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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 日英開戦で届かなかった郵便
2018-12-08 Sat 01:18

 きょう(8日)は“真珠湾”の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国→香港宛返戻(メーター)

 これは、1941年10月31日、英国・ハダースフィールドから香港宛の郵便物で、同年12月8日の日英開戦により、逓送途中で配達不能となり、差出人戻しになっています。

 1939年の欧州大戦勃発を受けて、1940年6月、英国の香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じます。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したためです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まります。

 すなわち、市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スターフェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられました。また、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われています。

 もっとも、大英帝国の宰相チャーチルは、日本との戦争が始まった場合には香港の防衛は絶望的で、日本の敗戦以外に香港を奪還することは不可能だとの見通しに立っていました。このため、1941年初頭の段階では、英国の香港駐留軍の内訳は、本国から派遣された歩兵二個大隊とインド軍二個大隊を中心にごくわずかな砲兵隊、自動車部隊、義勇軍、わずかな小型戦闘艦艇、飛行艇二機、三隻の水雷艇(ただし、いずれも肝心の水雷は装備していません)のみという脆弱なものでした。また、香港の守備隊を増強することはかえって日本軍を刺激して危険であるという判断さえなされていました。

 さらに、1940年から1941年にかけての香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れていました。じっさい、香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 こうした楽観的な世論の背景には、支那事変(日中戦争)の長期化に伴う余得で、香港が空前の経済的活況を呈していたという事情がありました。

 すなわち、1931年には85万弱といわれていた香港の人口は、支那事変の勃発した1937年には100万を越え、その後、上海廣州からの難民が大量に流入したこともあって、1941年の時点では175万人にまで膨れ上がっていました。その中には富裕な実業家も少なからず含まれており、香港には、日本軍の占領下で陸の孤島と化した上海に代わる中国経済の拠点という地位が突如として転がり込んできたわけです。

 こうした楽観的な空気を反映して、香港駐留のインド軍司令官、クリストファー・マルトビーは、中国=香港間の国境から英国の防御線である醉酒灣防線までは12マイルもあり、国境の守備隊が九龍に撤退する時間は十分に稼げるし、シンガポールから援軍が到着するまで守備隊は持ちこたえることが可能であるとの見通しを持っていました。

 強気のマルトビーに引きずられるかたちで、本国のチャーチルも、それなりに香港の軍備を増強すれば、香港が日本軍の進撃を食い止める防波堤として機能し、日本軍に大きな打撃を与えることも可能なのではないかと考えるようになります。

 こうして、カナダから旅団司令部、通信中隊、歩兵2個大隊が派遣され、1941年11月16日、香港に到着。英領バルバドスから赴任してきたばかりの新総督マーク・ヤングの下に合計1万2000名からなる香港防衛軍が編成されました。しかし、カナダからの増援部隊の兵士は、ほとんどがフランス語圏の出身であったため、既存の香港駐留軍との連携が上手く取れず、そのうえ、彼らには実戦経験もほとんどなく、とうてい、実戦経験の豊かな日本軍に太刀打ちできるようなレベルではありませんでした。

 これに対して、米英との開戦を決意した日本軍は着々と香港攻略の準備を進め、カナダ軍が香港に到着する10日前の11月6日には大本営陸軍部が「香港攻略作戦要領」を完成させ、3970人の兵員の配置を完了しています。

 日英開戦2週間前の11月25日、香港政庁は市民に対して、香港島と九龍市街地に数箇所の避難場所を設け、そこに食糧を備蓄していることを公表。あわせて、住民の居住地ごとに、日本軍の攻撃が始まった場合の避難先も指定されています。在留日本人の帰国も相次ぎ、開戦3日前の12月5日には日本語新聞も休刊になりました。

 こうして、日英開戦に向けての緊張が一挙に高まっていく一方で、香港の市街地では、依然、戦争は他人事といった空気も濃厚で、開戦前日、12月7日の新聞にはクリスマス・ギフトの広告があふれ、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)はクリスマスや新年のためのディナーやコンサート、宿泊の予約を募っています。

