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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 タイ洞窟、少年ら全員無事救出
2018-07-11 Wed 02:13
 先月23日以来、タイ北部チェンラーイ郊外のタムルアン洞窟に閉じ込められた地元サッカーチームの少年12人とコーチ1人が、きのう(10日)、タイ海軍特殊部隊などで構成された潜水士らにより、無事、全員救出されました。というわけで、チェンラーイにちなんで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ワット・ロンクン(2013)

 これは、2013年にバンコクで開催された世界切手展<Thailand 2013>に際してタイが発行した記念切手のうち、ワット・ロンクンを取り上げた1枚です。

 ワット・ロンクンはチェンラーイ市街地から約14キロの地点にあり、1997年、チャルムチャイ・コーシッピパットの設計により建立されました。

 タイの寺院の多くは、迷いを除いて願いをかなえ、人々を喜ばせる色として黄金に彩色されていますが、ワット・ロンクンでは、仏陀の清浄さを象徴する純白の壁面に微妙に色が異なる銀色のガラスタイルがはめ込まれています。ガラスタイルが角度によってさまざまな光を放つさまは、“真の光(仏の光)”は一切の影を作らず、全宇宙に広がり、あまねく衆生に降りそそぐことを表現したのだそうです。

 また、画面右側の橋は“輪廻転生の橋”と名付けられていますが、これは、橋のたもと(切手の画面には入っていません)の周囲に地獄を表現するオブジェを配し、そこから橋を渡って本堂(=天国)に入ることで、参拝者が魂の宮宰のプロセスを意識できるとのコンセプトに由来しています。そして、堂内に入ると、壁面にはバットマン、スーパーマン、プレデター、マトリックスなどポップカルチャーに由来のするモチーフが、仏教的な善悪を表現するよう描かれています。

 なお、ワット・ロンクンは現在なお建築中で、最終的には、塔や庵などを含めて9つの建物が建設される予定です。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 泰国郵便学(54)
2018-06-16 Sat 10:55
 公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第52巻第3号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・鉄道80年5バーツ

 これは、1977年3月26日に発行された“官営鉄道開業80周年”の記念切手のうち、ハノマーク(ハノーファーシェ・マシネンバウ)社製の蒸気機関車を描く5バーツ切手です。

 1885年、漢族ホー(太平天国の残党といわれている武装集団)がタイの宗主権下にあったヴィエンチャンに侵入し、盗賊事件を働く襲撃事件が発生。このため、タイは鎮圧のために6700名を派兵します。その際、724トンのコメを含む食糧を輸送するため、象約180頭、牛500頭がバンコクを出発しましたが、そのうち、目的地に輸送できたのはわずか8トンしかありませんでした。

 さらに、時を同じくして、英仏両国がタイ領内を通過して雲南方面へと抜ける鉄道の建設を計画していたことから、それらが実現されればタイの北部が英仏両国の手に落ちる可能性もおありました。

 このため、タイ政府は、領土防衛のためには、安定した国内輸送機関として、鉄道を建設することの重要性を認識。外務省を中心に研究が開始され、1888年には元海峡植民地(マラッカペナンシンガポール等で構成)総督で、英領ヴィクトリア植民地(現オーストラリア・ヴィクトリア州)での鉄道建設にかかわった経験があるアンドリュー・クラークに鉄道建設計画の策定を委嘱。さらに、1888年11月には、タイにとって直接的な脅威とはならないと見られたドイツのクルップ社からカール・ベートゲを招いて実地調査を行いました。

 その結果を踏まえて、バンコクからサラブリーを経て、ナコーンラーチャシーマーに至る鉄道の建設が決定され、翌1890年、公共事業省内にベートゲを局長として王立鉄道局が設立され、1891年3月9日には、ラーマ5世がバンコク=ナコーンラーチャシーマー間の鉄道建設計画の勅命を発しました。

 これと並行して、1886年9月、タイ政府の水路技師であった英国人、アルフレッド・ジョン・ロフトスと海軍副司令官でデンマーク人のリシュリューに対してバンコク=パークナーム間およびバンコク=パーンマイ間の鉄道免許が交付され、さらに翌1887年5月には、彼らにバンコク市内軌道の免許が交付され、1891年7月、パークナーム鉄道が着工。1893年4月11日、タイ最初の鉄道として、パークナーム鉄道が開業していました。

 さて、バンコク=ナコーンラーチャシーマー間の鉄道建設に関しては、1891年、ナコーンラーチャシーマー鉄道会社が設立され、英国企業のマレイ・キャンベル社が工事を受注し、1892年3月9日に着工。1896年9月1日にはナコーンラーチャシーマー鉄道会社が国営化され、1897年3月26日、バンコク市内のクルンテープ駅とアユッタヤー間で官営鉄道が開業します。

 この時開業したのは、クルンテープ、バーンスー、ラックシー、ラックホック、 クローンランシット、チアンラック、バーンパイン、アユッタヤーの8駅で、その後、複数回の延伸により、1900年12月21日、ナコーンラーチャシーマーまでの全線が完成しました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた機関車を製造したハノマーク社は、1835年、ゲオルグ・イーゲシュトルフが設立。小型蒸気機関の製造から出発して、すぐに農業機械の製造を開始し、1846年にはハノーファー州鉄道向けに最初の蒸気機関車を製造しました。1870年には500両を製造し、1905年には自動車の製造(当初は蒸気自動車)にも乗り出しましたが、1920年代末には鉄道機関車部門をヘンシェル社に売却しています。

 タイの鉄道は、上述のように、草創期においてドイツ人の果たした役割が大きく、それゆえ、ドイツからの機関車の輸入も多く、1909年までに計49両のドイツ製車両がタイの官営鉄道を走っていました。この切手の題材も、そうした初期のドイツ製蒸気機関車を象徴するものとして、選ばれたものと考えられます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 泰国郵便学(53)
2018-03-14 Wed 00:24
 ★★★ 緊急告知!★★★

 あす(15日・木)15:10頃~ NHKラジオ第1放送の「NHKごごラジ!パイロット」の「マニア的電話座談会」のコーナーに、内藤が電話出演します。テーマ(予定)は「好きなことを続けるためのマイルール」です。よろしかったら、ぜひお聴きください。
 なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第52巻第1号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・チャクリー宮殿(1976)  

 これは、1976年12月5日、国王ラーマ9世の誕生日にあわせて発行された宮殿シリーズのうち、チャクリー・マハー・プラーサート宮殿(チャクリー宮殿)を取り上げた2バーツ切手です。ついでですので、2013年に撮影した宮殿の実物の写真も下に貼っておきます。

      バンコク・チャクリー宮殿(2013実物)

 1976年はラーマ9世の即位30周年にあたっていましたが、そのことを直接記念する切手は発行されませんでした。ただし、おそらくその代替として、同年の国王誕生日にあたる12月5日、王宮の宮殿を題材とした4種セットの切手(宮殿シリーズ)が発行されています。

