内藤陽介 Yosuke NAITO
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 英雄/テロリスト図鑑:蒋介石
2007-07-08 Sun 09:56
 ご報告が遅れましたが、現在発売中の『SAPIO』7月11日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、“7・7”70周年にちなんで、当時の中国側の指導者だった蒋介石を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

蒋介石

 蒋介石は若い頃、日本の陸軍に留学した経験もある根っからの軍人です。留学中、反政府組織である同盟会との関係ができた彼は、1911年に辛亥革命が起こると帰国して革命に参加。1916年には帝政復活を目論む袁世凱に抵抗して、上海で無法者集団を兵士として組織して江陰要塞を襲撃して占領しています。まぁ、これが最初のテロ行為といえるかもしれません。

 しかし、このときの要塞襲撃はたった5日で鎮圧。意気消沈した蒋は一時期、上海で女と賭博の遊興三昧のデカダンス生活を送っていました。その後、上海証券取引所の仲買人の職を得た彼は、インサイダーまがいの取引を駆使して巨額の利益を得るとともに、杜月笙をはじめとする上海裏社会の実力者とも関係を構築。また、この時期、蒋は株で得た巨額の利益を気前良く孫文に差し出し、孫文の懐に入り込むことに成功。日本陸軍への留学経験を見込まれて、順調に出世していくことになります。

 晩年、政治的に孤立して弱体化していた孫文は、他の軍閥に対抗すべく、中国共産党とその背後にいるソ連との連携を模索し、1924年に国共合作を行いました。しかし、共産党は次第に国民党内に勢力を浸透させ、国民党は次第に庇を貸して母屋を取られる状況に追い込まれていきます。このため、蒋介石は1927年4月12日、いわゆる上海クーデターを発動。前日の11日に共産党の影響下にある上海の総工会(労働組合)に“国共合作”の錦旗を送って相手を油断させた上で、暴力団組織の青幇の力を借りて労働者・共産党員を一網打尽にして多数殺害。国共合作を解消して共産党の殲滅に本格的に乗り出しました。

 その後、1928年に北伐を完了して統一政権最大の実力者にのし上がった蒋は、ライバルたちの粛清に着手。たとえば、1930年には国民党中央執行委員会の全体会議で有力者の一人、胡漢民に論駁された蒋は、胡にいきなり日本仕込みのビンタを食らわせたうえ、胡がこれに抗議すると胡の手足を荒縄で縛り上げ、3日間監禁しました。まさに台湾名物の乱闘国会のルーツを髣髴させる事件です。

 また、同じく国民党の実力者であった汪兆銘に対しては、1936年の国民党中央委員会全体会議での写真撮影の際に、蒋の意を受けたとみられるテロリストが拳銃を乱射。さらに、日中戦争勃発後の1939年3月、汪が日本に同調して重慶を離脱しハノイに亡命した際には、蒋は部下を通じて旅券と旅費を汪一族に渡して安心させた上で、その日の晩に汪の寝込みを襲う殺害未遂事件を起こしています。

 1945年、蒋介石の国民政府は日中戦争にはなんとか勝利を収めたものの、つづく国共内戦に敗れて1949年には台湾に逃れます。その後、大陸の共産政権と対決する中で、1955年にはバンドン会議に向かうため周恩来が乗る予定だった飛行機を爆破(カシミール・プリンセス号事件)するなど、金正日もビックリの国際テロ事件を起こしています。もちろん、台湾内では、戒厳令を施行して特務機関を用いた恐怖支配(白色テロ)を行うなど、まさに、口より先に手が出る軍人ならではのエピソードがテンコ盛りです。

 切手は、蒋介石の没後3年を記念して台湾で発行された1枚で、1937年7月17日、日本と断固戦う決意を示す演説をする蒋の姿が取り上げられています。この演説については、また、日を改めてご紹介することになるでしょう。

 なお、カシミール・プリンセス号事件に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく取り上げていますので、よろしかったら、こちらもご覧いただけると幸いです。
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