 一方、国境を越えた深圳河一帯には日本陸軍の第38師団が集結していた。彼らが暗号電「ハナサク ハナサク」を受信し、深圳河をこえて進軍を開始するのは、香港の人々がまだ深い眠りの中にあった12月8日午前3時51分のことでした。その後、同月25日、香港の英軍は降伏し、香港における日本占領時代がスタートします。これに伴い、1945年の終戦まで香港と海外との通信も遮断され、香港は国際社会から物理的に孤立することになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 英女王夫妻が結婚70周年
2017-11-20 Mon 13:09
 英国のエリザベス女王と夫のフィリップ殿下が、1947年11月20日に結婚されてから、今日でちょうど70周年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      英国・QEII結婚記念標語印

 これは、1947年11月20日の結婚式当日、バッキンガム宮殿を所管とするロンドンSW1局から結婚記念の機械標語印を押し、ロンドン市内のチャリング・クロス局留めで差し出された記念カバーです。カシェには、当時のご夫妻のイラストが描かれています。

 英国王ジョージ6世の第一王女エリザベスと、ヴィクトリア女王の玄孫で“ギリシャ王子およびデンマーク王子”の称号を有していたフィリップ・マウントバッテンの婚約は1947年7月9日に発表され、同年11月20日、ロンドンのウェストミンスター寺院で結婚式が行われました。ちなみに、結婚に先立ち、1947年2月、フィリップは英国籍を取得するとともに、ギリシア正教会から英国教会に改宗し、さらに“ギリシャおよびデンマークの王子”の地位を放棄。結婚式当日から、“殿下(Royal Highness)”の敬称が与えられ、翌日にはジョージ6世からエディンバラ公爵・メリオネス伯爵・グリニッジ男爵の各爵位が授与されています。

 王女の婚約が発表されると、英本国および英連邦諸国では記念切手の発行が検討されましたが、結婚式までの準備期間が短いことから、英本国では記念切手の発行を早々に断念。その代りに、結婚式当日の11月20日から11月末まで、英本国全域で記念の機会標語印を使用することとしました。

 記念の機会標語印のデザインは、ウェディング・ベルとエリザベスのE、フィリップのPを結びつけるリボンを組み合わせたもので、1947年8月、英国郵政の技術スタッフだったR.H.ヒギンズが制作しました。

 ちなみに、カナダでは、エリザベス王女の結婚記念切手を発行することを決定したものの、さすがに結婚式当日には間に合わず、切手発行は1948年2月にずれ込んでいます。

 また、オーストラリアでは、たまたま、王女の肖像を描く普通切手を準備していたため、この切手を結婚式当日の11月20日に発行することで結婚を祝福しました。なお、オーストラリアの切手については王女の結婚記念の切手して紹介されることも多いのですが、この切手の発行計画が発表されたのは、王女の婚約発表以前の1947年5月28日のことで、発行の理由も「現行の王妃を描く1ペー切手に替えてフレッシュな図案を採用する」ということでしたので、やはり、王女結婚の記念切手とみなすのは無理があるように思います。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 G8サミット、きょう開幕
2013-06-17 Mon 11:19
 G8サミット(主要国首脳会議)が、日本時間の今夜(17日)、英国・北アイルランドで開幕します。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北アイルランド・ラベルカバー(表)     北アイルランド・ラベルカバー

 これは、1950年1月、北アイルランドのアーマーからインド宛に差し出されたカバーとその裏面の画像で、裏面には、北アイルランドが英国の一部であり、それゆえ、関税なしの恩恵を受けていることを宣伝するラベルが貼られています。

 17世紀のクロムウェルによる植民地化以来、アイルランドでは、カトリックが多数を占めるアイルランド人に対する英国国教会の差別や弾圧が続いていました。このため、19世紀に入ると、アイルランドでは英本国からの分離独立を求める民族運動が高揚しましたが、全島32州のうちプロテスタント住民が多数派を占める北部のアルスター6州では、独立に反対する声も少なくありませんでした。

