内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 プルリス
2015-05-25 Mon 23:58
 きのう(24日)、マレーシア北部、タイとの国境地帯に近いプルリス(ペルリスとも)州内で、人身売買の被害者とみられる数百人の遺体が30カ所の集団墓地に埋葬されているのが発見されていたことが明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       英領マラヤ・プルリス

 これは、1951年、英領マラヤのプルリスで発行された5ドル切手です。プルリスでの独自の切手発行は、1948年に発行された国王銀婚式の記念切手(英領共通図案)が最初でしたが、プルリスとして独自の図案の切手は、今回ご紹介の切手を含む普通切手15種のセットが最初となります。

 プルリス州はマレーシア最北端に位置し、タイのサトゥーン県およびソンクラー県と国境を接しています。もともとはタイ領でしたが、1909年の英タイ条約により、英保護民の治外法権撤廃の代償として、クダクランタン、トレンガヌとともに英国保護領として割譲されました。現在の人口はおよそ20万人で、面積としてはマレーシア最小の州です。

 さて、切手に描かれているのはスルターン(地方君主)のサイイド・プトラです。

 プトラは、1920年生まれ。プルリスの第4代スルターン、サイイド・アルウィ・ビン・アルマルフム・サイイド・サフィ・ジャマールッラーリーには嗣子がなかったため、1943年に彼が亡くなると、日本軍の占領下で義弟のサイイド・ハムザが第5代スルターンとなりました。しかし、1945年9月、英国によるマラヤ支配が復活すると、サイイド・ハムザは廃位され、同年12月、第3代スルターン、サイイド・アルウィ・ビン・アルマルフム・サイイド・サフィ・ジャマールッラーリーの孫であったプトラが、第6代スルターンとして擁立されました。

 その後、プトラは1961-65年にはマラヤ連邦(1957年発足)のアゴンに就任。この間、1963-65年には、シンガポールがマラヤ連邦と合流して、マレーシア連邦が結成されていたため(シンガポールは1965年に連邦を離脱)、形式的には、シンガポールが国家元首として戴いた唯一のアゴンとなりました。その後、2000年に亡くなるまで、プルリスのスルターンとしてはその地位にとどまりました。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

スポンサーサイト
別窓 | 英領マライ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 マラッカに行ってきました
2014-12-01 Mon 07:32
 おととい(29日)、切手展の作品搬入を無事に終え、きのう(30日)は1日フリーになりましたので、クアラルンプールから少し足を延ばして、日帰りでマラッカに行ってきました。というわけで、今日はこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      英領インド切手・マラッカ消

 これは、1861年、マラッカで使用された英領インド切手です。

 現在のマラッカの地は、1396年、シュリヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラがマラッカ王国を建国して以来、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄していましたが、1511年にポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケによって征服されてポルトガル領となりました。その後、1641年にはオランダ東インド会社がジョホールのスルターンの援助を得て、マラッカを占領しましたが、ナポレオン戦争後の1824年に結ばれた英蘭協約で、マラッカ海峡より西側は蘭領、東側は英領と定められたことから、スマトラで英国が影響下に置いていたアチェ王国と交換に英領となりました。これを受けて、1826年、マラッカはペナンやシンガポールとともに英領海峡植民地の一部となります。

 海峡植民地に相当する地域と欧米との郵便交換の資料としては、1806年にペナン島から差し出された郵便物が、現在確認されている郵便印の最古の使用例です。当初、往来する船舶の幸便に託されていた郵便交換は、海峡植民地成立後の1837年、英国東インド会社がこの地域の郵便事業の独占権を得たことで定期的に行われるようになり、1854年以降は、料金徴収のため、マラッカ、ペナン、シンガポールに英領インド切手が持ち込まれて使用されるようになりました。その際、マラッカではB109、ペナンではB147、シンガポールではB172の抹消印が使用されています。今回ご紹介の切手は、そのうちのB109のマラッカ局の印が押されたモノというわけです。

 ちなみに、マラッカの郵便局は、市内中心部、オランダ広場に面した博物館の建物の一角にあります。昨日はあいにく日曜日で中には入れませんでしたが、外観はこんな感じでした。

      マラッカ郵便局     マラッカ郵便局(建物全体)
 
 左側の写真が郵便局の正面、右側の写真が、郵便局を含む建物全体(郵便局は画面では建物の一番奥のスペースになります)の写真です。オランダ統治時代に建てられた煉瓦色の建物は、B109 の抹消印が使用されていた時代を髣髴とさせるもので、なかなか灌漑深いものがありました。

