内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー
2017-03-25 Sat 22:46
 きょう(25日)は、2007年の国連総会で制定された“奴隷及び大西洋間奴隷貿易犠牲者追悼国際デー”です。というわけで、大西洋を渡ってアフリカから米州に連れて行かれた奴隷に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・黒い母(1971)

 これは、1971年にブラジルで発行された“新生児解放令100周年”の記念切手で、ルチリオ・デ・アルブケルケの「黒い母」が取り上げられています。

 ブラジルでは1822年の独立後も奴隷制が維持されていましたが、ドン・ペドロ2世はこれを徐々に廃止の方向へと導き、1888年の黄金法をもって奴隷制は完全に廃止されました。その過程で、1871年に新生児解放令が発せられ、同法の施行以降に生まれた子供は、親が奴隷であっても、自由人の身分が保障されることになりました。今回ご紹介の切手は、そこから起算して100周年になるのを記念して発行されたものです。

 切手に取り上げられた「黒い母(Mãe Preta)」は、白人の下で働く黒人乳母のことで、腹を空かせた自分の子供を放置したまま、主人の子に授乳する乳母の姿が画題となっています。ちなみに、そうした“黒い母”は奴隷解放後も、白人の中上流家庭で数多く働いており、彼女たちの悲哀はブラジルの文化シーンでは定番のモチーフのひとつとなっています。有名なところでは、ポルトガルを代表するファドの女王、アマリア・ロドリゲスの出世作となった『暗い艀』の元ネタとなったブラジルの楽曲『黒い母』等が挙げられましょうか。

 なお、切手に取り上げられた「黒い母」の作者、ルチリオ・デ・アルブケルケは1877年のバラス生まれですから、黄金法で奴隷制が完全に廃止されたときでも11歳。リオデジャネイロの国立美術アカデミーでエンリケ・ベルナルデリの指導を受けて、画家としてのキャリアをスタートさせたのは20世紀初頭のことでしたから(ちなみに、没年は1939年)、彼自身は奴隷制の時代とはほとんど無関係です。その意味では、この作品も、奴隷制の廃止後もブラジル社会に広く見られた“黒い母”を取り上げたものとみるのが自然でしょう。

 ちなみに、リオデジャネイロの国立歴史博物館の展示の中には、新生児解放令の理念を表現したものとして、下の画像のようなブロンズ像が展示されていましたが、こちらもなかなかいい出来なので、記念切手の題材としては、こちらを選んだ方がよかったのではないかと、僕は個人的に思っています。

       ブラジル・新生児解放令ブロンズ像 

 なお、リオデジャネイロの国立歴史博物館とその所蔵品については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろ取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。      


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 リオのカーニヴァル
2017-02-24 Fri 11:53
 ことし(2017年)のリオデジャネイロ(以下、リオ)のカーニヴァルのメインパレードが、きょう(24日・現地時間)から27日まで行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・国際観光年(カーニヴァル)

 これは、1967年11月22日、ブラジルで発行された“国際観光年”の切手で、“リオのカーニヴァル”が取り上げられています。(リオに限らず)カーニヴァルがブラジル切手の題材となったのは、これが最初でした。

 西方キリスト教会では、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる祭りが行われます。これが“謝肉祭”で、いわゆるカーニヴァルというカタカナの言葉は“carne vale(肉よさらば)”という表現に由来するものです。

 この断食の前の祝祭に、キリスト教伝来以前からのゲルマン人の春の到来を祝う祭りが融合し、街中を練り歩いたり、どんちゃん騒ぎをしたりする習慣になったと考えられています。

 この種の行事は、ポルトガル人入植者によってリオにももたらされましたが、リオのカーニヴァルの起源をどこに求めるかについては諸説があります。

 たとえば、1565年のリオデジャネイロ市の建設を記念して、1567年に人々が街を練り歩いたという記録が残されており、カーニヴァルの中心をパレードに求めるのなら、これが最古の例ともいえます。また、17世紀以降、遅くとも1723年までに、アゾレス諸島、マデイラ諸島、カーボ・ヴェルデからのポルトガル人移民が春祭りの“エントルード”を持ち込んだことをもって、リオのカーニヴァルの起源とされることも多いようです。

 エントルードというのはポルトガルの春祭りのことで、人々は仮面をつけ、通りで水や泥、柑橘類を投げ合うもので、じっさい、19世紀前半までのブラジルの街頭でのカーニヴァルは、“灰色の水曜日(カーニヴェル後の水曜日、すなわち、この日から四旬節が始まる日)”までの3日間、かつらや仮面をつけて、液体を掛け合ったり、小麦粉やタピオカ粉を投げつけあったりするのが、庶民の間では一般的なスタイルでした。

