内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 切手に見るソウルと韓国:鎮海の桜
2015-04-04 Sat 23:38
 『東洋経済日報』4月3日号が発行されました。今回は、桜の時期に合わせて、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

       鎮海・風景印

 これは、日本統治時代の朝鮮・鎮海で使用された風景印のオンピースです。

 韓国で桜の名所といえば、軍港の町として知られる慶尚南道の鎮海が有名です。

 1904年2月、日露戦争が勃発すると、日本海軍は鎮海湾一帯を掌握し、湾の南に位置する巨済島に拠点を築き、翌1905年の日本海海戦に際しては、鎮海湾は日本海軍の艦隊集結地となりました。

 こうした経緯を経て、1910年にはじまる日本の統治下で、現在の場所に鎮海軍港の建設が始まります。

 軍港を中心とした都市計画が進められていく中で、当初、日本海軍は2万本の桜を植樹しましたが、その後、1916年までに合計10万本の桜の苗木が植えられました。このため、現在のような組織だった“桜祭り”こそ行われなかったものの、1926年に鉄道の鎮海線が開通すると、花見の季節には鋲海行きの臨時列車が運行され、京城・大邱・釜山方面からも花見客が訪れで大いに賑わいました。

 今回ご紹介の風景印は、桜の名所としての鎮海のイメージしたもので、軍港と日本海海戦記念塔を描いたデザインです。

 日本海海戦記念塔は、1929年、鎮海市街地を一望する兜山(現・帝王山)の上に建立され、そのデザインは、連合艦隊の旗艦であった戦艦「三笠」の艦橋を模したものと言われています。山頂の塔に至る途中には公園が造成されており、公園から塔までの階段は、日露戦争の別称である“明治三七-八年戦役”にちなんで、37段の階段が設けられていました。

 解放後、戦勝記念塔は撤去され、跡地には鎮海博物館が建てられたほか、新たに365段の“1年階段”が作られています。

 また、解放後、鎮海にあった旧日本海軍の施設は、1945年11月11日、元商船船員らによって組織された“朝鮮沿岸警備隊(現在の大韓民国海軍の前身)”に継承され、1946年には海軍士官学校が1949年には海兵隊が、この地で設立されました。

 一方、日本時代に植えられた大量の桜に関しては、解放後の経済的な混乱の中で“日帝残滓”との名目をつけて伐採され、燃料などとして利用されています。

 しかし、1962年、ソメイヨシノの原産地が済州であるとの珍説(ただし、実際には、ソメイヨシノは、いずれも日本原産種のエドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれた日本産の園芸品種で、済州島の王桜とは無関係)が紹介され、これを信じる韓国人も少なくなかったことから、桜に対する再評価が始まりました。

 さらに、1965年、日本との国交が正常化されたことを受け、1966年以降、当時、NHKでニュース番組を担当していた在日韓国人の文泰一を中心に、在日韓国人と日本人ジャーナリスト、植物学者、さらには電通や日本航空などの日本企業の協賛名義で鎮海市へ桜の苗木を寄贈する運動が始まります。

 文らの運動に対しては、日本による“文化的侵略”だとの心無い批判もありましたが、1974年には、朴正熙大統領が自ら音頭を取って桜の植樹運動が大々的に展開され、批判も鎮まりました。

 ちなみに、現在、鎮海市全域には22万本の桜の木が植えられており、4月1-10日の“鎮海軍港祭”は韓国最大の桜祭りとして、韓国全土から多くの見物客で賑わっています。

 * 本日の切手市場は、無事、盛況のうちに終了しました。ご参加いただきました皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。

 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・4月25日(土) 11:00-12:00 スタンプショウ
 於 東京都立産業貿易センター台東館(浅草) 特設会場
 出版記念のトークを行います。入場は完全に無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。スタンプショウについての詳細はこちらをご覧ください。


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         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 切手に描かれたソウル:朝鮮ホテル
2014-11-28 Fri 11:40
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、、『東洋経済日報』10月31日号が発行されました。僕の月1連載「切手に描かれたソウル」では、今回は、この10月に朝鮮ホテル(現ウェスティン朝鮮ホテル)が創業100周年を迎えたということで、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      朝鮮ホテル・カバー

 これは、1929年9月9日、朝鮮ホテルの封筒を使って京城から米国宛に差し出されたカバーです。

 旧朝鮮王朝時代、ソウルには西洋人を対象にした西洋式のホテルはありませんでした。このため、1910年に朝鮮統治を開始した日本の総督府は、諸外国からの賓客に対応すべく、西洋式ホテルの建設を計画します。

