内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 アウシュヴィッツ訪問者最多に
2017-01-03 Tue 11:49
 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は、きのう(2日)、昨年(2016年)の訪問者数が前年より約33万人増えて約205万人となり、過去最多を更新したと発表しました。これは、昨年7月、近隣のクラクフで“ワールド・ユースデー”が開かれ、これに合わせて教皇が強制収容所跡を訪問されたことを受け、ワールド・ユースデイの参加者の多くが収容所跡も見学したことによるものです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アウシュヴィッツ博物館開館(3ズウォチ)

 これは、1947年、ポーランドで発行された“オシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド名)博物館開館”の記念葉書で、印面には収容所で殺害された収容者のイメージが、左下には収容所の監視塔が取り上げられています。

 共産党政権時代のポーランドの公式の歴史観によれば、戦後のポーランド国家は、ソ連によるナチス・ドイツからの解放を経て樹立されたものであり、それゆえ、ソ連と戦ったナチス・ドイツが“絶対悪”であるということが大前提となっていました。その反面、ナチス・ドイツの絶対悪の象徴とされるユダヤ人迫害については、単純にこれを批難すればよいというわけにも行かない事情が彼らにはありました。

 そもそも、1939年9月にドイツに占領される以前のポーランドには、推定340万人のユダヤ人が居住していました。これに対して、ポーランド全土が解放された後の1945年5月16日の時点で、ポーランド国内で生存が確認されていたユダヤ人は7万4000人。その後、領土の変更に伴う移住や終戦に伴う兵士・捕虜の復員などで、1946年6月末の時点で、ポーランド国内のユダヤ人口は25万5000人となりましたから、単純に考えると、帰国者は18万1000人という計算になります。ただし、戦前の340万人に比べると、25万5000人という数字はわずか7・5パーセントにすぎません。

 ところで、ユダヤ人の帰国が進行していくなかで、1945年6月、ジェシュフでユダヤ人の殺傷を含む反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生。以後、ポーランド各地ではポグロムが頻発します。特に、1946年7月4日、ポーランド中心部のキェルツェで発生したポグロムでは、白昼、女性・子供を含む42人のユダヤ人が虐殺され、自分たちの生命・財産に対する物理的な恐怖を感じたユダヤ人はこぞって国外に脱出するようになります。

 戦後のポーランドでユダヤ人に対するポグロムが発生したベースには、戦前からポーランド社会に蔓延していた反ユダヤ主義的な風潮(たとえば、いわゆる“水晶の夜”事件は、一義的にはナチス・ドイツによる犯罪的な行為ですが、ポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否がきっかけになった面があったことは見逃せません)が、大戦を通じても、決して払拭されることがなかったということが挙げられます。

 じっさい、ポグロムの鎮圧を求める市民の声に対して「お前はユダヤ人を救いたいのか」と応じた警察幹部もいましたし、キェルツェでのポグロムの1週間後、ユダヤ人を殺害した犯人の一部に死刑判決が下されたというニュースを聞いたウッチ(ドイツ占領下でのリッツマンシュタット)の労働者は、実行犯の死刑判決に対する抗議のストライキを行っているほどです。(労働者たちは、ユダヤ人を殺しても罪に問われないと信じ込んでいたそうです。)

 さらに、こうした反ユダヤ感情に加えて、ドイツの占領下で強制収容所に追い立てられたユダヤ人の住居には、その後、近隣のポーランド人が住みついているケースも少なくありませんでしたから、そうした人々にとって、ユダヤ人の帰還は歓迎されざる事態だったわけです。

 いずれにせよ、ナチス・ドイツを打倒することで成立した(という建前の)親ソ政権にとっては、規模の大小こそあれ、本質的には彼らと変わらぬユダヤ人迫害・虐殺が国内で横行しているという事態は、ナチスが“絶対悪”であるという政権の正統性の根拠を根本から揺るがしかねないもので、ゆゆしき問題でした。

 こうした状況の中で、1946年5月25日、アウシュヴィッツ収容所の所長を務めていたヘスがワルシャワに移送され、ポーランド政府に身柄を引き渡されます。さらに、同年7月、キェルツェとクラクフで相次いでポグロムが発生すると、同月30日、ヘスはクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長だったアーモン・ゲートらとともにクラクフへ移送されました。

 その後、クラクフでヘスの裁判が進行していく中で、ポーランド政府は、(事実上の)共産主義政権としては例外的に、ユダヤ人の国外への移住に“寛容”な態度をとり、ユダヤ人の出国を促すようになります。国民の反ユダヤ感情の原因となっているユダヤ人の存在を、物理的に除去してしまおうというわけです。

 この結果、1947年2月までに、ソ連からの帰国者の大多数に相当する16万人のユダヤ人が国外に脱出し、ポーランドのユダヤ人口は9万2000人にまで激減しました。

 そのうえで、同年4月2日、ポーランド最高人民裁判所がヘスに死刑判決を下します。そして、同月16日、ヘスは自分が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑を執行されました。

 こうした前段階を経て、1947年6月14日、1940年にタルヌフからアウシュヴィッツに最初のポーランド系収容者が移送されてきた因縁の日を選んで、ナチスの蛮行を忘れないようにとの趣旨の下、旧収容所跡を国立博物館として保存することが正式に決定され、7月2日、博物館が開館します。今回ご紹介の葉書は、これに合わせて発行されたものです。

