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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米大使館、きょうエルサレムへ
2018-05-14 Mon 01:44
 米国は、昨年12月にトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことを受け、西暦でのイスラエル建国70周年にあたるきょう(14日)、在イスラエル大使館をテルアヴィヴからエルサレムに移転します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・トルーマン(1975)

 これは、1975年、米国がイスラエルを国家承認した際の大統領としてのハリー・トルーマンを讃えてイスラエルが発行した切手です。

 トルーマンはカンザス・シティのビジネス・カレッジを卒業後、カンザス・シティのナショナル・バンク・オブ・コマースに窓口係として就職したのが社会人としてのキャリアのスタートでした。1905年、彼は、リトアニア出身のユダヤ人移民の子で、地元の洋品店で働いていたエドワード・ヤコブセンと知り合いになります。1917年に米国が第一次大戦に参戦すると、トルーマンとヤコブセンは徴兵され、ともに第129砲兵隊の酒保係に配属されました。“戦友”となった二人は大いに意気投合し、退役後、共同事業を始めます。ユダヤ人に対する差別が根強かった当時の米国では、トルーマンのように、ユダヤ人のヤコブセンとビジネス・パートナーの関係になるWASP(プロテスタントのアングロ・サクソン)は例外的な存在でした。

 その後、2人の共同事業はすぐに破綻しましたが、個人的な友情は生涯続き、1945年4月、フランクリン・ローズヴェルトの死により、トルーマンが大統領に就任すると、ヤコブセンはホワイトハウスに出入りできる例外的な民間人の一人となりました。

 こうしたヤコブセンとの個人的な友情関係に加え、上院議員として実績を積み重ね、副大統領、そして大統領になった老練な政治家としてのトルーマンは、政治的な打算から、ローズヴェルトと比べると、明らかに親ユダヤ的な態度を取っていました。

 すなわち、パレスチナでのアラブとイスラエルの対立に関して、米国は直接の当事者ではないとの認識から、ローズヴェルトは、アラブ諸国の指導者に対して、「米国としては、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしない」と約束しており、トルーマンも基本的にはこの方針を継承することを表明していました。その一方で、トルーマンは側近との会話では「米国の有権者のうち、いったい、アラブ系はどのくらいいるのかね」と述べており、シオニストへの支持を隠そうとしませんでした。

 さらに、ドイツの敗北により、アウシュヴィッツをはじめ強制収容所の悲惨な実態が白日の下にさらされるようになると、戦勝国の大義を示すためにも、米国ではユダヤ人犠牲者の救済が重要な課題と見なされるようになりました。

 かくして、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住を制限する政策(1939年のマクドナルド白書で決定)を解除するよう要請。さらに、同年8月には、10万人のユダヤ系難民をパレスチナに移民として受け入れるよう、英国首相アトリー宛の書簡で要請します。

 このトルーマン書簡を契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立される。委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を事実上撤廃する、という報告書をまとめました。

 しかし、報告書発表の直前、またしても、シオニスト過激派により英国人兵士6人が殺害されるテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示します。英国のパレスチナ当局からすれば、“難民”というだけの理由で、身元の定かではないユダヤ人を大量に流入させれば、難民に偽装したテロリストも紛れ込み、パレスチナの治安を悪化させるリスクが高まるのは当然で、パレスチナ問題調査委員会の報告書の内容は受け入れがたいものでした。

 しかし、第二次大戦以前、ほとんど中東と接点のなかった米国をはじめ、戦勝諸国の大半は、そうしたパレスチナの事情を全く理解しようとはしませんでした。むしろ、侵略者の独裁国家を打倒して自由と民主主義を守ったことが自分たちの戦争の大義であると主張する必要から、彼らは、ナチス・ドイツの蛮行、特に、ユダヤ人迫害とその犠牲を強調し、彼らが救い出した“かわいそうなユダヤ人”に救いの手を差し伸べなければならないと信じていました。

