内藤陽介 Yosuke NAITO
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 UAE成立以前の郵便と社会
2016-04-13 Wed 22:39
 日本アラブ首長国連邦協会の機関誌『UAE』第59号(2016年春号)が発行されました。同誌には僕も「UAE成立以前の郵便と社会(1964年まで)」と題する一文を寄稿していますので、きょうは、その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ドバイWWII検閲表  ドバイWWII検閲裏

 これは、第二次大戦中の1943年にドバイからボンベイ宛の航空便です。

 1939年9月に第二次大戦が勃発すると、ドバイならびにシャルジャの空港は連合国の軍用に供されて、米英軍機の中継地として用いられ、1940-45年の間に軍用機を含む飛行機墜落事故が5件起きています。しかし、ペルシャ湾岸は直接の戦場になったわけではありませんから、休戦協定諸国の一般住民が日常生活で“戦争”を強く意識することはほとんどなかったものと思われます。

 ただし、ドバイの郵便局は英領インド郵政の管轄下にあったことから、ドバイ発着の郵便物にも、英領インド域内共通の戦時統制が課せられていました。

 たとえば、今回ご紹介のカバーは、第二次大戦中の1943年10月、ドバイからボンベイ宛に差し出されたエアメールですが、宛名の上部に“English(Commercial)”との表示があります。

 第二次大戦中の英領では、域外宛の郵便物の一部を逓送途中で抜き取り、検閲官が開封してチェックしていましたが、検閲は文面に記載されている言語ごとに別の担当者が行っていたため、封筒の表面などには同封の手紙がどの言語で書かれているかを明記することが義務づけられていました。この郵便物の場合は、内容文が英語の商用文であることを示す“English(Commercial)”の表示と、宛名のインクや筆跡が異なっていることから、あるいは、郵便局の窓口で局員が差出人に中の手紙の言語を聞いてから記したのかもしれません。

 また、封筒の左側には、郵便物を開封・検閲した後に、検閲当局によって“OPENED BY EXAMINER(検査官によって開封された)”との表示のある紙テープで再度、封をした痕跡が残っています。テープの上には、“DHC/326”との紫印と、英国の王冠の下に“PAEESD(検閲済み) DHC/80”の表示が入った八角形の印が押されていますが、このうちDHCはこの郵便物が到着地のボンベイで開封・検閲されたことを示しています。また、DHCの後ろの数字は、担当者の個人番号です。

 なお、ドバイからインド宛の郵便物への検閲は、戦時統制の一環として行われていたため、第二次大戦の終結に伴い終了しました。

 さて、今回の記事では、20世紀初頭のドバイから差し出された英領インド切手貼りの郵便物から、両大戦を経て、英領インドが分離・独立した後のドバイでのパキスタン切手の使用例、続く東アラビア郵政庁時代の使用例休戦協定諸国用に発行された切手を経て、1964年にアブダビドバイが独自の切手を発行するまでの経緯についてまとめています。

 機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 世界漫郵記:ドバイ④
2013-11-30 Sat 07:36
 『キュリオマガジン』2013年12月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、前回に続きドバイ篇の第4回目。今回は、ドバイの中心を流れるクリーク(入江)の話を取り上げてみましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ドバイ・クリーク(3ルピー)     ドバイ・クリーク(ロレックス・ツインタワー)

 左は、1964年、UAE発足以前のドバイで発行された航空切手で、当時のドバイ・クリークの風景が取り上げられています。右側には、昨年(2012年)、僕が撮影したクリークの画像を貼っておきました。

 ドバイのバール・ドバイ地区とデイラ地区を隔てるクリークの全長は約14キロ。かつては、橋がなかったため、対岸との往来には渡し船を使うか、クリークの端まで迂回しなくてはなりませんでしたが、1963年5月、最初の橋として、ほぼ真ん中あたりにマクトゥーム・ブリッジ(この橋を描く切手を貼った葉書はこちらです)が開通し、両岸の交通は飛躍的に便利になりました。その後の急激な経済発展に伴い、橋の数も増え、現在は6本目の橋が建設中です。ただし、マクトゥーム・ブリッジより北側の旧市街では、いまでも昔ながらの渡し船、アブラが市民の重要な足になっていて、右の画像のように、林立する高層ビルとアブラの組み合わせという独特の光景がドバイならではの情趣を醸し出しています。

 さて、現地時間の昨晩(29日)遅く、日付変更線をまたぐ直前、無事に経由地のドバイに到着しました。2020年のドバイ万博開催が決まったということで、空港では、さぞかし派手にお祝いムードの看板などが出ているかと思いきや、到着ロビーには、手荷物受取所にこんな垂れ幕があるくらいでした。

