内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 HAPPY NOWRUZ!
2017-03-20 Mon 21:38
 今日(20日)は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心にその文化的影響が及んでいる国や地域では、新年のお祭り・ノウルーズの日です。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・ノールーズ加刷

 これは、1970年にイラクが発行した“ノウルーズ”の記念加刷切手です。

 さて、イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われていますが、このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。

 この点について、ムスリムたちは、信徒の義務であるラマダン月(ヒジュラ暦の9月)の断食が、毎年、少しずつ季節を移動していくことによって、地域ごとの断食の負担の格差が是正されるメリットがあると説明しています。たとえば、ラマダン月が真冬の時期に当たると、熱帯の国では比較的楽に断食が行えますが、寒冷地域の断食は非常に厳しいものがあります。逆に、ラマダン月が真夏にぶつかると、熱帯と寒冷地域では、その負担の重さは逆転します。

 したがって、全世界の信徒にとって、断食の負担の平準化を図るためには、ラマダン月が毎年季節を移動していくことはポジティブにとらえられており、それゆえ、ヒジュラ暦は調整なしの完全太陰暦なのだ、というロジックが導き出されることになります。

 とはいえ、いくら宗教的に重要な意味があるとはいえ、毎年、暦の日付と季節がずれていけば、農作業などでは不便も多く生じます。このため、イスラム世界の各地では、イスラム暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。

 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳すると“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、イランを中心に中央アジアの5共和国でも祝日になっています。また、クルド人がノウル-ズを祝う習慣があることから、トルコではクルド人に対する宥和政策の一環として国民の休日に指定されているほか、イラク国内のクルド人自治区(クルディスタン)でも、ノウルーズは祝日に指定されています。今回ご紹介の切手が発行された1970年は、バアス党政権下の1970年、クルド人自治区が設定された年ですので、加刷切手の発行も、彼らに対する融和政策の一環だったということなのでしょう。

 なお、しばしば誤解されることですが、ノウルーズはイスラム圏全体に共通の行事ではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているのが実情です。じっさい、イラクの場合も、ノウルーズはあくまでもクルド人自治区の祝日であり、国として休日・祝日には指定されていません。ちなみに、イスラム世界全体としては、イスラム教徒としての新年はヒジュラ暦のムハラッム月(第1月)1日に祝うのが主流ですが、こちらは上述のように年によって季節は一定していません。

 現在、イラク国内では過激派組織ダーイシュ(自称イスラム国)との戦いが激しさを増しており、クルド人の間でも、“戦時下”という状況に鑑みて、ノウルーズに際しても派手なことは控える風潮が強くなっているのだとか。一刻も早くダーイシュを掃討し、来年こそは、クルディスタンでも盛大にノウルーズのお祝いができるようになると良いですね。


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 岩のドームの郵便学(23)
2014-11-24 Mon 17:50
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』553号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、1977-78年にエジプト以外の各国で発行された岩のドームの切手をご紹介する4回目。今回はこの切手を取りあげました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・強制貼付切手(パレスチナ1977)

 これは、1977年10月、“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”と題してイラクが発行した強制貼付切手です。

 イラクでは、1949年にもパレスチナに対する義捐金を集めるために強制貼付切手を発行したことがありますが、その後、1974年までに発行された強制貼付切手の発行名目は、いずれも、国防献金の徴収でした。もちろん、イスラエルの攻撃から自国を守るための“国防献金”ということであれば、パレスチナと全く無関係とは言えないわけですが、今回ご紹介の切手のように“パレスチナ”を直接的な題材としたのは、じつに25年ぶりのことでした。

 第3次中東戦争後の1968年、イラクでは、いわゆる“7月11日革命”によって、陸軍のアフマド・ハサン・バクルを大統領とするイラク・バアス党(以下、特記なき限り、バアス党)政権が発足します。

 バアス党はアラブ民族主義を掲げる政党ですが、イラク国家そのものはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第3次中東戦争においても、エジプトやヨルダン、シリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではありません。もちろん、戦争の被害に関しても、他のアラブ諸国に比べると比較的軽微でした。

 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、バクル政権は、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進することを基本的なスタンスとしていました。1973年の第4次中東戦争に際しては、バアス党政権としてアラブ民族主義の嫡流を自称する建前から参戦したものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富を得ています。

