内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(42)
2016-07-17 Sun 16:46
  ご報告が大変遅くなりましたが、『本のメルマガ』613号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、サブラー・シャティーラ事件について取りあげ、この切手をご紹介しました。

      テュニジア・サブラー・シャティーラ事件

 これは、事件から1周年にあたる1983年9月20日、PLO本部所在地のテュニスを擁するテュニジアが事件の犠牲者を追悼するために発行した寄附金つき切手です。

 1975年に始まったレバノン内戦は、当初、ムスリム有利に展開され、PLOは実質的にレバノン全土を制圧する勢いでした。しかし、レバノンがPLOならびに急進改革派の支配下に置かれることで、レバノンとイスラエルの全面戦争が勃発し、戦禍が自国にも及ぶことを恐れたシリアが内戦への介入を決断。このため1976年6月、シリアは、レバノン大統領スレイマン・フランジェの要請に応えるかたちをとって派兵し、レバノン全土を制圧します。

 その後、1976年10月には、サウジアラビアとクウェートの仲介により、サウジアラビアの首都、リヤドで内戦終結のためのアラブ首脳会議が開催され、内戦の当事者間で停戦合意が成立。そして、この合意を受けて、シリアを主力とする停戦監視のための平和維持軍がレバノン全土に展開し、11月21日、レバノン政府は内戦の終結を宣言しました。

 しかし、シリア軍の駐留したレバノン南部(住民はシーア派系が多数を占めていた)は、当時すでに、PLOの実質的な支配下に置かれ、レバノン政府の影響力の及ばない治外法権地域の様相を呈していました。こうした状況に加え、強硬な反イスラエル姿勢を鮮明にしていたシリアがこの地に駐留したことで、イスラエル北部での軍事的緊張はいやが上にも高まることになります。実際、この時期のPLOは、シリアの擁護を受けてイスラエル北部への攻撃を展開していました。

 このため、1978年3月、イスラエル軍はレバノン南部に侵攻。リタニ川まで攻め込み、その南に「安全保障地帯」を設置します。

 その後、レバノンの国内情勢は一時的に安定したものの、1981年ごろから、ベイルート=ダマスカス間の街道を護衛する目的で配置されていたシリア軍が、キリスト教マロン派政党で親イスラエルの姿勢を鮮明にしていたファランヘ党の支配地域への攻撃を行ったことで、紛争が再燃。ファランへ党はイスラエル軍に救援を求め、シリアとイスラエルの緊張が高まりました。

 これに対して、レバノン南部を実質的に支配していたPLOは、イスラエル北部に対する越境攻撃を本格化させるようになります。当然、イスラエルは、PLOの攻撃に対して報復し、ベイルートのPLO本部を含むレバノン領内のPLO施設に対する空爆攻撃が行われました。

 エジプト=イスラエルの和平成立により中東情勢が安定すると考えていた米国は、このようなレバノンでの戦火拡大に懸念を抱き、1981年7月、フィリップ・ハビブを特使として派遣。サウジアラビアとともにイスラエルとPLOの停戦を仲介したものの、この停戦合意はすぐに破綻します。

 こうした状況の中で、イスラエルはレバノン南部に点在するPLOの拠点を潰滅させ、彼らの対イスラエル攻撃を断念させるべく、「ガリラヤの平和」と称する軍事侵攻作戦を策定。1982年6月、PLO関係者によるイギリス駐在のイスラエル大使暗殺未遂事件の報復としてレバノンに侵攻し、7週間にわたってベイルートを包囲しました。

 こうして、レバノン内戦はレバノン戦争ともいうべき段階に突入したが、イスラエルとの全面戦争を恐れる他のアラブ諸国から、レバノンへの援軍は派遣されませんでした。

 イスラエルのレバノン侵攻は、エジプトとの南部戦線の和平によって生じた余力をイスラエルが北部戦線へ振り分けたものだったわけですが、イスラエル軍とともにベイルート攻撃に参加したファランヘ党民兵による、一般ムスリム(その多くはPLOと無関係です)の大量虐殺事件が明るみに出たことで、ガリラヤの平和作戦には国際社会から厳しい非難が浴びせられることになります。

 こうした状況に対して、レバノン国内のムスリム勢力は次第にPLOとは距離を置くようになり、イスラエル軍の侵攻を招いた原因となっているPLOの国外退去を求めるようになっていきました。

 結局、1982年7月、PLO議長のアラファトは、元レバノン首相サエブ・サラムをはじめとするスンナ派ムスリムの指導者の要求を受け入れてPLOのレバノンからの撤退を決定。平和維持部隊として派遣されたフランスの部隊が援護するなか、8月30日、アラファトがアテネに向けて出航したのを最後に、PLOはベイルートを完全に撤退してテュニスへと移転し、レバノンでのPLOの影響力は壊滅しました。そして、米仏伊の多国籍軍が、パレスチナ人ならびにムスリム市民保護のためベイルートに展開したほか、レバノン南部はイスラエルの占領下に置かれました。