 1973年の10月14日事件以降、民主化が進行していく中で、石油危機とヴェトナム戦争終結による軍需景気の終焉により経済状況は悪化。労働組合の抗議活動によってモムラーチャウォン、セーニー・プラーモート連立政権が譲歩を迫られると、保守派や軍部は政府の弱腰を批判し、それを学生らが“民主主義の危機”と糾弾して集会を呼びかけるなど、情勢は混沌としていました。

 また、1975年にはヴェトナム戦争の終結からわずか7ヶ月余の間に、インドシナ三国が相次いで共産化します。これを受けて、タイ社会には、米軍がヴェトナム戦争に介入した大義名分、共産化ドミノ理論は“正しかった”のであり、共産化の波がタイにも押し寄せるのではないかとの不安が広がり、急進的な民主化にはブレーキをかけるべきとの空気が充満。1976年の総選挙では保守派が前年の選挙を大幅に上回って勝利しました。

 こうした中で、総選挙後の議会混乱から軍事クーデターが噂されるようになると、タイ全国学生センター(NSTC)執行部は“民主主義擁護”を掲げ、政府の経済対策強化、日本製品不買運動(貿易赤字対策)、タイ駐留米軍への抗議などの集会を頻繁に開催し、労組活動家や左派系市民を動員しましたが、穏健派の中産階級は彼らを支持せず、その結果、孤立した左派勢力はますます先鋭化していきます。

 一方、左派勢力の伸長に対して、国内治安維持部隊(1965年に発足のコミュニスト制圧部隊が、1973年の政変を経て改組された組織)が反共準軍事組織の“クラティンデーン(赤い野牛)”を組織したほか、1974年10月には「共産主義者を殺すことは仏法にかなう」と主張するキティウッドが“ナワポン(9つの新しい力)”を結成。さらに、1975年には、王室の援助賛同の下、農村部の住民を組織してビレッジ・スカウトが結成されました。ビレッジ・スカウトは、警察などの活動を支援する自警団組織で、王室から下賜された制服とネッカチーフを着用し、農村部での左派活動家のオルグ活動を阻止しています。

 クラティンデーンは、1975年8月、学生運動の拠点だったタンマサート大学を襲撃したほか、1976年2月15日には新勢力党本部を爆破。さらに、3月3日にはラーマ6世技術学校爆破事件、6月10日にはNSTC機関紙印刷所爆破事件などが右派組織によって起きています。

 1976年8月16日、1973年の政変で亡命したプラパート・チャルサティエン元副首相が帰国すると、翌17日、これに反対するNSTCは王宮前広場に約1万人を動員して、元副首相の断罪を求める集会を開催。これに対して、8月21日、右派活動家がタンマサート大学構内で学生を襲撃し、2名が死亡、36人が負傷した。プラパートは国王の説諭を受け、翌22日に台北に出国しました。

 一方、おなじく1973年の政変後、米国に亡命していたタノーム・キッティカチョーン元首相はシンガポールに移り、「高齢の父親の看病と、母親の付き添い介助」を理由にタイ政府に対して帰国を申請。プラパートの先例から治安の悪化を懸念する政府はこれを拒絶しましたが、タノームはシンガポール市内のタイ系仏教寺院で出家し、9月19日、僧侶として強引に帰国します。

 これに対して、9月25日、バンコク近郊のナコーンパトムでタノームの帰国に抗議するポスターを貼っていた地方配電公社の労組活動家2人が殺害される事件が発生。10月4日、シースック警察局長は現職警察官の事件への関与を認めたため、同日、NSTCはタンマサート大学のサッカー場で抗議集会を開催。その際、労組活動家殺害事件を題材とした寸劇が上演され、その模様は新聞に写真つきで報じられました。

 すると、翌5日、クラティンデーンとナワポンの活動家は、新聞に掲載された犯人役がワチラーロンコーン王子に似ているのは王室侮辱であるとして、大学を包囲して抗議活動を展開。学生側は引き続き徹夜で集会を続けていましたが、6日朝、国境警備警察と右派集団が構内に突入し、二方向から武装と火器で集会参加者を攻撃し、多数の犠牲者が発生。午前11時頃までに、少なくとも46名が死亡、167名が負傷し、集会参加者の約1000人は反乱分子として警察に連行されました。

 事件後の6日午後6時、海軍大将で国防相のサガット・チャローユーは、①王制を破壊し、国家を転覆させようとする共産主義者がヴェトナム人と結託して警察を攻撃した、②一部の閣僚、政治家やマスコミ機関が共産主義者を支援して混乱を拡大させたが現政府はこの危機に対処する能力がない、として軍事クーデターを宣言し、セーニー・プラーモート政権に代わる国家統治改革評議会を設置し、新首相として元最高裁判所判事のターニン・クライウィチエンを擁立します。

 いわゆる“血の水曜日事件”です。

 事件後、社会的な安定の回復を急務としていた改革評議会は、国民統合の象徴としての王室の権威を最大限に活用します。その意味では、今回ご紹介の切手を含む“宮殿シリーズ”の切手もまた、事件の記憶も生々しい12月5日の国王誕生日にあわせて発行され、結果的に政権を支えるプロパガンダの役割を果たすことになったと言ってよいでしょう。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられているチャクリー宮殿は、バンコクの王宮の敷地のほぼ中央に位置しており、同宮殿から南の方向へ付属の宮殿群が展開するレイアウトになっています。

 もともと、チャクリー宮殿の周辺は、ラーマ5世が幼少期を過ごした場所でした。当時の王室の慣例では、即位後の王は敷地東側のプラー・マハー・モンティエンに生活の場を移すのが慣例となっていましたが、即位後のラーマ5世は、プラー・マハー・モンティエンに移るよりも、それまで住んでいた“東宮御所”の増築を決断。1876年5月7日、シンガポールの建築家、ジョン・クラニッチの設計・監督の下、チャクリー宮殿の建設に着工し、1882年に宮殿は完成しました。(下の画像は、2013年に撮影した宮殿の写真です)
      
 当初、ラーマ5世は、チャクリー宮殿を純然たるルネサンス様式の洋風建築として建設する意向でしたが、クラニッチから、タイの伝統的な建築様式を加えたほうがよいとの進言を受け、屋根の部分にタイ風を取り入れた折衷様式の宮殿に仕上がりました。現在は王族の納骨堂となっており、軒下は武器博物館として、一般に公開されています。

 なお、 チャクリー宮殿を含むバンコク市内の宮殿については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろご紹介していおりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 泰国郵便学(52)
2017-12-26 Tue 11:09
 公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第6号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・国連デー(1976)

