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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米、UNRWAへの支払を停止か
2018-09-01 Sat 01:30
 米紙ワシントン・ポストによると、米国のトランプ政権は、30日(現地時間)、既に大部分を凍結している国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への拠出金支払いについて、完全に停止することを決めたそうです。といいうわけで、UNRWA 関連の切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・UNRWA(1971)

 これは、1971年にエジプトが発行したUNRWA支援の宣伝切手で、岩のドームを背景に難民キャンプのテントと難民の女性が描かれています。

 UNRWAは第一次中東戦争後の1949年12月8日に設置された国連の事業機関で、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン、レバノン、シリアで約500万人のパレスチナ難民に教育、保健、福祉、救急などの援助および人間開発を行っています。その設立に際しては、アラブ諸国はもとより、イスラエルも人道的立場から国連総会で賛成票を投じました。

 UNRWAの定義による“パレスチナ難民”は「1946年6月1日から1948年5月15日(第一次中東戦争勃発の日)までの間にパレスチナに住んでおり、その家と生計を失った者とその子孫」とされています。もちろん、1967年の第三次中東戦争以降、ヨルダン川西岸およびガザ地区から逃れてきた難民であっても、上記の期間に本人もしくは両親・祖父母がパレスチナに住んでいれば、“パレスチナ難民”と認定されることがあります。

 UNRWAの予算のうち、米国からの拠出金は約3億6000万ドルで、全体の約3割を占めています。しかし、昨年、トランプ政権がエルサレムに米大使館を移転したことにパレスチナ側が強く反発。パレスチナ自治政府も中東和平交渉をめぐりトランプ政権との接触を拒否していることから、米国はUNRWAに対して、6000万ドルしか拠出しないと発表していました。

 一方、米国からの拠出金減額を受けて、UNRWAは、国際社会に資金提供を呼び掛けるキャンペーンを展開し、2億3800万ドルを調達したものの全体の経費を賄うには至らず、この資金も9月末で尽きる見込みです。

 また、上述のように難民を定義する以上、“難民数”は人口に比例して増加傾向をたどることになりますので、今回、トランプ大統領が主張するように、難民認定者を第一次中東戦争発生(1948年)当時の難民に絞り、10分の1以下に減らすことも、資金を拠出する側からすれば自然な要求とみることもできましょう。

 ただし、いわゆる“パレスチナ難民”に関しては、パレスチナへの“帰還”を認める帰還権があるとされており、現状で“難民(の子孫)”として認定されている2世以下の世代の認定を一挙に取り消してしまうと、(“難民”でなくなった)彼らの帰還権も否定されることになりかねません。とはいえ、1967年の第三次中東戦争から出さえ50年以上は経過してしまった現在、40代以下のパレスチナ人が“帰還権”にどれほどのリアリティを感じらるかは、また別の次元の話ですが。

 なお、パレスチナ難民に関しては、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

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 ラムセス2世像、ギザへ
2018-01-26 Fri 18:29
 エジプトできのう(25日)、かつてカイロのラムセス駅前に置かれていた古代エジプトのファラオ、ラムセス2世の巨大像が、ギーザ(ギザ)の大ピラミッドの近くに建設中の大エジプト博物館の正面玄関に設置するための移設工事が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・航空切手(ラムセス像・1971年)

 これは、1971年にエジプトで発行された航空切手で、カイロ・ラムセス駅前のラムセス2世像が描かれています。切手の左側にはナセル(ガマール・アブドゥン・ナーセル)の肖像が入っていますが、ナセル本人は切手発行以前の1970年9月28日に亡くなっていますので、この切手には彼を追悼する意味も込められています。

 今回、ギーザに移設されたラムセス像は、3200年前に作られたと考えられており、重さは83トン。1882年に、ギーザの20キロ南方のメンフィスにあるフウト・カ・プタハ神殿で発見されときは、ばらばらの状態になっていました。

 一方、今回ご紹介の切手に取り上げられたラムセス駅は、もともとは、1856年にカイロ=アレキサンドリア間の鉄道が開通した際に、カイロ側の終着駅として建設されたもので、当初はミスル駅(ミスルはアラビア語でエジプトの意)と呼ばれていました。それが、ナセル政権下の1955年、革命後のアラブ・ナショナリズムの高揚を反映して、リビア、ヌビア、パレスチナに版図を拡大したラムセス2世にちなんでラムセス駅と改称され、あわせて駅前広場(ラムセス広場と改称)にメンフィスで発見されたラムセス2世像が修復され、設置されました。今回ご紹介の切手にも取り上げられているのは、その風景です。

 その後、ラムセス広場のラムセス2世像はカイロ中心部のランドマークとなっていましたが、カイロ市内でも最も繁華な地域に置かれていることもあって、排ガスや地下鉄の振動によって像の劣化が進行。このため、ギーザに開館予定の“大エジプト博物館”に移されることになり、2006年に同館の建設敷地内に移送されていました。

 当初、博物館は2011年に開館予定でしたが、建設作業は大幅に遅れ(これを2012年1月の“革命”やその後の政治的混乱のせいにするのは、さすがに無理があるでしょうね)、工事の70パーセントがようやく完成したことを受けて、きのう、ようやく正面玄関に移設されることになったというわけです。