 PLOをレバノンから撤退させたことで、イスラエルのレバノン侵攻作戦は所期の目的を達したかのようにおもわれました。特に、PLOの駐留を地元住民が疎んじていたことから、彼らは、自分たちが“解放軍”として迎えられるのではないかとさえ考えていたようです。

 しかし、占領者は誰であろうとも占領者でしかなく、レバノン住民は新たな占領者に対する抵抗運動を展開することになります。

 すなわち、レバノンの平和維持活動に関与していた米仏両国は、PLO撤退後のレバノン新政権の大統領に選出されたバシール・ジェマイエルを支援してレバノン国内の正常化をはかりましたが、レジスタンス勢力は彼らをも招かれざる外部勢力として抵抗したのです。

 こうした状況の下で、イスラエルは、レバノンを親イスラエル国家にしようという思惑から、1982年8月23日の大統領選挙では、反シリア・親イスラエルの立場を鮮明にしていたバシール・ジェマイエル(ファランヘ党)を支援。バシールを当選させることに成功しました。

 しかし、1982年9月22日、ジェマイエルは大統領就任を目前にして爆弾テロで暗殺されてしまいます。イスラエルはこれをPLO残党の犯行とみなし(現在では、真犯人はシリア社会主義民族党のメンバーだったとみられています)、“レバノン軍団”(ジェマイエルが組織したマロン派民兵組織)はパレスチナ人への報復を決意。1982年9月16日午後6時、イスラエル国防軍はレバノンのサブラーとシャティーラにあったパレスチナ難民キャンプへ向けて照明弾を発射したのを合図としてレバノン軍団の民兵たちが一斉にキャンプに突入し、2日間で少なくとも762人(最大で3500人)のパレスチナ難民が虐殺されました。

 これが、いわゆる“サブラー・シャティーラ事件”です。

 事件は国際社会に大きな衝撃を与え、1982年12月16日の国連総会は、事件をジェノサイドとして非難する決議を123ヵ国の賛成多数(米、英、イスラエル、カナダは棄権。反対はなし)で可決。当時のイスラエル国防相アリエル・シャロンと参謀総長ラファエル・エイタンが引責辞任に追い込まれました。

 今回ご紹介の切手は、事件から1周年にあたる1983年9月20日に寄附金つきで発行されたもので、事件で犠牲になったパレスチナ難民の多くがアラブのムスリムであったということを踏まえて、岩のドームもしっかりと描かれています。

 なお、この切手が発行されてからおよそ1ヵ月後の1983年10月23日、レバノンではシーア派組織のヒズブッラーによる“殉教作戦”という名の自爆テロが開始され、レバノン内戦は新たな局面に突入することになるのですが、そのあたりについては、いずれ別の機会にご説明したいと思います。
 

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 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2016チラシ

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 会期中の7月23日15:00から、すみだ産業会館9階会議室にて「リオデジャネイロ歴史紀行」と題するトークイベントを行います。ぜひ、ご参加ください。


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 “アルプス越え”のルートが判明
2016-04-09 Sat 09:25
 紀元前3世紀、カルタゴのハンニバル将軍による“アルプス越え”したルートを、北アイルランドのクイーンズ大学ベルファストなどの研究チームが、軍馬の糞の痕跡から特定したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      テュニジア・ハンニバル(1995)

 これは、1995年にテュニジアで発行されたハンニバルの肖像切手です。

 紀元前264-241年の第一次ポエニ戦争の結果、カルタゴはシチリア島をローマに割譲しました。その損失を補うため、カルタゴは、当時未開の地であったヒスパニア(イベリア半島)の征服と植民地化が進められ、紀元前226年、ローマとの間にエブロ川以北には進出しない旨の誓約が交わされました。

 紀元前221年、ヒスパニア開発に尽力したハスドルバルが暗殺され、その後継者となったハンニバルは、カルタゴの防衛のためには地中海の制海権を握るローマを屈服させねばならず、そのためには、イタリア本土を直接攻撃することが必要であると考え、アルプス山脈を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという作戦を立案。紀元前218年5月、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)から海岸線沿いに南フランスを進み、5万の兵と37頭の象を率いてアルプス越えに挑みました。これが第二次ポエニ戦争の始まりです。