 むしろ、当時のバクル政権にとっては、イスラエルよりも、米国の支援で“湾岸の憲兵”をなった隣国イランの軍事的な脅威をいかにして減殺するかということが深刻な課題でした。

 その一環として、バクル政権は、バローチスターン問題に介入します。

 バローチスターンは、行政上はパキスタン南西部の州の名ですが、地域概念としては、パキスタンのバローチスターン州に加えて、イラン東南のスィースターン・バルーチェスターン州からアフガニスタン南部にまで及ぶバルーチ人の居住地域で、各国で中央政府からの分離独立を唱える活動が展開されていました。

 親英王制時代の1950年代から、イラクは、イランの安全保障上の関心を東部国境に向くようにむかせるべく、ダッド・シャー率いるイラン国内のバルーチ人の分離独立勢力による武装闘争を支援していました。ダッド・シャーは1957年に殺害され、親英王制は1958年の革命で崩壊しますが、革命後のカーシム政権もバルーチ人に対する支援を継続します。

 1960年代に入ると、イラン側の弾圧により、バルーチ人の分離独立運動は下火になり、活動家たちは地下に潜伏しましたが、バクル政権が発足した1968年、イラクを中心にアラブ諸国はバルーチ人を支援し、再び叛乱を起こさせました。バルーチ人の叛乱は1975年まで続きますが、この間、イラクは叛乱の最大の支援国はイラクでした。

 また、イラン国内のバルーチ人のみならず、パキスタン国内のバルーチ人分離独立派も、1973年から1977年にかけて、イラクの支援を受けてパキスタン政府に対する武装闘争を展開していました。じっさい、パキスタンでの叛乱のきっかけは、1973年2月、イスラマバードのイラク大使館で不正に持ち込まれた兵器が発見されたことから、当時のズフリカル・アリー・ブット政権がバローチスターン州政府を解体し、バルーチ人活動家3人を逮捕した事件でした。この件に関して、パキスタン政府は、ソ連と結んだイラクがパキスタンとイランに挑戦しようとしていると非難の声明を発しています。

 結局、1977年、パキスタンはイランの支援を受けてバローチスターンの叛乱を鎮圧。1973年以来獄中にあった活動家を国外追放処分としました。

 一方、イラク国内に目を転じると、1977年は、革命指導評議会副議長のサッダーム・フセインが革命指導評議会メンバーと閣僚を自分の側近に入れ替え、バクルに代わって政府の実権を掌握した年でもあります。

 1968年にバクルが無血クーデターを起こした際、バアス党の若き活動家だったサッダームは、戦車でバグダードの大統領宮殿に乗り付けて政府中枢を制圧するなど、クーデターの成功に大いに貢献。その功績が買われて、1931年生まれのサッダームは、わずか31歳にして治安機関の責任者に任じられ、クーデターに協力したアブドゥッ=ラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力基盤を強化しました。その結果、1969年には、革命指導評議会(RCC)副議長に任命され、バクルの後継者としての地位を確保し、徐々に、力を蓄えていきます。

 サッダームは、イラク・バアス党をシリア・バアス党の影響下から引き離すべく、バアス党結党の理念であるアラブ民族主義を徐々に骨ぬきにし、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする“イラク・ナショナリズム”を掲げていました。当然のことながら、パレスチナ問題への関心もつよくはありません。

 しかしながら、イランおよびパキスタンでのバルーチ人に対する支援工作が頓挫したのと時を同じくして、バクルに代わってサッダームが実質的に政権を掌握したというタイミングをとらえて、イラク政府としては、政権の“変化”を国民に印象付けるべく、あえて“パレスチナ”を直接的な題材とする強制貼付切手を25年ぶりに発行したものと考えられます。

 なお、翌1978年のエジプト・イスラエル和平により、エジプトは“アラブ世界の盟主”としての座を失ったことを受けて、野心的なサッダームはイラクこそがエジプトに代わって新たな“盟主”になるべきだと考えるようになりました。強制貼付切手の発行は、エジプト・イスラエルの緊張緩和という流れを見据えて、そうした主張を展開するための下準備であったと見ることも可能かもしれません。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(12月は都合によりお休みです)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

 お待たせしました。約1年ぶりの新作です!