 今回の移設工事では、ラムセス2世像は、2台の大型トレーラーに設置された専用の金属フレームに収められ、軍楽隊が演奏する中、およそ400メートルの道のりをゆっくりと移動し、その様子はメディアでも実況されました。ちなみに、関係者によると、博物館は1年以内に一部開館の見通しということですが…。
 

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 35年前の送電ケーブル
2016-10-13 Thu 17:24
 きのう(12日)、埼玉県新座市の東京電力施設内で、都内の変電所に送電するケーブルが入った地下トンネルの火災が発生し、東京都内の約58万6000戸に影響が出る大規模停電が発生しました。詳しい原因は現在調査中とのことですが、施設内のケーブルが設置から約35年間、一度も交換されておらず、漏電を起こしたのが原因と見られているようです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・地方電力化公社

 これは、1981年にエジプトで発行された“地方電化公社(REA:Rulal Electrification Authority)10周年”の記念切手で、当時の送電鉄塔と農村電化の恩恵が象徴的に描かれています。今回、火災があった東電施設内のケーブルが35年前の1981年から好感されていなかったということにちなみ、1981年当時の送電線を描く切手ということで取り上げてみました。

 エジプトの電力事業は、1890年代に民間の電力事業者がカイロやアレキサンドリア、ポートサイド。スエズなどの都市部でディーゼル発電による地域限定の電力供給を行ったのが最初とされています。

 その後、1952年の革命を経て、1965年、エジプト国内のすべての電気事業者は電力公社(GEEC)に統合されましたが、1970年にアスワンハイダムが完成すると、ダムから約800km北方のカイロまでの長距離送電と併せて、農村地帯の電化計画が立案され、そのための実務組織として、1971年、農業電化公社が発足しました。

 1976年、エジプトが石油の輸出国になると、エネルギー政策の効率化を目指して、それまでの電気省は電気・エネルギー省に、電力公社はエジプト電力公社(EEA)に、農業電力公社は地方電力公社に改組され、あわせて、原子力公社、原子力発電公社、カッターラ低地エネルギー公社(後に水力開発公社)が発足しました。さらに、1978年には各地に点在していた配電会社が、地域ごとの配電公社に統合されます。ちなみに、現在の配電公社は、カイロ地域、アレキサンドリア地域、運河地域、北デルタ地域、南デルタ地域、ベヘイラ地域、北・上エジプト地域、南・上エジプト地域の8社体制です。

 今回ご紹介の切手に取り上げられたREAは、電力省の下部組織としてスタートし、地方電化のための66kV以下の送変電設備の建設・修理を担当しています。REAによる建設ならびに修理が完了した施設は、EEAもしくは地域の配電公社に引き渡され、その後の日常的な保守・運営はEEAもしくは各配電公社が担当することになっています。
 
 ちなみに、この切手が発行された1981年はエジプトではサダト大統領の暗殺事件があった年で、2011年の1月25日革命で倒れたムバーラク政権が発足した年にあたります。ムバーラク政権が崩壊した時、30年間という独裁政権の長さに驚いた人も少なくなかったと思いますが、同政権が倒れてからさらに現在までに5年の月日が過ぎていることを考えると、いくら日本製ケーブルの品質が優れているからと言って、そりゃ、漏電のトラブルだって起きるよなぁ…と思わずにはいられませんな。

* けさ、アクセスカウンターが171万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 Isis は使わず
2015-04-18 Sat 23:08
 世界気象機関(WMO)は、きのう(17日)、テロリスト組織ダーイシュの英文略称と同じという理由で、今後、北東太平洋で発生する熱帯低気圧ハリケーンに今後は「イシス(Isis)」の名称を使わないことを決めたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       エジプト・イシスとホルス

 これは、1979年にエジプトが発行した「母の日」の切手で、ホルスを抱くイシスの像が取り上げられています。

 イシスは、古代エジプトで豊かなナイルの土壌を表す豊饒の女神で、もともとは、外見はトビあるいは背中にトビの翼を持った女性として表されていましたが、頭部にハトホル女神から受け継いだという、牛の角に挟まれた太陽円盤の装飾(今回ご紹介の切手でも、それがハッキリと見えます)がある女性としても表現されていました。また、イシスにちなんで、そうした装飾の被り物をした女王の像もあります。

 古代エジプトの神話では、天空と太陽の神でハヤブサで象徴されるホルスの母親とされており、今回ご紹介の像でも、イシスの膝の上には幼いホルス(ハヤブサの髪飾りをつけています)が抱かれています。したがって、この像も、キリスト教世界で聖母マリアとイエスの像を「母の日」の切手に取り上げるのと同じような感覚で、切手に取り上げられたということなのかもしれません。