      ドバイ空港・万博垂れ幕

 さて、東京へ戻るフライトは、当地の時間で朝の9時半過ぎなので、チェックアウトまでは、少しのんびりできそうです。羽田到着は1日未明の予定ですので、順調にいけば、明日のブログでは帰国のご報告ができると思います。


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 世界漫郵記:ドバイ①
2013-08-30 Fri 13:43
 『キュリオマガジン』2013年9月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、今回からドバイ篇に突入。まずはドバイの玄関口にあたるドバイ国際空港について取り上げましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

       ドバイ国際空港

 これは、1971年5月15日、アラブ首長国連邦(UAE)発足以前のドバイで発行されたドバイ国際空港開港の記念切手です。

 19世紀後半以降、ドバイはペルシャ湾南岸の港湾都市として、ペルシャ湾岸とインドを結ぶ中継貿易の拠点となっていましたが、航空路線の到達は遅れ、まずはシャルジャに空港が設置されます。

 すなわち、1929年3月30日に就航した英国インペリアル航空のロンドン=カラチ(現パキスタン)線は、当初、エジプトのアレクサンドリア以東は、ガザ(パレスチナ)=ルトゥバ(イラク)=バグダード(同)=バスラ(同)=ブシェール(イラン)=リンゲ(同)=ジャスク(同)=グワダル(現パキスタン)を経由してカラチにいたるというルートを取っていました。ところが、1932年、イラン政府は、ロンドン=カラチ便の航空機が自国の領空を通過することにクレームをつけたため、インペリアル航空は、バスラ以東のルートを、同年10月以降、ペルシャ湾対岸のバハレーン=シャルジャ経由に変更して運航されることになりました。

 この時期、すでにドバイはペルシャ湾岸の港湾都市としてそれなりに繁栄していたため、本来であれば、バハレーン=ドバイ経由という路線の方が実用的であったはずなのですが、そうならなかったのは、おそらく、バハレーンはドバイのライバルであるアブダビとの関係が深く、ドバイとは必ずしも良好な関係ではなかったからではないかと思われます。

 いずれにせよ、英国側はシャルジャには簡易空港を開設。これに伴い、1932年10月1日からシャルジャ発着の航空便の運航が始まりました。

 ただし、現在のUAE国家に相当する地域では、当時はドバイにしか郵便局がなかったため、シャルジャ空港に到着したエアメールは、そこから18キロ弱の距離にあったドバイ局が取り扱うという変則的なスタイルが取られています。現在のUAE域内から諸外国宛のエアメールは、これとは逆に、いったんドバイに集められ、そこからシャルジャ空港に運ばれるという逆のルートをたどりました。

 その後も、ドバイ発着の航空便はシャルジャを経由していましたが、1960年にドバイ空港が開港し、ようやく、シャルジャ経由の変則的なエアメールのやり取りも終了しました。

 その後、1971年12月にドバイを含む7首長国でUAEが結成されることになると、それに先立ちドバイ空港は“ドバイ国際空港”に格上げとなり、UAE全体の空の玄関口となりました。

 ただし、UAEが発足した時点では、UAEとしての自前のエアラインはまだ就航しておらず、ドバイを拠点に2機の飛行機(ボーイング737とエアバスA300)でエミレーツ航空が就航を開始したのは、1985年のことでした。

 さて、今回の記事では、ドバイやシャルジャーの初期のエアメールなどもご紹介しつつ、ドバイ国際空港とその周辺の様子などを取り上げています。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 ドバイ・ショック
2009-11-28 Sat 10:51
 きのう(27日)、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイの金融不安(ドバイ政府は、25日に政府系の投資持株会社ドバイ・ワールドとその不動産子会社ナヒールの債務返済の一時凍結要請を発表)から、急激な円高と株安が起こりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ドバイ・新旧両通貨混貼り

 これは、1967年1月4日、ドバイからアメリカ宛てに差し出されたカバーで、ガルフ・ルピー表示の20ナイエ・パイサ切手2枚と、あらたにカタール・ドバイ・リヤルで10ディルハムの額面表示を加刷した切手1枚が貼られています。

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立する以前の英領インド帝国は、郵政面では、非常に広範な地域をカバーしており、英領インドの域外でも各地でインド切手が使用されていました。こうした英領インドの在外郵便局は、二つの世界大戦を経て次第に規模が縮小されていきますが、それでも、1947年8月の段階では、ドバイ(現アラブ首長国連邦)やマスカット(オマーン)など、ペルシャ湾岸の郵便はパキスタンのカラチ中央郵便局の管轄下に置かれていました。