 このように、“民族的に統一されたポーランド”の政府は、反ユダヤ感情が国民の底流に流れ続けている中で、(ユダヤ人に対するホロコーストの象徴としての)アウシュヴィッツを糾弾するという矛盾に満ちた状況に、彼らなりの折り合いをつけようとしたわけですが、そのあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 アンジェイ・ワイダ、亡くなる
2016-10-10 Mon 12:27
 ポーランド映画の巨匠、アンジェイ・ワイダ監督(以下、敬称略)が、きのう(9日)、亡くなりました。享年90歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アンジェイ・ワイダ(2000)

 これは、2000年、ワイダのアカデミー賞・名誉賞受賞を記念して、ポーランドが発行した切手で、当時のワイダの肖像が取り上げられています。

 アンジェイ・ワイダは、1926年3月6日、ポーランド東北部のスヴァウキで生まれました。父親はポーランド軍の大尉で、第二次大戦中、ソ連によるカティンの森事件に巻き込まれて亡くなっており、ワイダ本人も対独レジスタンスに参加しました。大戦後の1946年にクラクフ美術大学に進学しましたが、その後、ウッチ映画大学に進学。1953年に同校を修了しました。

 1955年、ドイツ占領下・1942年のワルシャワを舞台にした『世代』で映画監督としてデビューし、1957年、1944年のワルシャワ蜂起を題材にした『地下水道』が第10回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。さらに、1958年にイェジ・アンジェイェフスキの同名小説を映画化した『灰とダイヤモンド』では、ソ連による“解放”に抵抗するロンドン亡命政府派の青年とその挫折を描き、1959年の第20回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞しました。これら3作品は“抵抗三部作”として知られています。

 また、1977年には、1950年代に労働英雄となったものの、友人をかばったことで逮捕され、社会的に抹殺された男、ビルクートをテーマにした『大理石の男』を発表。この映画は、ポーランド国内では1977年2月25日に公開され、3ヵ月で270万人を動員したものの、当局の怒りに触れて2年間の海外上映禁止処分を受けましたが、1978年の第31回カンヌ国際映画祭にはポーランド当局に無断で上映され、国際映画批評家連盟賞を受賞しています。さらに、1981年にはその続編として『鉄の男』を発表。1980年のグダニスク造船所でのストライキに始まる“連帯”の運動を描き、第34回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しました。

 1981年、ポーランドのヤルゼルスキ政権はソ連の軍事介入を避けるためのぎりぎりの選択として戒厳令を布告しますが、これに伴い、ワイダはポーランド映画人協会長などの職を追われましたが、1986年にはポーランド映画界に復帰。1987年には京都賞を受賞し、その賞金の4500万円を投じて、1994年、クラクフに日本美術技術センターを設立しています。

 民主化後の1989年に行われた議会選挙では、新たに新設された上院のスヴァウキ選挙区から“連帯”の候補として出馬して当選。1991年まで上院議員を務めたほか、2000年には、「世界中の人々に歴史、民主主義、自由について芸術家としての視点を示した」功績をたたえ、第72回アカデミー賞にて名誉賞を受賞しました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。

 最後の本格的な作品は、2013年の『ワレサ 連帯の男』で、この作品では、“連帯”の指導者から大統領となり、ノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサの視点から、ポーランドの民主買う運動を描いたものでした。

 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イベントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイベントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 教皇、アウシュヴィッツ訪問
2016-07-29 Fri 12:01
 世界中のカトリックの若者が集まる祭典“ワールドユースデー”に出席するため、ポーランドを訪問中の教皇フランチェスコ猊下は、きょう(29日)、オシフィエンチム(ドイツ語名:アウシュヴィッツ)の強制収容所跡を訪問します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・教皇アウシュヴィッツ訪問

 これは、1979年、教皇ヨハネパウロ2世のアウシュヴィッツ訪問を記念してポーランドが発行した切手です。

 ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ヴォイティワ)は1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェ生まれ。第二次大戦以前はクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたといわれています。

 第二次大戦中の1943年、聖職者として生きることを決意したものの、ドイツの占領下にあったポーランドでは神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校で学び、解放後の1946年、司祭に叙階されました。

 1948年にローマで神学博士号を取得すると、ポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭に就任。その後は一貫してクラクフ教区で活動を続け、1964年、パウロ6世によりクラクフ教区の大司教に任命されます。さらに、1967年には枢機卿に親任され、19781年、ポーランド人初のローマ教皇に選出されました。

 教皇就任後まもない1979年6月、ヨハネ・パウロ2世は祖国ポーランドを訪問します。

 1979年は、ポーランドおよびクラクフの守護聖人、聖スタニスワフが1079年にポーランド王ボレスワフ2世によって殺害され、殉教してから900周年という節目の年にあたっていました。

 スタニスワフは、グニェズノ聖堂でボレスワフ2世の戴冠式を司った後、ベネディクト会派修道院をポーランドに設置するよう王に働きかけたものの、土地をめぐる争いから王と対立し、王を破門。これに対して、ボレスワフ2世はスタニスワフをミサの途中で捕えて殺害しましたが、その非道な行為のゆえに臣民の反発を買い、ハンガリーに亡命せざるを得なくなりました。

