内藤陽介 Yosuke NAITO
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 シベリアでの赤化洗脳工作
2017-01-13 Fri 12:04
 きのう(12日)、外務省はあらたに外交文書24冊を一般公開しましたが、それにより、戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態がかなり具体的に明らかになりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・1948(赤化) シベリア抑留1948(赤化・裏)

 これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1948年2月15日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月11日にGHQの検閲を受け、静岡県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。

 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。

 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。

 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、漢字かな交じりに直しました)

 しばらくでした。皆様も元気のことと思います。私も至極元気で丸々と太って、毎日楽しくそして愉快に仕事をしております。
 そちらの様子は手紙によってはっきりわかっております。なぜそのようにつらいのか、苦しいのか、私はまた戦争はいかに悪いものかをはっきりと知りました。そして人間としての、正しい、生きがいのある本当に幸せな生きる道を知り、働く者の世の中でなければ、少しの人数の金持ちだけがうまいことをしている世の中では、働く者はいつまでたっても生活が楽にならず、幸せは絶対に来ないのです。この国の人は幸せな、そして私たちをこのように親切にしてくれます。では元気で頑張ってください。

 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。

 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書のように、占領日本の現状や資本主義体制を批判する内容の葉書などは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように国民に説明しているのか、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。

 一方、1947年後半以降、1949年8月11日に「引揚者の秩序保持に関する政令」(引揚者が船長や引揚援護局長の指示に従う義務を定め、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金を科すことが定められていました)が公布されるまでの間、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などでは、“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発。彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったとさていますが、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めることになります。

 さらに、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、下山・松川・三鷹の三大事件が発生し、共産党の関与が疑われていた時期でもあり、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、占領当局と日本政府は帰還した元捕虜を監視対象としていました。

 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。

 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 日ソ共同宣言60年
2016-10-19 Wed 11:16
 日本と旧ソ連の国交を回復し、平和条約締結後に北方領土の歯舞、色丹両島を返還すると明記した日ソ共同宣言が1956年10月19日に調印されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・タイプ4復片(1956?)  シベリア抑留・タイプ4復片(1956?)裏

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書とその文面です。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。
 
 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。

 スターリン時代の粛清の嵐の中で、秘密警察により、多くのソ連国民が無実の罪を着せられて収容所に送られましたが、そうした人々もまた、収容所内の他人の消息を外部に伝えることが禁じられていました。シベリア抑留の捕虜郵便についても、この規定がそのまま踏襲されたとみてよさそうです。

 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。

 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。

 さて、シベリアに抑留されていた日本人に支給された葉書用紙のうち、タイプ4は抑留末期の1954-56年に使用されたと考えられています。この葉書には裏面に「9月10日発信」との書き込みはありますが、年号の記載はありません。ただし、文中には「日ソ交渉も十月には總理大臣が訪ソして再開する見込みに付き君達の帰国も遠からず実現するものと希待して居ます」との文言があります。これは、1956年10月12日からの鳩山訪ソのことだと思われますので、この葉書は1956年の差出と考えて良いでしょう。

 鳩山が10月19日にモスクワで調印した日ソ共同宣言では、「日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する」としたうえで、「ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる」とうたわれており、これにより、ソ連領内に残されていた日本人抑留者の帰国が実現することになります。

 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 捕虜・収容所協定25年
2016-04-19 Tue 10:28
 1991年4月18日に日ソ間で捕虜収容所問題の速やかな処理を目的に「捕虜収容所の収容者に関する政府間協定(捕虜・収容所協定)」が締結されてから25周年を迎えたのにあわせて、昨日(18日)、都内で記念集会が開かれました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留・タイプⅢ新潟宛(1949)  シベリア抑留・タイプⅢ(新潟宛・1949裏)

 これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1949年2月5日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月31日にGHQの検閲を受け、新潟県の宛先まで届けられています。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。

 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。
 
 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。

 スターリン時代の粛清の嵐の中で、秘密警察により、多くのソ連国民が無実の罪を着せられて収容所に送られましたが、そうした人々もまた、収容所内の他人の消息を外部に伝えることが禁じられていました。シベリア抑留の捕虜郵便についても、この規定がそのまま踏襲されたとみてよさそうです。

 ちなみに、収容所送りとなったソ連国民が、外部に対して、収容所内の家族・友人の情報を外部に伝える場合には、「XX(人名)と同じ収容所にいる/病気で入院している」という直接的な表現ではなく、「XXと話をした/会った」という表現を用いることが行われていましたが、今回ご紹介の葉書でも、そうした表現が見られます。以下、その文面を書き起こしてみましょう。