 さて、WMOでは、毎年、ハリケーンの命名に際して、あらかじめ決めたアルファベット順の命名リスト(6通りあります)から発生順に名前を選んでつけていますが、そのうち、来年使われる予定のリストに“イシス”が含まれていました。もちろん、古代エジプト神話のイシスには何ら罪はないのですが、偶然とはいえ、欧文表記のIsis は悪名高いダーイシュの英文略称と同じなので、さすがに使用が憚られたのでしょう。ちなみに、来年使用予定のリストでは、イシスではなく“イベッテ(Ivette)”が使われることになったそうですが、どうも、日本人にとってはなじみの薄い名前ですな。まぁ、ハリケーン・イベッテが深刻な被害をもたらすことなく、このまま知名度のないまま終わってくれれば、それに越したことはありませんがね。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ
 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場
 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 岩のドームの郵便学(19)
2014-07-05 Sat 13:26
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』541号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は第4次中東戦争後のエジプトとイスラエルの接近にスポットをあてました。その記事で取り上げたモノの中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・預言者誕生日(1975)

 これは、1975年3月25日、エジプトで発行された“預言者生誕祭”の記念切手で、上部にメッカのカアバ神殿と並んで岩のドームが描かれています。

 第4次中東戦争の戦闘がひとまず終息した後の1973年12月22日、米ソ両国の主導によりジュネーヴで中東和平会議が開催されました。

 米国の目指していた“中東和平”は、端的にいえば、エジプトとイスラエルの単独和平を実現することであり、全当事国間の和平の実現やパレスチナ問題の抜本的解決はその中には含まれていませんでした。米国が、テロ組織とは交渉しないとして、“パレスチナ人の唯一正統な代表”として国連オブザーバーの資格も得ていたPLOを無視しつづけていたのはそのためです。

 さて、会議の席上、キッシンジャーはスエズ運河周辺とゴラン高原でアラブ、イスラエル両軍の兵力を引き離すための協定締結に向けて合同委員会を設置することを提案。これを受けて、1974年1月18日、①40日以内に、イスラエルがスエズ西岸の橋頭堡を放棄し、スエズ東岸で運河から約20マイル撤兵する、②エジプトは東岸に一定の兵力を維持する、③両軍の間を国連の休戦監視軍がパトロールする、というシナイ半島の兵力分離協定が調印されます。

 この協定は、キッシンジャーと協議を重ねたサダトが、イスラエルに譲歩し、運河東岸には最低限のエジプト軍兵力しか残さないというイスラエルの要求を受け入れたことを受けて締結されたものでした。

 イスラエル軍撤兵の悲願を実現させたエジプトは、同年2月、1967年の第3次中東戦争以来途絶していた米国との外交関係を再開し、ニクソンをエジプトに招待します。

 外交努力によるシナイ半島の奪還という目標が徐々に達成されつつあるのを確認したサダトは、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、1975年9月にはシナイ半島での第2次兵力分離協定の調印に成功しました。

 こうしたサダトの姿勢は、関係国との個別交渉を通じて問題の解決を図ろうとするイスラエルの方針に沿ったものであり、「(イスラエルを)承認せず、(イスラエルとは)交渉せず、講和せず」の三不政策を基本方針とする“アラブの大義”という点からは絶対に許容されえないものではあるのですが、シナイ半島奪還というエジプトにとっての現実的な課題を解決するためには背に腹は代えられません。そこで、サダトとしては、「アラブの盟主であるエジプトは、アラブを代表して、パレスチナ問題の解決も含めてイスラエルと交渉しているのだ」という建前を掲げる必要が生じます。

 今回ご紹介の切手は、まさに、第2次兵力分離協定の交渉が進められていた状況下で発行されたもので、岩のドームが取り上げられているのも、そうしたエジプトの姿勢を示すものとみることができましょう。

 切手の題材となった預言者生誕祭は、イスラムの預言者ムハンマドのヒジュラ暦での誕生日、すなわち、ラビー・アル=アウワル月(第3月)12日に行われる祭礼で、完全太陰暦のヒジュラ暦は1年が354日であるため、日本で一般的に用いられている太陽暦の日付は年によって異なってきます。イスラム世界ではほとんどの国で祝日となっており、エジプトでは、特に盛大な祭礼がおこなわれることで有名で、その意味では、エジプト郵政が記念切手を発行しても何ら不思議はありません。

 また、岩のドームは、預言者ムハンマドが大天使ジブリール(ガブリエル)に導かれて天界飛翔の旅に出た際の出発地の岩を覆うように建てられており(そもそも、それが名前の由来です)、それゆえ、イスラムにとっての聖地にもなっています。したがって、預言者生誕祭の記念切手と、岩のドームという組み合わせじたいには、全く違和感はありません。

 ただし、預言者生誕祭は毎年恒例の行事ですが、エジプトでは、前年の1974年まで、生誕祭の記念切手が発行されたことはなく、1975年になって突如発行されています。その背景には、やはり、エルサレムがイスラムの聖地であることのシンボルとして岩のドームの切手を発行することで、エジプトはシナイ半島奪還という自国の利益のためにパレスチナを見捨てたわけではないとの主張を盛り込もうという意図が込められていたとみるのが自然でしょう。

 しかし、エジプトがどれほどそうした切手を発行しようとも、サダト政権が米国の考える“中東和平”の枠組を受け入れ、イスラエルに対する姿勢を急速に軟化させつつあったことは、誰の目にも明らかでした。