 こうした背景の下、1914年にアイルランドの自治法が成立しますが、第一次大戦の勃発により施行は延期。これを不満として、1916年、独立を求めるイースター蜂起が発生しました。

 英国政府は蜂起を鎮圧したが、1918年の議会選挙ではアイルランド独立派が圧勝。翌1919年、アイルランド国民会議で再度アイルランドの独立が宣言され、これを認めない英国との間でアイルランド独立戦争が勃発します。

 1922年、独立戦争の講和条約として英愛条約が結ばれ、アイルランド全島がアイルランド自由国として英国の自治領となると、北アイルランドはアイルランド自由国からの離脱と連合王国への再編入を決定。これにより、北アイルランドは独自の議会と政府を持つ、英連合王国の構成国の1つとなりました。今回ご紹介のカバーに貼られているラベルは、こうした事情を踏まえて、英国と北アイルランドの一体性を訴えるためにつくられたものです。

 もっとも、1922年以降も、北アイルランド内ではカトリックに対する社会的差別が続いたため、1960年代後半になると、米国の公民権運動などの影響を受けて、カトリックとプロテスタント主体の北アイルランド政府との対立が深刻化。アイルランド民族主義過激派は、1969年、私兵組織として“IRA(アイルランド共和国軍)暫定派”を結成して北アイルランド政府に対するテロを展開し、3700人以上が犠牲になりました。

 その後、1990年代になると和平への道が模索されるようになり、1998年4月、包括和平合意(ベルファスト合意)が成立。今回のサミットは、和平合意後の15年間の“成果”を世界に印象づける一大イベントとして企画されたものです。

 しかし、昨年(2012年)12月3日、中心都市ベルファストの市議会が英国旗掲揚を制限すると決めたことに、プロテスタント系住民が激しく反発。2013年初から1か月以上にわたり暴動が続くなど、宗派間の対立が再燃し、逆に平和がいかにもろいものかが浮き彫りになりました。

 おそらく現地ではものすごい厳戒態勢となっているのでしょうが、まずは、無事にすべての日程が終了することをお祈りしております。


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 岩のドームの郵便学(5)
2013-05-21 Tue 10:29
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』499号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は第2次大戦中のイギリス委任統治領パレスチナを題材として、いろいろと書いてみました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       パレスチナ宛航空便取扱停止(赤印)

 これは、1944年6月19日、英国オクスフォードから、パレスチナのベンシェメン宛に航空便として差し出されたものの、欧州大戦により航空便の運航が不可能になったため、船便により宛先まで届けられたカバーです。

 大戦の勃発後、欧州大陸が戦場になり、パレスチナと英本国との間の交通に鉄道や航空機(当時、英国=パレスチナ間の航空便は、途中、給油などのため欧州大陸の都市を経由していました)を利用することは不可能になりましたが、船舶による物流は引き続き可能であした。これは、大西洋への出入口にあたるジブラルタル(ちなみにジブラルタルの周囲を領有するスペインは中立国)と、地中海のほぼ中央に位置するマルタ島を抑えていた英国が、大戦の期間を通じて、地中海の制海権・制空権を保持し続けたことによるものです。

 今回ご紹介のカバーもそうした事情を反映したもので、ジブラルタル海峡から地中海を航行する船によってパレスチナ最大の港であるハイファに陸揚げされ、宛先まで届けられたものと思われます。また、カバーには、すべてのエアメールが取扱停止となっていることを受取人から差出人に知らせてほしいとの指示の入った印が押され、エアメールの表示も抹消されています。

 さて、ナチスによる弾圧と戦禍を逃れてパレスチナへと逃れようとするユダヤ系難民もまた、船でハイファ港を目指すのが一般的なコースでした。

 そうした中で、781人のユダヤ系難民を乗せた難民船シュトルーマ号が、1941年12月12日、ルーマニアのコンスタンツァ港を出港し、パレスチナを目指したものの、英当局はマクドナルド白書を理由に難民船の入港を拒否。シュトルーマ号は行き場のないまま地中海を迷走しつづけ、1942年2月、ルーマニアへ戻る途中、黒海で沈没し、760人以上の難民が死亡する大惨事となりました。