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 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 モースル陥落
2014-06-11 Wed 10:06
 2011年末の米軍撤退完了後、宗派対立により深刻な治安悪化が続いているイラクで、昨日(10日)、同国北部にある第2の都市モースルが、国際テロ組織アルカイダの影響下にある過激派“イラク・レバントのイスラム国(ISIL)”に制圧されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モスル加刷

 これは、第一次大戦後の1919年、英軍占領下のモースルで発行された暫定加刷切手です。

 現在のイラク国家の枠組は、基本的に、旧オスマン帝国時代のモースル州・バグダード州・バスラ州(からクウェートを除いた地域)から構成されていますが、このうち、一番北にあるモースル州は第一次大戦以前から石油の産地として知られ、1916年のサイクス・ピコ協定による密約では、戦後、フランスの勢力圏内に組み込まれるものとされていました。

 1918年10月30日、第一次大戦でオスマン帝国が降伏した時点では、モースルは依然としてオスマン帝国が維持していましたが、戦後の混乱に乗じて、英軍は11月に入ってからモースルを占領します。今回ご紹介の切手は、そうした英軍占領下のモースルで使用するため、1919年7月、オスマン帝国の印紙を接収し、 「IEF “D”」の文字を加刷したものです。加刷文字の“IEF”はインド遠征軍(Indian Expeditionary Force)の略で、 “D”がモースル地区の担当を意味しています。

 第一次大戦の勃発後、英軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始しましたが、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、クートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月、ようやくバグダードが陥落。その後、英印軍はモースルの占領にもかかわったため、今回のような加刷切手が発行されることになりました。なお、通貨単位がインド・ルピーで4アンナとなっているのもそのためです。

 第一次大戦後のオスマン帝国の旧領分割をめぐっては、フサイン・マクマホン書簡の密約によるアラブ国家の樹立を求めるアラブ側と、サイクス・ピコ協定の履行を求めるフランスとの間で英国は板挟みになりますが、1920年4月のサンレモ会議では、フランスがイラク北部のモースルの支配を放棄する代償として、現在のシリア・レバノンの地域を自らの勢力圏とすることを最終的に英国に承認させました。

 この結果、モースル州はバグダード州、バスラ州は“イラク”として、英国の委任統治下に置かれることにな李、それが、現在のイラク国家のルーツとなりました。

 さて、7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。講座では、今回取り上げたイラクのみならず、オスマン帝国の崩壊により現在の中東諸国の枠組ができあがっていくプロセスについても、当時の切手や郵便物等を使ってわかりやすく解説する予定です。名古屋エリアの方は、ぜひ、遊びに来ていただけると幸いです。 


 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 

       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

 ★★★ 『年賀状の戦後史』が電子版になりました! ★★★

  日本人は「年賀状」に何を託してきたのか?
  「年賀状」から見える新しい戦後史!

      年賀状の戦後史(帯つき) 

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 アマゾン紀伊国屋書店ウェブストアなどで、6月10日から配信が開始されました。よろしくお願いします。


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 岩のドームの郵便学(16)
2014-04-22 Tue 21:17
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』532号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第3次および第4次中東戦争の戦間期のアラブ世界の状況のうち、シリアとイラクのバアス党にスポットをあてました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       イラク・国軍の日(1971)

 これは、1971年にイラクで発行された“国軍の日”の記念切手の小型シートで、右側の40フィルス切手にはパレスチナの地図に岩のドームを描き、行進するイラク軍の兵士が描かれています。

 1958年7月14日、自由主義将校団によるクーデターでハーシム王制が打倒されたイラクでは、1963年2月に再度クーデター(ラマダーン革命)が発生し、ナセル主義者のアブド・サラーム・アーリフがバアス党と連携して政権を掌握しました。

 バアス党の党名は、日本語に訳すと、アラブ社会主義復興党となります。アラブ社会主義(きわめて単純化してしまえば、金融を含む重要産業の国有化と計画経済による開発独裁体制のことですが、いわゆるマルクス・レーニン主義のように、宗教を“民衆のアヘン”として排斥するわけではありません)と、アラブ世界における既存の国境を解体してアラブの再統合を図るというアラブ民族主義を基本綱領として掲げており、その意味では、エジプトのナセルと基本路線に大きな相違はありません。