 スタニスワフは1253年に列聖され、彼の聖遺物を祀るクラクフのヴァヴェル聖堂では歴代のポーランド王が戴冠式を行いました。20世紀に入ると、彼が亡くなったとされる5月8日には、クラクフ司教の先導により、彼にささげる礼拝行進が行われるようになります。第二次大戦後、クラクフ司教時代のヨハネ・パウロ2世はこの行事を大衆に普及させることに尽力しましたが、その背景には、スタニスワフを“道徳秩序の守護聖人”として、圧制者と戦った彼を称えることで、暗に、統一労働者党政権とその背後にいるソ連を批判する意図があったものとみられます。

 1979年6月のヨハネ・パウロ2世のお国入りは、そうしたスタニスワフの没後900年記念という名目で企画されたものであったため、当然のことながら、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらすことになりました。

 また、この時の祖国訪問では、教皇はビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、アウシュヴィッツで殉教したコルベ神父を称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにしています。

 いずれにせよ、ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問は、彼の企図した通り、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらし、その流れは翌1980年の独立自主管理労働組合“連帯”の発足へとつながることになりました。

 このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明をしておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ 

 ・8月6日(土) 09:00- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。

 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。


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 ポズナン暴動60年
2016-06-28 Tue 11:24
 1956年6月28日にポーランドでポズナン暴動が起きてから、今日でちょうど60年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックでっ拡大されます)

      ポーランド・ポズナン暴動50年

 これは、2006年にポーランドで発行されたポズナン暴動50年の小型シートです。

 1952年、ポーランドは正式にポーランド人民共和国となり、名実ともにソ連の衛星国となりました。当然のことながら、多くの国民は不満でしたが、ボレスワフ・ビェルト率いるポーランド統一労働者党(共産党)政権は、宗主国のスターリンに倣って反体制派を弾圧し、体制を維持していました。

 ところが、1953年3月にスターリンが亡くなり、1956年2月、ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判を行うと、宗主国の突然の方針転換にショックを受けたビェルトはショックで心臓発作を起こして3月に急死。エドヴァルト・オハプが党第一書記となりました。

 こうした状況の下、1956年6月28日、国際見本市が開かれていた西部の都市ポズナンでは、外国特派員の存在を意識して、未払い分の給料の支払いを求める工場労働者のデモが発生。政府が力づくでこれを抑え込もうとすると、反発したデモ隊は暴徒化し、100名を越える死傷者が発生しました。

 これが、いわゆるポズナン暴動です。

 暴動の発生を受けて、統一労働者党の指導部は守旧派からなるナトーリン派と穏健改革派のプワヴァ派に分裂しましたが、前者は“民主化”の要求には反対しながら、大幅な賃上げとユダヤ系指導者の追放、ヴワディスワフ・ゴムウカの復権などのスローガンを掲げて、大衆の真理に訴えようとします。

 ここで、ナトーリン派がユダヤ系指導者の追放をスローガンとして掲げていたのは、ルブリン政権以来の失政の原因をすべてユダヤ人政治家や党員に押し付けることで、同じく党の指導部にいたはずの自分たちへの非難をかわそうとしたものでした。

 ちなみに、ゴムウカは1905年、ハプスブルク帝国支配下のクロッセン(ポーランド語名クロスノ)近郊生まれ。戦前からの古参共産党員で、第二次大戦後はポーランドでの共産主義体制の樹立に尽力しましたが、1948年に“右翼民族主義的”と批判され、翌1949年に党を除名され、1951年には逮捕・投獄されていた人物です。

 ナトーリン派のプロパガンダは、ポーランド国内の眠っていた反ユダヤ主義を刺激する結果となり、ヴロツロワで「ユダヤ人に仕返しをしよう」という男がユダヤ系時計職人のハイム・ヌトコーヴィチを殺害。さらに、ヴァウブジィフでもユダヤ人に対する暴行事件が発生したほか、各地でユダヤ人の住居に「ポーランドから出ていけ」との多数の落書きが発見されました。

 スターリン没後の1955年、ポーランド政府はユダヤ人のイスラエルへの出国制限を緩和していましたが、これに、1956年のポズナン暴動の混乱とナターリン派による反ユダヤ主義のプロパガンダ等が加わり、ポーランドから脱出するユダヤ人は急増します。

 しかし、ポズナン暴動後の騒然とした空気の中で、こうした動きがポグロムにつながり、社会的な混乱を増幅させることを恐れたポーランド政府は、軍と警察を導入してポグロムの発生を抑え込みました。

 結局、暴動後の10月21日、責任を取らされるかたちでオハプは辞任。ゴムウカが党第一書記として復権を果たし、ナトーリン派は(一時的に)指導部から追放されます。

 権力を掌握したゴムウカは、ワルシャワ条約機構の枠組みは維持するものの、その中での可能な限りの自主路線を模索。具体的には、農業集団化の廃止、ローマ・カトリック教会の迫害の停止、検閲の緩和、ソ連残留ポーランド人(その中には少なからずユダヤ人も含まれていた)の帰国交渉などの改革が行われ、結果的に、スターリン主義的な風潮はかなり緩和されました。