 この事件は、ユダヤ系社会に大きな衝撃を与え、英国の責任者にあたる植民地相のウォルター・モインは彼らの怨嗟の対象となります。そして、1944年6月、資金調達のためには銀行強盗をも辞さない過激派組織の“シュテルン(正式名称は「イスラエル自由戦士団」を意味するロハメイ・へルート・イスラエルですが、創立者のアブラハム・シュテルンにちなんで、こう呼ばれることが多い)”が、事件の報復として、モインをカイロで暗殺。すでに、それ以前から、シュテルンを含む一部シオニスト過激派は反英テロを展開していましたが、モイン暗殺を機に、英国のシオニストに対する不信感は決定的になりました。

 かくして、英国政府は、パレスチナ問題を収拾する意欲を喪失し、次第に、委任統治領の管理者としての責任を放棄していくようになります。ちなみに、英国のパレスチナからの撤退は1948年5月のことでした。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・6月1日(土) 11:00- 切手市場
 於 東京・浅草 台東民会館 9階ホール
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『マリ近現代史』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。


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 ロンドン五輪開幕
2012-07-28 Sat 16:02
 ロンドン五輪が開幕しました。というわけで、きょうはこの切手す。(画像はクリックで拡大されます)

       ロンドン五輪(1948年)

 これは、前回のロンドン五輪を記念して開催国のイギリスが会期初日の1948年7月29日に発行した記念切手のうち、2ペンス半切手です。

 1948年のロンドン五輪は7月29日から8月14日まで開催されました。もともと、ロンドンでの五輪開催は1944年に予定されていましたが、第2次大戦のため中止され、戦後最初の大会として繰り越しとなり、ベルリン五輪以来12年ぶりの開催となりました。なお、ロンドン五輪は昨日開幕した2012年大会と、今回ご紹介の切手の1948年大会に加え、1908年にも開催されていますが、1908年に関しては、イギリスは記念切手を発行していません。

 1948年のロンドン五輪は、敗戦国であるドイツや日本の参加が認められなかった大会として知られていますが、大韓民国発足前の“KOREA”チームが参加したり、イギリスから独立したばかりのインドがホッケーでイギリスを破ったことなども興味深いエピソードといえましょう。

 ところで、今回ご紹介の切手の地図を見ると、朝鮮半島は確認できるものの、日本列島がほとんど見えません。まぁ、参加国の中でも、オーストラリアは地図に描かれていませんので、意図的な日本外しということではないと思いたいところですが…。

 【アジア国際切手展SHARJAH 2012のご案内】

 僕が日本コミッショナーを仰せつかっているアジア国際切手展 <SHARJAH 2012> の作品募集要項が発表になりました。国内の応募〆切は8月3日です。くわしくはこちらをご覧ください。


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   『韓国現代史』の韓国語訳、出ました
    
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    米国と20世紀を問い直す意欲作

       切手、歴史を送る(正面)
       우표,역사를 부치다
       (切手、歴史を送る)

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 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。


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 インドネシアが原油輸出停止も
2012-01-27 Fri 15:23
 きのう(26日)、インドネシアの副エネルギー相がロイターの取材に対して「インドネシアは基本的に輸出より国内需要を優先する。需要が増大し、生産が減少していることから、原油輸出の停止を検討している」と述べたそうです。というわけで、インドネシアがらみでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ジャワ宛返戻便(払い戻し)