 これは、1976年10月24日に発行された“国連デー”の切手で、薬物をはじめ、アルコールおよび煙草の依存症患者に対する国連の支援活動が図案化されています。

 WHOの定義によると、依存症とは「精神に作用する化学物質の摂取や、ある種の快感や高揚感を伴う行為を繰り返し行った結果、それらの刺激を求める耐えがたい欲求が生じ、その刺激を追い求める行為が優勢となり、その刺激がないと不快な精神的・身体的症状を生じる、精神的・身体的・行動的状態」のことで、①物質依存症(アルコールや薬物など、何らかのかたちで体内に摂取する物質に対する依存症)と②行為・過程依存症(ギャンブル依存症・インターネットゲーム依存症など)に大別される。

 麻薬、特にアヘンの輸入と生産に関しては、アユッタヤー王朝の時代から歴代の王がこれを禁じ、アヘンを処理するための儀式が寺院などでも行われていました。また、チャクリー王朝時代に入ると、1811年、国王ラーマ2世はアヘンの使用と売買を正式に禁止しています。

 1840年のアヘン戦争以降、英国は清朝に対して本格的にアヘンを輸出するようになり、中国大陸ではアヘンの使用が拡大。また、1850年代以降、中国大陸の混乱を避けて国外に移住する華人が激増し、華人移住の波はタイにも押し寄せると、それに伴い、タイ国内でもアヘン吸引の習慣が拡大しました。

 当時のアヘンの売買には英国人ないしは英領インド帝国の出身者が数多くかかわっていたこともあり、1852年、英国は国王ラーマ4世に圧力をかけ、華人商人用としてアヘン窟の設置を認めさせます。この結果、タイ国内のアヘン窟は1880年には1200ヵ所に、1913年には3000ヵ所にまで拡大。1913年に英領インドからタイに輸出されたアヘンは147トンにも及びました。

 このように、タイを含めアジア各地にアヘンが蔓延していったことに危機感を抱いたマニラ在住の米国人宣教師は、20世紀初頭、米国大統領セオドア・ルーズベルトに対してアヘン拡大の窮状と吸引禁止に関する国際会議の開催の必要性を訴えます。これを受けて、ルーズベルトは、清国と関係の深かった日英両国の了解を得て、1904年10月、国際会議の開催を提案。その後、日露戦争等もあって開催は遅れましたが、1909年2月、米国、英国、日本、清国、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、イラン、オーストリア、オランダ、タイ、ポルトガルによる万国阿片委員会が上海で開催され、アヘン等の統制に関する9ヶ条の議定書が採択されました。

 さらに、1912年1月には、オランダのハーグでハーグ国際アヘン会議が開催され、薬物(ここではアヘンのみならず、モルヒネ、コカインおよびそこから誘導された薬品、または同等の害悪を起こすもの)を統制する初の国際条約として、万国アヘン条約が調印されます。同条約は、1919年のヴェルサイユ条約を通して批准され、1924年から1925年にかけてのジュネーヴ国際アヘン会議で大麻製剤(チンキ)を追加し条約を補足する協定が作成されました。

 第二次大戦後、万国アヘン条約は、1946年の「麻薬に関する協定、条約及び議定書を改正する議定書」を経て、1961年の「麻薬に関する単一条約」に引き継がれます。

 同条約は、それまで各国が薬物に関して個別に締結していた多数の国際条約、協定等を一本にまとめ、国際的麻薬管理を整理統合し、より実効あるものに統一したもので、1961年3月、ニューヨークにおいて採択され、1964年12月に発効。さらに、10年後の1971年2月、麻薬に関する単一条約が規制の対象としている物質(麻薬、アヘン、大麻)以外の幻覚剤、鎮痛剤、覚せい剤、睡眠薬、精神安定剤等の乱用を防止するため、「向精神薬条約」が採択されました。同条約は、1976年5月、その効力発生に必要な締約国数(40カ国)に達し、同年8月16日に発効しています。

 今回ご紹介の“国連の日”の切手が、薬物をはじめとする依存症患者の救済を題材としているのは、こうした国際的な薬物統制の動きと連動したものであることは言うまでもありません。

 ただし、タイの場合には、そうした国際的な要因に加え、前年(1975年)、薬物依存症患者の社会復帰に尽力してきたプラー・チャムルーン・パルンチャンが、アジアのノーベル賞とされるマグサイサイ賞(社会奉仕部門)を受賞しており、今回ご紹介の切手には、そのことを記念する意味合いも込められていたと思われます。

 1949年、中華人民共和国が成立すると、米国は王室とのつながりも深かったタイ警察を反共のための重要な準軍事組織と位置付け、積極的に支援するようになりました。こうした中で、1951年に警察長官に就任したパオ・シーヤーノン警察大将は、米CIAから兵器、資金、軍事訓練を受け、国境警備警察を創設しましたが、国境警備警察は“黄金の三角地帯”の一角を占める北タイのケシ農園の防衛等を通じて、この地域で麻薬産業を担っていた中国国民党軍(の残党)などと癒着。莫大な麻薬利権を掌握します。

 パオ・シーヤーノンは、当時のピブーン政権下で内務大臣を務め、彼の配下である警察は、サリット・タナラットひきいる陸軍と勢力を二分していましたが、1957年、サリットによるクーデターが発生。首相のピブーンと内務大臣のパオは追放され、警察勢力は政権から一掃されました。

 これに伴い、1958年以降、1954年に制定されたものの、それまで有名無実化していた医薬品以外のアヘンの使用禁止法が厳格に運用されることになり、公認のアヘン窟も廃止されます。しかし、山間部では、少数民族にとって現金収入の手段となるような代替産業が保護・育成されなかったこともあり、その後も、チェンマイ県などでは、地元警察がアヘン栽培農家を不法に保護し、アヘンは根絶されませんでした。

 また、アヘン使用禁止法の施行を受けて、アヘン業者たちはアヘンに代わってヘロインその他の薬物を密売するようになったことや、インドシナの内戦で各派が闘争資金獲得のためにタイ国内でも違法薬物の密売を盛んに行ったことなどもあって、1954年にはアヘン中毒を中心に7万2000人とみられていたタイ国内の薬物中毒患者は、1975年には、マリファナからヘロインに至るまで、多種多様な薬物の中毒患者は40万人にも急増し、薬物汚染は深刻なものとなりました。

 こうした状況の下、1957年、警察官として違法薬物の取締りにも従事してきた経験を持つ僧侶のチャムルーン・パルンチャンは、叔母で女性出家者として活動していたミアン・パルンチャン、弟のチャルーンとともに、同志を募って、禁欲的な求道生活を行う道場として、サラブリー県プラプッタバート郡にワット・タムクラボークを建立します。