 このアルプス越えの具体的なルートについては、当時の記録が残されていなかったこともあり、これまで諸説がありましたが、今回の研究チームは、フランスとイタリアの国境付近にあるトラベルセッテ峠を調査し、軍馬の糞と思われる堆積物を大量に発見。その分析から、ハンニバルの時代のクロストリジウム属の微生物を確認し、ハンニバル軍が通過したことを明らかにしたというわけです。

 さて、過酷な行軍により、イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は2万6000名と象3頭にまで激減していましたが、カルタゴ軍がイタリア北部に出現したことはローマに大きな衝撃を与え、以後、カルタゴ軍はイタリア半島各地でローマ軍を撃破しました。

 しかし、カルタゴ本国の無策から、ローマはハンニバルの拠点であったイベリア半島を攻略。さらに、勢いに乗ったローマ軍は、北アフリカへ逆侵攻し、カルタゴ本国での敗戦に狼狽した政府はハンニバルを本国に召還し、紀元前202年のザマの戦いで、カルタゴは敗北しました。

 第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマから懲罰として巨額の賠償金(ローマはカルタゴがこれを拒否したら、カルタゴに宣戦布告し、カルタゴを滅亡させようと考えていました)を課せられましたが、ハンニバルは経費節減による行政改革を徹底して賠償金返済を完遂し、政治指導者としても並々ならぬ力量を発揮します。

 しかし、国内の権力闘争から反ハンニバル派が「ハンニバルはシリアと内通している」とローマへ訴えたことで、ハンニバルはカルタゴを脱出し、シリアへと亡命を余儀なくされます。その後、彼は、シリア軍を率いてローマと対峙したものの、結局は敗北。クレタ島、そして黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した後、服毒自殺しました。

 ちなみに、切手に取り上げられているハンニバルの肖像は、1704年にフランスの彫刻家セバスティアン・スロッツが制作した大理石の彫刻がもとになっています。スロッツの作品は高さ2.5m で、ハンニバルが紀元前216年のカンネーの戦いで葬ったローマ貴族の指輪を数えている場面を表現したもので、ルーヴル美術館のピュジェの中庭に、ニコラ・クストゥーの彫刻“ユリウス・カエサル”と対になって飾られています。


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 岩のドームの郵便学(38)
2016-02-20 Sat 10:51
  ご報告が大変遅くなりましたが、『本のメルマガ』598号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1980年代初頭のテュニジアについて取りあげました。その中から、この1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      テュニジア・パレスチナ支援(1981)

 これは、1981年11月にテュニジアが発行した“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”の寄附金つき切手です。

 フランス保護領時代の1934年、テュニジア独立運動の指導者であったハビーブ・ブルギーバはフランス当局によって逮捕され、砂漠の収容所に抑留されました。その後、第二次大戦が勃発し、フランスがドイツに降伏すると、獄中のブルギーバはドイツ軍によって釈放され、ドイツへの戦争協力を求められましたがこれを拒否。1943年にカイロに亡命して、北アフリカのフランス植民地解放を推進する国際運動を進めます。

 第二次大戦後の1949年、ブルギーバは一時帰国を許されましたが、1952年には再逮捕され、再び亡命して国外で独立運動を指導することになりました。

 その過程で、1952年6月、ブルギーバ側近のバヒ・ラドガムはテュニジア独立運動への支援を求めてイスラエル外務省の創設者の一人であるギディオン・ラファエルに接触。ブルギーバ本人も、独立後のテュニジアはイスラエル国家の解体を求めず、中東の平和促進のために努力するつもりだと述べるなど、パレスチナ問題に関しては、明らかに、他のアラブ諸国と一線を画していました。

 1956年3月20日、テュニジアは伝統的な地方君主であるベイを元首とする立憲君主国“テュニジア王国”として独立します。同月25日の選挙ではブルギーバの新憲政党を中心にして結成された民族戦線が圧勝し、ブルギーバは初代首相に就任。さらに、翌1957年、ブルギーバは王制を廃して自らテュニジア共和国初代大統領に就任しました。

 この時期は、1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)でエジプトが英仏のスエズ侵攻作戦を撃退したことで、ナセルと彼の唱道するアラブ民族主義の権威が絶頂期にあったこともあり、表面上は、ブルギーバのテュニジアもナセルに接近する姿勢を示していました。

 アラブ諸国の対イスラエル政策の基本は、“イスラエルを承認せず、イスラエルとは交渉せず、和平を結ばず”の三不政策であり、アラブの一員としてのテュニジアも、建前としては“反イスラエル”を掲げ、三不政策を順守していることになっていましたが、実際には、ブルギーバは秘かに駐仏イスラエル大使のヤアクーブ・ツールと接触しており、そのルートを通じて、テュニジアの財務大臣がイスラエルに対してテュニジア国内の大型農業開発への援助を極秘裏に要請するなど、テュニジアとイスラエルは実質的には良好な関係にあったといえます。

