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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ボリビアの“海の日”
2019-03-23 Sat 02:06
 きょう(23日)は、南米の内陸国、ボリビアの“海の日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・海の日(2016)

 これは、2016年の“海の日”にボリビアが発行した切手で、ボリビアが内陸国になるきっかけになった“(南米の)太平洋戦争”のモニュメントと、「ボリビアに海を」のスローガン、そして、「2015年9月24日 国際司法裁判所(ICJ)はボリビアによる海の領有権について聴聞する権限があることを宣言した」との文言が入っています。

 1826年に独立したボリビアは、1879-84年、太平洋岸の硝石地帯をめぐって、ペルーと同盟を結んでチリと戦いました。いわゆる“(南米の)太平洋戦争”です。この戦争に敗れたボリビアは、講和条約として結ばれたバルパライソ条約により、太平洋岸に面したアントファガスタ州をすべて失い、内陸国となります。

 以後、ボリビアの海運での輸出入貨物は、いったんチリ領となったアントファガスタ港で陸揚げされ、同港でボリビアが管理する保税上屋からチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここでボリビアの税関が通関を行うという手続きが取られるようになりました。

 これに対して、ボリビア国民の中には、現在なお、バルパライソ条約を不当と考え、海を奪ったチリに敵意を持つものが少なくありません。ボリビア政府も毎年3月23日を“海の日”に指定し、今回ご紹介のような切手を発行したり、メディアを動員して「海を取り戻そう」キャンペーンを展開したりしています。こうしたこともあって、サッカーの試合などでも、ボリビア・サポーターの一部が「海を返せ」といった政治的な横断幕を掲げることもしばしばです。

 2006年に発足した反米左派のモラレス政権は、当初、この問題について円満な解決を目指していましたが、2013年、1904年のバルパライソ条約を根拠として、チリに対し「完全な主権を伴う太平洋への出口をボリビアに付与するため交渉に応じる義務がある」と主張して、国際法廷に提訴。これに対して、チリ側は「ボリビアには無制限の港湾使用など十分過ぎる優遇を与えてきた」として、問題そのものが存在しないと反論しました。

 ボリビアの提訴を受けたICJは、2015年9月、確定した国境についてICJは審査権がないとするチリの訴えをいったん退け、双方から主張を聞くことを決定。今回の切手でも、そのことを示す文言が入れられました。

 その後、裁判の過程で、ボリビアは、海への回廊設置や、港湾を主権下に置くことなどを要求していましたが、ICJは両国間の戦後の外交文書などを検討したうえで、2018年、チリには「交渉に応じる義務があるとは結論付けられない」として、ボリビアの訴えを棄却する判決を下しています。

 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラが潜入して山中でゲリラ戦を展開し、1967年に逮捕・処刑された国としてのボリビアについて、その背景となる同国の現代史についてもまとめておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 コカインの原料
2019-03-13 Wed 14:20
 関東信越厚生局麻薬取締部は、きのう(12日)、俳優でミュージシャンのピエール瀧こと瀧正則容疑者(個人的には、昨年、TBSラジオの番組、たまむすびで僕の話をうまく引き出してくれた記憶が鮮明に残っているので、驚きました)を、コカインを使用した容疑で逮捕しました。というわけで、きょうはコカイン関連で、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・コカ畑

 これは、ボリビアが発行したラパス州ユンガス地方のコカ畑を取り上げた絵葉書です。私製のモノではなく郵政当局が発行した官製のモノで、裏面には下の画像のような印面が印刷されています。

      ボリビア・コカ畑(裏面)