 かくして、ユダヤ系難民の受け入れに慎重なパレスチナ当局の姿勢は、パレスチナの現実を知らない戦勝国の善男善女から批判を浴びただけではなく、“大英帝国”の一員として英国の戦争を戦ったパレスチナのユダヤ系住民のさらなる不満を醸成。シオニスト過激派による反英闘争も激化の一途をたどりました。

 この結果、シオニスト過激派の反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国際連合(以下、国連)に問題の解決を一任すると一方的に宣言。

 これを受けて、同年5月、国連にパレスチナ問題特別委員会が設立され、8月31日、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。この分割案は、ユダヤ人国家の創設に同情的であった米国のみならず、国内のユダヤ人をパレスチナへ入植させることで中東地域に影響力を扶植しようと考えていたソ連の賛成もあり、同年11月29日、国連決議第181号として採択されました。

 以後、これを不満とするアラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦に突入。しかし、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英国人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すことになりました。

 これに対して、1948年2月、エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラクの六ヶ国がカイロで会議を開き、パレスチナでのユダヤ人国家の建設阻止の決議を採択。義勇兵の派遣を決定。一方、同年3月、シオニストたちはテルアヴィヴにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、新国家樹立に向けての具体的に動き始めました。

 これとあわせて、米国では在米シオニストの意を受けたヤコブセンの説得でトルーマンがハイム・ヴァイツマン(イスラエル建国後の初代大統領)と会見。トルーマンは、①ユダヤ人国家建設のために尽力すること、②新国家建国の暁にはそれを直ちに承認することをヴァイツマンに密約します。

 パレスチナでの内戦が激化する中で、英国の委任統治が終了する前日の1949年5月14日、テルアヴィヴの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」とするユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。これを受けて、同日、米国のトルーマン政権は主要国の中で最初にイスラエルを承認し、現在に至る米国=イスラエル関係がスタートしました。

 なお、イスラエル建国前後の状況については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 


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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


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 イスラエル独立70年
2018-04-19 Thu 01:14
 イスラエルの独立宣言は、西暦では1948年5月14日ですが、ユダヤ暦では5708年イヤル月5日です。ユダヤ暦換算では、きょう(18日の日没から19日の日没まで)がその70年にあたっており、イスラエルでは各種の記念イベントが行われます。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・独立宣言

 これは、1973年にイスラエルが発行した独立25周年の記念切手で、イスラエル独立宣言のうち、初代大統領のベングリオン以下、閣僚たちの署名部分が取り上げられています。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、米国大統領となったトルーマンは、中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、パレスチナにユダヤ国家の建設を目指すシオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンは英国政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(英首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派により英軍兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させた英国は、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、英国の対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言います。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案は、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されました。

 これに対して、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は“服喪と圧政の日”とされ、第二次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 一方、パレスチナの治安に責任を負うべきはずの英国は、英軍兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、国連のパレスチナ分割決議を受けて、シオニストたちがテルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立。新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、英国撤退の軍事的空白を利用して、1948年5月のイスラエル建国に向けて、準備を進めていきました。

 こうした中で、4月9日から10日にかけて、シオニストがアラブの村デイル・ヤーシーンを襲撃し、多くの村民を殺害する“デイル・ヤーシーン事件”が発生。事件後、身の危険を感じたアラブ系住民約10万人がパレスチナから脱出し、結果的に、シオニストによる建国準備は大きく前進することになります。

 こうして、騒然とした状況の中、パレスチナにおける英国の委任統治が終了する1948年5月14日午後4時6分(現地時間)、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」として、ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言。ベングリオンの独立宣言を受けて、同日、米国のトルーマン政権は主要国の中で最初にイスラエルを承認。ついで、5月17日にはソ連がイスラエルを承認しました。

 この間の5月16日、イスラエル国家は古代の貨幣を描く建国後最初の切手を発行します。ただし、この切手には「ヘブライ郵便」との表記はあるものの、「イスラエル」との表記はありません。これは、切手の制作時にはまだ新国家の正式な国号が決定されていなかったことによるもので、イスラエルの独立宣言がいかに慌しい状況の下に行われたかということを示しています。