 もっとも、ドバイやマスカットは対岸のイランの脅威に備えるためにイギリスの保護領になったという経緯があり、対イラン防衛という点であてにならないパキスタンの保護領になるメリットは何もありません。それゆえ、英領インド郵政が解体されたのであれば、イギリス本国が直接、郵便事業を管轄することが望ましいということになります。また、この地域では、従来は英領インド・ルピーが、1947年8月以降は新生インド・ルピーが法定通貨として流通していたこともあって、パキスタン・ルピーで販売される切手の購入には、インド・ルピーとパキスタン・ルピーの為替差が常に問題となるという不便もあり、1948年4月、イギリスは新たに東アラビア郵政庁を設置し、同庁がペルシャ湾岸地域の郵便を管轄することになりました。

 ところで、新生インドが誕生した時点でのインド・ルピーはイギリスのスターリング・ポンドに対して1ポンド=13・3分の1ルピーの固定相場でした。また、スターリング・ポンドは米ドル金為替本位制を中心としたIMF体制の下で、米ドルとの固定為替相場制(1ポンド=2ドル80セント)を取っており、間接的に金本位制となっていました。このため、インド・ルピーもポンドを介して(さらに間接的にですが)金本位制とつながっていました。

 ところが、米ドルとの交換を目的とした公定価格(金1オンス=35ドル)は、市場での金取引の実勢価格に比べて割安に設定されていたため、金を買ってドルを売ることが盛んに行われました。その際、インド一国にとどまらず、広い地域で使われているインド・ルピーが金の密貿易に盛んに利用されたため、インドの外貨準備高は減少の一途をたどっていきます。

 このため、1959年5月、インド政府はインド・ルピーの国外での流通を停止し、湾岸地域で使用するための通貨として、新たにガルフ・ルピー(インド・ルピーと連動した不換紙幣)を発行します。ガルフ・ルピーの導入をきっかけに、1961年にはクウェートがクウェート・ディナールを、1965年にはバーレーンがバーレーン・ディナールを導入し、ルピー経済圏を離脱することになりますが、その他のイギリス保護下の湾岸首長国では依然として、ガルフ・ルピーが使用されていました。

 ところが、1966年6月6日、インド政府は、それまでスターリング・ポンドに対して1ポンド=13・3分の1ルピーとされていた固定相場を切り下げることを決定。これを受けて、ガルフ・ルピーは為替市場で暴落し、湾岸地域は通貨危機の危険にさらされます。

 このため、ポンドとの旧レートを支持したオマーン(1970年までガルフ・ルピーが使用された)を除き、湾岸首長国はガルフ・ルピーを放棄し、カタールとドバイによるカタール・ドバイ・リヤル(後のカタール・リヤル)を導入。アブダビは前年に創設されたバーレーン・ディナールに加わりました。

 今回ご紹介のカバーは、こうした状況の下で、新旧両通貨の切手が同時に貼られているもので、新通貨導入直後の移行期間ならではのマテリアルといえます。

 かくして、ペルシャ湾岸におけるルピーの歴史は終焉を迎え、1971年12月にドバイとアブダビを中核として発足したアラブ首長国連邦では、独自通貨としてUAEディルハムが使用されることになりました。

 さて、今回の一件で、当然、UAEディルハムは大暴落することになるでしょうが、ドルもユーロも下落して円高のみが進行するという事態になるという最悪のシナリオも覚悟しておいたほうがよさそうです。昨年のリーマンショックの後、当時の麻生政権はともかくも緊急経済対策を行い、一定の成果を上げたとされているわけですが、現在の鳩山政権はどうするつもりなんでしょうかねぇ。すくなくとも“鳩山不況”と呼ばれている現状を直視し、現在の施策を全面的に見直すぐらいのことをしてもらわないと、たまったものではありませんな。


 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。当日は、僕のトークのほか、日本におけるジプシー・バイオリンの第一人者、古館由佳子さんによる生演奏もお楽しみいただけますので、ぜひ、遊びに来てください。

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、12月18日までにキュリオマガジン編集部まで、電子メール(info@fujimint.com)にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。
 

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』

 トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行   (彩流社 オールカラー190ページ 2800円+税)

 全世界に衝撃を与えた1989年の民主革命と独裁者チャウシェスクの処刑から20年
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 ドバイ拾遺
2006-11-22 Wed 01:02
 昨日(20日)の記事では、ドバイで使われた切手が、英領インド切手パキスタン切手→イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手→休戦協定諸国切手(正刷)ドバイ切手→UAE(アラブ首長国連邦)切手という変遷をたどってきたとご説明しましたが、記事を書いている過程で、現在のUAE切手はともかく、イギリス東アラブ郵政庁時代の切手についてだけ、このブログではこれまでご紹介してこなかったことに気がつきました。