 そのルーツは20世紀初頭に遡るもいえるのですが、制度的には、1940年12月、シリアの民族主義者(宗教的にはアラウィ―派)のザキー・アルスーズィーらがダマスカスで秘密結社として組織した“アラブ・バアス党”がその源流で、シリア独立後の1947年4月7日、ダマスカスで第1回に公式の結党大会を行い、公然組織となりました。その後、シリアを本部として、イラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を拡大します。

 1958年にエジプトとシリアの合邦により発足したアラブ連合共和国は、1961年、シリアの離反によって破綻しましたが、その後もナセルは“アラブ連合”の大義名分を放棄せず、アラブ諸国の再統合を水面下で模索し続けます。その際、彼は、自分に代わって各国のバアス党が連携して国家統合を進めることには警戒感を抱いていました。

 こうした背景の下、イラクでは、1963年2月のラマダーン革命後、非バアス党員でナセル主義者のアブド・サラーム・アーリフが、同年11月、バアス党を政権から追放し、革命の果実を独占することに成功します。

 アブド・サラーム・アーリフは、1964年5月26日、エジプトと合同大統領評議会を立ち上げ、アラブ社会主義のエジプトとの統合を見据えて主要産業を国有化。同年末には統合のためのプランまで発表しました。しかし、すでにエジプトとシリアの国家統合が破綻していたこともあって、エジプトとの統合には慎重論も根強く、結局、統合論は有耶無耶になってしまいます。

 そうしているうちに、1966年4月13日、アブド・サラームは飛行機事故により死亡し、アブド・ラフマーン・バッザースによる3日間の暫定大統領を経て、アブド・サラームの兄、アブド・ラフマーン・アーリフが大統領職を継承しました。

 アブド・ラフマーンは、弟の路線を引き継ぎ、ナセルと連携して1967年の第3次中東戦争にも参戦しましたが、イスラエルの前にイラク軍も惨敗。この結果、翌1968年7月17日、アフマド・ハサン・バクルらバアス党員のクーデターによって失脚し、トルコへ亡命しました。

 ところで、アーリフ政権時代の1966年、シリアでは大統領のハーフィズに対して、ハーフィズ・アサドとサラーフ・ジャディードがクーデターを起こし、バアス党内の実験を掌握します。これに伴い、バアス党の創設者の一人にして代表的なイデオローグで、クーデター発生時のシリア・バアス党の委員長だったミシェル・アフラクが失脚。アフラクを否定するシリア・バアス党と、従来通り、アフラクをバアス党の理論的支柱とみなすイラク・バアス党の対立が生じました。

 クーデター直後、ダマスカスで開催された第9回バース党大会でアフラクとその支持者が追放されると、イラク・バアス党は直ちにベイルートで“真の”第9回党大会を開き、アフラクを民族指導部事務総長として迎え入れました。以後、バアス党運動はシリア派とイラク派に分裂し、両者は対立するようになります。

 その後、1970年11月13日、シリアでは国防大臣のハーフィズ・アサドによるクーデターが発生し、事実上の最高権力者であったサラーフ・ジャディード(公的な地位としてはシリア・バアス党第2書記)を失脚させました。

 ジャディードの政治路線は、アラブ諸国との軍事同盟よりもシオニストとの“人民戦争”を重視するという基本方針の下、イスラエルとサウジアラビア(アラブ社会主義の視点からは“反動アラブ諸国”の筆頭と目されていた)に対して強硬路線を採るというものでしたが、第3次中東戦争の敗戦によりその権威は大きく損なわれ、さらに1970年9月、ヨルダンで発生したブラック・セプテンバー事件でのPLO支援などによって、バアス党内の穏健派(現実主義派)と激しく対立していました。

 1970年11月のシリアでのクーデターはこうした背景の下で発生したもので、政権を掌握したアサドは、ジャディードに連なる党内左派を追放するとともに、“(ナセル時代の行きすぎた)革命の矯正”を進めていたサダトとも連携し、第3次中東戦争で失ったゴラン高原の奪還を目指して軌道修正に乗り出します。