 なお、イスラエル建国にいたる経緯については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内 ★★★

 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

      ゲバラ本・仮書影

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 バルフォア宣言100年
2017-11-02 Thu 09:04
 1917年11月2日、アーサー・バルフォア英外相名義で、英国が大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めた“バルフォア宣言”が発せられてから、きょう(2日)でちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・バルフォア宣言50年

 これは、1967年にイスラエルが発行した“バルフォア宣言50年”の記念切手のうち、バルフォア外相の肖像を取り上げた40アゴロット切手です。タブの部分には、エレミヤ書第31章17の一節「あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる。」との文言が印刷されています。

 第一次大戦中、ロンドンではシオニズム(世界各地に離散したユダヤ人が“民族的郷土”であるシオンの丘=エルサレムに結集し、ユダヤ人国家を再建しようという政治的主張)の運動を展開していたシオニストたちが英国政府の支援を取り付けるべく工作を展開していました。

 そうしたなかで、シオニスト評議会の議長で、英海軍省の技術顧問だったハイム・ヴァイツマンは、第一次大戦の勃発後、英国に協力し、自らが開発したバクテリア発酵法(無煙火薬の原料となるアセトンをデンプンから合成する技術)の工業化に成功。この結果、年間3万トンのアセトンが英国軍に供給されることになり、その功績から、英政府・軍とのコネクション築きました。

 ヴァイツマンは、そうした人脈を最大限に活用し、アーサー・バルフォア外相から、ユダヤ系貴族院議員ライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵宛の書簡というかたちで、「英国政府は、ユダヤ人がパレスチナの地に民族的郷土を樹立することを好意的に見ており、その目的の達成のために最大限の努力をいたします。ただし、すでにパレスチナに在住している非ユダヤ人の市民権、宗教的権利、及び他の諸国に住むユダヤ人が享受している諸権利と政治的地位が、これによって害されるものではないことは明確に了解されます」との表明させることに成功しました。

 これがバルフォア宣言です。

 しかし、この時点で、英国はアラブに対して、英国とともにオスマン帝国と戦えば、大戦後、中東地域にアラブの独立国を樹立することを約束していた(フサイン・マクマホン書簡。ただし英国はアラブに対して“独立国”の範囲を明確にしていません)ほか、フランスとは、東地中海のアラブ地域の分割案であるサイクス・ピコ協定をまとめていました。

 こうした中で、1917年11月7日、ロシア10月革命が発生すると、社会主義政権の外相に就任したレフ・トロツキーは旧政権の悪事を暴くとして、サイクス・ピコ協定の内容を暴露。この結果、バルフォア宣言と併せて、中東における英国の“三枚舌外交”が明らかになり、国際世論は騒然となります。

 そこで、釈明を求められたバルフォアは、

 ①メソポタミアは英国の自由裁量(保護国としてのアラブ国家イラク誕生)
 ②レバノンは“純粋なアラブの地”ではなく、フランスの植民地
 ③シリアはフランスの保護下でアラブ人国家となる。ただし、ダマスカス周辺については、“純粋なアラブの地”なのかフランスの勢力圏なのかは不明確
 ④パレスチナは“純粋なアラブの地”の範囲外で、サイクス・ピコ協定で定めた“共同統治”とユダヤ人居住地を意味する“民族的郷土”は矛盾しない、

 とする議会答弁を行い、フサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言の三者は矛盾しないと主張しました。

 これに対して、アラブ側は英国に対して強い不信感を抱きましたが、戦時下においてはともかくもオスマン帝国に対する勝利を優先し、英国と行動を共にしました。しかし、当然のことながら、大戦後、それらの矛盾が噴出。英国によるパレスチナの委任統治が始まると、バルフォア宣言に基づいてパレスチナへの移住を求めるシオニストと、それを拒否するアラブ、そして両者の間で右往左往する英国という3者により、パレスチナは混乱の渦に巻き込まれていくことになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 現存最古の「十戒」、85万$に
2016-11-18 Fri 21:12
 現存最古とみられるモーセの「十戒」を刻んだ石板が、きのう(17日)、米国のオークションに出品され、85万ドル(約9400万円)で落札されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・石板を受け取るモーセ(1981)