 はたして、1977年11月、サダトは、ついに、アラブ国家の元首としてはじめてイスラエルを公式訪問。イスラエル国会で演説し、イスラエルとの単独和平を目指す姿勢を明らかにしています。これを受けて、同年12月、返礼のためにイスラエル首相のベギンもカイロを訪問し、エジプト=イスラエル間の関係は急速に改善されていきました。

 しかし、一連のサダト外交は、結果的に、アラブ諸国・イスラム諸国の激しい反発を招くことになります。次回以降は、そうした文脈で、エジプトとイスラエル以外の国々で発行された岩のドームの切手をご紹介していく予定です。


 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 

       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

 ★★★ 『外国切手に描かれた日本』 電子書籍で復活! ★★★

      1枚の切手には 思いがけない 真実とドラマがある

    外国切手に描かれた日本(表紙)     外国切手に描かれた日本(ポップ) 
    光文社新書 本体720円~

 アマゾン紀伊国屋書店ウェブストアなどで、6月20日から配信が開始されました。よろしくお願いします。(右側の画像は「WEB本の雑誌」で作っていただいた本書のポップです)


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 岩のドームの郵便学(18)
2014-06-06 Fri 18:15
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』538号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は第4次中東戦争にスポットをあてました。その記事で取り上げたモノの中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・第4次中東戦争FDC

 これは、1973年12月23日にエジプトが発行した第4次中東戦争開戦の記念切手の初日カバーで、ファタハの作成した岩のドームのラベルが同時に貼られているのがミソです。

 第3次中東戦争(1967年)の敗戦後、エジプトにとっての最重要課題はイスラエルからシナイ半島を奪還することにありました。

 1970年にナセルの死を受けて政権を継承したサダトは、それぞれの思惑から中東に関与しているだけの米ソ両国に任せていてもシナイ半島の奪還は無理であると喝破し、武力による自力奪還以外に、エジプトの採るべき現実的な選択はないという結論に到達。こうした判断にもとづき、シリア大統領ハフィズ・アサドとも連携をとりながら、対イスラエル戦争のプランを練り始めます。

 戦争計画の策定にあたっては、戦争の長期化は絶対に避けるとの前提の下、イスラエルに軍事的な大打撃を与えることで、大国による和平の仲介を引き出すという基本方針が確認されました。このため、戦争計画は、緒戦の電撃的な侵攻作戦に重点が置かれ、スエズ運河の潮流や月齢などを考慮した結果、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キップール)でイスラエル軍の態勢が手薄になる1973年10月6日が開戦予定日として設定されます。

 かくして、1973年10月6日、エジプト・シリア連合軍によるイスラエルの奇襲攻撃によって、第4次中東戦争の火ぶたが切って落とされました。

 開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機50機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げました。このうち、スエズ運河渡河作戦の成功は、イスラエルに対するアラブ最初の勝利として大々的に喧伝され、サダトは「渡河作戦の最高指揮官=イスラエル軍不敗神話を破ったアラブの英雄」として、その権威は絶大なものとなりました。

 今回ご紹介の初日カバーの切手は、スエズ運河渡河作戦の成功を祝して発行されたもので、1サダトの肖像と運河を渡河するエジプト軍が描かれています。サダトにとって、真の戦争目的は、あくまでもシナイ半島の奪還であって、パレスチナの解放ではありませんでしたから、エジプトの発行する記念切手に“パレスチナ”を連想させる要素が盛り込まれていなかったとしても、それはある意味で自然なことです。

 一方、イスラエル=シリア国境のゴラン高原では、シリア軍が快進撃を続け、アラブに対するイスラエルの不敗神話は崩壊しました。

 もっとも、エジプト・シリア両軍の優勢は長続きしませんでした。はやくも10月11日にはイスラエルはゴラン高原での大反攻を開始し、シリア領内に突入。さらに、シナイ半島方面でも、同16日にはスエズ運河の逆渡河に成功してエジプト領内に進攻し、形勢は逆転します。

 ところが、翌17日、アラブ産油国10ヶ国が米国とイスラエル支援国に対する原油輸出の5パーセント削減を発表すると同時に、同6ヶ国が原油価格の21パーセント引き上げを決定しました。さらに、イスラエル軍が1967年の第3次中東戦争以前の境界線まで撤退しない限り、以後、毎月5パーセントずつ原油生産を削減すると発表します。

 いわゆる(第1次)石油危機の発生です。

 対イスラエル開戦を準備する過程で、サダトは親イスラエル諸国への石油輸出を減少させることでイスラエル陣営に経済的打撃を与えることを計画。アラブ産油諸国への根回しを開始します。これを受けて、1973年4月以降、サウジアラビアは、米国がイスラエル支援政策を変更しない限り、石油生産を増産しない(あるいは米国に協力しない)可能性があると米国に対して繰り返し警告を発していました。そして、第4次中東戦争が勃発し、戦況がエジプト・シリアに不利になりつつあったタイミングを狙って、いわゆる石油戦略を発動したというわけです。

 これに対して、キッシンジャーは、米国のイスラエルへの武器供与は中東でのソ連の影響力拡大に対抗するためのものであって、反アラブを意図したものではないと弁明しましたが、10月19日、大統領のニクソンが議会に対して22億ドルのイスラエル軍事援助を認めるよう求めたことで、中東産油国の対米不信は決定的なものとなりました。

