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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 今夜はポーランド戦
2018-06-28 Thu 08:13
 サッカーのW杯は、今夜(日本時間28日23時)、日本代表がポーランド代表と戦います。というわけで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・クラクフ発行(1919)

 これは、1919年2月25日、クラクフを拠点とするポーランド清算委員会が、旧ハプスブルク領地域で使用するために発行した切手です。切手には、ポーランドの国章である“赤色の盾の背景に、王冠をかぶった白い鷲”が描かれていますが、この国章は、今回のポーランド代表チームのユニフォームにもしっかり入っています。

 さて、第一次大戦以前、ポーランドの地は独・墺・露三国によって分割されていましたが、大戦を経て、三帝国はいずれも崩壊し、ポーランドは再独立を果たしました。

 これを受けて、1918年10月28日、クラクフに“ポーランド清算委員会”が発足し、旧ハプスブルク帝国領の行政実務を担当することになりました。郵便に関しては、当面の処置として、各地の郵便局で、在庫として残されていたオーストリア切手を接収して、地域ごとにローカルな加刷を施した暫定的な切手が発行されています。

 1918年11月14日、ポーランドは独立を回復し、ユゼフ・ピウスツキを国家主席とする第二共和国が発足。国家としての再統一が達せられました。

 しかし、その後も郵便に関しては統合が遅れ、旧ハプスブルク帝国地域では、ひとまず、同地域内の切手を統一するため、1919年1月2日、郵便局に残されていた旧オーストリア切手・葉書が回収され、クラクフ市内のA.コハンスキならびにF.ジェリンスキの2ヵ所の印刷所で“ポーランド郵政”を意味する“POCZTA POLSKA”の文字を加刷したうえで、同年1月10日から20種類の額面の切手が発行されました。なお、加刷の文字は、コハンスキ社が凸版印刷、ジェリンスキ社が平版印刷なので、単片切手でも印刷所を識別することは可能です。

 これらクラクフ加刷切手の発行を受けて、1月12日、同月20日以降、無加刷の旧オーストリア切手を無効とする旨が発表されっます。さらに、1919年2月25日、ポーランド清算委員会は、ヤン・ミカルスキーが原画を制作し、ジェリンスキ社で製造した切手を発行し、旧ハプスブルク領地域で使用させました。それが、今回ご紹介の切手です。

 しかし、ポーランド第二共和国としての体制が整ってくると各地域の郵便の統合も進み、全国統一の切手が発行されたこともあって、これらの暫定的な切手は、1919年5月31日限りで使用停止となりました。

 なお、現在のポーランド南部の地域が、ハプスブルク帝国の支配を経て、ポーランド第二共和国に統合されていく過程については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 本日、トークやります。
2018-04-07 Sat 02:48
 かねてご案内のとおり、本日(7日)13:00より、東京・駒込の(公財) 愛恵福祉支援財団で、ヒロシマ トークセッション連続講座の第45回として、「アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手」と題してトークイベントを行います。というわけで、その予告編として、こんなモノをを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・暫定1行印カバー(1940)

 これは、第二次大戦初期の1940年3月、ドイツ占領下のアウシュヴィッツからクラクフ宛の書留便で、“Auschwitz (Oberschlies)1”の地名のみが入った抹消印が押されています。

 アウシュヴィッツのドイツ語名(ポーランド語名はオシフィエンチム)で知られる小都市は、14-15世紀にはポーランド系君主によるオシフィエンチム公国の拠点でしたが、1772年のポーランド分割によりハプスブルク帝国の支配下に入り、プロイセンとの国境の町になりました。その後、1918年にポーランドが独立を回復すると、第二次大戦の勃発まで、オシフィエンチムはポーランド領になります。

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、オシフィエンチムは開戦翌々日の9月3日にはドイツ軍の空爆を受けて占領され、ドイツ直轄領のカトヴィッツ県に編入されます。

 占領後のオシフィエンチムでは、ドイツの占領当局はポーランド時代の郵政組織を接収し、ポーランド切手・消印の使用を禁止するとともに、ドイツ本国の切手をそのまま持ち込んで郵便を再開しましたが、消印に関しては、当初、ポーランド語名の“OSWIECIM”の表示の印が使用されていました。

 1940年2月以降、ドイツ占領当局は、ポーランド語の地名“オシフィエンチム”を、ドイツ語の“アウシュヴィッツ”に変更しますが、すぐにはドイツ語地名の正規の消印の配給が間に合わなかったため、当初はアウシュヴィッツ1局として、今回ご紹介のカバーに示すように、“Auschwitz (Oberschlies)1”の地名のみが入った抹消印が暫定的に使用されました。

 ところで、第二次大戦が勃発した時点で、ナチス・ドイツの支配地域には、建設順にダッハウ(1933年)、ザクセンハウゼン(1936年。オラニエンブルクの収容所がいったん閉鎖された後、その跡地に隣接する場所に建設)、ブーヘンヴァルト(1937年)、フロッセンビュルク(1938年)、マウトハウゼン(1938年。旧オーストリア地域)、ラーフェンスブリュック(1939年。女性・子供専用)の6つの“模範収容所”があり、2万1000名の収容者が拘留されていました。

 これに加えて、ポーランドを占領したドイツにとっては、占領地域の捕虜や政治犯の収容施設を確保することが必要となり、緊急に強制収容所を増設することになりました。そこで、アウシュヴィッツの旧ポーランド軍兵営をベースに、防疫通過収容所を建設する計画が立てられます。

