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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アフリカデー
2019-05-25 Sat 03:03
 きょう(25日)は、1963年5月25日にアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合=AU)が創設されたことにちなむ“アフリカデー”です。というわけで、アフリカ大陸の地図を描いた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・コンゴ共和国との国交50年

 これは、2014年にキューバが発行したコンゴ共和国(旧仏領。以下、コンゴ・ブラザヴィル)との国交樹立50周年の記念切手で、キューバ国旗とキューバ島の地図、アフリカ大陸のシルエットの中にコンゴ・ブラザヴィルの国旗を持つ人々が描かれています。

  1960年8月15日に独立したコンゴ・ブラザヴィルは、初代大統領に就任したフルベール・ユールーと彼の率いる与党“アフリカ人利益擁護民主連合(UDDIA)”の下、親仏路線を維持し、フランスからの資金援助による国家建設を推進しました。しかし、その配分は、彼の出身部族であるラリ族の多い南部が偏重され、北部は冷遇されただけでなく、露骨な利益誘導が行われたため、政権の腐敗も深刻でした。

 外交面でも、隣接する旧ベルギー領コンゴでの動乱に関しては、民族派のパトリス・ルムンバではなく、旧宗主国ベルギーの支援を受けてカタンガの分離独立を主張するモイーズ・チョンベを支持。このことも国民の不満を醸成し、1963年8月、北部での反政府暴動を機に、ユールー政権は崩壊し、アルフォンセ・マサンバ=デバを首班とする新政権が発足しました。

 マサンバ=デバ政権は、民族主義的な色彩の濃い社会主義路線を掲げ、外国系企業の国有化、フランス軍基地の撤去、計画経済の導入などを推進。1964年1月には“革命国民運動(MNR)”を結成して一党体制を構築したほか、外交面では反仏路線に転換し、東西冷戦下では西側との決別を意味するキューバ・カストロ政権との国交樹立に踏み切ります。

 これを受けて、キューバはチェ・ゲバラをブラザヴィルに派遣することを決定。1965年1月2日、ゲバラは「米国の干渉に対する革命の戦いは、西半球の大陸の多くの人をとらえるだろう」と声明してブラザヴィル入りし、5日、マサンバ=デバと会談しました。ゲバラは、マサンバ=デバに対して、キューバと連帯して旧ルムンバ派勢力を支援することを提案。マサンバ=デバ政権がこの提案を受け入れると、ホルヘ・リスケート率いるキューバの軍事ミッションがブラザヴィルに派遣されました。

 その後、キューバの支援を受けたMNR若年層の一部は徐々に民兵を組織して過激化。マサンバ=デバは、1966年、民兵組織のアンブローズ・ヌアザレイを首相に任命し、政権に取り込んで去勢しようとしましたが、MNRは穏健化しませんでした。そこで、1968年1月、マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任しましたが、軍部の実力者で空挺隊司令官のマリアン・ングアビは民兵組織を統御しきれないマサンバ=デバに対する不満を募らせます。

 このため、1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕しましたが、兵士の反乱で釈放を余儀なくされ、逆に、9月4日、退陣に追い込まれました。なお、政権を掌握したングアビは民兵組織を抑え込みましたが、キューバとの友好関係は維持しています。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 〈岡田英弘三回忌 シンポジウム〉岡田英弘の歴史学とは何か ★★

      岡田英弘の歴史学とは何か

 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定)
 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分)
 * 資料代として1000円が必要です。

 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!!
朝鮮史を出発点に、満洲史、モンゴル史と深めてゆくなかで、「13 世紀のモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西をつなぎ、“世界史”が始まった」と、「世界史とは何か」を初めて提示しえた歴史学者、岡田英弘氏(1931-2017)。その仕事を改めて見直し、次代に継承する!

 このシンポジウムに、内藤も登壇してお話しします。宜しかったら、ぜひ、ご参加ください。
 お申し込みやイベントの詳細はこちらをご覧ください
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 キューバ農地改革60年
2019-05-17 Fri 01:36
 1959年5月17日にキューバで農業改革法が公布され、農地改革が始まってから、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・農業改革法55年

 これは、2014年にキューバで発行された“農業改革法55年”の記念切手で、フィデル・カストロがシエラ・マエストラ山中で同法に署名する場面の写真が取り上げられています。

 キューバ革命の原点とされる1953年のモンカダ兵営襲撃事件の後、カストロが獄中で執筆した手記には、すでに革命後の土地改革についての言及があり、土地改革が成功すれば、キューバ経済は自然と成長軌道に乗るであろうとの見通しが述べられていました。

 その後、土地改革の実施は革命組織 M26の公約とされ、革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロ・シエンフエゴスとチェ・ゲバラが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。