 もともと、釈迦の時代の仏教では男性出家者である比丘とともに、女性出家者の比丘尼が存在していましたが、その後、いわゆる“上座部仏教”が確立されていく過程で、女性の出家は認められなくなります。とはいえ、タイを含む上座部仏教圏でも、俗世を離れて出家修行生活を望む女性は存在しており、そうした女性は、タイでは“メーチー”と呼ばれています。

 タイの上座部仏教では、僧侶として出家者の地位・身分を得られるのはあくまでも男性のみとされてきたため、メーチーの宗教上の地位は“在家者”とされており、それゆえ、男性出家者のように、一般信徒から物質的・経済的支援や敬意を受けることもありませんでした。

 ミアンはそうした“メーチー”の一人で、霊感が鋭く、予知能力があるとして地域の尊敬を集めていたが、宗教上はあくまでも在家者という位置づけであったため、ワット・タムクラボークも、“ワット”を名乗っていたものの、当初は正規の仏教寺院としては認証されませんでした。ちなみに、ミアンは1970年に亡くなっていますが、ワット・タムクラボークが正規の仏教寺院として認証されたのは、それから40年以上が経過した2012年のことです。

 さて、1957年のある日、アヘン中毒に悩む老人が治癒を求めて、創建されたばかりのワット・タムクラボーグを訪ねてきました。居合わせた者は、誰も医学的な知識を持っていませんでしたが、チャムルーンは老人を本尊の仏像の前に連れて行き、蓮の果托の一房を渡し、「蓮は聖なる花である。アヘンの禁断症状が現れたら、代わりに蓮の果托を噛むが良い」と諭したところ、数日後、チャムルーンの言いつけに従った老人はアヘン中毒から完全に立ち直ったそうです。

 この話が広まり、多くのアヘン中毒患者が治癒を求めてワット・タムクラボークを訪れるようになったため、1959年以降、チャムルーンは本格的に、アヘンをはじめとする薬物中毒患者の治癒に乗り出すことになり、1959年から1961年にかけての試行錯誤の期間を経て、6-15日間の治癒プログラムが確立されました。

 ワット・タムクラボークの治癒プログラムの参加者は、1964年から1975年までの10年間で5万7000人にも及び、その活動は、タイ政府のみならず世界的にも注目を集め、1975年にはチャムルーンがアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞(社会奉仕部門)を受賞しています。ちなみに、タイ人・組織のマグサイサイ賞受賞は、1961年のニラワン・ピントン(1961年・社会奉仕部門。フェミニスト)以来、7人目のことでした。
      

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は28日!★★

 12月28日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第13回が放送予定です。今回は、現在公開中の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 泰国郵便学(51)
2017-11-12 Sun 14:43
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第5号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・オニテナガエビ(1976)  

 この切手は、1976年2月18日に発行された“タイの代表的な食用エビ”の切手のうち、オニテナガエビを取り上げた1枚です。次いでですので、バンコクの海鮮レストランで生簀の中のオニテナガエビを撮影した写真が手元にありましたので、下に貼っておきます。

      オニテナガエビ・実物

 タイでエビの養殖がいつから始まったかは定かではありませんが、1960年代に地元の古老を対象に行った聞き取り調査によると、遅くとも、1930年までにはエビの養殖が始められていたようです。初期のエビの養殖は、主としてタイランド湾の河口に近い低地の米作農家が乾季の間の副業としてエビを飼い、販売するものでした。

 一方、タイランド湾に面したサムットプラーカーン県、サムットサーコーン県、サムットソンクラーム県は伝統的に製塩業が盛んでしたが、1950年頃、塩の値段が暴落したため、塩田の多くがエビの養殖に転業します。

 1960年代後半までにエビの養殖はタイランド湾沿岸のほぼ全域に拡大しましたが、その中心は上記3県で、ほかに、ラヨーン県、チョンブリー県、チャンタブリー県が主要な生産地でした。当時のエビ養殖業者は、一軒あたり平均4ヘクタールの養殖池で年間1356キロのエビを生産してました。

 1970年代に入ると、日本でのエビの需要の拡大に伴い、エビの輸出も拡大しましたが、その反面、乱獲により天然エビ漁は衰退し、養殖エビの重要性も増大します。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、輸出商品としてのエビを宣伝する目的で発行されました。

 切手に取り上げられたオニテナガエビは、タイ、マレーシアなどの東南アジア原産の淡水産のエビで、オスで最大32センチ、メスで25センチに成長します。色は藍色で、頭部が大きく、第二歩行足が体長よりも長くなっています。タイ語では、一般に川エビを意味する“グン・メーナーム”と呼ばれ、レストランの英文メニューでもその直訳の“River Prawn”と表示されていることも多いようです。ただし、英語表現としては、FAO(国連食糧農業機関)の指導により、マレーシアで本格的な養殖が始まったことから、マレーシア・プローンの通称で呼ばれるのが一般的です。

 レストランなどで調理される場合は、このエビの最大の特徴である鋏が外されてしまうことが多いので、バナメイエビとよく似た外観になりますが、バナメイエビに比べて兜が幅広いので識別は難しくはありません。タイでの調理方法としては、“シューシー・グン(レッドカレー炒め。カレーとしてではなく、一品料理として供される)”や“グン・オップ・ウンセン(エビと春雨の蒸しもの)”などが好まれています。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 タイ前国王陛下の国葬
2017-10-27 Fri 04:02
 昨年、崩御されたタイのプミポン・アドゥンヤデート前国王陛下(以下、ラーマ9世)の国葬が、10月25-29日の日程で行われていますが、その主要行事となる火葬式が、きのう(26日)、行われ、御遺体が荼毘に付されました。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・大勝利号

 これは、1974年9月9日にタイで発行された“国立博物館100周年”の記念切手のうち、歴代の国王・王族の葬儀に際して用いられてきた人力霊柩車“大勝利号”が取り上げられています。

 タイにおける博物館の歴史は、1859年、国王ラーマ4世が王宮内に自分への贈物を1ヵ所にまとめて収蔵したのが起源とされています。ただし、ラーマ4世の時代の収蔵施設は、プライベート・コレクションとしての性質が強く、一般公開を前提とした現在の博物館とはかなり趣が異なるものでした。

 これに対して、ラーマ4世崩御後の1874年、ラーマ5世は、父王の御物や一般の関心を集めそうな品々を展示・公開するための施設として、王宮内のサハタイ・サマコム館を利用して博物館を創設することとし、9月19日に博物館としての開館記念式典を行いました。現在のタイでは、これをもって、国立博物館の開館としており、今回ご紹介の切手もここから起算して100周年にあわせて発行されました。

 その後、展示施設が手狭になったため、1887年、ラーマ5世はサハタイ・サマコム館から副王宮殿(ワンナー)の礼拝堂として用いられていた建物に所蔵品を移すように命令。この施設は、当初、ワンナー博物館と呼ばれていましたが、1926年にバンコク博物館と改称され、1934年、文化省芸術局の管轄に置かれてバンコク国立博物館として拡充され、現在に至っています。