 こうなると、収集家の悲しい性としては、やはり、一つだけ欠けてしまってコンプリートにならないというのは気分が悪いので、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドバイ・加刷切手カバー

 これは、1950年4月11日、ドバイからボンベイ宛に差し出されたカバー(封筒)で、イギリス切手に現地通貨の額面を加刷した切手(6アンナ)が貼られています。

 1947年に英領インドがインドとパキスタンに分離・独立するまで、イギリスの保護下に置かれていたドバイでは、英領インド切手がそのまま使われていました。その後、インド・パキスタンの分離・独立に伴い、暫定的にドバイの郵便業務はパキスタン郵政の管轄下におかれますが、1948年4月には、周辺のマスカット(オマーン)やバハレーン、カタール等とともに、イギリスの東アラビア郵政庁の管轄下に置かれました。

 これに伴い、東アラビア郵政庁の管轄下では、イギリス本国の切手に現地通貨(インド・ルピーと連動したガルフ・ルピー)を加刷した切手が使用されることになりました。今回のカバーに貼られているのも、そうした加刷切手です。

 加刷切手の使用期間は、地域によってばらつきがあるのですが、ドバイの場合は1948年4月1日から1961年1月6日までで、それ以降は、休戦協定諸国の正刷切手が使用されています。なお、東アラビア郵政庁の加刷切手は、同じものが各地で使われていますから、ドバイでの使用例であることを確認するためには、押されている消印の地名がきちんと読めることが大切です。

 いずれにせよ、歴史的には使われている切手のバリエーションが豊富なわけですから、ドバイを中心に湾岸地域の郵便史を真面目に取り組んでみたら面白いコレクションができるのは間違いありません。実際、僕もちょっとは手を染めてみているのですが、なにぶんにも、残されているブツが少ないため、展覧会に出品できるレベルの作品を作るのは、結構きついのが実情です。

 聞くところによると、ドバイでは2009年にも国際展があるのだとか。今回のドバイ展には参加できませんでしたが、次回は、湾岸地域の純然たる郵便史コレクションは無理でも、たとえば、「アラビア半島現代史」というタイトルで、この地域の郵便史を踏まえたテーマティク・コレクションを出品したいものだと、なんとなく考えている今日この頃です。

 なお、ドバイを含む“アラブ土侯国”についての郵便史的な事情についてご興味をお持ちの方は、拙著『中東の誕生』をご一読いただけると幸いです。

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 ドバイでの健闘を称えて
2006-11-21 Tue 01:09
 相互リンクをお願いしているc_breakerさんのブログ、cbreakerの切手収集ダイアリーによると、今月13日~16日にドバイで開催されていたアジア国際切手展で、井上和幸さんの朝鮮郵便史のコレクションが金賞+最高賞を受賞されたほか、日本人出品者の方々が好成績を収められたとか。皆様、おめでとうございました。こういう景気の良いニュースはいつ聞いても嬉しいものです。

 というわけで、今日は、出品された皆さんに敬意を表し、切手展の会場となったドバイに絡めて、こんなマテリアルを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ドバイ初期のカバー

 これは、1913年9月17日、ドバイからボンベイ宛に差し出されたカバー(封筒)です。当時のこの地域のカバーの通例として、切手は封蝋代わりに使われているため、何も書かれていない裏面に切手が一枚だけ貼られる結果となり、カバーの余白が目立ってしまうのが、ちょっと格好悪くて残念です。ちなみに、切手と消印の部分を拡大すると、こんな感じになります。(画像の向きは、消印が読みやすいように回転させています)

消印部分の拡大画像

 ホルムズ海峡から内側のペルシァ湾岸地域は、古来、海賊の出没する地域として知られていました。18世紀以降、イギリスのインド進出が本格化し、東インド会社がこの地域の貿易を独占するようになると、イギリスはインドへのシーレーン確保のため、マスカットの首長と結んで本格的な海賊討伐に乗り出します。その結果、1820年、イギリスとこの地域の首長たちの間に休戦条約が結ばれ、イギリスは、彼らを独立国として承認する代わりに(休戦協定=truceに基づいて独立を認められた国々であるため、休戦協定諸国=Trucial Statesと呼ばれる)、マスカットが所有していたザンジバル諸島などを支配下に置いたほか、この地域に監視所と燃料補給施設を設置。さらに、1891~92年にかけて、イギリスは各首長国と排他的協定を結んで保護下に入れ、ペルシァ湾岸におけるプレゼンスを確立しました。