 一方、春祭りの時期のパレードとしては、1786年、前年(1785年)のポルトガル王ドン・ジョアン6世の結婚を祝って山車が作られたほか、1808年にポルトガル王家がナポレオン戦争の戦禍を逃れてブラジルに遷移してきた際に、ブラジル在住のポルトガル人たちが仮面をかぶり、派手な衣装をつけ音楽を鳴らして町中を練り歩き歓迎したことが、記録に残されています。

 こうした経緯を経て、1840年代になると、地元新聞社が主導して、かつてのローマやヴェネツィアに倣って、街の中で仮装をつけ、コンフェッテ(紙吹雪)をかけあう“カーニバル・パレード”の復活キャンペーンが始まりましたが、この時点では、カーニヴァルの音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流です。ちなみに、音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」(ギタリストのドゥンガとジャーナリストのマウロ・ヂ・アルメイダの作品)が最初の1曲とされています。「電話で」は、翌1917年の大ヒット曲となり、当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなりますが、これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの音楽はマルシャが中心で、パレードには公式には中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれていくことになります。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 さらに、1930年からは、カーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グローボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなったことで、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがり、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 こうして、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”が突出した存在になっていくと、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。

 さらに、1937年に権威主義的なエスタード・ノーヴォ体制がスタートすると、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになります。その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されました。

 1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を却下されたのも、上記のようなヴァルガス政権のナショナリズムとサンバ・カーニヴァルの関係を端的に象徴していると言ってよいでしょう。

 もっとも、こうしてブラジルの象徴(の一つ)になっていった“リオのカーニヴァル”ですが、1945年までのエスタード・ノーヴォ体制下では、それでも卑俗にすぎるとして切手に取り上げられることはありませんでした。

 1964年、軍事クーデターによって、カステロ・ブランコ将軍を大統領とする軍事政権が誕生すると、軍事政権は、政治の腐敗を正し、国家転覆の危機を排除するとの名目で憲法を停止。政府に批判的な政治家を1万人以上、逮捕・追放する一方、親米反共の砦として米国の支援を受けることで権威主義的な開発独裁体制を維持しようとしました。

 1966年10月に布告された軍政令第2号では、大統領の間接選挙(投票は連邦議会議員と地方代表で構成される選挙人団は行う)既成政党の廃止が決定された。これを受けて、それまでの政党に代わって、旧政党は与党の国家革新同盟と野党のブラジル民主運動に再編され、大統領選挙では国家革新同盟の推すアウトゥール・ダ・コスタ・エ・シウヴァ将軍が当選。そして、コスタ・エ・シルヴァ大統領の就任直前の1967年1月、軍事政権はそれまでに布告された軍政令を取り込んだ新憲法を公布します。

 同憲法により、議会は形骸化し、大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められたほか、国名もそれまでのブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められました。

 これに対して、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが頻発しただけでなく、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動などが軍事政権の打倒を唱えて武装闘争を展開。こうした状況の中で、あらためて、“ブラジル国民”としての団結を強調する必要に迫られた軍事政権側は、かつてのエスタード・ノーヴォ体制がナショナリズム涵養の手段としてサッカーとサンバを奨励した先例に倣い、“リオのカーニヴァル”に注目し、国際観光年の切手の題材にも取り上げたというわけです。

 さらに、切手が発行された11月22日というタイミングが、12月2日の“サンバの日”の直前であることも見逃せません。“サンバの日”には、毎年、翌年2月前後に行われるサンバ・カーニヴァルの曲集が発売され、いよいよ、リオのみならず、ブラジル全体でサンバ気分が盛り上がってくる時期です。したがって、この時期にカーニヴァルの切手を発行することは、日常的に使われる切手を通じて、そうした雰囲気をいっそう盛り上げ、国民の関心をカーニヴァルに集中させようという政府の意図もうかがえます。

 なお、リオのカーニヴァルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けて取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 二の酉
2016-11-23 Wed 11:25
 きょう(23日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の増刷を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・第3回国際フォークソング・フェスティヴァル

 これは、1968年にブラジルが発行した“第3回国際フォークソング・フェスティヴァル”の記念切手で、リオデジャネイロ・アトランティカ通りのカルサーダス(ポルトガル風の石畳の装飾)とポン・ヂ・アスーカルに、鶏の顔をつけたト音記号の楽譜を組み合わせたデザインとなっています。

 リオデジャネイロのコパカバーナ海岸に面したアトランティカ通りは、南端のコパカバーナ要塞から海岸を弧に沿って北東に約3キロ先のプリンセサ・イザベル通りまでの大通りです。