 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するため、“農業改革法のための委員会”の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。しかし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。

 そこで、カストロはゲバラをはじめM26の“社会改革派”とともに農業改革法案を作成。法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。これを受けて、5月17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、カストロが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。今回ご紹介の切手は、この場面を取り上げたものです。

 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収された。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられています。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進されました。また、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。

 ところで、革命以前のキューバでは、可耕地の70-75%、農地面積の3分の1は米系企業の所有地となっていたため、外国人の土地所有を禁止した農業改革は米国によるキューバ支配の前提を根本から否定するもので、米国をいたく刺激することになりました。

 もともと、米国政府は、1959年1月7日、キューバの革命政府をとりあえず承認したうえで、その方向性を見きわめようと事態を静観していましたが、農地改革が実行に移されるや、キューバ政府に抗議。アイゼンハワーは「カストロは共産主義者ではないが、共産主義者から引き離す必要がある」との認識を示し、キューバ国内でも、それに同調する声が少なからず上がるようになります。

 以後、米国はキューバの革命への干渉を本格化し、両国の関係は緊張の度合いを高めていくのですが、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 母の日
2019-05-12 Sun 02:11
 きょう(12日)は“母の日”です。というわけで、毎年恒例、母と子を題材とした切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(社会保障制度)

 これは、2009年にキューバが発行した革命50周年の記念切手のうち、“社会保障制度(の充実)”を取り上げた1枚で、左側に老夫婦、右側に母と子を組み合わせたデザインとなっています。

 1959年の革命以前、キューバでは男性優位主義の“マチスモ”の風潮がきわめて強く、育児は女性が行うのが当然という考え方が支配的でした。このため、1955年の時点で、女性の労働力化率は13%にとどまっていました。

 しかし、革命後、海外に流出した労働力の不足を補う必要に迫られたカストロ政権は、女性を労働力として確保すべく、女性が家の外で働くことを奨励。その一環として、1963年には、有給での12週間の育児休業を女性に提供する産休法が採択されました。同法は、その後何度かの改正を経て、2003年の法改正後の現行制度では、妊娠した女性は、職場復帰するまで、出産前6週、出産後12週の計18週の完全有給での育児休業の権利が保障されているほか、さらに40週の育児休業(その場合は、給与の60%が支給)が認められています。こうしたこともあって、15-55歳の女性の労働化率は1996年には42.1%に、2002年には55%にまで上昇しました。今回ご紹介の切手は、そうした“革命の成果”を強調するために発行されたものです。

 なお、革命後のキューバ国民の生活については、プラス・マイナスの両面をあわせて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

 誰もが一度は見たことがある、彼の肖像。
 革命家である彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
 切手や郵便物から彼の足跡を辿ります。

 詳細はこちらをご覧ください。

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 こどもの日
2019-05-05 Sun 01:19
 きょう(5日)はこどもの日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ピオネロス中央宮殿30年

 これは、2009年にキューバで発行された“エルネスト・ゲバラ記念ピオネロス中央宮殿30周年”の切手シートです。

 現在のキューバで小中学校の生徒全員が参加する大衆組織のピオネロスは、社会主義諸国で広く見られるピオネールに相当するもので、1959年の革命後、1961年の社会主義宣言を経て創設されました。活動としては、ボーイスカウト運動に近いのですが、市会選挙の投票所で投票箱の監視なども行っています。

 今回ご紹介の切手シートの題材となった“エルネスト・ゲバラ記念ピオネロス中央宮殿30周年”は、ピオネロスの教育・研修施設として、1979年、ハバナに建設されました。

 1967年に39歳で亡くなったゲバラは、死後、カストロ政権によって“理想の革命家”として神格化され、特に、青少年が目指すべき模範とされるようになりました。ピオネロスの施設に彼の名が冠せられたのも、そうしたキューバ政府の方針を踏まえたものです。

 今回ご紹介のシートの切手部分には、グランマ号の模型を前に“学習”する少年少女が取り上げられています。一方、シートの余白部分には、中央宮殿を背景に、子供を抱くゲバラ像が配されていますが、このゲバラ像は、ハバナの宮殿前ではなく、サンタ・クララの市役所前に設置されているもので、実際にはこうした風景はありません。おそらく、共産主義少年団のピオネロスのイメージに合致するものとして、子供を抱くゲバラの銅像と中央宮殿の建物を合成したデザインが制作されたのでしょう。