 これに対して、フルシチョフがスターリン批判を行ったとはいえ、ソ連が衛星国の“ソ連離れ”を歓迎するはずもなく、ソ連とポーランドの間には確執が生じることになりました。

 ちなみに、ポズナン暴動後の混乱が取りあえず収束した1957年2月、首相のユーゼフ・ツィランキェヴィチは以下のような声明を発しています。

 ポーランド国民はその出自、民族、信仰に関わりなく、その権利と義務は平等であるという原則を、我々は完全に守るであろう。何世紀にもわたってポーランドを祖国としてきたユダヤ人住民に対する差別とか、同権の法規をゆるがせる試みに対しては政府とその諸機関は断固とした共同の措置を取る。

 また、ほぼ時を同じくして、新聞には、第二次大戦後初めて反ユダヤ主義を批判する記事が掲載され、党中央委員会は地方組織に対して反ユダヤ主義の兆候を見逃さずに反撃するよう、通達を出しました。

 しかし、結果としてユダヤ系ポーランド人の出国は止まず、1955-60年にポーランド国外に脱出したユダヤの数は5万5000人にのぼり、1961年の時点では、ポーランド国内のユダヤ人口は2万5000-3万人にまで落ち込みました。これは、第二次大戦以前(340万人)の1パーセント以下の水準です。

 なお、共産政権下のポーランドの反ユダヤ主義については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 下記の通り、各地のよみうりカルチャーで公開講座を行います。ぜひ、ご参加ください。

・イスラムを知る―ISはなぜテロに走るのか
 よみうりカルチャー横浜 7/2(土) 13:00~14:30

・切手でたどる東京五輪とその時代
 よみうりカルチャー荻窪 7/9(土) 13:00~14:30

 詳細につきましては、それぞれの会場・時間をクリックしてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 おかげさまで4000回
2016-05-13 Fri 12:33
 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど4000回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。というわけで、きょうは“4000”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ワルシャワゲットー蜂起50年

 これは、1993年にポーランドで発行された“ワルシャワ・ゲットー蜂起50年”の記念切手です。ワルシャワ・ゲットー蜂起50年の記念切手は、イスラエルとポーランドで同図案のモノが同時発行されていますが、今回は額面4000ズウォティのポーランド切手の方を持ってきました。

 1939年8月23日に調印された独ソ不可侵条約の秘密議定書において、ドイツは、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏と認めたうえで、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意したことを受け、同年9月1日、ポーランドに侵攻。これにより、第二次大戦が勃発します。さらに、同月17日にはソ連が東側からポーランドに侵攻。10月6日までに、独ソ両国はポーランド全域の占領を完了しました。

 ドイツ軍の占領下に置かれたワルシャワでは、1940年10月から11月にかけてワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)を創設。ゲットーの環境は劣悪で、1942年前半までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病や飢餓によって亡くなりました。
 
 1941年6月に勃発した独ソ戦では、当初、ナチス・ドイツはユダヤ人を東方の占領地域に追放することを計画していましたが、戦況の悪化によりそのプランが実行不可能となると、東欧の占領地域に設けられたゲットーを解体し、そこで暮らすユダヤ人を絶滅収容所へ移送して殺害する“ラインハルト作戦”を発動します。

 この作戦に従い、1942年7月22日から9月10日にかけて、ワルシャワ・ゲットーからの最初の移送作戦が行われ、約30万人のゲットー住民がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されてガス室で殺害されました。

 この事態に危機感を抱いたゲットー内のシオニスト左派は抵抗組織のZ.O.B.(Zydowska Organizacja Bojowa:ユダヤ人戦闘組織)を結成。ユダヤ人たちに列車に乗らないように呼びかけるリーフレットを配布したほか、ユダヤ人評議会とその指揮下にあるユダヤ人ゲットー警察官を殺害するなどの抵抗運動を展開しました。

 さらに、1943年1月、ゲットーの住民を集めて移送しようとしたドイツ軍に対してワルシャワのゲットーの戦闘員たちが発砲して抵抗し、ドイツ側の数名が死亡。このため、ドイツ側は、当初予定を下回るユダヤ人6500人の移送と、1171人の殺害で作戦を一時中止せざるを得なくなりました。

 こうした経緯を経て、1943年4月19日、生き残った住民5万5000人を移送するためにドイツ軍・警察がゲットーに入ると、500人のZ.O.B.は、シオニスト右派系の組織Z.Z.W.(Zydowski Związek Wojskowy:ユダヤ人軍事同盟)250人と連携して、火炎瓶や少数の機関銃でドイツ軍を撃退。ドイツ側は司令官をユルゲン・シュトロープに代えて再び突入しましたが、再度撃退され、退却しました。これが、いわゆるワルシャワ・ゲットー蜂起の始まりです。

 しかし、翌20日以降、ドイツ側はワルシャワ・ゲットーに対して焦土作戦を展開。ゲットーの建物を一つずつ焼き払っていき、ユダヤ人戦闘組織は地下壕へと追い詰められていくことになります。そして、5月8日、ユダヤ人戦闘組織の司令壕がドイツ軍の攻撃を受け、ユダヤ人戦闘組織は壊滅。5月16日までに、蜂起は鎮圧され、5万6,000人を超えるユダヤ人が逮捕され、7000人がトレブリンカの絶滅収容所に移送され、残りは強制労働収容所とマイダネクの絶滅収容所に送られました。ただし、レジスタンスの一部はゲットーからの脱出に成功して、ワルシャワ周辺の森のパルチザングループに加わっています。