 これは、1981年にイスラエルが発行した『出エジプト記』の切手のうち、シナイ山に登ったモーセが、「十戒」(の刻まれた石板)を授けられ下山する場面が描かれています。タブの部分には、そのことを示す『出エジプト記』第34章29節の文言「(モーセが山を降りて来たとき)その手に二枚のあかしの石の板を持っていた」が記されています。

 さて、現在の一般的なイメージでは、今回ご紹介の切手に描かれているように、「十戒」の石板は、上部がかまぼこ型で、その下に長方形がついている形となっていますが、ユダヤ教やキリスト教の古い時代の古い石板は、今回落札された石板(下の画像)のように、丸みのない長方形でした。上部がかまぼこ型になったのは、中世以降のことで、レプリカとオリジナルの区別を容易にするためとの配慮によるものだそうです。

      最古の十戒の石板(実物)

 今回、落札された石板は大理石製で、縦横61センチ程度の四角形で、重さは52キロ。1913年、オスマン帝国支配下のパレスチナでの鉄道駅建設の際、ヤブネ近郊で発見されました。「十戒」の文言はサマリア語で刻まれていますが、その文字の形状からローマ帝国時代後期またはビザンツ帝国時代の紀元300-500年前後と推測され、それゆえ、現存最古の「十戒」と認定されています。

 石板の落札者は明かされていませんが、石板を出品したリビング・トーラー博物館(ニューヨーク)は、落札者が石板を公共の場に展示することを売却の条件としているため、遠からず、この石板はどこかで展示されることになるはずです。それが、どこになるのか、そちらもちょっと気になりますね。
       

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 神殿の丘とハラム・シャリーフ
2016-10-16 Sun 16:56
 イスラエルは、きのう(15日)までに、国連教育科学文化機関(ユネスコ)がエルサレム旧市街のユダヤ教とイスラムの両方の聖地について、イスラエルがムスリムの礼拝を制限しているとの決議を採択しただけでなく、決議での聖地の名前がイスラム名の“ハラム・シャリーフ”とだけ記載され、ユダヤ名の“神殿の丘”が表記されなかったことに抗議して、ユネスコへの協力を一時停止すると表明しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・嘆きの壁(小型シート)

 これは、1979年3月26日、エジプトとの平和条約調印を記念してイスラエルが発行した記念の小型シートで、切手部分には嘆きの壁の割れ目に置かれた手紙が取り上げられています。

 神殿の丘もしくはハラム・シャリーフと呼ばれている場所は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。

 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手にも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。

 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。

 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカメディナに次ぐ第3の聖地とされており、691年には、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に岩のドームが建設されます。当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。

 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっての聖地でしたが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、神殿の丘の敷地内にイスラムの聖地としてモスクが建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。

 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。

 神殿の丘を含むエルサレムの旧市街は、英国によるパレスチナ委任統治の終了後、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれ、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。

 1967年の第三次中東戦争により、イスラエルはエルサレム旧市街を占領し、自国領への編入を宣言しましたが、その後も、神殿の丘の管理権はムスリムが維持しているため、敷地内でユダヤ教およびキリスト教の宗教儀式を行うことはできません。

 さて、今回のユネスコの決議は、エジプトやレバノンなどアラブ諸国が提案したもので、委員会を構成する58ヵ国のうち、24ヵ国が賛成、6カ国が反対、26ヵ国が棄権しています。たしかに、イスラエルが第三次中東戦争で占領したエルサレム旧市街から撤退しないことについて、イスラエルを非難するという議論は成り立ちうるのですが、その一方で、ユネスコの職掌である“文化”という観点からいえば、エルサレムが歴史的にユダヤ教・キリスト教・イスラムの3宗教の共通の聖地であることも事実なわけで、その意味では、聖地の名をイスラム名の“ハラム・シャリーフ”とだけ記載し、ユダヤ名の“神殿の丘”を無視するというのは、ユダヤ教徒に対する明らかな挑発行為と言ってよいでしょう。