 アトランティカ通りのカルサーダスはホベウト・ブーレ・マウクス(英語風にロバート・ブール・マルクスとも)のデザインによるもので、1970年に完成しました。

 カルサーダスをデザインしたブーレ・マウクスは、1908年、サンパウロ生まれ。父親のヴィルヘルム・マルクスはドイツ・シュトゥットガルト出身のユダヤ系ドイツ人、母親のセシリア・ブーレはブラジル北東部ペルナンブーコ州出身の富裕なフランス系カトリック家庭の出身です。

 ブーレ・マウクスは、当初、画家を目指して父親の祖国であるドイツ・ベルリンに渡り、絵画を学ぶ一方、ベルリンのダーレム植物園に足繁く通って植物についての造形も深めました。1930年、ドイツから帰国した彼は、リオの国立美術学校に入学し、1932年には学内審査会で金賞を受賞。同年、故郷のサンパウロに戻り、自宅周辺の植物を収集し、熱帯原産の植物に合うよう土壌を改良して、欧州スタイルの緑豊かな庭園に仕上げて、最初の作品“マウクス自邸”を発表します。

 この作品が高く評価されたことで、造園家、環境デザイナーとしての地位を確立。ブラジル文部省庁舎屋上庭園(1937年)、ブラジル再保険協会庁舎屋上庭園(1939年)など、公的機関の庭園を手がけるようになりました。1954年にはブラジル大学建築学科風致計画学担当教授に就任するとともに、翌1955年、環境デザインのスタジオを設立し、1960年の新首都ブラジリア建設に際しては、オスカー・ニーマイヤーが設計した公共施設の景観設計ならびに庭園設計に協力したほか、1965年にはリオのフラメンゴ公園の造成も手掛けています。

 1970年のアトランティカ通りのプロムナード景観設計は、そんな彼の代表作のひとつで、曲線のパターンを取り込んだスタイルは、ブラジル先住民の伝統的な文様が取り込まれています。

 なお、コパカバーナ海岸とその一帯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 アパレシーダの聖母の祝日
2016-10-12 Wed 09:54
 きょう(12日)は、ブラジルでは“アパレシーダの聖母”の祝日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・アパレシーダの聖母(1979)

 これは、1979年にブラジルで発行されたアパレシーダの聖母戴冠75周年の記念切手で、アパレシーダの聖母像が取り上げられています。

 1717年10月、サンパウロ総督のドン・ペドロ・デ・アルメイダがミナス・ジェライスに向かう途中、パライバ川の渓谷を通ることになり、地元の漁師に魚の供出を求めました。このため、ドミンゴ・マルティス、ホァン・アルヴェス、フェリペ・ペドロソの3人の漁師がパライバ川のホセ・コレイア・レイテ港付近で漁を始めたものの、全く収獲がなかったため、川沿いに6キロほど進み、イタグアス港まで進んでいったところ、10月12日、ホアン・アルヴェスの網に頭のない聖母像がかかりました。さらに、彼がもう一度網を投げると、同じ像の頭が網にかかります。このため、アルヴェスは像を布にくるんで小舟の中に置き、漁を続けると、突如として大量の魚が獲れはじめました。

 漁の後、3人のうちの最年長だったフィリペ・ペドロソがその像を自分の家に持ち帰り、綺麗に洗って泥を落とし、頭をつないで像を修理し、像に対して祈りを捧げました。さらに、1734年、フィリペの息子、アタナシオは小さな礼拝堂を建て、木製の祭壇の上にその奇跡の像を置き、毎週土曜日、近隣の人々が像の前でロザリオを唱えるようになります。以後、聖母像にまつわる数々の奇跡が伝えられ、多くの巡礼者が訪れるようになりました。

 そこで、1745年、グアラティングエタ教区のモッロ・ドス・コンケイロスにさらに大きい聖堂を建立され、聖堂の落成式に際して、川底から“現れた(=アパレシーダ)”聖母像への祈願が行われました。その後も、巡礼者の数の増加に伴い、聖堂の増改築が進められ、1904年、聖母像は戴冠されました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して75周年になるのを記念して発行されたものです。さらに、1908年、聖堂は大聖堂に昇格し、1930年6月16日には、教皇ピウス11世がアパレシーダの聖母はブラジルの守護者であると宣言。1717年に像が発見された日の10月12日は、アパレシーダの聖母に捧げる国民の祝日となりました。

 ちなみに、世界最大のカトリック国家であるブラジルでは、さまざまな聖母像が祀られていますが、その一端は、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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 ファイターズが4年ぶり優勝
2016-09-29 Thu 11:15
 プロ野球のパシフィック・リーグは、北海道日本ハムファイターズが4年ぶりに優勝しました。というわけで、“戦士”にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アラリボイア  アラリボイア・銅像