 防疫通過収容所というのは、収容者をいったんここに集めたうえで病気などの有無を検査し、そこから各地の収容所に送り出すための施設です。アウシュヴィッツは歴史的にはハプスブルク帝国とプロイセンの事実上の国境の町として、古くから鉄道の駅が置かれるなど、域内における物流の拠点として機能していたため、防疫通貨収容所のロケーションとして適切と判断されました。また、収容所に転用された兵営は、市街地の中心部からは2キロほどの距離があり、必要に応じて周囲に拡張することが容易だったという事情もありました。

 かくして、1940年4月27日、アウシュヴィッツでの収容所建設命令が発せられ、6月14日、最初の収容者として、タルヌフ(クラクフの東75キロの地点にあるビャワ川沿いの都市)の刑務所から728人のポーランド人捕虜・政治犯がアウシュヴィッツに移送されてきます。こうして、1945年1月27日の解放にいたるまでの、アウシュヴィッツ収容所の歴史が幕を開けることになります。

 今回のトークでは、拙著『アウシュヴィッツの手紙』の内容を補足しながら、アウシュヴィッツとその歴史を、切手や郵便物、絵葉書などを使って、さまざまな角度からお話しする予定です。ぜひ、1人でも多くの方にご参加いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

<ヒロシマ トークセッション連続講座 アウシュヴィッツの手紙・戦争と切手>

      アウシュヴィッツの手紙・表紙

 4月7日(土)13:00-16:00  
 於・ (公財) 愛恵福祉支援財団(東京都北区中里 2-6-1愛恵ビル3F)
 資料代 1,000 円 (当日会場で集めます)
 会場と資料準備の関係で必ず、下記宛に事前の申し込みをお願いします。
 申込先 竹内 良男(qq2g2vdd★vanilla.ocn.ne.jp スパム防止のため、送信の際は★を@にしてください)


 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 4月8日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 
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 ユダヤ人を救った動物園
2017-12-15 Fri 11:35
 第二次世界大戦下のポーランドを舞台に、ワルシャワ動物園の経営者夫婦がナチスドイツに迫害されるユダヤ人たちを園内にかくまった実話に基づくポーランド映画『ユダヤ人を救った動物園~アントニーナが愛した命』が、きょう(15日)から公開されます。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ワルシャワ動物園50年葉書

 これは、ポーランドが発行した“ワルシャワ動物園50周年”の記念葉書で、ヨーロッパ・バイソンがデザインされています。ヨーロッパバイソンは、かつてはヨーロッパ西部からロシアのレナ川以西まで分布していましたが、すでに純粋な野生種は絶滅し、現在では、ポーランドとベラルーシの国境地帯にまたがるビャウォヴィエジャの森に純粋種が再導入され、約400頭が棲息するのみとなっています。ポーランドを代表するウォッカ“ズブロッカ(ポーランド語ではジュブルフカ)”は、ヨーロッパバイソンを意味するポーランド語の“ジュブル”がその名の由来ですが、これは、ビャウォヴィエジャの森でとれるバイソングラスを使っていることによるものです。

 さて、現在のワルシャワ動物園は1928年3月11日に開園したということになっていますが(今回ご紹介の葉書もここから起算して発行されたものですが、実際の発行は1979年にずれ込みました)、その起源は、選挙王政時代のポーランド王、ヤン3世ソビェスキ(在位1674-96年)の時代、王室の私的な庭園で飼育されていた動物を一般公開していたことに求められます。また、19世紀には、ロシアの支配下でワルシャワ市内にいくつかの小規模な私立動物園が営業していました。

 ポーランド再独立後の1926年、市内のコシコヴァ通りにパゴウスキが小規模な動物園を開園。同園は、翌1927年、マヤ通りの1万平米の敷地に移転。キエフ動物園の創立者で園長のブルジンスキを招いての動物公園としての整備工事を経て、1928年3月、ブルジンスキーを園長として再オープンしました。

 ところが、1928年末、ブルジンスキが急死。このため、動物学者のヤン・ジャビンスキが後任の園長に就任し、彼の下で、サル舎、ゾウ舎、レイヨウやキリンのスペースなどが設けられました。

 1939年、第二次大戦が勃発し、ドイツ軍がワルシャワを占領すると、占領ドイツ軍は戦利品として“重要”とみなした動物をショルフハイデ自然保護区に移送。ドイツ軍から“無価値”とみなされた動物は射殺され、動物園も閉鎖に追い込まれました。

 こうした状況の中、ヤンとその妻アントニーナ、息子のリシャルトは300人のユダヤ人を園内に匿い、ホロコーストの被害から救ったというエピソードは、2007年、米国の詩人のダイアン・アッカーマンがノンフィクション作品 The Zookeeper's Wife (邦題『ユダヤ人を救った動物園 ヤンとアントニーナの物語』)として発表。これを基に制作された映画『ユダヤ人を救った動物園』は、2017年3月8日、ワルシャワで世界初上映され、米英での公開に続き、今回、日本でも公開されることになったというわけです。

 ちなみに、ヤンは1944年のワルシャワ蜂起で負傷し、ドイツ軍の捕虜となりましたが、戦後の1949年に動物園が再開されると、園長として復職。1951年まで園長を務めた後、ホロコーストからユダヤ人を救出した功績に対して、イスラエルから“ポーランド人の正義の人”に認定されています。

