内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(51)
2017-11-12 Sun 14:43
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第5号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・オニテナガエビ(1976)  

 この切手は、1976年2月18日に発行された“タイの代表的な食用エビ”の切手のうち、オニテナガエビを取り上げた1枚です。次いでですので、バンコクの海鮮レストランで生簀の中のオニテナガエビを撮影した写真が手元にありましたので、下に貼っておきます。

      オニテナガエビ・実物

 タイでエビの養殖がいつから始まったかは定かではありませんが、1960年代に地元の古老を対象に行った聞き取り調査によると、遅くとも、1930年までにはエビの養殖が始められていたようです。初期のエビの養殖は、主としてタイランド湾の河口に近い低地の米作農家が乾季の間の副業としてエビを飼い、販売するものでした。

 一方、タイランド湾に面したサムットプラーカーン県、サムットサーコーン県、サムットソンクラーム県は伝統的に製塩業が盛んでしたが、1950年頃、塩の値段が暴落したため、塩田の多くがエビの養殖に転業します。

 1960年代後半までにエビの養殖はタイランド湾沿岸のほぼ全域に拡大しましたが、その中心は上記3県で、ほかに、ラヨーン県、チョンブリー県、チャンタブリー県が主要な生産地でした。当時のエビ養殖業者は、一軒あたり平均4ヘクタールの養殖池で年間1356キロのエビを生産してました。

 1970年代に入ると、日本でのエビの需要の拡大に伴い、エビの輸出も拡大しましたが、その反面、乱獲により天然エビ漁は衰退し、養殖エビの重要性も増大します。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、輸出商品としてのエビを宣伝する目的で発行されました。

 切手に取り上げられたオニテナガエビは、タイ、マレーシアなどの東南アジア原産の淡水産のエビで、オスで最大32センチ、メスで25センチに成長します。色は藍色で、頭部が大きく、第二歩行足が体長よりも長くなっています。タイ語では、一般に川エビを意味する“グン・メーナーム”と呼ばれ、レストランの英文メニューでもその直訳の“River Prawn”と表示されていることも多いようです。ただし、英語表現としては、FAO(国連食糧農業機関)の指導により、マレーシアで本格的な養殖が始まったことから、マレーシア・プローンの通称で呼ばれるのが一般的です。

 レストランなどで調理される場合は、このエビの最大の特徴である鋏が外されてしまうことが多いので、バナメイエビとよく似た外観になりますが、バナメイエビに比べて兜が幅広いので識別は難しくはありません。タイでの調理方法としては、“シューシー・グン(レッドカレー炒め。カレーとしてではなく、一品料理として供される)”や“グン・オップ・ウンセン(エビと春雨の蒸しもの)”などが好まれています。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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 タイ前国王陛下の国葬
2017-10-27 Fri 04:02
 昨年、崩御されたタイのプミポン・アドゥンヤデート前国王陛下(以下、ラーマ9世)の国葬が、10月25-29日の日程で行われていますが、その主要行事となる火葬式が、きのう(26日)、行われ、御遺体が荼毘に付されました。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・大勝利号

 これは、1974年9月9日にタイで発行された“国立博物館100周年”の記念切手のうち、歴代の国王・王族の葬儀に際して用いられてきた人力霊柩車“大勝利号”が取り上げられています。

 タイにおける博物館の歴史は、1859年、国王ラーマ4世が王宮内に自分への贈物を1ヵ所にまとめて収蔵したのが起源とされています。ただし、ラーマ4世の時代の収蔵施設は、プライベート・コレクションとしての性質が強く、一般公開を前提とした現在の博物館とはかなり趣が異なるものでした。

 これに対して、ラーマ4世崩御後の1874年、ラーマ5世は、父王の御物や一般の関心を集めそうな品々を展示・公開するための施設として、王宮内のサハタイ・サマコム館を利用して博物館を創設することとし、9月19日に博物館としての開館記念式典を行いました。現在のタイでは、これをもって、国立博物館の開館としており、今回ご紹介の切手もここから起算して100周年にあわせて発行されました。

 その後、展示施設が手狭になったため、1887年、ラーマ5世はサハタイ・サマコム館から副王宮殿(ワンナー)の礼拝堂として用いられていた建物に所蔵品を移すように命令。この施設は、当初、ワンナー博物館と呼ばれていましたが、1926年にバンコク博物館と改称され、1934年、文化省芸術局の管轄に置かれてバンコク国立博物館として拡充され、現在に至っています。

 なお、現在、タイの“国立博物館”は、バンコク国立博物館、バンコク国立美術館、王室御座船国立博物館、シン・ピーラシー記念国立博物館、王室象国立博物館、ガーンチャナーピセーク国立博物館の6中核組織を含め、バンコクなど中部に21、チェンマイなど北部に8、スリンなど東北部に7、プーケットなど南部に7の施設があり、文化省芸術局国立博物館部によって運営が担われています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた大勝利号は、ラーマ1世治世下の1795年、国王の父であるトンディーの遺体を、現在は王宮前広場になっている“トゥン・プラーメン”の火葬場に運ぶために作られ、以後、歴代のチャクリー王朝の国王の葬儀に際して用いられてきました。

 近年は、国王のみならず、1995年に亡くなったシーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后(ラーマ9世の母)や2011年に亡くなったペッチャラット(ラーマ6世とスワッタナー妃の娘)の葬儀の際にも用いられました。今回の国葬でも、ラーマ9世の御遺体を運ぶために使われるものと思われます。