 建設用地としては、1897年に朝鮮国王だった高宗が大韓帝国皇帝として即位する際に祭天が行われた圜丘壇の敷地があてられることになりました。鉄道の京城駅(現ソウル駅)から近いというロケーションに加え、日韓併合により、新たな皇帝が即位する可能性がなくなったと考えられたためです。

 開業したホテルは朝鮮総督府鉄道の付属施設でしたが、外国の要人をもてなすための迎賓館という位置づけでもありました。このため、当時の朝鮮総督府の威信をかけて、朝鮮半島初のエレベーターが設置されたほか、開業当時は日本国内でも珍しかったアイスクリームも販売されています。

 今回ご紹介の封筒にはホテル外観のイラストが印刷されており、旧圜丘壇の敷地内にあった楼閣、皇穹宇(現在でもホテルの敷地内に残されています)が左側に見えます。ホテルの住所表示が“KEIJO(SEOUL) CHOSEN(KOREA)”としか書かれていませんが、これは、朝鮮半島を代表するホテルとして、細かい番地など書かなくても不便はないとの自信の表れでしょう。

 その後、戦時下においても朝鮮ホテルは通常通り営業を続けます。1945年8月の解放後、ソウルに進駐してきた米軍は、当初、朝鮮ホテルに軍政庁司令部を置き、ホテルの運営も米軍が主導することになりました。ちなみに、米国から帰国し“米国とのコネクション”を強調することで大韓民国の初代大統領となった李承晩の事務所も、朝鮮ホテル内に置かれています。

 1948年8月、大韓民国が正式に発足すると、朝鮮ホテルの運営権は韓国人に移され、その際、ホテル名のローマ字表記は、日本語の“Chosen Hotel”から韓国語の“Chosun Hotel”に変更されましたが、“朝鮮”の名前そのものは継承されました。また、朝鮮戦争中の1950年には、南侵してきた朝鮮人民軍の占領下でホテルも北朝鮮に接収されるなど苦難の時期を体験しています。

 現在のホテルの建物は、1970年に建てかえられたもの。米国の大手ホテルチェーンのウェスティン・ホテルズと提携し、現在の名称の“ウェスティン朝鮮ホテル”と改称されたのは、1981年のことでした。

 なお、1995年、ホテルの韓国側の資本は、新世界百貨店(ソウルの本店は日本統治時代の1930年に三越京城店として開業)を経営する新世界グループがすべて買収し、現在に至っています。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(12月は都合によりお休みです)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 セリーグは巨人が優勝
2014-09-27 Sat 11:16
 プロ野球のセリーグは巨人がリーグ優勝しました。というわけで、僕の最新作『朝鮮戦争』にちなんで、きょうは朝鮮半島の“巨人”ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

      論山風景印

 これは、日本統治時代の朝鮮・論山で使用された風景印で、韓国最大の石仏として知られる灌燭寺の弥勒菩薩が描かれています。

 灌燭寺は忠清南道論山市の古刹で、境内にある高さ18.12mの石仏は、高麗時代の968年から建設が開始され、1006年に完成しました。

 この石仏の縁起としては、次のような伝説が残されています。すなわち、ある日一人の女性が般若山にワラビを採りに行ったところ、子供の泣き声が聞こえてきたので見てみると、子供はなく、地中から巨大な岩が盛り上がっていました。この知らせを聞いた王はそびえ立つ岩に仏像を造成​​するよう指示し、石仏がつくられたということです。

 なお、一般に菩薩像は、釈迦が出家する以前の例にならい、古代インドの貴族の姿を表現したものが多いのですが、この像は、角帽のような2段の宝冠が高麗独特の風貌となっているのが特徴です。また、両手は胸まで持ち上げて、片手には花枝を持ち、左手は親指と中指を突き合わせているが、これは阿弥陀如来の印相を表現したものと考えられています。

 なお、日本では弥勒菩薩というと半跏思惟像のイメージが強いのですが、世界各国にはさまざまなスタイルの弥勒菩薩像があります。それらについては、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 10月から、毎月1回(原則第1火曜日:10月7日、11月4日、1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・現代コリア事情 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 これから帰国します
2009-08-05 Wed 08:17
 早いもので、今回のソウル滞在も最終日となりました、30日から始まったアジア国際切手展<PHILAKOREA2009>も昨日(4日)で閉幕し、きょうはお昼前の便で東京に戻ります。というわけで、無事に日本にたどりつけるよう、今回の出品作品“Greater East Asia after Japanese Withdrawal”のなかから、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 麗水:戦前→戦後