 ただし、一般のテュニジア国民の感情としては、アラブの同胞であるパレスチナを解放し、宿敵イスラエルを打倒すべきとする声が圧倒的多数でしたし、なにより、三不政策の“抜け穴”になっているという公然の秘密が問題視されて周辺アラブ諸国からの孤立を招くことは避けなければなりませんでしたから、テュニジアは1973年の第4次中東戦争にもごく少数の部隊を派遣しています。

 世俗主義的なリアリストであったブルギーバは、国家の近代化(西洋化)と国民の生活水準向上こそが政治の重要課題であり、それゆえ、イデオロギーとは無関係に、必要とあらば(イスラエルを含む)どの国・組織とでも手を結ぶ全方位外交を展開していました。北アフリカ諸国の中で、反西欧・反イスラエルのイデオロギーを鮮明に掲げていたリビアやアルジェリアは潤沢な石油資源があったため、そうした自己主張が可能でしたが、資源に乏しいテュニジアは、主に欧米人を対象とした観光収入に依存し、西側資本主義諸国との協力・援助が不可欠だったがゆえに、イスラエルに対しても現実的な姿勢を取らざるを得なかったのです。

 1979年のエジプト・イスラエル単独和平の結果、エジプトは“アラブの大義”に反したとしてアラブ連盟を追放されましたが、エジプトを批難したアラブ諸国の指導者たちも、1967年の第3次中東戦争での壊滅的な敗北の経験を考えれば、従来の三不政策が非現実的なものであることは十分に認識していました。さりとて、“アラブの大義”は国民統合のための重要なイデオロギーであったから、国民が納得できる大義名分のないまま、これを撤回してイスラエルに融和姿勢を取ることはリスクが大きすぎます。したがって、表面上は“アラブの大義”を掲げ続けるものの、実際にはイスラエルと水面下での接触をはかるというのが、現実的な対応となります。

 その場合、三不政策の“抜け穴”であったテュニジアの首都、テュニスは格好の場所であり、それゆえ、エジプト追放後のアラブ連盟本部の移転先として白羽の矢が立てられたのです。

 アラブ連盟の本部所在地となることは、ある意味で“アラブの盟主”となることでもありましたから、たとえばリビアのように、強固なアラブ民族主義を掲げるイデオロギー国家であれば、本部の移転の記念切手を大々的に発行したのでしょうが、全方位外交を旨とするテュニジアが連盟本部のテュニス移転そのものを記念する切手を発行することはありませんでした。

 一方、テュニジア国内では、1974年にブルギーバが終身大統領となり、権威主義的な独裁体制を構築していたが、そのことに対する国民の不満も次第に鬱積していきます。

 そのことを象徴するような事件が、1978年1月26日の“暗い木曜日”です。

 事件は、テュニジア労働者総同盟(UGTT)が組織したゼネストに対して、これを鎮圧するために動員された軍の発砲により130人余の死者が出たというもので、これを機に、UGTTは徹底的な弾圧を受けることになります。

 このため、政府に対する抗議活動の主力は、“イスラム志向運動(MTI)”を中心としたイスラム系諸団体へと移行。特に、1979年2月に遠くイランで発生したイスラム革命は、テュニジアのイスラム主義者たちにも大きな刺激を与え、彼らの運動は国際的なイスラム復興主義とも連動していくことになりました。

 こうした中で、1981年5月31日、MTI は25人の執行委員を選出したうえで、政党としての認可を申請しましたが、政府はこれを許可せず、MTIの反政府活動を告発し、彼らを批難するキャンペーンを展開。7月18日にはMTIの幹部および活動家60人を逮捕し、組織を抑え込みます。

 こうして、テュニジア国内の反政府活動は強引に抑え込まれましたが、国内の亀裂は深刻な状況であることが誰の目にも明らかになります。

 アラブ連盟本部のテュニス移転の記念切手さえ発行しなかったテュニジアが、1981年11月、突如、今回ご紹介の“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”と題する3種セットの寄附金つき切手を発行したのも、アラブ連盟の本部所在地であることを活かして、国民統合の象徴として“アラブの大義”を強調する意図があったためと考えられます。

 なお、この切手が発行された翌年の1982年9月、PLO本部はベイルートからアラブ連盟本部所在地としてのテュニスに移転。テュニスはパレスチナ解放運動の重要な拠点になりますが、テュニジア政府は、それを積極的に支援していたというよりも、国内の体制を脅かさない限りにおいて、彼らの活動を黙認するというスタンスでした。ちなみに、1993年のオスロ合意とパレスチナ自治政府の樹立について、テュニジア政府は、テュニジアが長年にわたりPLOとイスラエルの(秘密)交渉を仲介し続けてきたからこその成果であると主張しています。