 ちなみに、バンコクのチャクリー宮殿の北側、現在の王宮前広場は、もともと、国王と王族の葬儀場だった場所で、王が亡くなると須弥山に澄む神に戻るとのヒンドゥー神話に基づき、“須弥山の広場”を意味する“トゥン・プラーメン”と呼ばれていました。現在のように“サナーム・ルアン”と呼ばれるようになったのは、1855年、ラーマ4世が発した布告によるものです。

 なお、切手の英文説明は“Royal Chariot”となっていますが、欧米でいう“Chariot”の語は、一般に4輪の場合は“軽馬車”を意味する語ですから、馬ではなく人間が牽引する大勝利号の説明としては、欧米人には誤解を与えるかもしれません。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 泰国郵便学(50)
2017-09-06 Wed 10:48
  ご報告がすっかり遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第4号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・国王48歳誕生日

 これは、1975年12月5日に発行された国王ラーマ9世48歳誕生日の記念切手です。

 歴史的に中国の文化的影響が強かったタイでは、十二支が一周するたびに“秩寿”を祝う習慣があるため、今回の切手発行は第4秩寿として特別な祝賀の対象となりました。ちなみに、前回、国王誕生日の記念切手が発行されたのは、第3秩寿にあたる1963年のことでした。

 国王48歳誕生日の記念切手は、2種類セットで発行されましたが、そのうちの75サタン切手は、国旗を背景に、上部に王室のエンブレムを、下部に国王のモノグラムを取り上げたデザインになっています。

 王室のエンブレムは、ブラフマー、シヴァとともにヒンドゥーの最高神の一人とされるヴィシュヌが邪悪を弱め毒を中和するために用いる円盤状の武器“スダルシャナ”に、同じくヒンドゥーの最高神の一人であるシヴァが持つ三叉戟(それぞれの先端は意思・行動・知恵を意味する)の“トリシューラ”を組み合わせたデザインで、君主を神の化身とみなすヒンドゥーの神王思想の影響を受けたものです。

 一方、国王のモノグラムは、頂点から光を放つ“勝利の王冠”の下に、ラーマ9世を意味するタイ語の3文字(ภ.ป.ร)を配しています。

 勝利の王冠はチャクリー王朝の王位の象徴の一つで、ラーマ1世治下の1782年につくられました。純金製で、高さ66センチ、重さ7.3キロで、ラーマ4世の時代にインド産ダイヤモンドの装飾が加えられました。高くとがった形状は国王の権威が神に由来するものであり、それゆえ、国王は人民を支配する権利を有することを意味しています。また、ラーマ5世の時代以降、西洋の王室に倣って戴冠式が行われるようになったことに伴い、以後、国王が勝利の王冠を着用するのは戴冠式のみとなりました。

 ところで、1975年は、ヴェトナム戦争の終結に伴い、(南)ヴェトナム、ラオス、カンボジアのインドシナ三国が相次いで共産化した年でもあります。

 このうち、タイにとって最も衝撃的だったのは、隣国ラオスでの王制廃止と共産化でした。

 1953年以来、断続的に内戦状態にあったラオスでは、1960年代半ばから米国と南北ヴェトナムが介入。米軍はラオス山間部が北ヴェトナムへの物資輸送を行うホーチミン・ルートになっているという理由で空爆を行っていました。さらに、1971年2月、米軍がヴェトナム戦争での局面打開をねらい、右派の支援と称してラオスに侵攻すると、ラオス内戦はヴェトナム戦争の一部に組み込まれます。

 その後、1972年、インドシナ紛争に関するパリ和平会談を受け、ラオスでも王国政府とパテート・ラーオ(共産革命勢力“愛国戦線”の軍事部門)との交渉がスタート。翌1973年1月、パリでヴェトナム和平協定が調印され、ヴェトナムからの米軍撤退が決まると、2月21日、ヴィエンチャンで「ラオス和平協定(ラオスにおける平和回復及び民族和解に関する協定)が調印され、現状位置での停戦が決められ、9月には新政府樹立に向けての中央合同委員会が発足しました。

 1974年4月には、右派(ヴィエンチャン政権)・中間派・左派(愛国戦線)の臨時3派連合政府(第3次連合政府)および政治諮問評議会が樹立されると、主導権を握った愛国戦線の扇動により、同年末、ラオス各地で王党派の軍人・官吏の追放を求める住民デモが発生。王族、高級軍人、議員とその家族など、共産化を恐れた人々が多数タイに脱出します。

 さらに、翌1975年4月30日の南ヴェトナムでのサイゴン陥落を経て、5月21日には反米デモ隊が米国際開発局と広報文化局を占拠。27日までに、米国は両機関を閉鎖し、ラオスから撤退しました。

 その後も左派は各地で攻勢を強め地方政府を革命行政委員会に改組。8月18日にはルアン・パバーンで、8月23日にはヴィエンチャンでも革命行政委員会が成立しました。そして、11月25日の臨時連合政府および政治諮問評議会の解体を経て、12月1-2日にルアンパバーンで開催された全国人民代表大会の結果、王制の廃止と社会主義国家“ラオス人民主共和国”の樹立が宣言されます。

 12月2日、退位を余儀なくされた最後のラオス国王、サワーンワッタナーは、1907年、ルアンパバーン生まれ。父王シーサワンウォーンの崩御を受けて、1959年、ラオス国王として即位しました。

 1949年7月19日、フランス連合内の協同国として成立したラオス王国の王位にはルアンパバーン王が就きましたが、ルアンパバーンの王家は歴史的にタイのチャクリー王朝と良好な関係を築いており、チャクリー王朝はルアンパバーン王家を姉妹都市ならぬ“姉妹王家”と位置付け、相応に遇していました。