 これは、1973年にブラジルで発行された大酋長アラリボイアの切手です。切手の右には、ニテロイ港にあるアラリボイアの銅像の写真を貼っておきました。銅像は半裸の姿ですが、切手では、そこに大酋長としての盛装の飾りをつけた姿になっています。

 16世紀前半、ブラジル沿岸部は、ポルトガル、フランス、オランダの各国が領土の争奪戦を展開していましたが、その過程で、1555年、フランスは先住民のタモイオ族と結んで、グアナバラ湾沖合の小島を占領します。

 一方、グアナバラ湾を挟んで現在のリオデジャネイロ市の対岸の地域は、ポルトガル人の来航以前から先住民の集落があった場所で、先住民のトゥピ語で“隠れた水(川、海、湾など)”を意味する“ニテロイ”と呼ばれていました。当時、ニテロイとその周辺はテミミノ族が支配しており、その大酋長は、トゥピ語で“獰猛なヘビ”を意味する“アラリボイア”の名で呼ばれていました。

 アラリボイアは、1564年以降、ポルトガルの軍人、エスタシオ・デ・サアと協力してフランス軍に抵抗。小山の上からフランスの動きを見張り、その動きを逐一ポルトガル軍に報告したほか、自らも戦闘に参加し、1567年、フランスを放逐します。ちなみに、この間の1565年3月、エスタシオ・デ・サアはグアナバラ湾に面した一角に橋頭保を築きましたが、これが、都市としてのリオデジャネイロのルーツになりました。

 フランスに対する勝利の後、ポルトガルはアラリボイアの功績を認め、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザというポルトガル名とポルトガルの市民権、さらに毎年1万2000ヘアイスの年金を与えるとともに、彼をニテロイ一帯の執政官に任じ、1587年に彼が亡くなるまで、大酋長時代からの権利を保証しています。

 なお、1565年にリオデジャネイロ市が発足した頃の話については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。

 ・毎日文化センター
 それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 サントス=ドゥモンとアポロ11号
2016-09-15 Thu 12:14
 きょう(15日)は中秋節です。というわけで、最新の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』にちなんで、“月”に関するブラジル切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・月面着陸

 これは、1969年10月17日、同年7月のアポロ11号の月面着陸を称えるために発行された切手です。左側には、ブラジル人が飛行機の父として敬愛するサントス=ドゥモンと彼のエッフェル塔旋回飛行を、右側には月面に着陸するアポロ11号を描き、サントス=ドゥモンと3人の宇宙飛行士の名前を印面下部に記すことで、飛行史に残る2大偉業を並立させるスタイルとなっています。

 第二次大戦後のブラジルは、ながらく左派ポピュリストの政権が続いていましたが、1964年、軍事クーデターによって、カステロ・ブランコ将軍を大統領とする軍事政権が誕生します。

 軍事政権は、政治の腐敗を正し、国家転覆の危機を排除するとの名目で憲法を停止。政府に批判的な政治家を1万人以上、逮捕・追放する一方、親米反共の砦として米国の支援を受けることで権威主義的な開発独裁体制を目指します。

 1966年10月に布告された軍政令第2号では、大統領は間接選挙(投票は連邦議会議員と地方代表で構成される選挙人団が行う)で選ぶものとされたほか、既成政党が廃止されたことで、政党は与党の国家革新同盟と野党のブラジル民主運動に再編されあした。そして、大統領選挙では国家革新同盟の推すアウトゥール・ダ・コスタ・エ・シウヴァ将軍が当選。そして、コスタ・エ・シウヴァ大統領の就任直前の1967年1月、軍事政権はそれまでに布告された軍政令を取り込んだ新憲法を公布しました。

 1967年憲法により、議会は形骸化し、大統領に戒厳令の施行や地方諸州への介入権が認められたほか、国名もそれまでのブラジル合衆国から現在のブラジル連邦共和国と改められます。ただし、こうした強権的な政治の下で、当時のブラジルは年10%を超える高い経済成長を記録し、ブラジル経済は“ブラジルの奇跡”と呼ばれる空前の好景気を謳歌していたことも事実です。

 ところで、軍事政権に対しては、学生のデモや労働者の抗議集会、ストライキが頻発しただけでなく、リオデジャネイロやサンパウロでは、キューバ革命の影響を受けたカルロス・マリゲーラ率いる民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動(MR8)などがコスタ・エ・シウヴァ政権の打倒を唱えて武装闘争を展開しました。

 こうした中で、1969年8月28日、コスタ・エ・シウヴァが執務中に脳出血で倒れると、同31日、ペドロ・アレイショ副大統領の昇格ではなく、大統領は空席のまま、陸・海・空相からなる三頭政治に移行するという変則的な事態が発生します。そうした政治的な混乱と空白の隙を突くかたちで、9月4日、ALNとMR8の合同突撃隊が、リオで白昼、チャールズ・バーク・エルブリック米大使を誘拐する事件が発生しました。