 ちなみに、1966-67年、チェ・ゲバラらはボリビア山中でゲリラ活動を展開していましたが、当初、付近の住民達は、見慣れない外国人を見かけても、それが左翼ゲリラであるとは夢にも思わず、コカインの密造工場があるらしいと考えて地元警察に通報。警察がゲバラらの野営地付近を捜索しにきたというエピソードもあります。このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも触れておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 コカインの原料となるコカの葉は、ボリビアを含む南米の山岳地帯では、そのまま噛んだり、茶として引用するなど、嗜好品や薬用として伝統的に利用されてきた歴史があります。特に、ボリビアでは鉱山労働者などの重労働者がコカの葉を噛みながら仕事をする習慣があるほか、貧しい人々はコカの葉を噛むことで空腹を紛らわすのが常でした。コカの葉そのものはコカイン濃度が薄いため、依存性や精神作用は、抽出されたコカインに比較して弱く、現在でも、ボリビア国内ではコカの葉を茶などとして嗜むことは違法ではありません。

 一方、コカの葉からコカインを抽出する技術は、1855年、フリードリヒ・ゲードケが初めて成功。さらに、1859年、ゲッティンゲン大学のアルベルト・ニーマンがこれを改良し、翌1860年に詳細な性質を報告して「コカイン」と命名しました。

 当初、コカインはモルヒネ中毒の治療薬として発売され、1880年代の英国では一般人でも容易に入手可能でした。シャーロック・ホームズがコカインの依存症という設定になっているのも、そうした時代背景によるものです。

 その後、コカインの過剰摂取は心疾患および脳損傷を引き起こすことがあるほか、幻覚症状を引き起こし、薬物依存症の原因となることが広く知られるようになったため、1922年には“麻薬”として米国で禁止されたのをはじめ、多くの国では、原料となるコカの葉、コカの木を含め、規制の対象となっています。

 しかし、非合法の麻薬としてのコカインの流通はなくならず、ヴェトナムの戦場で日常的にコカインを摂取していた帰還兵が米国内にコカインを持ち込み、コカイン汚染が拡大。さらに、1980年代に入り、パブロ・エスコバルひきいるコロンビアの複合犯罪組織のメデジン・カルテルが台頭すると、コカインの供給量が増えて販売価格が下がり、コカインの摂取は貧しい人々や若者にも広がるようになり、深刻な社会問題となっています。

 2000年代までに、メデジン・カルテルやカリ・カルテルなどの大型麻薬組織は撲滅されましたが、麻薬組織は細分化して存在し続けており、現在でも、年間約1万3000人がコカインで亡くなっています。


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 ゲバラ忌
2018-10-09 Tue 08:36
 きょう(9日)は、1967年10月9日に亡くなったチェ・ゲバラの命日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・ゲバラ没後40年(コラージュ)

 これは、2007年にボリビアが発行した“ゲバラ没後40年”の記念切手の1枚で、1957年、ハバナ生まれの画家・グラフィックデザイナーで、キューバとボリビアを拠点に活動しているエルネスト・アスクイが制作した“英雄的ゲリラ”のアンディ・ウォーホル風コラージュが取り上げられています。

 1965年4月、「別れの手紙」を残してキューバを去ったゲバラは、新たな革命の地を求めてコンゴ動乱に馳せ参じ、軍事政権に対抗する左翼反乱軍に参加しました。しかし、反政府勢力首脳部の腐敗と堕落に幻滅した彼は、“世界革命”の理想を抱えてコンゴから撤退し、チェコスロヴァキアを経てラテンアメリカに戻り、1966年11月、バリエントス独裁政権下のボリビアに潜入。革命に向けての“アンデス計画”を展開します。

 アンデス計画は、(実際の地理的条件を無視すれば)ペルー、チリ、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルからほぼ等距離にあるボリビア北部の山岳地帯を拠点に、現地の農民を革命兵士に育て上げ、訓練施設を拡充し、ついで近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育し、その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を広げていくという壮大なものでした。

 しかし、現地のボリビア共産党や先住民の農民は“よそ者”のゲバラに対して非協力的で、彼らは勢力を拡大できないまま、1967年10月8日、ゲバラ本人も戦闘でふくらはぎを負傷。ラ・イゲーラ近くのケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)渓谷で捕縛された後、村の小学校に移送され、翌9日、銃殺されました。最期の言葉は、銃殺をためらう政府軍兵士に対して発せられた「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」でした。