 そうした両王室の良好な関係を象徴するものとして、1963年3月22日、タイを訪問したラオス国王のサワーンワッタナーはラーマ9世から“ラーチャミトラーポーン勲章”を授与されています。ちなみに、ラーチャミトラーポーン勲章は、1962年、“王の友好の証”としてラーマ9世自身の発案で制定された、タイ最高位の勲章です。

 このように、ラーマ9世と個人的にも親交のあったサワーンワッタナーが退位に追い込まれ、1354年に成立したラーンサーン王朝以来600年以上にわたって続いていたラオスの王制が断絶し、共産化したことは、南ヴェトナムやカンボジアの共産化に比べて、タイ社会に与えた衝撃ははるかに大きいものでした。

 当時のタイ国内は、1973年の10月14日事件以降、民主化が進行していく中で、石油危機とヴェトナム戦争終結による軍需景気の終焉により経済状況は悪化。労働組合の抗議活動によってモムラーチャウォン、セーニー・プラーモート連立政権が譲歩を迫られると、保守派や軍部は政府の弱腰を批判。それを学生らが“民主主義の危機”と糾弾して集会を呼びかけるなど、情勢は混沌としていました。

 こうした中で、ヴェトナム戦争の終結からわずか7ヶ月余の間に、インドシナ三国が相次いで共産化したことは、まさに、米軍がヴェトナム戦争に介入した大義名分、共産化ドミノ理論が“正しかった”という印象をタイ国民に与え、共産化の波がタイにも押し寄せるのではないかとの不安を醸成する結果をもたらしたわけです。

 また、左右のイデオロギーとは無関係に、ラオスおよびカンボジアから大量の難民が国境を越えてタイに流入してきたという現実は、“タイ王国”を取り巻く国際環境が危機的な状況にあることを否応なしに人々に認識させる結果となりました。

 このため、1975年12月5日、ラーマ9世の48歳誕生日の祝賀行事が行われ、あらためて、国王の威徳が国民に対して強調されると、タイ社会には、王制を護持するためにも、急進的な民主化にはブレーキをかけるべきとの空気が充満していきます。その結果、タイ社会の風向きは、民主化から保守化へと急速に変化し、1976年の総選挙では保守派が前年の選挙を大幅に上回って勝利することになるのです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は7日!★★★ 

 9月7日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第8回が放送予定です。今回は、1999年のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印(1977年9月7日)から40周年ということで、パナマにスポットを当ててお話をする予定ですので、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 泰国郵便学(49)
2017-06-28 Wed 10:20
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第3号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・王室御座船シリーズ(75サタン)

 これは、1975年11月18日にタイで発行された“王室御座船”シリーズのうち、供奉船の“スックリープ・クロン・ムアン”を取り上げた75サタン切手です。

 王室御座船は、王室の特別な行事に際してのみ使用される豪華な装飾船で、その歴史はスコータイ王朝(1463年滅亡)の時代に、カオパンサー(入安居)の蝋燭点灯式やローイ・クラトーンの燈籠流し等に際して、国王の行幸船として用いられたのが始まりだとされています。

 アユッタヤー王朝時代には、首都が河川と運河に囲まれていたこともあり、王の権威と権力を可視化するための行事として御座船のパレードが行われたほか、ナーラーイ王(在位1633-88年)の時代、フランス国王ルイ14世の使節団をもてなすため、200艘のロングボートによるパレードも行われました。さらに、ボーロマコート王(在位1733-58)の時代には、御座船パレードの際に使用される楽曲も整えられています。なお、当時の御座船はいずれも平底船でした。

 アユッタヤー王朝滅亡の際、王室の御座船は戦乱により焼失しましたが、チャクリー王朝の創始者、ラーマ1世は、1782年にバンコクに遷都した後、アユッタヤー王朝時代以来の御座船の伝統を再興しただけでなく、新しい御座船の建設を命じました。なかでも、タイの代表的な木材であるチークの1本材を削りだして作られた長さ50mの船“シー・スーパンナホーン”は、船首に聖鳥“ホン(ブラフマー神の乗り物とされる金の白鳥)”の装飾が施されており、王室御座船の最高傑作として、王専用の船として用いられていました。

 ちなみに、シー・スーパンナホーンは後に老朽化が進んだため、ラーマ6世の時代に、これを模して建造されたのが、現在のタイの御座船を代表する名船として知られる“スリ・スーパンナホーン”です。

 ラーマ4世の時代になると、御座船はトートカティンの儀式での船渡りにほぼ使用が限定されるようになりました。トートカティンは、雨季の終わりを祝うオーク・パンサー(毎年、陰暦11月の満月の日)の日に僧侶に僧衣を贈呈する儀式のことで、バンコクでは国王みずからが御座船に乗ってワット・アルンに出向き、僧たちに僧衣を下賜しています。

 チャクリー王朝の成立後も王室御座船とパレードの習慣は継承されていましたが、1932年6月に立憲革命が起こり、立憲君主制に移行すると、御座船の管理は王室とタイ海軍が行うことになり、バンコク・ノーイのドックがその保管場所になりました。バンコク・ノーイは、大東亜戦争(タイの歴史用語としては、第二次大戦は大東亜戦争と呼ばれています)中、連合軍の空襲を受け、御座船も大きな被害を受けたため、1947年、芸術局が御座船の修復を担当。芸術局は、その後も引き続き修復された御座船の管理を行なっています。

 なお、大東亜戦争後、王室によるトートカティンの船渡りは再開されましたが、文化財としての御座船を保護するため、現在、御座船の使用は王族の重要な行事に限定されています。また、1972年には、御座船のドックは芸術局所属の王室御座船国立博物館となり、一般公開されています。