 この間、アフラクは1970年のブラック・セプテンバー事件に対してイラク政府が介入するよう求めたものの、バクル政権から拒否されたことに抗議してレバノンに逃れています。一方、アサド政権は、翌1971年、欠席裁判でアフラクに死刑判決を下しました。

 こうした事態の変化を受けて発行されたのが、今回ご紹介の切手です。

 イラクの「国軍の日」は毎年1月6日となっていますが、これは、親英王制時代の1921年1月6日にイラク王国軍が発足したことによるもので、1971年はそこから起算して50周年にあたっていました。

 2種類発行された記念切手のうちの40フィルス切手にはパレスチナの地図を背景にした岩のドームと、そこに向かって進軍するイラク軍が描かれています。切手には、額面数時の40以上に大きな文字で“50(周年)”と表示しており、あたかも、イラク国軍がパレスチナ解放の大義のために50年間戦ってきたかのようなイメージになっています。

 もちろん、これは歴史的な事実には反するのですが、1947年にシリアでバアス党が正式に発足する以前から存在していたイラク国軍とパレスチナ解放の大義を結びつけることによって、自分たちこそがアラブ民族主義の嫡流であることを主張しようとしたと理解することができましょう。

 もっとも、1968年にイラクの政権を掌握したバクルのバアス党は、そうした建前とは裏腹に、必ずしもパレスチナ問題に熱心に取り組んでいたわけではありません。

 そもそも、イラクはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第3次中東戦争においても、エジプトやヨルダン、シリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではなく、戦争の被害に関しても、他のアラブ諸国に比べると比較的軽微でした。

 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進するというのが、バクル政権の基本的な姿勢となっていました。

 その姿勢は、結果的に、翌1973年、アラブ民族主義の嫡流を自称する建前から第4次中東戦争に参戦するものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富をイラクにもたらすことになるのです。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

亀戸講座(2014前期)・広告

 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 FLASH 4月2日号
2013-03-19 Tue 17:44
 きょう(19日)、光文社の雑誌『FLASH』4月2日号が発売になりました。同誌に掲載の「新シリーズ『いま』を究める!FLASHグラビア新書Vol.12」では、“「趣味の切手」進化論!”と題して、7ページの切手特集が組まれています。(下の画像は雑誌の表紙と特集の扉です。以下、画像はクリックで拡大されます)

        FLASH 切手特集号表紙     FLASH 切手特集扉

 で、その特集記事には、僕も登場して“世界のオモシロ切手”として、各国の事情を示す切手などをご紹介しています。その中から、こんなモノをご紹介します。

        フセイン抹消カバー

 これは、2003年のイラク戦争(そういえば、明日=20日は、イラク戦争の開戦10周年でしたな)により、サダム・フセイン政権が崩壊した直後の6月29日(消印は“92日”になっていますが)、バグダードで差し出された市内便で、フセイン政権時代に発行されたフセイン65歳誕生日の記念切手が、肖像部分をペンで抹消して使用されています。

 1991年の湾岸戦争後、イラクが受諾した停戦決議(決議687)では、イラクは大量破壊兵器の保持してはならないとされ、UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)がイラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査することになりました。当初、イラク側は、UNSCOMの調査に比較的協力的でしたが、UNSCOMの主任査察官が米国の諜報関係出身者であり、調査に米国の意向が反映されたことに反発。次第に、調査に対して協力しなくなり、偽装工作や査察妨害などが行われるようになりました。これに対して、米国は安保理決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定しただけでなく、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行い、米英が制裁としてイラク軍施設を攻撃するという構図が繰り返され、UNSCOMは1998年末で活動停止に追い込まれました。

 一方、1995年ごろから、イラクに対する経済制裁に対しては国際社会からも不満の声が高まるようになります。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることにもなっていました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 このため、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月からイラク産原油の輸出が再開されました。以後、イラクは、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果として、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになりました。

 こうして、イラク情勢は安定に向かうかと思われましたが、2001年、イラクを露骨に敵視するブッシュJr政権が発足すると、再び、イラクと米国の関係は緊張。米国は、イラク側が停戦条件に違反して大量破壊併記を秘密裏に製造しており、国際テロ組織アルカイダを支援している疑いがあるなどと主張し(ただし、戦後になって、大量破壊兵器は存在しなかったことが明らかになり、フセイン政権とアルカイダとの関係は立証できませんでしたが…)、国連の査察を受け入れないことを理由として、英国などとともに多国籍軍を構成し、2003年3月20日、対イラク戦争の開戦に踏み切りました。