 これは、1942年2月、イギリスからオランダ領東インド(蘭印、現インドネシア)のスラバヤ宛に差し出されたものの、いわゆる太平洋戦争の開戦により配達不能となったため、“NO SERVICE/RETURN TO SENDER”(業務停止・差出人戻し)との表示が入った紫色の角印を押して、差出人戻しとされたカバーです。それだけなら、よくある返戻便のひとつなのですが、今回ご紹介のものに関しては、差出人戻しとなった後、料金の払い戻しを受け、そのことを示す“POSTAGE REFUNDED”(郵便料金払い戻し済み)の印が切手上に押されているのがミソです。

 さて、現在、インドネシア産原油は主としてオーストラリア、中国、日本、韓国に輸出されており、昨年10月の輸出量は1日あたり約47万7000バレル。ちなみに、わが国の1日当たりの石油の消費量は、ちょっと古い統計ですが、2009年のデータでは、約440万バレルで、原油輸入の3%がインドネシアからとなっています。まぁ、この数字を見る限り、インドネシアからの原油輸入がストップしても、一見、日本への影響は大したことがなさそうにも見えます。しかし、インドネシアが原油輸出を停止すれば、ただでさえ、値上がり傾向が続く原油価格がさらに上昇することは避けれられないわけで、イランからの原油輸入を削減し、その代替分を手当てしなければならない状況の中では、なんとも頭の痛い話です。

 こういうときこそ、とりあえず安全性に細心の注意を払いながら運転停止中の原発の稼働再開を急ぐべきだと思うのですが、昨日のダボス会議には野田首相の代理として前首相の菅直人が出席して“反原発”の与太話を飛ばし、米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)に「日本の前首相、反核活動家に転身」と揶揄される始末です。「バカは死ななきゃ治らない」という以外の言葉が見つかりませんな。


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    日本人は「年賀状」に何を託してきたのか?
    「年賀状」から見える新しい戦後史!

 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 泰国郵便学(12)
2011-03-04 Fri 14:03
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第1号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回と次回の2回に分けて、第二次大戦中のタイ俘虜収容所の郵便物についてご紹介します。その中から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます) 

        泰・第2分所宛てカバー

 これは、1944年1月に英国から泰俘虜収容所第2分所宛の郵便物です。

 タイのバンコクとビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)を結ぶ鉄道の建設は、20世紀初頭、ビルマを支配していたイギリスの下でいくつかのルートが検討されたものの、地形が険しく、断念されていたという経緯があります。

 日本軍は、ビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するため、イギリスがかつて検討したルートの一つを継承するかたちで、ビルマのタンビュザヤとタイのノーンプラードックを結ぶ415キロの鉄道建設を計画し、これに既存の鉄道路線をつなげることで、タイ=ビルマ間の輸送ルートを確保することとし、タイ側と正式な建設協定を締結。1942年9月から本書き的な工事を開始します。

 完成までには5年の工期が必要との予測もありましたが、日本軍は、鉄道隊と旧国鉄職員の軍属およそ1万2500名を派遣し、6万人を越える連合軍捕虜(英国3万、オランダ1万8000、オーストラリア1万3000、米国700)を労働者として投入。さらに、少なくとも20万人を越えるアジア各国の労働者を動員して、突貫作業の末に、同年10月25日、工事を完成させました。

 最も早い時期に鉄道建設に動員された捕虜の例としては、1942年5月、シンガポールのチャンギ収容所からビルマのモールメン(モーラミャイン)に移送された3000名のオーストラリア兵の例があります。彼らは当初、ビルマ域内での空港建設を行いましたが、後にタイ側に移送され、バーンポーンとカーンチャナブリーでの捕虜収容所の建設に従事しました。

 1942年秋からは、多数の連合軍捕虜がスマトラ、ジャワ、シンガポールから動員され、ビルマ側のタンビュザヤとタイ側のバーンポーンの二手に分かれて工事を開始。その後、鉄道建設のために動員された捕虜たちは、まず、各地の収容所からシンガポールのチャンギ収容所を経て、モールメンに集められ、それぞれの建設現場に移送されるというのが、一般的なルートとなりました。