 御座船のパレードでは、4艘の王室御座船を中心に52艘の供奉船が全長1.2Km・幅90mの隊列を組み、総勢2082人の漕手によって、ワースグリー桟橋からワット・アルン桟橋までの4.5 Kmを進んで行きます。今回ご紹介の切手を含む“王室御座船シリーズ”の切手の背景には、いずれもワット・アルンのシルエットが描かれていますが、これは、トートカティンの船渡りを含め、御座船の運行経路を踏まえたものです。なお、国王が実際に乗り込む御座船では、国王は船体中央の船室内に着座し、黄金と赤の櫂を持つ漕手が総勢50名、舵手と航海士が各2名、その他船尾信号旗手・漕手監督・王座天蓋支持者が伺候することになっています。

 今回ご紹介の75サタン切手に取り上げられているのは、『ラーマキエン物語』に登場する猿族の王、将の像を船首に掲げるクラビー型の供奉船のうち、猿王スックリープの像を掲げる“スックリープ・クロン・ムアン”です。

 『ラーマキエン物語』によると、サケート国の君主であった仙人のコドムは、火の中から生まれた美女、アッチャナーを妻とし、2人の間にはサワーハという娘が生まれました。

 その後、コドムの留守中、インドラ神は一人きりになったアッチャナーを見初めて彼女と関係を結びます。アッチャナーはインドラ神の子を身籠り、10カ月後、エメラルド色の男の子が生まれました。コドムはこの子をインドラ神の子とは知らずにサワーハよりもかわいがりました。

 別の日、コドムが留守の間に、西の空を照り付けていた太陽神を見たアッチャナーは彼に恋をし、10ヶ月後、太陽神のように赤い男の子が生まれます。

 当初、コドムはサワーハよりも2人の男の子をかわいがっていましたが、サワーハから男の子の父親が自分ではないと聞かされ激怒。3人の子を川に突き落とし、自分の子であれば泳いで戻ってこられるけれども、そうでなければサルになってしまうよう呪いをかけます。その結果、サワーハは戻ってきましたが、2人の男の子はサルになり、森の中に逃げ込みました。

 これを見たインドラ神と太陽神は、サルとなった2人を不憫に思い、2人のためにキートキンの国を作ってやります。そして、ヴシュヌ神が鬼を退治するその日まで、その国を治めるようにインドラ神の子をパーリー、太陽神の子をスックリープと名付け、兄のパーリーを国王に、弟のスックリープを副王としました。ちなみに、2人に軍師として仕えたのが白猿の将軍、ハヌマーンです。

 さて、あるとき、パーリーとスックリープは悪鬼と戦い、追い詰められた悪鬼は洞窟に逃げ込みました。パーリーは弟のスックリープに洞窟の入口で見張りをさせ、単身、敵を追って洞窟の中に入っていきましたが、洞窟内は複雑に入り組んでいて、悪鬼を探し出して討伐する間に1年が経ってしまいました。

 この間、スックリープは、パーリーが戻ってこなかったため、兄が悪鬼との戦いで戦死したと思い、悪鬼が洞窟から出てこないように入り口をふさいで都に戻り、重臣たちによって王として推戴されます。

 ところが、悪鬼を倒して洞窟の入口に戻ってきたパーリーは入口がふさがれているためになかなか外に出られませんでした。苦心の末にようやく洞窟の外に出たパーリーは、スックリープが王となっていることを知り、激怒。王位を簒奪したスックリープを追放し、さらに追手を差し向けます。

 こうしてパーリーとスックリープは互いに敵味方に分かれて戦うことになりましたが、最終的に、ラーマ王子の援助を受けたスックリープがパーリーを打ち負かします。なお、パーリーはラーマの放った矢によって落命しますが、死の間際、ようやく、スックリープに対して抱いていた猜疑心から解放されました。

 なお、タイの王室御座船については、拙著『タイ三都周郵記』でも関連の切手や絵葉書をご紹介しておりますので、機会がありましたら、そちらも併せてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 泰国郵便学(48)
2017-04-28 Fri 10:51
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第2号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・パッタヤービーチ(1975)

 これは、1975年の国際文通週間の切手のうち、パッタヤー(パタヤ)のビーチを取り上げた75サタン切手です。

 パッタヤーは、バンコクの東南165km、タイランド湾に面したリゾート地で、行政上はチョンブリー県に属しています。

 パッタヤーの名が最初に歴史に登場するのは、1767年、プラヤー・ターク(タークシン)の遠征時のことです。

 アユッタヤー王朝の滅亡以来、国土回復のために奔走していたプラヤー・タークは、チャンタブリー遠征へ向かう途中、現在のパッタヤーの地で、その地方を治めていたナイ・クロームの軍と対峙。当初、プラヤー・タークの軍を撃退するつもりだったナイ・クロームは、プラヤー・タークの威厳ある振る舞いと、部下たちの軍紀が厳正に保たれていることに深く感銘を受け、戦わずして降伏し、プラヤー・タークの軍に加わったといわれています。ここから、両者が相見えた地は“タプ・プラヤー”と呼ばれるようになり、後にそれが転訛して雨季の初めに南西から北東方向に吹く風を意味する“パッタヤー”と呼ばれるようになりました。

 かつてのパッタヤーは小さな漁村にすぎませんでしたが、1959年6月29日、コーラート駐留の米軍関係者500人が、1週間ほど、パッタヤーで休暇を過ごしたことがきっかけで、リゾート地としての開発が進められることになります。その後、ヴェトナム戦争が本格化すると、1965年以降、ラヨーン県バーンチャーン郡のウタパオ空軍基地が北爆に向かう米軍の重要拠点となり、ウタパオから車で1時間の距離にあるパッタヤーは保養地としての開発が急速に進みました。