 ちなみに、サンタ・クララは、革命戦争末期の1958年12月28日、ゲバラ率いる叛乱軍部隊がバティスタ政府軍を破り、戦局の帰趨を決定づけた土地で、このため、市内には、今回の切手シートンイ取り上げられたものを含め、ゲバラを讃える彫刻やオブジェが数多く設置されているほか、サンタクララ攻略戦から30周年にあたる1988年には広大なエルネスト・チェ・ゲバラ記念公園も造成されています。さらに、1997年7月、ボリビアからキューバ政府に引き渡されたゲバラの遺骨は、ハバナの革命広場での盛大な帰還のセレモニーを経て、10月17日、遺骨はエルネスト・チェ・ゲバラ記念公園のゲバラ像の足元に建設された霊廟に収められています。

 なお、ゲバラの死後、キューバ政府が神格化されたゲバラのイメージをどのように活用してきたかについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 5月10日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 5月10日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

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 メディアとしての“英雄的ゲリラ”
2019-04-20 Sat 03:04
 かねてご案内のとおり、本日(20日)14時から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。というわけで、その内容の一部を予告編としてご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲバラ日記(2017)

 これは、2017年、ゲバラの没後50年に際してキューバが発行した記念切手で、生前の彼の横顔と、ゲバラの遺著で、“英雄的ゲリラ”をデザインした『ゲリラ日記』初版本の表紙が並べてデザインされています。

 ゲバラは1967年10月にボリビア山中で亡くなりましたが、1968年初、彼が死の直前まで綴っていた日記の写しがキューバに持ち込まれます。

 チェの日記をキューバ側に引き渡すうえで、主導的な役割を果たしたボリビア内相のアントニオ・アルゲダス・メンディエタは謎の多い人物ですが、もともと、ソ連の影響下で組織された革命的左翼党(PIR)のメンバーで、ボリビアの主要な共産主義者たちとも交流がありました。十代で通信士としてボリビア空軍に入隊しますが、基地内で党の宣伝文書を配布するなどの左翼活動を続けます。ところが、1950年、法律を学んで法務官となったことで、空軍の実力者であったレネ・バリエントス・オルトゥーニョと親しくなり、右派に転向。民族革命運動党(MNR)に加入し、1964年11月のクーデターでバリエントスが政権を掌握すると、内務省勤務となりました。

 アルゲダスを内務省で雇用することについては、彼がもともと左翼活動家だったことから、ラパスの米国大使館付き武官のエドワード・フォックスは再考を求めましたが、CIAのボリビア担当の責任者だったラリー・スタンフィールドはアルゲダスの能力を高く評価し、むしろ、彼をCIAのエージェントとして取り込むことを主張。アルゲダスも「反分は好奇心から」CIA側のリクルートに応じ、その結果、一挙に内相に抜擢されます。

 1967年、ゲバラ率いるゲリラ部隊に対する掃討作戦が本格的に始まると、アルゲダスはCIAのアレンジにより亡命キューバ人のチームを編成して工作活動を展開し、1967年6月のサンフアンの虐殺を承認したほか、同年9月にはゲリラ部隊の都市組織で資金を管理していたロヨラ・グスマン・ララを逮捕し、山岳ゲリラへの支援ネットワークを壊滅に追い込みました。

 しかし、CIAの送り込んだ亡命キューバ人部隊が、徐々にボリビア内務省の統制を無視し、ボリビア国内に独自の拠点を設けるようになると、CIAへの反感から、アルゲダスは左派勢力との妥協を考えるようになります。

 1967年10月9日、ゲバラの処刑後、CIAは遺体が“聖遺物”化されることを恐れて頭部を切り取るよう求めましたが、検死を担当した医師のホセ・マルティネス・カッソとモイセス・アブラム・バプティスタは「キリスト者として受け入れられない」と拒否したため、代わりに、急遽買い集められた蝋燭を材料としてデスマスクが取られます。その後、遺体から切り落とした両手の指紋から遺体が間違いなくゲバラ本人であることが確認されると、アルゲダスは内相として、ホルマリン漬けの両手とデスマスク、押収した日記の写しを保管することになりました。

 ゲバラの日記を入手したアルゲダスは、内務省技術局長で、個人的な友人でもあったリカルド・アネイバに命じて日揮を撮影させます。ついで、1968年1月、アルゲダスは新聞記者のビクトル・サニエルをチリのサンティアゴに派遣し、キューバの通信社、プレンサ・ラティーナのオフィスでゲバラの日記が撮影されたマイクロフィルムをキューバ側に渡し、それがハバナに届けられました。

 マイクロフィルムを受け取ったキューバ側は、当初、その日記の真贋については確証を持てなかったようですが、ともかくも、チェ未亡人のアレイダの協力で判読作業を開始。そこへ、3月6日、ボリビアでゲバラとともに戦っていた“ポンボ”ことハリー・ヴィエガス・タマヨらがハバナに生還。彼の日記との照合により、ボリビアからもたらされた日記が真正の写しであることが確認されました。