 これは、終戦10日前の1945年8月5日、朝鮮半島南部の麗水から仙台宛てに差し出された葉書です。“朝鮮隼第9877部隊”からの差出で、“軍事郵便“の表示の入ったはがきが使われていますが、朝鮮は終戦まで“戦地”ではありませんので、通常の有料郵便物として扱われています。

 この葉書が差し出された戦争末期は、日本側は完全に制海権を失っており、玄界灘をわたって朝鮮半島から日本本土に郵便を届けるのも容易なことではありませんでした。このため、この葉書も機会をうかがっているうちに終戦となってしまい、終戦後、連合国の占領下で検閲を受けた後に名宛人に配達されたものと思われます。ちなみに、金魚鉢型の検閲印の上部にはCCDJ-109との検閲担当者のコード番号の印が入っていますが、末尾のJは担当者が日本人であることを示しています。

 偶然ではありますが、きょうはこの葉書の消印と同じ8月5日です。戦前と戦後をまたいでもきちんと宛先まで届いたこの葉書にあやかって、僕も無事日本に帰りつきたいものです。

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 韓国のクリスマスシール
2008-12-24 Wed 18:19
 今日はクリスマス・イブです。というわけで、こんなモノをもってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

 韓国・クリスマスシール

 これは、1936年に朝鮮クリスマスシール委員会が作成した「朝鮮クリスマスシール5周年」のリーフレットで、1932-33年用から1936-37年用までの5種類のクリスマスシールが刷り込まれています。

 結核の予防と治療の募金を集めるための複十字シール運動は1904年にデンマークで始まり、世界各国に広がりましたが、クリスマス柄のものも多いため、“クリスマス・シール”と呼ばれることもあります。この運動は1925年にはわが国でも開始され、1932年には、朝鮮総督府の要請により、カナダ人宣教師のシャーウッド・ホールにより朝鮮でも最初のクリスマスシールが発行されています。

 ホールはソウル駐在の宣教師一家に生まれ、医学を学ぶためにカナダの大学に通ったものの、卒業後は日本統治下の朝鮮に戻り、1928年、海州(現在は北朝鮮領)に結核の療養施設・海州救世療養院を設立しました。

 最初のクリスマスシール(1932-33年用)は、海州救世療養院の名前で発行されたものでソウルの南大門を描く2色刷りのモノでしたが、翌1933-34年用のものから、朝鮮クリスマスシール委員会の名義で朝鮮の風俗を描く多色刷のものが発行されるようになりました。シールの名称は、最初の2回は“XMAS AND NEW YEAR GREETINGS”になっていますが、次の2回は“SEASONS GREETINGS”に、5回目は“HOLIDAY GREETINGS”に変わっています。題材は、2回目こそ讃美歌を歌う民族衣装の少年少女といかにもキリスト教色の濃いものですが、3回目以降は子どもをおぶう母親や、伝統的な板跳び(シーソー)、凧揚げなど、朝鮮の伝統的な風俗を紹介するものとなりました。おそらく、クリスマスと並んで、年賀状に貼るという需要が多かったためでしょう。

 その後、日本統治下の朝鮮では、クリスマスシールは1940年まで発行されますが、戦争の影響で1941年の分は発行されずに終わりました。その後、大韓民国建国後の1949年には発行が再開されるものの、翌1950年6月に朝鮮戦争が勃発したため再び発行は中断。戦況が落ち着いた1952年から再び発行が再開され、現在に至っています。

 今回ご紹介のクリスマスシールは、直接的には郵便事業に関するものではないのですが、切手を意識して発行されているもので、韓国を代表する切手カタログ『韓国郵票圖鑑』には毎年採録されています。まぁ、準フィラテリックマテリアルということでご紹介してみました。


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* 内容の一部は、このブログの年賀カテゴリーでもご覧になれます。なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。

 おかげさまで売れてます! 
 おかげさまで、売れ行き好調です。アマゾンでは一時的に在庫切れ(24日18:00現在)となり、ご迷惑をおかけしておりますが、bk17&Y紀伊国屋書店には在庫があるようですので、すぐに対応できると思います。なお、日本郵政本社ビル・ポスタルショップでは、『年賀切手』の販売特設コーナー(下の画像:山内和彦さん撮影)も作っていただきました。