 その後、ゲバラの遺体は、バジェ・グランデ市内に運ばれ、しばらく晒しものにされた後、密かにバジェ・グランデ空港の滑走路に埋められました。

 ゲバラの殺害から28年が経過した1995年、遺体の処理に関わった元軍人のバルガス・サリナス(事件当時の階級は大尉。最終的に将軍まで昇進)は、伝記作家のインタビューに答えて、ゲバラの埋葬場所を公表。当初、ボリビア陸軍はサリナス証言を否定し、サリナスに対して“元将軍”の地位と名誉を剥奪する処分を下しましたが、当時のボリビア大統領、ゴンサロ・サンチェスは、ゲバラの埋葬場所を観光資源化することを考え、遺体の捜索を約束しました。

 こうして、1995年11月、キューバとアルゼンチンから専門家チームが現地に派遣され、発掘作業が開始。1年半後の1997年6月29日、遺骨が発見されました。

 発掘されたゲバラとキューバ人同志たちの遺骨は、それぞれ、木棺に収められた後、キューバ国旗に包まれ、ハバナへと空輸されました。遺骨は、ハヴァナ市内中心部の革命広場で盛大な帰還式典が行われた後、新たに建設されたサンタ・クララ霊廟の地下に収められ、現在に至っています。

 一方、遺骨発見のタイミングがゲバラの没後40周年と重なったこともあり、ラ・イゲーラでは大々的な記念行事が行われ、殺害場所となった小学校がリニューアルされて村営博物館となったほか、村の中央広場には高さ4mの巨大なゲバラ立像のほか、セメント製の胸像も作られています。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って、ボリビア郵政が発行したものです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの没後、彼のイメージがどのように変遷し、消費されていったかということについても触れていく予定です。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。
 

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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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 ボリビアの悲願、棄却
2018-10-03 Wed 00:50
★★★ 緊急告知!★★★

 あす(4日・木)15:10~15:25 TBSラジオ「たまむすび」に、内藤が出演します。よろしかったら、ぜひお聴きください。
 なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 南米の内陸国ボリビアが悲願とする太平洋への“出口”をめぐり隣国チリに交渉に応じるよう命令を求めていた裁判で、国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)は、1日(現地時間)、ボリビアの訴えを棄却しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・海に出る権利を要求する

 これは、1964年にボリビアからアルゼンチン宛の書留航空便で、左下に、ボリビア国旗に「ボリビアは海に出る権利を要求する」とのスローガンが入ったラベルが貼られています。

 1826年に独立したボリビアは、1879-84年、南米大陸・太平洋岸の硝石地帯をめぐって、ペルーと同盟を結んでチリと戦いました。いわゆる“(南米の)太平洋戦争”です。この戦争に敗れたボリビアは、講和条約として結ばれたバルパライソ条約により、太平洋岸に面したアントファガスタ州をすべて失い、内陸国となりました。

 以後、ボリビアの海運での輸出入貨物は、いったんチリ領となったアントファガスタ港で陸揚げされ、同港でボリビアが管理する保税上屋からチリの通関を行わないままボリビア国境へ運ばれ、ここでボリビアの税関が通関を行うという手続きが取られています。

 ボリビア国民の中には、現在なお、バルパライソ条約を不当と考え、海を奪ったチリに敵意を持つものが少なくありません。また、ボリビア政府も毎年3月23日を“海の日”に指定し、メディアを動員して「海を取り戻そう」キャンペーンを展開しています。こうしたこともあって、サッカーの試合などでも、ボリビア・サポーターの一部が「海を返せ」といった政治的な横断幕を掲げることもしばしばです。今回ご紹介のカバーのラベルも、こうした社会的背景の下で、ボリビアの主張を国際的にアピールするため、郵便物に貼られたものです。

 今回の裁判は、2013年にボリビアが提訴していたもので、1904年のバルパライソ条約を根拠に掲げ、チリに対し「完全な主権を伴う太平洋への出口をボリビアに付与するため交渉に応じる義務がある」というのがボリビア側の主張です。これに対しチリは、バルパライソ条約に基づき、既に「ボリビアは港湾を自由に商業利用できている」と反論していました。