 なお、第二次大戦期のユダヤ人とポーランドについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろとまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

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 ポーランドの反ユダヤ主義
2016-02-16 Tue 21:30
 ポーランド政府は、きのう(15日)、同国内のオシフィエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)にあるナチス・ドイツの強制収容所跡について、ホロコーストの責任がポーランドにあるとの誤解を招く恐れがあるとして、メディアなどが“ポーランドの強制収容所”との表現を用いることを禁じ、違反した場合、最高で禁錮5年の刑を科す法案をまとめました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ナルトヴィチ

 これは、1988年にポーランドが発行した第2共和国70周年の記念切手のうち、初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチの肖像を取り上げた切手です。
 
 現在のポーランド国家は、国民の90%以上がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)によって構成されており、事実上の単一民族国家となっていますが、これは、第二次世界大戦末期のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動したことによるもので、第一次大戦後に第2共和国が発足した時点の民族構成では、ウクライナ人14・3%、ユダヤ人10・5%、ベラルーシ人3・9%、ドイツ人3・9%などと、少数民族が人口の約3割を占める多民族国家でした。

 1918年の第2共和国発足当初、ポーランドは、ロシア革命の混乱に乗じてかつてのポーランド・リトアニア共和国の版図を回復すべく、1919-21年、ソ連の前身であるボリシェヴィキ政権と戦い、東方に領土を獲得しましたが、その過程で、「ユダヤ人がボリシェヴィキ政権に協力的である」とか「ユダヤ商人が商品不足に乗じて投機を行い、巨利を得ている」などとの理由を掲げた反ユダヤ暴動が頻発し、多くのユダヤ人が犠牲になりました。各地の暴動そのものはいずれも短期間で収束しましたが、その後も、ポーランド人の間には反ユダヤ感情が根強く残ることになります。

 じっさい、1922年、第2共和国の初代大統領に中道左派のガブリエル・ナルトヴィチ(今回ご紹介の切手の人物です)が当選すると、国民民主党等の右派は「ナルトヴィチはユダヤ人の票で当選した」とのネガティヴィ・キャンペーンを展開。同年12月16日、ナルトヴィチは民族主義過激派によって暗殺されています。また、こうした経緯もあって、ナルトヴィチ暗殺後の1923年5月に大統領となった中道右派のヴィンツェンティ・ヴィトスは「政府の構成員はポーランド人に限られる」として、大学等へのユダヤ人学生の入学制限など、ユダヤ系の権利を制限しました。

 このように、発足後まもない第2共和国は、短命政権が続き、経済的な失策も重なり、社会的にも混乱が続いましたが、1926年5月12日、ポーランド独立の英雄で建国時に国家主席を務めたピウスツキが“5月革命”のクーデターを起こして政権を掌握したことで、ようやく安定。ピウスツキは首相と国防省を兼任し、権威主義的な政権運営を行いましたが、かつてのポーランド・リトアニア共和国をモデルに、第2共和国を諸民族が融和する多民族国家として育成しようと考えており、反ユダヤ主義を含む過剰な民族主義には一貫して否定的で、これらを抑え込みました。

 ところが、1935年3月12日、ピウスツキが亡くなると、野党の国民民主党は、隣国ドイツのヒトラー政権(1933年発足)が経済政策で一定の成果を上げていたことに刺激を受け、「ユダヤ人から買うな」のスローガンを掲げて反ユダヤキャンペーンを展開。この反ユダヤ宣伝は、不況下の生活苦にあえぐポーランド人の一定の支持を集めたことから、次第にピウスツキ派もこれに同調するようになっていきます。

 また、1935年6月にはグロドノ(現ベラルーシ領フロドナ)で、1936年3月にはピシティクで、同年6月にはミンスク・マゾヴィエツキ(現リトアニア領テルシェイ)で、1937年5月にはブジェシチ(現ベラルーシ領ブレスト)で、ポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動が)も発生しています。

 こうした事態に対して、ポーランド政府は国内のユダヤ人口を減少させることが問題の解決になると考えるようになり、ユダヤ人の国外移住を奨励。この結果、ポーランド国籍のユダヤ人がドイツに多数居住するようになりました。そして、そうしたユダヤ系ポーランド国民のドイツからの帰還を望まなかったポーランド政府は、1938年10月6日、発行済みの全てのポーランド旅券につき検査済みの認印を必要とする新旅券法を布告し、ドイツをはじめ国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとします。

 こうしたポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否は、結果的に、ホロコーストの本格的な幕開けとされる“水晶の夜”の悲劇の引き金となりました。その意味では、ポーランドにも“水晶の夜”の悲劇とその後のホロコーストに対して、全く責任がないとは言い切れないでしょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 ホロコースト犠牲者を想起する国際デー
2016-01-27 Wed 12:01
 きょう(27日)は、1945年1月27日にソ連軍によってアウシュヴィッツ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー ”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アウシュヴィッツ葉書(1947年)

 これは、1947年6月にポーランドで発行された“オシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド名)博物館開館”の記念葉書で、印面には、収容所のガス室で殺害された収容者のイメージが、左下には“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”のプレートが掲げられた第1収容所の門扉が取り上げられています。