 ゲバラの遺著となった『ゲバラ日記』(スペイン語版の原題はEl Diario del Che en Boliviaで、直訳すると『ボリビアにおけるチェの日記』)は、こうした経緯を経て、カストロによる「なくてはならない序文」を加え、1968年6月26日に刊行されました。

 『ゲバラ日記』初版本の表紙に取り上げられたゲバラの肖像は、コルダの“英雄的ゲリラ”が元になっていることは一目瞭然だが、文字などのレイアウトの都合からか、左右が反転した“裏焼き”の状態になっています。また、顔の輪郭や鬚、帽子の星の形などから、フィッツパトリックの“英雄的ゲリラ”のイラストとは別に、キューバ側でイラストとして描き起こしたものであることもわかります。

 カストロの「なくてはならない序文」では、ゲバラが“想像を絶するほど過酷な物理的状況下”で革命ゲリラ闘争の発展のためのメモランダムとしてこの日記を書き、自らが模範的な闘士として、多くの優秀なゲリラたちを感化したことが強調されています。

 その一方で、カストロは、ボリビアとその歴史的首都のスクレの名が、ラテンアメリカ独立戦争の英雄、シモン・ボリバルとアントニオ・ホセ・ド・スクレに由来することからも、ボリビアは反帝国主義闘争において国際的に連帯することが宿命づけられているにもかかわらず、ボリビア共産党のマリオ・モンヘは狭量なセクト主義やゲバラへの嫉妬、復讐心などからボリビア人のゲリラ部隊への参加を妨害した、と批難しました。

 そして、“ヤンキー帝国主義”を批難し、米国に対抗するための国際連帯を呼び掛けるとともに、「革命運動を附帯する連携を捨て去ることは…実際にはヤンキー帝国主義と、世界を支配して隷属化しようとする政策の保持に利便するのである」として、それゆえ、ゲバラの日記を公開する必要があると説明。また、日記の公開は、チェのゲリラ闘争がボリビアのバリエントス政権に大きな打撃を与えていたことを明らかにするものであるともしています。

 そのうえで、カストロは、チェと彼の革命(の大義)が、広く国際的にも認知されていることを示すために、次のように述べています。

 チェとそのうち立てた稀有な範例は全世界で味方を増やしつつあった。彼の理想、そのイメージ、そしてその名前は、圧政と搾取の犠牲者たちが強いられた不正に抵抗する闘争の旗印となった。それは全世界の学生と知識人の間に熱烈な関心を呼び起こした。
 合衆国内でも、参加者の増大しつつある黒人(公民権)運動と進歩的学生運動が揃って、チェの人物像を彼らのものとして掲げている。公民権を要求する、あるいはヴェトナム侵略戦争に反対する最も闘争的なデモ行為において、彼のイメージは闘争のシンボルとして大々的に登場させられている。一人の人物が、一つの名前が、一例の模範像がこれほど迅速に、これほどの感動を伴い、これほどまでに全世界的な象徴として広まった例は、歴史上あったとしてもごくたまさかであり、あるいは存在しなかったかもしれない。これはチェが、今日の世界を特徴づけると共に明日の世界の目標ともなるべき国家を超えた精神を、最も純粋で最も無視無欲な形で体現しているからである。

 すでに、イタリアの出版エージェント、フェルトゥルネッリの制作した“英雄的ゲリラ”のポスターは、『ゲバラ日記』が刊行されるまでの間に100万枚以上を売り上げる大ヒット商品として全世界に拡散していました。また、それと並行して、フィッツパトリックのイラストによる“英雄的ゲリラ”も広く流布し、フランス5月革命では、学生たちは既存の体制に対する反抗の意思を示すアイコンとして“英雄的ゲリラ”を掲げ、その光景がメディアを通じて全世界に配信されていました。同様の現象は、米国内のベトナム反戦運動や公民権運動のデモ、1968年10月2日にメキシコで起きたトラテロルコ事件などにおいても観察され、“英雄的ゲリラ”は指数関数的に拡散していきました。

 したがって、『ゲバラ日記』の刊行の目的(のひとつ)が、革命勢力の国際的な連帯を呼びかけることにあるのであれば、当時の状況からして、その表紙に最もふさわしい題材は“英雄的ゲリラ”以外にはありえません。カストロのこの一文は、まさにそうした状況を説明したものだったのです。

 さて、きょうの報告では“英雄的ゲリラ”がどのように生まれ、流布していったか、そして、キューバのカストロ政権はそれをどのように活用し、“革命のキリスト”としてゲバラを神格化していったのか、さまざまな角度からお話ししてみたいと思ってます。メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも事前予約不要・・参加費無料で気楽にご参加いただけますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 太陽節
2019-04-15 Mon 01:52
 きょう(15日)は、1912年4月15日に金日成が生まれた(とされる)ことにちなんで、北朝鮮では“太陽節”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・北朝鮮国交50年