 犯行グループはマスコミを通じて9月7日の独立記念日まで政治犯15名を釈放することを要求。当初、軍事政権はこれを拒絶しようとしましたが、大使の安全を最優先する米国の圧力を受け、最終的に犯行グループの要求を受け入れて政治犯を釈放し、大使も解放されました。

 面子をつぶされた軍事政権は、9月5日、軍政令13号、14号を公布し、釈放された15人に対して国家反逆罪を適用し、永久国外追放とすること、死刑制度を復活し、国家反逆罪に対しては極刑をもって臨むことを明らかにします。また、陸軍秘密警察のほかに、国防省内にテロ対策を専門とする社会政治保安局が創設され、ゲリラ組織への弾圧は強化され、9月29日には、大使誘拐事件の主犯だったALNのメンバーが逮捕され、拷問の末に殺害されました。

  9月30日には、“軍最高指導部”が空白となっていた大統領に陸軍内強硬派のエミリオ・メディシを指名。10月7日、メディシは軍事評議会により次期大統領に選出され、10月30日、正式に大統領に就任します。この間、10月17日には軍事評議会の承認を得て1969年憲法が公布され、正式に死刑制度が復活し、大統領の任期は4年から5年に延長されました。

 今回ご紹介の切手の発行日となった10月17日は、9月の大使誘拐事件の以前から決められていたことではありますが、上述のような政治的・社会的な背景の下、自国の英雄を顕彰してナショナリズムを強調するとともに、米国の偉業をたたえ、米国との友好関係を強調する(大使誘拐事件の後であれば、なおさら、その必要があったでしょう)ために企画・発行されたものと考えるのが妥当ではないかと思われます。

 
★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


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 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
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 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 ブラジル独立記念日
2016-09-07 Wed 10:39
 きょう(7日)は、ブラジルの独立記念日です。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・イピランガの叫び

 これは、1972年8月26日から9月2日まで、ブラジル独立150周年の記念事業として開催された国際切手展<EXFILBRA>の記念小型シートで、ブラジルの独立宣言とされる“イピランガの叫び”を題材としたペドロ・アメリコの歴史絵画「独立か死か」が取り上げられています。

 1500年のカブラルによるブラジル発見以来、ポルトガルはブラジルの地で勢力を拡大し、1646年にはポルトガルの王太子をブラジル公とするブラジル公国が成立します。

 ナポレオン戦争最中の1808年、ポルトガルのブラガンザ王室はブラジルに逃れ、1821年まで王室はリオデジャネイロに留まりました。この間、1815年にはブラジルは、それまでの植民地公国からポルトガル本国と対等の王国(=ポルトガル王がブラジル王を兼ねる)に昇格し、“ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国”が誕生します。

 1821年にポルトガル王ジョアン6世はリスボンに帰還しますが、その際、本人はブラジル王位を兼任したまま王太子のペドロ・デ・アルカンタラ・フランシスコ・アントニオ・ジョアン・カルロス・ザビエル・デ・パウラ・ミゲル・ラファエル・ジョアキム・ジョゼ・ゴンサガ・パスコアール・シプリアーノ・セラフィム(以下、ドン・ペドロ)を摂政としてブラジルに残しました。

 ところが、1821年に開催されたポルトガル議会では、対等な立場であるはずのポルトガル代表の議員が130人だったのに対し、ブラジル代表の議員は72人に過ぎず、さらにポルトガル政府はブラジルを再び植民地にすべく、ブラジルの各県をリスボン政府の直接管轄下に置くことを決定するとともに、ドン・ペドロの帰国を要求。これに対して、1822年1月、ドン・ペドロが帰国を拒否しまし、独立に向けての動きが本格化しました。

 6月3日には、ブラジル各県の代表から構成されるブラジル憲法制定議会が招集され、8月6日、ドン・ペドロはポルトガルの専制主義を批判する書簡を友好国に送りました。これに対して、ポルトガルはドン・ペドロの行動は国家反逆罪に値すると非難。その旨の書簡をドン・ペドロ宛に送ります。

 そして、9月7日、サンパウロ訪問中にこの書簡を受け取ったドン・ペドロは、サントスのイピランガ川のほとりで書簡を破り捨て、剣を高く掲げて「独立か死か」と叫んだとされています。これが、“イピランガの叫び”で、ブラジルの公式な独立宣言とされています。その後、10月12日、ドン・ペドロはリオデジャネイロでブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ブラジル帝国が成立しました。