 ソ同盟に来てから数回手紙を出したが一度も返事がないので消息を案じて居る。私はこちらに来てから三年余りになるが非常に元気で暮らして居るから安心して呉れ。
  哈爾濱組の植村、菊池其他数名の家族からは返信が来て居るから多分お前達も無事帰っていることを信じて居る。新聞其他に依れば終戦後の日本は相当困難なる状況を呈して居るとか。女手一つで生計も難しいだろうが之も試練、兎に角頑張って呉れ。
  新潟の方に起居していることと思うが子供の教育には特に意を用うる様頼む。暇があれば西市の方にも行って呉れ、同僚は続々帰国しつつある。私達の帰国も近い。楽しみに待ってて呉れ。御両親様によろしく。睦子に私は元気だと伝えてください。

 上記の文面のうち、「哈爾濱組の植村、菊池其他数名の家族からは返信が来て居るから…」と記した部分は、まさに、戦前の満洲で交流のあった知人が同じ収容所で抑留されていることを間接的に伝えるもので、彼らの置かれていた苦しい状況がしのばれます。

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 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

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       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 ハバロフスクの抑留者
2015-08-29 Sat 20:38
 ロシアで、きょう(29日)、一連の対日戦勝70年記念行事の最初の行事として、ハバロフスクで軍事パレードが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留葉書タイプ4(ハバロフスク宛復片)

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書です。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。

 1945年8月9日、ソ連派、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。

 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、5万3000人が亡くなったといわれています。

 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。

 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。

 じっさい、1945年8月23日付の国家国防委員会決議第9898号「日本軍事捕虜の受け入れ、配置および労働利用について」と題する極秘文書によれば、ハバロフスク地方だけで「6万5000人。その内訳は、ライチハ・キヴジンスク石油採掘に2万人、ヒンナン錫鉱採掘に3000人、国防人民委員部住宅開発部の兵舎建設に5000人、石油産業人民委員部のサハリン石油と石油精製工場に5000人、森林産業人民委員部の木材調達に1万3000人、海洋移送および河川移送人民委員部に2000人、運輸人民委員部のアムール鉄道に2000人、建設人民委員部のニコラエフスク港建設およびコムソモリスクのアムール鉄鋼と第199工場建設に1万5000人」を動員する方針が記されています。

 さて、終戦後、日本政府は連合国側の指示を待つまでもなく、ただちに、復員・引揚事業に着手しました。ソ連を除く連合諸国も、迅速な在外邦人の復員・引揚を希望し、1946年3月16日に“引揚に関する基本指令”が発せられたときには、中国・東南アジア・南洋諸島などでは既に大規模な引揚が行われました。しかし、この基本指令では、ソ連の占領地域(旧満州・北朝鮮・千島・樺太)からの引揚に関しては“適当な協定が成立した場合”と規定されているのみで、引揚の基礎となる法的文書さえもできていない状態でした。

 その後、1946年9月になって、ようやく、ソ連当局は捕虜が各自の家族に通信することを許可すると発表。10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。

 抑留者の通信に関しては、専用の往復葉書が用いられ、それ以外の葉書や封書での交信は禁止されていましたが、今回ご紹介のタイプ4とされるモノは、抑留末期の1954-56年に使用されました。

 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。

 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。

 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 シベリア抑留者からの第1信
2015-08-08 Sat 12:06
 第二次大戦末期の1945年8月8日(モスクワ時間)、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告してから、きょうでちょうど70年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      シベリア抑留葉書・最初期   シベリア抑留葉書・最初期(裏面)

 これは、1946年10月、いわゆるシベリア抑留者が差し出した葉書とその文面です。

 1945年8月8日の宣戦布告を受けて、翌9日、満洲に侵攻したソ連軍は、その後、北朝鮮、千島・樺太にも侵攻し、武装解除した旧日本軍将兵のみならず、名目をつけて逮捕した日本人男性の多くをシベリアに連行します。

 ドイツとの死闘で2000万人以上の犠牲者を出し、経済的に疲弊しきっていたソ連にとって、占領地域の日本人は、戦後復興のための最も安価な労働力としてきわめて便利な存在とみなされ、それゆえ、彼らは、あらゆる国際法規・条約を無視して、日本人をシベリアの奥深くに連行し、2年から4年、長い人では11年にわたって奴隷さながらの重労働に従事させました。いわゆる北方領土問題や中国残留孤児・婦人問題などとあわせて、ソ連という共産主義国家が終戦のどさくさに日本と日本人に対して何をやったのか、僕たちは民族の記憶として決して忘れてはなりません。