 さて、今回ご紹介の切手を含め、1975年の国際文通週間の切手には、タイを代表する4ヵ所のビーチ・リゾートの風景が取り上げられています。

 タイの国際文通週間の切手において、観光資源となる景勝地が取り上げられたのは、1972年以来のことですが、1975年の切手の題材が選択されるにあたっては、同年3月のヴェトナム戦争終結という事情が大きかったのではないかと思います。

 すなわち、タイの観光産業、特にビーチ・リゾートを中心とした保養地に関しては、上述のパッタヤーの事例にみられるように、ヴェトナム戦争に従軍する米軍関係者が好んで利用したことで、彼らを通じて、ひろく欧米人に注目されるようになったという経緯があります。実際、1964年8月にトンキン湾事件が発生し、米軍がインドシナへの関与を強めていく傾向をみせると、翌1965年、タイ政府観光局(現観光庁)はニューヨーク事務所を開設して、米軍の保養地としてのタイの魅力を積極的なアピールを開始しています。その甲斐もあって、1967年にタイを訪れた外国人は、一般の観光客が33万6000人、インドシナの前線から休暇期間に訪タイした米軍関係者が5万人にものぼっていたほどです。

 その後もタイの観光産業はヴェトナム戦争の長期化にあわせて順調に発展し、欧米人観光客が落とす外貨は、タイの国家財政にとっても重要な財源となっていました。

 そうしたタイの観光産業にとって、ヴェトナム戦争の終結は、上得意であった米軍関係者の需要激減につながる事態でしたから、彼らとしても、より広く欧米の観光客に向けて、毎年恒例の国際文通週間の題材として、1975年はビーチ・リゾートを取り上げ、その存在を世界にアピールしようとしたものと考えられます。

 * 昨日の放送は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。5月は連休と大相撲がある関係で、僕の次の出番は6月1日の予定です。ちょっと間が開いてしまいますが、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 泰国郵便学(47)
2017-02-21 Tue 15:08
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第51巻第1号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・ムエタイ(1975年・肘打ち)

 これは、1975年5月20日に4種セットで発行されたムエタイ(ムアン・タイ)の切手のうち、肘打ちの場面を取り上げた2バーツ75サタン切手です。ムエタイが切手に取り上げられたのは、1966年12月9日、バンコクで開催された第5回アジア大会に合わせて発行された「タイの伝統競技」の切手(の1種)以来、これが2度目のことでした。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1975年は、ムエタイならびにタイの国際式ボクシング(我々が通常イメージするボクシング)における不世出の天才、センサク・ムアンスリンの黄金時代の幕開けにあたっており、そうした国民的英雄の登場が切手の発行にも少なからず影響を及ぼしていたと考えるのが自然なように思われます。

 センサク・ムアンスリン(本名ブンソン・マンシリ)は、1951年8月13日、ペッチャブーン県生まれ。ムエタイ選手だった兄の影響を受けてムエタイを始め(階級はジュニア・ウェルター級)、18歳でデビューした頃は初めの10試合で7敗するなど、あまり目立った選手ではありませんでしたが、その後は順調に白星を重ねて、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなり、68戦59勝(55KO)9敗の戦績を残しました。

 この間、ムエタイ王者として来日し、日本のキックボクサー、玉城良光(後の全日本ライト級王者)と戦い、3回KO勝ちを収めています。この時の試合で、センサクはパンチの得意な玉城を膝蹴りで一蹴。玉城はダウンしなかったものの、レフェリーが即座に試合を止めました。試合続行を望む玉城は、当初、この判定に不服でしたが、試合後、身体の異変を訴えて病院に直行。内臓破裂ですぐに緊急手術を受けています。後に、玉城は「まだやれる!と怒ったが、経験豊富なレフェリーの判断は正しかった。もう一発もらっていたら、命はなかった」と語っています。

 その後、93%という驚異的なKO率、しかも、その半分以上がパンチによるものであったことから、センサクは周囲の強い勧めを受けて国際式ボクシングに転向。まずはアマテュアとして1973年9月、シンガポールで開催された東南アジア競技大会では5試合すべてでRSC(レフェリー・ストップ・コンテスト。プロボクシングのTKOに相当)勝ちを収めて金メダルを獲得。その実績をもとに、1974年、国際式のプロボクサー(ジュニア・ウェルター級)に転向しました。

 デビューに際して、センサクのマネージャーは3戦で世界チャンピオンとなることを宣言。11月7日、いきなりWBC世界ランキング6位のルディ・バロ(フィリピン)と対戦し、1回KO勝ちを収める衝撃のデビューを果たしています。

 さらに、1975年2月16日、第2戦でWBC世界ランキング2位のライオン古山(日本)と戦い、7回、左フックで古山をグラつかせて連打し、レフェリーストップのTKO勝ち。そして、同年7月15日、WBC世界王者のペリコ・フェルナンデス(スペイン)と対戦し、8回、TKO勝ちを収めて公約通り、わずか3戦目で世界王者となり、いちやく、タイの国民的な英雄となりました。

 近代スポーツとしてのムエタイのルールが整備されたのはラーマ6世時代の1920年代のことでしたが、1932年の立憲革命後、タイのナショナリズムが強調され、タイは後進国ではなく、文化的に優れた民族の国であることを内外にアピールすることが要請されていく中で、ムエタイも、タイ独自の“伝統文化”として国軍を中心に奨励されるようになりました。