 共産党政権時代のポーランドの公式の歴史観によれば、戦後のポーランド国家は、ソ連によるナチス・ドイツからの解放を経て樹立されたものであり、それゆえ、ソ連と戦ったナチス・ドイツが“絶対悪”であるということが大前提となっていました。その反面、ナチス・ドイツの絶対悪の象徴とされるユダヤ人迫害については、単純にこれを批難すればよいというわけにも行かない事情が彼らにはありました。

 そもそも、1939年9月にドイツに占領される以前のポーランドには、推定340万人のユダヤ人が居住していました。これに対して、ポーランド全土が解放された後の1945年5月16日の時点で、ポーランド国内で生存が確認されていたユダヤ人は7万4000人でした。その後、領土の変更に伴う移住や終戦に伴う兵士・捕虜の復員などで、ソ連から帰国する者などがあり、1946年6月末の時点で、ポーランド国内のユダヤ人口は25万5000人となりましたから、単純に考えると、帰国者は18万1000人という計算になります。ただし、戦前の340万人に比べると、25万5000人という数字はわずか7・5パーセントにすぎません。

 ところで、ユダヤ人の帰国が進行していくなかで、1945年6月、ジェシュフでユダヤ人の殺傷を含む反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生。以後、ポーランド各地ではポグロムが頻発します。特に、1946年7月4日、ポーランド中心部のキェルツェで発生したポグロムでは、白昼、女性・子供を含む42人のユダヤ人が虐殺され、自分たちの生命・財産に対する物理的な恐怖を感じたユダヤ人はこぞって国外に脱出するようになります。

 戦後のポーランドでユダヤ人に対するポグロムが発生したベースには、戦前からポーランド社会に蔓延していた反ユダヤ主義的な風潮(たとえば、いわゆる“水晶の夜”事件は、一義的にはナチス・ドイツによる犯罪的な行為ですが、ポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否がきっかけになった面があったことは見逃せません)が、大戦を通じても、決して払拭されることがなかったということが挙げられます。

 じっさい、ポグロムの鎮圧を求める市民の声に対して「お前はユダヤ人を救いたいのか」と応じた警察幹部もいましたし、キェルツェでのポグロムの1週間後、ユダヤ人を殺害した犯人の一部に死刑判決が下されたというニュースを聞いたウッチ(ドイツ占領下でのリッツマンシュタット)の労働者は、ユダヤ人を殺しても罪に問われないと信じ込んでいたこともあり、実行犯の死刑判決に対する抗議のストライキを行っているほどです。

 さらに、こうした反ユダヤ感情に加えて、ドイツの占領下で強制収容所に追い立てられたユダヤ人の住居には、その後、近隣のポーランド人が住みついているケースも少なくありませんでしたから、そうした人々にとって、ユダヤ人の帰還は決して望ましいモノではありませんでした。

 いずれにせよ、ナチス・ドイツを打倒することで成立した(という建前の)親ソ政権にとっては、規模の大小こそあれ、本質的には彼らと変わらぬユダヤ人迫害・虐殺が国内で横行しているという事態は、ナチスが“絶対悪”であるという政権の正統性の根拠を根本から揺るがしかねないもので、ゆゆしき問題でした。

 こうした状況の中で、1946年5月25日、アウシュヴィッツ収容所の所長を務めていたヘスがワルシャワに移送され、ポーランド政府に身柄を引き渡されます。さらに、同年7月、キェルツェとクラクフで相次いでポグロムが発生すると、同月30日、ヘスはクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長だったアーモン・ゲートらとともにクラクフへ移送されました。

 その後、クラクフでヘスの裁判が進行していく中で、ポーランド政府は、(事実上の)共産主義政権としては例外的に、ユダヤ人の国外への移住に“寛容”な態度をとり、ユダヤ人の出国を促すようになります。国民の反ユダヤ感情の原因となっているユダヤ人の存在を、物理的に除去してしまおうというわけです。

 この結果、1947年2月までに、ソ連からの帰国者の大多数に相当する16万人のユダヤ人が国外に脱出し、ポーランドのユダヤ人口は9万2000人にまで激減しました。

 そのうえで、同年4月2日、ポーランド最高人民裁判所がヘスに死刑判決を下します。そして、同月16日、ヘスは自分が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑を執行されました。

 こうした前段階を経て、1947年6月14日、1940年にタルヌフからアウシュヴィッツに最初のポーランド系収容者が移送されてきた因縁の日を選んで、ナチスの蛮行を忘れないようにとの趣旨の下、旧収容所跡を国立博物館として保存することが正式に決定されます。今回ご紹介の葉書は、これに合わせて発行されたものです。

 このように、“民族的に統一されたポーランド”の政府は、反ユダヤ感情が国民の底流に流れ続けている中で、(ユダヤ人に対するホロコーストの象徴としての)アウシュヴィッツを糾弾するという矛盾に満ちた状況に、彼らなりの折り合いをつけようとしたわけですが、そのあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 映画『サウルの息子』公開
2016-01-23 Sat 11:34
 昨年(2015年)の第68回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作品で、アウシュビッツ強制収容所を舞台に、ユダヤ人同胞の死体処理に従事するハンガリー出身のユダヤ人を描いた『サウルの息子』が、きょう(23日)から公開されます。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・叛乱跡地絵葉書