 さて、今回の世界切手展<MALAYSIA 2014>は、マラッカおよびペナンでの1854年の切手使用開始から160周年になるのを記念しての開催だそうです。きょうは現地時間の朝10時から開会式が行われますが、審査員とコミッショナーは、その前の9時に集合がかかっていますので、僕もこれから朝食を済ませて会場に行くつもりです。開会式の様子などは、明日のブログでご報告できれば…と考えております。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。
別窓 | 英領マライ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 日豪戦争⑦
2011-02-02 Wed 23:43
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第418号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、1941年の日豪開戦前夜の状況を取り上げましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        在マラヤ豪軍

 これは、日豪開戦直前の1941年10月、マラヤに駐屯していたオーストラリアの野戦郵便局からさし建てられた郵便物で、消印には“AIF(Australian Imperial Forces:AIF、志願兵から構成されるオーストラリア帝国軍)”の文字があり、封筒の右下には帝国軍によって検閲を受けたことを示す角型の印が押されています。

 1941年2月22日、英極東軍総司令官が司令部のあるシンガポールで極東防衛に関する会議を招集し、英蘭豪共同防衛作戦計画が策定されました。

 英本国は、大戦の主敵がドイツであるにしても、英連邦全体の防衛のためには何としてもシンガポールを死守しなければならないと考えていましたが、当時は中立国だった米国は、仮に自分たちが大戦に参戦した場合は、一時的にフィリピンなどの戦略拠点を失うことになっても、まずは対独戦に全力を傾注すべきと考えており、英国によるシンガポール偏重の姿勢には疑問をもっていました。このため、米英間の妥協の産物として、対日戦争の開戦後。米国は中部太平洋(マーシャル諸島など)に艦隊を派遣して日本軍を逸らすことで英国のシンガポール防衛に協力するという米英参謀協定(ABC-1)がまとめられています。

 これに基づき、4月21日、米英蘭の現地部隊がシンガポールで会談し、より具体的な作戦計画の概要としてADB協定(案)を策定。ただし、このABD協定に基づき、英蘭豪の三国は4月27日に兵力展開計画を定めたものの、米国政府はABD協定がシンガポール防衛偏重の内容になっていることを不満として、同協定を承認していません。

 一方、シンガポールならびにマレー半島の防衛に関しては、日英開戦の時点で駐留していた英側の兵力は、英本国兵1万9600、インド兵1万9600、オーストラリア兵1万5200、その他1万6800の合計8万8600でした。

 このうち、オーストラリア兵から構成される第8オーストラリア師団は、もともとは中東・北アフリカ戦線でナチス・ドイツと戦うことを想定して編成され、訓練を受けていましたが、太平洋地域での緊張が高まり、日本との戦争が想定されるようになると、1941年2月2日、同師団所属の第22旅団が英領マラヤに送られ、第23旅団がダーウィンへと送られました。さらに、4月には第2/22大隊がラバウルとニューブリテン島に送られ、8月には第27旅団が第22旅団とともに英領マラヤ南部の防衛を担当することになりました。ちなみに、北部の担当は第9ならびに第11インド師団です。

 ところで、マレー進攻作戦を担当した日本の陸軍第25軍の兵力(1941年11月末)は17万2000名で、英連邦側の兵力はその半分しかありませんでした。しかも、日本側には日中戦争以来の歴戦の勇士が少なからずいたのに対して、英連邦側は兵の練度が低く、実際の差はもっと大きかったといえましょう。

 また、航空兵力に関していえば、開戦時の英連邦軍機が158機(予備機88機)しかなかったのに対して、日本軍の航空兵力は陸軍459、海軍158の計617機(予備機が陸軍153、海軍29)と4倍近い規模を誇っていました。しかも、英連邦軍機の多くは、英本土での対独戦争を優先させるため、性能の劣る旧式機ばかりでした。

 このように、マレー・シンガポール方面に関する限り、日本と英連邦軍の戦力差は歴然としていたのですが、英本国は人種的偏見もあって、対日戦争は「ロールスロイスとダットサンの戦い」として日本側を完全になめきっていました。

 そのことを象徴するように、開戦2日前の1941年12月6日、ひとつの“事件”が起きています。

 この日、オーストラリア空軍第1飛行隊のハドソン偵察機が、カモー岬南東のシャム湾を日本海軍が護衛する大船団が航行しているのを発見しました。当然のことながら、オーストラリア側の哨戒活動を察知した日本のゼロ戦が偵察機の攻撃に向かったが、偵察機はからくも逃れ、コタバル飛行場に帰着しています。

 さっそく、パイロットは英極東総軍総司令官の空軍大将ロバート・ブルック・ポッファムに状況を報告。ところが、対独戦争で余裕のなかった英国政府が、対日戦争を極力回避して時間を稼ぐことを基本方針としていたこともあって、ポッファムは、とりあえず偵察を強化して日本船団の行き先を確認するにとどめ、事態を静観すべきとの判断を下してしまいます。ポッファムは「日本側はイギリス軍の攻撃を誘って開戦の口実にしようとしているのではないか」とさえ考えたそうです。