 さて、終戦後、日本政府は連合国側の指示を待つまでもなく、ただちに、復員・引揚事業に着手しました。ソ連を除く連合諸国も、迅速な在外邦人の復員・引揚を希望し、1946年3月16日に“引揚に関する基本指令”が発せられたときには、中国・東南アジア・南洋諸島などでは既に大規模な引揚が行われました。しかし、この基本指令では、ソ連の占領地域(旧満州・北朝鮮・千島・樺太)からの引揚に関しては“適当な協定が成立した場合”と規定されているのみで、引揚の基礎となる法的文書さえもできていない状態でした。

 その後、1946年9月になって、ようやく、ソ連当局は捕虜が各自の家族に通信することを許可すると発表。10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。

 今回ご紹介の葉書は、裏面に昭和21年10月20日(上記指令の発せられた日付)との書き込みがありますので、これが正しいとすると、抑留者からの発信としては最初期の使用例とみてよいでしょう。ちなみに、ウラジオストク局の中継印の日付は(1946年)11月5日ですが、日本到着時の検閲印に書き込まれた日附は9らしき数字が見えるものの、それ以外は判読不能です。

 裏面の文面は、ソ連当局による検閲の都合上、全文カタカナ書きです。ソ連側が検閲を行った痕跡としては、三日月の脇に“ВЦ”の文字の入った小型の角印が、その下に星形の印(番号はウラジオストクの中継印と重なって判読不能)が押されています。このうち、“ВЦ”は軍事検閲を示すロシア語の“военной цензуры”ないしはそれに類する語句の頭文字であろうと思われます。裏面の文面を漢字と平仮名で書き起こすと、以下の通りです。

 お父さん、お母さんはじめ皆元気でおることと思います。また、ヨシミも元気ですか。喜雪も元気でおりますから、安心してください。奥山ユタカさんも一緒におりますから心配しないでくださいませ。お隣の皆様にもよろしく伝えてください。おうちからのお便りを首長にお待ちしております。皆さん元気でね。では、これにてお別れいたします。さようなら。

 この文面で注目すべきは、「奥山ユタカさんも一緒におりますから心配しないでください」との記述です。というのも、ソ連側の検閲基準では、反ソビエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されていたからです。

 このため、抑留者は葉書が検閲で没にされないためにも、「XX(人名)と同じ収容所にいる/病気で入院している」という直接的な表現ではなく、「XXと話をした/会った」という表現が多く用いられました。その一方で、今回ご紹介の葉書が無事に検閲をパスしている事例もありますので、実際にある郵便物を検閲で通過させるか否かの判断は、検閲担当者個人の裁量次第だった面も大きかったようです。

 ちなみに、シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、“Й”の文字が上の行の“С”の下にあるタイプのⅠA1と呼ばれるものですが、このⅠA1は専門的にはさらに細かく分類されます。

 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。
    

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 メディア史研究・検閲の諸相
2012-10-13 Sat 21:11
 ご報告が遅くなりましたが、『メディア史研究』第32号ができあがりました。今号は特集が「検閲の諸相」ということで、僕も「シベリア抑留前期の捕虜郵便と検閲」と題する論文を投稿しています。というわけで、きょうは拙稿の中から、この葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       シベリア抑留葉書タイプIIB2

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプIIB2と呼ばれるものです。

 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、往信部右下の番号が613で、赤十字・赤新月の入っていないものはタイプIIとされています。タイプIIは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のモノは、表題2行目の“Й”が1行目の“O”の右下にあるタイプIIB2呼ばれるものです。

 さて、ソ連側の検閲基準では、反ソビエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて問題個所を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られたといわれていました。

 このため、規則上は、捕虜郵便の差出人住所に“収容所”の語を記載することは禁じられており、ウラジオストクないしはハバロフスクの郵便局私書箱(実際の葉書の記述例としては“郵便函”となっている事例が多い)をリターンアドレスとすることになっています。そして、収容所によっては、日本人の通訳または収容所当局の担当者が一括してロシア語で差出人住所を記入する場合ありました。

 ところが、今回ご紹介の葉書のように、収容所側がロシア語での差出人の住所を記載した場合には、収容所当局みずからが“収容所”を意味するロシア語の“Лагерь”の印を押した事例がしばしばみられます。日本に送る郵便物なので、ロシア語の読めない日本人には意味が分かるまいとの判断だったのでしょう。こうした制度や規則と実際の運用とのズレというのは、文献資料を眺めているだけでは絶対に見えてこないわけで、実際のマテリアルを直接手に取ってみることの重要さを改めて教えてくれます。