 なお、現在、タイの“国立博物館”は、バンコク国立博物館、バンコク国立美術館、王室御座船国立博物館、シン・ピーラシー記念国立博物館、王室象国立博物館、ガーンチャナーピセーク国立博物館の6中核組織を含め、バンコクなど中部に21、チェンマイなど北部に8、スリンなど東北部に7、プーケットなど南部に7の施設があり、文化省芸術局国立博物館部によって運営が担われています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた大勝利号は、ラーマ1世治世下の1795年、国王の父であるトンディーの遺体を、現在は王宮前広場になっている“トゥン・プラーメン”の火葬場に運ぶために作られ、以後、歴代のチャクリー王朝の国王の葬儀に際して用いられてきました。

 近年は、国王のみならず、1995年に亡くなったシーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后(ラーマ9世の母)や2011年に亡くなったペッチャラット(ラーマ6世とスワッタナー妃の娘)の葬儀の際にも用いられました。今回の国葬でも、ラーマ9世の御遺体を運ぶために使われるものと思われます。

 ちなみに、バンコクのチャクリー宮殿の北側、現在の王宮前広場は、もともと、国王と王族の葬儀場だった場所で、王が亡くなると須弥山に澄む神に戻るとのヒンドゥー神話に基づき、“須弥山の広場”を意味する“トゥン・プラーメン”と呼ばれていました。現在のように“サナーム・ルアン”と呼ばれるようになったのは、1855年、ラーマ4世が発した布告によるものです。

 なお、切手の英文説明は“Royal Chariot”となっていますが、欧米でいう“Chariot”の語は、一般に4輪の場合は“軽馬車”を意味する語ですから、馬ではなく人間が牽引する大勝利号の説明としては、欧米人には誤解を与えるかもしれません。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 泰国郵便学(50)
2017-09-06 Wed 10:48
  ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第4号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・国王48歳誕生日

 これは、1975年12月5日に発行された国王ラーマ9世48歳誕生日の記念切手です。

 歴史的に中国の文化的影響が強かったタイでは、十二支が一周するたびに“秩寿”を祝う習慣があるため、今回の切手発行は第4秩寿として特別な祝賀の対象となりました。ちなみに、前回、国王誕生日の記念切手が発行されたのは、第3秩寿にあたる1963年のことでした。

 国王48歳誕生日の記念切手は、2種類セットで発行されましたが、そのうちの75サタン切手は、国旗を背景に、上部に王室のエンブレムを、下部に国王のモノグラムを取り上げたデザインになっています。

 王室のエンブレムは、ブラフマー、シヴァとともにヒンドゥーの最高神の一人とされるヴィシュヌが邪悪を弱め毒を中和するために用いる円盤状の武器“スダルシャナ”に、同じくヒンドゥーの最高神の一人であるシヴァが持つ三叉戟(それぞれの先端は意思・行動・知恵を意味する)の“トリシューラ”を組み合わせたデザインで、君主を神の化身とみなすヒンドゥーの神王思想の影響を受けたものです。

 一方、国王のモノグラムは、頂点から光を放つ“勝利の王冠”の下に、ラーマ9世を意味するタイ語の3文字(ภ.ป.ร)を配しています。

 勝利の王冠はチャクリー王朝の王位の象徴の一つで、ラーマ1世治下の1782年につくられました。純金製で、高さ66センチ、重さ7.3キロで、ラーマ4世の時代にインド産ダイヤモンドの装飾が加えられました。高くとがった形状は国王の権威が神に由来するものであり、それゆえ、国王は人民を支配する権利を有することを意味しています。また、ラーマ5世の時代以降、西洋の王室に倣って戴冠式が行われるようになったことに伴い、以後、国王が勝利の王冠を着用するのは戴冠式のみとなりました。

 ところで、1975年は、ヴェトナム戦争の終結に伴い、(南)ヴェトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国が相次いで共産化した年でもあります。

 このうち、タイにとって最も衝撃的だったのは、隣国ラオスでの王制廃止と共産化でした。

 1953年以来、断続的に内戦状態にあったラオスでは、1960年代半ばから米国と南北ヴェトナムが介入。米軍はラオス山間部が北ヴェトナムへの物資輸送を行うホーチミン・ルートになっているという理由で空爆を行っていました。さらに、1971年2月、米軍がヴェトナム戦争での局面打開をねらい、右派の支援と称してラオスに侵攻すると、ラオス内戦はヴェトナム戦争の一部に組み込まれます。

 その後、1972年、インドシナ紛争に関するパリ和平会談を受け、ラオスでも王国政府とパテート・ラーオ(共産革命勢力“愛国戦線”の軍事部門)との交渉がスタート。翌1973年1月、パリでヴェトナム和平協定が調印され、ヴェトナムからの米軍撤退が決まると、2月21日、ヴィエンチャンで「ラオス和平協定(ラオスにおける平和回復及び民族和解に関する協定)が調印され、現状位置での停戦が決められ、9月には新政府樹立に向けての中央合同委員会が発足しました。

 1974年4月には、右派(ヴィエンチャン政権)・中間派・左派(愛国戦線)の臨時3派連合政府(第3次連合政府)および政治諮問評議会が樹立されると、主導権を握った愛国戦線の扇動により、同年末、ラオス各地で王党派の軍人・官吏の追放を求める住民デモが発生。王族、高級軍人、議員とその家族など、共産化を恐れた人々が多数タイに脱出します。

 さらに、翌1975年4月30日の南ヴェトナムでのサイゴン陥落を経て、5月21日には反米デモ隊が米国際開発局と広報文化局を占拠。27日までに、米国は両機関を閉鎖し、ラオスから撤退しました。

 その後も左派は各地で攻勢を強め地方政府を革命行政委員会に改組。8月18日にはルアン・パバーンで、8月23日にはヴィエンチャンでも革命行政委員会が成立しました。そして、11月25日の臨時連合政府および政治諮問評議会の解体を経て、12月1-2日にルアンパバーンで開催された全国人民代表大会の結果、王制の廃止と社会主義国家“ラオス人民主共和国”の樹立が宣言されます。

 12月2日、退位を余儀なくされた最後のラオス国王、サワーンワッタナーは、1907年、ルアンパバーン生まれ。父王シーサワンウォーンの崩御を受けて、1959年、ラオス国王として即位しました。

 1949年7月19日、フランス連合内の協同国として成立したラオス王国の王位にはルアンパバーン王が就きましたが、ルアンパバーンの王家は歴史的にタイのチャクリー王朝と良好な関係を築いており、チャクリー王朝はルアンパバーン王家を姉妹都市ならぬ“姉妹王家”と位置付け、相応に遇していました。