 その後、あらためてシャム飛行場からオーストラリア空軍の偵察機3機が発進しましたが、悪天候のため、日本船を発見できずにむなしく帰還。同日夜にはシンガポール島のセレター飛行場から英空軍の偵察機2機が飛び立ち、1機がパンジャン島西方40キロのシャム湾上で日本側に撃墜され、帰還しませんでしたが、それでもポッファムは動きません。

 翌7日朝、あらためてコタバル飛行場からオーストラリア空軍のハドソン偵察機3機が発進しましたが、2機は悪天候で引き返し、残る1機も何も発見できずに帰還しています。

 この結果を踏まえて、英海軍東方艦隊(1941年10月24日に編成。12月2日に旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」がシンガポールに到着)司令長官の海軍大将トム・フィリップスと協議したポッファムは、「なにもしない」との結論に到達します。

 実は、英極東総軍としては、日本軍に先んじてタイ南部に侵入し、国境付近のシンクラー周辺の要地と付近の飛行場を確保する「マタドール」作戦を立案していました。

 しかし、マタドール作戦は日本軍上陸の24時間前に発動して日本側を迎撃することを前提としたプランであり、問題の日本船団が既にシンクラーに向かっているのであれば迎撃のための出動は間に合いません。また、船団の行き先がシンクラーでないのなら、イギリス側が先にタイの領土を侵犯することは日本に開戦の口実を与えることになってしまいます。

 こうしたことから、ポッファムは7日夜の時点では「マタドール」作戦を発動しないとの判断を下したのです。

 しかし、日付が変わって翌8日の0時40分、日本陸軍第5師団の主力を乗せた舟艇は、まさに、そのシンクラーの海岸に向けて前進を開始。これに先立ち、0時35分、第18師団の佗美支隊が英領マレーの北端、コタバルへの上陸作戦を開始しています。真珠湾攻撃の1時間20分前のことでした。

 かくして、現在の日本人が一般に太平洋戦争と呼んでいる戦争、すなわち、僕の連載の主題である日豪戦争が勃発したのです。

 次回以降の連載では、いよいよ、日豪両国の戦闘についてみていくことにします。ご期待ください。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

        マカオ紀行・表紙カバー

   マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く
       彩流社(本体2850円+税) 

   マカオはこんなに面白い!
   30の世界遺産がひしめき合う街マカオ。
   カジノ抜きでも楽しめる、マカオ歴史散歩の決定版!
   歴史歩きの達人“郵便学者”内藤陽介がご案内。

 全国書店・インターネット書店(amazonbk1boox storeconeco.netDMM.comHMVJBOOKlivedoor BOOKSYahoo!ブックスカラメル紀伊国屋書店BookWebゲオEショップジュンク堂セブンネットショッピング丸善楽天ブックスなど)で好評発売中! 

別窓 | 英領マライ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 春節快楽
2010-02-14 Sun 17:55
 きょう(2月14日)は春節です。というわけで、トラ年の正式なスタートにあたり、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マレーのトラ

 これは、1931年3月10日に英領マレー連邦で発行された1ドル切手です。

 マレー半島を植民地化したイギリスは、重要な港であったペナン、マラッカ、シンガポールを直轄の海峡植民地とし、残る地域では在地の首長であるスルタンを通じた間接統治を行っていました。このうち、ネグリ・スンビラン、パハン、ペラ、スランゴールの各州は、1896年7月1日、英領マレー連邦を構成することになりました。

 連邦の結成当初、各州では従来からの切手がそのまま使われていましたが、1900年、ネグリ・スンビランならびにペラの切手に“FEDERATED MALAY STATES”と加刷した連邦共通の切手が発行されたのに続き、今回ご紹介のようなデザインのトラの切手が発行されました。

 その後、“マレーのトラ”切手は30年以上にもわたって使われましたが、発行時期によって透かしが異なっているため、大きく3つのシリーズに分類されています。また、1900年のシリーズでは、1ドル以上の高額切手は3頭の像を描くデザインでしたが、1930年代に入ると、最高額の25ドルを除き、1ドル・2ドル・5ドル切手もトラのデザインとなりました。地元の人たちの感覚としては、20世紀初頭の1ドルは1930年代の25ドルくらいに相当するということだったのかもしれませんな。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

  総項目数552 総ページ数2256  
  戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結!

      昭和終焉の時代  『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込)

 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

 全国書店・インターネット書店(amazonbk1JBOOKlivedoor BOOKS7&Y紀伊国屋書店BookWebゲオEショップ楽天ブックスなど)で好評発売中!