 すなわち、1935年以降、国軍がスアン・チャオチュートでのムエタイ興業をプロモートしたほか、1937年には教育省体育局が「ムエタイに関する規定」を策定して正式に“国技”として指定。さらに、1945年12月に王室の出資でラーチャダムヌーン・スタジアムが作られ、1956年にはルンピニー公園近くの陸軍所有地にルンピニー・ボクシング・スタジアム(陸軍が運営する株式会社の創業は1953年)がオープンします。これらは、いずれも、ムエタイが単なる娯楽ではなく、タイの国技にして文化であることを強調するための施策でした。

 こうしたこともあって、1970年代までには、ムエタイはタイの国技であるとの認識が国民の間に深く浸透します。1972年、日本の野口ジムがバンコクで“キック・ボクシング・ジム”を開設した際、その名称がタイの国技を侮辱したものであるとして国民の反感を買い、抗議集団による襲撃事件が発生。ジムの閉鎖を余儀なくされたという事例は、タイ社会におけるムエタイの地位を雄弁に物語っているといえましょう。

 名実ともにムエタイの王者として君臨していたセンサク・ムアンスリンが国際式ボクシングに転向するや、たちまち東南アジア競技大会で圧倒的な強さを示して優勝したのは、上述の野口ジム事件の翌年、1973年のことでした。このことは、ムエタイを国際式ボクシングの亜流であるかのように見なした(と少なからぬタイ人が理解した)事件の屈辱を晴らす、痛快な事件だったに違いありません。

 1975年に発行された切手の企画は1974年中に決められていますが、その過程で、身をもって国際式に対するムエタイの優位を示したセンサクを意識して、ムエタイ・シリーズも立案されたものと推定できます。

 なお、当時のタイの切手は日本の大蔵省印刷局で製造されることも多かったのですが、1975年のムエタイ切手はフィンランドのフィンランド銀行印刷局に印刷が委託されています。ただし、そこに、野口ジム事件の影響があったか否かは定かではありません。

 なお、センサクは、1976年1月25日、ライオン古山の挑戦を退けて王座を防衛しましたが、同年6月30日、スペインでミゲル・ベラスケスに敗れて王座から陥落。ただし、この時の対戦は、センサクがダウンを奪うなど一方的にリードしていたところ、4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後にセンサクのパンチがベラスケスに入ってベラスケスがダウンしたことから、センサクが反則負けとみなされたものでした。そこで、センサク陣営は「力の入ったパンチではなく、偶然に緩いパンチがゴング直後にかすっただけで、観客の声援が大きすぎてゴングも聞き取れなかった」とWBCに訴え、4ヶ月後の再戦ではセンサクがベラスケスを下して王座に返り咲いています。

 ちなみに、ムエタイ出身のセンサクは国際式の試合でもムエタイの癖が抜けず、前蹴りが出そうになっただけでなく、左ジャブをわざと外して相手の首を巻くように上から押さえつけ、すかさず右を叩き込んだり、フックの打ち終わりに肘を当てたりする(今回ご紹介の切手には、まさに、肘打ちの場面が取り上げられています)など、ムエタイの技を応用した“反則”が巧みでした。

 センサクはタイトルを7度防衛したが、1978年12月30日、金相賢(韓国)に13回KOされ陥落。以後、王座を回復することはなく、1981年4月5日、OPBF東洋太平洋J・ウェルター級王者の黄忠載(韓国)と対戦し、12回判定負けとなったのを最後に引退しました。国際式ボクシングでの通算成績は20戦14勝(11KO)6敗。

 引退後は、試合の後遺症で右目を痛めたこともあって生活が荒み、現役時代に結婚した元女優の妻とも離婚。周囲に担ぎ上げられ選挙に出馬するも落選し、経済的にも不遇のまま、2009年4月16日、バンコク市内の病院で亡くなりました。


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 世界漫郵記:泰国紀行①
2017-01-02 Mon 21:02
 『キュリオマガジン』2017年1月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、今回から“泰国紀行”のスタートです。今回は、新年号ということで、タイの鶏とキンナリーについて取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      タイ・軍鶏

 これは、2001年、タイが発行した国際文通週間の切手に取り上げられた軍鶏(シャモ)の切手です。

 鶏のなかでも高級食材の一種として知られる軍鶏は、江戸時代に闘鶏用ないしは愛玩用として“暹羅(しゃもろ=タイの古称)”から輸入されたことが名前の由来とされています。

 漢字で“軍鶏”の字を当てるのは、もともと、闘鶏用の品種だったためです。タイを含む東南アジアでは現在でも闘鶏がさかんに行われていますが、日本では江戸時代からしばしば賭博禁止令が出されたため、食用として改良され、現在にいたっているわけですが、軍鶏という漢字の表記は闘鶏が廃れた後もそのまま残りました。

 ちなみに、英語でジャパニーズ・バンタムと呼ばれるチャボも、朱印船貿易の時代にチャンパ王国(現在のヴェトナム中部沿岸)からもたらされたのがその名の由来です。また、バンタムというのも、ジャワ島西部の地名、バンテンが由来。いずれにせよ、チャボもまた、タイを含む東南アジア全域でもとから飼育されていた品種です。(下に、チャボを取り上げた2003年のタイ切手の画像を貼っておきます)

      タイ・チャボ(2003)

 ところで、もとはヒマラヤに住む精霊の一種で、歌と踊りで神々に仕えるキンナリーは、タイの伝統的な絵画や彫刻などでは、上半身が人間、下半身が鳥の姿で表現されますが、その下半身は、脚が長く尾が直立したスタイルが多いようです。(下の画像はキンナリーを描いた1976年の切手です)