 これは、2010年にキューバが発行した“キューバ=朝鮮民主主義人民共和国外交関係50周年”の記念切手で、金日成と並ぶフィデル・カストロの写真が取り上げられています。

 キューバと朝鮮半島の関係は、1921年5月25日、1905年に仁川からメキシコへ渡った朝鮮人移民の一部が砂糖労働者としてキューバ島へ渡ったのが最初です。その後、1948年に南北両政府が発足すると、当時の親米政権は韓国と国交を樹立しましたが、1959年の革命を経て、カストロ政権は1960年8月29日、北朝鮮と国交を樹立しています。今回ご紹介の切手は、ここから起算して50周年になるのを記念して発行されました。

 1960年10月、チェ・ゲバラを団長とするキューバ外交使節団が経済支援を求めて東側諸国を歴訪しましたが、その一環として、同年12月2日、中国との協定を調印した使節団は二手に分かれ、北朝鮮と北ヴェトナムに向かいました。このうち、団長のゲバラは北朝鮮に向かい、平壌で数千の群衆に歓呼のうちに迎えられています。

 ゲバラが行き先として北朝鮮を選んだのは、以前から、読書経験を通じて北朝鮮に興味を持っていたということに加えて、当時の北朝鮮当局が、朝鮮戦争からの復興が順調に進み、経済的に韓国を凌駕していると大々的に宣伝していたという事情もあったと思われます。
 
 12月2日に平壌入りした一行は、翌3日、金日成と会見。6日には協定を調印してモスクワに戻っていますが、その慌ただしい日程の中でも、ゲバラは「(北朝鮮の)都市には何もない」、「工業は破壊され、動物は死に、一軒の家も残っていない」、「北朝鮮は死でできている国だ」と、北朝鮮の印象を書き記しています。

 1962年10月のいわゆるミサイル危機は北朝鮮にも大きな衝撃を与え、同年末の朝鮮労働党中央委員会全員会議では「国防建設と経済建設の併進路線」が採択され、1961年から開始されていた7ヵ年計画を後退させても、国防力を増強することが決定されました。当時、北朝鮮当局は“併進”の建前の下、国防建設によって国民経済を犠牲にするわけではないと強調していましたが、実際には、経済建設を犠牲にして国防建設が優先されていきます。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた写真は、1986年、カストロが平壌を訪問した際に撮影されたものです。カストロの証言によれば、当時、金日成は軍事援助として10万丁のAK-47をキューバに送っており、これに応えて、キューバはソウル五輪をボイコットし、北朝鮮が開催した第13回世界青年学生祭典に参加しています。

 また、近年では、2013年7月15日、北朝鮮の貨物船・清川江号が、キューバから北朝鮮へ向かう途中、違法薬物類を運んでいるという通報を受けたパナマ当局によって抑留され、船内を捜索した結果、25万袋のブラウン・シュガーの下にミサイル等が隠されていたことが明らかになったのは、記憶に新しいところです。これに対して、キューバは船内にあったのは北朝鮮へ修理のために送られた“旧式の武器”であると表明。たしかに、船内から発見された対空ミサイル統制装置2器、防空ミサイルの部品9本分、戦闘機MiG-212機のエンジン15基などは、いずれも20世紀半ばに製造されたソ連製のものでした。ただし、北朝鮮へのいかなる武器の持ち込みも持ち出しも国連決議に反していますから、2014年3月の国連安保理・北朝鮮制裁委員会の年次報告書では、大量の武器を搭載した北朝鮮船「清川江号」について「(安保理決議が初採択された)2006年以降、最大の武器取引だった」と指摘した上で安保理決議違反と断定しています。

 もっとも、その後も北朝鮮とキューバとの友好関係は維持されており、2016年1月には両国間でバーター協定が結ばれただけでなく、朝鮮労働党キューバ共産党の間で関係を強化するための会談が行われました。また、同年11月25日、フィデル・カストロが亡くなった際には、北朝鮮は3日間の喪に服すことを宣言し、金正日が自ら平壌のキューバ大使館を弔問に訪れています。こうしたこともあって、2018年、ラウル・カストロに代わって国家評議会議長‎に就任したミゲル・ディアス=カネルも、就任早々の外遊で北朝鮮を訪問しています。

 なお、キューバと北朝鮮の歴史的な関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 マラドーナに隠し子3人発覚
2019-03-09 Sat 14:09
 サッカー元アルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナ氏(以下、敬称略)が、キューバで2人の女性の間にもうけた3人の子どもを認知する考えであることが、きのう(8日)、明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・マラドーナ(2015)