 これは、第二次大戦後の1948年、旧アウシュヴィッツ収容所跡を利用して開設されたオシフィエンチム博物館が制作した絵葉書で、アウシュヴィッツ収容所(ビルケナウ第2収容所)内で、ユダヤ人特務労働隊員(ゾンダーコマンド)がおこした叛乱後に作られた墓所が取り上げられています。なお、葉書のキャプションでは、叛乱は1943年に起こったとされていますが、ナチス・ドイツの強制収容所のうち、1943年に叛乱が起きたのは、トレブリンカ(8月2日)とソビブル(10月14日)であって、後述するように、映画の舞台ともなっているアウシュヴィッツでの叛乱は1944年の出来事です。

 もともと、アウシュヴィッツの収容所は主としてポーランド人の捕虜・政治犯を収容する施設として設けられ、その後、ドイツ占領地域のユダヤ人が移送されるようになります。ただし、ドイツの直接占領下にない枢軸国支配下のユダヤ人に関しては、1944年までは、かならずしも組織的な大量移送が行われていたわけではありません。

 第一次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し、多くの領土を失ったハンガリーは、その失地回復を目指して枢軸陣営に加わっていました。ところが、1944年に入り、ドイツの敗色が濃厚になってくると、ハンガリー首相カーロイ・ミクローシュは極秘裏に連合国と休戦交渉を行ったものの、3月8日、これが露見。このため、同月19日、ドイツ軍はハンガリーを占領し、カーロイはトルコ大使館に亡命します。

 これに伴い、それまで移送を免れていたハンガリーのユダヤ人もアウシュヴィッツに送られることになり、ビルケナウでは5月までに本線から監視塔下の“死の門”まで至る引き込み線が作られました。この引き込み線を使って、ハンガリーから移送されてきたユダヤ人の第1・2便が到着したのが1944年5月2日のことで、その日のうちに、2698人がガス室で処刑されています。その後も、ハンガリーからアウシュヴィッツへの移送列車は1日平均4便が運行され、7月9日までに43万7402人のユダヤ系ハンガリー人がアウシュヴィッツに送られました。

 以前からの地域に加え、新たにハンガリーからも大量のユダヤ人が移送されてきたことで、アウシュヴィッツはフル稼働でユダヤ人の虐殺を進め、映画『サウルの息子』の主人公サウルのように、移送されてきたユダヤ人の中から選抜され、収容所側の補助業務を行うゾンダーコマンドも昼夜を分かたず、クレマトリウム(火葬場)での遺体の処理作業に追われる日々が続くことになります。

 しかし、さすがに秋口になると、ハンガリーから移送されてくるユダヤ人の数も少なくなってきました。これに対して、収容所に移送され、虐殺されるユダヤ人の数が減少すれば、いずれは自分たちが殺されることは明白と考えたゾンダーコマンドの一部は、座して死を待つより、収容所に対して叛乱を起こす途を選びました。この叛乱が、映画の一つの重要な題材となるわけです。

 さて、叛乱側は、遺体の処理には直接かかわっていなかった女性収容者が工場から火薬を盗み出すなどして準備を進めた後、10月7日、特務労働隊員はクレマトリウムIVで蜂起。警備にあたっていた親衛隊3名を殺害し、クレマトリウムの施設を破壊しました。

 この混乱に乗じて、数百名の収容者が脱走しましたが、叛乱はすぐに鎮圧され、その多くは捕えられ、殺されます。また、特務労働隊員は全員が殺され、火薬を持ち込んだ女性収容者4名は1945年1月6日、見せしめのため、収容者の見ている前で公開絞首刑となりました。その中のひとり、23歳のローザ・ロバータは、刑の執行に際して「強くなりましょう!勇気をもちましょう!」と叫んだと伝えられています。ちなみに、ビルケナウを含むアウシュヴィッツの収容所群は、ソ連軍により解放されたのは、それからわずか20日後、1月27日のことでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも、当時の郵便物や絵葉書などを使ってご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 コルベ神父の連帯ラベル
2016-01-08 Fri 13:31
 きょう(8日)は、アウシュヴィッツ収容所で殉教したカトリックの聖人、聖マキシミリアノ・コルベ神父の誕生日(1894年)です。というわけで、コルベ神父関連のマテリアルの中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      コルベ・連帯ラベル

 これは、ポーランドで非合法時代の“連帯”が作成したコルベ神父のプロパガンダ・ラベルです。

 1978年にローマ教皇となったヨハネ・パウロ2世は、翌1979年、祖国ポーランドを訪問しました。1979年は、ポーランドおよびクラクフの守護聖人、聖スタニスワフが1079年にポーランド王ボレスワフ2世によって殺害され、殉教してから900周年という節目の年にあたっており、教皇のポーランド訪問の背景には、スタニスワフを“道徳秩序の守護聖人”として、圧制者と戦った彼を称えることで、暗に、統一労働者党政権とその背後にいるソ連を批判する意図がありました。