 なお、今回の決議については、ユネスコのイリナ・ボコバ事務局長も不快感を表明し、「エルサレムの普遍的な価値とユネスコの世界遺産への登録理由は統合にある。それは対話への訴えであり、対立を意味しない」と述べています。決議は18日に行われるユネスコ執行委員会で採決にかけられ、全会一致で可決した場合は採択され、そうでない場合は継続審議となるので、実際には、採択の可能性は低いでしょう。ただ、いわゆる慰安婦問題や南京事件の例を持ち出すまでもなく、ユネスコや世界遺産が各国の政治・イデオロギー闘争の場に堕しているという現状を考えると、そろそろ、それらを全面的に見直すべき時期に来ているのではないかと思わずにはいられませんな。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

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 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 プリムの祭日
2016-03-23 Wed 18:43
 きょう(24日)は、ユダヤ暦では5776年アダル月14日、プリム(プーリームとも)の祝祭の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・プリム(1976)

 これは、1976年にイスラエルで発行されたプリムの切手3種を収めた小型シートです。

 『旧約聖書』「エステル記」によれば、紀元前538年、ユダヤ人はペルシャ帝国によってバビロン捕囚から解放されましたが、その後も、エルサレムに帰還せず、ペルシャ帝国の領内に残ったユダヤ人も少なからずいました。そうした中で、ユダヤ人のモルデガイは、養女のエステルを、彼女がユダヤ人であることを隠したまま、王妃としてペルシャのアハシュエロス王(クセルクセスとも)に嫁がせていました。

 その後、アハシュエロス王の宰相ハマンに対して、敬虔なユダヤ教徒であったモルデガイが敬礼を拒否する事件が発生。これに怒ったハマンは、モルデガイのみならず帝国内のユダヤ人を全員殺害するという勅書を送ります。なお、虐殺の日付は、くじ(プル)によってユダヤ暦のアダル月13日と決められました。

 このため、エステルは決死の覚悟で王に自分がユダヤ人であることを明かし、勅書の取り消しを求めます。これを受けて、王はハマンを処刑し、モルデカイは高官に取り立てられることになりました。

 このエピソードに倣い、ユダヤ人の間では、(毎年)アダル月14日を“ユダヤ人が敵をなくして安らぎを得た日”として、宴会を開いてその日を楽しみ、贈り物を交換することが習慣として定着し、現在に至っているというわけです。

 今回ご紹介の小型シートには、左から「エステル記」の一節とその内容に合わせたイラストが描かれた切手が収められています。物語としては、右→中→左の順で展開されており(やはり、ヘブライ語が右から左へ書くということを意識しているのでしょう)、その具体的な文言の日本語訳は以下の通りです。

 ・右の切手(「エステル記」第1章1-3節) アハシュエロス王が首都スサで、その国の位に座していたころ、 その治世の第3年に、彼はその大臣および侍臣たちのために酒宴を設けた。ペルシャとメデアの将軍および貴族ならびに諸州の大臣たちがその前にいた。

 ・中央の切手(同第2章16-17節) エステルがアハシュエロス王に召されて王宮へ行ったのは、その治世の第7年の10月、すなわちテベテの月であった。 王はすべての婦人にまさってエステルを愛したので、彼女はすべての処女にまさって王の前に恵みといつくしみとを得た。王はついに王妃の冠を彼女の頭にいただかせ、ワシテに代って王妃とした。

 ・左の切手(同第6章11節 ) そこでハマンは衣服と馬とを取り寄せ、モルデカイにその衣服を着せ、彼を馬に乗せて町の広場を通らせ、その前に呼ばわって、「王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ」と言った。

 ちなみに、 プリムの宴会では、お祝いの表現として、「モルデカイに祝福あれ」と「ハマンに呪いあれ」の区別がつかなくなるまで泥酔することになっているのだとか。僕はユダヤ教徒はありませんが、二つのフレーズが区別がつかなくなるまで泥酔するのは得意なので、ぜひ、参加させてもらいたいですな。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

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 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 アデンから脱出
2015-03-26 Thu 09:40
 混乱が続いているイエメンで、ザイド派(シーア派の一派)民兵組織“フーシ”が、きのう(25日)、政権側が仮首都としている近郊の空軍基地を制圧し、ハディ暫定大統領は大統領宮殿から海路で退避しました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       イスラエル・マジックカーペット作戦