 今回の『メディア史研究』に掲載の拙稿では、今回ご紹介の葉書以外にも、いろいろな実例を挙げながら、ソ連側の検閲規定とそれが実際にどのように運用されていたのかという点について、多角的に検証しています。拙著『ハバロフスク』には掲載されていない葉書も少なからず取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 シベリアの十五夜
2012-09-30 Sun 19:13
 きょうは十五夜です。残念ながら、東海から東日本にかけては、台風の影響でお月見どころではないのですが(台風の通過地域にあたる皆様は十分ご注意ください)、年に一度のことですので、こんな関連マテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       シベリア抑留・十五夜
       シベリア抑留・十五夜(裏面)

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプIIA1と呼ばれるものです。

 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、往信部右下の番号が613で、赤十字・赤新月の入っていないものはタイプIIとされています。タイプIIは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のモノは、表題2行目の“Й”が1行目の“C”の下にあるタイプIIA1と呼ばれるものです。なお、シベリア抑留の日本人用専用はがきについては、拙著『ハバロフスク』でも概要をまとめておりますので、紀伊會がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 さて、葉書の裏面には「今夜は十五夜で十一時の“サイレン”迄眺めて母さんやお前の事等で頭が一パイです」との記述があります。ウラジオストクの中継印は不鮮明ですが、年号はどうやら1948年のようですので、そうだとすると、はがきに出てくる“今夜”は1948年9月17日ではないかと推測されます。

 阿倍仲麻呂以来、異国の地で月を見ながら祖国・日本を思い望郷の念に駆られるという例は枚挙に暇がありませんが、ソ連による理不尽な抑留の下、シベリアで十五夜の月を見ながら「お別れしてからもう八年に成りますね。どんなにか故里の方も変わっている事でせう」と書いている日本人がいたことを、僕たちは決して忘れてはなりません。


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 10月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

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 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 * 10月2日は公開講座として、お試し聴講も可能です。
 
・よみうりカルチャー北千住
 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00


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 APEC首脳会議ウラジオで開幕
2012-09-08 Sat 10:58
 太平洋を囲む21の国と地域が参加するAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が、きょう・あす(8・9日)の日程で、ロシア・ウラジオストクで開催されます。というわけで、ウラジオストクがらみのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

       シベリア抑留葉書(緑)

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA2と呼ばれるものです。

 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。表題2行目の“Й”が1行目の“О”の下にあるタイプⅠA2と呼ばれるもので、表面が濃い緑色・裏面が白色の用紙に印刷されています。

 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1946年12月3日になっています。また、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には1月4日の書き込みがあります。赤十字の下に押されているソ連側の長方形の検閲印は、1946-47年の葉書に押された例が多いようで、1948-49年になると、菱形の検閲印が多くなります。

 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。


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 9月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

 公開講座 ソウル・国立中央博物館へ行ってみよう
・よみうりカルチャー北千住 9月19日(水)13:00-15:00

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・よみうりカルチャー荻窪
 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30
 
・よみうりカルチャー北千住
 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00


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 スタンペディア・エキシビジョン
2012-04-24 Tue 12:33
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、今月から、スタンペディア・エキシビションのサイト内で、昨年の<JAPEX>に出品した1Fコレクション「シベリア抑留日本人用往復葉書」を公開しております。そのご案内を兼ねて、きょうはコレクション冒頭のこの葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        シベリア抑留ⅠA1

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA1と呼ばれるものです。

 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、“Й”の文字が上の行の“С”の下にあるタイプのⅠA1と呼ばれるものですが、このⅠA1は専門的にはさらに細かく分類されます。

 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1946年11月14日になっています。シベリアの日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」は1946年10月20日付で発せられていますので初期の使用例と言ってよいでしょう。なお、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には11月29日の書き込みがあります。

 この葉書のには、ソ連側の検閲印として、三日月の脇に“ВЦ”の文字の入った小型の角印が、その下に7の番号の入った星形の印が押されています。このうち、“ВЦ”は軍事検閲を示すロシア語の“военной цензуры”ないしはそれに類する語句の頭文字であろうと思われます。

 シベリア抑留者の通信については、現在なお未解明の部分も多いので、まずは、データを蓄積していくことが必要だろうと思います。今回、スタンペディア・エキシビションで公開した僕のコレクションにもいろいろと誤りや勘違いもあると思いますが、そうした点についても皆様にご教示いただければ幸いです。