別窓 | 英領マライ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 今夜はカウントダウン
2007-08-30 Thu 01:21
 マレーシアは明日(8月31日)、独立50周年の記念日ということで、今夜は主要都市ではカウントダウン・イベントが行われるそうです。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

マラヤ連合

 これは、1946年6月8日、英領植民地・統一図案の戦勝記念切手として発行が計画されていたものの、不発行に終わったマラヤ連合の切手です。

 第二次大戦以前、イギリス支配下のマレー半島は、①ペナン、マラッカ、シンガポールを中心とした直轄の海峡植民地、②スルタンを通じて間接統治を行うマレー連邦州(ペラ、セランゴール、ネグリ・スンビラン、パハン)と、③マレー連邦への加盟を拒否したスルタンの非連邦州(ジョホール、クランタン、ケダ、トレンガヌ)に分かれていました。

 第2次大戦中、これらの地域は日本軍に占領されましたが、戦後、日本軍が撤退するとイギリスは植民地支配の再開にあたって、シンガポールを除くマレー半島をすべてマラヤ連合として統合しようと考えます。このときのマラヤ連合の構想では、スルタンの権限を縮小し、各州に配置される英国人知事が行政を担当することになっていたほか、中国系やインド系を含むすべての人種に平等な市民権を与えるなどの方針となっていました。

 このため、人口的には多数派を占めていながら、経済的には少数派の華人の後塵を拝し続けてきたマレー人は、イギリスの提案した“平等”に猛反発。このため、一応、1946年にマラヤ連合は発足したものの、イギリスは翌1947年にマラヤ連合との間でマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足します。そして、以後10年間の独立運動を経て、1957年8月31日にマラッカでマラヤ連邦の独立が正式に宣伝されることになるのです。

 今回ご紹介の切手は、こうした事情の下で1946年に発行が計画されていたものですが、マラヤ連合構想へのマレー人の反対が強かったことから、結果的にお蔵入りとなりました。

 10年前の独立40周年のとき、たまたまクアラルンプールにいた僕は、独立記念日の前夜祭としてムルデカ広場で行われたカウントダウン・コンサートに行き、シーラ・マジッドをはじめ、かの国の一流ミュージシャンたちの演奏を聞いて非常に感激した記憶があります。今年もまた、同じようなコンサートがあるんでしょうねぇ。行きたかったなぁ。
別窓 | 英領マライ | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 旧南方占領地の戦後史(1)
2005-06-17 Fri 01:29
 明日(18日)と明後日(19日)の二日間、東京・目白の<切手の博物館>(地図等はhttp://yushu.or.jp/museum/index.html をご覧ください)にて、(財)日本郵趣協会の登録審査員によるワンフレーム展(難しいことをいうといろいろあるのですが、まぁ一言で言えば、切手の専門家によるミニコレクションの展示会、とお考えください)が開催されます。

 僕は、この展覧会には「旧南方占領地の戦後史」と題する小品を出品します。内容は、太平洋戦争中、日本が占領していた東南アジア地域が、戦後、どのような歴史をたどったのか、切手や郵便物で見てみようというものです。

 10月末に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の全国切手展<JAPEX>で、戦後60年にちなみ、“1945年”という企画展示をやるのですが、今回の展示はその一部の試作プレビューです。

 で、展示用のディスプレイの形に加工した“作品”は、既に、郵趣協会の事務局に納めてしまったのですが、その中からいくつか、面白そうなモノを何日かに分けてご紹介していきたいと思います。

 第1回目の今日は、終戦直後のペナン(マレーシア)での航空郵便のカバーです。

ペナンのカバー

 1945年9月、日本の敗戦に伴い、イギリスはマレー半島に再上陸し、軍政が施行されました。しばらくすると、終戦とともに一時停止されていた海外宛の郵便取扱も再開されますが、当初は必要な切手の配給が間に合わず、切手の代わりに、料金を収めたことを示す印を押して対応するということも行われました。このカバーもその一例で、1945年10月、ペナンからアイルランド宛に差し出されたものです。料金を納めたことを示すのは、右側の黒い印ではなく、その左の(残念ながら半欠けになった)赤い印です。

 封筒は、1937年のイギリス国王の即位の記念に作られたモノを引っ張り出してきて使っています。国王夫妻の肖像を掲げ、イギリス支配の復活を歓迎するという意思を差出人が示そうとしたものと思われます。

 インドネシアやフィリピン、ベトナム等と異なり、マレー半島の独立は、戦後間もない時期にはほとんど問題とされませんでしたが(マレー人が独立を望まなかったということではなく、イギリス側がマレーの独立について検討する気が全くなかったためです)、そうした状況が反映されたようなカバーといってよいでしょう。

 ちなみに、ペナンを含むマレーで、戦前の切手にイギリス軍政をしめす“BMA(British Military Administration)”の文字を加刷した新切手が発行・使用されるようになるのは、1945年11月以降のことでした。
別窓 | 英領マライ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/