 はたして、ヨハネ・パウロ2世の企図した通り、教皇の訪問を契機として、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情は高揚。1980年7月、政府が発表した食糧品等の大幅値上げに反対し、グダニスク等のバルト海沿岸地方で労働者のストが発生し、これが全国に波及する勢いとなったため、政府とグダニスクの連合スト委員会の交渉が行われ、政府は、9月17日、ポーランドでは共産圏として初めて、共産党(ポーランドでは統一労働者党)の統制を受けない独立自主管理労働組合“連帯”の発足を認めざるを得なくまりました。

 当初、統一労働者党の目論見としては、党が政治、“連帯”が社会活動にそれぞれ専念するという分業を想定していましたが、“連帯”の組織は全国的に拡大し、レフ・ワレサ率いる指導部は政府との対立のなかでしだいに急進化します。

 これに対して、ソ連はポーランドに軍事介入する姿勢を見せるようになったため、1981年12月、ポーランド政府は戒厳令を発令。“連帯”幹部の大半が拘禁され、翌1982年10月には、“連帯”は非合法化されました。

 これに対して、逮捕を免れた“連帯”幹部は、1982年4月、地下組織として暫定委員会を結成し、1989年の民主化実現まで、抵抗を訴え続けます。

 ポーランド情勢の変化を受けて、1982年10月10日、教皇ヨハネ・パウロ2世は、急遽、アウシュヴィッツで殉教したコルベをカトリックの信徒として最高の栄誉である聖人に列しました。コルベの列聖に際しては、直接的に批判されているのは、彼を餓死刑で殺害したナチス・ドイツですが、暗に、“連帯”を非合法化したポーランド政府もナチス同様の存在であるとの批判が込められていたのは明らかでした。

 こうした背景の下で、非合法化された“連帯”が作成したのが、今回ご紹介のラベルです。

 “連帯”は、地下活動の一環としてさまざまな切手状のラベルを作成し、ソ連を批難したり、ポーランドの共産政権をナチスになぞらえたりするなどのプロパガンダを展開していましたが、今回ご紹介の1枚は「神と国家に忠実であれ(WIERNY BOGU I OJCZYNIE wierny bogu i ojczyznie)」との文言とともにコルベの肖像を取り上げており、コルベに仮託して、神と国家に忠実ではない共産党政権を批判する意図が示されています。

 なお、第二次大戦後の政治状況の中で、コルベやアウシュヴィッツがどのように語られてきたかという点については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★

 第7回テーマティク出品者の会切手展 1月17-20日(日ー水。ただし、18日は休館)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年の香港展に出品した香港の歴史のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)

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 一の酉
2015-11-05 Thu 11:06
 きょう(5日)は、一の酉です。というわけで、例年同様、拙著『アウシュヴィッツの手紙』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オシフィエンチム・暫定加刷

 これは、1918年、ハプスブルク帝国崩壊後のオシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド語名)で発行された暫定加刷切手で、オーストリアの軍事切手にポーランドの国章であるワシをイメージした加刷が施されています。

 1772年の第1回ポーランド分割によって、オシフィエンチムはハプスブルク帝国の支配下に入りましたが、1918年11月11日、第一次大戦に敗れたハプスブルク帝国は、皇帝カール1世げ退位を表明して崩壊します。すでに、ロシア、ドイツの帝国も革命が発生して崩壊しており、18世紀末にポーランドを分割した3つの帝国はすべて消滅。その過程で、10月28日、クラクフに“ポーランド清算委員会”が発足し、ハプスブルク帝国に代わって、オシフィエンチムを含むガリツィアの行政の実務を担当するようになりました。

 郵便に関しては、当面の処置として、各地の郵便局で、在庫として残されていたオーストリア切手を接収して、地域ごとにローカルな加刷を施した暫定的な切手が発行されました。今回ご紹介のオシフィエンチムの加刷切手もその一例です。

 その後、11月14日にポーランドは独立を回復し(ただし、現在のポーランドはこの日ではなく、ハプスブルク帝国が崩壊した11日を“独立記念日”としています)、ユゼフ・ピウスツキを国家主席とする第2共和国が発足して、国家としての再統一が達せられました。

 しかし、その後も郵便に関しては統合が遅れ、旧ハプスブルク帝国地域では、ひとまず、同地域内の切手を統一するため、1919年1月2日、郵便局に残されていた旧オーストリア切手・葉書が回収され、クラクフ市内のA.コハンスキならびにF.ジェリンスキの2ヵ所の印刷所で“ポーランド郵政”を意味する“POCZTA POLSKA”の文字を加刷した切手が発行され、同月20日以降、無加刷の旧オーストリア切手は無効となりました。

 さらに、1919年2月25日、ポーランド清算委員会は、ヤン・ミカルスキーが原画を制作し、ジェリンスキ社で製造した切手を発行し、オシフィエンチムを含むガリツィア全域で使用させましたが、全国統一の切手が発行されたこともあって、これらの暫定的な切手は、1919年5月31日限りで使用停止とされています。

 なお、拙著『アウシュヴィッツの手紙』では、そもそも、アウシュヴィッツ/オシフィエンチムとはどのような土地であったのか、ハプスブルク帝国以前にも遡って、関連するマテリアルをいろいろとご紹介しております。機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 

 ・11月7日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『ペニー・ブラック物語』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 11月11日刊行予定ですが、現在、版元ドットコムamazonhontoネットストア新刊.netの各ネット書店で予約受付中ですので、よろしくお願いします。

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