 結局、翌20日、サウジアラビアが米国に対する石油の全面的な輸出禁止を発表すると、イラクをのぞくアラブ産油国の全てがこれに同調。アラブ諸国から米国とオランダ(米国のイスラエル軍事援助に際して国内の空軍基地使用を許可したことから、アラブ諸国から「敵」と認定されていました)への石油の輸出が全面的に停止されました。アラブ諸国の強硬姿勢に接してパニックに陥った西側諸国は、自国の経済を防衛するため、イスラエルとの友好関係を見直すようになります。

 サウジアラビアを含むアラブ産油国がサダトの要請を受けて石油戦略を発動したのは、エジプトがイスラエルに勝利すれば、第3次中東戦争以降、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区からイスラエルが撤退し、ともかくも“アラブの大義”が果たされることを期待したからであって、エジプトなりシリアなりの個別の“失地”が回復されるか否かはあくまでも二義的な問題でした。

 今回ご紹介の初日カバーに、は、スエズ渡河の記念切手とファタハによる“パレスチナ解放”のラベルが同時に貼られているのも、そうしたアラブ世界の意識を反映したものと言ってよいでしょう。

 さて、戦況が次第にイスラエル有利に傾いていくと、ソ連はエジプト(サダトによる軍事顧問団の追放後もソ連はエジプト領内の基地使用権を保有していた)とシリアが第3次中東戦争に続いて大敗することを懸念し、米国と協議を開始。ソ連がエジプトとシリアに対して、米国がイスラエルに対して、それぞれ、早期の停戦を受け入れるよう、強く説得します。

 一方、イスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、シナイ半島を奪還することを本音の部分での戦争目的としていたサダトも、緒戦の優位が失われていたことから、停戦の受け入れに前向きな姿勢を示しました。これに対して、戦況が好転しつつある中での停戦受諾はイスラエルにとっては不満の残るものではあったが、米国はなんとかイスラエルを説得します。

 こうして、10月22日の国連安保理において、関係諸国に対する停戦決議(決議第338号)が採択され、第4次中東戦争は終結へと向かっていくことになりますが、そのことは、エジプトと他のアラブ諸国と思惑のずれを顕在化させ、サダトにとって悲劇的な結果へとつながっていくことになります。


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       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

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 岩のドームの郵便学(14)
2014-02-19 Wed 15:46
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』526号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、サダト政権発足直後のエジプト切手とパレスチナの関係についてまとめてみました。その中から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       エジプト・難民(1972)

 これは、1971年にエジプトで発行された“国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)”の切手で、パレスチナ難民と思しき女性たちに、パレスチナの地図と岩のドームを組み合わせたデザインになっています。

 1970年、ナセルが急死し、副大統領のアンワル・サダトが大統領に昇格します。

 ナセル政権の末期、エジプトはソ連への傾斜を強めていました。東西冷戦という国際環境の下で、米国が支援するイスラエルと対抗するためには、敵の敵であるソ連と結ぶ必要があるという発想によるものだが、ソ連の軍事支援に対する依存度が高まれば高まるほど、エジプトの自立性は損なわれることになります。

 このため、サダト政権は、ソ連の軍事支援に対する過度の依存を是正すべく、政権内部の親ソ派幹部を一掃したほか、1972年7月までに全軍事顧問団を国外追放し、エジプト内のソ連軍関連施設を政府管理下に置きました。これとあわせて、ナセル時代の社会主義的な経済政策から経済自由化に大きく転換。1961年にシリアが離脱して以来、実態としては解消していながら、アラブ民族主義の建前からナセルの時代にはそのまま放置されていた“アラブ連合共和国”の名称を捨て、国号をエジプト・アラブ共和国に変更するなど、“革命の矯正”を進めていきます。

 もっとも、エジプト国内においては、ナセルの権威は死後も絶大なものがあり、彼の事績をすべて否定してしまえば、ナセル政権の副大統領として政権を掌握したサダトは自らの正統性を維持することができません。“革命の矯正”という表現も、ナセルが主導した革命の基本理念に誤りはないが、若干の不具合を正して、革命本来の大義に立ち戻るという立場を示すものであって、サダトは前政権との継続性も国民に対してアピールする必要があります。

 この点において、サダト政権がまず強調したのが、イスラエルに対する強硬姿勢であり、イスラエルによって祖国を追われたパレスチナの同胞を救えという“アラブの大義”でした。

 今回ご紹介の切手もその一環として発行されたものです。切手の題材となったUNRWAは第1次中東戦争後の1949年12月8日に設置された国連の事業機関で、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区、ヨルダン、レバノン、シリアで約500万人のパレスチナ難民に教育、保健、福祉、救急などの援助および人間開発を行っており、その設立に際しては、アラブ諸国はもとより、イスラエルも人道的立場から国連総会で賛成票を投じました。