 なお、第二次大戦中のポーランドとユダヤ人のホロコーストの問題については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろな角度から書いておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

 12月14日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第12回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、12月28日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、14日放送分につきましては、21日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 アウシュヴィッツ訪問者最多に
2017-01-03 Tue 11:49
 アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は、きのう(2日)、昨年(2016年)の訪問者数が前年より約33万人増えて約205万人となり、過去最多を更新したと発表しました。これは、昨年7月、近隣のクラクフで“ワールド・ユースデー”が開かれ、これに合わせて教皇が強制収容所跡を訪問されたことを受け、ワールド・ユースデイの参加者の多くが収容所跡も見学したことによるものです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アウシュヴィッツ博物館開館(3ズウォチ)

 これは、1947年、ポーランドで発行された“オシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド名)博物館開館”の記念葉書で、印面には収容所で殺害された収容者のイメージが、左下には収容所の監視塔が取り上げられています。

 共産党政権時代のポーランドの公式の歴史観によれば、戦後のポーランド国家は、ソ連によるナチス・ドイツからの解放を経て樹立されたものであり、それゆえ、ソ連と戦ったナチス・ドイツが“絶対悪”であるということが大前提となっていました。その反面、ナチス・ドイツの絶対悪の象徴とされるユダヤ人迫害については、単純にこれを批難すればよいというわけにも行かない事情が彼らにはありました。

 そもそも、1939年9月にドイツに占領される以前のポーランドには、推定340万人のユダヤ人が居住していました。これに対して、ポーランド全土が解放された後の1945年5月16日の時点で、ポーランド国内で生存が確認されていたユダヤ人は7万4000人。その後、領土の変更に伴う移住や終戦に伴う兵士・捕虜の復員などで、1946年6月末の時点で、ポーランド国内のユダヤ人口は25万5000人となりましたから、単純に考えると、帰国者は18万1000人という計算になります。ただし、戦前の340万人に比べると、25万5000人という数字はわずか7・5パーセントにすぎません。

 ところで、ユダヤ人の帰国が進行していくなかで、1945年6月、ジェシュフでユダヤ人の殺傷を含む反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生。以後、ポーランド各地ではポグロムが頻発します。特に、1946年7月4日、ポーランド中心部のキェルツェで発生したポグロムでは、白昼、女性・子供を含む42人のユダヤ人が虐殺され、自分たちの生命・財産に対する物理的な恐怖を感じたユダヤ人はこぞって国外に脱出するようになります。

 戦後のポーランドでユダヤ人に対するポグロムが発生したベースには、戦前からポーランド社会に蔓延していた反ユダヤ主義的な風潮(たとえば、いわゆる“水晶の夜”事件は、一義的にはナチス・ドイツによる犯罪的な行為ですが、ポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否がきっかけになった面があったことは見逃せません)が、大戦を通じても、決して払拭されることがなかったということが挙げられます。

 じっさい、ポグロムの鎮圧を求める市民の声に対して「お前はユダヤ人を救いたいのか」と応じた警察幹部もいましたし、キェルツェでのポグロムの1週間後、ユダヤ人を殺害した犯人の一部に死刑判決が下されたというニュースを聞いたウッチ(ドイツ占領下でのリッツマンシュタット)の労働者は、実行犯の死刑判決に対する抗議のストライキを行っているほどです。(労働者たちは、ユダヤ人を殺しても罪に問われないと信じ込んでいたそうです。)

 さらに、こうした反ユダヤ感情に加えて、ドイツの占領下で強制収容所に追い立てられたユダヤ人の住居には、その後、近隣のポーランド人が住みついているケースも少なくありませんでしたから、そうした人々にとって、ユダヤ人の帰還は歓迎されざる事態だったわけです。

 いずれにせよ、ナチス・ドイツを打倒することで成立した(という建前の)親ソ政権にとっては、規模の大小こそあれ、本質的には彼らと変わらぬユダヤ人迫害・虐殺が国内で横行しているという事態は、ナチスが“絶対悪”であるという政権の正統性の根拠を根本から揺るがしかねないもので、ゆゆしき問題でした。

 こうした状況の中で、1946年5月25日、アウシュヴィッツ収容所の所長を務めていたヘスがワルシャワに移送され、ポーランド政府に身柄を引き渡されます。さらに、同年7月、キェルツェとクラクフで相次いでポグロムが発生すると、同月30日、ヘスはクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長だったアーモン・ゲートらとともにクラクフへ移送されました。

 その後、クラクフでヘスの裁判が進行していく中で、ポーランド政府は、(事実上の)共産主義政権としては例外的に、ユダヤ人の国外への移住に“寛容”な態度をとり、ユダヤ人の出国を促すようになります。国民の反ユダヤ感情の原因となっているユダヤ人の存在を、物理的に除去してしまおうというわけです。

 この結果、1947年2月までに、ソ連からの帰国者の大多数に相当する16万人のユダヤ人が国外に脱出し、ポーランドのユダヤ人口は9万2000人にまで激減しました。

 そのうえで、同年4月2日、ポーランド最高人民裁判所がヘスに死刑判決を下します。そして、同月16日、ヘスは自分が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑を執行されました。

 こうした前段階を経て、1947年6月14日、1940年にタルヌフからアウシュヴィッツに最初のポーランド系収容者が移送されてきた因縁の日を選んで、ナチスの蛮行を忘れないようにとの趣旨の下、旧収容所跡を国立博物館として保存することが正式に決定され、7月2日、博物館が開館します。今回ご紹介の葉書は、これに合わせて発行されたものです。