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 3月8日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。


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 ジャスミン革命5周年
2016-01-14 Thu 11:39
 2011年1月14日、23年間独裁を続けていたテュニジアのベンアリ大統領がサウジアラビアに亡命し、いわゆるジャスミン革命が達せられてから、ちょうど5年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      テュニジア・青年革命(2011)

 これは、ベンアリ政権崩壊後間もない2011年3月25日、テュニジアで発行された“1月14日革命”の記念切手です。革命の名称については、日本を含む西側メディアなどでは、テュニジアを代表する花の名から“ジャスミン革命”という呼称が定着していますが、切手発行時のテュニジア郵政の報道資料では“1月14日革命”となっていました。

 ジャスミン革命の発端は、2010年12月17日、シディ・ブ・サイドで、露天商のモハメド・ブアジジに対して、販売の許可がないことを理由に地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から侮辱を受けたという事件でした。その後、ブアジジは没収された秤の返還を求めたところ、賄賂を要求されたため、同日、抗議の焼身自殺を行います。その様子が、フェイスブックに投稿されたことで、アルジャジーラによって報じられることになり、長期独裁政権に対する不満が爆発。暴動・ストライキは急速に拡大し、2011年1月14日、ベンアリは政権は崩壊しました。

 ベンアリの亡命後、いったんはモハメド・ガンヌーシ首相が暫定大統領に就任しましたが、この就任には憲法上の問題があるとの指摘が出たため、翌15日、下院議長のフアド・メバザがあらためて暫定大統領に就任しました。

 メバザ暫定大統領は、ベンアリ政権崩壊の記念日として、毎年1月14日を“青年革命記念日”とすることを決定。今回ご紹介の切手では、これを受けて“青年革命(La Revolution des Jeunes)”との表示が入っています。

 その後、2011年10月23日に制憲議会選挙(定数217)が実施され、アンナハダ(イスラム政党・90議席)、共和国のための会議(中道左派・30議席)、エタカトル(社会民主主義・21議席)の3党による連立政権が成立。12月13日、共和国のための会議のムンセフ・マルズーキーが暫定大統領に就任しましたが、イスラム系政党による暫定政権と世俗政党を含む野党側との対立が激化し、議会が機能不全に陥ってしまいます。こうした中で、2013年、対立する与野党の仲介役として、最大労組のチュニジア労働総連盟(UGTT)や経営者団体の産業商業手工業連合、人権擁護連盟、全国弁護士会の4者によりテュニジア国民対話カルテットが結成され、その仲介により、制憲議会再開の道筋が整えられました。そして、2014年1月の新憲法制定、同年末の自由選挙によるカイドセブシ大統領が選出されました。その功績により、テュニジア国民対話カルテットが昨年度のノーベル平和賞を受賞したことは記憶に新しいところです。

 その反面、民主化の副作用として、軍・警察の力が制限されたことで、治安が悪化したほか、周辺諸国からイスラム過激派も流入しており、昨年(2015年)3月にはテュニスのバルドー美術館でテロリストによる銃乱射事件が発生。こうした治安の悪化は、主要産業である観光にも大きな打撃を与えており、“革命”の前途はまだまだ多難な状況が続いています。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第7回テーマティク出品者の会切手展 1月17-20日(日ー水。ただし、18日は休館)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年の香港展に出品した香港の歴史のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)

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 テュニス・バルドー博物館
2015-03-19 Thu 12:24
 テュニジアの首都テュニス郊外の国立バルドー博物館で、きのう(18日)、数人の武装グループによる襲撃事件が発生し、日本人を含む外国人観光客ら少なくとも19人が死亡、多数の負傷者が出ました。亡くなられた方のご冥福をお祈りしつつ、今日はこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       テュニジア・バルドー博物館(1947)

 これは、1947年、フランス保護領時代のテュニジアで発行された5フラン切手で、今回の事件の舞台となったバルドー博物館所蔵のネプテューンのモザイク画が取り上げられています。

 バルドー博物館の建物は、もともと、13世紀にこの地を支配していたハフス朝の宮殿として建てられたもので、改修の後、19世紀にはテュニジアを統治していたベイの宮殿として用いられていました。

 その後、フランスによる保護領化の過程で、1882年にフランス当局によって接収され、1888年に博物館として開館しました。当初、博物館の正式名称は、当時のテュニジアのベイであったアリー3世にちなみアラウィー博物館でしたが、やがて、所在地にちなんでバルドー博物館の呼称が定着し(今回ご紹介の切手も“バルドー美術館”との表示が見えます)、1956年の独立を機に、バルドー美術館が正式名称となりました。