 イラクに侵攻した多国籍軍は、4月10日までに首都バグダードを制圧するなど、開戦後約3週間でイラクの主要都市を攻略し、フセイン政権を崩壊させました。そして、5月1日、ブッシュJr大統領が“大規模戦闘終結宣言”を発し、イラクはアメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されることになりました。今回ご紹介のカバーは、そうした時期のもので、新体制下での切手発行が間に合わなかったための暫定的な使用例です。

 その後、フセインは2003年12月に逮捕され、1982年に自国のシーア派住民を大量殺害したことが人道に対する罪にあたるとして死刑判決を受け、2006年12月に処刑されましたが、イラク国内はスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、テロが横行する状況となりました。

 こうしてみると、“民主化”によって国民の言論の自由は保障されたものの、人々が生命の危険を身近に感じるようになっている状態と、秘密警察による監視の目が張りめぐらされた恐怖支配ではあっても、宗派対立が抑え込まれて治安はよい状態とでは、はたして、どちらの方が国民にとって幸福であるのか、評価の分かれるところでしょうな。

 さて、今回の『FLASH』の切手特集では、昭和30-40年代に発行された記念切手の現状や中国の切手バブルの話、そして、各国事情が反映された“世界のオモシロ切手”の話など、盛りだくさんの内容となっております。雑誌は全国書店はもとより、駅売店・コンビニなどでも実物をお手に取っていただけますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 イラク議会選挙
2010-03-07 Sun 17:37
 イラク連邦議会選挙の投票が現地時間7日午前7時から始まりました。イラクで全国規模の選挙が行われるのは2003年以来5度目のことです。というわけで、きょうは最近のイラク切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・反テロ

 これは、2008年にイラクで発行された“反テロ”宣伝の切手です。アラビア語で“No”を意味する“la”(印面中央右のXに見えるような文字です)の文字の間から、しゃれこうべを持つ手がにゅっと出ていて、左側におびえて泣く子の写真が取り上げられているのが印象的なデザインです。

 2003年の“イラク戦争”によってサダム・フセイン政権が崩壊した後、イラクはアメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されていましたが、2004年6月28日、国家の主権は暫定政権に移譲されました。これに伴い、有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することになります。

 2005年1月30日に行われた議会選挙の結果、3月16日に国民議会が召集され、10月25日、新憲法が可決承認されます。これに伴い、12月15日、新生イラクの正式政府発足に向けた議会選挙が行われましたが、政権を巡りスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、イラク国内は実質的に内戦状態に突入しました。

 バグダードを始め都市部では自爆テロが相次ぎ、治安を維持するために米軍とイラク国防軍が介入したことで、これに反発するテロが発生するという悪循環で犠牲者は増大していったことは周知のとおりです。今回の議会選挙に際しても、反政府勢力は投票妨害を狙った攻撃を予告していましたが、はたしてバグダード市内では投票開始から数時間の内に30発以上の迫撃砲が発射され、うち3発は官庁や米大使館、軍施設などが集中する旧米軍管理区域(グリーンゾーン)に着弾。またバグダッド北東ではロケット弾で12人が死亡、8人が負傷する事態となっています。

 選挙後の新体制がどのようなものになったにせよ、イラクの治安を回復できるかどうかは甚だ心もとないというのが実情でしょう。“民主化”によって国民の言論の自由は保障されたものの、人々が生命の危険を身近に感じるようになっている状態と、秘密警察による監視の目が張りめぐらされた恐怖支配ではあっても、宗派対立が抑え込まれて治安はよい状態では、はたして、どちらの方が国民にとって幸福であるのか、なかなか判断に苦しむところですな。


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 試験問題の解説(2008年7月)-6
2008-08-06 Wed 10:15
 きのうに引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 イラク国王像(民族服)