 このように、“民族的に統一されたポーランド”の政府は、反ユダヤ感情が国民の底流に流れ続けている中で、(ユダヤ人に対するホロコーストの象徴としての)アウシュヴィッツを糾弾するという矛盾に満ちた状況に、彼らなりの折り合いをつけようとしたわけですが、そのあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 アンジェイ・ワイダ、亡くなる
2016-10-10 Mon 12:27
 ポーランド映画の巨匠、アンジェイ・ワイダ監督(以下、敬称略)が、きのう(9日)、亡くなりました。享年90歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アンジェイ・ワイダ(2000)

 これは、2000年、ワイダのアカデミー賞・名誉賞受賞を記念して、ポーランドが発行した切手で、当時のワイダの肖像が取り上げられています。

 アンジェイ・ワイダは、1926年3月6日、ポーランド東北部のスヴァウキで生まれました。父親はポーランド軍の大尉で、第二次大戦中、ソ連によるカティンの森事件に巻き込まれて亡くなっており、ワイダ本人も対独レジスタンスに参加しました。大戦後の1946年にクラクフ美術大学に進学しましたが、その後、ウッチ映画大学に進学。1953年に同校を修了しました。

 1955年、ドイツ占領下・1942年のワルシャワを舞台にした『世代』で映画監督としてデビューし、1957年、1944年のワルシャワ蜂起を題材にした『地下水道』が第10回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。さらに、1958年にイェジ・アンジェイェフスキの同名小説を映画化した『灰とダイヤモンド』では、ソ連による“解放”に抵抗するロンドン亡命政府派の青年とその挫折を描き、1959年の第20回ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞しました。これら3作品は“抵抗三部作”として知られています。

 また、1977年には、1950年代に労働英雄となったものの、友人をかばったことで逮捕され、社会的に抹殺された男、ビルクートをテーマにした『大理石の男』を発表。この映画は、ポーランド国内では1977年2月25日に公開され、3ヵ月で270万人を動員したものの、当局の怒りに触れて2年間の海外上映禁止処分を受けましたが、1978年の第31回カンヌ国際映画祭にはポーランド当局に無断で上映され、国際映画批評家連盟賞を受賞しています。さらに、1981年にはその続編として『鉄の男』を発表。1980年のグダニスク造船所でのストライキに始まる“連帯”の運動を描き、第34回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しました。

 1981年、ポーランドのヤルゼルスキ政権はソ連の軍事介入を避けるためのぎりぎりの選択として戒厳令を布告しますが、これに伴い、ワイダはポーランド映画人協会長などの職を追われましたが、1986年にはポーランド映画界に復帰。1987年には京都賞を受賞し、その賞金の4500万円を投じて、1994年、クラクフに日本美術技術センターを設立しています。

 民主化後の1989年に行われた議会選挙では、新たに新設された上院のスヴァウキ選挙区から“連帯”の候補として出馬して当選。1991年まで上院議員を務めたほか、2000年には、「世界中の人々に歴史、民主主義、自由について芸術家としての視点を示した」功績をたたえ、第72回アカデミー賞にて名誉賞を受賞しました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。

 最後の本格的な作品は、2013年の『ワレサ 連帯の男』で、この作品では、“連帯”の指導者から大統領となり、ノーベル平和賞を受賞したレフ・ワレサの視点から、ポーランドの民主買う運動を描いたものでした。

 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イベントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイベントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 教皇、アウシュヴィッツ訪問
2016-07-29 Fri 12:01
 世界中のカトリックの若者が集まる祭典“ワールドユースデー”に出席するため、ポーランドを訪問中の教皇フランチェスコ猊下は、きょう(29日)、オシフィエンチム(ドイツ語名:アウシュヴィッツ)の強制収容所跡を訪問します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・教皇アウシュヴィッツ訪問

 これは、1979年、教皇ヨハネパウロ2世のアウシュヴィッツ訪問を記念してポーランドが発行した切手です。

 ヨハネ・パウロ2世(本名カロル・ヴォイティワ)は1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェ生まれ。第二次大戦以前はクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたといわれています。

 第二次大戦中の1943年、聖職者として生きることを決意したものの、ドイツの占領下にあったポーランドでは神学校の運営が禁止されていたため、非合法の地下神学校で学び、解放後の1946年、司祭に叙階されました。

 1948年にローマで神学博士号を取得すると、ポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭に就任。その後は一貫してクラクフ教区で活動を続け、1964年、パウロ6世によりクラクフ教区の大司教に任命されます。さらに、1967年には枢機卿に親任され、19781年、ポーランド人初のローマ教皇に選出されました。

 教皇就任後まもない1979年6月、ヨハネ・パウロ2世は祖国ポーランドを訪問します。

 1979年は、ポーランドおよびクラクフの守護聖人、聖スタニスワフが1079年にポーランド王ボレスワフ2世によって殺害され、殉教してから900周年という節目の年にあたっていました。

 スタニスワフは、グニェズノ聖堂でボレスワフ2世の戴冠式を司った後、ベネディクト会派修道院をポーランドに設置するよう王に働きかけたものの、土地をめぐる争いから王と対立し、王を破門。これに対して、ボレスワフ2世はスタニスワフをミサの途中で捕えて殺害しましたが、その非道な行為のゆえに臣民の反発を買い、ハンガリーに亡命せざるを得なくなりました。