 博物館は3階建てで34の展示室があり、古代ローマ時代のモザイク(今回ご紹介の切手に取り上げられているのも1尾のうちの1点です)に関しては、世界的なコレクションを所蔵していることで知られており、内外から多くの参観者を集めています。今回の事件での犠牲者に、日本人のみならず、ポーランド、イタリア、ドイツ、スペイン人観光客が含まれているのもそうした事情によるものです。

 さて、テュニジアでは、2011年のベン・アリー政権崩壊後、民主化プロセスが進められ、昨年(2014年)末には、ベジ・カイドセブシ新大統領が就任しました。しかし、民主化の副作用として、軍・警察の力が制限されたことで、治安が悪化したほか、周辺諸国からイスラム過激派も流入しており、今回の事件に関しても、当局はイスラム過激派による犯行との見方を強めているようです。

 今回の事件の犯人グループは、博物館に隣接する国民議会議事堂を襲撃した後、博物館を襲撃し、逃げ遅れた観光客らを人質に立てこもっていました。数時間後、現地の治安部隊は実行犯のうち2人を射殺したものの、銃撃戦で、17人の外国人と、2人のチュニジア人が死亡し、50人程度が負傷、犯人グループの一部は現在なお逃走中とのことです。これ以上の犠牲を拡大させないためにも、一刻も早く、逃走犯が逮捕されることを願うばかりです。


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 チュニジアの政変
2011-01-16 Sun 22:42
 1987年11月以来23年以上にわたってチュニジアで大統領の地位にあったザイン・アービディーン・ベン・アリーが、1月14日、大規模な反政府デモに抗しきれずサウジアラビアに亡命。翌15日、同国憲法の規定に従い下院議長が暫定大統領となり、大統領選が60日以内に行われることになりました。というわけで、きのうの公約通り、きょうはこんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        チュニジア・テクノロジーの極

 これは、昨年(2010年)、チュニジアで発行された「チュニジア:テクノロジーの極」と題する切手で、チュニジアがインターネットや電子メール等の情報通信の環境が整備された国であることをアピールする内容となっています。

 さて、チュニジアといえばアラブ世界では親欧米国家というイメージで語られることが多いのですが、ベン・アリー政権はテロリズムの阻止と斬新的民主化という大義名分の下、いわゆるイスラム原理主義のみならず、権力に批判的なあらゆる運動や団体を弾圧してきました。

 政変の原因となった反政府デモは、昨年12月、中部のシディブジッドで警察の取り締まりに抗議する若者が焼身自殺をはかったことなどをきっかけに、高失業率や物価上昇に不満を抱く市民のデモや暴動が拡大。年明けには、治安部隊の発砲で約20人の死者がでたことでデモが拡大し、大統領の辞任を求めるようになっていました。

 今回の反政府デモの特徴は、フェイスブックなどインターネットを通じて、国民がデモ開催や警察の取り締まりを巡る情報を共有し、規模を拡大していった点にあるとされていますが、そうだとすると、ネット環境の整った国とベン・アリー政権が切手を通じて胸を張っていた状況が、皮肉なことに、彼らの首を絞める結果になったと言えそうです。

 まぁ、わが国でも、昨年の尖閣ビデオが最初に“流出”したのは、新聞やテレビなどではなく、ネット上のYoutubeでしたからねぇ。政治の世界でも、ネットの持つ影響力は今後ますます強まるのは避けられないでしょう。

 現在の日本の公職選挙法では、選挙運動中に候補者がブログを更新することさえ認めていないため改正を求める声も多いのですが、まぁ、既存の権力者の側からすると、自分たちの地位を脅かしかねない新規参入というのは阻止したいでしょうから、なかなか改正は実現しないでしょうな。もっとも、そういう人たちはいずれ、彼らがバカにしているネットの世論によって、その地位を追われるということにもなるんでしょうけれど。


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 チュニジアを知るための60章
2010-08-25 Wed 14:11
 本日(25日)付で、明石書店よりエリアスタディーズの1冊として、鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』が刊行となりました。同書では、僕も「郵便から見えるチュニジア支配権の変遷」と題するコラムを書いています。今日は、その中からこの切手を御紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         チュニジア最初の切手

 これは、1888年に発行されたチュニジア最初の切手です。

 フランス・イタリア両国の勢力角逐の場となっていたチュニジアでは、1848年、フランスがチュニスに郵便物取扱所(後に郵便局に昇格)を設置し、アルジェリアのボーヌ(現アンナバ)に設置されていたフランス郵便局を経由して、本国との通信を取り扱い、チュニジア植民地化の足掛かりとしていました。

