内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ワニの切手
2011-09-06 Tue 23:54
 フィリピン南部の南アグサン州ブナワンで、体長6.4メートル、体重600キロのワニが発見されたそうです。というわけで、きょうはワニの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ノーズボルネオ・ワニ

 これは、1894年、英領ノースボルネオで発行された12セント切手でワニが描かれています。

 ボルネオ島北部、現在のマレーシア・サバ州の地域は、かつては、フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島を領土とするスールー王国の支配下にありました。

 1865年、ブルネイ駐在のアメリカ領事クロード・リー・モーゼズはノースボルネオの10年間の租借権を獲得しましたが、南北戦争の直後ということもあって、アメリカ政府には植民地経営の余裕がなく、租借権はアメリカ・ボルネオ貿易会社に売却されます。しかし、同社はボルネオ経営に失敗し、租借権はオーストリア・ハンガリー二重帝国の香港領事フォン・オーバーベックに売却されます。フォン・オーバーベックは、当初、本国政府にボルネオ経営を持ちかけたものの失敗し、さらに、イタリアへの売却交渉も不調に終わったため、1880年、ボルネオから撤退します。

 こうした事態を受けて、デント商会の係累に当たるアルフレッド・デントが、イギリスの外交官、ラザフォード・オールコックらの支援を受けて、1881年7月、英国ノースボルネオ会社を設立。翌1882年、ヴィクトリア女王の勅許を得て北ボルネオの統治を始め、1888年7月、ノースボルネオをイギリスの保護領とし、英国ノースボルネオ会社がこれを統治する体制を確立しました。これが、いわゆる英領ノースボルネオです。

 ただし、フォン・オーバーベックとスールー王国のスルタンとの間で結ばれた条約は、あくまでもノースボルネオの賃貸契約であり、売買契約ではないため、その後も、1898年にスールー王国が米領フィリピンの一部に組み込まれるまで、同国がノースボルネオの主権者というのが建前でした。したがって、今回ご紹介の切手が発行された1894年の時点では、一応、スールー王国は存続していましたので、フィリピンのワニの話でノースボルネオの切手を持ってきても、あながち的外れではないと強弁できそうです。

 ところが、第二次大戦中、ノースボルネオを含むボルネオ島北部の英領地域が“北ボルネオ”として日本軍に占領されると、戦後、日本軍の撤退を受けてノースボルネオは1946年にイギリスの直轄植民地となり、1963年、マレーシア連邦に編入されます。これに対して、スールーのスルタンの末裔はノースボルネオのスールーへの返還を要求。さらに、スールー王国を継承したとするフィリピン政府もこの立場を支持したため、旧ノースボルネオの帰属をめぐって、フィリピンとマレーシアが対立しました。
 
 なお、英領ノースボルネオの切手は、今回のものも含めて、デザイン・印刷ともに実に素晴らしいものが多く、単純に集めてみたら楽しいだろうなぁと思うのですが、いかんせん、お金のかかるマテリアルが多く、僕の財力では気軽に手を出せないのが辛いところです。

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 赤十字のイノシシ
2007-01-03 Wed 00:49
 まだ三が日ですから、お正月ネタで行きましょう。今年の干支であるイノシシの切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

北ボルネオのイノシシ(赤十字加刷)

 イギリス時代の北ボルネオの切手はデザイン・印刷ともに実に素晴らしいものが多く、今回ご紹介している1909年に発行の10セント切手も、イノシシの切手の中では定番中の定番といってよいものです。おそらく、今年の年賀状にこの切手の画像を使ったという収集家の方も多かったのではないかと思います。

 で、今日の切手は、その10セント切手に第1次大戦末期の1918年10月に赤十字の付加金加刷を施して発行された1枚です。加刷の文字は、赤十字をプラスの記号に見立てて4セントの付加金額を表示したもので、今回の切手は郵便局の窓口では14セントで発売されたということになります。

 第1次大戦そのものは、この切手が発行されて間もなく、1918年11月11日に休戦協定が成立するのですが、赤十字の活動というのは、戦時のみならず、戦後の復員や傷病兵たちの看護といったことにも及んでいるわけですから、戦争が終っても赤十字の活動資金を集める必要がなくなるわけではありません。

 その意味では、今回の付加金つき切手も決して“遅すぎる発行”ということにはならないのですが、現地の住民にとっては、遠くヨーロッパでの戦われていたイギリス人の戦争に対して協力を求められても、なかなか実感がわかなかったというのが正直なところだったんじゃなかろうかと思います。もっとも、そうであればこそ、遠くはなれたボルネオの地の人々までもが、こういう形でイギリスの戦争に協力させられていたというところに、総力戦というものの本質が垣間見えているわけですが…。

 なお、戦時下の国民に戦争への協力を求めるための手段として、切手や郵便物がどのように使われているかという点については、去年、ちくま新書の一冊として刊行した拙著『これが戦争だ!』でも、簡単にではありますが、まとめてみました。機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 旧南方占領地の戦後史(2)
2005-06-18 Sat 01:31
昨日に引き続き、今日(18日)も「旧南方占領地の戦後史」の中からのご紹介です。

ラブアン・カバー

 今回、ご紹介しているのは、1945年12月、ラブアン島(ボルネオ島北部の小島。日本の占領中は“前田島”と呼ばれていた)からオーストラリア宛に差し出されたカバーで、戦前発行の英領ノース・ボルネオの切手に“BMA”の加刷をした切手が貼られています。ご注目いただきたいのは、消印でモールス信号の形をしています。これは、この地域に進駐したオーストラリア軍が使用したものです。

 太平洋戦争というと、我々は日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争というイメージを持ちがちですが、その“イギリス”の中身には、英連邦の一員としてのオーストラリア、ニュージーランドの人々が少なからず含まれていたことを見逃してはならないでしょう。実際、オーストラリア軍は、(米軍と比べるとかなり小数でしたが)敗戦後の日本にも進駐しており、日本との戦争において、英連邦内では重要な役割を果たしています。

 さて、ボルネオ島は、現在、いくつかの国が分割領有していますが、第二次大戦以前は、英領地域と蘭(オランダ地域)領地域に分かれていました。太平洋戦争中は両地域ともに日本軍に占領されましたが、終戦直後、とりあえず両地域に進駐して日本軍の降伏を受理したのはオーストラリア軍でした。その後、戦前の蘭領地域は、独立宣言を発してオランダとの戦争に突入したインドネシア領に組み込まれますが、それ以外の地域は、当面、英領にとどまり、イギリスの支配が復活することになります。
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