 なお、1822年から始まる帝政時代のブラジルについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 マラカナンの歓喜
2016-08-21 Sun 15:33
 リオデジャネイロ五輪16日目(現地時間20日)は、日本選手のメダル獲得はありませんでしたが、マラカナン競技場でサッカー男子の決勝が行われ、PK戦の末、ブラジルがドイツを下し、悲願の金メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・ペレ1000ゴール  マラカナン・ロッカールーム

 これは、1969年11月28日にブラジルが発行した“ペレ1000ゴール”の記念切手で、マラカナン競技場でゴールを決めるペレの後ろ姿が描かれています。ちなみに、実際にペレが前人未到の通算1000得点を達成したのは、1969年11月19日のマラカナン競技場での対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦でした。

 なお、今回、決勝のPKを決めたネイマールも、切手に描かれたペレ同様、背番号10ですが(ついでですので、切手の隣に、マラカナン競技場のロッカールームでネイマールのユニフォームと一緒に撮った写真を並べておきます)、優勝ゴールを決めた瞬間は、切手のペレのように飛び上がって喜ぶのではなく、ひざまずいて涙を流し、その後はピッチに顔を伏せたまま動かなかったのが印象的でした。いずれ、その場面がブラジルの切手に取り上げられる日がくるかもしれません。

 さて、マラカナン競技場は、1950年に行われたサッカーW杯のために建設されたスタジアムで、開設当初の正式名称は“リオデジャネイロ市営スタジアム”でした。1966年、ブラジルのサッカー振興に貢献したジャーナリスト、マリオ・フィーリョの功績をたたえて正式名称は“エスタジオ・マリオ・フィーリョ”と改称されましたが、一般には、マラカナン地区にあることから“エスタジオ・ド・マラカナン(マラカナン競技場)”と呼ばれています。

 地名の“マラカナン”とは、もともとは、先住民トゥピー族の言葉で“鈴のような”を意味する単語で、そこから、鈴のような声で鳴く小鳥の名前となり、その鳥が数多く棲息するリオ郊外の沼地も“マラカナン”と呼ばれるようになったといわれています。

 1855年、競馬の運営会社だった“デルビー・クルービ(英語風の発音ではダービー・クラブ)”は、マラカナンの沼地を買い取って競馬場を建設しましたが、この競馬場はほどなくして経営難から閉鎖されてしまいます。

 その跡地に巨大サッカー・スタジアムを建設しようというプランが持ち上がったのは、ブラジルにサッカーが伝来してから半世紀以上が過ぎた1940年代後半のことでした。

 現在でこそ、ブラジルは質量ともに世界一のサッカー大国ですが、20世紀前半までは、必ずしもそうではありませんでした。

 すなわち、1916年にアルゼンチンの独立100周年を記念して開催された第1回南米選手権では、ブラジルは参加4ヵ国(アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ)中の3位。翌1917年の第2回南米選手権でも同じく3位という成績です。その後も、南米選手権に関しては、1919年の第3回大会と1922年の第6回大会では優勝したものの、この間の1920年の第4回大会では、ウルグアイに0-6(現在にいたるまで、南米選手権での最多得失点差での敗戦)を記録しています。

 さらに、1930年7月13-30日、独立100周年を迎えたウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、グループ2初戦のユーゴスラヴィア戦に1-2で敗れ、続くボリヴィア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退しています。

 しかし、1930年の第1回W杯で開催国のウルグアイが優勝したことは、1932年の“護憲革命”以降、州を越えた“ブラジル国民”としてのアイデンティティを養い、国民の団結を訴える必要に迫られていたヴァルガス政権を大いに刺激しました。

 すなわち、ヴァルガス以前のブラジルでは、広大な連邦国土を構成する各州の自立傾向が強かっただけでなく、先住民のインディオ、欧州系の白人、黒人(アフリカ系、カリブ系)、日本人・中国人などアジア系、さらにはそれらの混血など、多種多様な民族が集っており、ブラジル国民としての共通項は、ポルトガル語とカトリックくらいしかありませんでした。

 このため、政権はナショナリズムを高揚させる手段としてスポーツを重視しましたが、特に、サッカーが重視されたのは

 ①南米の国でも世界一になれるW杯という具体的な目標がある
 ②サンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにとって有効であり、それゆえ、サッカーに勝つという目標の下に人種間の宥和を促進できる
 ③かつてのポルトガル植民地時代以来、多くの国民の間には“マランドラージェン(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)”の気風が染みついていたが、サッカーを通して、彼らが規律や努力を学ぶ教育効果が期待できる