 日本郵政特設コーナー 
 
 
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 開城観光中断
2008-11-25 Tue 18:17
 韓国の李明博政権による“一方的な対北支援の見直し”を不満とする北朝鮮が、きのう(24日)、昨年(2007年)12月以来の開城観光の中断をはじめ、開城工業団地と金剛山観光地区の当局関連機関の企業と常駐人員の選別追放、南北縦断列車の運行中止などを韓国側に通告してきました。 というわけで、今日は開城ネタとして、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 開城・風景印

 これは、日本統治時代の開城で使われた風景印(日付は1933年11月2日)で、古都・開城の名所として善竹橋に楼閣と、開城名物とされた朝鮮人参が描かれています。

 日本統治下での朝鮮では1931年10月20日から、各地の名所旧跡や名産品などを描いた風景印が使用されていますが、今回ご紹介の開城局は、以前ご紹介した東莱温泉局とともに、最初の使用局のひとつです。

 開城は北朝鮮南西部、38度線のすぐ南にある都市で、919年、当時、松嶽と呼ばれていたこの地に高麗王朝が遷都したことから歴史の表舞台に登場します。その後、元の支配下で、これに抵抗した高麗王が江華島に移った時期(1232-1270)もありましたが、1392年に李氏朝鮮が成立し、都がソウルに移るまで、開城は高麗の都でした。このため、市外北西の万寿山一帯には、高麗時代の王陵が数多く残されています。

 風景印に取り上げられている善竹橋は長さ6.67mの石橋で、現在でも残されています。“高麗王朝最後の忠臣”といわれる鄭夢周が、「何如歌」を歌って新王朝への協力を勧めた李芳遠に対して、「丹心歌」で応じてきっぱりと断ったため、暗殺された場所として有名で、開城観光の目玉のひとつでした。石床には赤い跡があり、忠臣の血が滲んだ跡とされています。実際には、石中の鉄分が酸化した跡に過ぎないのですが、まぁ、そのあたりを指摘するのは野暮というものでしょう。

 高麗の滅亡後、旧高麗の遺臣たちは政治には関与せず(できず)、商業活動に専念したため、開城は商業都市として発展。開城商人は朝鮮人参・陶器・衣類などの行商で活躍し、李氏朝鮮における物流の重要な担い手となりました。特に、朝鮮人参に関しては、14世紀に開城で人工栽培が初めて本格的に行われるようになったこともあり、戦前までの開城はその集散地となっていました。風景印の朝鮮人参は、そうした事情を踏まえたものでしょう。

 第2次大戦後は、米軍占領下に置かれ、当初は大韓民国の領内にありましたが、朝鮮戦争の後、北朝鮮に編入され、現在に至っています。

 古都・開城への観光ツアーは、平壌から入るルートと、ソウルから南北の軍事境界線を越えて入るルートの二通りがありますが、このうち、ソウルからのルートは、2007年12月に本格的に始まり、これまでに約11万人が訪れています。ソウルからはバスで約2時間ということもあって、日帰り観光としての人気も高く、使用通貨が米ドルだけということもあって、北朝鮮の外貨獲得源になっています。

 また、太陽政策の成果とされる開城工業団地には、現在、製造業75社など116社が進出しており、今年7月には団地で働く北朝鮮の労働者が3万人を突破。総生産額は1億8500万ドルにも達しており、こちらも、北朝鮮にとっては重要な収入源になっています。

 今回の北朝鮮の強硬姿勢には、国連の北朝鮮人権決議で韓国が共同提案国になったことへの反発や、体制引き締めの意図があると指摘されています。もちろん、北朝鮮側の強硬姿勢により、韓国世論が動揺すれば、李明博政権の基盤も弱まり、北朝鮮側は南北交渉において優位に立ちうるという面もあります。

 まぁ、韓国の北朝鮮ビジネスを独占してきた現代峨山にとっては大打撃でしょうが、開城問題での強硬姿勢は、長期的には韓国よりも北朝鮮にとってのダメージの方が大きいわけですから、ここは「待つのも戦略だ」とする李大統領の方針が得策なんでしょうね。


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 韓国の温泉マーク
2008-03-26 Wed 22:34
 韓国の行政安全部(旧行政自治部)が24日、日本時代以来100年にわたって使われてきた従来の温泉マークにかわり、新しいマークを採用し、今後は温泉業以外の業者が使用した場合(いままでは温泉業だけでなく、宿泊業者や銭湯など区分なしに使われてきた)、2年以下の懲役または1000万ウォン以下の罰金が科すことにしたそうです。

 というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東莱温泉
 
 これは、日本統治時代の1931年11月8日、釜山郊外の東莱温泉局で使用された風景印です。

 その土地の名所旧跡やゆかりの人物、特産品などをあしらった風景印は、日本本土では1931年7月10日から使用が開始されましたが、日本統治下での朝鮮では同年10月20日から使用開始となりました。最初の使用局は、今回ご紹介の東莱温泉の他、東莱、元山、朱乙、朱乙温泉、開城、慶州、仏国寺の各局で、京城(現・ソウル)での使用開始は同年11月1日です。

 さて、東莱温泉は現在の韓国の行政区域でいう釜山広域市東莱区にある温泉で、高麗の僧侶である一然 が書いた『三国遺事』には、新羅31代新文王3年(683年)に宰相の忠元公が東莱温泉で沐浴をしたとの記述があります。また、これとは別に、千数百年前、東莱村の脚が不自由な老婆が、この温泉の場所にとまった鶴が脚の怪我を治したのを見て、ここに薬泉があることを発見したとの伝説も伝えられています。いずれにせよ、古来、王族が湯治に訪れていた温泉であることは間違いないようです。

 ただし、前近代の朝鮮においては、温泉を愛好するという習慣はほとんどなく、東莱温泉についても、その本格的な開発は李氏朝鮮末期から日本統治時代にかけてのことで、観光地としての歴史は必ずしも古いものとはいえません。

 今回ご紹介の風景印のデザインは、逓信省の発表では「南鮮の三大名刹の一、梵魚寺の山門と東莱温泉場」と説明されていますが、我々からすると、局名表示にしっかりと“温泉”の文字が入っており、いわゆる温泉マークも描かれているのが嬉しいところです。

 ちなみに、この風景印では、温泉マークの周囲に桜と思しき花のシルエットが描かれていますが、実際の東莱温泉では、現在でも桜を見ながら露天風呂につかるということが可能なんでしょうかねぇ。もし、可能なら、一生に一度くらいは、そういう風流な体験をしてみたいものです。

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 神功皇后の絵葉書
2008-01-18 Fri 11:35
 歴代天皇や皇族を埋葬した陵墓について「御霊の安寧と静謐を守るため」などとして学術調査を認めてこなかった宮内庁が、17日、古墳時代のものとされる奈良市の神功皇后陵(五社神古墳)の立ち入り調査を許可することを決めたそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 朝鮮総督府始政絵葉書(神功皇后)

 これは、1910年に朝鮮総督府による朝鮮支配が始まったことを記念して総督府が発行した記念絵葉書の1枚で、切手が貼られて仁川の特印が押されています。絵葉書に描かれているのは、神功皇后と香椎宮です。朝鮮総督府の始政記念の絵葉書に神功皇后と香椎宮が取り上げられているのは、いうまでもなく、現実の朝鮮支配を伝説の三韓征伐と結びつけようというロジックによるものです。

 記紀神話に記されている神功皇后の事蹟については、以前の記事でもご紹介しましたが、一言でいうと、神託を受けて新羅に遠征し、これを平定して凱旋した後、誉田別命(後の応神天皇)を出産。その後、大和に戻り、仲哀天皇の他の二人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて摂政として善政を敷いたというものです。

 絵葉書に取り上げられている香椎宮は福岡県福岡市東区にある神社で、神功皇后が自ら祠を建て仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源とされています。なお、御祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神で、三韓征伐の主要メンバーが網羅された格好になっています。

 さて、絵葉書の神功皇后の肖像は、旧高額切手に取り上げられたものと同じで、印刷局の女子工員をモデルに、キヨッソーネが描いたものが元になっていますが、凹版印刷が見事な旧高額切手と比べると見劣りするのは致し方ないでしょう。

 神功皇后の肖像については、関東大震災後に発行された新高額切手では“考古学的な考証”を加えて修正されたことになっていますが、切手に描かれている直弧紋が実際に神功皇后陵の内部にも描かれているかどうか、収集家としては、今回認められた調査の結果がちょっと気になるところです。

 なお、明治以降の神功皇后イメージの変遷については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、よろしかったら、こちらもご一読いただけると幸いです。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 満鉄初代総裁にちなんで
2007-07-24 Tue 00:55
 後藤新平が1857年7月24日(和暦だと安政4年6月4日)に生れてから、今日でちょうど150年になります。後藤には、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(現・NHK)初代総裁など、さまざまな肩書きがありますが、今日はその中から満鉄がらみのモノということで、こんなマテリアルを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