      キンナリー

 これは、軍鶏の長い脚とチャボの直立した尾を組みあわせてイメージが作られたのではないかと僕は推測しています。今回の記事では、そうしたことも踏まえ、タイの鶏文化とキンナリーについてまとめてみました。機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 泰国郵便学(46)
2016-12-29 Thu 10:18
 ご報告が大変遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第50巻第6号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・野生動物(第2次)ガウル

 これは、1975年3月5日に発行された第2次野生動物シリーズのうち、ガウル(インドヤギュウ)を取り上げた75サタン切手です。

 ガウルは、インド、カンボジア、タイ、中国・雲南省、ネパール、ミャンマーの標高1800メートル周辺にある森林に8-11頭からなる群れを形成し生息する偶蹄類で、体長240-330cm、肩高160-220cm、体重580-1000㎏。肩は隆起し、胴体の中ほどで胸椎の突起が短くなります。背面の毛衣は暗黄褐色で、四肢下部の体毛は白色です。

 開発による生息地の破壊、狩猟、家畜からの伝染病などにより生息数は激減しており、現在では保護区が設定されていますが、タイ中部プラジュアブキリカン県クイブリ国立公園では、2013年8月2日から12月22日までの間にガウル12頭の死体が相次いで発見されたことが大きく報じられました。死体にはいずれも外傷はなく、汚染された水が原因だったと見られています。

 ところで、ガウルは、タイでは栄養ドリンクの商品名としても有名です。

 もともと、鎮痛剤の製造・販売を行っていたTCマイシン社の経営者、チャリアオ・ユーウィッタヤーは、1978年、TCファーマシューティカル・インダストリー社(以下、TCF)を設立し、それまで、日本の大正製薬が販売するリポビタンDがほぼ独占していた栄養ドリンク市場に参入しました。

 ユーウィッタヤーは、この時売り出した商品を、タイ語で“赤いガウル”を意味する“クラティン・デーン”と命名。低所得者層のマーケットに重点を置き、100万本以上の試供品を配布するなどの積極的な営業方針でシェアを拡大。同社を現在65%のシェアを誇る業界最大手に育て上げました。

 ちなみに、TCFの成功に目を付けたオーストラリア人実業家のディートリヒ・マテシッツは、1984年、クラティン・デーンの国際的な販売権を獲得。独自の配合で数年をかけて改良を加えて“レッド・ブル”を売り出し、栄養ドリンク業界において、売上、シェア共に世界一の座を獲得しています。レッドブルのマークに描かれている牛のモデルは、今回ご紹介の切手のガウルということになりますな。

 僕自身は、普段はあまり栄養ドリンクの類は飲まないのですが、せっかくなので、きょうはレッド・ブルを飲んで、残りわずかとなった2016年を乗り切ろうかと思います。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 泰国郵便学(45)
2016-10-28 Fri 11:54
 ご報告が大変遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第50巻第5号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイのヴィーナス

 これは、1974年9月19日に発行された“国立博物館100周年”の記念切手のうち、“タイのヴィーナス”として知られる観音菩薩像を取り上げた2.75バーツ切手です。ついでですので、以前、バンコク国立博物館を参観した際に、撮影した“タイのヴィーナス”の実物の写真も下に貼っておきます。

      タイのヴィーナス(実物)

 タイにおける博物館の歴史は、1859年、国王ラーマ4世が王宮内に自分への贈物を1ヵ所にまとめて収蔵したのが起源とされています。ただし、ラーマ4世の時代の収蔵施設は、プライベート・コレクションとしての性質が強く、一般公開を前提とした現在の博物館とはかなり趣が異なるものでした。

 これに対して、ラーマ4世崩御後の1874年、ラーマ5世は、父王の御物や一般の関心を集めそうな品々を展示・公開するための施設として、王宮内のサハタイ・サマコム館を利用して博物館を創設することとし、9月19日に博物館としての開館記念式典を行いました。現在のタイでは、これをもって、国立博物館の開館としており、今回ご紹介の切手もここから起算して100周年にあわせて発行されました。

 その後、展示施設が手狭になったため、1887年、ラーマ5世はサハタイ・サマコム館から副王宮殿(ワンナー)の礼拝堂として用いられていた建物に所蔵品を移すように命令。この施設は、当初、ワンナー博物館と呼ばれていましたが、1926年にバンコク博物館と改称され、1934年、文化省芸術局の管轄に置かれてバンコク国立博物館として拡充され、現在に至っています。

 なお、現在、タイの“国立博物館”は、バンコク国立博物館、バンコク国立美術館、王室御座船国立博物館、シン・ピーラシー記念国立博物館、王室象国立博物館、ガーンチャナーピセーク国立博物館の6中核組織を含め、バンコクなど中部に21、チェンマイなど北部に8、スリンなど東北部に7、プーケットなど南部に7の施設があり、文化省芸術局国立博物館部によって運営が担われています。

 切手に取り上げられた“タイのヴィーナス”は、バンコク国立美術館の至宝にして、シュリーヴィジャヤ美術の傑作とされている観音菩薩像(8世紀ごろ)です。

 シュリーヴィジャヤは、7世紀後半から14世紀後半にかけて、現在のインドネシアからマレーシア、タイ南部にいたる広大な地域を支配していた王朝で、その首都が置かれていたスマトラ島のパレンバンは、東西交易で大いに繁栄し、学芸の中心地でもありました。中国大陸からインドへ留学する僧侶はインドへ渡る前に、パレンバンでサンスクリットの語学研修を行ったともいわれています。