 などの理由をあげることができます。

 かくして、ヴァルガス政権がサッカー振興に熱心に取り組んだ結果、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でもできるスポーツとして、サッカーはブラジル国民の間でサッカーが急速に普及し、直線的で素早いパス回しをする欧州勢に対して、“ジンガ”(もともとは“ふらふら歩く、揺れる”という意味のポルトガル語ですが、サッカーでは“しなやかでリズミカルな動き・ステップ”を意味しています)を含む黒人のリズムや身体能力を取り入れた“ブラジル式”サッカーのスタイルが徐々に確立されていくことになりました。

 その結果、1934年のW杯イタリア大会で1回戦敗退だったブラジル代表は、1938年のフランス大会では堂々の3位となります。

 その次の大会は、本来であれば、1942年に開催の予定でしたが、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで欧州での開催は不可能となります。さらに終戦直後の1946年の大会も戦争の傷跡が癒えずに見送られてしまいました。

 この間、ヴァルガスは1945年10月の軍事クーデターで大統領の座を追われましたが、彼がレールを引いたサッカーとナショナリズムを結びつける路線はその後も継承され、ブラジル政府は、1950年の大会開催国として立候補し、無競争で1950年6月24日から7月16日にかけてのW杯開催権を獲得しました。

 W杯の開催が決まると、大型スタジアムの建設が必要となります。

 当初の案では、名門クラブ“ヴァスコ・ダ・ガマ”の本拠地だったサン・ジャヌアリオ・スタジアム(1927年建設。収容人員4万)の増築も検討されましたが、1947年11月、作曲家でリオデジャネイロ市議のアリ・バホーゾらがダウンタウンにも近いマラカナン地区の競馬場跡地(デルビー)を市が買い取って新スタジアムを建設する法案を市議会に提出。これが可決され、マラカナン競技場が建設されました。

 完成当初のスタジアムは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なデザインで、1階席3万、2階席2万5000、3階席10万という巨大なものだったこともあり、“デルビーの巨人”と称されました。また、3階席スタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だったが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度を確保するため、工事も大幅に遅れ、6月24日の開幕に何とか間に合っています。

 開催国として悲願の初優勝を目指していたブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破。決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しましたが、ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破ってウルグアイとの試合に望みます。

 一方、ウルグアイは、スウェーデンに勝ち、スペインには引き分けて1勝1分の成績でブラジルとの対戦を迎えました。

 運命の1950年7月16日、19万9854人の観客が見守る中、マラカナン競技場で行われたブラジル対ウルグアイの試合では、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。この時点で、多くのブラジル国民はブラジルの優勝を確信していましたが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。

 これが、いわゆる“マラカナンの悲劇”です。

 あと一歩で悲願の初優勝を逃したブラジル国民の落胆は大きく、2人がその場で自殺したほか、2人がショック死、20人以上が失神したといわれています。また、当時9歳だったペレは、落ち込む父親に「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましていましたが、はたして、8年後、1958年のスウェーデン大会では、ペレは17歳で代表メンバーに抜擢され、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しています。

 その後、ブラジルはサッカー王国として世界に君臨し、W杯5回、南米選手権8回もの優勝を果たしていますが、なぜか、五輪の金メダルだけはこれまで獲得できませんでした。

 また、1950年の“マラカナンの悲劇”の雪辱を期して臨んだ2014年のW杯では、ブラジルははただ準決勝でドイツに1―7で惨敗しており、開催国としてマラカナン競技場で、宿敵ドイツを破ってサッカーの金メダルを獲得することは、今大会での絶対的な使命とされていました。それだけに、今回の優勝は、今後、“マラカナンの歓喜”としてブラジルの歴史に名を残すことになるのではないかと思われます。

 なお、マラカナン競技場とブラジルのサッカーの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 柔道の海老沼と中村が銅
2016-08-08 Mon 16:15
 現在開催中のリオデジャネイロ五輪3日目(現地時間7日)は、柔道男子66kg 級海老沼匡と女子52kg 級の中村美里がともに銅メダルを獲得しました。 というわけで、きょうは柔道の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・柔道(1976)

 これは、1976年のモントリオール五輪に際してブラジルが発行した記念切手の1枚で、柔道が描かれています。リオ五輪開催国のブラジルでも柔道の切手は何度か発行されていますが、今回ご紹介の切手はその最初の1枚です。

 ブラジルにおける日系社会の歴史は1908年6月の笠戸丸移民から始まりますが、すでにこの時の移民の中にも小中学校で柔道を学んだ人が少なからずおり、移民とともに自然発生的に柔道がブラジルに持ち込まれることになりました。また、1908年12月には、香港からブラジル海軍のベンジャミン・コンスタント号に乗船した三浦鑿が船内で柔道を教えたのがきっかけで、リオの海軍兵学校で柔道を教えることになったとの記録も残されています。