 これは、1970年にイスラエルが発行した“マジック・カーペット作戦(イエメン在住のユダヤ人救出作戦)20年”の記念切手です。

 イエメンの地には、ソロモン王の時代以来、多くのユダヤ教徒が居住していました。彼らの多くは、19世紀末に始まったシオニズムとは、基本的に無関係に過ごしていましたが、1947年に国連でパレスチナ分割決議が採択され、アラブ諸国でこれに対する反発が強まると、アデンでも反ユダヤ暴動が発生し、82人のユダヤ教徒が殺害されました。さらに、1948年に入り、ムスリムの少女2人が殺害されると、これに対する報復としてユダヤ教徒の資産が接収されます。

 一方、1948年に建国を宣言したイスラエル国家は、「全世界に離散したユダヤ人が“民族的郷土”のパレスチナに帰還し、ユダヤ人国家を建設する」というシオニズムを建国の理念としていました。そこで、こうしたイエメン在住のユダヤ教徒の窮状を救い、彼らをイスラエルに移住させるというプランが浮上し、“マジック・カーペット作戦”の名の下に、1949年から1950年にかけて実施されました。
 
 当時、イエメンには6万3000人のユダヤ教徒がいましたが(その内訳は、ザイド派のムタワッキル王国支配地域に5万5000人、英保護領アデンに8000人)、イスラエル政府は、米英の航空機を利用し、380回に分けて、ムタワッキル王国支配下からの4万7000人、英保護領アデンからの1500人をアデン経由でイスラエルに脱出させました。なお、一連の輸送作戦に際しては、イエメンに近いジブチやエリトリアのユダヤ教徒500人も、あわせてイスラエルに渡っています。

 なお、一連の作戦は、『出エジプト記』第19章第4節の文言「あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。」および『イザヤ書』第40章第31節の「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」にちなんで、“マジック・カーペット”と命名されました。今回ご紹介の切手のタブにも、『出エジプト記』の文言の一部が、英語とヘブライ語で記されています。

 さて、今回、脱出したハディ大統領(ユダヤ教徒ではなくスンナ派ムスリム)の場合は、すでに空港がフーシ側に制圧されていたため、アデンから、空路ではなく海路での脱出を余儀なくされたわけですが、この記事を書いている時点では、行き先は明らかにされていません。

 すでに、大統領は24日付で外国軍の介入を求める書簡を国連安全保障理事会に送付しているほか、ヤシン外相も昨日(25日)、アラブ連盟に緊急の軍事介入を要請。これを受けて、サウジアラビアは軍事介入の構えを見せるなど緊張が高まっており、しばらくはイエメン情勢から目が離せない日々が続きそうです。
 

 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・4月4日(土) 09:30- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『日の本切手 美女かるた』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。

 ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ
 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場
 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は3月31日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 岩のドームの郵便学(12)
2013-12-19 Thu 14:42
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』520号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第3次中東戦争の話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・タクシー郵便(1967)

 これは、1967年の第3次中東戦争直後、東エルサレム宛の郵便が再開された際の第一便としてタクシーで運ばれたカバーです。

 シリア=イスラエル国境で緊張が高まっていた1967年4月、シリア、イスラエル両国の空軍が空中戦を展開し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜される事件が発生。これを機に、軍事的緊張は一挙に高まり、アラブの盟主として君臨していたエジプト大統領・ナセルにイスラエルへの実力行使を求めるアラブ諸国の世論が沸騰します。当初、慎重姿勢を保っていたナセルも、同年5月14日、アラブ諸国からの要請を拒否しきれずに、シナイ半島に兵力を進駐させ、第二次中東戦争の終結以来駐留を続けていた国連緊急軍に撤兵を要求。同月22日、チラン海峡を封鎖しました。

 アラブ諸国はナセルの決断を歓迎し、5月30日にはヨルダンとエジプトとの間で相互防衛条約が調印されたほか、エジプトとシリア、ヨルダンの間では軍事同盟が結成されます。さらに、イラク、クウェート、スーダン、アルジェリアの各国も有事の際の派兵を約束。イスラエルは周囲を完全に包囲されました。