 UNRWAの定義による“パレスチナ難民”は「1946年6月1日から1948年5月15日(第1次中東戦争勃発の日)までの間にパレスチナに住んでおり、その家と生計を失った者とその子孫」とされています。もちろん、1967年の第3次中東戦争以降、イスラエル占領下のヨルダン川西岸およびガザ地区から逃れてきた難民であっても、上記の期間にパレスチナに住んでいれば、“パレスチナ難民”と認定され。ることになります。

 第3次中東戦争以前はヨルダン領内にあった岩のドームが描かれているのも、(彼らの理解によれば)イスラエルによる不法な占領によって、新たなパレスチナ難民がつくりだされたことを非難する意図が込められているからと見ることができます。
 
 また、今回ご紹介の切手に取り上げられている女性は、ムスリマ(イスラム教徒の女性。ムスリムの女性形)として、全員、頭髪のみならず顔だけを出して首の下、胸の上まで覆い隠すヒマールを着用したスタイルとなっています。

 イスラムの教えでは、コーラン第33章59節の「預言者よ、妻や娘たちや信者の女性に長衣をまとうようにいえ。(女たちの立場が)知られ、きずつけられないように…」、同じく第24章31節の「外にあらわれるもの以外は、女性の美や飾りを見せてはならない」「ベールで胸を覆え」等の文言を根拠として、女性は身体全体と髪を覆うべきだとされています。
 
 その際、保守的なムスリムであればあるほど、女性はより多くの部分を隠すべきだと考えています。具体的には、頭髪のみを覆うヒジャーブよりも、頭頂部から胸の上まで覆い隠すヒマール(顔は露出している)の方が、さらに、顔も目の部分以外は覆い隠すニカーブを着用する方が、ムスリマとしてより敬虔ないしは保守的であることの意思表示となります。

 エジプトは人口の90%がムスリムであり、憲法でもイスラムが“国教”に指定されていますが、1952年の革命によって成立したナセル政権は、基本的には世俗主義国家であり、1954年にムスリム同胞団によるナセル暗殺未遂事件が摘発された後は、イスラム復興勢力は政治の場から徹底的に排除されてきました。

 そうした政治状況は、国家のメディアとしての切手にもしっかりと反映されています。

 すでに、1952年11月に発行された革命成功の記念切手でも、描かれている女性は民族衣装のガラビーヤと思しき服装をしてはいるものの、髪は覆っておらず、“非イスラム的”な姿になっていますが、1956年、第2次中東戦争で英仏の侵略に一致団結して戦うエジプト国民を取り上げた切手では、手榴弾を持った女性は袖をまくって肘を見せ、豊かな髪をなびかせています。非常時とはいえ、女性は身体全体と髪を覆うべきという伝統的なイスラムの価値観からすれば、許容しがたいスタイルであり、ナセル政権の“イスラム”に対する処遇が透けて見えるといってよいでしょう。

 これに対して、“革命の矯正”を進めたサダトは、国民の90%がムスリムであるという現状を踏まえ、(あくまでも政権にとっての脅威にならない範囲内に限ってですが)イスラム勢力を尊重し、いわゆる原理主義的な政治勢力の中でも、穏健なものに対しては一定の活動の自由を認めています。

 今回ご紹介の切手の女性の姿も、サダト政権下での、そうした保守的な価値観の復権を反映したものと考えられます。
 
 さて、“革命の矯正”の一環としてソ連の軍事顧問団を追放したサダトは、ナセル政権の失敗から、米ソ両国はそれぞれの思惑から中東に関与しているだけであって、彼らに任せていてもシナイ半島を奪還することは不可能であることを喝破していました。となれば、武力による自力奪還以外に、エジプトの採るべき現実的な選択はありません。

 かくして、サダトはナセルとは全く異なる視点から、対イスラエル戦争を準備し始めます。

 その成果として、第4次中東戦争が開幕するのは、今回ご紹介の切手が発行された翌年、すなわち、1973年10月6日のことでした。


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 “ファラオの新聞”も休刊
2012-12-04 Tue 23:17
 エジプトのモルシー大統領が自身に絶対的な権限を付与する憲法宣言を発した問題で、同国の主要独立系紙11紙は、同宣言への抗議としてきょう(4日)付の新聞を発行しませんでした。というわけで、エジプトの新聞といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

         アハラーム100年

 これは、エジプトを代表する新聞の『アル・アハラーム(アラビア語で“ピラミッド”の意。以下、アハラーム)』の創刊100年を記念して1976年にエジプトで発行された切手で、創刊時と現在の同紙の題字が対比して取り上げられています。

 『アハラーム』は1875年に民間の新聞として創刊されましたが、ナセルひきいる自由主義将校団による革命後の1960年、他の大手出版社とともに国民連合(後のアラブ社会主義者連合)に所有権を移され、事実上、国有化されました。以後、ナセル時代には政権の主張をエジプト国内のみならず広くアラブ世界に発信する媒体としての地位を確立しました。1面トップには、ほぼ毎日、エジプト大統領や政府高官、もしくはパレスチナ関連の記事が載せられるのはその名残で、典型的な“御用新聞”でした。(まぁ、そうであればこそ、記念切手の題材にもなったわけですが)