 スタニスワフは1253年に列聖され、彼の聖遺物を祀るクラクフのヴァヴェル聖堂では歴代のポーランド王が戴冠式を行いました。20世紀に入ると、彼が亡くなったとされる5月8日には、クラクフ司教の先導により、彼にささげる礼拝行進が行われるようになります。第二次大戦後、クラクフ司教時代のヨハネ・パウロ2世はこの行事を大衆に普及させることに尽力しましたが、その背景には、スタニスワフを“道徳秩序の守護聖人”として、圧制者と戦った彼を称えることで、暗に、統一労働者党政権とその背後にいるソ連を批判する意図があったものとみられます。

 1979年6月のヨハネ・パウロ2世のお国入りは、そうしたスタニスワフの没後900年記念という名目で企画されたものであったため、当然のことながら、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらすことになりました。

 また、この時の祖国訪問では、教皇はビルケナウのアウシュヴィッツ第2収容所跡を訪れ、約50万人とともにミサを行い、強制収容所を「私たちの時代のゴルゴダ」と呼び、アウシュヴィッツで殉教したコルベ神父を称えるとともに、ビルケナウのガス室で殺害された修道女エーディト・シュタインについて列福のための調査を行う方針を明らかにしています。

 いずれにせよ、ヨハネ・パウロ2世のポーランド訪問は、彼の企図した通り、ポーランド国内のナショナリズムと反ソ感情させるという結果をもたらし、その流れは翌1980年の独立自主管理労働組合“連帯”の発足へとつながることになりました。

 このあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろご説明をしておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ 

 ・8月6日(土) 09:00- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。

 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。


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 ポズナン暴動60年
2016-06-28 Tue 11:24
 1956年6月28日にポーランドでポズナン暴動が起きてから、今日でちょうど60年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックでっ拡大されます)

      ポーランド・ポズナン暴動50年

 これは、2006年にポーランドで発行されたポズナン暴動50年の小型シートです。

 1952年、ポーランドは正式にポーランド人民共和国となり、名実ともにソ連の衛星国となりました。当然のことながら、多くの国民は不満でしたが、ボレスワフ・ビェルト率いるポーランド統一労働者党(共産党)政権は、宗主国のスターリンに倣って反体制派を弾圧し、体制を維持していました。

 ところが、1953年3月にスターリンが亡くなり、1956年2月、ソ連共産党大会でフルシチョフがスターリン批判を行うと、宗主国の突然の方針転換にショックを受けたビェルトはショックで心臓発作を起こして3月に急死。エドヴァルト・オハプが党第一書記となりました。

 こうした状況の下、1956年6月28日、国際見本市が開かれていた西部の都市ポズナンでは、外国特派員の存在を意識して、未払い分の給料の支払いを求める工場労働者のデモが発生。政府が力づくでこれを抑え込もうとすると、反発したデモ隊は暴徒化し、100名を越える死傷者が発生しました。

 これが、いわゆるポズナン暴動です。

 暴動の発生を受けて、統一労働者党の指導部は守旧派からなるナトーリン派と穏健改革派のプワヴァ派に分裂しましたが、前者は“民主化”の要求には反対しながら、大幅な賃上げとユダヤ系指導者の追放、ヴワディスワフ・ゴムウカの復権などのスローガンを掲げて、大衆の真理に訴えようとします。

 ここで、ナトーリン派がユダヤ系指導者の追放をスローガンとして掲げていたのは、ルブリン政権以来の失政の原因をすべてユダヤ人政治家や党員に押し付けることで、同じく党の指導部にいたはずの自分たちへの非難をかわそうとしたものでした。

 ちなみに、ゴムウカは1905年、ハプスブルク帝国支配下のクロッセン(ポーランド語名クロスノ)近郊生まれ。戦前からの古参共産党員で、第二次大戦後はポーランドでの共産主義体制の樹立に尽力しましたが、1948年に“右翼民族主義的”と批判され、翌1949年に党を除名され、1951年には逮捕・投獄されていた人物です。

 ナトーリン派のプロパガンダは、ポーランド国内の眠っていた反ユダヤ主義を刺激する結果となり、ヴロツロワで「ユダヤ人に仕返しをしよう」という男がユダヤ系時計職人のハイム・ヌトコーヴィチを殺害。さらに、ヴァウブジィフでもユダヤ人に対する暴行事件が発生したほか、各地でユダヤ人の住居に「ポーランドから出ていけ」との多数の落書きが発見されました。

 スターリン没後の1955年、ポーランド政府はユダヤ人のイスラエルへの出国制限を緩和していましたが、これに、1956年のポズナン暴動の混乱とナターリン派による反ユダヤ主義のプロパガンダ等が加わり、ポーランドから脱出するユダヤ人は急増します。

 しかし、ポズナン暴動後の騒然とした空気の中で、こうした動きがポグロムにつながり、社会的な混乱を増幅させることを恐れたポーランド政府は、軍と警察を導入してポグロムの発生を抑え込みました。

 結局、暴動後の10月21日、責任を取らされるかたちでオハプは辞任。ゴムウカが党第一書記として復権を果たし、ナトーリン派は(一時的に)指導部から追放されます。

 権力を掌握したゴムウカは、ワルシャワ条約機構の枠組みは維持するものの、その中での可能な限りの自主路線を模索。具体的には、農業集団化の廃止、ローマ・カトリック教会の迫害の停止、検閲の緩和、ソ連残留ポーランド人(その中には少なからずユダヤ人も含まれていた)の帰国交渉などの改革が行われ、結果的に、スターリン主義的な風潮はかなり緩和されました。