 このため、イスラエルはアラブ諸国軍に対する戦闘準備を急ぎ、先制攻撃を計画。当初、米国はイスラエルの先制攻撃に反対し、問題の政治的解決を求めていましたが、最終的には、和平解決のための具体的行動をとる用意がないことをイスラエルに通告。これを受けて、1967年6月5日、イスラエルはアラブ諸国軍に対する先制攻撃を開始しました。

 いわゆる第三次中東戦争の勃発です。

 第三次中東戦争の勝敗は、開戦後まもなく、イスラエル空軍が、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国の空軍基地を壊滅状態に追い込んだことによって、早々に決せられました。イスラエル軍は早くも6月7日には東エルサレムを占領し、同月10日にはゴラン高原のシリア軍が潰滅。この間、6月8日には国連安保理の勧告を受けて、エジプトが無条件停戦に応じ、シリアも10日には停戦に応じました。イスラエル側が、この戦争を誇らしげに「6日戦争」と呼ぶ所以であす。

 今回ご紹介のカバーは、停戦直後の6月14日、戦闘によって途絶していたテルアビブ=東エルサレム間の郵便がタクシーを使って再開された際の記念の第1便で、封筒の余白には、東エルサレム中心部への輸送ルートを示す地図(岩のドームの場所もしっかり記されている)とともに、イスラエル軍がヨルダン支配下にあった東エルサレムをわずか47時間で占領したことを誇示する文言が印刷されています。

 ちなみに、東エルサレムを占領したイスラエルがヨルダン郵政の郵便局を接収し、自前の郵便局を開設して、イスラエル郵政としてこの地で郵便サービスを開始したのは、7月5日のことでした。


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は1月7日(原則第1火曜日)で、以後、2月4日と3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 第4次中東戦争以来の砲撃
2012-11-12 Mon 16:08
 シリア内戦の余波でゴラン高原のイスラエル軍施設に迫撃砲が着弾したことへの報復措置として、きのう(11日)、イスラエル軍が、1973年の第4次中東戦争以降初めて、シリア領内にロケット弾を打ち込んだそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         第4次中東戦争・イスラエル軍事葉書

 これは、第4次中東戦争中の1973年10月22日、イスラエル軍の兵士が差し出した軍事郵便の葉書です。

 1973年10月の第4次中東戦争は、イスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、1967年の第3次中東戦争で失った領土を回復することを目的として、エジプトのサダト主導の下、シリアもこれに加わって行われました。

 すなわち、1973年10月6日、エジプト・シリアの連合軍はイスラエルに奇襲攻撃を行い、第4次中東戦争が勃発した当時、アメリカのニクソン政権は、軍事面で圧倒的に劣るアラブ諸国がイスラエルに対して全面戦争を仕掛けることはありえないと考えていました。また、イスラエルは、第3次中東戦争で壊滅状態に陥ったエジプトが空軍力を再建するのは早くても1975年以降になると推定し、1973年中の開戦は想定していませんでした。

 こうしたことから、アラブ側の奇襲攻撃はまんまと成功し、開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機50機と戦車550両を撃破。イスラエル=シリア国境のゴラン高原でも、シリア軍が快進撃を続け、アラブに対するイスラエルの不敗神話は崩壊しました。

 もっとも、エジプト・シリア両軍の優勢は長続きせず、はやくも10月11日にはイスラエルはゴラン高原での大反攻を開始し、シリア領内に突入。さらに、シナイ半島方面でも、同月16日にはスエズ運河の逆渡河に成功し、形勢は逆転します。

 こうした戦局の推移に対して、エジプトとシリアが第3次中東戦争に続いて大敗することを懸念したソ連は米国と協議を開始。ソ連がエジプトとシリアに対して、アメリカがイスラエルに対して、それぞれ、早期の停戦を受け入れるよう、強く説得しました。