 そうした両王室の良好な関係を象徴するものとして、1963年3月22日、タイを訪問したラオス国王のサワーンワッタナーはラーマ9世から“ラーチャミトラーポーン勲章”を授与されています。ちなみに、ラーチャミトラーポーン勲章は、1962年、“王の友好の証”としてラーマ9世自身の発案で制定された、タイ最高位の勲章です。

 このように、ラーマ9世と個人的にも親交のあったサワーンワッタナーが退位に追い込まれ、1354年に成立したラーンサーン王朝以来600年以上にわたって続いていたラオスの王制が断絶し、共産化したことは、南ヴェトナムやカンボジアの共産化に比べて、タイ社会に与えた衝撃ははるかに大きいものでした。

 当時のタイ国内は、1973年の10月14日事件以降、民主化が進行していく中で、石油危機とヴェトナム戦争終結による軍需景気の終焉により経済状況は悪化。労働組合の抗議活動によってモムラーチャウォン、セーニー・プラーモート連立政権が譲歩を迫られると、保守派や軍部は政府の弱腰を批判。それを学生らが“民主主義の危機”と糾弾して集会を呼びかけるなど、情勢は混沌としていました。

 こうした中で、ヴェトナム戦争の終結からわずか7ヶ月余の間に、インドシナ三国が相次いで共産化したことは、まさに、米軍がヴェトナム戦争に介入した大義名分、共産化ドミノ理論が“正しかった”という印象をタイ国民に与え、共産化の波がタイにも押し寄せるのではないかとの不安を醸成する結果をもたらしたわけです。

 また、左右のイデオロギーとは無関係に、ラオスおよびカンボジアから大量の難民が国境を越えてタイに流入してきたという現実は、“タイ王国”を取り巻く国際環境が危機的な状況にあることを否応なしに人々に認識させる結果となりました。

 このため、1975年12月5日、ラーマ9世の48歳誕生日の祝賀行事が行われ、あらためて、国王の威徳が国民に対して強調されると、タイ社会には、王制を護持するためにも、急進的な民主化にはブレーキをかけるべきとの空気が充満していきます。その結果、タイ社会の風向きは、民主化から保守化へと急速に変化し、1976年の総選挙では保守派が前年の選挙を大幅に上回って勝利することになるのです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は7日!★★★ 

 9月7日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第8回が放送予定です。今回は、1999年のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印(1977年9月7日)から40周年ということで、パナマにスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 泰国郵便学(49)
2017-06-28 Wed 10:20
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第3号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・王室御座船シリーズ(75サタン)

 これは、1975年11月18日にタイで発行された“王室御座船”シリーズのうち、供奉船の“スックリープ・クロン・ムアン”を取り上げた75サタン切手です。

 王室御座船は、王室の特別な行事に際してのみ使用される豪華な装飾船で、その歴史はスコータイ王朝(1463年滅亡)の時代に、カオパンサー(入安居)の蝋燭点灯式やローイ・クラトーンの燈籠流し等に際して、国王の行幸船として用いられたのが始まりだとされています。

 アユッタヤー王朝時代には、首都が河川と運河に囲まれていたこともあり、王の権威と権力を可視化するための行事として御座船のパレードが行われたほか、ナーラーイ王(在位1633-88年)の時代、フランス国王ルイ14世の使節団をもてなすため、200艘のロングボートによるパレードも行われました。さらに、ボーロマコート王(在位1733-58)の時代には、御座船パレードの際に使用される楽曲も整えられています。なお、当時の御座船はいずれも平底船でした。

 アユッタヤー王朝滅亡の際、王室の御座船は戦乱により焼失しましたが、チャクリー王朝の創始者、ラーマ1世は、1782年にバンコクに遷都した後、アユッタヤー王朝時代以来の御座船の伝統を再興しただけでなく、新しい御座船の建設を命じました。なかでも、タイの代表的な木材であるチークの1本材を削りだして作られた長さ50mの船“シー・スーパンナホーン”は、船首に聖鳥“ホン(ブラフマー神の乗り物とされる金の白鳥)”の装飾が施されており、王室御座船の最高傑作として、王専用の船として用いられていました。

 ちなみに、シー・スーパンナホーンは後に老朽化が進んだため、ラーマ6世の時代に、これを模して建造されたのが、現在のタイの御座船を代表する名船として知られる“スリ・スーパンナホーン”です。

 ラーマ4世の時代になると、御座船はトートカティンの儀式での船渡りにほぼ使用が限定されるようになりました。トートカティンは、雨季の終わりを祝うオーク・パンサー(毎年、陰暦11月の満月の日)の日に僧侶に僧衣を贈呈する儀式のことで、バンコクでは国王みずからが御座船に乗ってワット・アルンに出向き、僧たちに僧衣を下賜しています。

 チャクリー王朝の成立後も王室御座船とパレードの習慣は継承されていましたが、1932年6月に立憲革命が起こり、立憲君主制に移行すると、御座船の管理は王室とタイ海軍が行うことになり、バンコク・ノーイのドックがその保管場所になりました。バンコク・ノーイは、大東亜戦争(タイの歴史用語としては、第二次大戦は大東亜戦争と呼ばれています)中、連合軍の空襲を受け、御座船も大きな被害を受けたため、1947年、芸術局が御座船の修復を担当。芸術局は、その後も引き続き修復された御座船の管理を行なっています。

 なお、大東亜戦争後、王室によるトートカティンの船渡りは再開されましたが、文化財としての御座船を保護するため、現在、御座船の使用は王族の重要な行事に限定されています。また、1972年には、御座船のドックは芸術局所属の王室御座船国立博物館となり、一般公開されています。

 御座船のパレードでは、4艘の王室御座船を中心に52艘の供奉船が全長1.2Km・幅90mの隊列を組み、総勢2082人の漕手によって、ワースグリー桟橋からワット・アルン桟橋までの4.5 Kmを進んで行きます。今回ご紹介の切手を含む“王室御座船シリーズ”の切手の背景には、いずれもワット・アルンのシルエットが描かれていますが、これは、トートカティンの船渡りを含め、御座船の運行経路を踏まえたものです。なお、国王が実際に乗り込む御座船では、国王は船体中央の船室内に着座し、黄金と赤の櫂を持つ漕手が総勢50名、舵手と航海士が各2名、その他船尾信号旗手・漕手監督・王座天蓋支持者が伺候することになっています。

 今回ご紹介の75サタン切手に取り上げられているのは、『ラーマキエン物語』に登場する猿族の王、将の像を船首に掲げるクラビー型の供奉船のうち、猿王スックリープの像を掲げる“スックリープ・クロン・ムアン”です。

 『ラーマキエン物語』によると、サケート国の君主であった仙人のコドムは、火の中から生まれた美女、アッチャナーを妻とし、2人の間にはサワーハという娘が生まれました。

 その後、コドムの留守中、インドラ神は一人きりになったアッチャナーを見初めて彼女と関係を結びます。アッチャナーはインドラ神の子を身籠り、10カ月後、エメラルド色の男の子が生まれました。コドムはこの子をインドラ神の子とは知らずにサワーハよりもかわいがりました。