 1025年、シュリーヴィジャヤ王国は南インドを支配していたチョーラ朝のラージェンドラ1世の攻撃を受け、以後、次第に衰退。その後、1080年頃まではパレンバンを首都としていたものの、その後は首都がどこにおかれていたかは定かではありません。ただし、後期においては、出土する遺品・美術品の分布から、タイ南部のチャイヤーを拠点としていたとする説が有力で、“タイのヴィーナス”と呼ばれる観音菩薩像もチャイヤーから出土したものです。

 なお、バンコク国立博物館の宝物については、拙著『タイ三都周郵記』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00 
 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 
  

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 タイ国王陛下、崩御
2016-10-14 Fri 11:25
 タイのプミポン・アドゥンヤデート国王陛下(以下、ラーマ9世)が、きのう(13日)、崩御されました。88歳。心からご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・500バーツ(1999年)銘付田型

 これは、1999年9月10日にタイで発行された500バーツの普通切手の銘付田型です。タイの普通切手の最高額面、500バーツの切手は、2010年にも別のデザインで発行されているのですが、1999年の切手は日本の印刷局製、2010年はフランスのカルトゥール社製ということで、今回は、日本製であることがわかる1999年の切手の銘付田型をご紹介することにしました。

 さて、ラーマ9世は、1927年12月5日、米国マサチューセッツ州ケンブリッジで生まれました。父親のソンクラーナカリン親王は、ラーマ5世69番目の子息で“タイ近代医学の父”と呼ばれる人物で、母親のシーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后(以下、シーナカリン)は平民の出身でしたが、16歳の時からシリラート病院に看護婦として勤務し、王室の奨学金を得て米国に留学中に、ソンクラーナカリン親王と出会い、結婚しました。その後、夫妻はいったんタイに帰国した後、親王が欧米諸国に留学し、ラーマ9世は、父親の米国留学中に生まれたというわけです。

 1928年、一家はタイに帰国しましたが、翌1929年、ソンクラーナカリンが急逝。このため、シーナカリンは、一時、義母でタイ赤十字社総裁を務めていたサワーンワッタナー王女の住むサラパトゥム宮殿に身を寄せましたが、3人の子を連れて子供の教育のためにスイスのローザンヌに渡ります。

 彼女と子供たちがローザンヌ滞在中の1935年、立憲革命の混乱でラーマ7世が退位。ラーマ7世には自身の子がなかったため、王族最高位のチャオファーの階級にあったソンクラーナカリンの子、アーナンタマヒドン王子が国会決議により、国王ラーマ8世として即位しました。ただし、この時、ラーマ8世は年少で学業も半ばであったため、国王としての即位の儀式を行うために一時帰国したものの、すぐにローザンヌに戻っています。

 1945年12月5日、“大東亜戦争(タイにおける第二次大戦の正式名称)”の終結を受けて、ラーマ8世はスイスから帰国し、1946年1月1日には英国との間で講和条約も結ばれましたが、1946年6月、帰国後わずか半年の国王が寝室で額を打ち抜かれて死亡するという国王怪死事件が発生。これを受けて、ラーマ9世は、急遽、新国王として即位します。ただし、この時点では、ラーマ9世は学業半ばだったこともあり、いったん、ローザンヌ大学へ復帰し、1952年に帰国しています。この間、1950年4月には、フランス滞在中に出会ったシリキット・キッティヤーコーンと結婚し、同年5月5日に戴冠式を行っています。

 立憲革命以降、政治の中枢にあったピブーンソンクラーム(ピブーン)が国王の権威を抑え込むことによって自らの権力基盤を確立していったことに加え、ラーマ7世の退位とラーマ8世の怪死もあって、ラーマ9世の即位当時、タイ王室の権威は大きく揺らいでいました。

 これに対して、1958年9月18日のクーデターでピブーンを追して政権を掌握したサリット・タナラットは、近隣諸国からの共産主義の浸透を防ぐためにも、「タイの民主主義は国王を元首とした民主主義である」と規定し、ラーマ6世の唱えた民族・宗教・国王の3原則(ラック・タイ)を国家イデオロギーの中核に据え、国王の威信を回復することに務めます。

 そして、若き国王も、そうした政権側の期待にこたえる形で、立憲君主国の国王として、直接の政治介入は行わないものの、
国民統合の象徴としての公務を真摯にこなすとともに、タイの各地で王室主導で稲作や酪農など2000以上に上るプロジェクトを実施し、農村の振興や貧困対策に力を入れ、王室に対する国民の信頼を急速に回復させました。

 こうしたことの積み重ねがあって、クーデターが頻発するタイの政治風土の中で、ラーマ9世は官僚や軍部、民主活動家など利害関係の調停役として采配を振るい、困難な情勢の打開収拾に手腕を発揮し、1960年代以降、急速に経済発展を遂げたタイ社会の安定に絶大な貢献を果たしてきました。

 晩年は、フワヒンにあるクライカンウォン宮殿を御座所とし、公務の数も減らしていましたが、2016年10月3日、肝臓への異常や感染症により、バンコクのシリラート病院に入院。様態が不安定と発表され、多くの国民が御快癒をお祈りしていましたが、きのう、入院先のシリラート病院にて崩御されました。

 なお、僕にとっては、タイは生まれて初めて訪れた外国というだけでなく、2007年の『タイ三都周郵記』刊行がご縁で、東京で開催された陛下のお誕生日の祝賀会にご招待いただいたほか、現在、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』にも「泰国郵便学」と題して連載をさせていただいており、タイ人の友人も多いので、非常に思い入れの強い国です。それだけに、今回の国王陛下の御崩御も、いずれこの日が来るものとわかっていたものの、やはり、特別な感情が込み上げてきます。

 あらためて、陛下の御冥福をお祈りするとともに、タイ国民の皆様に、心よりのお悔やみを申し上げます。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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