 これは、2015年にキューバで発行されたマラドーナの切手シートです。マラドーナについては、外貨稼ぎを目的に小国が発行する“いかがわしい切手”がいくつか発行されているほか、母国アルゼンチンの切手にも取り上げられています。キューバの場合、どちらかというと“いかがわしい切手”に近いと判断してよいのでしょうが、後述するように、マラドーナはキューバの現政権とも浅からぬ因縁がありますので、単純に“いかがわしい切手”と切り捨てるのわけにもいかなさそうです。

 ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1960年10月30日、アルゼンチンのブエノスアイレス州ラヌースで生まれました。アルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、1977年に歴代最年少でアルゼンチンフル代表にデビュー。1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれました。FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場しましたが、1986年に開催されたメキシコ大会では、彼の活躍により、アルゼンチン代表は2度目の優勝を果たしています。なかでも、フォークランド紛争以来の因縁となった準々決勝のイングランド戦は、相手GKピーター・シルトンと交錯したマラドーナが空中のボールを左手ではたいた“神の手”ゴールと、5人抜きドリブルでのゴールという伝説的なプレーをした試合として有名です。

 選手時代から、コカインなど違法薬物の使用が取り沙汰されていましたが、1994年のW杯では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受け、1995年10月、14年ぶりにアルゼンチンのクラブ・チーム、ボカ・ジュニアーズへ復帰しましたが、衰えは隠せず、1997年に現役を引退しました。

 マラドーナとキューバ政府との関係は、W杯優勝後の1987年7月28日、フィデル・カストロと対面したのが最初です。この時、カストロに魅せられたマラドーナは、以来、カストロの“友人”となり、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待しただけでなく、左脚にカストロ、右肩にゲバラ(英雄的ゲリラ)の刺青を彫り込み、ゲバラを真似て両腕に時計をはめるなど、キューバへの傾倒ぶりを示しています。

 さて、マラドーナは、2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした際、カストロを頼ってキューバの医療施設に入所。その後、コカイン中毒の治療も兼ねて、数年間、カストロの賓客として2005年ごろまでキューバに長期滞在していました。この間、マラドーナは治療のかたわら、奔放な生活を送っており、その結果として、今回報道された3人の子供が生まれたということになります。

 なお、マラドーナは2008年にアルゼンチン代表監督に就任し、2010年W杯の南米予選を辛くも突破したものの、本大会では準々決勝で敗れました。2010年7月にはコーチ陣の処遇を巡って、アルゼンチンのサッカー協会と対立して解任。その後、UAEのクラブチーム監督を経て、2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任しています。


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 “カストロ首相”60年
2019-02-16 Sat 11:10
 1959年2月16日に、フィデル・カストロ(以下、フィデル)がキューバの首相に就任してから、きょうで60年です。というわけで、きょうはこの切手を持てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命50年(フィデル首相就任)

 これは、2009年にキューバが発行した“革命50周年”の記念切手のうち、フィデルの首相就任を取り上げた1枚で、群衆を前に首相就任の演説を行うフィデルの後姿が取り上げられています。

 親米バティスタ政権打倒後の新政権についての具体的な構想が示されたのは、革命戦争前半の1957年7月、フィデルとオルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリーペ・パソスの3人が、フィデルら叛乱軍M26の拠点であったシエラ・マエストラ山中で署名した「シエラ・マエストラ宣言」が最初です。

 同宣言の主な内容は、①革命市民戦線を結成し、闘争を統一、②臨時政府首班の指名、③外国の干渉排除、④軍事評議会の拒否、⑤一九四〇年憲法の復活、⑥腐敗根絶、⑦遊休地の優勝接収、などで、②の首班指名はパソスの要求によって盛り込まれたもので、パソスは自らが“大統領”になる野心を持っていました。

 その後、革命派が攻勢を強める中で、1958年8月、フィデルら反バティスタ勢力各派の代表者はマイアミでバティスタ打倒後の臨時政府首班指名についての議論を行い、マヌエル・ウルティアが大統領として推薦されました。ウルティアは元最高裁判事で、1953年のモンカダ兵営襲撃事件後のフィデルに対する裁判で、非常事態下にあっては武装抵抗も憲法上容認されうるとの判断を示したことがあり、フィデルら叛乱軍のみならず、既成政党の支持者にも受け入れやすい人物でした。

 こうした経緯を経て、1959年1月1日、バティスタ政権が崩壊すると、マイアミでの協議に基づき、ウルティアが大統領就任を宣誓。4日にはハバナで臨時革命政府が樹立され、翌5日には全国弁護士会会長のミロ・カルドを首相とする新内閣が発足し、M26からはアルマンド・ハーツ(教育相)とファウスティーノ・ペレス(不正取得資産回復担当相)が入閣しました。