 翌1849年、フランス本国では最初の切手が発行されましたが、当初、チュニスのフランス局では切手や郵便印は持ち込まれず、1852年になって郵便印(料金受領印の性格も兼ねていた)が導入され、ついで、1862年からフランス本国の切手がチュニスで使用されるようになります。ただし、1860年代には、切手の導入後も従来通り、郵便印のみで対応していたケースも少なくありません。ちなみに、チュニス以外の主要局の開局状況は、ラ・グレットが1867年、スース、スファックス、バルドー、マフディア、ガベス、ジェルバ、モナスティルが1882年です。

 一方、フランスとともにチュニジアの支配を企図していたサルディニアも1858年にチュニスに郵便局を開設し、近代郵便業務を開始します。サルディニア局は、イタリア王国の成立に伴い、1861年3月にイタリア郵政が継承しましたが、経過措置として1862年まではサルディニア切手が用いられ、その後はイタリア切手が使用されました。なお、イタリア局は、チュニスのほか、ル・グレットとスースにも置かれています。

 さて、1869年いらい、財政破綻を理由に英仏伊三国の共同管理下に置かれていたチュニジアは、1881年、フランスと結んだバルドー条約によって国家主権を事実上喪失し、1883年にはフランスの保護領となります。これを受けて、フランス当局は1888年7月1日、今回ご紹介しているようなチュニジア専用の切手を発行しました。ただし、フランスによる保護領化以降も、イタリア局は既得権を理由にチュニジアから撤退せず、1897年まで活動を続けていました。したがって、それまではフランスはチュニジアにおける郵便主権を確立できなかったということになります。
 
 今回のコラムでは、初期のスタンプラレス時代から1957年のチュニジア共和国発足までの切手と郵便の概要について、ご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 続・外国切手の中の中国:チュニジア
2007-04-26 Thu 00:47
 ご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の4月17日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第5回目が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

チュニジア・非常任理事国

 これは、2001年2月、チュニジアが国連安保理の議長国となったことを記念して発行した切手で、常任・非常任理事国の国旗がズラリと並ぶ中で、常任理事国としての中国の五星紅旗もしっかり描かれています。

 チュニジアは、お蔵入りになってしまった国連改革に関して、日本の主張を支持し、日本の安保理常任理事国入りにも積極的に賛成するなど、親日国として知られています。

 その背景には、日本から多額の経済援助を受けていることもありますが、それとは別に、中国に対抗する上で日本が重要な後ろ盾になるという思惑があったことも見逃してはならないでしょう。

 チュニジアの主要産業はヨーロッパ向けの繊維製品ですが、この分野では、近年、中国が急激にシェアを拡大しています。このため、2005年、チュニジアは、それまで欧州市場でライバル関係にあったトルコと自由貿易協定(FTA)を締結。投資や技術協力を進め、中国製品に対する競争力の強化を図っています。こうした文脈から、極東の2大国の一翼を担う日本の支援を得て、中国との競争を乗り切りたいというのが、彼らの思惑です。

 これに対して、中国も手をこまねいているわけではなく、昨年(2006年)11月、中国・アフリカ協力フォーラム北京サミットを開催して以来、北アフリカの“優等生”ともいうべきチュニジアにも積極的にアプローチを重ね、今月(2007年4月)中旬には、中国全国政治協商会議の賈慶林議長らがチュニジアを訪問。一行はガンヌシー首相と会談し、「経済技術協力協定」を含む5項目の協力文書に調印しています。これは、もちろん、資源の豊かなアフリカ地域に対して、日本を凌駕する影響力を扶植していくための一つのプロセスであることはいうまでもありません。

 近年、中国が積極的な対アフリカ外交を展開するようになったことを反映して、アフリカ諸国からも中国がらみの切手がぽつぽつ発行されるようになってきました。それらについても、いずれ、機会があればじっくりと見てみたいと思っています。

 <お知らせ>
 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。なお、スタンプショウ会場で同書をお求めいただいた方には、ちょっとしたプレゼントもご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。
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 アラブの都市の物語:チュニス
2006-05-15 Mon 23:59
 NHKのアラビア語会話のテキスト6・7月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市物語」ですが、今回は、ワールドカップの出場国であるチュニジアに敬意を表して、チュニスを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、テキストではスペースの都合で一部分しかお見せできなかったカバー(封筒)の全体像をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

チュニス・イタリア局

 これは、1869年9月、チュニスに置かれていたイタリアの郵便局からジェノバ宛に差し出されたカバーです。

 19世紀に入ってヨーロッパ列強による植民地進出の波が北アフリカにも及ぶようになると、当時、チュニジアを支配していた王朝のフサイン朝は、税制改革や西洋式の諸制度の移入など、日本の明治維新にも似た中央集権化と近代化でこれを乗り切ろうとしました。しかし、急激な近代化はフサイン朝の財政を大きく圧迫し、結果的に、チュニジアの国家財政は破綻してしまいます。

