内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日豪戦争⑮
2011-10-06 Thu 14:58
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第442号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は終戦直後のオーストラリア軍のボルネオ島進駐の話を書きましたが、そのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        サラワク・豪野戦局カバー

 これは、終戦直後の1945年9月、サラワクに進駐したオーストラリア軍の野戦局から差し出されたカバーです。

 さて、1945年9月2日の降伏文書調印に続き、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で「一般命令第一号」が発せられると、オーストラリア軍は、ボルネオ、チモール、セラム、ブル、アムボン、ケイ、アル、タニムバル、アラフラ海諸島、英領ニューギニア、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビル、ソロモン群島、オーシャン、ナウル及ビスマルク諸島での日本軍の武装解除を担当することになりました。

 このうちのボルネオ島は、第二次大戦以前、北部のおよそ3分の1がイギリスの支配下に置かれ、南部の3分の2がオランダの支配下に置かれていました。英領地域のうち、現マレーシア・サラワク州の地域は、1839年にこの地を訪れた英国人探検家、ジェイムズ・ブルックが英国海峡植民地の後ろ盾を得て征服し、彼とその一族が“白人王”として君臨するサラワク王国が統治していました。

 1941年12月に日英戦争が勃発すると、日本軍は12月16日にサラワクに上陸し、月末までに英領全域の占領を完了。これに、戦前は英領マライの海峡植民地に属していたブルネイ湾入口のラブアン島(日本の占領下では、ボルネオ守備軍司令官だった前田利為・陸軍中将にちなんで“前田島”と呼ばれていた)を加えた4地域を一括し、“北ボルネオ”として陸軍が占領行政を行いました。この結果、戦前にはサラワク、ノースボルネオ、ブルネイ、ラブアンの地域でそれぞれ別個の切手が使われていましたが、日本軍占領下では接収された戦前の切手に“大日本帝国政府”などの文字を加刷した切手が戦前の行政区分の垣根を越えてランダムに使われるようになり、たとえば、占領下のサラワクから差し出された郵便物に、ノースボルネオに加刷した切手と加刷のないブルネイ切手が同時に貼られているということもありました。

 なお、日本軍の占領を前に、サラワク王のヴァイナー・ブルックはオーストラリアに亡命。戦後はサラワクが英国の直轄植民地となったため、王位を回復することはありませんでした。

 今回ご紹介のカバーは、1945年9月、サラワクに進駐したオーストラリア軍の野戦郵便局(消印に地名の表示はないが、038の番号により、在サラワクの局とわかる)から北アイルランド宛に差し出された郵便物です。038野戦局のカバーのうち、オーストラリアのコアラ4ペンス切手が貼られた使用例は現在までのところ、この1点しか確認されていないということなのですが、ちょっとマニアック過ぎて、そのことがマテリアルの市場価格を高めるということにはならなさそうですな。

 なお、今回の記事では、このカバーのほか、オーストラリア軍が進駐したラブアンやクチン(サラワク)、蘭印ボルネオのバリックパパンのカバーなどもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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