 バティスタ政権打倒の最大の功労者は、いうまでもなく、フィデルらM26でしたが、革命当初の臨時革命政府では、バティスタ政権時代の教訓から、「軍人は政治には介入してはならない」としてシビリアン・コントロールの原則を守るため、フィデルらゲリラの主要メンバーはあえて政府に参加しませんでした。ちなみに、この時点でのフィデルの立場はキューバ人民軍総司令官です。

 これに対して、一方、首相のカルドナは、もともと、最後までバティスタとの話し合いによる政権交代を目指していた“穏健派”であり、対米協調路線の維持を主張するなど、フィデルらM26とはかなりの温度差がありました。

 このため、新政権内部での主導権を確保しようとしたカルドナは、1月17日、大統領のウルティアが慰留することを想定して辞表を提出し、大統領とM26に揺さぶりをかけます。ところが、政治的な駆け引きの機微に疎いウルティアは辞表を受理してしまい、あわてた大統領秘書官がカルドナに辞表を返却し、辞任劇はひとまず収まるという一幕がありました。

 こうした政治的混乱もあって、M26を中心にフィデルの首相就任を求める声が上がり、2月7日、フィデルと大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散せざるを得なくなります。なお、これを機に、1976年までキューバでは選挙が実施されなくなりましたので、事情はどうあれ、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなりました。
 
 そのうえで、2月16日、フィデルは「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任。以後、2008年まで続くフィデルの超長期政権がスタートするのです。

 なお、2月25日付で刊行の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、その後のフィデルと革命キューバについて詳しくご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、実物を手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 2月22日、文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 2月22日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がゲスト・コメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 ビートルズの日
2019-02-04 Mon 01:18
 きょう(4日)は、ザ・ビートルズの愛称“Fab4 (fabulous four:伝説的な 4人)”と2月4日の“Feb4”をかけて、“ビートルズの日”だそうです。というわけで、ビートルズ関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ ジョン・レノン

 これは、2016年3月、ハバナで開催された切手展<Copa Cuba de Filatelia >に際して発行された、キューバ国内の著名人の銅像を題材とした記念切手のうち、ビートルズのメンバーの写真を背景に、ハバナ市内のジョン・レノン像を取り上げた1枚です。

 キューアとジョン・レノンとの関係といえば、しばしば、ジョン・レノンが“ハイスクール時代”を回想して「あのころ世界で一番カッコいいのがエルネスト・チェ・ゲバラだった」と語ったとのエピソードが紹介されていますが、これは歴史的な事実関係とは若干の齟齬があります。

 すなわち、ジョンは、1958年9月に日本の中学・高校に相当するグラマー・スクールのクオリー・バンク校を卒業し、リバプール・カレッジ・オブ・アートに入学していますが、この時点では、キューバは依然としてバティスタ政権の支配下にありました。そして、1959年1月にキューバ革命が達せられたときには、ジョンは同カレッジに在学中でした。ちなみに、ジョンが同カレッジを卒業するのは、1960年7月のことです。

 一方、ゲバラは、革命戦争の時代からキューバ国内では知られた存在でしたが、1959年1月の革命達成の時点では世界的にはほぼ無名の存在でした。たとえば、米国のグラフ誌『ライフ』にゲバラが初めて登場するのは、ソ連副首相のミコヤンがキューバを訪問し、キューバ政府の要人が出迎える場面を撮影した写真が掲載された1960年2月22日号でしたが、この時の写真には、閣僚の一人としてゲバラの姿も写っているものの、キャプションにも本文記事にも彼の名前はありません。

 欧州において、ゲバラの名前を特定したうえで、彼の肖像が流布するようになったのは、英誌『タイム』の1960年8月号の表紙が最初で、それまでの英国社会では、よほど強い関心を持ってキューバ情勢をフォローしていない限り、ゲバラの名前を知っている人はごくわずかでした。大半の英国人は件の『タイム』の表紙でゲバラのことを知ったというのが実情で、おそらく、ジョンもゲバラのことを知ったのは、カレッジの卒業前後に発行された『タイム』の表紙だったと考えるのが自然でしょう。まぁ、人間の記憶なんて曖昧なものだと言ってしまえばそれまでですが…。

 なお、ゲバラのことを“世界で一番カッコいい”と評したジョンの発言が広く巷間に流布していたこともあってか、2000年12月、ジョンの没後20周年を記念してハバナ市内にジョン・レノン公園が開設され、現代キューバを代表する彫刻家のホセ・ビージャ・ソベロンによる銅像(今回ご紹介の切手の銅像です)が設置されました。