 その結果、チュニジアの財政は、1869年、イギリス・フランス・イタリアの三国による共同管理下に置かれることになります。

 その後、近代化改革の是非をめぐって、1877年、保守派がクーデターを起こすと、列強はフランス、イタリアにチュニジアの自由権の承認。その後、1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が認められると、フランスによる本格的な侵攻が行われ 、1881年のバルド条約、1883年のマルサ協定によって、チュニジアはフランスの保護領となりました。

 さて、フランスが正式の保護領とするまでの間、チュニスにはフランスとイタリアの郵便局が設置されていました。そのうちのイタリア局では、イタリア切手が持ち込まれ、いろいろなタイプの郵便印が使われましたが、今回のカバーには、チュニスを意味する“235”の番号が入った菱形の印と“TUNISI /POSTE ITALIANE”(チュニス イタリア郵政)の文字が入った円形の印が押されています。

 チュニスは地中海の要衝ですし、歴史的にもカルタゴにまで遡ることができますから、“チュニスの歴史”なんてコレクションを作ったら、結構、面白いものができるかもしれません。学生時代の夏休みに数週間、チュニスの語学学校に通っていたことのある僕としては、自分の個人的な思い入れもあるので、いずれ挑戦したいテーマの一つではあります。

 ただ、そのためには、イタリア局のカバーも今回ご紹介したようなものではなくって、もっと消印がバッチリ読めるモノを手に入れないといけないのですが、それはなかなか難しそうです。

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 ハンニバル
2006-03-20 Mon 23:55
 今日(3月20日)は3年前にイラク戦争の始まった日ですが、今年に限ってはチュニジア(北アフリカ中央・イタリア対岸のアラブの国)の独立記念日という方にスポットをあてましょう。なにせ、1956年の独立からちょうど50周年なのですから。しばらく前に、今年は日本とチュニジアの国交50年という記事をどこかで見てちょっと気になっていたのですが、なんのことはない、それ以前はチュニジアという国が存在していなかったということだったんですね。

 で、チュニジアといえばカルタゴ(じっさい、首都のチュニスから電車で20分もあれば、カルタゴの遺跡に行けます)、カルタゴといえばハンニバル、というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

ハンニバル

 この切手は、1967年にチュニジアが自国の歴史遺産を題材とした発行した6種セットの切手(日本でいう“国宝シリーズ”みたいなもんでしょうか)の1枚で、ハンニバルの胸像が取り上げられています。

 歴史の教科書でおなじみのハンニバル・バルカ(紀元前247~183)は、いわずと知れたカルタゴの名将です。

 地中海の覇権をめぐるローマとカルタゴが戦った第一次ポエニ戦争でカルタゴはシチリアをローマに奪われましたが、ハンニバルは、当時未開の地であったイベリア半島を制圧し、5万の兵と37頭の象を連れ、アルプス山脈を越えてイタリアへ進軍。第二次ポエニ戦争を始め、イタリア半島各地でローマ軍を撃破しました。

 しかし、カルタゴ本国の無策から、ローマはハンニバルの拠点であったイベリア半島を攻略。さらに、勢いに乗ったローマ軍は、北アフリカへ逆侵攻し、カルタゴ本国での敗戦に狼狽した政府はハンニバルを本国に召還し、紀元前202年のザマの戦いで、カルタゴは敗北しました。

 第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマから懲罰として巨額の賠償金(ローマはカルタゴがこれを拒否したら、カルタゴに宣戦布告し、カルタゴを滅亡させようと考えていました)を課せられましたが、ハンニバルは財政再建の為に経費節減による行政改革を徹底、賠償金返済を完遂し、政治指導者としても並々ならぬ力量を発揮します。

 しかし、国内の権力闘争から反ハンニバル派が「シリアと内通している」とローマへ訴えたことで、ハンニバルはカルタゴを脱出し、シリアへと亡命します。その後、彼は、シリア軍を率いてローマと対峙するが、結局は敗北、ハンニバルは逃亡し、クレタ島、そして黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命、その後服毒自殺しました。

 何年か前、『ハンニバル』という映画が公開されたとき、僕は、てっきり、悲劇の将軍を主人公とした時代劇を期待していたのですが、実際の映画はカルタゴと全く関係ないことがわかって、ものすごく失望した記憶があります。まぁ、映画『ハンニバル』で主役をやっていた俳優(すみませんが、まったく興味がないので名前がわかりません)の顔は、ハンニバルというより、敵役の大スキピオ向きのような気がするのですが、そういうことを言っているうちは、やっぱり世間様と感覚がずれてるんでしょうねぇ。

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