 別の日、コドムが留守の間に、西の空を照り付けていた太陽神を見たアッチャナーは彼に恋をし、10ヶ月後、太陽神のように赤い男の子が生まれます。

 当初、コドムはサワーハよりも2人の男の子をかわいがっていましたが、サワーハから男の子の父親が自分ではないと聞かされ激怒。3人の子を川に突き落とし、自分の子であれば泳いで戻ってこられるけれども、そうでなければサルになってしまうよう呪いをかけます。その結果、サワーハは戻ってきましたが、2人の男の子はサルになり、森の中に逃げ込みました。

 これを見たインドラ神と太陽神は、サルとなった2人を不憫に思い、2人のためにキートキンの国を作ってやります。そして、ヴシュヌ神が鬼を退治するその日まで、その国を治めるようにインドラ神の子をパーリー、太陽神の子をスックリープと名付け、兄のパーリーを国王に、弟のスックリープを副王としました。ちなみに、2人に軍師として仕えたのが白猿の将軍、ハヌマーンです。

 さて、あるとき、パーリーとスックリープは悪鬼と戦い、追い詰められた悪鬼は洞窟に逃げ込みました。パーリーは弟のスックリープに洞窟の入口で見張りをさせ、単身、敵を追って洞窟の中に入っていきましたが、洞窟内は複雑に入り組んでいて、悪鬼を探し出して討伐する間に1年が経ってしまいました。

 この間、スックリープは、パーリーが戻ってこなかったため、兄が悪鬼との戦いで戦死したと思い、悪鬼が洞窟から出てこないように入り口をふさいで都に戻り、重臣たちによって王として推戴されます。

 ところが、悪鬼を倒して洞窟の入口に戻ってきたパーリーは入口がふさがれているためになかなか外に出られませんでした。苦心の末にようやく洞窟の外に出たパーリーは、スックリープが王となっていることを知り、激怒。王位を簒奪したスックリープを追放し、さらに追手を差し向けます。

 こうしてパーリーとスックリープは互いに敵味方に分かれて戦うことになりましたが、最終的に、ラーマ王子の援助を受けたスックリープがパーリーを打ち負かします。なお、パーリーはラーマの放った矢によって落命しますが、死の間際、ようやく、スックリープに対して抱いていた猜疑心から解放されました。

 なお、タイの王室御座船については、拙著『タイ三都周郵記』でも関連の切手や絵葉書をご紹介しておりますので、機会がありましたら、そちらも併せてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 泰国郵便学(48)
2017-04-28 Fri 10:51
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第2号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・パッタヤービーチ(1975)

 これは、1975年の国際文通週間の切手のうち、パッタヤー(パタヤ)のビーチを取り上げた75サタン切手です。

 パッタヤーは、バンコクの東南165km、タイランド湾に面したリゾート地で、行政上はチョンブリー県に属しています。

 パッタヤーの名が最初に歴史に登場するのは、1767年、プラヤー・ターク(タークシン)の遠征時のことです。

 アユッタヤー王朝の滅亡以来、国土回復のために奔走していたプラヤー・タークは、チャンタブリー遠征へ向かう途中、現在のパッタヤーの地で、その地方を治めていたナイ・クロームの軍と対峙。当初、プラヤー・タークの軍を撃退するつもりだったナイ・クロームは、プラヤー・タークの威厳ある振る舞いと、部下たちの軍紀が厳正に保たれていることに深く感銘を受け、戦わずして降伏し、プラヤー・タークの軍に加わったといわれています。ここから、両者が相見えた地は“タプ・プラヤー”と呼ばれるようになり、後にそれが転訛して雨季の初めに南西から北東方向に吹く風を意味する“パッタヤー”と呼ばれるようになりました。

 かつてのパッタヤーは小さな漁村にすぎませんでしたが、1959年6月29日、コーラート駐留の米軍関係者500人が、1週間ほど、パッタヤーで休暇を過ごしたことがきっかけで、リゾート地としての開発が進められることになります。その後、ヴェトナム戦争が本格化すると、1965年以降、ラヨーン県バーンチャーン郡のウタパオ空軍基地が北爆に向かう米軍の重要拠点となり、ウタパオから車で1時間の距離にあるパッタヤーは保養地としての開発が急速に進みました。

 さて、今回ご紹介の切手を含め、1975年の国際文通週間の切手には、タイを代表する4ヵ所のビーチ・リゾートの風景が取り上げられています。

 タイの国際文通週間の切手において、観光資源となる景勝地が取り上げられたのは、1972年以来のことですが、1975年の切手の題材が選択されるにあたっては、同年3月のヴェトナム戦争終結という事情が大きかったのではないかと思います。

 すなわち、タイの観光産業、特にビーチ・リゾートを中心とした保養地に関しては、上述のパッタヤーの事例にみられるように、ヴェトナム戦争に従軍する米軍関係者が好んで利用したことで、彼らを通じて、ひろく欧米人に注目されるようになったという経緯があります。実際、1964年8月にトンキン湾事件が発生し、米軍がインドシナへの関与を強めていく傾向をみせると、翌1965年、タイ政府観光局(現観光庁)はニューヨーク事務所を開設して、米軍の保養地としてのタイの魅力を積極的なアピールを開始しています。その甲斐もあって、1967年にタイを訪れた外国人は、一般の観光客が33万6000人、インドシナの前線から休暇期間に訪タイした米軍関係者が5万人にものぼっていたほどです。

 その後もタイの観光産業はヴェトナム戦争の長期化にあわせて順調に発展し、欧米人観光客が落とす外貨は、タイの国家財政にとっても重要な財源となっていました。

 そうしたタイの観光産業にとって、ヴェトナム戦争の終結は、上得意であった米軍関係者の需要激減につながる事態でしたから、彼らとしても、より広く欧米の観光客に向けて、毎年恒例の国際文通週間の題材として、1975年はビーチ・リゾートを取り上げ、その存在を世界にアピールしようとしたものと考えられます。

 * 昨日の放送は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。5月は連休と大相撲がある関係で、僕の次の出番は6月1日の予定です。ちょっと間が開いてしまいますが、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 泰国郵便学(47)
2017-02-21 Tue 15:08
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第1号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ムエタイ(1975年・肘打ち)

 これは、1975年5月20日に4種セットで発行されたムエタイ(ムアン・タイ)の切手のうち、肘打ちの場面を取り上げた2バーツ75サタン切手です。ムエタイが切手に取り上げられたのは、1966年12月9日、バンコクで開催された第5回アジア大会に合わせて発行された「タイの伝統競技」の切手(の1種)以来、これが2度目のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1975年は、ムエタイならびにタイの国際式ボクシング(我々が通常イメージするボクシング)における不世出の天才、センサク・ムアンスリンの黄金時代の幕開けにあたっており、そうした国民的英雄の登場が切手の発行にも少なからず影響を及ぼしていたと考えるのが自然なように思われます。