 ところが、昨年のエジプト民主化とムバーラク政権の崩壊、それに続く、イスラム原理主義組織・ムスリム同胞団出身のモルシー大統領の就任により、『アハラーム』とエジプト政府の関係も大きく変化。世俗主義の同紙も今回の抗議の休刊に参加しているようです。なお、同紙の英語版オンラインには、休刊日のきょう、以下のような文言が掲載されていました。

 Ahram Online: declaration of support for Egypt media strike in defence of freedoms
 Tuesday 4 Dec 2012

 Ahram Online declares its full support for the strike action undertaken on Tuesday by a large number of major Egyptian newspapers and TV stations in defence of freedom of the press, freedom of expression, civil liberties and the rule of law. In view of our particular status as a web-based news outlet, however, we will maintain our updates throughout this crucial day of protest, not in contravention of the strike action, but in full solidarity with it. These decisions were consensually adopted by an all-staff meeting of Ahram Online, and in consultation with members of the board of the Press Syndicate and striking news media.

 Throughout the day we will only publish stories relevant to the day of protest, including, naturally, the reactions of governmental and other political actors opposed to the protests.

 At 1:45 Ahram Online will suspend its work for some two hours, so that its newsroom staff can take part in the Press Syndicate march scheduled for 2pm. We will resume our updates at 3:45pm.

 ちなみに、エジプトでは、政権を批判する場合に、しばしば、ネガティブな意味で“ファラオ(古代エジプトの王”という表現が用いられており、たとえば、サダト大統領暗殺犯のハリド・イスランブリは「ファラオに死を!」と叫んで大統領に爆弾を投げつけています。昨年の民主化運動の際も、ムバーラク前大統領に対しては“ファラオ”という罵声が浴びせられたわけですが、サダト・ムバーラクの両政権をともに支えていた新聞が、古代エジプトのファラオの遺産ともいうべきピラミッドのアラビア語を名乗ってきたのも、偶然とはいえ面白い話です。

 もっとも、そうした“(かつての)ファラオの新聞”が、現在のモルシー政権に対しては「モルシーは新たなファラオだ」との批判しているというのも、なんとも皮肉な話ですな。いずれにせよ、新たなファラオが確定するまで、エジプトの混乱はしばらく続くということいなりそうです。
 

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 キャンプ・デービッド合意30年
2008-09-17 Wed 11:57
 エジプト・イスラエル和平の画期となった、いわゆるキャンプ・デービッド合意が1978年9月17日に結ばれてから、今日でちょうど30年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 平和の人・サダト

 これは、1977年にエジプトが発行した“平和の人・サダト”の切手です。

 1970年、ナセル急死の後を受けてエジプトの大統領となったアンワル・サダトにとって最大の課題は、第3次中東戦争で失ったがシナイ半島の奪還でした。

 サダトは、それぞれの思惑から中東に関与しているだけの米ソ両国に任せていてもシナイ半島の奪還は無理であると喝破し、武力による自力奪還以外に、エジプトの採るべき現実的な選択はないという結論に到達。こうした判断にもとづき、サダトは、シリア大統領ハフィズ・アサドとも連携をとりながら、1973年10月、第4次中東戦争を発動。開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機50機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げています。

 第4次中東戦争での、エジプト・シリア連合軍の優位は永くは続きませんでしたが、ともかくも、サダトはイスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、その後のシナイ半島返還交渉の道筋をつけることに成功します。

 ところで、当時のアメリカが目指していた中東和平構想は、端的にいえば、“アラブの盟主”とされるエジプトとイスラエルの単独和平を実現することであり、全当事国間の和平の実現やパレスチナ問題の抜本的解決はその中には含まれていませんでした。アメリカが、テロ組織とは交渉しないとして、国際社会全般では「パレスチナ人の唯一正統な代表」として国連オブザーバーの資格も得ていたPLOを無視しつづけていたのはその象徴的な出来事といってよいでしょう。

 サダトはこうしたアメリカの思惑を利用する形で、1973年12月、米ソ両国の主導により、ジュネーブで開催された中東和平会議に参加。翌1974年1月、①40日以内に、イスラエルがスエズ西岸の橋頭堡を放棄し、スエズ東岸で運河から約20マイル撤兵する、②エジプトは東岸に一定の兵力を維持する、③両軍の間を国連の休戦監視軍がパトロールする、というシナイ半島の兵力分離協定に調印します。この協定は、キッシンジャーと協議を重ねたサダトが、イスラエルに譲歩し、運河東岸には最低限のエジプト軍兵力しか残さないというイスラエルの要求を受け入れたことを受けて締結されたものです。

 イスラエル軍撤兵の悲願を実現させたサダトは、さらに同年2月、1967年の第3次中東戦争以来途絶していた米国との外交関係を再開し、ニクソンをエジプトに招待。さらに、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、1975年9月にはシナイ半島での第二次兵力分離協定の調印にも成功しました。そして、1977年11月、サダトは、ついに、アラブ国家の元首としてはじめてイスラエルを公式訪問。イスラエル国会で演説し、イスラエルとの単独和平を目指す姿勢を明らかにしています。

 しかし、サダトの一連の行動は、関係国との個別交渉を通じて問題の解決を図ろうとするイスラエルの方針に沿ったものであり、“アラブの大義”という点からは絶対に許容されえないものとして、アラブ諸国から激しい非難を浴びることになりました。そして、シリア、アルジェリア、リビア、南イエメン、リビアがエジプトと断交します。