 そうした首長国の一つであったドバイでは、マクトゥム家の支配の下、住民の定住化がはかられ、交易と真珠産業の拠点として発展。さらに、もともと天然の良港であったことに加え、1902年に対岸のペルシァ政府が高関税政策を採用すると、高関税を嫌ったペルシァ系やインド系の商人たちがこの地に集まるようになり、ドバイは湾岸地域の貨物の集散地として急速に発展し、ドバイの人口は一挙に数千人規模に膨らみます。

 こうしたことから、1909年8月、英領インド郵政の管轄の下、休戦協定諸国における最初の郵便局がドバイに設置されます。今回のカバーは、そうしたドバイ局の1913年のカバーで、消印の表示は“DUBAI PERSIAN GULF”となっています。貼られている切手は、無加刷の英領インド切手です。本音をいうと、もっと初期の1909年か1910年のカバーが欲しいところなのですが、そのクラスになるとオークションにも滅多に出てきませんので、とりあえず、僕の懐具合では、まぁ1913年のモノでも我慢するしかないでしょう。

 ドバイでは1947年にインド・パキスタンが分離独立するまでは英領インド切手が使われていましたが、その後、この地域で使用される切手は、パキスタン切手→イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手→休戦協定諸国切手(正刷)ドバイ切手→UAE(アラブ首長国連邦)切手と、めまぐるしい変遷をたどっており、郵便史的にもいろいろと面白いネタがあって、真面目に取り組むと結構楽しめます。

 なお、ドバイを含む“アラブ土侯国”についての郵便史的な事情については、かつて拙著『中東の誕生』でも1章を設けて概観してみたことがあるので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 パキスタン管理下のドバイ
2005-10-09 Sun 13:46
 パキスタン北東部を震源地とする地震は死者が3000人を越える大災害になりました。

 僕はパキスタンに行ったことはないのですが、中学生の頃、ジュニア向けの切手雑誌『スタンプ・クラブ』の「パケット整理学」というコーナーで、パキスタン切手のパケットをばらして解説記事を書いたことがあります。実は、これが、フィラテリック・ライターとしての僕のデビュー作です。また、昨年(2004年)、香港のアジア国際切手展に出品したコレクションには、パキスタンのハイバル郵趣協会(ペシャワールに拠点がある収集家の団体)から特別賞を頂戴しました。さらに、大使閣下は切手収集がご趣味だそうで、そのご縁で直接お会いして数時間お話したこともあります。

 こうしたことから、いずれは、パキスタンがらみのコレクションなんかも作ってみたいと漠然と考えていたのですが(たとえば、交通の要衝であったペシャワールの郵便史なんか面白いと思うんですが)、なかなか、実際には手をつけるまでにはいたっていません。それでも、パキスタンがらみで話のネタになりそうな切手やカバー(封筒)はいくつか持っていますから、今日はその中から、こんなものをご紹介しましょう。

パキスタン・ドバイ

 ご紹介しているのは、1948年2月、ペルシャ湾岸のドバイ(現在、アラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつ)から差し出されたカバーの一部で、英領インド時代の切手に“PAKISTAN”と加刷した切手が貼られています。

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立する以前の英領インド帝国は、郵政面では、非常に広範な地域をカバーしており、英領インドの域外でも各地でインド切手が使用されていました。こうした英領インドの在外局は、二つの世界大戦を経て次第に規模が縮小されていきますが、それでも、1947年8月の段階では、ドバイとマスカットの郵便はカラチ中央郵便局の管轄下に置かれていました。

 その後、ドバイとマスカットの郵便は、1948年4月に英本国が接収することになりますが、それまでの以降期間内は、暫定的にパキスタン国家の支配下に入ったカラチ郵便局がこの地の郵便サービスを担当していました。このため、ここにご紹介したような、パキスタン切手のドバイ使用例というのが生まれることになったわけです。ちなみに、1960年以前のドバイからの郵便物の大半は、ボンベイ(ムンバイ)宛で、この地域が広義のインド世界と密接に繋がっていたことをうかがわせます。このことを含めて、当時の郵便物を見ていると、インドとか中東とかの地域概念の境界は我々が日常的にイメージしている以上に混沌としたものであることを痛感させられます。

 なお、ドバイを中心とする“アラブ土侯国(現在のアラブ首長国連邦を構成している首長国)”の郵便については、拙著『中東の誕生 』にまとめて書いたことがありますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 いずれにせよ、僕にとっては因縁浅からぬ存在であるパキスタンの惨状は、非常に胸が痛みます。一日も早い復興を心よりお祈りしております。
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