生き延び、ホロコーストを題材にした著作を多数発表したことで、1986年にノーベル平和賞を受賞した米国籍の作家、エリ・ウィーゼル氏が、2日(米国時間)、ニューヨークの自宅で亡くなりました。享年87。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうは、アウシュヴィッツ関連のネタの中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      モノヴィッツ・6条タイプ

 これは、1944年9月30日、アウシュヴィッツ収容所のうち、モノヴィッツ(ポーランド語名モノビツェ)に置かれていた第3収容所の収容者が差し出したカバーです。第二次大戦中のアウシュヴィッツ収容所関連の郵便物には、“AUSCHWITZ(OBERSCHLES)”と表示された郵便印が押されていますが、局名の後ろには1から3までの番号が振られています。このうち、モノヴィッツの第3収容所関連の郵便物には、今回ご紹介のカバーに見られるように、“AUSCHWITZ(OBERSCHLES)3”の消印が使用されています。

 アウシュヴィッツ収容所のうち、ビルケナウの第2収容所がユダヤ人等の虐殺に力点を置いていた“絶滅収容所”の性格が強かったのに対して、第1収容所から東に7キロほどの地点に、イーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)の工場に隣接して設けられたモノヴィッツの第3収容所は、収容者の安価な労働力を工場に動員するための施設でした。

 IGファルベンは、第一次大戦後の1925年、ドイツの6大化学工業会社であるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業(現バスフ=BASF)、フリードリヒ・バイエル染料(現バイエル)、アグファ(現アグファ・ゲバルトの前身)、ワイラー・テル・メール化学、グリースハイム・エレクトロン化学工業、ヘキスト染料(現ヘキスト)の合同により生まれたトラストで、社名のIGは“利益共同体”の意味です。本社はフランクフルト・アム・マインにあり、資本金は11億マルクでした。

 ヒトラー政権が誕生する以前の1932年頃からナチスに接近し、ヒトラーが政権を掌握した後は、4ヵ年計画庁に技術者として多くの人材を送り込み、政権との関係を強化。1939年の第二次大戦勃発以降は戦争にも積極的に協力し、ユダヤ人の大量虐殺に使われた毒ガス、ツィクロンBは子会社のデゲッシュがパテントを有していました。

 IGファルベンとアウシュヴィッツとの密接な関係は、1941年1月、同社の役員だったオットー・アンブロスが現地を視察し、アウシュヴィッツ東郊のソワ川とヴィスワ川の合流地点に、700万マルクを投じて年間3万トンの生産能力を有する合成ゴム工場BUNAを建設することを決定したところから始まります。ちなみに、アウシュヴィッツ第1収容所でツィクロンBの人体実験が行われたのは、1941年9月のことでした。

 工場の建設は、私企業としてのIGファルベンの経済活動として進められましたが、ドイツ政府はこの計画を積極的に支援し、該当する土地から住民を退去させること、第1収容所から8000-1万2000人の労働者・作業員を派遣することを決定。3月下旬には、IGファルベンと収容所を管理していた親衛隊との間で協議が行われ、IGファルベンが未熟練労働者1人につき3マルク、熟練労働者1人につき4マルクを支払うこと、収容者の労働時間についても、夏季は1日10-11時間、冬季は1日9時間とすることが決められました。

 これを受けて、1941年4月7日、アウシュヴィッツ第1収容所の収容者たちを動員してのBUNAの建設作業が始まり、1942-44年にかけて、IGファルベンのほか、クルップやシーメンスなど、ドイツを代表する大企業の製造プラントなどに付随して、大小あわせて40の収容施設が作られ、多くの収容者が過酷な労働に従事させられました。これが、モノヴィッツの第3収容所です。

 第3収容所と隣接するプラント施設は、連合国の爆撃目標になったことに加え、1945年1月の解放後、ソ連軍によって破壊されたため、現在、その跡は残っていません。ちなみに、戦後、ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判では「人道に対する罪」を理由に、IGファルベンの役員や技術者など被告の24人全員が有罪となり、1948年には戦犯企業としてのIGファルベンは解体されています。

 なお、アウシュヴィッツの収容者が差し出した郵便物と、そこからみえてくる収容所内の生活については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 イースター・ポスト
2016-03-27 Sun 16:51
 きょう(27日)はイースターです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴォルテンベルク収容所切手(1942・イースター)

 これは、1942年4月5日、ヴォルテンベルク捕虜収容所で発行された“イースター・ポスト”用の切手です。

 1939年9月、ドイツ軍がポーランドを占領すると、42万人のポーランド軍兵士と2万人の将校が捕虜となり、その収容施設の確保が深刻な問題となりました。当初、捕虜たちはテント村を含め28カ所に分けて収容されていましたが、1942年以降、収容所はヴォルテンベルク(現ポーランド:ドビエグニエフ)、ノイブランデンブルク(ドイツ・メクレンブルク=フォアポンメルン州)、グロス・ボルン(現ポーランド:ボルネ・スリノヴォ)、ドッセル(ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州)、ムルナウ・アム・スタッフェルゼー(ドイツ・バイエルン州)の5ヵ所に集約されました。