 今回ご紹介のカバーの名宛人も、そうした経路を経て、チュンカイにあった第2分所に送られたもので、鉄道の完成後は、保守作業等に従事していたものと思われます。

 なお、「泰国郵便学」の連載では、次回は、収容所で使われたさまざまなフォーマットの葉書をご紹介する予定ですが、その一部については、拙著『タイ三都周郵記』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 第二次欧州大戦70年
2009-09-01 Tue 13:32
 1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、第二次欧州大戦が勃発してからきょうでちょうど70年です。というわけで、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 欧州大戦開戦返戻カバー

 これは、ドイツ軍がポーランドに侵攻した1939年9月1日にロンドンからドイツ宛てに差し出されたものの、郵便業務が停止されたため、差出人戻しとなったカバーです。

 1935年にヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言したドイツは、1936年3月にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させたのを皮切りに、1938年3月にはオーストリアを併合。 同年9月にはミュンヘン会談でチェコスロヴァキアのズデーテン地方の獲得を英仏に呑ませ、翌1939年3月にはプラハを占領し、チェコを保護国とし、リトアニアからメーメル地方を割譲させています。

 こうした経緯を踏まえて実行に移されたドイツ軍のポーランド侵攻に対して、英仏両国は、9月3日、ポーランドとの援助協約に基づきドイツに宣戦布告しましたが、この時点ではポーランドに派兵してドイツ軍と戦ってはいません。また、9月17日には、ソ連が独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、9月17日、ポーランドへ東から侵攻しましたが、英仏両国はソ連に対しては宣戦布告をしていません。

 ところで、イギリスはポーランドとの条約上、ドイツに対して宣戦布告をしたものの、「宣戦布告が即戦闘を意味するわけではない」として、早々にドイツとの和平交渉を開始しています。この時点でのイギリス政府内ではナチス・ドイツよりもソ連の共産主義の方が深刻な脅威であるとの考え方が支配的で、イギリス側はヒトラーが下野し、ドイツがポーランドならびにズデーテン地方を除くチェコスロヴァキアから撤退すれば、和平に応じる用意があるとしていました。このため、クリスマスまでには停戦だろうと楽観視するイギリス国民も少なくなかったようです。

 しかし、最終的にはヒトラーの排除という一点で両者の妥協は成立せず、さらに、反ナチス強硬派のチャーチルが熾烈な権力闘争の末に権力を掌握したことで、両国の亀裂は修復不能となり、1940年5月以降、ドイツ軍が西欧諸国に本格的に侵攻していくことになります。

 ドイツ軍のポーランド侵攻は、イギリス・チェンバレン政権時代の対独宥和政策が、結果的にドイツの拡大を追認し、ドイツをつけあがらせたことが最大の原因です。実際、ヒトラーは、以前から宥和政策を実施し、反共産主義という点で利害が一致していた英仏両国が宣戦布告してくるとは想定していなかったといわれています。

 古今東西を問わず、国家間の関係では、とにかく相手になめられてはいけないのが鉄則であることは、いまさら言うまでもありません。“友愛”というスローガンを掲げて近々発足する予定の新政権は、70年前の欧州の教訓をどう考えているのか、お考えをうかがってみたいものです。

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 タイから返戻
2008-12-02 Tue 12:41
 タイの反政府市民団体「民主主義のための市民同盟」(PAD)によるバンコクのスワンナプーム国際空港およびドンムアン空港の占拠から、きょうでまる1週間となります。非常事態宣言のもと2空港の占拠は依然として続き、先ほどは空港占拠のデモ隊に爆弾が撃ち込まれ、デモ隊の1人が死亡、22人が負傷するなど、事態は深刻さを増しています。こういう状況では、郵便なんかも届かないんだろうなぁ、と思いながら、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイから返戻便

 これは、第2次大戦末期の1945年6月、イギリスのイーストレイから日本軍の泰俘虜収容所第4分所宛に差し出されたエアメールの葉書ですが、到着時には戦争はすでに終わり、収容所も解放されていたため、差出人に返送されたものです。