 一方、1906年、講道館は柔道の国際的な普及のため柔道使節団を米国に派遣していましたが、その一員であった前田光世五段は、使節団の帰国後も米国にとどまり、米国人に本物の柔道を見せることで柔道の実践における有効性を宣伝すべく、新聞に広告を出し、積極的に公開試合を行っていました。しかし、普及活動の成果があがらなかったことから、前田は米国に見切りをつけて、1907年に渡英。さらに欧州大陸に渡って、ベルギーやフランス、スペインなどを行脚した後、キューバ、メキシコ、グァテマラ、パナマ、ペルー、ボリヴィア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイを経て、1914年、サントス港からブラジルに上陸。しばらくリオの海軍兵学校で柔道を教えた後、翌1915年には北上してアマゾン河口の都市ベレンに到着し、以後、この地に定着することになりました。

 ベレンでの前田は、飛び入りで“アマゾン1の勇者”を決めるレスリング大会に参加して優勝。その強さと礼儀正しい振る舞いでベレン市民に感銘を与え、警察や兵学校で柔道を教える傍ら、道場を開設し、1922年、40歳で格闘家として引退するまで、多くの門弟を育てました。

 その後、1924年には大河内辰夫四段がサンパウロに移住し、大河内製薬会社を立ち上げたほか、1928年にはパリ五輪でレスリング選手として銅メダルを獲得した内藤克俊三段が農業技師としてアマゾンに入植。彼らは、サンパウロ近郊の柔道関係者の取りまとめに尽力し、その後の日系人柔道を隆盛に導くことになります。

 また、1930年代に入ると、前田光世の教えを受けたグレイシー家のエリオが、柔道にレスリングなどの技を組み合わせた柔術をさらに改良し、誰にでも使いこなせる技術体系として“グレイシー柔術”を生み出します。グレイシー柔術の祖としてのエリオは、1930年代から、“何でもアリ”を意味する総合格闘技のバーリトゥードに参戦し、日系人柔道家を次々に破るなど、約20年間無敗を誇り、ブラジル格闘界に君臨する存在となりました。1951年、サンパウロの新聞社の招待で来伯した木村政彦と戦ったマラカナン競技場での試合は、柔道史上最強と謳われていた木村が大外刈からのキムラロック(腕がらみ)を極め、エリオの腕の骨を折るという“マラカナンの屈辱”として、格闘技史上の重大事件とされています。

 なお、“マラカナンの屈辱”の詳しい経緯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 投票しませう⑥
2016-07-10 Sun 09:42
 きょう(10日)は参議院議員選挙の投票日です。僕も、この記事を書いたら投票所に行きますが、投票は20時までですから、有権者の皆様は、ぜひお出かけください。というわけで、国政選挙の投票日恒例の“投票しませう”シリーズ、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブラジル・婦人参政権50年

 これは、1983年にブラジルで発行された“女性参政権50年”の記念切手で、投票する女性が描かれています。

 1930年、軍事クーデターで政権を掌握したジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは1891年に公布された共和国憲法を停止し、連邦議会と州議会を解散するとともに、全国の州知事を罷免して臨時政府の任命する執政官を派遣。これに対して、サンパウロ州の反ヴァルガス勢力は、1932年7月9日、いわゆる護憲革命をおこしましたが、革命そのものは、3ヶ月後の10月に鎮圧されました。

 “革命”の鎮圧後、ヴァルガス政権は一定の譲歩を余儀なくされ、1933年5月には制憲議会選挙が実施されることになります。その際、一部の女性に参政権が認められたのが、ブラジルにおける女性参政権の始まりとなりました。

 その後、制憲議会を経て1934年7月に公布された新憲法(1934年憲法)では、非識字者を除く18歳以上の男女に対して、秘密投票の権利が与えられ、一挙に、女性有権者の数が拡大します。ただし、当時のブラジルでは識字率が人口の1/3程度でしたから、有権者の数はまだまだ限られていました。ちなみに、非識字者にも選挙権が与えられたのは、1946年の憲法改正以降のことです。

 さて、現在、8月のリオ五輪開催にあわせて、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行(仮題)』を刊行すべく、制作作業を進めています。奥付上の刊行日は8月8日、本体定価は2700円の予定で、刊行に先立ち、全日展の会場でも、23日15:00からトークベントを行う予定です。なにとぞ、よろしくお願いします。


 ★★★ 全日本切手展(+内藤陽介のトーク)のご案内 ★★★

 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2016チラシ

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 会期中の7月23日15:00から、すみだ産業会館9階会議室にて「リオデジャネイロ歴史紀行」と題するトークイベントを行います。ぜひ、ご参加ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『ペニー・ブラック物語』  好評発売中! ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


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