 このため、ICJは両国間の戦後の外交文書などを検討したうえで、チリには「交渉に応じる義務があるとは結論付けられない」と判断。今回の判決となり、ボリビアの悲願は棄却されることになりました。
 
 なお、ボリビアといえば、1966年以降、チェ・ゲバラが潜入して山中でゲリラ戦を展開し、1967年に逮捕・処刑された国としても有名です。現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、そうしたボリビアについて、いろいろな角度からまとめてみました。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 ボリビア大統領のメダル盗難
2018-08-09 Thu 14:36
 ボリビアの大統領が式典での正装時に着用するメダルが、7日(現地時間)、盗難に遭ったものの、翌8日、ラパス中心部の教会玄関先に捨られているのが発見され、無事に回収されたそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

     ボリビア・バリエントス大統領

 これは、1975年にボリビアで発行された独立150年の記念切手(歴代大統領の正装姿の肖像を取り上げたセットになっています)のうち、1964-69年に大統領を務めたレネ・バリエントス・オルトゥーニョを取り上げた1枚です。ボリビア国旗の3色のサッシュとともに、今回、盗難事件に遭ったメダルもしっかりと切手に描かれています。

 ボリビアでは、1941年に結成された民族革命運動(MNR)が、主要輸出品目である錫の利権を、一般国民が財閥や外国資本から奪還することを訴えて支持を拡大していました。そ翌1942年12月、カタビ鉱山で軍により労働者700人が虐殺される“カタビの虐殺”が起きると、MNRは鉱山労働者組合連合を背景に勢力を拡大し、1951年5月の選挙で勝利を収めました。

 ところが、この選挙結果を認めない軍部はクーデターを起こしてMHRを帆非合法化したため、1952年4月、MNRは鉱山労働者や国家警察部隊とともに、事実上の首都であるラパス(憲法上の首都はスクレ)で武装蜂起し、ヴィクトル・パス・エステンソーロが大統領に就任しました。

 これが、いわゆるボリヴィア革命です。

 エステンソーロ政権下では、インディオに選挙権や公民権が付与された新憲法が採択されたほか、国策として、サンタクルスを中心とする東部の低地地帯の開発が進められました。また、1953年8月2日には、農地改革が実施され、貧農に対する農地の分配も行われています。しかし、その一方で、MNRの内部は、革命後、右派のエルナン・シーレス・スアーソ(副大統領)、中間派のエステンソーロ、左派のフアン・レチン(鉱山労働者組合連合の創立者)の三巴に事実上分裂。革命後の混乱で治安は悪化し、連日、銃撃による死傷者が発生しました。

 第1次エステンソーロ政権は1956年までで任期が満了し、大統領の連続再選を禁止した憲法の規定に従い、1956-60年にはスアーソが大統領に就任。1960年、ふたたび、エステンソーロが政権に復帰しました。

 エステンソーロは、政権基盤を安定させるため、空軍の実力者であったバリエントスを副大統領に抜擢しましたが、1964年5月、バリエントスはアルフレード・オバンド・カンディーアとともに軍事クーデターを起こしてエステンソーロを追放。バリエントスは自ら“軍事評議会”議長となり、軍事政権を樹立し、ボリビア革命後のMNR体制を崩壊させます。

 バリエントスは、先住民のケチュア語を理解したため、農民層を支持基盤に取り込んで権力基盤を固めたうえで、1966年7月、大統領選挙を実施。自らが大統領となり、鉱山労組を中心とする反対勢力や左派勢力に対する取締りを弾圧しました。

 また、1966年11月、革命家のチェ・ゲバラが、ボリビア北部の山岳地帯を拠点に“アンデス計画(現地の農民を革命兵士に育て上げて訓練施設を拡充→近隣諸国から送り込まれる志願者を革命兵士として教育→その見返りとして資金的・物質的援助を得て、活動の範囲を拡大、というプロセスを循環させていくプロセス)”を展開すると、元ナチス親衛隊中尉で、CIAの庇護下でボリビアの軍事顧問をしていたクラウス・バルビーの支援も受けて掃討作戦を行い、1967年10月、ケブラダ・デル・ジューロ(ユーロ)の山中でゲヴァラを逮捕し、そこから7kmのラ・イゲーラで殺害しました。