 そうしたなかで、ヴォルテンベルク収容所では、1942年4月5-7日のイースター期間にあわせて、“イースター・ポスト”と称する実験的なローカル郵便が実施されます。

 イースター・ポストは、収容所内の捕虜同士がイースターのグリーティング・カードを有料で交換することを通じて、ポーランドの戦争未亡人・孤児のための募金を集めるという趣旨のもとに行われたもので、収容されている捕虜間の通信実験も兼ねていました。そして、その料金を徴収する手段として、4月5日、未亡人と孤児を描く“切手”が収容所内で製造されました。

 今回ご紹介の切手はそのうちの1枚で、ほかにも、同図案で赤、茶、灰緑、青など刷色の異なる切手が総計2万枚発行され、グリーティング・カード(こちらも収容所内で製造)の交換に用いられました。ちなみに、右上の“FWS”の表示は“未亡人・孤児基金”を意味するポーランド語“ Fundusz dla Wdów i Sierót”の頭文字で、切手上部の“Poczta obozowa”は“収容所郵便”を意味しています。

 この時のイースター・ポストがトラブルなく運営されたことを受けて、1942年5月7日以降、ヴォルテンベルク収容所内での日常的な通信手段として、ローカル郵便が正式に発足。その後、ノイブランデンブルク、グロス・ボルン、ムルナウ・アム・スタッフェルゼーの各収容所でも類似の制度が導入されました。ちなみに、ヴォルテンベルク収容所では、ソ連軍の接近に伴い、1945年1月28日に捕虜たちは西方に向けて移動させられますが、ローカル郵便は、その直前の1月25日まで扱われています。


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 アウシュヴィッツから世界最高齢に
2016-03-13 Sun 12:24
 英国のギネスワールドレコーズは、11日、ポーランド・ウッチ県出身で、アウシュヴィッツを生き延びた112歳のイスラエル人男性、イスラエル・クリスタルさん(1903年9月15日、ポーランド生まれ。ハイファ在住)が世界最高齢の男性であると正式に認定しました。クリスタルさんに関しては、今年1月、それまで世界最高齢の男性とされていた名古屋市の小出保太郎さんが亡くなったことに伴い、世界最高齢の男性になった可能性があることがわかっていましたが、確認作業に時間がかかっていました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツからリッツマンシュタット宛(1943年)

 これは、1943年3月14日差出(消印は同25日) アウシュヴィッツ収容所から、リッツマンシュタットのゲットー宛に差し出されたレターシートで、差出時のアウシュヴィッツ収容所のみならず、到着時のリッツマンシュタットでもゲシュタポの検閲を受けたことを示す印が宛名の真上に押されています。

 リッツマンシュタットはポーランド語名ウッチ。ポーランド中央部の都市で、第一次大戦以前はロシア帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915-18年のドイツ占領時代を経て、大戦後はポーランド第2共和国に編入されました。第二次大戦が勃発すると、1939年9月8日に占領され、ドイツ語名のリッツマンシュタットに改称されましたが、これは、第一次大戦中、この地を占領したドイツ軍の歩兵大将カール・リッツマンにちなむ命名です。

 1940年4月に設定されたリッツマンシュタットのゲットーには、もともと市内在住だった6万余のユダヤ人に加え、周辺からも約10万人のユダヤ人が移送され、5000人のロマを含む16万人以上が有刺鉄線の鉄条網に囲まれた空間に押し込められました。ゲットーには監視塔と検問所も置かれ、出入りは厳しく制限されており、ドイツによりユダヤ人評議会議長に任命されたモルデハイ・ハイム・ルムコフスキの下、統制経済が行われていました。事実上、外界から隔離された環境の中で、当初から食糧・医薬品は慢性的に不足しており、飢餓と疫病(結核、赤痢、チフスなど)が蔓延していましたが、1941年末にドイツ本国のみならずオーストリア・ルクセンブルク・ベーメン・メーレン保護領などから2万5000人のユダヤ人が移送されてきたため、事態はさらに悪化しています。

 ちなみに、今回世界最高齢となったクリスタルさんは、第二次大戦の勃発後、1943年に、家族とともにアウシュヴィッツに移送されました。

 さて、今回ご紹介のレターシートには、以下のような内容の文面が記されています。

 ①長い間、あなた(名宛人)の所在が分からなかったが、ようやく分かったので連絡した、②自分は健康である、③(アウシュヴィッツでは)月に1回、小包を受け取ることができるので皆にそのことを知らせてほしい、④通常、月給は40マルクだが、自分は55マルクである、⑤(そのお金で)焼き菓子、ナッツ、乾物などを(収容所内の売店で)購入して食べている、⑥あなたの様子を知らせてほしい。

 この文面を読む限り、差出人はリッツマンシュタットのゲットーが飢餓と疫病の蔓延する悲惨な状況にあるとは思っておらず、むしろ、名宛人の環境はアウシュヴィッツよりもはるかにましだと考え、自分に食糧など差し入れの小包を送ることが可能だと思っていたようにも受け取れます。また、収容者が収容所内で購入できる品目が具体的に挙げられているのも興味深いところです。