 一方、イスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結ぶことを、本音の部分での戦争目的としていたサダトも、緒戦の優位が失われていたことから、停戦の受け入れに前向きな姿勢を示しています。これに対して、戦況が好転しつつある中での停戦受諾はイスラエルにとっては不満の残るものでしたが、アメリカに説得されるかたちで停戦を受諾。10月22日の国連安保理において、関係諸国に対する停戦決議(決議第338号)が採択され、第4次中東戦争はようやく終結へと向かうことになりました。

 今回のイスラエルによるシリア領内への砲撃はこの戦争以来というわけで、その背景には、来年1月のイスラエル総選挙を控えて、軟弱派とみられることを恐れたネタニヤフ首相が強硬姿勢に出たという事情があります。まぁ、ネタニヤフ政権は、アメリカから大統領選挙が終わるまでは大人しくしているようにと懇願されており、曲がりなりにもその約束を守っていたことで国内的には軟弱というレッテルを貼られつつありましたからねぇ。イラン情勢も緊張が続いたままですし、しばらくは目が離せない状況が続きそうです。


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 1967年の境界線
2011-05-21 Sat 23:29
 イスラエルのネタニヤフ首相が、きょう、オバマ米大統領とホワイトハウスで会談し、オバマ大統領が1967年の第3次中東戦争直前の境界線を前提にしたパレスチナとの交渉再開を求めたのに対し、ネタニヤフ首相は「1967年の境界線に戻ることはできない」と述べ、大統領提案を明確に拒否しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        スエズ自由通行カバー

 これは、第3次中東戦争直後の1967年7月19日、イスラエルによるスエズ運河の自由通行が開始された際に作られた記念カバーです。カシェに描かれている地図のうち、白い部分が第3次中東戦争後のイスラエルの支配地域ですが、戦前のイスラエル領はその中に破線で示されている部分の内側だけです。これを見ていただくと、第3次中東戦争でのイスラエル占領地域がいかに広大なものであったか、お分かりいただけるものと思われます。なお、今回ご紹介のカバーは、第3次中東戦争の結果、イスラエルがスエズ運河以東のシナイ半島全域を占領したことにより、スエズ運河を自由に通行できるようになったことを記念して作られました。

 第3次中東戦争は、イスラエル側の先制奇襲攻撃によって開始されたこともあり、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども懐疑的で、1967年11月の国連安保理では、占領地域からのイスラエル軍の撤退を要求する決議が採択されました。
 
 その後、1974年にはゴラン高原のクネイトラがシリアに返還されたほか、1982年にはシナイ半島がエジプトに返還され、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部地域はパレスチナ自治政府の管轄下に置かれることになりましたが、東エルサレム(ユダヤ教・キリスト教・イスラムの3宗教の聖地がある旧市街)を含むヨルダン川西岸の大半は、そのまま実効支配を続けています。

 アラブ世界などで、クウェートからの撤退を決めた国連決議に従わなかったがゆえに湾岸戦争でイラクが多国籍軍の攻撃を受けたのに対して、イスラエルが占領地から撤退しないにもかかわらず軍事制裁はおろか経済制裁さえも受けることがないのはダブル・スタンダードであるとのリンケージ論が一定の支持を集めたのもこのためで、その意味では、イスラエルの占領地からの完全撤退を求めたオバマ大統領の提案は理にかなったものともいえます。

 もっとも、そもそもイスラエル国家は、エレツ・シオンと呼ばれたエルサレムとその周辺の地域にユダヤ人の民族的郷土を作るという、シオニズムの運動から出発していますから、彼らにとって、東エルサレムを喪失するということは国家の根本的な存在意義を危うくすることを意味しており、到底、受け入れることができないのも当然といえましょう。

 いずれにせよ、1948年のイスラエル建国からだと60年以上、1967年の第3次中東戦争からでも40年以上(余談ですが、僕自身が1967年生まれですから、オギャーと生まれた赤ん坊が、現在の中年男になる年月、といえば、その長さがわかろうというものです)も解決できなかった問題が、そうそう簡単に解決できるはずもありません。とはいえ、問題解決のための妙案があるわけでもなし、今回の一件は、提案を一蹴された大統領の面目が潰れただけ、ということで終わりそうですな。


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