 これに対して、フルシチョフがスターリン批判を行ったとはいえ、ソ連が衛星国の“ソ連離れ”を歓迎するはずもなく、ソ連とポーランドの間には確執が生じることになりました。

 ちなみに、ポズナン暴動後の混乱が取りあえず収束した1957年2月、首相のユーゼフ・ツィランキェヴィチは以下のような声明を発しています。

 ポーランド国民はその出自、民族、信仰に関わりなく、その権利と義務は平等であるという原則を、我々は完全に守るであろう。何世紀にもわたってポーランドを祖国としてきたユダヤ人住民に対する差別とか、同権の法規をゆるがせる試みに対しては政府とその諸機関は断固とした共同の措置を取る。

 また、ほぼ時を同じくして、新聞には、第二次大戦後初めて反ユダヤ主義を批判する記事が掲載され、党中央委員会は地方組織に対して反ユダヤ主義の兆候を見逃さずに反撃するよう、通達を出しました。

 しかし、結果としてユダヤ系ポーランド人の出国は止まず、1955-60年にポーランド国外に脱出したユダヤの数は5万5000人にのぼり、1961年の時点では、ポーランド国内のユダヤ人口は2万5000-3万人にまで落ち込みました。これは、第二次大戦以前(340万人)の1パーセント以下の水準です。

 なお、共産政権下のポーランドの反ユダヤ主義については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 下記の通り、各地のよみうりカルチャーで公開講座を行います。ぜひ、ご参加ください。

・イスラムを知る―ISはなぜテロに走るのか
 よみうりカルチャー横浜 7/2(土) 13:00~14:30

・切手でたどる東京五輪とその時代
 よみうりカルチャー荻窪 7/9(土) 13:00~14:30

 詳細につきましては、それぞれの会場・時間をクリックしてご覧いただけると幸いです。


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 おかげさまで4000回
2016-05-13 Fri 12:33
 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど4000回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。というわけで、きょうは“4000”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ワルシャワゲットー蜂起50年

 これは、1993年にポーランドで発行された“ワルシャワ・ゲットー蜂起50年”の記念切手です。ワルシャワ・ゲットー蜂起50年の記念切手は、イスラエルとポーランドで同図案のモノが同時発行されていますが、今回は額面4000ズウォティのポーランド切手の方を持ってきました。

 1939年8月23日に調印された独ソ不可侵条約の秘密議定書において、ドイツは、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏と認めたうえで、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意したことを受け、同年9月1日、ポーランドに侵攻。これにより、第二次大戦が勃発します。さらに、同月17日にはソ連が東側からポーランドに侵攻。10月6日までに、独ソ両国はポーランド全域の占領を完了しました。

 ドイツ軍の占領下に置かれたワルシャワでは、1940年10月から11月にかけてワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)を創設。ゲットーの環境は劣悪で、1942年前半までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病や飢餓によって亡くなりました。
 
 1941年6月に勃発した独ソ戦では、当初、ナチス・ドイツはユダヤ人を東方の占領地域に追放することを計画していましたが、戦況の悪化によりそのプランが実行不可能となると、東欧の占領地域に設けられたゲットーを解体し、そこで暮らすユダヤ人を絶滅収容所へ移送して殺害する“ラインハルト作戦”を発動します。

 この作戦に従い、1942年7月22日から9月10日にかけて、ワルシャワ・ゲットーからの最初の移送作戦が行われ、約30万人のゲットー住民がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されてガス室で殺害されました。

 この事態に危機感を抱いたゲットー内のシオニスト左派は抵抗組織のZ.O.B.(Zydowska Organizacja Bojowa:ユダヤ人戦闘組織)を結成。ユダヤ人たちに列車に乗らないように呼びかけるリーフレットを配布したほか、ユダヤ人評議会とその指揮下にあるユダヤ人ゲットー警察官を殺害するなどの抵抗運動を展開しました。

 さらに、1943年1月、ゲットーの住民を集めて移送しようとしたドイツ軍に対してワルシャワのゲットーの戦闘員たちが発砲して抵抗し、ドイツ側の数名が死亡。このため、ドイツ側は、当初予定を下回るユダヤ人6500人の移送と、1171人の殺害で作戦を一時中止せざるを得なくなりました。

 こうした経緯を経て、1943年4月19日、生き残った住民5万5000人を移送するためにドイツ軍・警察がゲットーに入ると、500人のZ.O.B.は、シオニスト右派系の組織Z.Z.W.(Zydowski Związek Wojskowy:ユダヤ人軍事同盟)250人と連携して、火炎瓶や少数の機関銃でドイツ軍を撃退。ドイツ側は司令官をユルゲン・シュトロープに代えて再び突入しましたが、再度撃退され、退却しました。これが、いわゆるワルシャワ・ゲットー蜂起の始まりです。