 葉書上には“別掲の理由により配達せず:差出人戻し(UNDELIVERED FOR REASON STATED/ RETURN TO SENDER)”ならびに“以前、日本軍により占領された地域から配達されなかった郵便物として返戻された(RETURNED IN UNDELIVERED MAILS/ FROM TERRITORY FORMERLY OCCUPIED/ BY JAPANESE FORCES)”との事情説明の印も押されていますが、実際に、差出人の手元に戻ってきた日付については、書き込みなどもありませんのでよくわかりません。

 現在、日本郵便のHPには、11月27日付の「おしらせ」として、「タイ、スワンナブーム国際空港が封鎖されEMS、航空及びSAL郵便物の発送が行えないことから、同国あてEMS、航空及びSAL郵便物は、配達に遅延が生じるおそれがあります。予めご了承願います。」とのアナウンスが掲載されています。この記事を書いている時点では、かならずしも、タイ宛の郵便物送達が停止されているわけではないようですが、現実の問題として東京からバンコク宛の航空路は途絶しているわけですから、そろそろ配達不能で差出人に返戻される郵便物が出てくるかもしれません。

 もっとも、タイ国内の混乱は、ほぼバンコクのみで、地方都市の多くは平静を保っているようですので、チャンマイなどを経由してタイ国内に郵便物を運び込むという方法もありそうです。その場合、郵便物に中継印などが押されていると、今回の混乱を物語る資料として興味深いものになるかもしれません。

 なお、第2次大戦中、タイ国内に設けられていた日本軍の収容所とその郵便については、拙著『タイ三都周郵記』でも解説していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。


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 KGVI
2007-05-12 Sat 00:36
 今日(5月12日)は、いまからちょうど70年前にイギリスのジョージ6世(エリザベス女王の父君。KGVIと略されることもある)が戴冠式を行った日だそうです。といっても、戴冠式の記念切手は以前の記事でご紹介してしまいましたので、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

イギリス・切手100年カバー

 これは、1940年5月に発行されたイギリスの切手100年の記念切手が貼られたカバーです。切手は、最初の切手のヴィクトリア女王と当時の国王のジョージ6世をならべて1840と1940の文字を配したシンプルなデザインになっています。

 ジョージ6世は、1936年12月、いわゆる“王冠をかけた恋”で兄エドワード8世が退位したため、急遽、国王として即位しましたが、その際、「これはひどいよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。」とぼやいていたそうです。

 しかし、即位後は、国王としての義務と責任を誠実に実行。 特に第2次世界大戦では、ロンドンから疎開せずイギリス国民の先頭に立ってドイツ軍の空襲に耐え、ドイツ軍による空襲の被災地を訪問して親しく国民を慰めました。このことが、イギリス国民を大いに勇気づけ、国土は疲弊しながらも戦勝へと精神的に導いたと評価されています。

 今回ご紹介のカバー(封筒)は、戦時下の1940年6月に差し出されたもので、“HELP TO WIN ON THE KITCHEN FRONT”とのスローガンの入った印が押されています。また、「すべては私しだい」というスローガンの入ったユニオンジャックのラベルが貼られているのも、戦時下という当時の世相を象徴したものと言ってよいでしょう。

 ジョージ6世の治世は、ちょうど第2次大戦の前後をカバーしているので、いろいろと面白いマテリアルが沢山あります。いままで、このブログでご紹介したものだけでも、たとえば、こんなモノだとかこんなモノこんなモノこんなモノ・・・といった具合に、さまざまなマテリアルがすぐに出てくるぐらいで、僕にとっては、下手するとエリザベス女王よりも顔なじみの王様といっても良いかもしれません。

 もちろん、6月末の刊行を目指して現在制作中の『香港歴史漫郵記』でも、ジョージ6世の切手やカバーはいろいろと面白いものを取り上げていますので、刊行の暁には、ご覧いただけると幸いです。

 なお、今日ご紹介のカバーに関しては、拙著『これが戦争だ!』でも取り上げています。よろしかったら、こちらも是非、ご一読ください。
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