 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。


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 「シベリア抑留 家族への便り」
2012-03-02 Fri 17:29
 ご報告が遅くなりましたが、2月24日付の『岐阜新聞』社会面に「シベリア抑留 家族への便り」という記事が掲載されました。記事は、岐阜県内の元抑留者の方がご自身の差し出した葉書を手にインタビューに応じたもので、僕も電話取材に応じて簡単なコメントを寄せています。というわけで、きょうはその記事に掲載の葉書と同形式のモノで、なおかつ、岐阜県宛のモノが手元にありましたので、記事で紹介された葉書の写真と並べてご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

     シベリア抑留タイプ1岐阜宛     岐阜新聞・シベリア抑留葉書

 葉書は、これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプ1A2と呼ばれるもので、左側が僕の手元にあったもの、右側が新聞で紹介されたものです。

 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプ1と呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、表題2行目の“Й”の文字が1行目の“О”の真下にあるため、タイプ1A2という分類になります。なお、『岐阜新聞』の記事では、「黄ばみが濃くなった粗末な紙」との説明がありますが、新聞に掲載された葉書は、写真で見る限り、コンディションこそ悪いものの、黄ばんでいるのではなく、もともと左の葉書と同じ茶紙のモノであったと思われます。

 左の葉書には、赤月の下に薄くウラジオストク局の中継印が押されています。日付がよく見えないのですが、スキャンした画像を拡大してみると、どうやら、1947年1月と読めますので、検閲を経てウラジオストクまで届けられる時間を考えると、葉書が書かれたのは、1946年中だったのではないかと推測されます。シベリアの日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」は1946年10月20日付で発せられていますので、比較的、初期の使用例といってよいでしょう。なお、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には4月17日の書き込みがあります。

 一方、『岐阜新聞』の葉書は消印が不鮮明で分かりづらいのですが、ウラジオストク局の中継印の“月”の部分は12のようです。差出人の後藤政吉さんによると、この葉書がシベリア・モシカ収容所からの第1信だそうですから、中継印の年度は1946年ではないかと思います。そうだとすると、左の葉書とほぼ同時期の使用例といえそうです。

 さて、タイプ1の葉書は2色刷ですが、今回、2枚の葉書を並べてみると、赤十字と赤新月の赤色の部分の形状が酷似しており、同じ版を用いたのかもしれません。タイプ1の赤色の部分にはさまざまなバラエティがあり、明らかに別の版を用いたと思われるケースも多いのですが、今回の2枚のように、黒色・赤色ともに同じ版を用いていると考えられる葉書が確認されたことで、2枚の葉書が同じ時期に同じ印刷所で作られたのではないかとの推測も十分に成り立つと思います。

 シベリア抑留者の葉書の大半は、黒・紺・紫色のインクで文字が書かれていますが、右側の葉書は赤色で書かれています。差出人の後藤さんによると、これは「赤い木の実をつぶした汁で書いた」ことによるものだそうです。他の収容所でも、右側の葉書のように、抑留者が通常の筆記具とインクを使うことができなかったケースがあったのかもしれませんが、僕自身はそうした事例を確認できていません。

 また、後藤さんによると、「発信人の欄は日本人の通訳が書いた」とのことですが、たしかに、日本人抑留者の多くはロシア語の読み書きがほとんどできないわけですから(なまじっかロシア語ができるとスパイ扱いされるという事例も少なくなかったようです)、当然の措置といえましょう。あらためて、今回ご紹介のタイプ1A2の葉書のうち以前の記事でご紹介したモノをチェックしてみると、発信人とは別の筆跡でロシア語の返送先が書かれていました。

 これに対して、左側の葉書は差出人本人が日本語で返送先が書かれているほか、裏面の通信文もカタカナ(ちなみに後藤さんの葉書を含め、抑留者の葉書は全てカタカナ書きの文面のものが少なくありません)ではなく漢字交じりの通常の日本語で書かれています。検閲担当者が日本人(の通訳)であるから、そのまま日本語で書いても構わないと現場で判断されたためでしょう。

 いずれにせよ、シベリア抑留者の通信については、現在なお未解明の部分も多いので、まずは、データを蓄積していくことが必要だろうと思います。その意味でも、今回の『岐阜新聞』のような記事はありがたいですな。

 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

よみうりカルチャー柏
 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」
 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。

 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー荻窪
 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座)
 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」

 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日
 (毎月第2火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史


・よみうりカルチャー錦糸町 
 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座)
 皇室切手のモノ語り

 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日
 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30

 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 

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