 これは、1927年にイラクで発行された通常切手で、国王ファイサルの肖像が取り上げられています。

 オスマン帝国時代の旧バスラ州・バグダード州・モースル州の地域のうち、旧バスラ州と旧バグダード州は、第一次大戦中、英印軍によって占領され、軍政が敷かれていました。一方、モースル州に関しては、休戦時にはオスマン帝国が維持していたのですが、1918年11月、イギリスが休戦時の混乱に乗じて占拠。これら3州は、第一次大戦後の1920年4月、サンレモ会議の決定により、一括してイギリス委任統治領のイラクとされました。

 これに対して、戦後のアラブ国家独立の密約を反故にされたアラブ側は激昂。同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(1920年革命)が起こります。

 このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置。翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集し、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②アラブの英雄・ファイサルを確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針を決定しました。これを受けて、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立しました。

 その後、1922年10月、1926年1月、1927年12月、1930年6月の4回にわたり、イギリス・イラク間での各種の協定ないしは条約が調印されることでイラク側の自立性が高められ、1932年にイラクが国際連盟に加盟したのを受けて、イギリスの委任統治は完全に終結します。

 今回の切手は、ファイサルを描く切手としては最初のもので、伝統的な民族衣装の姿で描かれています。額面がアラブ式のフィルス・ディナールではなく、インド式のアンナ・ルピー(この切手は1ルピー)となっているのは、大戦中、英印軍がイラクを占領して以来の名残りで、1932年の独立以降は通貨改革により、フィルス・ディナール額面の切手が発行されるようになっています。

 試験の解答としては、この切手がイギリス委任統治下のイラクで発行されたモノであること、肖像の人物が国王ファイサルであること、を示したうえで、現在の“イラク”という枠組みが出来上がるまでの経緯を説明してもらえれば十分です。

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 バハマ宛のカバー
2008-07-10 Thu 10:07
 きょう(7月10日)は西インド諸島の島国、バハマが1973年に独立した記念日だそうです。というわけで、バハマがらみのネタはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バハマ宛カバー

 バハマ宛カバー(裏)

 これは、1920年11月、イギリス占領下のモースル(イラク)から、バハマの首都・ナッソー宛に差し出された書留便で、1921年1月のナッソーの着印も押されているのが嬉しいところです。

 現在のイラク国家を構成する地域は、オスマン朝時代、バスラ・バグダード・モースルの三州から構成されていました。

 第一次大戦が勃発すると、イギリス軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始します。しかし、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、イギリス軍はクートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月になってようやくバグダードが陥落します。そして、1918年11月、イギリスは休戦時の混乱に乗じて北部のモースル(イラク有数の油田地帯で、休戦時には陥落していませんでした)を攻撃してここを占拠し、イラク全域を勢力圏内に収めることになりました。

 イラクを占領したイギリス軍は、オスマン朝時代の切手に、当初は“BAGHDAD IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、ついで、バグダードをイラク“IRAQ IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、それぞれ加刷した暫定的な切手を発行しています。なお、これらの暫定切手の額面は、英印軍による占領の影響により、インド式のアンナ・ルピーで表示されていました。今回ご紹介のカバーは、この時期の使用例です。

 その後、1920年4月になると、サンレモ会議の決定に従って、イラク(シリア・パレスチナ地域と異なり、分割されずに単一の行政単位とされました)は正式にイギリスの委任統治領となりましたが、これに対して、同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(現地では1920年革命と呼ばれる)が発生。このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月(ちょうど、このカバーが差し出された時期ですな)、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置しています。

 こうした経緯を踏まえて、翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集。その結果、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②ファイサル(イギリスとともにオスマン帝国と戦ったアラブの英雄)を確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針が決定され、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立することになりました。

 オスマン帝国が解体され、アラブ諸国が形成されていく時期の切手や郵便については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、現在は版元品切れという状況のようです。その後、いろいろとマテリアルも増えたことですし、そろそろ、リニューアル版を作ってみたいのですが、あんまり売れそうにないジャンルですからねぇまぁ、気長にチャンスを待つしかなさそうですな。

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 アラブの都市の物語:バスラ
2007-09-21 Fri 03:25
 NHKのアラビア語会話のテキスト10・11月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、イラク第2の都市、バスラを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

バスラのカバー

 これは、第1次大戦中、バスラを占領した英印軍の野戦郵便局からミラノ経由でジュネーブ宛に差し出された書留便です。書留ラベルにはしっかりと“BASRA BASE”の文字が入っているます。また、貼られている切手は、インド切手にIEFの文字を加刷したインド遠征軍用のものです。