 しかし、翌20日以降、ドイツ側はワルシャワ・ゲットーに対して焦土作戦を展開。ゲットーの建物を一つずつ焼き払っていき、ユダヤ人戦闘組織は地下壕へと追い詰められていくことになります。そして、5月8日、ユダヤ人戦闘組織の司令壕がドイツ軍の攻撃を受け、ユダヤ人戦闘組織は壊滅。5月16日までに、蜂起は鎮圧され、5万6,000人を超えるユダヤ人が逮捕され、7000人がトレブリンカの絶滅収容所に移送され、残りは強制労働収容所とマイダネクの絶滅収容所に送られました。ただし、レジスタンスの一部はゲットーからの脱出に成功して、ワルシャワ周辺の森のパルチザングループに加わっています。

 なお、第二次大戦期のユダヤ人とポーランドについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でもいろいろとまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

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 ポーランドの反ユダヤ主義
2016-02-16 Tue 21:30
 ポーランド政府は、きのう(15日)、同国内のオシフィエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)にあるナチス・ドイツの強制収容所跡について、ホロコーストの責任がポーランドにあるとの誤解を招く恐れがあるとして、メディアなどが“ポーランドの強制収容所”との表現を用いることを禁じ、違反した場合、最高で禁錮5年の刑を科す法案をまとめました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・ナルトヴィチ

 これは、1988年にポーランドが発行した第2共和国70周年の記念切手のうち、初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチの肖像を取り上げた切手です。
 
 現在のポーランド国家は、国民の90%以上がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)によって構成されており、事実上の単一民族国家となっていますが、これは、第二次世界大戦末期のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動したことによるもので、第一次大戦後に第2共和国が発足した時点の民族構成では、ウクライナ人14・3%、ユダヤ人10・5%、ベラルーシ人3・9%、ドイツ人3・9%などと、少数民族が人口の約3割を占める多民族国家でした。

 1918年の第2共和国発足当初、ポーランドは、ロシア革命の混乱に乗じてかつてのポーランド・リトアニア共和国の版図を回復すべく、1919-21年、ソ連の前身であるボリシェヴィキ政権と戦い、東方に領土を獲得しましたが、その過程で、「ユダヤ人がボリシェヴィキ政権に協力的である」とか「ユダヤ商人が商品不足に乗じて投機を行い、巨利を得ている」などとの理由を掲げた反ユダヤ暴動が頻発し、多くのユダヤ人が犠牲になりました。各地の暴動そのものはいずれも短期間で収束しましたが、その後も、ポーランド人の間には反ユダヤ感情が根強く残ることになります。

 じっさい、1922年、第2共和国の初代大統領に中道左派のガブリエル・ナルトヴィチ(今回ご紹介の切手の人物です)が当選すると、国民民主党等の右派は「ナルトヴィチはユダヤ人の票で当選した」とのネガティヴィ・キャンペーンを展開。同年12月16日、ナルトヴィチは民族主義過激派によって暗殺されています。また、こうした経緯もあって、ナルトヴィチ暗殺後の1923年5月に大統領となった中道右派のヴィンツェンティ・ヴィトスは「政府の構成員はポーランド人に限られる」として、大学等へのユダヤ人学生の入学制限など、ユダヤ系の権利を制限しました。

 このように、発足後まもない第2共和国は、短命政権が続き、経済的な失策も重なり、社会的にも混乱が続いましたが、1926年5月12日、ポーランド独立の英雄で建国時に国家主席を務めたピウスツキが“5月革命”のクーデターを起こして政権を掌握したことで、ようやく安定。ピウスツキは首相と国防省を兼任し、権威主義的な政権運営を行いましたが、かつてのポーランド・リトアニア共和国をモデルに、第2共和国を諸民族が融和する多民族国家として育成しようと考えており、反ユダヤ主義を含む過剰な民族主義には一貫して否定的で、これらを抑え込みました。

 ところが、1935年3月12日、ピウスツキが亡くなると、野党の国民民主党は、隣国ドイツのヒトラー政権(1933年発足)が経済政策で一定の成果を上げていたことに刺激を受け、「ユダヤ人から買うな」のスローガンを掲げて反ユダヤキャンペーンを展開。この反ユダヤ宣伝は、不況下の生活苦にあえぐポーランド人の一定の支持を集めたことから、次第にピウスツキ派もこれに同調するようになっていきます。

 また、1935年6月にはグロドノ(現ベラルーシ領フロドナ)で、1936年3月にはピシティクで、同年6月にはミンスク・マゾヴィエツキ(現リトアニア領テルシェイ)で、1937年5月にはブジェシチ(現ベラルーシ領ブレスト)で、ポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動が)も発生しています。

 こうした事態に対して、ポーランド政府は国内のユダヤ人口を減少させることが問題の解決になると考えるようになり、ユダヤ人の国外移住を奨励。この結果、ポーランド国籍のユダヤ人がドイツに多数居住するようになりました。そして、そうしたユダヤ系ポーランド国民のドイツからの帰還を望まなかったポーランド政府は、1938年10月6日、発行済みの全てのポーランド旅券につき検査済みの認印を必要とする新旅券法を布告し、ドイツをはじめ国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとします。

 こうしたポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否は、結果的に、ホロコーストの本格的な幕開けとされる“水晶の夜”の悲劇の引き金となりました。その意味では、ポーランドにも“水晶の夜”の悲劇とその後のホロコーストに対して、全く責任がないとは言い切れないでしょう。

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 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 3月8日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。


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 ホロコースト犠牲者を想起する国際デー
2016-01-27 Wed 12:01
 きょう(27日)は、1945年1月27日にソ連軍によってアウシュヴィッツ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー ”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・アウシュヴィッツ葉書(1947年)