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 女性収容所からの葉書
2016-03-08 Tue 09:17
 きょう(8日)は国際女性デーです。というわけで、例年どおり、拙著の中から女性ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・女性収容所

 これは、ビルケナウの女性収容所から差し出された葉書で、タイプ3と呼ばれるフォーマットが使用されています。タイプ3は、収容所の銘が“F.K.L.Auschwitz”となっていますが、この“F.K.L.”は、女性収容所を意味する“Frauen Konzentrationslager”の略号です。

 第二次大戦が始まった時点で、ドイツの強制収容所のうち、主として女性収容者を拘束していたのは、ベルリンの北方約80キロ、メクレンブルク州のラーフェンスブリュック収容所でした。

 同収容所は、1938年末からザクセンハウゼン収容所の収容者を動員して建設が開始され、1939年5月13日、最初の収容者としてドイツ人女性860人、オーストリア人女性7人が移送されてきました。その後、9月の開戦を経て、同年末の時点で収容者数は1168人となりましたが、さらに戦線が拡大していったことで収容者の数も増加の一途をたどり、最終的には、総計23ヵ国12万3000人の女性がラーフェンスブリュック収容所に登録されました。

 このように、ラーフェンスブリュック収容所のキャパシティが限界に迫っていったことに加え、戦時下での労働力不足が深刻になっていたという状況もあり、当初は、“労働力にならない”として無条件に抹殺の対象となっていたユダヤ人女性に対しても、男性同様の“選別”の結果、強制労働が課されることになります。

 かくして、1942年3月26日、ラーフェンスブリュックから99人の“犯罪者と反社会分子”の女性(非ユダヤ人)がアウシュヴィッツに移送され、ひとまず、第1収容所1号棟から10号棟に入れられました。そして、同年8月初旬、ビルケナウの第2収容所内のBIa区域に30棟の収容棟が完成すると、最初に到着した99人を囚人頭として、1万3000人の女性がそこに移送されます。その後、1943年7月以降、ビルケナウではBIb区域が女性の収容区域となりました。

 ビルケナウの女性収容者は、収容所内の事務作業のほか、麦・野菜の栽培などの農作業や魚の養殖、家畜の飼育などを主として担当しましたが、屋外での作業は過酷で、働けなくなったと見なされた収容者は収容所内25号棟のガス室で殺されました。また、妊娠が判明するとフェノール注射で殺されたほか、人体実験の材料とされることもありました。

 今回ご紹介の葉書は、裏面の書き込みによると、1943年8月14日に差し出されたものですが、残念ながら消印は押されていません。なお、葉書の左側に印刷されている注意書等は、文字のフォントも含めてタイプ2の葉書と同じなので、両者はほぼ同時期に作成したのではないかと推測できます。

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 アウシュヴィッツを生き延びて112年
2016-01-25 Mon 11:43
 今月19日、それまで世界最高齢の男性とされていた名古屋市の小出保太郎さんが亡くなったことに伴い、アウシュヴィッツを生き延びた112歳のイスラエル人男性、イスラエル・クリスタルさん(1903年9月15日、ポーランド生まれ)が世界最高齢の男性になった可能性があることが、昨日(24日)までに明らかになりました。というわけで、きょうはクリスタルさんと同い年の人がアウシュヴィッツから差し出したカバーをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ封筒・15ペニヒ貼

 これは、1941年2月11日、アウシュヴィッツ収容所からヴァドヴィツェ(クラクフから50 kmの地点にある都市で、ローマ教皇ヨハネパウロ2世の出身地として有名)宛に差し出されたカバーです。封筒の書き込みによれば、差出人(収容者)の誕生日は1903年10月1日ですから、今回話題となったクリスタルさんの誕生日とは半月ちがいということになります。

 1940年に開設されたアウシュヴィッツ収容所では、収容者には、当初、専用の封筒と便箋が支給され、外部への通信用に用いられていました。しかし、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、アウシュヴィッツに移送されてくる収容者の数は激増。これに伴い、おそらく収容者に対して封筒と便箋を別々に支給する製造および管理コストを効率化するため、1942年に入ると、収容者には封筒と便箋に代えて、厚手の用紙を使った専用葉書が支給され、使用されてるようになりました。

 収容者が郵便物を差し出す形式が封筒(と便箋)から葉書に切り替えられた正確な日時は不明ですが、すでに1942年2月上旬には葉書の使用も始まっていますので、今回ご紹介のカバーは、封筒(と便箋)の使用例としては、かなり遅い時期のものの一つと言ってよいかと思います。

 なお、封筒にはヒンデンブルグの15ペニヒ切手が貼られていますが、当時の郵便料金としては12ペニヒが正しく3ペニヒ過貼となります。封筒の左側に印刷されている規定によれば、外部から収容者宛の郵便物には12ペニヒ切手5枚しか同封できないことになっていますが、実際に収容者宛の郵便物に返信用としてその他の額面の切手が同封されていた場合には、収容所当局もそれらを使用することを黙認していました。今回ご紹介のカバーについても、差出人は差し入れの15ペニヒ切手をそのまま使ったモノと考えられます。
 
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 2月9日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。


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