満鉄葉書

 これは、1914年1月25日、日本の植民地であった朝鮮・京城(現ソウル)からベルギーのリエージュ宛に差し出されたもので、満鉄によって運ばれたことを示す楕円形の印が押されています。

 日清戦争後の1896年、三国干渉で日本から遼島半島を還付させたことの見返りとして、帝政ロシアはモスクワ=ウラジオストック間を結ぶシベリア鉄道の短絡線として、チタ=満洲里=綏芬河=グロデコヴィというルートを通って満洲の地を横切る東清鉄道(清朝の東という意味で“東清鉄道” と呼ばれた)の敷設権を獲得します。

 東清鉄道の本線は満州里からグロデコヴォ間の1510キロでしたが、シベリア鉄道本線と連結させるために、西側には満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザバイカル鉄道(355キロ)、東側にはグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道(97キロ)も建設されました。また、ロシアが1898年に旅順・大連を租借すると、東清鉄道の途中駅であった哈爾浜から長春=奉天=大連を経て旅順へといたる772キロの南満洲支線も建設されています。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得しました。

 これらの鉄道を経営し、それに付随するさまざまな業務(付属地経営など)を担当する国策会社として1906年に設立されたのが、南満洲鉄道株式会社、すなわち、いわゆる満鉄です。

 ロシア側と接続する満鉄の急行列車には、1911年9月1日から第1および第2移動郵便局が設けられ、外国郵便物の取り扱いが開始されました。これに伴い、これらの移動郵便局で取り扱ったことを示すために、この葉書に押されているような楕円形の印が、外国からの、または外国宛の郵便物に押されるようになります。この葉書に押されている印には、上段には“I.J.P.O.1(Imperial Japanese Post Office 1:第1大日本帝国郵便局) MUKDEN-CHANGCHUN(奉天=長春間)”、下段には“SOUTH MANCHURIA(南満洲)”との表示が入っています。

 葉書は、朝鮮半島を北上して国境の町である新義州まで運ばれた後、鴨緑江鉄橋(日本が朝鮮を植民地化した翌年の1911年に完成)で国境を渡り、安東から満鉄の安奉線に載せられて奉天を経由して長春まで運ばれ、ロシア側に引き渡されてヨーロッパまで運ばれたというわけです。
 
 なお、その後の満鉄と郵便に関しては、昨年刊行の拙著『満洲切手』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 “終戦の日”の葉書
2005-08-15 Mon 10:29
 今日は、なんといっても戦後60年の終戦記念日ですから、それにちなんで、“終戦の日”当日に差し出された1枚の葉書をご紹介しましょう。

終戦の日の葉書

終戦の日の葉書ウラ

 葉書は、当時、日本の植民地であった朝鮮の木浦から同じく朝鮮半島内の槐山宛に差し出されたものです。日本統治下の朝鮮では、日本本土と全く同じ切手・葉書が使われており、料金体系も同じです。したがって、この葉書も、当時、日本国内で使われていたものと基本的には同じものです。なお、画像では見にくいのですが、当時の葉書料金は5銭だったので、葉書の額面との差額分の2銭の料金を収納したことを示す赤い印が薄く押されています。

 差出人の姓は日本風に“山木”となっていますが、名宛人は差出人の父親であることが裏側の文面からも分かりますから、もともとは“朴”だったことは間違いありません。文面は日本語で書かれており、「御陰様にて毎日の軍務に精勵なる故御放念下さいませ」との記述も見られます。おそらく、この差出人は、葉書を書いた時点では、戦争はしばらく続くものと考えていたのでしょう。

 その後、朝鮮半島は米ソによって分割占領されますが、米軍占領下の南朝鮮(1948年の大韓民国成立以前は、この呼び名が正式名称です)では、しばらくの間、日本時代の切手がそのまま使われています。

 現在の我々の感覚では、どうしても8月15日=終戦の日というイメージが強くて、8月14日と8月16日とではまったく別の世界になったような錯覚を持ってしまいがちですが、実際の人々の生活というものは、そうそうデジタルに割り切って変化するものではありません。終戦後も朝鮮半島で使われていた日本時代の切手や葉書を目にすると、そうした当たり前の現実を再認識させられます。

 さて、今朝起きてパソコンを立ち上げたところ、このブログへのアクセスカウンターが1万を越えていました。毎日遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。

 これからも、5万アクセス、10万アクセスをめざして、皆様にお読みいただけるよう努力していきますので、なにとぞ、よろしくお願いいたします。
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