 ゲバラの処刑により南米における武装ゲリラ闘争は沈静化したものの、その後もボリビアの政情不安は収まらず、バリエントスは、1969年4月、農民を懐柔するために金を配りに行く途中、搭乗していたヘリがカニャ・ドン・アルケ峡谷で墜落し、亡くなりました。

 さて、今回盗難に遭ったメダルは、平素はラパスの中央銀行に保管されており、式典があるたびに大統領の元に届けられることになっています。

 現職のエボ・モラレス大統領は6日に行われた独立記念日の式典でメダルを着用。その後、大統領は8日に中部コチャバンバで行われる軍事パレードを閲兵する予定になっていたため、メダルは中央銀行には戻されず、保管担当の軍将校が7日夜、現地に運部という段取りになっていました。ところが、将校の搭乗予定だった飛行機が遅れたため、将校は 「何軒か売春宿に入ってから自分の車を止めた場所に戻ると、国章が付いたかばんが持ち去られていた」(本人談)そうです。

 その後、窃盗犯はメダルを、ラパス中心部の教会の玄関先に捨てて逃走。大手テレビ局ユニテルに匿名の通報があり、メダルは発見され、回収されました。なお、8日の軍事パレードには、大統領はメダルを着用せずに望んだそうです。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、バリエントス政権下のボリビアでゲバラが展開していた“アンデス計画”と彼の最期について、1章を設けてまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。


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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑩
2016-12-03 Sat 19:57
 『キュリオマガジン』2016年12月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第10回目(最終回)。今回は、コパカバーナ海岸にフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ボリヴィア・コパカバーナ

 これは、1939年7月19日にボリヴィアで発行された“コパカバーナの聖母像”を描く航空切手です。

 コパカバーナというと、現在では、リオデジャネイロのビーチを連想する人が圧倒的多数だと思いますが、もともとは“美の女神”を意味するアイマラ語(ボリビアとペルーの公用語の一つ)の“コタ・カワニャ”が転訛したもので、ティティカカ湖に面したボリヴィアの地名でした。

 ボリヴィアのコパカバーナは、かつてのインカ帝国時代、ティティカカ湖に浮かぶ“太陽の島”への巡礼の拠点で、聖地として太陽神の神殿が置かれていました。ところが、16世紀にこの地を征服したスペイン人はインカ時代の神殿を破壊し、その跡にカトリックの教会を建立。先住民の職人、ティト・ユパンキに幼いイエスを抱いて葦船に乗った聖母像を作らせました。これが、今回ご紹介の切手に取り上げられた“コパカバーナの女神”です。

 こうして、地元の先住民も、やむを得ず、この聖母像に祈るようになりますが、聖母像の霊験はあらたかで、祈りをささげた善男善女は病気が治ったとか、船が難破しても助かったなどの噂がボリヴィアの領域を越えてラテンアメリカ全域、さらにはスペイン本国にも広まり、17世紀初めにはかの地で大規模な聖堂も建立されました。

 その“コパカバーナの聖母”の霊験にあやかろうと、18世紀半ば、サコペナパンと呼ばれていたリオの岬の突端に彼女を祀る礼拝堂が建てられ、いつしか、その周辺一帯はコパカバーナと呼ばれるようになりました。

 当初の礼拝堂は、1908年、岬の突端に首都防衛のための要塞が建設された際に取り壊されてしまいましたが、要塞の敷地内には新たな礼拝スペースが設けられ、現在も下の画像のような聖母像が安置されています。

      コパカバーナの聖母像(リオ)

 ちなみに、コパカバーナ海岸の要塞と礼拝堂については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 なお、雑誌『キュリオマガジン』の連載、「郵便学者の世界漫郵記」ですが、2016年3月号からスタートしたリオデジャネイロ篇は今回で終了し、次回・2016年1月号からは新たに泰国篇がスタートします。ぜひ、ご期待ください。

  
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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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