 センサク・ムアンスリン(本名ブンソン・マンシリ)は、1951年8月13日、ペッチャブーン県生まれ。ムエタイ選手だった兄の影響を受けてムエタイを始め(階級はジュニア・ウェルター級)、18歳でデビューした頃は初めの10試合で7敗するなど、あまり目立った選手ではありませんでしたが、その後は順調に白星を重ねて、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなり、68戦59勝(55KO)9敗の戦績を残しました。

 この間、ムエタイ王者として来日し、日本のキックボクサー、玉城良光(後の全日本ライト級王者)と戦い、3回KO勝ちを収めています。この時の試合で、センサクはパンチの得意な玉城を膝蹴りで一蹴。玉城はダウンしなかったものの、レフェリーが即座に試合を止めました。試合続行を望む玉城は、当初、この判定に不服でしたが、試合後、身体の異変を訴えて病院に直行。内臓破裂ですぐに緊急手術を受けています。後に、玉城は「まだやれる!と怒ったが、経験豊富なレフェリーの判断は正しかった。もう一発もらっていたら、命はなかった」と語っています。

 その後、93%という驚異的なKO率、しかも、その半分以上がパンチによるものであったことから、センサクは周囲の強い勧めを受けて国際式ボクシングに転向。まずはアマテュアとして1973年9月、シンガポールで開催された東南アジア競技大会では5試合すべてでRSC(レフェリー・ストップ・コンテスト。プロボクシングのTKOに相当)勝ちを収めて金メダルを獲得。その実績をもとに、1974年、国際式のプロボクサー(ジュニア・ウェルター級)に転向しました。

 デビューに際して、センサクのマネージャーは3戦で世界チャンピオンとなることを宣言。11月7日、いきなりWBC世界ランキング6位のルディ・バロ(フィリピン)と対戦し、1回KO勝ちを収める衝撃のデビューを果たしています。

 さらに、1975年2月16日、第2戦でWBC世界ランキング2位のライオン古山(日本)と戦い、7回、左フックで古山をグラつかせて連打し、レフェリーストップのTKO勝ち。そして、同年7月15日、WBC世界王者のペリコ・フェルナンデス(スペイン)と対戦し、8回、TKO勝ちを収めて公約通り、わずか3戦目で世界王者となり、いちやく、タイの国民的な英雄となりました。

 近代スポーツとしてのムエタイのルールが整備されたのはラーマ6世時代の1920年代のことでしたが、1932年の立憲革命後、タイのナショナリズムが強調され、タイは後進国ではなく、文化的に優れた民族の国であることを内外にアピールすることが要請されていく中で、ムエタイも、タイ独自の“伝統文化”として国軍を中心に奨励されるようになりました。

 すなわち、1935年以降、国軍がスアン・チャオチュートでのムエタイ興業をプロモートしたほか、1937年には教育省体育局が「ムエタイに関する規定」を策定して正式に“国技”として指定。さらに、1945年12月に王室の出資でラーチャダムヌーン・スタジアムが作られ、1956年にはルンピニー公園近くの陸軍所有地にルンピニー・ボクシング・スタジアム(陸軍が運営する株式会社の創業は1953年)がオープンします。これらは、いずれも、ムエタイが単なる娯楽ではなく、タイの国技にして文化であることを強調するための施策でした。

 こうしたこともあって、1970年代までには、ムエタイはタイの国技であるとの認識が国民の間に深く浸透します。1972年、日本の野口ジムがバンコクで“キック・ボクシング・ジム”を開設した際、その名称がタイの国技を侮辱したものであるとして国民の反感を買い、抗議集団による襲撃事件が発生。ジムの閉鎖を余儀なくされたという事例は、タイ社会におけるムエタイの地位を雄弁に物語っているといえましょう。

 名実ともにムエタイの王者として君臨していたセンサク・ムアンスリンが国際式ボクシングに転向するや、たちまち東南アジア競技大会で圧倒的な強さを示して優勝したのは、上述の野口ジム事件の翌年、1973年のことでした。このことは、ムエタイを国際式ボクシングの亜流であるかのように見なした(と少なからぬタイ人が理解した)事件の屈辱を晴らす、痛快な事件だったに違いありません。

 1975年に発行された切手の企画は1974年中に決められていますが、その過程で、身をもって国際式に対するムエタイの優位を示したセンサクを意識して、ムエタイ・シリーズも立案されたものと推定できます。

 なお、当時のタイの切手は日本の大蔵省印刷局で製造されることも多かったのですが、1975年のムエタイ切手はフィンランドのフィンランド銀行印刷局に印刷が委託されています。ただし、そこに、野口ジム事件の影響があったか否かは定かではありません。

 なお、センサクは、1976年1月25日、ライオン古山の挑戦を退けて王座を防衛しましたが、同年6月30日、スペインでミゲル・ベラスケスに敗れて王座から陥落。ただし、この時の対戦は、センサクがダウンを奪うなど一方的にリードしていたところ、4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後にセンサクのパンチがベラスケスに入ってベラスケスがダウンしたことから、センサクが反則負けとみなされたものでした。そこで、センサク陣営は「力の入ったパンチではなく、偶然に緩いパンチがゴング直後にかすっただけで、観客の声援が大きすぎてゴングも聞き取れなかった」とWBCに訴え、4ヶ月後の再戦ではセンサクがベラスケスを下して王座に返り咲いています。

 ちなみに、ムエタイ出身のセンサクは国際式の試合でもムエタイの癖が抜けず、前蹴りが出そうになっただけでなく、左ジャブをわざと外して相手の首を巻くように上から押さえつけ、すかさず右を叩き込んだり、フックの打ち終わりに肘を当てたりする(今回ご紹介の切手には、まさに、肘打ちの場面が取り上げられています)など、ムエタイの技を応用した“反則”が巧みでした。

 センサクはタイトルを7度防衛したが、1978年12月30日、金相賢(韓国)に13回KOされ陥落。以後、王座を回復することはなく、1981年4月5日、OPBF東洋太平洋J・ウェルター級王者の黄忠載(韓国)と対戦し、12回判定負けとなったのを最後に引退しました。国際式ボクシングでの通算成績は20戦14勝(11KO)6敗。

 引退後は、試合の後遺症で右目を痛めたこともあって生活が荒み、現役時代に結婚した元女優の妻とも離婚。周囲に担ぎ上げられ選挙に出馬するも落選し、経済的にも不遇のまま、2009年4月16日、バンコク市内の病院で亡くなりました。


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