 シナイ半島からのイスラエル軍の撤兵という2国間の問題はともかく、アラブ世界を代表してイスラエルと交渉しているとの建前を掲げていたエジプトは、パレスチナ問題を前進させない限り、アラブ世界から完全に孤立してしまいます。このため、サダトはイスラエルに対して、パレスチナ人国家の樹立と、そのためのヨルダン川西岸とガザ地区からの撤兵を求めますが、これはイスラエルにとってみずからの存立基盤に関わる問題であり、とうてい妥協することのできないものでした。

 こうして、エジプトとイスラエルの交渉が停滞すると、業を煮やしたアメリカのカーター政権は、1978年9月、サダトとベギン(イスラエル首相)をキャンプ・デービットの大統領別荘に呼び、両国に対して、巨額の経済援助と引き換えに成立させたのが、キャンプ・デービット合意だったわけです。

 この合意では、シナイ半島の返還に関してはエジプトの主張が大幅に認められており、両国間の平和条約調印(1979年3月に実現)も定めていましたが、イスラエル占領下のヨルダン側西岸とガザ地区に関してはイスラエル側の主張が認められたかたちとなっていました。

 このため、キャンプ・デービット合意は、自国の利益のためにパレスチナをイスラエルに売り渡したものとして、エジプトを除く全アラブ諸国から激しく非難され、エジプトは周辺諸国から完全に孤立してしまいました。ちなみに、キャンプ・デービット合意の主役であったサダトは、1981年10月6日、第4次中東戦争の戦勝8周年記念式典で軍事パレードを閲兵中、いわゆるイスラム原理主義の信奉者によって暗殺され、現在にいたるホスニ・ムバーラクの時代が幕を開けることになるのです。


 イベントのご案内
 東京・大手町のていぱーくで開催中の東京スタンペックス2008の第3幕が明日18日から23日まで行われます。僕も、今年6月のルーマニアでの国際展に出品した作品「香港の歴史(A History of Hong Kong)」を出品していますので、よろしかったら遊びに来てください。
 
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 試験の解説(2006年1月)-2
2006-01-28 Sat 18:24
 昨日に引き続き、今回の試験で出した問題の解説。今日は、こいつを行きましょう。

 問題C この切手(↓)を参考に、東西冷戦の終結に関してイスラム世界で流布している言説について説明せよ。

アフガンのためのジハード

 この切手(画像はクリックで拡大されます)は、1981年にエジプトで発行されたアフガニスタン支援の寄付金つき切手です。

 1979年末、ソ連は、前年に締結した善隣協力条約に基づいて内戦状態にあったアフガニスタンに侵攻。ソ連は一九七八アフガニスタンに進駐。アミーン政権を打倒し、ソ連の意向に忠実なバブラク・カルマルを大統領兼首相とする親ソ体制(傀儡政権)を樹立しました。

 当然、国際社会はこれを非難し、アフガニスタン国内でも反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されました。こうした、ムジャーヒディーンの闘争に対しては、イスラム世界全域から義勇兵がペシャワルに集結。イスラム諸国の政府も彼らを積極的に支援していますが、エジプトがこうした切手を発行したのもその一環です。

 切手のデザインは、アフガニスタンの国土に侵攻する赤い矢印(ソ連を示す槌と鎌がつけられている)を描くもので、切手に押されている消印には“アフガニスタンのためのジハード”という文言も入っています。

 全イスラム世界から集まってきたムジャーヒディーンたちの間には、アフガニスタンを“ムスリム(=イスラム教徒)の土地”と位置づけた上で「奪われたムスリムの土地を奪回することは全信徒の宗教的義務である」と言う主張が広がっていきます。こうした失地回復の主張は、次第に、アフガニスタンやボスニア、チェチェンでのイスラム抵抗運動を支持し、湾岸戦争以来サウジアラビアに駐留しつづける米軍への反感する感情にもつながるこのでした。

 結局、ソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、一九八九年二月一五日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。そして、アフガニスタン侵攻の失敗は、最終的にソ連の崩壊にも繋がるのです。
 
 こうしたことから、中東・イスラム世界では、ソ連崩壊の要因をアフガニスタン侵攻の失敗に求め、その崩壊は共産主義(ざい=無神論)に対するイスラムの勝利であるという言説が広がることになるのです。この文脈では、東西冷戦において西側が東側に勝利したという認識は極めて希薄です。

 この結果、ソ連軍がアフガニスタンから撤退し、さらには、ソ連そのものが崩壊したことによって、西側社会とイスラム世界は、反ソというお互いの共通項が同床異夢にすぎなかったことを思い知らされることになるのです。

 ①アフガン支援の切手がエジプトで発行されたことの意味がきちんと説明できているか、②“失地回復”の議論(この議論を言い出したアブドゥッラー・アッザームの名前が書いてあればなお良い)が触れられているか、③ソ連の崩壊を“イスラムの勝利”とする理解について説明できているか、といった点が要領よく書けていれば、その学生さんには満点を差し上げます。

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