 イラク南部の港湾都市であるバスラは、第1次大戦以前はオスマン帝国の支配下にありました。

 列強の世界分割が進む中で、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダードの3B政策を展開していたドイツは、イスタンブールとバグダードを結ぶ鉄道建設を進めましたが、各国は、いずれその路線がバスラまで延長され、ペルシャ湾へと繋がるものと考えていました。このため、インド防衛の観点から両国の進出を警戒したイギリスは、1899年、バスラに隣接するクウェートの支配者であったサバーフ家との間に、オスマン帝国の頭越しにクウェートを保護国とする条約を調印。さらに、第一次大戦が勃発すると、英印軍がバスラに上陸してこの地を占領しています。

 その後、イギリスの占領下でバスラは補給基地としてインフラ整備が進められ、1917年には近代港湾施設が築港されます。その結果、大戦後、イギリスの委任統治領時代を経て親英政権のイラク王国として独立すると、バスラは同国随一の貿易港として発展していくことになりました。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、西暦7世紀に軍営都市としてバスラが建設されてから、イラク戦争後、この地に駐留していたイギリス軍の縮小・撤退が論議されている現在までのバスラの歴史をご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。
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 試験問題の解説(2007年1月)-1
2007-01-27 Sat 00:37
 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。

 で、今年度はほとんどの学校で成績評価の課題はレポートにしたのですが、1ヶ所だけ試験をやった学校があります。その科目では、中東・イスラム世界の近現代(史)について説明していますので、切手や郵便物の図版を出して、その背景を説明してもらうという問題もいくつか出題してみました。そこで、今日から3回に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学で授業をする機会があると、どんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

アーミリーヤ事件10年

 これは、2001年2月、アーミリーヤ・シェルター事件10周年を記念してイラクが発行した切手(図 )です。デザイン的には、犠牲となった子供を抱きかかえて悲嘆に暮れる母親と、破壊されたシェルターの現場写真とが組み合わされ、残虐なアメリカのイメージが強調されています。

 アーミリーヤ・シェルター事件というのは、バグダード住宅街の地下シェルターへの多国籍軍の空爆で、イラク側の発表によれば、一般市民約500名が死亡したとされる事件で、アメリカの非人道性を示すものとして、フセイン政権時代は盛んに取り上げられていたものです。

 1990年にイラクがクウェートに侵攻して以来、湾岸戦争の終結後も、国連はイラクへの経済制裁を続けていました。しかし、1995年ごろから、経済制裁に対しては、イラクのみならず、諸外国から不満の声が高まるようになります。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることにもなっていました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 このため、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月からイラク産原油の輸出が再開されました。

 こうした国際世論の風向きの変化を察知し、イラクは経済制裁の非人道性を訴えるとともに、湾岸戦争中のアメリカの非道を強調し、国際社会のイラク包囲網に楔を打ち込もうとします。その際、アーミリーヤ・シェルター事件は、アメリカの残虐性をアピールする上で格好の題材となり、1997年には事件7周年の記念切手も発行されています。

 その後、安保理決議986号による石油輸出を再開したイラクは、以後、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果として、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになりました。

 これに伴い、イラクはしばらくアメリカを直裁に非難するような内容の切手を発行しなくなったのですが、2001年、イラクを露骨に敵視するブッシュJr政権が発足すると、再びアメリカ主導のイラク包囲網が強まることを警戒して、今回ご紹介しているような切手を発行したというわけです。

 試験の答案としては、この切手がアーミリーヤ・シェルター事件10周年の記念切手であることを明らかにした上で、アメリカの非人道性を非難するイラクの意図とその背景が説明できているかどうかがポイントとなります。そのうえで、経済制裁のダメージが大きかった時期に発行された事件6周年の記念切手と、イラクが実質的に国際経済に復帰した後に発行された10周年の記念切手とでは、印刷物としての品質にも大いに差があることまで指摘できていれば、バッチリです。

 なお、今日のブログには登場しなかったアーミリーヤ・シェルター事件6周年の記念切手をはじめ、この時期のイラクの切手に関しては、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです。
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