 かつて、共産主義諸国ではビートルズは“頽廃的な西側の商業音楽の典型”として、公の場での演奏などは忌避されていましたが、ジョンの場合は、ベトナム反戦運動へのシンパシーや、代表作の一つとされる『イマジン』が左派リベラル色の強い“反戦歌”となっていることも考慮されて、キューバ政府の評価は悪くありません。ちなみに、ジョンの像が腰かけているベンチには、「人は僕を夢見る人というかもしれない。けれどそれは僕だけじゃない」という「イマジン」のフレーズが刻まれています。

 また、フィデル・カストロの側近で、革命後のキューバ外交の第一線でキャリアを積み、国連大使、外相などを歴任し、銅像が設置された2000年当時は人民権力全国会議(国会)議長の地位にあったリカルド・アラルコンは、個人的にジョンのファンだったそうです。

 今回ご紹介の切手の銅像は、こうした事情に加え、“(ゲバラは)世界で一番カッコいい”との発言が“革命のキリスト”としてのゲバラの神格化を補強する役割を果たしていることも加味して設置されたものと考えられます。

 さて、2月25日に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたジョン・レノンとキューバの関係についてもご説明しております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 


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 苺の日
2019-01-15 Tue 12:54
 きょう(15日)は、“いいいちご(115)”の語呂合わせで“苺の日”です。というわけで、きょうは苺ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・苺とチョコレート

 これは、2009年、革命後の全キューバ映画の制作・上映を管理してきたキューバ芸術・映画産業庁(ICAIC)の創立50年を記念して発行された“キューバ映画”の切手のうち、1994年に公開のキューバ・メキシコ・スペイン合作映画『苺とチョコレート』を取り上げた切手シートです。

 『苺とチョコレート』は、共産主義青年同盟(UJS)のメンバーで、(キューバ式)共産主義を信奉する男子学生ダビドと自由主義者で(自称)芸術家のゲイ男性ディエゴとの友情が主題になっています。

 物語は、ハバナのカフェでダビドがチョコレートアイスを食べている時、苺アイスを持ったディエゴから「君のスキャンダル写真を持っている」と声をかけられるところから始まります。写真を返してもらいたいダビドは、しぶしぶ、ディエゴのアパートに向かうと、彼の部屋には、ダビドが理解できないような奇妙な物が並べられており、ディエゴの自由主義的な思想や態度とあいまって、ダビドはおおいに不審を抱きます。学生寮に戻った彼は、UJSの友人ミゲルに相談し、ディエゴを“同性愛者のスパイ”とみなして監視のためにつき合うようになりました。

 しかし、ダビドは、やがて、インテリであり、純粋で温かい人柄と芸術への熱意の持ち主であるディエゴに理解を示し、真の友情をはぐくみますが、最終的に、ディエゴは“同性愛者”として国を追われることになります。そして、2人は彼らが最初に出会ったカフェでお互いのチョコレートアイスとイチゴアイスを交換して食べる場面で幕となります。

 革命当初、カストロ、ゲバラ以下、同性愛(者)を激しく嫌悪していた政府首脳部は、カトリックの価値観を背景に同性愛に対する差別感情が強かった一般市民の支持も得て、同性愛を刑法の規定する“公的破廉恥行為”として処罰の対象としていました。その結果、同性愛者であることが発覚した者は矯正センターに送られて再教育されたり、亡命を余儀なくされることも少なくありませんでした。

 1981年になって、ようやく、文化省が“性の多様性”の観点から、同性愛の排斥を非とする声明を発し、1993年にはカストロも同性愛を(消極的に)容認する姿勢を示すようになったものの、現在なお、キューバでは同性愛者に対する有形無形の差別・迫害は根強く残っているとされています。

 映画『苺とチョコレート』はそうした社会的な背景の下で制作されたもので、各種の国際映画賞でも高い評価を得て、現代キューバを代表する映画作品と見なされるようになり、その結果として、今回ご紹介の切手シートにも取り上げられたというわけです。

 ところで、切手シートには映画の内容を紹介するため、4つの場面が取り上げられていますが、右下には、ダビド役のウラディミール・クルスが「英雄的ゲリラ」の掲げられた部屋にいる場面が取り上げられている点も見逃せません。(下にその部分をトリミングして貼っておきます)

      キューバ・苺とチョコレート

 ここでの「英雄的ゲリラ」は、ダビドがUJSのメンバーであり、キューバ政府の考える“正しき青年”であり、確固たる共産主義者であることを暗示する小道具として用いられているのは明らかで、ゲバラの死後、“革命のキリスト像”ともいうべき「英雄的ゲリラ」がどのようにキューバ社会で活用されてきたかを考えるうえで、なかなか興味深いものがあります。

 さて、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、ゲバラの死後、彼の肖像がどのように使われ、定着していったかということについてもまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★

 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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