 これは、1947年6月にポーランドで発行された“オシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド名)博物館開館”の記念葉書で、印面には、収容所のガス室で殺害された収容者のイメージが、左下には“ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)”のプレートが掲げられた第1収容所の門扉が取り上げられています。

 共産党政権時代のポーランドの公式の歴史観によれば、戦後のポーランド国家は、ソ連によるナチス・ドイツからの解放を経て樹立されたものであり、それゆえ、ソ連と戦ったナチス・ドイツが“絶対悪”であるということが大前提となっていました。その反面、ナチス・ドイツの絶対悪の象徴とされるユダヤ人迫害については、単純にこれを批難すればよいというわけにも行かない事情が彼らにはありました。

 そもそも、1939年9月にドイツに占領される以前のポーランドには、推定340万人のユダヤ人が居住していました。これに対して、ポーランド全土が解放された後の1945年5月16日の時点で、ポーランド国内で生存が確認されていたユダヤ人は7万4000人でした。その後、領土の変更に伴う移住や終戦に伴う兵士・捕虜の復員などで、ソ連から帰国する者などがあり、1946年6月末の時点で、ポーランド国内のユダヤ人口は25万5000人となりましたから、単純に考えると、帰国者は18万1000人という計算になります。ただし、戦前の340万人に比べると、25万5000人という数字はわずか7・5パーセントにすぎません。

 ところで、ユダヤ人の帰国が進行していくなかで、1945年6月、ジェシュフでユダヤ人の殺傷を含む反ユダヤ暴動(ポグロム)が発生。以後、ポーランド各地ではポグロムが頻発します。特に、1946年7月4日、ポーランド中心部のキェルツェで発生したポグロムでは、白昼、女性・子供を含む42人のユダヤ人が虐殺され、自分たちの生命・財産に対する物理的な恐怖を感じたユダヤ人はこぞって国外に脱出するようになります。

 戦後のポーランドでユダヤ人に対するポグロムが発生したベースには、戦前からポーランド社会に蔓延していた反ユダヤ主義的な風潮(たとえば、いわゆる“水晶の夜”事件は、一義的にはナチス・ドイツによる犯罪的な行為ですが、ポーランドによるユダヤ人の国籍剥奪と帰国拒否がきっかけになった面があったことは見逃せません)が、大戦を通じても、決して払拭されることがなかったということが挙げられます。

 じっさい、ポグロムの鎮圧を求める市民の声に対して「お前はユダヤ人を救いたいのか」と応じた警察幹部もいましたし、キェルツェでのポグロムの1週間後、ユダヤ人を殺害した犯人の一部に死刑判決が下されたというニュースを聞いたウッチ(ドイツ占領下でのリッツマンシュタット)の労働者は、ユダヤ人を殺しても罪に問われないと信じ込んでいたこともあり、実行犯の死刑判決に対する抗議のストライキを行っているほどです。

 さらに、こうした反ユダヤ感情に加えて、ドイツの占領下で強制収容所に追い立てられたユダヤ人の住居には、その後、近隣のポーランド人が住みついているケースも少なくありませんでしたから、そうした人々にとって、ユダヤ人の帰還は決して望ましいモノではありませんでした。

 いずれにせよ、ナチス・ドイツを打倒することで成立した(という建前の)親ソ政権にとっては、規模の大小こそあれ、本質的には彼らと変わらぬユダヤ人迫害・虐殺が国内で横行しているという事態は、ナチスが“絶対悪”であるという政権の正統性の根拠を根本から揺るがしかねないもので、ゆゆしき問題でした。

 こうした状況の中で、1946年5月25日、アウシュヴィッツ収容所の所長を務めていたヘスがワルシャワに移送され、ポーランド政府に身柄を引き渡されます。さらに、同年7月、キェルツェとクラクフで相次いでポグロムが発生すると、同月30日、ヘスはクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長だったアーモン・ゲートらとともにクラクフへ移送されました。

 その後、クラクフでヘスの裁判が進行していく中で、ポーランド政府は、(事実上の)共産主義政権としては例外的に、ユダヤ人の国外への移住に“寛容”な態度をとり、ユダヤ人の出国を促すようになります。国民の反ユダヤ感情の原因となっているユダヤ人の存在を、物理的に除去してしまおうというわけです。

 この結果、1947年2月までに、ソ連からの帰国者の大多数に相当する16万人のユダヤ人が国外に脱出し、ポーランドのユダヤ人口は9万2000人にまで激減しました。

 そのうえで、同年4月2日、ポーランド最高人民裁判所がヘスに死刑判決を下します。そして、同月16日、ヘスは自分が大量のユダヤ人を虐殺したオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)の地で絞首刑を執行されました。

 こうした前段階を経て、1947年6月14日、1940年にタルヌフからアウシュヴィッツに最初のポーランド系収容者が移送されてきた因縁の日を選んで、ナチスの蛮行を忘れないようにとの趣旨の下、旧収容所跡を国立博物館として保存することが正式に決定されます。今回ご紹介の葉書は、これに合わせて発行されたものです。

 このように、“民族的に統一されたポーランド”の政府は、反ユダヤ感情が国民の底流に流れ続けている中で、(ユダヤ人に対するホロコーストの象徴としての)アウシュヴィッツを糾弾するという矛盾に満ちた状況に、彼らなりの折り合いをつけようとしたわけですが、そのあたりの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 2月9日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。


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 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

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